6月5日の「日記」に貞久秀紀「数のよろこび」の感想を書いた。読んだ貞久からはがきが届いた。
「思わぬところから」。
私は実は作者の「思わぬところ」に思想があると思っている。きのう17日の日記のつづきを書いておく。
新川和江は「水の中の城」を新川自身で解説して、
と書いていた。最後の4行が新川自身が書きたかったもの、意識的に書いた「思想」である。それはそれ自体としてとても美しく書かれている。なるほどと納得する。感動もする。
それはたしかに「思想」ではあるのだけれど、私が考えている「思想」はもっと別にある。
新川は彼女自身で「詩のポイントは結びの四行」と明確に意識している。つまり、その4行は意識的に書かれたことばなのである。書かれたことばが新川の考えていることと寸分違わぬよう、何度も何度も書き直したかもしれない。そして新川自身が書いているように、その4行がくっきりと立ち上がるように、それ以前のことばを4行のための「絵地図」にさえしている。それ以前のことばを、結びの4行に「奉仕」させてもいる。最後の4行が意識的であると同時に、それ以前のことばもまた非常に意識されたことばなのである。意識の支配のもとで動いていることばなのである。
「思想」(あるいは「哲学」と言い換えた方がいいかもしれない)は、たしかにことばを選択しながら緻密に書かれるものである。結論へ向けて、整然と書かれるものである。結論ヘ向けての論理展開が重要である。途中に、結論を邪魔するような論理などまじってきては困るだろう。そんなふうに書かれたことばはたしかに思想そのものには違いない。新川がいいたいことのすべてであるだろう。
そうしたことを認めた上で、私は別のことを考えるのである。
意識を集中し、とぎすまし、ことばを積み重ねて書く「思想」のほかに、人間には意識できない思想がある。本人は気づかずにいる思想がある。あまりに自分に密着しているので、それが自分に密着しているとも気がつかないものがある。肉体そのものになってしまっている「ことば」がある。それを私は「意識的・精神的な思想」とは別に、いわば「肉体的思想」と考えている。それは絶対に書き換え不能なことばである。(別のことばで書き換えようと作者が思わなかったことばである。)
「水の中の城」では、それは「小指ほどの」という比喩である。取り立てて特別なことを言おうとは「思わず」に書いたことばである。自分の「思想」を込めようとは意識せずに、ふと口をついて出てしまった比喩である。こうした意識しなかったことば、そういうときに何を比喩とするかにこそ、その人の日々の生活そのものが出てくる。そして、私は日々の生活が顔を出していることばこそ思想だと思っている。毎日の生活を幸せに生きるための考え以上の思想はないと考えるからである。
結びの4行は「小指ほどの」とはまったく違う。
「城館を濯(あら)い 歳月を濯い 生を濯い 死をも濯い」というときの、「歳月」「生」「死」ということば、さらに「濯(あらい)」という比喩は、限りなく意識的なことばである。比喩である。普通、人は、水が「歳月を濯い 生を濯い 死をも濯い」とは言わない。新川自身も普通はそんなことばづかいをしないだろう。家族に向かってそんなことばを発しないだろう。「詩」だからこそ、そういうことばをつかっている。
こういう特別なことばは感動的である。そういうことばを信じないというのではないけれど、そういう意識的なことばよりも、私は作者が無意識的にもらしたことば、何かを意図しないでふともらしたことばの方に信頼を置く。読者に見せようと意識していないことばが信じられるとき、はじめて意識的に発せられたことばも信じられると思う。「小指ほどの」が信頼できる表現であるからこそ、最後の4行も信頼できる。新川は「絵地図に過ぎない」と書いているが、その「絵地図」に偽のしるしが書かれていたら、それは地図にはならないと言い換えれば、私のいいたいことが伝わりやすいだろうか。
「小指ほどの」ということばと同様、新川のこの作品にはとても重要なことばがある。これも新川が無意識的につかっていると思うのだが、それは「水の中の城」の「中の」という表現である。
