詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井崎外枝子『金沢駅に侏羅紀(じゅらき)の恐竜を見た』

2010-08-25 00:00:00 | 詩集
井崎外枝子『金沢駅に侏羅紀(じゅらき)の恐竜を見た』(思潮社、2010年07月20日発行)

 井崎外枝子『金沢駅に侏羅紀(じゅらき)の恐竜を見た』の「わたし」のなかには「わたし」以外の人間がいる。
 「イモウト」という作品。

 イモウトの片側が、突然撃ち抜かれて帰ってきたので、イモウトは半分だけで生きるようになりました。
 (略)
 イモウトを元のところに戻しにいかなければ、二人が出てきたところにイモウトを早く送り届けてやらなければと、焦るばかり。(略)
 日に日に弱ってくるイモウト--口には出さぬものの、わたしの半分を欲しいと思っているのかも。気づかぬふりをしてはいるが、内心こちらもそのことばを待っていたのかも。
 わたし自身、誰か自分の半身をもらったのか定かではなく、この際イモウトに分け与えてもいいのではないかと。

 この「イモウト」はイタロ・カルビーニの「真っ二つの子爵」の「半分」とは違う。「わたし」から独立して生きている人間ではない。それは、

二人が出てきたところにイモウトを早く送り届けてやらなければ

 の「二人」ということばにあらわれている。この「二人」は、「イモウト」の片側と、残りの(?)片側かもしれないが、そうではなくて、「イモウト」と「わたし」の「二人」と私は読んだ。
 「イモウト」が片側の「半分」になることで、「わたし」は「イモウト」のことを考えるようになった。もし半分にならなければ、「わたし」は「イモウト」を書いたりはしないのだ。半分の「イモウト」は「わたし」と「イモウト」という「二人」をつくりだしたのである。「イモウト」が半分になることで、もしかすると「わたし」も「半分」になりうる--ということを「わたし」は知ってしまった。
 これは、まずい。
 「イモウト」を半分ではなく、「ひとつ」にしなければならない。そうしないかぎり、「わたし」が半分ずつに割れてしまうことを防ぐ方法はない。人間が半分(片側)で存在しているという事実を否定しなくてはならない。
 ここには、そういう「焦り」が書かれていると思う。

 そして、これは「身体」の問題ではなく、もしかすると「ことば」の問題を書いているではないか、という気がする。私には。

わたし自身、誰か自分の半身をもらったのか定かではなく

 これは「身体」というより、「ことば」のこととして考えるとおもしろい。
 私たちはだれでもことばをつかう。そのことばを、私たちはどうやってつかっているのか。いま、私が書いていることばは、私のものだが、私のものではないともいえる。私はそのことばを「発明」したわけではない。すでに誰かがつかっていた。それを「借りて」私が動かしている。そして、それが「だれ」からものらったものか、実は、わからない。「だれか」のなかで、すでにことばは交じり合っている。
 井崎も同じである。井崎の書いていることばは井崎のものだが、そのすべてはすでに存在している。新しいことばはない。新しいのは、それを井崎が動かしている(書いている)ということだけである。素材としてのことば(半分)+それを動かす井崎のエネルギー(半分)によって、井崎のことば(ひとつの文章)が成り立っている。
 「イモウトの片側」とは、エネルギーを含まない「素材」としてのことばというふうに考えることができるかもしれない。あるいは逆に、「素材」をもたずにエネルギーだけと考えるみるのもおもしろい。
 それは「半分」(素材、か、エネルギー、か)では生きていけない。組み合わさって、融合していないと生きていけない。
 「イモウト」の「もとのところ」とは、素材とエネルギーが融合した「場」ということかもしれない。

 もともと身体なんて、皮膚が幾重にも重なり被さったもの。
 毎日少しずつはがれ、こぼれ落ちていくもの。
 どこまでが自分のものといってみても始まらないのですから。

 「ことば」は幾人もの人(数えきれない人)によってつかわれ、そのつかわれ方が何重にも重なり合いながら、何かしら「ひとつ(複数)」を「つかい方」を規定しているように見えるが、それは日々変化し、ずれていっている。どこまでが「自分固有」のものであるといってみても始まらない。
 「ひとつ」があるとしたら、それは「素材+エネルギー(運動)」という形でしか明らかにできない。
 「ことば」はそのことばが「どう動いているか、何がそれを動かしている」ということを明確にしなければ「ひとつ」のものとして定義できない。エネルギーと運動ベクトルを除外し、ある文章を「引用」して、(作品からひきはがしてきて)、たとえば、これは井崎の文章である、といってみたところで、何も言ったことにはならない。
 それは「イモウトの片側」のように、「半分」なのだ。

 「ことば」だけではない。あらゆるものが「他者」を引用し、そこに「わたし」のエネルギーをつけくわえ、運動として存在する。
 どれだけ「他者」(自分以外の存在)を意識できるかが問題なのだ。

 自分のなかに「他者」を見る井崎は、他者の作品のなかにも、作者とは別に「他者」を見る。「「戸口によりかかる娘」よ」はジョージ・シーガルの作品に寄せた詩である。
 その後半部分に、とてもおもしろいことが起きている。

白いギプスの内側から かすかに聞こえる
呼吸音
あなたはたった一人
この広いフロアの中で生きているのよ
人知れず 呼吸している生き物なのよ

 白い石膏の少女--そのシーガルの作品のなかに井崎はシーガルではなく「他者」を見ている。「生き物」を見ている。
 それは、次の瞬間、別なものにかわる。

ギプスに固められたとき
言葉もいっしょに吸いとられたのかしら
なにか言って 少しでも
もしかしたら あなた あなたは死者で
やっといま 戸口にたどりついたところかしら
一人 抹殺の現場から逃れ出て
焼き尽くされ ざらざらになった
白い姿を晒しているのかしら

 「生き物」から「死者」への変化。--このとき、そこにはシーガルはいない。「ひとり」少女がいるだけで、井崎は、その少女と向き合っている。そして、それは「素材」だろうか。「エネルギー」だろうか。いや、そうではなくて、それは「運動」なのだ。
 白い石膏であるとき、それはシーガルの「イモウト」、つまり「半分」の人間である。その「半分」を井崎は引き受け、そこに井崎のエネルギーを注ぎ込む。すると、その「素材」である「半分」は、「一人」になる。「たった一人」はそのとき、唯一、井崎が向き合っている「いのち」になって、動きだす。生きて、死んで、それから、生まれ変わる。「死者」でありながら、「抹殺の現場」から逃れてきた「生きた死者」なのである。「矛盾」なのである。井崎がシーガルのつくったものを、叩き壊し、つくりなおし、「矛盾」という「運動」に駆り立てる。そのとき、少女だけではなく、シーガルも新しく生きはじめる。井崎が叩き壊したのに、そこからよみがえる。

 詩は、この瞬間に、動く。


金沢駅に侏羅紀の恐竜を見た
井崎 外枝子
思潮社

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