南原充士『インサイド・アウト』(洪水企画、2011年04月01日発行)
南原充士『インサイド・アウト』は喪失感がただよう詩集である。何かなくした。そして、なくしたものを思い出している。「いきいきとしたもの」があるとすれば、その「思い出す」という動きのなかにある。「思う」というこころの動きが人間のいのちをささえている、ということを感じさせる詩集である。
清潔でシンプルである。でも、私には物足りない。
「試みの五感」。その書き出し。
えっ、それだけ? それで、つたわる?
だいたい「海の泡から生まれた裸の女性が絵の真ん中にいます」って、目のみえるひとのための説明じゃない? 私は目が見えないわけではないが、失明の危機を(恐怖を)体験した。目のみえないとき「裸の女性」とだけ言われても、私は、何も想像もできない。裸の女を見た記憶があっても、目を閉ざして裸の音を想像できない。裸の女ということばで裸の女を想像できるのは、きっと目の見える人だと思う。裸であるかないかは、たいてい「目」で確認するものだから。
触ると、おっぱいの方が手のひらをはじき返してくるような弾力のある女が、なめると、山の奥の岩清水を口に含んだような透明感の広がる脇腹の女が、……とかなんとか、「視覚」以外のことばでないと、想像力を駆り立てないんじゃない?
「侍女が薄物でヴィーナスの体を隠そうとしてます」はもっとひどいなあ。「体を隠す」なんて、目のみえる人に対してやっていること。目の見えない人には、無意味なことだねえ。そういう「無意味」まで、きちんと説明するということかもしれないけれど、もしほんとうに無意味まで説明するなら、もっともっと「意味」も説明しないと、おもしろくない。
だいたい、絵って、「視覚」にだけ働きかけてくるもの? 「視覚」に働きかけてくるものだけをとりあげて、それを「目のみえない人」に説明するというのは、どういうこと?
なんだかぎょっとするなあ。
「運命」の説明も変だなあ。「タタタターンと手のひらを叩いてみせます」というのは、目のみえないひとの手のひらを叩くのかな? それなら、まあ、わからないでもないけれど、どうも南原が耳の聞こえないひとの目の前で南原自身の手のひらを叩いているように感じられる。音って、そういうもの? 動きで「見せる」もの? 音は振動。その振動を確認するのは「目」?
なんだか違うなあ。
ここでも説明は「目」に頼っている。
南原の「五感」はたぶん「視覚」優先のものなのだろう。「優先」というより「視覚」が他の感覚を統合する形で動いているのだろう。
どの感覚を優先するかというのは、ひとそれぞれの問題だから、何もいうことはないのだが--といいながら、私は書くのだが……。
南原のことばを読んでいると、その「五感」がまじりあわない。別々に存在している。それがおもしろくない。「ヴィーナスの誕生」にもどって批判すると、南原の説明には「視覚」的表現しかない。目のみえない人に説明するなら、視覚以外の感覚を総動員して説明してほしい。手で触った感じ、舌で味わった感じ、匂いを貝だ感じ、耳に聞こえる音楽で「ヴィーナスの誕生」を説明してほしい。
もし本気で、南原の「五感」を動員して、その絵を説明しはじめたら、南原のことばはきっと変わっていくはずだ。
手で触った感じと舌で味わった感じがどこで溶け合うべきかを探し求め、触覚も味覚もゆらぐからだ。その揺らぎは当然嗅覚や聴覚にも影響する。感覚の伝播が、感覚そのものを揺り動かし、覚醒させる。そして、新しいものを発見する。ことばが、つぎつぎにかわっていく。ことばがことばではなくなる。--そういうことがないと、それは詩とは呼べない。
最初に南原の詩には喪失感が漂っていると書いたが、その喪失感は喪失感のままである。ゆらがない。清潔で美しい。それは、何かを喪失することで変わっていく自分をことばで追ってみようとしていないからだ。自分を「いま/ここ」に固定しておいて、「いま/ここ」からなくなってしまったものをただなつかしんでいるからだ。ことばは、ことばのまま、そこにある。
これは、おもしろくない。

南原充士『インサイド・アウト』は喪失感がただよう詩集である。何かなくした。そして、なくしたものを思い出している。「いきいきとしたもの」があるとすれば、その「思い出す」という動きのなかにある。「思う」というこころの動きが人間のいのちをささえている、ということを感じさせる詩集である。
清潔でシンプルである。でも、私には物足りない。
「試みの五感」。その書き出し。
目のみえない人に
ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を説明します
海の泡から生まれた裸の女性が絵の真ん中にいます
侍女が薄物でヴィーナスの体を隠そうとしてます
耳の聞こえない人に
ベートーヴェンの「運命」を説明します
タタタターンと手のひらを叩いてみせます
山谷の曲線を背中に指でなぞってみます
えっ、それだけ? それで、つたわる?
