goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小池昌代『怪訝山』

2010-05-20 23:53:57 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『怪訝山』(講談社、2010年04月26日発行)

 小池昌代『怪訝山』は何を書こうとしているのだろう。「怪訝山」の最初の部分に、小池の書きたいことが集約されていると思う。

 蛍光灯が一本切れていて、オフィスのなかはいつもよりも薄暗い。美枝子もイナモリもそれに気づいてはいるが、取替えようという意欲がわかない。誰かがやるだろう。それは明日の自分かもしれないが、いまこのときの自分ではない。

 「いまこのとき」--これが小池の向き合っているものだ。書こうとしているものだ。「いま」というのは誰にでもある。けれど、その「いま」とは何だろう。「いま」の何を知っているだろう。より正確に言えば、「いまこのときの自分」、「いま」と「自分」の関係について何を知っているだろう。あるいは「とき」と「自分」の関係について何を知っているだろう。
 もしかすると、「自分」と誰かを隔てているのは「とき」なのではないだろうか。「いまこのとき」というのは、それぞれの人間にあって、それは同じではないのではないのか。
 これは、奇妙な感じかもしれない。けれど、それぞれに「いま」(いまこのとき)というのは違うのである。

「イナモリさんが、繰り返し見るのは、どんな夢ですか」
「母親が死んだ夢。おふくろはとっくに死んでいない。でも何回も夢に見る。まだ、しんでいないみたいに。あ、そういうことなのか」
 自分で言ってイナモリはとっとした。
「おふくろは死んだが、まだ死んでいない……」

 「おふくろは死んだ」というのは「過去」である。「まだ死んでいない」は「いまこのとき」である。母を思う、「いまこのとき」、その「思う」というなかに母は生きている。
 「いまこのとき」というのは、単なる過去-現在(いま)-未来のなかの一瞬ではない。それは、いわゆる「直線的に流れる時間」の一点ではない。それは「思う」という意識に深くからみついている時間である。「おふくろは死んだ」と「思う」、その「いまこのとき」、おふくろが死んだのは「過去」であるがゆえに、「いまこのとき」それを思い出すことができる。思うことができる。
 最初の引用部分で美枝子が切れた蛍光灯を見ている、そのとき。美枝子は、それを取り替えようとは思わない(意欲がわかない)。そういうときの「いまこのとき」。その「思う」の空白の時間……。

 「いまこのとき」の「とき」は空白なのである。空白であるから、それはあるときは「過去」をも「いま」にしてしまう。そこでは時間は直線的には流れず、思うときに、その瞬間に浮かび上がって存在するのである。立ち現れてくるのである。

 そして、この「いまこのとき」を小池は「思う」と同時に「肉体」にもかえていく。「思う」自体が空白なのだから、そこを埋めるのはほんとうは「思い」ではないのだ。イナモリが死んだ母を思うのも、真剣な(?)思い、というか、いわゆる「思考」ではない。何かを一つ一つ積み重ねていく思考ではない。ぼんやりした全体--いわば、母の「肉体」のようなものである。母は生きているというとき、そこには母の肉体があるということだ。単に母の感情(たとえば「やさしさ」)、あるいは「思考」ではなく、母が肉体そのものとして思い出されているのだと思う。

 思いの空白--その空白としての「いまこのとき」。そこにあるのは、「肉体」である。蛍光灯が切れていると思っているとき、その思いなどというのはぼんやりしている。はっきりしているのは「肉体」である。なにもしようとしない「肉体」がある。
 死んだ母を思うときも、それは思いがあるというより、その「思い」を抱え込んだあいまいな「肉体」が「いまこのとき」、そこにあるということかもしれない。

 「いまこのとき」の「肉体」。イナモリとコマコのセックスに、そのときの「肉体」の感覚が書かれている。

 コマコという女は、なにかしら、すべてが巨きい。中へ入ると、ずぼずぼとおぼれ、自分がとても小さなものとなる。イナモリは、コマコの体をとして、ここではないどこか向こう側へ、運ばれていくような感覚にしびれた。達したあとの脱力のなか、身を横たえていると、ごろりと等身大の生身が戻ってきて、そのだるさも、決していやでなかった。

 「いまこのとき」、それは「等身大の生身が戻って」きたときの感じなのだ。何も思わない。「思い」は「等身大の生身」そのものとぴったり重なってしまっている。そして、それは「ここではないごとか」へ行ってきた肉体である。
 「いまこのとき」は、どこへでもつながっている。「等身大の生身」は、その「どこか」では等身大を超えているのだが、「いまこのとき」は等身大である。
 わけのわからない往復--それを身体はしてしまう。そして、その身体があるとき、それが「いまこのとき」である。

 この等身大の生身--そのものから「いまこのとき」を見つめなおすとどうなるだろう。コマコからのセックス、コマコが見たセックスは次のように描かれる。

「あたしはもう妊娠しないよ。ヘーケイしたから。ヘーケイすると、女は山になるんだよ。深い野山さ。だからもう、遠慮はいらないよ。わけいって、わけいって、深く入っておいで。さあさあ、おいでよ、どんどんなかへ。もうあたしは産まない。突き当たりさ。突き当たったところの、山の入り口さ」

 どんどん入っていくと、突き当たると、そこが「入り口」。
 この矛盾。
 この矛盾こそが、「いまこのとき」なのだ。それはどこにでも通じている。だから、どこにも通じていない。過去にも未来にも通じていない。通じているのは、身体がかかえる「思い」、その「思い」が動いていく「時間」なのである。過去でも未来でもないから過去でも未来でもある。
 何もかもを融合させて、つないでしまう。つなぐことで切り離してしまう。その矛盾した「至福」。それが「いまこのとき」なのだ。



怪訝山
小池 昌代
講談社

このアイテムの詳細を見る

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 北川透『わがブーメラン乱帰... | トップ | 北川透『わがブーメラン乱帰... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

その他(音楽、小説etc)」カテゴリの最新記事