この「中の」はタイトルと、次の1行に登場するだけである。
この「中の」は簡単なことばだけれど、ここで「中の」がつかわれているのは、それに先立って「小指ほどの雑魚」という比喩があり、それが「閉ざされたままの城館の窓を/いとも自由に いともたやすく 出入りしていたのです」があるから成り立つ。
川辺に立つ城館の主でもなく、水に映った城の主でもなく、「水の中の城の主」というとき、読者は(私は)、「水の中の」と同時に「城の中の」主を思い浮かべる。魚が出会っているかもしれない城の中、それが水の中と重なる。
「中の」ということばは、そして新川が最後に書いている「歳月」「生」「死」の「中」をこそ洗いながら、流れる。
「水の中の城」では、私は「小指ほどの雑魚」という比喩と「水の中の城」の「中」ということばにこそ、信頼を置く。そのことばが信頼できるから、ほかの行を信じることができる。たぶん「小指ほどの」と「中の」ということばに感動した、と書けば、新川は「おもわぬところ」を信頼されたと驚くだろうと思う。
作者が「思わぬところ」--意識しなかったことば、無意識につかわざるを得ないことば、そこにこそ私は「思想」があると信じている。意識的に書いた部分は、その作者の意識であって、まだ肉体にはなっていない。
ただし、作者のために弁護すれば、作者はそうした意識を肉体にするために次々に作品を書く。一回だけではなく何回も何回も意識的に思想を書くのは、それが自分自身の肉体となることを願っているからだ。
そういう意味では、そうしたことばに作者の「言いたいこと」があるというのは、絶対的な事実である。
「思想」には作者が言いたい「思想」と、知らずに語ってしまう「思想」がある。私は作者が知らずに語ってしまう「思想」をまず先に好きになってしまいたいのである。
「二本と三本を見間違えることなど有り得ない」という一行は、私には思わぬところから飛んできた球のようで、もっとも手応えがありました。
「思わぬところから」。
私は実は作者の「思わぬところ」に思想があると思っている。きのう17日の日記のつづきを書いておく。
新川和江は「水の中の城」を新川自身で解説して、
この詩のポイントは結びの四行にあって、すべてはそこへ読者を案内するための絵地図に過ぎないのだから。
と書いていた。最後の4行が新川自身が書きたかったもの、意識的に書いた「思想」である。それはそれ自体としてとても美しく書かれている。なるほどと納得する。感動もする。
それはたしかに「思想」ではあるのだけれど、私が考えている「思想」はもっと別にある。
新川は彼女自身で「詩のポイントは結びの四行」と明確に意識している。つまり、その4行は意識的に書かれたことばなのである。書かれたことばが新川の考えていることと寸分違わぬよう、何度も何度も書き直したかもしれない。そして新川自身が書いているように、その4行がくっきりと立ち上がるように、それ以前のことばを4行のための「絵地図」にさえしている。それ以前のことばを、結びの4行に「奉仕」させてもいる。最後の4行が意識的であると同時に、それ以前のことばもまた非常に意識されたことばなのである。意識の支配のもとで動いていることばなのである。
「思想」(あるいは「哲学」と言い換えた方がいいかもしれない)は、たしかにことばを選択しながら緻密に書かれるものである。結論へ向けて、整然と書かれるものである。結論ヘ向けての論理展開が重要である。途中に、結論を邪魔するような論理などまじってきては困るだろう。そんなふうに書かれたことばはたしかに思想そのものには違いない。新川がいいたいことのすべてであるだろう。
そうしたことを認めた上で、私は別のことを考えるのである。