だいたい「海の泡から生まれた裸の女性が絵の真ん中にいます」って、目のみえるひとのための説明じゃない? 私は目が見えないわけではないが、失明の危機を(恐怖を)体験した。目のみえないとき「裸の女性」とだけ言われても、私は、何も想像もできない。裸の女を見た記憶があっても、目を閉ざして裸の音を想像できない。裸の女ということばで裸の女を想像できるのは、きっと目の見える人だと思う。裸であるかないかは、たいてい「目」で確認するものだから。
触ると、おっぱいの方が手のひらをはじき返してくるような弾力のある女が、なめると、山の奥の岩清水を口に含んだような透明感の広がる脇腹の女が、……とかなんとか、「視覚」以外のことばでないと、想像力を駆り立てないんじゃない?
「侍女が薄物でヴィーナスの体を隠そうとしてます」はもっとひどいなあ。「体を隠す」なんて、目のみえる人に対してやっていること。目の見えない人には、無意味なことだねえ。そういう「無意味」まで、きちんと説明するということかもしれないけれど、もしほんとうに無意味まで説明するなら、もっともっと「意味」も説明しないと、おもしろくない。
だいたい、絵って、「視覚」にだけ働きかけてくるもの? 「視覚」に働きかけてくるものだけをとりあげて、それを「目のみえない人」に説明するというのは、どういうこと?
なんだかぎょっとするなあ。
「運命」の説明も変だなあ。「タタタターンと手のひらを叩いてみせます」というのは、目のみえないひとの手のひらを叩くのかな? それなら、まあ、わからないでもないけれど、どうも南原が耳の聞こえないひとの目の前で南原自身の手のひらを叩いているように感じられる。音って、そういうもの? 動きで「見せる」もの? 音は振動。その振動を確認するのは「目」?
なんだか違うなあ。
鼻の利かない人に
オーデコロンを説明します
バラ園と香水製造工場のようすを示します
香水を吹きかける女性の胸元をアップします
味のわからないひとに
懐石料理の説明をします
趣のある食器に盛られた料理の色合いを示します
料理を口に運ぶひとの表情を示します
ここでも説明は「目」に頼っている。
南原の「五感」はたぶん「視覚」優先のものなのだろう。「優先」というより「視覚」が他の感覚を統合する形で動いているのだろう。
どの感覚を優先するかというのは、ひとそれぞれの問題だから、何もいうことはないのだが--といいながら、私は書くのだが……。
南原のことばを読んでいると、その「五感」がまじりあわない。別々に存在している。それがおもしろくない。「ヴィーナスの誕生」にもどって批判すると、南原の説明には「視覚」的表現しかない。目のみえない人に説明するなら、視覚以外の感覚を総動員して説明してほしい。手で触った感じ、舌で味わった感じ、匂いを貝だ感じ、耳に聞こえる音楽で「ヴィーナスの誕生」を説明してほしい。
もし本気で、南原の「五感」を動員して、その絵を説明しはじめたら、南原のことばはきっと変わっていくはずだ。
手で触った感じと舌で味わった感じがどこで溶け合うべきかを探し求め、触覚も味覚もゆらぐからだ。その揺らぎは当然嗅覚や聴覚にも影響する。感覚の伝播が、感覚そのものを揺り動かし、覚醒させる。そして、新しいものを発見する。ことばが、つぎつぎにかわっていく。ことばがことばではなくなる。--そういうことがないと、それは詩とは呼べない。
最初に南原の詩には喪失感が漂っていると書いたが、その喪失感は喪失感のままである。ゆらがない。清潔で美しい。それは、何かを喪失することで変わっていく自分をことばで追ってみようとしていないからだ。自分を「いま/ここ」に固定しておいて、「いま/ここ」からなくなってしまったものをただなつかしんでいるからだ。ことばは、ことばのまま、そこにある。
これは、おもしろくない。
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