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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フェルメール「地理学者」とオランダ・フランドル絵画展

2011-07-26 09:01:17 | その他(音楽、小説etc)
フェルメール「地理学者」とオランダ・フランドル絵画展(豊田市美術館、2011年07月20日)

 フェルメール「地理学者」を見ながら、私はふと「手紙を書く女と召使い」を思い出した。京都で見た3点の内の1点。きのう感想を書かなかった作品である。空間処理の感覚が似通っている。そして、大きく異なっている。

 似通っている点。
 人物の配置は「地理学者」が左側、「手紙を書く女と召使い」は右側と違っているのだが、どちらも左側に窓があり、そこから陽の光が室内に入ってきている。この左側の窓の「白」の処理の仕方が似ている。窓を画面の最左端まで描くのではなく、最左端は暗いカーテンで隠す。そのことによって光の明るさが強調されると同時に、室内の透視図(?)の遠近感の歪みが消える。(一点透視図で窓を画面の端まで描いてしまうと、一点透視の、焦点へ向かう斜線が強調されて、端の方がどうも不安定になる--と感じるのは私だけかな?)そうして、室内の奥行きがとても自然になる。視線は、自然にカーテンが占める領域を省略して、光があふれる部分だけを見てしまう。絵が、大きいにもかかわらず、小さく落ち着いたものになる。こうした構図の技法はフェルメールに限らないのだろうけれど、この処理のときのカーテンの占める「位置」(割合?)がとてもいい。
 もう一点。
 窓があり、光が左斜め上から差してきて、その中心に人物がいて、机がある。そのまわりの空間--人物の大きさに比べて空間が広すぎる。その広すぎる空間のあいまいさのなかに、ぽつんと「もの」が置かれる。「地理学者」の場合は、まるまった地図らしきもの。「手紙を書く女と召使い」は羽ペンらしきもの。その「もの」の存在によって、床の漠然としたひろがりがきゅっと収縮し、広さを感じさせなくなる。

 異なっている点。
 「地理学者」がおもしろいのは、余分な(?)空間を消してしまうカーテンを垂直に垂らさないところである。斜めによぎっている。
 そして、この斜めに空間を消してしまうカーテンと呼応するように、手前の机の上の布の領域が、右下へなだれるように斜めになっている。「手紙を書く女と召使い」はカーテンがほぼ垂直に垂れているので、画面はその分だけ左側が狭くなった四角形になるが、「地理学者」の場合は四角形を斜めに倒した(傾けた)具合になる。光が左上から斜めに差し込む形をそのまま四角形に切り取った形になる。四角い画面のなかに、光の輝きの領域が斜めに傾いた四角形として嵌め込まれている感じである。
 これは、見ようによってはとても不安定である。その不安定さを机の上に置いた左手の垂直の線でがっしり支え安定させている。一方、その線が強調されないように、コンパスを持つ手は肘から軽くまがり、宙に浮き、軽やかさを出している。この、ひとの形が描き出すリズムと、斜めに倒れた光の四角形の感じが、この絵をおもしろくさせている。
 斜めに倒れた光の四角形は、背後にある箪笥(?)の影の斜めの四角形の存在によって、静かな透明感にかわり、それが「地理学者」の「学者」の雰囲気に似ている。--これも、なかなかおもしろい。

 一昨年、東京のフェルメール展で2点同時に見ているはずだが、一緒に見たときは気がつかなかったことが、別々の会場で見ることで見えてくる、というのは不思議な感じがする。たぶん、1点1点が充実しているので、まとめて見ると印象が競合して、まとまりがつかなくなるのだろう。
 フェルメール三十数点、まとめて見るのが私の夢だったが、そうではなくて、こうやって1点1点追いかけながら、かつて見たものを思い出し、そこにない絵と「肉体」のなかで出会わせながら見るのもおもしろいかもしれないと思った。
 1点だけなのでどうしようか迷っていたのだが、豊田市美術館まで行ってよかったと思った。
                             (08月28日まで開催)



フェルメール全点踏破の旅 (集英社新書ヴィジュアル版)
朽木 ゆり子
集英社

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