田中清光
『風景は絶頂をむかえ』(思潮社、2007年05月25日発行)。
「雪のフーガ」の2連目で私は立ち止まってしまう。
「いくらそこに近づこうとしても」の「そこ」。「そこ」って、どこ? 普通の文章ならば「そこ」が指し示す場所は、「そこ」の前に書かれている。ある場所が明示されて、そのあとで「そこ」と指示される。そうしないと、「そこ」がどこであるかわからない。田中は、そういう日本語の基本的な「文法」を破っている。その「文法」の破れ目に、私はつまずく。(「この世」の「この」は私たちが生きている世界を指すときの「この」であることと対比すると、「そこ」の不自然さがわかると思う。)
「文法」を破ったあとは、破れ目を取り繕う。破れ目が残ったままではことばはつづかないからである。
田中は「そこ」を、「その中心--心臓には」と言い直す。「その中心--心臓には」とは、「その心臓には」という意味になるだろう。「そこ」とは「その心臓」ということになる。
だが、ここにも「文法」の破れ目がある。「その中心--心臓には」の「その」は何? 「雪に蔽われる」前の「この世」? それとも「雪に蔽われ」たあとの「別世界」? 「その」が指し示す「存在」が何かよくわからない。「この世」の「この」との対比から言えば、「その」は雪によって一変した「別世界」を指しているのかもしれない。
もしそうであるなら。
「一変してしまうけれど」の「けれど」は、どういう意味だろうか。
雪で覆われてしまえば、「その中心」はほんとうなら近づきやすいはずなのに、なぜだかわからないが「その中心」に届かない、ということなのだろうか。
そこには何か論理的にも「別」なものが働いているというのだろうか。
(「その」が「雪に蔽われる」前の「この世」を指し、そこへ雪の「白い目」「耳」などが近づこうとしても届かないというのであれば、「けれど」は「文法的」におかしい。雪に蔽われた世界の中心は、まず雪を払いのければ届かないのは常識であり、そこに「けれど」という「逆説」が入り込む場所はない。)
たぶん田中は「別」世界を描こうとしているのである。
そして、その「別」世界の「別」である理由は田中にはわかっている。わかっているけれど、説明することばがない。「別」世界が田中特有の問題であり、それを読者と共有するためのことばを簡単には見つけられない。「そこ」ということばで仮に指し示しておいて、それから、まだ言語化されていない「別」世界へと静かに静かに接近していこうとしているようでもある。
田中は何ごとかを知っている。納得している。そして、それを具体的に説明することばを今はもっていない。しかし、語りたい。そういう欲求が田中のことばを動かしている。書き出しの3行が象徴的だ。
「劫初」。この世の初め。仏教用語。
最初から、田中自身の哲学にもとづいてことばが出てきている。雪を見て、そこからことばが動きはじめ、思いを作り上げていくのではない。雪を見て、その雪を田中の知っている哲学(宗教、精神)のことばと向き合わせ、ことばを動かしている。
「別」世界は、田中のなかにすでにある。その「別」世界のなかで、「別」世界のことばではとらえられていないもの、たとえば「白い目」「白い耳」「白い鼻」「白い舌」という「風景の肉体」、その中心の「心臓」--そういうものへ向かってことばを動かしていく。
「その」はしたがって「劫初」であり、また「そこ」も「劫初」である。
田中は「劫初」というものがあることを知っている。ただし、その知っているは「頭」で知っている、知識として知っているという意味だ。田中自身が体験の中から体得したものではなく、どこかからか学んだものだ。
そして、いま田中は、その知っているものを「頭」のことばではなく、田中自身の「肉体」のことばとしてとらえ直すために詩を書いている。そういうこころの動きが、たとえば「白い目」「耳」「鼻」「舌」「心臓」に託されている。
田中自身の肉体と、世界の肉体(自然)を向き合わせることで、「頭」で学んできた知識、知識としての「劫初」を洗い直し、田中自身の「この世の初め」をつかみとろうとしている。
そうした緊迫したリズムを、田中の詩に感じる。
「この世の初め」というものがどういうものか私は知らないが、たとえば次の行は「この世の初め」として、とても美しいと思う。
「出会い」。それが「初め」なのだと思う。田中のことばから、「出会い」が「この世」の初めであると、私は教えられた。
「雪のフーガ」の2連目で私は立ち止まってしまう。
この世は雪に蔽われると
清らかな別世界に一変してしまうけれど
地上の白い目 白い耳 白い鼻 白い舌たちが
