3 ノアの方舟
詩はいつでも奇妙なことばといっしょにやってくる。知っていることばなのに、知らない。ことばは知っているが、こういうつかい方は知らなかった、という驚きといっしょにやってくる。
「水平線」は遠くにあって、それが「くる」ということはありえない。しかし、「起こしにくる」は、どうだろうか。論理的には「くる」ことができないのだから「起こしにくる」もありえないはずである。
しかし、それならなぜ、この二行で私ははっと驚いたのだろうか。
ただ「くる」だけではなく「起こしにくる」には「くる」を上回る強さがある。その強さに圧倒されて、「起こしにくる」という動詞を中心にことばを読み直してしまう。「頭」ではなく「肉体」が反応してしまう。
「起こしにくる」は、起こす「ために」くる。そこには「意思」のようなものがある。「水平線」に「意思」はないだろうが、人間には「意思」がある。そのため「起こしにくる」ということばを読んだとき、「起こしにくる」の主語は「人間」だと思ってしまう。何かを「するために」何かをする。違った動詞を「ひとつの肉体」でつないで実行した記憶がよみがえり、そこに「人間」を浮かび上がらせる。「動詞」の「主語」を、複合動詞を動くことができる「人間」と感じてしまう。
この詩では「人間」は「ぼく」しかいない。このため「ぼく」が「起こしにくる」ように感じる。「ぼく」が動いているように見える。「水平線」は、「ぼく」でもあるのだ。「ぼく」のなかの「何か」が「水平線」になって「ぼく」を「起こしにくる」--そんなふうに感じてしまう。「水平線」は「現実」の風景であると同時に、「心象風景」であるとも読んでしまう。「二重の世界」を私はさまよう。
眠り、いや夢のなかで水平線が「現実」以上にあざやかに感じられて、その衝撃に目が覚めるということがあるかもしれない。何かの夢に驚いて、目が覚めた、という経験は誰にでもあると思う。そのとき、その夢に「起こされた」と言えるが、ここに書いてある「起こしにくる」は、そういう現象とどこかで重なりながらも、それを超えている。
「起こしにくる」ということばのなかに「意思」を感じたときから、「ぼく」は「水平線」と区別がつかなくなる。
眠っている「ぼく」を「水平線」が「起こす」のか、眠っている「水平線」を「ぼく」が「起こす」のか。いままで誰も書かなかった「水平線」を目覚めさせる(起こす)のか。「水平線」が「起きる」というのは「比喩」になるが、何か、そこから新しい世界がはじまる。これまでことばにならなかった世界がはじまる--そういう予感といっしょに、「ぼく」と「水平線」は互いの区別をなくして、いっしょに動いていく。
「ぼく」は「水平線」になって、「ぼく」の「瞼」を「なでる」。あるいは「ぼく」が「水平線の瞼」をなでる。「水平線」を「瞼」という「比喩」にすることで、「ぼくの瞼」は同時に「水平線」になる。水平線が瞼の比喩か、瞼が水平線の比喩かわからないが、ぴったり重なった感じが、「水平線」が「起こしにくる」のに、現実へと目覚めるのではなく、逆に「夢」の内部へ目覚める、夢の錯乱のなかへより深く入り込んでしまうという感じを与える。
この詩は、そういう不思議な錯覚をとおって、次のように動く。
この数行は「論理」を追いかけても、あまり意味はない。瞬間的に浮かぶイメージのなかで、「論理」を捨てる。「論理」的に考えない。「意味」を特定しない。
海(水平線)と夢が触れ合って、明るい水平線の果てまで漂流していく。そういう「印象」をもてばいいのだろう。「論理」を考えずに、あっ、この錯乱は詩でしかないなあ、と思えばいいのだろう。
定義を超えて、詩を感じる--そのときの「感覚」(感じること)が詩という「動詞」のあり方なのだろう。
「論理的」に考えると、この二行は「でたらめ」である。「論理」に反している。「遠ざかる」と「来る」は正反対の動き。「遠ざかる」ものは「来る」ことができない。
