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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(18)

2014-07-09 08:32:09 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(18)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「からたちの花」。失恋して落ち込んでいたときに詩人の友人が花見に誘ってくれた。池井は酔いしれて、

「からたちの花」を大声で歌った。歌い終え腰を下ろすと、闇の周
囲から拍手が起きた。それは思い掛けない万雷の拍手だった。心の
閊えが一度にとれて、涙ぐましい気持ちになった。やさしさに包ま
れていると思った。

 ということがあった。それから年月がすぎ、友人は妻を亡くし、再婚し、さらに妻を亡くすということがあった。

  長い長い、長い歳月が過ぎたのだ。人は往き、人は生れ、町は
刻々変貌し、けれど私は変わらない。「からたちの花」を歌ってい
る。心の中でのことなのだから、振り向くものは誰もいない。みな
俯いて背を向けて、魔法の小箱を覗き込み、いっしんふらん、彷徨
うばかり。それにしても、と思うのだ。あの大勢のあの拍手、あの
ものたちは誰だったのか。何処へ失せたのか。心の中のことだけれ
ども、みんなみんな、やさしかったよ。

 これは最後の部分だが、「けれど私は変わらない」が池井の思想(肉体)である。町は変わる。ひとの動きも変わる。でも、池井の「肉体」は池井の「肉体」のまま、ずっとつづいている。年月を重ね、年をとっても池井の「肉体」はそのまま池井である。
 わかりきったことか。
 しかし、わかりきったことが思想であり、詩である。わかりきらないことを、発見した新しいこと、自分の個性が見つけ出した何かみたいに書けば詩になる、思想になるという風潮があるが、そうではなく変わらないものを変わらないまま、変わらないことばで書くのが思想であり、詩というものだと私は最近思っている。
 わかりきっているのは、それが「必然」だからである。変わらないのは、やはりそれが「必然」だからである。そして、その「必然」は、「心の中」にある。「心の中」にあるから「思想」という。(私は「こころ」と「肉体」とを区別しないので、「思想」を「肉体」と呼ぶことがある。)
 池井は二度書いている。

心の中でのことなのだから

心の中でのことだけれど

 「心の中」の「こと」とは何か。
 池井が「からたちの花」を歌い、その歌を聞いた花見の客が拍手をした。--それは、どういうことなのか。池井には、そのとき鬱屈があった。どう表現していいかわからず、ただ声を張り上げて歌を歌った。聞いた人は、池井の鬱屈(その歌にこめた思い)は知らない。ただ、池井が何らかの思いを抱いて、声を張り上げて歌を歌っているという「こと」はわかる。歌っているという「こと」がわかるとき、また池井が何らかの思いを抱いているという「こと」もわかる。そのとき、叙事(歌っているということ)が抒情(歌に思いを託しているということ)にかわり、その抒情のなかで、人は、一体になる。
 思っている「こと」は正確にわからなくても(だいたい他人の思いなどは正確にはわからない)、そこに起きている「こと」に触れて、思っていく「こと」の方へ近づいていく。このとき、人は自分の「こころのこと」を少し忘れる。自分の「こころのこと」を少し忘れて、他人の(池井の)「こころのこと」を少し考える。
 他人のこころのことを考える--これを池井は「やさしい」と定義している。
 この「やさしい」の定義は、昔からかわらない。誰が考えても「やさしい」の定義はそこへ落ち着く。--この「必然」の思考、それが「思想」というものだ。

やさしさに包まれていると思った。

みんなみんな、やさしかったよ。

 「心の中でのこと」と同じように「やさしい」も二度繰り返されている。繰り返すことで、池井は、それを、「思いつき」ではなく、いつも考えていること(思想)にする。思想は、同じことばを繰り返すことでたしかなものになる。池井は繰り返すことで、それをたしかなものに「する」。
 と、考えると「思想」というものが、いかに平凡で、ありきたりなものであるかがわかる。逆に言うと、平凡で、ありきたりでないものは思想ではないとさえ言える。平凡で、ありきたりで、わかりきったこと以外を、人は他人とは共有できない。
 さらに言うと、どんなことばも平凡でありきたり、わかりきったことにならないかぎり思想とは言えない。そういう意味で、私は20世紀最大の思想家はボーボワールであると考えている。「女は女に生まれるのではない。女になるのだ」ということばで男女の不平等をボーボワールは告発した。マルクスのことばも毛沢東のことばも、ボーボワールの主張のように誰にでも共有はされていない。一部の日本の政治家は、まだ20世紀以前を生きているが、ふつうの市民はボーボワール以後を生きている。ボーボワールを忘れてしまって、男女平等を平凡でありきたりな、わかりきったことだと思っている。
 脱線したが。
 池井の詩のすごみは「必然」ゆえの平凡にある。60歳過ぎの、失恋と、「からたちの花」を歌ったときの思い出、それ以後の友人とのつきあいを、ただ書いただけのことばのすごみは、そういうことをただ書いてしまうということにある。あのとき、ひとのやさしさを感じた。--それが、どうした、と言えば、たしかにそれがどうした、である。しかし、世の中には「それがどうした」しかない。「それがどうした」を自分を整える力として人はそれぞれに「肉体」にしている。
 池井は「けれど私は変わらない」と書いていたが、ほんとうは「私は変えない」である。「やさしさ」の定義、あのとき感じた「やさしさ」を「やさしさ」と呼ぶ--その定義を変えずに生きている、と書いている。




冠雪富士
池井 昌樹
思潮社

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