「菰野」(「志賀直哉小説選、昭和六十二年五月八日発行)
私はときどき不思議なことばにひっかかる。98ページの終わりの方。
この行の「兎に角」に傍線が引いてある。そのことばが気に入ったのだ。「兎に角に志賀直哉の「正直」を感じたのだ。「兎に角」は「意味」がない--というと言い過ぎだけれど、そのことばがなくても、「家を出た」という事実はかわらない。でも、志賀直哉は、そのことばを書きたかった。
このことばに私がひっかかった理由は、今となっては、ちょっとわからないところがある。
本を読んだのは、実は、きょうではない。このことばについて書こうと思うことがあって、そこに傍線を引いたのだが、今は、その理由を正確に思い出すことはできない。だから、今から書くことは、そのことばにひっかかったときとは違った感想かもしれないのだが……。
「兎に角」ということばは余分である。ふつう、余分なことばは、ことばの運動を妨げる。余分なことばが入ると、それだけことばは遠回りすることになる。「兎に角」というのは4音節だが、4音節にしろ、遠回りすることにかわりはない。簡潔な文章で有名な志賀直哉が、4音節とは言え、遠回りするのはおかしい。
--頭で考えるとそうなるのだが、不思議なことに、この4音節のことばは逆に働く。遠回りではなく、ぐずぐずしているものを駆り立てる。
たしかに「兎に角」は、なにはさておき、ということだかから、行動を駆り立てるものには違いない。
ここで、私は、ちょっとうなったのである。(今、思うと。)
自分自身を駆り立てるようにして動く。そのことをわざわざ4音節のことばをつかって書くということに、なぜか、うなってしまったのである。
これが志賀直哉ではなく、冗漫な文体の作家の文章なら、うならない。あらら、余分なことばを書いて、文章がだらけている、と感じたかもしれない。けれど、志賀直哉の文章では、なんといえばいいのだろう、文体に紛れ込んでくるかもしれないものを拒絶するために、「兎に角」がつかわれていて、そのことばをバネにして、ことばが動く。
そういうことが、「肌」につたわってきた。「肉体」に伝わってきた。
それに驚き、たぶん、私は傍線を引いたのだ。
この「兎に角」は最後の方にも出てくる。 111ページである。
ここでも「兎に角」は「拒絶」である。
この小説は、弟とその金銭をめぐるトラブルを題材にしているのだが、そのトラブルを志賀直哉は引き受けるのではなく、拒絶しようとしている。
その拒絶の「意思」が、そういう、文体の細部に、ことばの細部に影響しているのかもしれない。--と書くと、うがちすぎた見方になるかもしれないが、どうもそんな気がする。
私の読み方は、うがちすぎはうがちすぎなのだろうけれど、そんなふうに志賀直哉のことばは、いつも志賀直哉自身の「気分」に強く支配されているところがある。そして、その「気分」の支配--支配されていることばに、私は「正直」を感じるのだ。
私はときどき不思議なことばにひっかかる。98ページの終わりの方。
時間は少しおそかつたが、延ばせば、又気が変りさうなので小さな荷物を持つて、兎に角家を出た。
この行の「兎に角」に傍線が引いてある。そのことばが気に入ったのだ。「兎に角に志賀直哉の「正直」を感じたのだ。「兎に角」は「意味」がない--というと言い過ぎだけれど、そのことばがなくても、「家を出た」という事実はかわらない。でも、志賀直哉は、そのことばを書きたかった。
このことばに私がひっかかった理由は、今となっては、ちょっとわからないところがある。
本を読んだのは、実は、きょうではない。このことばについて書こうと思うことがあって、そこに傍線を引いたのだが、今は、その理由を正確に思い出すことはできない。だから、今から書くことは、そのことばにひっかかったときとは違った感想かもしれないのだが……。
「兎に角」ということばは余分である。ふつう、余分なことばは、ことばの運動を妨げる。余分なことばが入ると、それだけことばは遠回りすることになる。「兎に角」というのは4音節だが、4音節にしろ、遠回りすることにかわりはない。簡潔な文章で有名な志賀直哉が、4音節とは言え、遠回りするのはおかしい。
--頭で考えるとそうなるのだが、不思議なことに、この4音節のことばは逆に働く。遠回りではなく、ぐずぐずしているものを駆り立てる。
たしかに「兎に角」は、なにはさておき、ということだかから、行動を駆り立てるものには違いない。
ここで、私は、ちょっとうなったのである。(今、思うと。)
自分自身を駆り立てるようにして動く。そのことをわざわざ4音節のことばをつかって書くということに、なぜか、うなってしまったのである。
これが志賀直哉ではなく、冗漫な文体の作家の文章なら、うならない。あらら、余分なことばを書いて、文章がだらけている、と感じたかもしれない。けれど、志賀直哉の文章では、なんといえばいいのだろう、文体に紛れ込んでくるかもしれないものを拒絶するために、「兎に角」がつかわれていて、そのことばをバネにして、ことばが動く。
そういうことが、「肌」につたわってきた。「肉体」に伝わってきた。
それに驚き、たぶん、私は傍線を引いたのだ。
この「兎に角」は最後の方にも出てくる。 111ページである。
兎に角、もう帰らうと思つた。此不愉快な仕事を我慢してする必要はない。自分は矢張り此事件で慢性的に疲れてゐるのだ。
ここでも「兎に角」は「拒絶」である。
この小説は、弟とその金銭をめぐるトラブルを題材にしているのだが、そのトラブルを志賀直哉は引き受けるのではなく、拒絶しようとしている。
その拒絶の「意思」が、そういう、文体の細部に、ことばの細部に影響しているのかもしれない。--と書くと、うがちすぎた見方になるかもしれないが、どうもそんな気がする。
私の読み方は、うがちすぎはうがちすぎなのだろうけれど、そんなふうに志賀直哉のことばは、いつも志賀直哉自身の「気分」に強く支配されているところがある。そして、その「気分」の支配--支配されていることばに、私は「正直」を感じるのだ。
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