詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ21)

2007-05-16 23:57:00 | 詩集
 入沢康夫『声なき木鼠の唄』(1971年)。
 「『木の船』のための素描」。入沢の詩特有の「逆説」で成り立っている。いくつかの断章で構成されている。その最初の二つのタイトル。

 乗組員はだれあってこの船の全景を知らぬ

 船外の風景を見たものもいない

 だとすれば、それが「木の船」であることはどうやってわかったのだろうか。この作品を書いた入沢以外に、ここに書かれているものが「木の船」であると断定できる人間はいない。
 これは奇妙なことだが、文学にとって、こういうことがほんとうに奇妙かといえば、そうではなく、常識的なことだ。文学に書かれているものが実在するかどうかは作者しか知らない。そこに書かれている存在の「実物」そのものを見た人間は誰もいない。「船」であろうが「海」であろうが、その文学に書かれた存在を見た人間はだれもいない。
 そこに書かれているものが実在しなくても文学は成立する。したがって、そこに描かれたものの「全景」もまた、誰も知らなくても文学は成立する。文学は実在の世界で起きることがらではなく、あくまでことばのなかの世界で起きることだからである。文学のことばを実在のもので実証する必要はないのだ。
 そこに書かれたものの「全景」を知らなくても、文学は成立する。いや、知らないからこそ文学は成立する。成立が簡単になる。その存在の「全景」を誰も知らないということは、作者がどのような「全景」を描き出しても、それを否定すること、その「全景」は事実と違っているとは、誰一人として言うことができない。作者のことばを鵜呑みにするしかない。どんな「全景」、どんな「細部」も、作者がことばを描写した瞬間に初めて、文学の世界のなかに姿をあらわす。文学の世界には、その世界をつくりだした作者のことばしかないのである。
 作者のことばが理不尽であっても、それはそのまま「理不尽」な世界を描いたのが作者の文学なのである。

 「木の船」について誰も何も知らない。だから入沢は自由自在にことばを繰り出して「全景」をつくりあげる。そして入沢は、最初から「実在」をめざしてはいない。むしろ存在しないことをめざしている。存在しないことも、ことばは「実在」として書くことができる。
 存在しないものをめざして書く。そのことが象徴的にあらわれているが「けっしてはいることのできない船室」という断章だ。

であって、それと接する周囲の室にはすべて何とか出入りができるとい
うのに、その部屋にはドアも揚げ蓋もないのだ。かつて一人の乗組員が
辛うじて発見した小さな節穴からこの室をのぞいた。すると意外なこと
に、そこに、船室の内部に、海があった。影深い峡湾、そこを黄色い幕
を張りめぐらした屋形船が物凄まじい勢いで通って行くのを見て、鳥肌
立つ思いをした時、節穴は内部からぴったりとふさがれてしまった。以
来、この室の内部をうかがい得たものはいない。

 船と海の関係が逆転している。普通は海のなかに(海の上に)船がある。しかし、入沢の描く船は全体(全景)をだれも知らないという前提を提出することで、海そのものが船の内部にあるという架空を、虚構を書く自由を手に入れている。ことばは、あることばを書くための前提として書くことができる。ことばは、暴走できる。暴走することばの自由を入沢は描こうとしている。

 入沢の描いた海、船のなかの海を「想像力」が描き出した海、実在しない海ととらえることももちろんできる。節穴をのぞいた船員の想像力が海を描き出した。そんなものは実在しない。実在するのは節穴をのぞいた船員と、その想像力だけである--そういうふうに分析することもできるかもしれない。
 しかし、この分析は完全にまちがっている。
 船員が節穴からのぞきみた海は船員の想像力がつくりだしたものであって実在しない、という論理は、その船員そのものが実在することを前提としている。また入沢の描いている船が実在しているということを前提としている。しかし、船そのものが実在ではないのだから、船員も実在ではない。実在でないものが見た海が実在であるか、想像力の見た海であるかという分析などまったく無意味である。

 この描写で読者が見なければならないのは、海こそがこの詩のなかでは唯一の実在だとういことだ。船員が覗き見た海--それをリアルなものとして感じること。それだけがこの詩で求められているものだ。
 マイナス(存在しない船)とマイナス(実在しない船員)がぶつかりあい、その瞬間に海だけが実在する。そういうことばの「数学」がこの詩のハイライトである。

 船ということばを読むとき、私たちは知らず知らずに海を連想している。船員ということばを読むときも海を前提としている。その無意識の前提を、マイナスとマイナスを掛けることで、瞬間的にプラスに、実在のものとして出現させる。そうしたことばの「数学」、ことばの運動を堪能できるときにのにみ、この入沢の作品は詩になる。

 詩は、詩としてどこかに存在するのではない。読者の頭の中で詩になるのだ。入沢は、読者の頭の中で詩に「なる」作品を書いている。


 

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