J・J・エイブラムス監督「スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け」(★★)
監督 J・J・エイブラムス 出演 デイジー・リドリー、アダム・ドライバー、ジョン・ボイエガ、オスカー・アイザック
正確にはどう言ったのかわからないが、映画の後半に興味深いセリフが出てくる。「スピリット」と「ハート」をつかいわけている。主役のレイ(デイジー・リドリー)に対して、人間には「スピリット」は「ハート」がある、と言う。レイア姫だったか、ルークだったか、忘れてしまった。これは、言い直すと「ハート」があれば、人間は(レイは)ダークサイトには落ちない、という「予言」である。「ハート」を生きろという教えである。
そうか。「スピリット」と「ハート」は、そういう具合につかいわけるのか。
たぶん「科学」なども「ハート」でつくるのではなく、「スピリット」で切り開いてくものなのだろう。研ぎ澄まされた力。それは両刃の刃で、良い面もあるが危険な面もある。「ダスベーダー」は「ハート」を欠いているために、ダークサイトに落ちた。
このときの「ハート」というのは、もう少し説明がいるだろう。たぶん、「愛」と言い直せばわかりやすくなる。そこには「憎しみ」は入っていない。私は単純な人間だから愛も憎しみも「こころ」の動きだと思うが、英語の感覚(ディズニーの感覚?)では「ハート」は「愛」なのだ。
それを象徴するの「論理」と「シーン」が最後に二つ用意されている。ダスベーダーの親分(?)、パルパティーンが出てきて、レイに対して「俺を殺せ、憎んで殺せ。そうすればお前はダークサイトに落ちる。暗黒の支配者になれる」というようなことを言う。「憎しみ」がダークサイトにつながっている。「殺し」はどうしたって、どこかに「憎しみ」を含む。
じゃあ、どうやって、その「縁」を断ち切るか。パルパティーンが繰り出す雷光のようなものを、レイはライトセーバーを十字に組み合わせて(キリストだね、笑ってしまうけれど)、その中心で反射させてしまう。パルパティーンはみずからの憎しみ(怒り)の「反射」で死んでしまう。レイはその死に直接関与していない。(詭弁だね。)だから、レイはダークサイトには落ちない。
さらにパルパティーンとの闘いで死んでしまったレイをカイロ・レン(アダム・ドライバー)が自分のいのちを吹き込むことでよみがえらせる。キスシーンもある。これが「愛」。いかにもディズニーである。
で、これを「ふたり」の物語ではなく、宇宙の物語にする。そのとき映画の最初につかわれていたことば「共生」がよみがえる。「愛とは共生である」。
まあ、いいんだけれどね。映画だから。でも、映画だからこそ、「愛」とか「共生」なんてものはぶっ壊して「ダークな力」のなまなましさを展開して見せるというあり方もあっていいんじゃないかねえ。「ジョーカー」がそうであったように。だいたい、第一作の「スターウォーズ」がヒットしたのは、なんといってもダスベーダーの力だな。何だかわからない(セリフなんか聞こえない、息づかいだけ)けど、かっこいい。誰も傷つけない「共生」の世界は、理想かもしれないけれど、味気ないと思うよ。
映画が「論理」になってしまっては、映画の意味がない。
それにしても、42年前とは違って映画制作技術はどんどん発達しているか、宇宙船がやたらと出てくる。うるさすぎて、おもしろくない。もっと省略しても「量」を感じさせるのでないと、なんだか逆に「手抜き」に見えてしまう。工夫が足りない。それもつまらない理由だな。「おもちゃ」が減ったのもつまらないね。
でも、まあ、これで「スターウォーズ」を見なくてすむと思うと一安心。「サイドストーリー」はこれからもつくられるだろうけれど。
(2019年12月20日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ・スクリーン13)
監督 J・J・エイブラムス 出演 デイジー・リドリー、アダム・ドライバー、ジョン・ボイエガ、オスカー・アイザック
正確にはどう言ったのかわからないが、映画の後半に興味深いセリフが出てくる。「スピリット」と「ハート」をつかいわけている。主役のレイ(デイジー・リドリー)に対して、人間には「スピリット」は「ハート」がある、と言う。レイア姫だったか、ルークだったか、忘れてしまった。これは、言い直すと「ハート」があれば、人間は(レイは)ダークサイトには落ちない、という「予言」である。「ハート」を生きろという教えである。
そうか。「スピリット」と「ハート」は、そういう具合につかいわけるのか。
たぶん「科学」なども「ハート」でつくるのではなく、「スピリット」で切り開いてくものなのだろう。研ぎ澄まされた力。それは両刃の刃で、良い面もあるが危険な面もある。「ダスベーダー」は「ハート」を欠いているために、ダークサイトに落ちた。
このときの「ハート」というのは、もう少し説明がいるだろう。たぶん、「愛」と言い直せばわかりやすくなる。そこには「憎しみ」は入っていない。私は単純な人間だから愛も憎しみも「こころ」の動きだと思うが、英語の感覚(ディズニーの感覚?)では「ハート」は「愛」なのだ。
それを象徴するの「論理」と「シーン」が最後に二つ用意されている。ダスベーダーの親分(?)、パルパティーンが出てきて、レイに対して「俺を殺せ、憎んで殺せ。そうすればお前はダークサイトに落ちる。暗黒の支配者になれる」というようなことを言う。「憎しみ」がダークサイトにつながっている。「殺し」はどうしたって、どこかに「憎しみ」を含む。
じゃあ、どうやって、その「縁」を断ち切るか。パルパティーンが繰り出す雷光のようなものを、レイはライトセーバーを十字に組み合わせて(キリストだね、笑ってしまうけれど)、その中心で反射させてしまう。パルパティーンはみずからの憎しみ(怒り)の「反射」で死んでしまう。レイはその死に直接関与していない。(詭弁だね。)だから、レイはダークサイトには落ちない。
さらにパルパティーンとの闘いで死んでしまったレイをカイロ・レン(アダム・ドライバー)が自分のいのちを吹き込むことでよみがえらせる。キスシーンもある。これが「愛」。いかにもディズニーである。
で、これを「ふたり」の物語ではなく、宇宙の物語にする。そのとき映画の最初につかわれていたことば「共生」がよみがえる。「愛とは共生である」。
まあ、いいんだけれどね。映画だから。でも、映画だからこそ、「愛」とか「共生」なんてものはぶっ壊して「ダークな力」のなまなましさを展開して見せるというあり方もあっていいんじゃないかねえ。「ジョーカー」がそうであったように。だいたい、第一作の「スターウォーズ」がヒットしたのは、なんといってもダスベーダーの力だな。何だかわからない(セリフなんか聞こえない、息づかいだけ)けど、かっこいい。誰も傷つけない「共生」の世界は、理想かもしれないけれど、味気ないと思うよ。
映画が「論理」になってしまっては、映画の意味がない。
それにしても、42年前とは違って映画制作技術はどんどん発達しているか、宇宙船がやたらと出てくる。うるさすぎて、おもしろくない。もっと省略しても「量」を感じさせるのでないと、なんだか逆に「手抜き」に見えてしまう。工夫が足りない。それもつまらない理由だな。「おもちゃ」が減ったのもつまらないね。
でも、まあ、これで「スターウォーズ」を見なくてすむと思うと一安心。「サイドストーリー」はこれからもつくられるだろうけれど。
(2019年12月20日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ・スクリーン13)