『禮記』のつづき。
西脇の詩について書いていると、もう書くことはないのかもしれないという気持ちになる。それなのに、まだまだ書き足りないという気持ちにもなる。同じことを繰り返しているのだが、何度でも同じことを繰り返したくなる。別なことばで言いなおすと、書くことで「結論」へ向けて進んでいくために書いているのではなく、私はただ思っていることを書いておきたいのである。私自身のために、ではない。誰のために、というのでもない。ただ書きたい。
「哀」について。
これから書くことはこれまで書いてきたことの繰り返しである。繰り返しだけれど、少し違うかもしれない。
ここに書いてあることの「意味」はなんとなくわかる。旅人がいる。旅人は泣いた(袖をぬらした)。それは人類の哀史に触れたからである。そのことは手帳に書いてある。でも、その手帳の文字は(あるいは手帳に書いてある論理は)、ぼけている(少しあいまいである)--くらいのことだと思う。
だいたいそういうことだと思うのだが、そうはっきりとは思うわけでもない。
なぜだろう。
西脇のことばは「論理的」(散文的)ではなく、論理を突き破りながら動いているからである。余分なものがある。たとえば、私は先に3行の「意味」(私の理解している範囲)を書くときに、3行目の「あおざめた」ということばを省略した。この「あおざめた」を私は仮に「余分なもの」と定義したのだが……。
「あおざめた」に意味があるかもしれない。ないかもしれない。どっちでもいい--というと西脇ファンや、西脇研究者に叱られるかもしれないのだが。
それがたとえ重要な「意味」をになっているのものだとしても、そしてそれをだれかが説明してくれたとしても、きっと「余分なもの」と感じると思う。「あおざめた」が重要だとしたら、今度は「袖をぬらした」というようなことばがきっと「余分なもの」と感じるだろうと思う。「泣いた」と書けばいいだけのこと、「涙を流した」と書けばいいだけのことを、わざわざ「袖をぬらした」ともってまわって書いていることが「余分」に感じると思う。
いま、私は「もってまわって」と書いたが、西脇のことばは、「余分なもの」を経巡って動く。脇道にそれながら動く。いま流の言い方をするなら「逸脱」しながら動く。そして、その「逸脱する」ことが、刺激的なのだ。
すっきりと「論理的」ではない、ということろが刺激的なのだ。
詩は、「論理的」とは対極的なところにあるのだろう。
で。
その「論理的」ではないことばというか、「逸脱する」ことば。たとえば3行目の「あおざめた」はなぜ「あおざめた」なのか。「蒼白な」でなはく、あるいは「たそがれ色の」でもなく、「涙で汚れた女の頬の」ではないのか。なぜ、西脇は「あおざめた」ということばを選んだのか。
こいうとき、私は「音」が絡んでくると思うのだ。その「音」がどこからか響いていくる。西脇はそれを書き留める。その「音」が、私は、とても好きなのだ。
私のまったくの個人的な「耳」の事情なのかもしれていけれど、「あおざめた」は「あの旅人の袖をぬらした」という1行目ととてもよく響きあう。「あ」で始まり「た」で終わる1行目と「あおざめた」が響きあう。もっといえば1行目は「あおざめた」ということばのなかに凝縮して再現される感じがする。
ことばの論理の上からは「逸脱」する。けれど「音」としては「収斂」というか、「結晶」化する。
--まあ、こんなことは、屁理屈だね。どうでもいい。
つづく3行。
これは、近代人の憂愁は論理的でありすぎる(豊満している)ことが原因である。それは古代人からの「隔世遺伝」である。つまり、中世のひと、「暗黒の時代」のひとは、論理にしばられることがないから、「憂愁」を知らない? 詩、だから、まあ、「意味」は適当に考えておくが、ここでは、私は「隔世遺伝」ということばにとてもひかれる。
「かくせーいでん」という「音」が気持ちがいいのである。「ゆうしゅ」の暗さを破る「ほうまん」という「音」、「ほーまん」と「かくせーいでん」。「音」をのばすことろと、最後が「ん」で終わるところが、なんともいえず気持ちがいい。
そして、「隔世遺伝」ということば、どこかでつかってみたい、という気持ちになる。西脇のことばは、いつでも、あ、このことばつかってみたい。盗んでしまいたい、という気持ちにさせる。「好き」という気持ちにさせられる。
ぐいっと、そんなふうに引っ張られて……。あれっ。
「古代人の隔世遺伝である」は、もしかすると「断崖にぶらさがるたのしみ」を修飾する1行?
ここに「論理」があると仮定して--どのことばがどのことばを修飾している? どれが主語? わかる?