意識を集中し、とぎすまし、ことばを積み重ねて書く「思想」のほかに、人間には意識できない思想がある。本人は気づかずにいる思想がある。あまりに自分に密着しているので、それが自分に密着しているとも気がつかないものがある。肉体そのものになってしまっている「ことば」がある。それを私は「意識的・精神的な思想」とは別に、いわば「肉体的思想」と考えている。それは絶対に書き換え不能なことばである。(別のことばで書き換えようと作者が思わなかったことばである。)
「水の中の城」では、それは「小指ほどの」という比喩である。取り立てて特別なことを言おうとは「思わず」に書いたことばである。自分の「思想」を込めようとは意識せずに、ふと口をついて出てしまった比喩である。こうした意識しなかったことば、そういうときに何を比喩とするかにこそ、その人の日々の生活そのものが出てくる。そして、私は日々の生活が顔を出していることばこそ思想だと思っている。毎日の生活を幸せに生きるための考え以上の思想はないと考えるからである。
結びの4行は「小指ほどの」とはまったく違う。
「城館を濯(あら)い 歳月を濯い 生を濯い 死をも濯い」というときの、「歳月」「生」「死」ということば、さらに「濯(あらい)」という比喩は、限りなく意識的なことばである。比喩である。普通、人は、水が「歳月を濯い 生を濯い 死をも濯い」とは言わない。新川自身も普通はそんなことばづかいをしないだろう。家族に向かってそんなことばを発しないだろう。「詩」だからこそ、そういうことばをつかっている。
こういう特別なことばは感動的である。そういうことばを信じないというのではないけれど、そういう意識的なことばよりも、私は作者が無意識的にもらしたことば、何かを意図しないでふともらしたことばの方に信頼を置く。読者に見せようと意識していないことばが信じられるとき、はじめて意識的に発せられたことばも信じられると思う。「小指ほどの」が信頼できる表現であるからこそ、最後の4行も信頼できる。新川は「絵地図に過ぎない」と書いているが、その「絵地図」に偽のしるしが書かれていたら、それは地図にはならないと言い換えれば、私のいいたいことが伝わりやすいだろうか。
「小指ほどの」ということばと同様、新川のこの作品にはとても重要なことばがある。これも新川が無意識的につかっていると思うのだが、それは「水の中の城」の「中の」という表現である。
この「中の」はタイトルと、次の1行に登場するだけである。
水の中の城の主(あるじ)もやはり死んだのでしょうか
この「中の」は簡単なことばだけれど、ここで「中の」がつかわれているのは、それに先立って「小指ほどの雑魚」という比喩があり、それが「閉ざされたままの城館の窓を/いとも自由に いともたやすく 出入りしていたのです」があるから成り立つ。
川辺に立つ城館の主でもなく、水に映った城の主でもなく、「水の中の城の主」というとき、読者は(私は)、「水の中の」と同時に「城の中の」主を思い浮かべる。魚が出会っているかもしれない城の中、それが水の中と重なる。
「中の」ということばは、そして新川が最後に書いている「歳月」「生」「死」の「中」をこそ洗いながら、流れる。
「水の中の城」では、私は「小指ほどの雑魚」という比喩と「水の中の城」の「中」ということばにこそ、信頼を置く。そのことばが信頼できるから、ほかの行を信じることができる。たぶん「小指ほどの」と「中の」ということばに感動した、と書けば、新川は「おもわぬところ」を信頼されたと驚くだろうと思う。
作者が「思わぬところ」--意識しなかったことば、無意識につかわざるを得ないことば、そこにこそ私は「思想」があると信じている。意識的に書いた部分は、その作者の意識であって、まだ肉体にはなっていない。
ただし、作者のために弁護すれば、作者はそうした意識を肉体にするために次々に作品を書く。一回だけではなく何回も何回も意識的に思想を書くのは、それが自分自身の肉体となることを願っているからだ。
そういう意味では、そうしたことばに作者の「言いたいこと」があるというのは、絶対的な事実である。
「思想」には作者が言いたい「思想」と、知らずに語ってしまう「思想」がある。私は作者が知らずに語ってしまう「思想」をまず先に好きになってしまいたいのである。