詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「世界のおきく」のつづき。

2024-02-27 12:04:09 | 映画

 「世界のおきく」に問題があるとすれば、「さぼる」ということば以上に大きな問題がある。「さぼる」は「表現されたミス」だが、もう一つの問題は「表現されなかった何か」にある。「循環型の世界」を描いたと傑作といわれる映画だが、あの映画には「描かれなかった大事なもの」がある。
 ユーチューブの「批判者」は「糞尿のつまった樽(桶)を手で触るなんて、おかしい。汚いだろう」と言っていたが、問題は、その「汚い糞」をどうやって「美しい肉体」から引き離すか。つまり、どうやって「肉体」を清潔に保つか。糞をしたあと、どうやって、肉体にこびりついている「汚れ」を引き剥がしたか。
 いまならトイレットペーパーがある。ウォシュレット(これは、商品名か)というさらに進んだ装置もある。江戸時代は、どうしていた? ウォシュレットがないのはもちろん、トイレットペーパーなんて、存在しない。紙は貴重品だ。それが証拠に、ある映画では主人公の友達は最初は「反故紙」をあつめて、紙屋へ売りにいくということを生業にしていた。そういうことが成り立つくらい、紙は貴重だった。
 それは前回も書いたように、東京オリンピックがあったころまでは、(都会ではどうか知らないが)、田舎では「常識」だった。そのころは、田舎はまだ「江戸時代」だった。もちろん、江戸時代にはなかった新聞紙というものもあって、ある家ではトイレに新聞紙を切ったものを備えてあったかもしれない。尻を拭くために。しかし、その新聞紙は、新聞が読まれたあとすぐにトイレにやってきたのではない。弁当をつつむかみとしてつかわれ、あるいは子供が習字の練習をする紙としてつかわれたあとだったのだ。新聞紙に毛筆で文字を書くと筆先が傷むが、「白紙」は清書を書くためのものであって、練習をするためのものではなかった。
 江戸時代がつづいていた私の田舎では、どうしていたか。たいていは「藁」をたたいて軟らかくしたものをつかっていた。「お父は土間で藁打ち仕事」という歌詞が「母さんの歌」のなかに出てくるが、それは父が土間で打った藁だったかもしれない。しかし、藁も貴重品だから、糞をぬぐうのにはもったいないかもしれない。名前は知らないが、葉っぱの大きな蔓草がある。それを野山からあつめてきて、トイレットペーパーがわりにしている家もあった。「縄」をまたいで、糞をぬぐう、というのも聞いたことがある。(これは、私は残念ながら見たことはない。)たしか道元の「正法眼蔵」だったか、その弟子が書いた「正法眼蔵見聞録」には木のへらで糞をこそげ落とすという方法が書かれていた。さらに、そのつかったへらをどうするか、どうやって次につかうひとのためにととのえるか、そのあとで、手をきちんと洗うこと、とも。糞を、糞のこびりついた尻をどうするか、はとても大事な問題なのだ。道元のような哲学者が、そんなことまで言っているのだ。(道元の時代と江戸時代では、事情が違うかもしれないが。)
 その大事な問題が、「世界のおきく」では描かれていない。トイレ(その当時はトイレとはいわなかったが)に入り、糞をするシーンはあるが、尻を拭くシーンはない。尻を拭くとき何をつかったかは、もちろん描かれていない。
 こういうことを描かないから、おきくの食べているご飯が白すぎる、とか、糞尿のつまった樽(桶)を手で持つなんておかしい、足で蹴れ、というようなとんでもないことばが「批評」としてまかりとおるのだ。糞は汚いかもしれないが、だから手ではなく足をつかえという論理はおかしいのだ。いったい誰が足で尻を拭いただろうか。大事なものは手で取り扱うのである。


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