長田典子『翅音(はねおと)』(砂子屋書房、2008年08月05日発行)
「針都」は蝉の死骸を題材に書いている。
「痛い」が強烈である。死骸と認識しながら、こころは認識を裏切るように「生きている」と感じてしまう。そして、その感じてしまったこころが「痛い」ともう一歩動いていく。
蝉は他者である。長田ではない。その「痛み」は長田自身の痛みではない。長田自身の痛みではないけれど、長田自身のものとして感じてしまう。そしてこころが感じてしまうとき、痛いのはこころだけではなく、肉体も痛むのである。肉体が痛いのである。どこ、とは言えない。どことは言えないけれど、痛い。そういうことがあるのだ。
長田は、そのことを別のことばで言い換えている。
蝉は「死なない」。長田の肉体のなかで「痛み」として生きている。
長田は、他者の痛みに対する共感力が強いのだと思う。そして、「他者」というのは、実は、蝉のように誰が見ても長田とは別の存在のときもあれば、そうでないときもある。他人から見れば「長田自身」である、ということもある。「長田自身」なのに、長田はそれを「長田」とは感じない。
自分ではない自分--それを、長田はなんと呼ぶか。「こころ」と呼ぶ。「すがた」という作品のなかほど。
「こころ」を他者として発見してしまった長田。長田の「思想」は、この2行に結晶している。こころは自分の思い通りにならない。それは「他者」なのだ。そして、「他者」であるにもかかわらず、「他者」の痛みに共感する力がある長田は、その痛みに共感してしまう。
そこに、長田の辛さ、長田の真実がある。
*
言い直そう。書き直そう。
人は誰でも他者の痛みを感じてしまう能力を持っている。誰かが道に腹を抱えてうずくまっている。そうすると、あ、この人はおなかが痛いんだ。おなかが痛くて苦しんでいるのだ、と誰もが思う。他人のことなのに、たとえばその人が額に脂汗を流してうんうんうなっていれば、その痛みはたいへんなものなのだとわかってしまう。そういう能力(感受性)は誰にでもあるものだが、長田のその力は非常に強い。だから、蝉に対しても、死んでしまった蝉に対しても「痛い」を感じてしまう。
そして、たぶん、そういう能力が強すぎるために、自分の痛みを、こころの痛みを、本能的に切り離して「他者」の痛みと受け止めようとしてしまうのかもしれない。
道に倒れているひとの「痛み」は「痛み」と理解できても、実際にはわたしたちの肉体そのものが痛むわけではない。
ところが、こころの痛みは、どんなに「他者」の痛みと思ってみても、感じてしまう。ここに矛盾がある。つまり、思想がある。思想は常に矛盾の中にある。
自分の思い通りにならないから「こころ」は「他者」であると認識しても、その認識を裏切ってしまう。「他者」と認識した瞬間から、「他者」の痛みに対する共感力が動きはじめ、それがこころとは別のもの、つまり「身体」に作用する。「こころ」は「他者」であると認識する「頭脳」を裏切って、「身体」が痛みはじめるのだ。
これは、もう、どうすることもできない。
長田には「他者」の痛みに共感する特別な力が(度を越した力が)そなわっているのだと、長田自身を受け入れるしかないのだと思う。
この詩集は、そういう特別な力をどうやって長田が受け入れるようになったかをていねいに記録したものである。
「針都」は蝉の死骸を題材に書いている。
錆びた鉄屑みたいに
崩れて
黒土に染みていたが
羽根だけはもとのままだった
パズルから抜け落ちた破片がひとつ
葉裏で冷やされた風に震えながら
まだ 生きている
尖って 痛い
「痛い」が強烈である。死骸と認識しながら、こころは認識を裏切るように「生きている」と感じてしまう。そして、その感じてしまったこころが「痛い」ともう一歩動いていく。
蝉は他者である。長田ではない。その「痛み」は長田自身の痛みではない。長田自身の痛みではないけれど、長田自身のものとして感じてしまう。そしてこころが感じてしまうとき、痛いのはこころだけではなく、肉体も痛むのである。肉体が痛いのである。どこ、とは言えない。どことは言えないけれど、痛い。そういうことがあるのだ。
長田は、そのことを別のことばで言い換えている。
高層ビルの突き刺さる 寒い針の街が
赤々と 溶解しても
君は死なない
蝉は「死なない」。長田の肉体のなかで「痛み」として生きている。
長田は、他者の痛みに対する共感力が強いのだと思う。そして、「他者」というのは、実は、蝉のように誰が見ても長田とは別の存在のときもあれば、そうでないときもある。他人から見れば「長田自身」である、ということもある。「長田自身」なのに、長田はそれを「長田」とは感じない。
自分ではない自分--それを、長田はなんと呼ぶか。「こころ」と呼ぶ。「すがた」という作品のなかほど。
わたしには
痛いということと 身体ということと こころということが
結びつかない
(略)
こころは自分とはちがうものだ
だって自分の思い通りにならない
「こころ」を他者として発見してしまった長田。長田の「思想」は、この2行に結晶している。こころは自分の思い通りにならない。それは「他者」なのだ。そして、「他者」であるにもかかわらず、「他者」の痛みに共感する力がある長田は、その痛みに共感してしまう。
そこに、長田の辛さ、長田の真実がある。
*
言い直そう。書き直そう。
人は誰でも他者の痛みを感じてしまう能力を持っている。誰かが道に腹を抱えてうずくまっている。そうすると、あ、この人はおなかが痛いんだ。おなかが痛くて苦しんでいるのだ、と誰もが思う。他人のことなのに、たとえばその人が額に脂汗を流してうんうんうなっていれば、その痛みはたいへんなものなのだとわかってしまう。そういう能力(感受性)は誰にでもあるものだが、長田のその力は非常に強い。だから、蝉に対しても、死んでしまった蝉に対しても「痛い」を感じてしまう。
そして、たぶん、そういう能力が強すぎるために、自分の痛みを、こころの痛みを、本能的に切り離して「他者」の痛みと受け止めようとしてしまうのかもしれない。
道に倒れているひとの「痛み」は「痛み」と理解できても、実際にはわたしたちの肉体そのものが痛むわけではない。
ところが、こころの痛みは、どんなに「他者」の痛みと思ってみても、感じてしまう。ここに矛盾がある。つまり、思想がある。思想は常に矛盾の中にある。
自分の思い通りにならないから「こころ」は「他者」であると認識しても、その認識を裏切ってしまう。「他者」と認識した瞬間から、「他者」の痛みに対する共感力が動きはじめ、それがこころとは別のもの、つまり「身体」に作用する。「こころ」は「他者」であると認識する「頭脳」を裏切って、「身体」が痛みはじめるのだ。
これは、もう、どうすることもできない。
長田には「他者」の痛みに共感する特別な力が(度を越した力が)そなわっているのだと、長田自身を受け入れるしかないのだと思う。
この詩集は、そういう特別な力をどうやって長田が受け入れるようになったかをていねいに記録したものである。
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とても丁寧に読んでくださりありがとうございました。
嬉しくてありがたくて真剣に読ませていただきました。
また、書いてくださったことにより
逆に、自分で認識できたこともあります。
取り上げてくださり、心より嬉しく感謝申し上げます。