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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ『賜物』(28)

2010-12-06 10:03:05 | ナボコフ・賜物
 ナボコフの文体は感覚的なように見えて、実は非常に論理的なのかもしれない。詩的に見えて、非常に散文的なのかもしれない。

 客間は俗っぽい家具の並んだとても小さな部屋で、証明の具合が悪いせいで隅には影が居すわり、手の届かない棚には埃をかぶったタナグラ風の花瓶が載っている。
                                 (54ページ)

 これが「詩」ならば、たぶん、

 客間は俗っぽい家具の並んだとても小さな部屋で、隅には影が居すわり、棚には埃をかぶったタナグラ風の花瓶が載っている。

 という具合になるかもしれない。「証明が悪いせいで」「手の届かない」ということばは省略されるかもしれない。「手の届かない」は「手の届かないせいで」と言い換えることもできる。つまり、ナボコフの描写はいちいち「理由」を積み重ねて「もの」を浮き彫りにする。「理由」は「もの」の「過去」である。
 小さな部屋の家具は、証明が悪いという日常的な「過去」の積み重ねによって、影が隅っこで動かなくなっている。「手が届かない」という「過去」、つまり磨き込まれない(掃除されない)という「過去」によって埃がいっぱいになっている。
 私たちは「もの」ではなく、「もの」とともにある「過去」をナボコフのことばから知るのだ。
 「過去」を踏まえて「いま」がある。この時間の積み重ね方、常に「過去」を踏まえながら進む文体が「散文」的である。「散文」とは前に書いたことを踏まえながら先へ進む文体のことである。「詩」は「過去」にとらわれない。かってに飛躍する。「時間」をこわして飛躍することばが「詩」である。
 ナボコフの文体は、常に、あることがらを踏まえ、きちんと「時間」を描く。言い換えると、何かがかわるとき、そこには必ず「時間」の変化、過去→いまという因果関係が含まれる。
 引用文のつづき。

最後の客がようやくやって来て、アレクサンドラ・ヤコーヴレヴナが(略)お茶を注ぎ始めると、部屋の狭さもなにやらしみじみとした田舎風の居心地のよさに似たものに変貌した。
                                 (54ページ)

 小さくて家具が狭苦しく並んだ部屋、薄暗く、埃もある部屋が、「お茶を注ぐ」という「時間」を経過し、「田舎風の居心地のよさに似たものに変貌した。」
 ここには、絶対、「お茶を注ぐ」という「過去」が必要だ。これがないと「変貌」は起きない。
 この部分は、最初に引用した部分にならっていえば、「お茶を注いだために」、部屋がいごこちのいいものに変わったのだ。
 実際に「……のために」ということばが毎回つかわれるわけではない。原文を読んでいないので、はっきりとは断言できないが、しかし、ナボコフの描写には「……のために」が隠されている。「……のために」という考え方、ことばの動かし方は、ナボコフの「肉体」そのものになっているために、ナボコフはそれを省略してしまうのだ。ナボコフにはわかりきったことなので、そのことばを省略してしまうのだ。

 「……のために」は、ナボコフの「散文」のキーワードである。




ナボコフのドン・キホーテ講義
ウラジーミル ナボコフ
晶文社


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