殿岡秀秋『父のこたえ』(あざみ書房、2011年03月03日発行)
殿岡秀秋『父のこたえ』は、散文的な、「意味」の強い作品か多い。そのなかにあって、巻頭の「霧の顔」は不思議である。
2連目の3行に驚いてしまった。殿岡の書いているイメージはイメージとしてそのまま思い描くことができるのだが、そのイメージと私のことばが重ならないのである。
湖に浮かんでいる「ぼく」。影ができる。それは湖底にできる。それをこの描写の「主役」は上空から見ている。ぼくは、ぼくの姿を上空から見る--という具合に想像している。「話者(主役)」は「ぼく」をみつめる「ぼく」という虚構である。
で、上空(中空)から見てみると、影が「ぼくの形から/女の長い髪が広がるように/はみ出している」。オフィーリアか誰かが水に浮かんでいる(流されている)感じを思い浮かべればいいのだろう。長い髪が水に浮かんで、上半身を囲むように、ふわりと広がる。
驚いたことはふたつある。ひとつは「ぼく」を「女」のなかでとらえている点である。「ぼく」は男なのだから、女の長い髪をもっていない。そういうもっていないものを「比喩」としてつかうときの意識の飛躍にびっくりした。比喩が殿岡の「肉体」を離れてしまっているのである。
二つ目は、いま書いたことと微妙に関係しているのだが、殿岡の比喩は「肉体」と離れたところで動いている。「ぼくの形」。「ぼくの肉体(からだ)」ではなく「形」。水に浮かんだ「ぼく」を、中空からみつめる「ぼく」は「肉体」ではなく「形」と見ている。抽象的なイメージそのものとしてみている。
うーん。
そのくせ--そのくせ、というのは、まあ、間違った言い方なのかもしれないけれど、3連目に「形」ではなく「肉体」が出てくる。「ぼく」は中空から「ぼく」をみつめるのではなく、水と直接触れ合っている。この「触覚」が、かなり鋭敏で、とてもおもしろい。1行目の「腹のあたり」から触覚が上に動いてくる。「波紋の先が喉にあたり/剃刀のようにあたって/剃られてくると」というのは、なにか、ぞくっと感じる恐怖がある。
死の影が色濃く漂っている。
「視覚」は「ぼく」を「ぼく以外の存在」に突き放し、つまり「女」や「形」に突き放し、「触覚」は「ぼく」を死へ引きずり込む。このへだたりが、とても不思議である。
触覚の世界はさらに動く。
この「芯が冷たくなる」の「芯」とは「肉体」でいうと、どのあたりになるのか。背骨かな? まあ、この4行だけをみれば(読めば)、背骨でもいいような気がするのだが、その前の1行「湖の底に引き込まれそうな感じが腹のあたりにきて」の「腹」を意識すると、背骨じゃないなあ、という感じになる。
腹からのぼってきて喉になったのだから、さらにのぼって首筋の裏(このあたりが冷たくなる、という感じ、ない?)か、脳の中心か、あるいは逆に喉から腹へ逆戻りし、さらに腹を通り超えて腰、あるいは性器のあたりか。
で、性器のあたり、つまり肉欲(死とは対極にあるのか、あるいは死を突き抜けて死そのものといっしょにあるのか--判断がむずかしいねえ)の中心だとすると、そのとき「ぼく」は男? それとも女? 男の肉体? 女の形?
何か矛盾したもの、あるいは両性具有のような感じが入り乱れる。
詩集には、父と母が何回も登場するが、(おじさんとか、親類の女の人も登場するが)、その両親(および親族)との関係が、ちょっと私にはつかみにくい。親族だから血はつながっているのだが、血というものは「肉体」の内部を動いていて、実際は「血の繋がり」というのは「頭」で整理した人間関係であって、実際に触れあうのは「肌」(肉体の表面)が中心だ。その「肌」というか「皮膚感覚」が、どうも「ぞくっ」とする。「べたっ」としていて、それが、あ、ちょっと離れて、といいたくなるような感じなのである。
湖の波紋と喉の関係なら、冷たくて象徴的で、死の比喩ともうまくなじんでくれるのだが、他の作品では皮膚感覚が比喩にならない。抽象的にならない。それはそれでいいのだろうけれど、先に書いたように、そこに男と女が融合すると、何か変な気持ちになる。
マザコン? ファザコン?
