監督 ロレーヌ・レビ 出演 エマニュエル・ドゥボス、パスカル・エルベ、ジュール・シトリュク、アリーン・ウマリ、カリファ・ナトゥール
イスラエル、パレスチナのあいだで起きて赤ん坊の取り違えを描いている。「そして父になる」と設定が似ていると言えるかもしれないが--描き方は完全に違う。この映画では、こどもがすでに18歳に近づいていて、彼らに「自分はだれなのか」という自覚がはっきりとある。そして、問題は両親ではなく(両親の問題もあるが)、彼ら自身の選択にある。
とてもおもしろいと思ったのは、パレスチナ人でありながらユダヤ人として育った少年と宗教の関係である。宗教と人種の関係である。突然ユダヤ人ではないとわかり、ユダヤ教から排除される。ユダヤ教の教会から排除され、ユダヤ人ではなくなる。--この関係は、私のような宗教感覚が希薄な人間には、あまりピンと来ないことがらなのだが、この問題を短いシーンではあるけれど、とてもていねいに描いている。「割礼もしているし、洗礼も受けた。それなのにユダヤ人ではないのか」と少年は問いかける。教会側は、母親がユダヤ人でないかぎりユダヤ人とは認めない。改宗とユダヤ人であるかどうかは別だと言う。うーん、厳しいというか、なんというか……。この非寛容(?)に対して、少年がとる態度(祖母の葬儀に出席しない)、その悲しみと怒りが、あ、そうなのか、と思うしかない。
で、こういう非寛容をしっかり描いたあと。そのパレスチナの少年が、実の両親の家を訪問するシーン。そこでの関係は最初はぎくしゃくしている。なんといっても土地を不法に選挙しているユダヤ人として育てられた人間がやってくるのだから、息子であるとは「頭」で理解していても、すぐには受け入れることができない。
このぎくしゃくした食事のシーンで少年が歌を歌いはじめる。最初はひとりで。その声にあわせて、まず母が声を出し、家族全員がくわわる。父親はリュート(?)のような楽器を弾きはじめる。少年は音楽が大好きで、それはどうやらこの父の血らしい。この音楽の和に、寛容がある。宗教のように、他者を排除しない。
ずーっといっしょに時間を共有してきたユダヤ教が少年を排除するのに対し、音楽は少年を受け入れ、同時に少年をその音の広がる彼方まで拡大する。押し進める。支える。あ、これはいいなあ。思わず涙が出てくる。少年は、この瞬間、「育てられている」と感じる。この新しい家族に。
この映画のラストは、実は答えを描いていない。「そして父になる」のように、少年がどちらの「家族」の方に行ったのか、明確にはしていない。しかし、私は、あの音楽の「寛容」のシーンから、パレスチナの少年はイスラエルに残り、ユダヤの少年はパレスチナにとどまると思った。生みの親ではなく、育ての親の「家族」を選んだと受け止めた。(もちろん、その後も交流はつづくだろうから、厳密にどちらを選んだとは言えないけれど。)ユダヤ人、パレスチナ人という対立をこわすとしたら、それぞれの「内部」に入り込むしかない。彼らは、対立を「内部」から「寛容」にかえていく最初の人間として描かれているのだと感じた。
(2013年11月06日、KBCシネマ1)
イスラエル、パレスチナのあいだで起きて赤ん坊の取り違えを描いている。「そして父になる」と設定が似ていると言えるかもしれないが--描き方は完全に違う。この映画では、こどもがすでに18歳に近づいていて、彼らに「自分はだれなのか」という自覚がはっきりとある。そして、問題は両親ではなく(両親の問題もあるが)、彼ら自身の選択にある。
とてもおもしろいと思ったのは、パレスチナ人でありながらユダヤ人として育った少年と宗教の関係である。宗教と人種の関係である。突然ユダヤ人ではないとわかり、ユダヤ教から排除される。ユダヤ教の教会から排除され、ユダヤ人ではなくなる。--この関係は、私のような宗教感覚が希薄な人間には、あまりピンと来ないことがらなのだが、この問題を短いシーンではあるけれど、とてもていねいに描いている。「割礼もしているし、洗礼も受けた。それなのにユダヤ人ではないのか」と少年は問いかける。教会側は、母親がユダヤ人でないかぎりユダヤ人とは認めない。改宗とユダヤ人であるかどうかは別だと言う。うーん、厳しいというか、なんというか……。この非寛容(?)に対して、少年がとる態度(祖母の葬儀に出席しない)、その悲しみと怒りが、あ、そうなのか、と思うしかない。
で、こういう非寛容をしっかり描いたあと。そのパレスチナの少年が、実の両親の家を訪問するシーン。そこでの関係は最初はぎくしゃくしている。なんといっても土地を不法に選挙しているユダヤ人として育てられた人間がやってくるのだから、息子であるとは「頭」で理解していても、すぐには受け入れることができない。
このぎくしゃくした食事のシーンで少年が歌を歌いはじめる。最初はひとりで。その声にあわせて、まず母が声を出し、家族全員がくわわる。父親はリュート(?)のような楽器を弾きはじめる。少年は音楽が大好きで、それはどうやらこの父の血らしい。この音楽の和に、寛容がある。宗教のように、他者を排除しない。
ずーっといっしょに時間を共有してきたユダヤ教が少年を排除するのに対し、音楽は少年を受け入れ、同時に少年をその音の広がる彼方まで拡大する。押し進める。支える。あ、これはいいなあ。思わず涙が出てくる。少年は、この瞬間、「育てられている」と感じる。この新しい家族に。
この映画のラストは、実は答えを描いていない。「そして父になる」のように、少年がどちらの「家族」の方に行ったのか、明確にはしていない。しかし、私は、あの音楽の「寛容」のシーンから、パレスチナの少年はイスラエルに残り、ユダヤの少年はパレスチナにとどまると思った。生みの親ではなく、育ての親の「家族」を選んだと受け止めた。(もちろん、その後も交流はつづくだろうから、厳密にどちらを選んだとは言えないけれど。)ユダヤ人、パレスチナ人という対立をこわすとしたら、それぞれの「内部」に入り込むしかない。彼らは、対立を「内部」から「寛容」にかえていく最初の人間として描かれているのだと感じた。
(2013年11月06日、KBCシネマ1)