遠ざかっていくものを見ながら、これまで「ぼく」の方へやってきたものは、みんな遠ざかっていく、ということでもない。
ここでは「具体」ではなく、「遠ざかる」という動き「来る」という動きがある、世界には「遠ざかる」ものと近づいて「来る」ものがある。「遠ざかる」という運動(動詞)と「近づいて来る」という運動(動詞)がある。
その矛盾が、ひとりの詩人のなかで動くとき、どうしてもはっとしてしまう。「矛盾」なのに、ひとは(私は)それをすることができる。遠ざかることも、近付くこともできる。どの方向へ動くかは「絶対的」ではないのだ。
「絶対的ではない」ということが「絶対」なのだ。
「矛盾」を描き、同時にその「矛盾」のどちらかを選び取るのではない。むしろ、「矛盾」そのものを選び取る。そこに詩がある。矛盾でしか言い表せないものが、詩なのである。
2連目は、そういうことを「理屈」ではなく「具体的」にことばにしている。「論理」は「具体」に触れ、その「矛盾」のなかで「真理」になる。「論理」の「理」を「具体」で隠して、真(まこと)に変えるのが、詩。「具体」は「矛盾しているという指摘(論理)」を「矛盾」として抱え込み、真(まこと)に変わる。
「矛盾」「不可能」のなかに、瞬間的に「詩(真=まこと)」がスパークする。「矛盾」を共存させる力が詩なのだろう。両足にこだわっていない。たどりつくということにこだわっていない。そのこだわりを破壊する瞬間に「行く」という運動のなかにある「真(まこと)」が世界をひろげる。
詩はいつでも奇妙なことばといっしょにやってくる。知っていることばなのに、知らない。ことばは知っているが、こういうつかい方は知らなかった、という驚きといっしょにやってくる。
眠つているぼくを起こしにくるのは
どこかの水平線だ
「水平線」は遠くにあって、それが「くる」ということはありえない。しかし、「起こしにくる」は、どうだろうか。論理的には「くる」ことができないのだから「起こしにくる」もありえないはずである。
しかし、それならなぜ、この二行で私ははっと驚いたのだろうか。
ただ「くる」だけではなく「起こしにくる」には「くる」を上回る強さがある。その強さに圧倒されて、「起こしにくる」という動詞を中心にことばを読み直してしまう。「頭」ではなく「肉体」が反応してしまう。
「起こしにくる」は、起こす「ために」くる。そこには「意思」のようなものがある。「水平線」に「意思」はないだろうが、人間には「意思」がある。そのため「起こしにくる」ということばを読んだとき、「起こしにくる」の主語は「人間」だと思ってしまう。何かを「するために」何かをする。違った動詞を「ひとつの肉体」でつないで実行した記憶がよみがえり、そこに「人間」を浮かび上がらせる。「動詞」の「主語」を、複合動詞を動くことができる「人間」と感じてしまう。
この詩では「人間」は「ぼく」しかいない。このため「ぼく」が「起こしにくる」ように感じる。「ぼく」が動いているように見える。「水平線」は、「ぼく」でもあるのだ。「ぼく」のなかの「何か」が「水平線」になって「ぼく」を「起こしにくる」--そんなふうに感じてしまう。「水平線」は「現実」の風景であると同時に、「心象風景」であるとも読んでしまう。「二重の世界」を私はさまよう。
眠り、いや夢のなかで水平線が「現実」以上にあざやかに感じられて、その衝撃に目が覚めるということがあるかもしれない。何かの夢に驚いて、目が覚めた、という経験は誰にでもあると思う。そのとき、その夢に「起こされた」と言えるが、ここに書いてある「起こしにくる」は、そういう現象とどこかで重なりながらも、それを超えている。
「起こしにくる」ということばのなかに「意思」を感じたときから、「ぼく」は「水平線」と区別がつかなくなる。