よくわからないが、親族との「肉体関係」がふっきれていない気持ち悪さをどこかに感じてしまうのである。 肉親とは肉体関係である--ということをとことん書いて行けば、それはとてもおもしろいものになるのだと思うけれど。

殿岡秀秋『父のこたえ』は、散文的な、「意味」の強い作品か多い。そのなかにあって、巻頭の「霧の顔」は不思議である。
酔いすぎたあとの朝の目覚めは
透明な悲しさ
霧の水面に
さざなみがたち
底がゆれる
どこまでも沈めるようでいて
波間にただようしかない
ぼくの影はぼくの形から
女の長い髪が広がるように
はみ出している
湖の底に引き込まれそうな感じが腹のあたりにきて
波紋の先が喉にあたり
剃刀のようにあたって
剃られてくると
からだの芯が冷たくなる
このまま時間という湖に
浮いているのか
2連目の3行に驚いてしまった。殿岡の書いているイメージはイメージとしてそのまま思い描くことができるのだが、そのイメージと私のことばが重ならないのである。
湖に浮かんでいる「ぼく」。影ができる。それは湖底にできる。それをこの描写の「主役」は上空から見ている。ぼくは、ぼくの姿を上空から見る--という具合に想像している。「話者(主役)」は「ぼく」をみつめる「ぼく」という虚構である。
で、上空(中空)から見てみると、影が「ぼくの形から/女の長い髪が広がるように/はみ出している」。オフィーリアか誰かが水に浮かんでいる(流されている)感じを思い浮かべればいいのだろう。長い髪が水に浮かんで、上半身を囲むように、ふわりと広がる。
驚いたことはふたつある。ひとつは「ぼく」を「女」のなかでとらえている点である。「ぼく」は男なのだから、女の長い髪をもっていない。そういうもっていないものを「比喩」としてつかうときの意識の飛躍にびっくりした。比喩が殿岡の「肉体」を離れてしまっているのである。
二つ目は、いま書いたことと微妙に関係しているのだが、殿岡の比喩は「肉体」と離れたところで動いている。「ぼくの形」。「ぼくの肉体(からだ)」ではなく「形」。水に浮かんだ「ぼく」を、中空からみつめる「ぼく」は「肉体」ではなく「形」と見ている。抽象的なイメージそのものとしてみている。
うーん。
そのくせ--そのくせ、というのは、まあ、間違った言い方なのかもしれないけれど、3連目に「形」ではなく「肉体」が出てくる。「ぼく」は中空から「ぼく」をみつめるのではなく、水と直接触れ合っている。この「触覚」が、かなり鋭敏で、とてもおもしろい。1行目の「腹のあたり」から触覚が上に動いてくる。「波紋の先が喉にあたり/剃刀のようにあたって/剃られてくると」というのは、なにか、ぞくっと感じる恐怖がある。
死の影が色濃く漂っている。
「視覚」は「ぼく」を「ぼく以外の存在」に突き放し、つまり「女」や「形」に突き放し、「触覚」は「ぼく」を死へ引きずり込む。このへだたりが、とても不思議である。
触覚の世界はさらに動く。
波紋の先が喉にあたり
剃刀のようにあたって
剃られてくると
からだの芯が冷たくなる
この「芯が冷たくなる」の「芯」とは「肉体」でいうと、どのあたりになるのか。背骨かな? まあ、この4行だけをみれば(読めば)、背骨でもいいような気がするのだが、その前の1行「湖の底に引き込まれそうな感じが腹のあたりにきて」の「腹」を意識すると、背骨じゃないなあ、という感じになる。
腹からのぼってきて喉になったのだから、さらにのぼって首筋の裏(このあたりが冷たくなる、という感じ、ない?)か、脳の中心か、あるいは逆に喉から腹へ逆戻りし、さらに腹を通り超えて腰、あるいは性器のあたりか。
で、性器のあたり、つまり肉欲(死とは対極にあるのか、あるいは死を突き抜けて死そのものといっしょにあるのか--判断がむずかしいねえ)の中心だとすると、そのとき「ぼく」は男? それとも女? 男の肉体? 女の形?
何か矛盾したもの、あるいは両性具有のような感じが入り乱れる。
詩集には、父と母が何回も登場するが、(おじさんとか、親類の女の人も登場するが)、その両親(および親族)との関係が、ちょっと私にはつかみにくい。親族だから血はつながっているのだが、血というものは「肉体」の内部を動いていて、実際は「血の繋がり」というのは「頭」で整理した人間関係であって、実際に触れあうのは「肌」(肉体の表面)が中心だ。その「肌」というか「皮膚感覚」が、どうも「ぞくっ」とする。「べたっ」としていて、それが、あ、ちょっと離れて、といいたくなるような感じなのである。
湖の波紋と喉の関係なら、冷たくて象徴的で、死の比喩ともうまくなじんでくれるのだが、他の作品では皮膚感覚が比喩にならない。抽象的にならない。それはそれでいいのだろうけれど、先に書いたように、そこに男と女が融合すると、何か変な気持ちになる。
マザコン? ファザコン?
よくわからないが、親族との「肉体関係」がふっきれていない気持ち悪さをどこかに感じてしまうのである。 肉親とは肉体関係である--ということをとことん書いて行けば、それはとてもおもしろいものになるのだと思うけれど。
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