私にはわからない。わからないのだけれど、じゃあ、わからないから「嫌い」かというと、そうではない。わからないけれど、なんだかおもしろい。「好き」。
このとき、私が「好き」と思ういちばんの理由は「音」なのだ。
「毎夜来る残忍な夢の恐怖になるだけだ」の「なるだけだ」という「音」さえ、あ、ここがいいなあ、と思ってしまうのだ。

西脇の詩について書いていると、もう書くことはないのかもしれないという気持ちになる。それなのに、まだまだ書き足りないという気持ちにもなる。同じことを繰り返しているのだが、何度でも同じことを繰り返したくなる。別なことばで言いなおすと、書くことで「結論」へ向けて進んでいくために書いているのではなく、私はただ思っていることを書いておきたいのである。私自身のために、ではない。誰のために、というのでもない。ただ書きたい。
「哀」について。
これから書くことはこれまで書いてきたことの繰り返しである。繰り返しだけれど、少し違うかもしれない。
あの旅人の袖をぬらした
人類の哀史は
あおざめた手帳にぼけている
ここに書いてあることの「意味」はなんとなくわかる。旅人がいる。旅人は泣いた(袖をぬらした)。それは人類の哀史に触れたからである。そのことは手帳に書いてある。でも、その手帳の文字は(あるいは手帳に書いてある論理は)、ぼけている(少しあいまいである)--くらいのことだと思う。
だいたいそういうことだと思うのだが、そうはっきりとは思うわけでもない。
なぜだろう。
西脇のことばは「論理的」(散文的)ではなく、論理を突き破りながら動いているからである。余分なものがある。たとえば、私は先に3行の「意味」(私の理解している範囲)を書くときに、3行目の「あおざめた」ということばを省略した。この「あおざめた」を私は仮に「余分なもの」と定義したのだが……。
「あおざめた」に意味があるかもしれない。ないかもしれない。どっちでもいい--というと西脇ファンや、西脇研究者に叱られるかもしれないのだが。
それがたとえ重要な「意味」をになっているのものだとしても、そしてそれをだれかが説明してくれたとしても、きっと「余分なもの」と感じると思う。「あおざめた」が重要だとしたら、今度は「袖をぬらした」というようなことばがきっと「余分なもの」と感じるだろうと思う。「泣いた」と書けばいいだけのこと、「涙を流した」と書けばいいだけのことを、わざわざ「袖をぬらした」ともってまわって書いていることが「余分」に感じると思う。
いま、私は「もってまわって」と書いたが、西脇のことばは、「余分なもの」を経巡って動く。脇道にそれながら動く。いま流の言い方をするなら「逸脱」しながら動く。そして、その「逸脱する」ことが、刺激的なのだ。
すっきりと「論理的」ではない、ということろが刺激的なのだ。
詩は、「論理的」とは対極的なところにあるのだろう。
で。
その「論理的」ではないことばというか、「逸脱する」ことば。たとえば3行目の「あおざめた」はなぜ「あおざめた」なのか。「蒼白な」でなはく、あるいは「たそがれ色の」でもなく、「涙で汚れた女の頬の」ではないのか。なぜ、西脇は「あおざめた」ということばを選んだのか。
こいうとき、私は「音」が絡んでくると思うのだ。その「音」がどこからか響いていくる。西脇はそれを書き留める。その「音」が、私は、とても好きなのだ。
私のまったくの個人的な「耳」の事情なのかもしれていけれど、「あおざめた」は「あの旅人の袖をぬらした」という1行目ととてもよく響きあう。「あ」で始まり「た」で終わる1行目と「あおざめた」が響きあう。もっといえば1行目は「あおざめた」ということばのなかに凝縮して再現される感じがする。
ことばの論理の上からは「逸脱」する。けれど「音」としては「収斂」というか、「結晶」化する。
--まあ、こんなことは、屁理屈だね。どうでもいい。
つづく3行。
近代人の憂愁は
論理の豊満からくるのか
古代人の隔世遺伝である
これは、近代人の憂愁は論理的でありすぎる(豊満している)ことが原因である。それは古代人からの「隔世遺伝」である。つまり、中世のひと、「暗黒の時代」のひとは、論理にしばられることがないから、「憂愁」を知らない? 詩、だから、まあ、「意味」は適当に考えておくが、ここでは、私は「隔世遺伝」ということばにとてもひかれる。
「かくせーいでん」という「音」が気持ちがいいのである。「ゆうしゅ」の暗さを破る「ほうまん」という「音」、「ほーまん」と「かくせーいでん」。「音」をのばすことろと、最後が「ん」で終わるところが、なんともいえず気持ちがいい。
そして、「隔世遺伝」ということば、どこかでつかってみたい、という気持ちになる。西脇のことばは、いつでも、あ、このことばつかってみたい。盗んでしまいたい、という気持ちにさせる。「好き」という気持ちにさせられる。
ぐいっと、そんなふうに引っ張られて……。あれっ。
断崖にぶらさがるたのしみが
毎夜来る残忍な夢の恐怖になるだけだ
「古代人の隔世遺伝である」は、もしかすると「断崖にぶらさがるたのしみ」を修飾する1行?
あの旅人の袖をぬらした
人類の哀史は
あおざめた手帳にぼけている
近代人の憂愁は
論理の豊満からくるのか
古代人の隔世遺伝である
断崖にぶらさがるたのしみが
毎夜来る残忍な夢の恐怖になるだけだ
ここに「論理」があると仮定して--どのことばがどのことばを修飾している? どれが主語? わかる?
私にはわからない。わからないのだけれど、じゃあ、わからないから「嫌い」かというと、そうではない。わからないけれど、なんだかおもしろい。「好き」。
このとき、私が「好き」と思ういちばんの理由は「音」なのだ。
「毎夜来る残忍な夢の恐怖になるだけだ」の「なるだけだ」という「音」さえ、あ、ここがいいなあ、と思ってしまうのだ。
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新倉 俊一 | |
みすず書房 |