いくらそこに近づこうとしても
その中心--心臓には
けして届くことができない
「いくらそこに近づこうとしても」の「そこ」。「そこ」って、どこ? 普通の文章ならば「そこ」が指し示す場所は、「そこ」の前に書かれている。ある場所が明示されて、そのあとで「そこ」と指示される。そうしないと、「そこ」がどこであるかわからない。田中は、そういう日本語の基本的な「文法」を破っている。その「文法」の破れ目に、私はつまずく。(「この世」の「この」は私たちが生きている世界を指すときの「この」であることと対比すると、「そこ」の不自然さがわかると思う。)
「文法」を破ったあとは、破れ目を取り繕う。破れ目が残ったままではことばはつづかないからである。
田中は「そこ」を、「その中心--心臓には」と言い直す。「その中心--心臓には」とは、「その心臓には」という意味になるだろう。「そこ」とは「その心臓」ということになる。
だが、ここにも「文法」の破れ目がある。「その中心--心臓には」の「その」は何? 「雪に蔽われる」前の「この世」? それとも「雪に蔽われ」たあとの「別世界」? 「その」が指し示す「存在」が何かよくわからない。「この世」の「この」との対比から言えば、「その」は雪によって一変した「別世界」を指しているのかもしれない。
もしそうであるなら。
「一変してしまうけれど」の「けれど」は、どういう意味だろうか。
雪で覆われてしまえば、「その中心」はほんとうなら近づきやすいはずなのに、なぜだかわからないが「その中心」に届かない、ということなのだろうか。
そこには何か論理的にも「別」なものが働いているというのだろうか。
(「その」が「雪に蔽われる」前の「この世」を指し、そこへ雪の「白い目」「耳」などが近づこうとしても届かないというのであれば、「けれど」は「文法的」におかしい。雪に蔽われた世界の中心は、まず雪を払いのければ届かないのは常識であり、そこに「けれど」という「逆説」が入り込む場所はない。)
たぶん田中は「別」世界を描こうとしているのである。
そして、その「別」世界の「別」である理由は田中にはわかっている。わかっているけれど、説明することばがない。「別」世界が田中特有の問題であり、それを読者と共有するためのことばを簡単には見つけられない。「そこ」ということばで仮に指し示しておいて、それから、まだ言語化されていない「別」世界へと静かに静かに接近していこうとしているようでもある。
田中は何ごとかを知っている。納得している。そして、それを具体的に説明することばを今はもっていない。しかし、語りたい。そういう欲求が田中のことばを動かしている。書き出しの3行が象徴的だ。
しんしんと凍み亙(わた)る冬の寒気の底のほうでは
劫初からの風の音が
ひくく唸りつづけている
「劫初」。この世の初め。仏教用語。
最初から、田中自身の哲学にもとづいてことばが出てきている。雪を見て、そこからことばが動きはじめ、思いを作り上げていくのではない。雪を見て、その雪を田中の知っている哲学(宗教、精神)のことばと向き合わせ、ことばを動かしている。
「別」世界は、田中のなかにすでにある。その「別」世界のなかで、「別」世界のことばではとらえられていないもの、たとえば「白い目」「白い耳」「白い鼻」「白い舌」という「風景の肉体」、その中心の「心臓」--そういうものへ向かってことばを動かしていく。
「その」はしたがって「劫初」であり、また「そこ」も「劫初」である。
田中は「劫初」というものがあることを知っている。ただし、その知っているは「頭」で知っている、知識として知っているという意味だ。田中自身が体験の中から体得したものではなく、どこかからか学んだものだ。
そして、いま田中は、その知っているものを「頭」のことばではなく、田中自身の「肉体」のことばとしてとらえ直すために詩を書いている。そういうこころの動きが、たとえば「白い目」「耳」「鼻」「舌」「心臓」に託されている。
田中自身の肉体と、世界の肉体(自然)を向き合わせることで、「頭」で学んできた知識、知識としての「劫初」を洗い直し、田中自身の「この世の初め」をつかみとろうとしている。
そうした緊迫したリズムを、田中の詩に感じる。
「この世の初め」というものがどういうものか私は知らないが、たとえば次の行は「この世の初め」として、とても美しいと思う。
地上の緑の氾濫は
誰をも救助しないが
野の道で
一輪のヤマユリが待っていた
「出会い」。それが「初め」なのだと思う。田中のことばから、「出会い」が「この世」の初めであると、私は教えられた。