監督 ルカ・グァダニーノ 出演 ティルダ・スウィントン、ダコタ・ジョンソン、レイフ・ファインズ、マティアス・スーナールツ
特におもしろいわけではないが、見どころがふたつ。
ひとつはティルダ・スウィントンの演技。声帯を痛めたロック歌手。台詞がほとんど内。「肉体」で演技する。「ことば」を聞くよりも説得力がある。「意味」ではなく「感情」の説得力。目の色の変化が激しい。視線の届いている距離(焦点がどこにあたっているか)、何を見ているかによって、輝き方が違う。
レイフ・ファインズがティルダ・スウィントンを訪ねてくる。そのレイフを目当てに女が集まってくる。飲みながら歓談しているとき、女がレイフにじゃれつく。気に食わない。きっとにらみ、素足でテーブルの上のコップを落とす。足の動きでも怒りをあらわしているが、それ以上に目つきが厳しい。相手を突っぱねる。
マティアス・スーナールツに抱かれているときは、自分自身を見ている。自分の官能を見ている。視線は外へ出ていかない。
マティアスがダコタ・ジョンソンとセックスしたのではないかと疑うときは、マティアスの内部に視線が入っていく。脇腹の傷を見ながら、傷の「過去」を探る。足でコップを落としたときとは違う鋭さがある。鋭い何かがマティアスを傷つけるだけではなく、ティルダ自身をも傷つける。そういうことを自覚した、苦しい視線。
さらにおもしろいのが、マティアスがレイフを殺したとわかったあと。何もかもわかっていて、犯行を難民に押しつける。犯人は特定されないが、マティスは容疑者ではなくなる。その過程での、「嘘」を捏造する、「嘘」を発見するまでの、非常に緊張感に満ちた目。
そして、追いかけてきたパトカー(警官)が「嘘」に気付いたからではなく、ティルダのサインが欲しかったとわかったあとの、安堵の目。
ティルダの顔には贅肉がない。余裕がない。目の変化が顔全体に拡がり、顔そのものを別人にしてしまう。この七変化を見るのは、なんともいえない興奮である。特にレイフが殺されたあと、誰が犯人かわかり、わかった上で「嘘」をつく。その過程の動きにぐいぐい引きつけられる。
何も語らない。「ことば」がない。「ことば」にしなかったことを「目」(顔)が語りつづける。サスペンスが凝縮する。
こういう演技はイングリット・バーグマンのような美人ではないとできないと私は思っていた。美人が苦悩する顔というのはとてもセクシーである。かわいそう。でも、同時に、もっと苦しめ、もっと苦しめ。苦しむ顔が見たい、という欲情をそそる。
ティルダ・スウィントンは私の基準ではブス。ぎすぎすしていて、ひきつけられない。それなのに、いやあ、みとれてしまった。
もうひとつは、レイフ・ファインズの演技。ティルダ・スウィントンとは対照的にノーテンキ。体の中にあるものが、体のすみずみにまで広がって、さらにその外へまで広がっていく。女にモテル秘訣だね。それが一番よく出ているのが、ローリング・ストーンズ(だったかな?)の曲に合わせてダンスするシーン。ドラムの音が気に入らずに、ドラムのかわりにゴミバケツをつかっている、というような「裏話」をしながら、音楽そのもののなかに入っていく。音楽がレイフの体から弾き出てくる。上手いダンスではないと思うが、あ、こんなふうに踊ってみたいと誘われる。肉体が刺戟される。
ティルダ・スウィントンの目の変化は見たくない。見たくないけれど、見ると目が離せなくなる。映画ではなく「現実」なら「恐怖」である。
レイフ・ファインズのダンスは見たい。映画ではなく「現実」なら、ダンスを見る余裕などなく、私のからだがかってに踊りだすだろう。レイフ・ファインズのダンスのように、でたらめに、この音がうれしいといいながら。
(KBCシネマ2、2016年11月27日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
特におもしろいわけではないが、見どころがふたつ。
ひとつはティルダ・スウィントンの演技。声帯を痛めたロック歌手。台詞がほとんど内。「肉体」で演技する。「ことば」を聞くよりも説得力がある。「意味」ではなく「感情」の説得力。目の色の変化が激しい。視線の届いている距離(焦点がどこにあたっているか)、何を見ているかによって、輝き方が違う。
レイフ・ファインズがティルダ・スウィントンを訪ねてくる。そのレイフを目当てに女が集まってくる。飲みながら歓談しているとき、女がレイフにじゃれつく。気に食わない。きっとにらみ、素足でテーブルの上のコップを落とす。足の動きでも怒りをあらわしているが、それ以上に目つきが厳しい。相手を突っぱねる。
マティアス・スーナールツに抱かれているときは、自分自身を見ている。自分の官能を見ている。視線は外へ出ていかない。
マティアスがダコタ・ジョンソンとセックスしたのではないかと疑うときは、マティアスの内部に視線が入っていく。脇腹の傷を見ながら、傷の「過去」を探る。足でコップを落としたときとは違う鋭さがある。鋭い何かがマティアスを傷つけるだけではなく、ティルダ自身をも傷つける。そういうことを自覚した、苦しい視線。
さらにおもしろいのが、マティアスがレイフを殺したとわかったあと。何もかもわかっていて、犯行を難民に押しつける。犯人は特定されないが、マティスは容疑者ではなくなる。その過程での、「嘘」を捏造する、「嘘」を発見するまでの、非常に緊張感に満ちた目。
そして、追いかけてきたパトカー(警官)が「嘘」に気付いたからではなく、ティルダのサインが欲しかったとわかったあとの、安堵の目。
ティルダの顔には贅肉がない。余裕がない。目の変化が顔全体に拡がり、顔そのものを別人にしてしまう。この七変化を見るのは、なんともいえない興奮である。特にレイフが殺されたあと、誰が犯人かわかり、わかった上で「嘘」をつく。その過程の動きにぐいぐい引きつけられる。
何も語らない。「ことば」がない。「ことば」にしなかったことを「目」(顔)が語りつづける。サスペンスが凝縮する。
こういう演技はイングリット・バーグマンのような美人ではないとできないと私は思っていた。美人が苦悩する顔というのはとてもセクシーである。かわいそう。でも、同時に、もっと苦しめ、もっと苦しめ。苦しむ顔が見たい、という欲情をそそる。
ティルダ・スウィントンは私の基準ではブス。ぎすぎすしていて、ひきつけられない。それなのに、いやあ、みとれてしまった。
もうひとつは、レイフ・ファインズの演技。ティルダ・スウィントンとは対照的にノーテンキ。体の中にあるものが、体のすみずみにまで広がって、さらにその外へまで広がっていく。女にモテル秘訣だね。それが一番よく出ているのが、ローリング・ストーンズ(だったかな?)の曲に合わせてダンスするシーン。ドラムの音が気に入らずに、ドラムのかわりにゴミバケツをつかっている、というような「裏話」をしながら、音楽そのもののなかに入っていく。音楽がレイフの体から弾き出てくる。上手いダンスではないと思うが、あ、こんなふうに踊ってみたいと誘われる。肉体が刺戟される。
ティルダ・スウィントンの目の変化は見たくない。見たくないけれど、見ると目が離せなくなる。映画ではなく「現実」なら「恐怖」である。
レイフ・ファインズのダンスは見たい。映画ではなく「現実」なら、ダンスを見る余裕などなく、私のからだがかってに踊りだすだろう。レイフ・ファインズのダンスのように、でたらめに、この音がうれしいといいながら。
(KBCシネマ2、2016年11月27日)
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