眠っている「ぼく」を「水平線」が「起こす」のか、眠っている「水平線」を「ぼく」が「起こす」のか。いままで誰も書かなかった「水平線」を目覚めさせる(起こす)のか。「水平線」が「起きる」というのは「比喩」になるが、何か、そこから新しい世界がはじまる。これまでことばにならなかった世界がはじまる--そういう予感といっしょに、「ぼく」と「水平線」は互いの区別をなくして、いっしょに動いていく。
そのやわらかな水平線が
縫目のないしかたで遠くからぼくの瞼を撫でる
「ぼく」は「水平線」になって、「ぼく」の「瞼」を「なでる」。あるいは「ぼく」が「水平線の瞼」をなでる。「水平線」を「瞼」という「比喩」にすることで、「ぼくの瞼」は同時に「水平線」になる。水平線が瞼の比喩か、瞼が水平線の比喩かわからないが、ぴったり重なった感じが、「水平線」が「起こしにくる」のに、現実へと目覚めるのではなく、逆に「夢」の内部へ目覚める、夢の錯乱のなかへより深く入り込んでしまうという感じを与える。
この詩は、そういう不思議な錯覚をとおって、次のように動く。
それでもぼくが目ざめなかつたら
ノアの方舟の鐘を鳴らして起こされるだろう
ぼくのはるかな記憶を利用して
その背後(うしろ)にひろがる緑の反響(こだま)で
だがぼくはなお目ざめない
しずかなしずかな瞼の中をどこまでも漂流していく
この数行は「論理」を追いかけても、あまり意味はない。瞬間的に浮かぶイメージのなかで、「論理」を捨てる。「論理」的に考えない。「意味」を特定しない。
海(水平線)と夢が触れ合って、明るい水平線の果てまで漂流していく。そういう「印象」をもてばいいのだろう。「論理」を考えずに、あっ、この錯乱は詩でしかないなあ、と思えばいいのだろう。
定義を超えて、詩を感じる--そのときの「感覚」(感じること)が詩という「動詞」のあり方なのだろう。
ぼくには遠ざかるものしか
まだ来ていない
「論理的」に考えると、この二行は「でたらめ」である。「論理」に反している。「遠ざかる」と「来る」は正反対の動き。「遠ざかる」ものは「来る」ことができない。
遠ざかっていくものを見ながら、これまで「ぼく」の方へやってきたものは、みんな遠ざかっていく、ということでもない。
ここでは「具体」ではなく、「遠ざかる」という動き「来る」という動きがある、世界には「遠ざかる」ものと近づいて「来る」ものがある。「遠ざかる」という運動(動詞)と「近づいて来る」という運動(動詞)がある。
その矛盾が、ひとりの詩人のなかで動くとき、どうしてもはっとしてしまう。「矛盾」なのに、ひとは(私は)それをすることができる。遠ざかることも、近付くこともできる。どの方向へ動くかは「絶対的」ではないのだ。
「絶対的ではない」ということが「絶対」なのだ。
「矛盾」を描き、同時にその「矛盾」のどちらかを選び取るのではない。むしろ、「矛盾」そのものを選び取る。そこに詩がある。矛盾でしか言い表せないものが、詩なのである。
2連目は、そういうことを「理屈」ではなく「具体的」にことばにしている。「論理」は「具体」に触れ、その「矛盾」のなかで「真理」になる。「論理」の「理」を「具体」で隠して、真(まこと)に変えるのが、詩。「具体」は「矛盾しているという指摘(論理)」を「矛盾」として抱え込み、真(まこと)に変わる。
ぼくは眼を刳りとつた
心をぼくにしかと釘づけするために
ぼくは耳をおもいきり削いだ
たれからも全くぼくが自由であるように
ぼくは唇を縫い合わせた
他から何一つ求めないために
ぼくは両足を断ち切つた
たれも行きついたもののない遠くへ行きつくために
「矛盾」「不可能」のなかに、瞬間的に「詩(真=まこと)」がスパークする。「矛盾」を共存させる力が詩なのだろう。両足にこだわっていない。たどりつくということにこだわっていない。そのこだわりを破壊する瞬間に「行く」という運動のなかにある「真(まこと)」が世界をひろげる。
![]() | 嵯峨信之全詩集 |
嵯峨 信之 | |
思潮社 |