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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

駱英『小さなウサギ』(3)

2010-03-29 00:00:00 | 詩集
駱英『小さなウサギ』(松浦恒雄訳)(3)(思潮社、2010年03月01日発行)

 「或いは逆に、」「同時に」だけが「絡み合う」わけではない。駱英においては、あらゆることばが多即是一、一即是多につながるのだ。
 「恐怖について」という作品。「二〇〇六年六月十日 CA九八四便四A席」というメモがついている。飛行機のなかで一気に書いたものだろう。

 二十一世紀のある黄昏に、私は恐怖を覚えた。狂ったように泣き叫びたかったが、際限のない静けさに転げ落ちた。その静けさは、海底(うなぞこ)から湧き起こってきたような、比類のない柔らかさであり、また比類のない鋭さであった。

 「また」。「柔らかさ」と「鋭さ」は一般的には相いれない。だから、この「また」は「或いは逆に、」は言い換えることができる。「或いは逆、」がいいすぎになるなら、「同時に」でいい。
 駱英のことばは「接続詞」をはさみながら、拡大する。
 その拡大の仕方は凝縮と拡散、求心と遠心がひとつになったものである。「接続詞」が世界の中心にあり、その接続詞でかけ離れたものが出会い、ぶつかり、互いの重力に飲み込まれ、凝縮しきれずに爆発する。発散する。
 (この運動に一番似ているのは、私の印象では清岡卓行である。中国語がわからないにもかかわらず、松浦の訳には、私にはちょっとついていけない部分がある。田原の詩を谷川俊太郎が訳したらどうなるだろう、という感想を持ったことがあるが、駱英の詩の場合は、清岡に訳してもらいたい。--これは、絶対に不可能なことになってしまったけれど。ふと、あ、清岡が駱英の詩を読んだらどう思うだろうかと想像してしまうのだ。求心と遠心のなかで世界をとらえた清岡なら、この駱英の詩は、いったいどうなるだろうか、と。)
 
 駱英のことばは「接続詞」をはさみながら、拡大する。--というのは、駱英の基本的なことばの運動だが、それには「副振動」のようなものがともなう。不思議な「音楽」が。先に引用した部分にもどる。

 二十一世紀のある黄昏に、私は恐怖を覚えた。狂ったように泣き叫びたかったが、際限のない静けさに転げ落ちた。その静けさは、海底(うなぞこ)から湧き起こってきたような、比類のない柔らかさであり、また比類のない鋭さであった。

 この段落は三つの文章から成り立っている。最初に「恐怖」を覚えた、と書き、次の二つで「恐怖」を言いなおしている。そして、その後者の二つの文章をつなぐことばが、とても不思議である。わかるといえばわかるが、わからないといえばわからない。だからこそ、私はここで清岡の手を借りたくなるのだ。清岡なら、何と訳しただろうか、と気になって仕方がなくなる。
 「その静けさは、」の「その」って何?
 いや、学校教科書的な「意味」でなら、わかるのだ。この「その」は、その前の「静けさに転げ落ちた」という文章ででてきた「静けさ」を引き継いでいることをあらわすための「その」である、ということはわかるのだ。「その」は、いわば英語で言う「定冠詞・the 」であることは、わかってる。
 でも、それだけじゃないでしょ?
 というか、「静けさ」が「その、定冠詞the 」でくくれる「たったひとつのもの」であったなら、それは「柔らかさ」と「鋭さ」を「同時に」もったものではありえない。
 「その」「静けさ」の「その」は、「静けさ」を飛び越して、その前の文章の「狂ったように泣き叫びたかった」を含んでいるのだ。狂ったように泣き叫びたい--というとき、そこには「静けさ」を超越した静けさがある。「音」がない静けさではなく、「音」を必死に求める沈黙、音を拒絶された沈黙がある。狂ったように叫びたい。喉は(肉体は)、その気持ちに答えられない。喉を開ける。口を開く。けれど、そこから出て行くのは「無音」の風。息。
 「その静けさは」ではじまる文章の「その」は、駱英が転げ落ちたときの「静けさ」を説明するだけではない--というより、「その静けさは」ではじまる文章は、それに先行する「狂ったように泣き叫びたかった」と「際限のない静けさに転げ落ちた」の二つの文章を言いなおしたのもなのだ。そして、その言い直しのとき、接続詞「が」は「また」に変わっているのである。
 このときの、「言い直し」。それを私は「音楽」と感じている。「副振動」による「音楽」だ。「狂ったように泣き叫びたかったが、際限のない静けさに転げ落ちた」だけでも強烈な旋律なのだが、いや、それがあまりに強烈すぎる振動だからというべきか--それを支える「副旋律」が、そのまわりに派生する。主旋律をつつみこみ、受け入れやすくする。そんなことはしなくてもいいのかもしれないが、主旋律が強靱すぎることは駱英にもわかっているというか、そのままでは、駱英自身も、その音に叩き壊されて、ことばがつながらない。だから、自然に、それを支えてくれる(受け止めてくれる)「音楽」を要求するのかもしれない。

 この詩には、もうひとつ、おもしろいことば、(ほんとうはひとつではなく、もっとあるのだけれど)、駱英のことばを運動を特徴づけることばがある。

 恐怖への欲望が沸き起こってきた。さまよう野良犬が道端でさかろうとするのを抑えきれないように。

 おもしろいことば--という本題(?)に入る前に、少し、寄り道。
 一つ目の寄り道。「静けさ」には「湧き起こる」、「欲望」には「沸き起こる」。松浦は使い分けているのだろうか。駱英は?--松浦への質問。
 二つ目の寄り道。「恐怖への欲望が沸き起こってきた。」を、駱英は「さまよう野良犬が道端でさかろうとするのを抑えきれないように。」と言いなおしている。そのとき、二つの文章のあいだには「接続詞」がない。あえてことばを補うならば「その」欲望は、さまよう野良犬が道端でさかろうとする(とき)の(欲望のように、)(それ)を抑えきれない--ということになる。
 ほら、「その静けさ」の文章と同じ構造が、「副振動」を導く構造が見えてくるでしょ?
 で、「その」とういことば(ここでは書かれていないけれど)よって「副振動」を引き起こさずにはいられないのと同じように、駱英は「あるいは逆に、」「同時に」「また」ということばで求心・遠心を繰り返さずにはいられない。それは、その欲望は、

抑えきれない

 これが駱英の思想である。
 ことばは抑えきれない。ことばは暴走するにまかせるしかない。暴走しながら、正反対のもの、たとえば、

 殺害と殺害されること、恐怖と恐怖にさらされること、存在と存在させられること、虚無と虚無にされること、肉欲と肉欲まみれにされること、偽善と偽善にされること--。 号泣と号泣されること。

 そういうものを遠心・求心のなかで、いままで存在しなかったものにかえてしまう。かえることで私自身は、「私」が「私」を超越してしまう、否定してしまう、否定して生まれ変わる--そのために、詩があらねばならないのだ。



 

小さなウサギ
駱 英
思潮社

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