監督 パトリス・ルコント 出演 ダニエル・オートゥイユ、ダニー・ブーン、ジュリー・ガイエ
私はこの映画がどうにも好きになれない。映像の愉悦がない。
たとえば「髪結いの亭主」。男が「髪結いの亭主」になりたいという夢を持っている。それは口に出すとみっともない夢かもしれない。こどものとき、主人公は「髪結いの亭主になりたい」と言って、父親から殴られる。男なら、そんな夢なんか持つな、もっと大志を抱け、ということだろう。
しかし、叱られても、ばかにされても、男はその夢を実現してしまう。しかも、「髪結い」が色っぽい。美人である。やさしい肌の感触、甘い(?)匂い。そのなかで、男はうっとりと生きているよろこびを感じる。アラブの音楽にあわせて(つまり、ここではない、異国の、ということだ)、ただただ気持ちよさそうに踊る。そのシーンが非常に美しい。男のよろこびが空気にとけだしてゆく。光になじんでゆく。
いいなあ。
「髪結いの亭主」になって、そんなふうに、何もせず、自分の愉悦にひたるのはどんなに気持ちがいいだろう。そして、そういう気持ちのいい感じをひとに見せつけるのはどんなにしあわせなことだろう。そこには、「意味」を超越した、ふしぎな美しさがあった。
「仕立屋の恋」にも、ふしぎな色っぽさがある。ちびで、禿で、中年。その男が美しい女に恋をする。窓際で、そっと女に近づいて行く。そのとき、窓から入ってくる光のなかで、女の首筋が、耳が、肩が、やわらかな髪が匂う。近づくと危険--というのは、女が危険な女であるという意味ではない。拒絶される危険--そういうものが、ふわっと匂ってきて、男はぎりぎりのところで踏みとどまる。その悲しみのように、音楽が(アナログのレコードのやわらかな響きよ)流れる。
いいなあ。
こいうどきどきを味わってみたいなあ。
「意味」を超えて、愉悦へ誘う映像の甘い甘い感じ。それがルコントの映画にはあった。私はそういう甘ったるい、軟弱な映像が好きだ。自分でそういう映像を撮るとしたらきっと恥ずかしい。その恥ずかしさを超越して、そこで誘っている甘い甘い愉悦--それが好きだ。
それが、今回の映画にはない。
強いてあげれば、「ミリオネラ」のクライマックスで、主人公の二人が番組とは無関係に逸脱していくシーンがそれにあたるのかもしれないが、なんだかなあ。そこには、愉悦とは逆の「理」がある。「感」ではなく、「理」。「理性」でうごく人間。そのとき、「肉体」が悲しむ。その感じが、まあ、魅力的といえばいえるんだろうけれど、これを「説明」しているから、私は、とてもいやな気分になったのだと思う。テレビのディレクターがモニタールームへ駆け込んできて「視聴率が突然アップした」とかなんとか。こんな「説明」をしないと、二人の演技、そのやっていることが伝わらない--そう考えるルコントの意識によって、映像がずたずたになっている。そう思った。
ストーリーそのものも嫌いだ。最初から不幸に見えるダニー・ブーンもよくない。私には彼が少しも「シンパティク」に見えない。滲み出てくる明るさがない。不幸な二人が慰め合う--結果的にそんな感じになってしまう友情というのは、なんだかとても気持ちが悪いのである。
私はこの映画がどうにも好きになれない。映像の愉悦がない。
たとえば「髪結いの亭主」。男が「髪結いの亭主」になりたいという夢を持っている。それは口に出すとみっともない夢かもしれない。こどものとき、主人公は「髪結いの亭主になりたい」と言って、父親から殴られる。男なら、そんな夢なんか持つな、もっと大志を抱け、ということだろう。
しかし、叱られても、ばかにされても、男はその夢を実現してしまう。しかも、「髪結い」が色っぽい。美人である。やさしい肌の感触、甘い(?)匂い。そのなかで、男はうっとりと生きているよろこびを感じる。アラブの音楽にあわせて(つまり、ここではない、異国の、ということだ)、ただただ気持ちよさそうに踊る。そのシーンが非常に美しい。男のよろこびが空気にとけだしてゆく。光になじんでゆく。
いいなあ。
「髪結いの亭主」になって、そんなふうに、何もせず、自分の愉悦にひたるのはどんなに気持ちがいいだろう。そして、そういう気持ちのいい感じをひとに見せつけるのはどんなにしあわせなことだろう。そこには、「意味」を超越した、ふしぎな美しさがあった。
「仕立屋の恋」にも、ふしぎな色っぽさがある。ちびで、禿で、中年。その男が美しい女に恋をする。窓際で、そっと女に近づいて行く。そのとき、窓から入ってくる光のなかで、女の首筋が、耳が、肩が、やわらかな髪が匂う。近づくと危険--というのは、女が危険な女であるという意味ではない。拒絶される危険--そういうものが、ふわっと匂ってきて、男はぎりぎりのところで踏みとどまる。その悲しみのように、音楽が(アナログのレコードのやわらかな響きよ)流れる。
いいなあ。
こいうどきどきを味わってみたいなあ。
「意味」を超えて、愉悦へ誘う映像の甘い甘い感じ。それがルコントの映画にはあった。私はそういう甘ったるい、軟弱な映像が好きだ。自分でそういう映像を撮るとしたらきっと恥ずかしい。その恥ずかしさを超越して、そこで誘っている甘い甘い愉悦--それが好きだ。
それが、今回の映画にはない。
強いてあげれば、「ミリオネラ」のクライマックスで、主人公の二人が番組とは無関係に逸脱していくシーンがそれにあたるのかもしれないが、なんだかなあ。そこには、愉悦とは逆の「理」がある。「感」ではなく、「理」。「理性」でうごく人間。そのとき、「肉体」が悲しむ。その感じが、まあ、魅力的といえばいえるんだろうけれど、これを「説明」しているから、私は、とてもいやな気分になったのだと思う。テレビのディレクターがモニタールームへ駆け込んできて「視聴率が突然アップした」とかなんとか。こんな「説明」をしないと、二人の演技、そのやっていることが伝わらない--そう考えるルコントの意識によって、映像がずたずたになっている。そう思った。
ストーリーそのものも嫌いだ。最初から不幸に見えるダニー・ブーンもよくない。私には彼が少しも「シンパティク」に見えない。滲み出てくる明るさがない。不幸な二人が慰め合う--結果的にそんな感じになってしまう友情というのは、なんだかとても気持ちが悪いのである。