監督 フィリップ・カウフマン 出演 サム・シェパード、エド・ハリス、スコット・グレン、デニス・クエイド
この映画は何度見ても絶対に飽きることがない。何度見ても、毎回見たい。毎日みたい。--ということは、毎日、この映画について語りたい、ということでもある。
きのうの感想のつづき。
なぜ、おもしろいか。
その人には、その人にしか見えないものがある。それをこの映画はきちんと撮っている。映像にしている。サム・シェパードが初めて音速の「壁」を破る瞬間、大空にすむ悪魔に打ち勝つ瞬間、そのときの青から群青にかわる色の変化。これはサム・シェパードにしか見えない。見ることができない。その寸前の、計器のはげしい揺れや操縦桿の振動も。そういう華々しい(?)風景だけではなく、他の風景もそれぞれに、その人にしか見えないのである。
デニス・クエイドたちが庭でバーベキューをしている。その向こうでサム・シェパードがこどもキャッチボールをしている。キャッチボールをしているサム・シェパードを見ていて、バーベキューを焦がしてしまうデニス・クエイド。それを妻が見ている。その風景も、ありきたりのようであって、実はデニス・クエイドの妻にしか見えない風景なのだ。そこには、そのときしかありえないデニス・クエイドの妻のこころがあふれている。男たちが動いている。それは男たちの風景ではなく、それを見つめる妻の風景なのである。
そうした日常意外にも、その人にしか見ることのできない風景がある。
繰り返し繰り返し失敗しつづけるロケット。それは「記録」であるけれど、ものの「記録」ではないのだ。それをつくり、飛べ、と祈っている科学者たちの、宇宙飛行士たちの「視線」の記録なのである。
宇宙飛行士になるための訓練。それに先立つさまざまな肉体チェック。精子の活動状況を調べるための精液の採取。そのときのトイレ。壁越しに聞こえてくる仲間の声。そんな卑近なというか、なまなましい何かも、そうである。
あるいは宇宙から帰還し、カプセルから脱出する。ハッチが爆発し、カプセルが沈んでいく。それを見つめる宇宙飛行士。そのときの波とカプセル。ヘリコプター。それも、その人にしか見ることのできない風景である。その、失敗(?)した宇宙飛行士の無念をそっと思いやるサム・シェパード。遠くから、テレビで、そして、ひとり部屋を抜け出して見る夜の空気--それも、彼にしか見ることのできない風景である。
宇宙から凱旋し、ニューヨークをパレードする。記者にかこまれる。成功しても、失敗しても、押し寄せてくるマスコミ。彼らの動きさえ、宇宙飛行士でなければ見ることのできない風景である。
どの風景も、その人にしか見ることができない。その、その人にしか見ることのできない風景を見るために、私たちは、いま、ここに、存在している。そういうことを、この映画は、剛直な、叩いても叩いてもけっしてこわれることのない剛直な映像で、まっすぐに伝えてくる。
ラストの、サム・シェパードの失敗も、この映画には、まことにふさわしい風景である。人は誰もがその人にしか見ることのできない風景を見るために生きている。そして、見たものを誰かに伝えるために生きている。それは人間の可能性を切り開く新しい世界だけのことではない。その人にしか見ることのできない風景というのは前人未到の偉業の風景だけではない。なにごとかをなし遂げようとして、失敗する。そのときに見える風景がある。だれも飛んだことのない上空から落下する。機体のコントロールを失う。そうやって、見る風景。大地が近づく。脱出しようと、決意しながら見る風景。パラシュートが開かない。なんとかしなければ。そう思いながら見る風景。そして、かろうじて大地に帰ってきて、その無事を知って駆けつけてくる仲間の姿を見る--そのときの「風景」。
あ、これこそ、絶対に、その人しか見ることのできない風景である。語らなければならない風景である。人は失敗する。それでも生きている。生きて、語る。そこからすべてがはじまる。
一食抜いても見るべき映画である。
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