たかやくおよぐや廿楽 順治思潮社このアイテムの詳細を見る |
詩は「意味」を書いているのではない。「現代詩はわからない」というのが一般の定説である。それは当然である。わからないから詩である。(これは詩に限らず芸術全般にあてはまる。)「意味」を破壊し、「意味」以前の状態、「意味」が生まれてくる「場」そのものを再現するのが芸術というものであり、そこには生成の運動はあっても、「意味」という固定したものは存在しない。「流通」に便利なものは存在しない。それが芸術である。
みんなちがって
みんなきもちわるい
という行が「化身」のなかにあるが、その「ちがって」いて、「きもちわるい」ものが芸術である。詩である。「ちがい」が芸術である。わざと「ちが」えるのが詩である。
「化身」は、「意味」に還元してしまえば、立ち小便をする「おじさん」とそれを目撃したひととの「空気」を描いている。
(ちょいとなにすんだい)
なりかわってこえをかけてやったのである
衆生のあいだでよぶんな水分をだしていると
(なんまいだぶ)
いいかげん 正体をなのってしまおうか
(あんたもか)
(ちがうよ)
左右のおかしいにんげんもいるからな
だれだってすがたをあらわす技術にはすこしくせがある
(あ ねじがない)
会話のとちゅうで ばらばら
くずれてしまいなしないか
ふあんでぶすっとじぶんの蒸気がもれてしまうのだ
まだひとさまからみえるつもりでいるのかねえ
みんなちがって
みんなきもちわるい
(やだ このおじさん)
衆生にばれてしまっちゃあせんかたない
ららら とうたって
電柱から電柱へと
(なになってんだ おれ)
衣をむいみにひろげてどんでいくのである
まるかっこのなかのことばを「声」--発せられなかった「おじさん」と「目撃者」の「声」と思って読むと情景が浮かぶだろう。つまり一般に言われる「意味」が見えてくるだろうと思う。そして、廿楽のことばが、そういう「意味」に従属してしまっていたなら、これは詩ではない。廿楽のことばが詩になっているのは、そのことばが「意味」には従属せず、もっと「からだ」そのもののなかにまで侵入して、「空気」を汚しているからである。
4行目の(なんまいだぶ)。
傑作である。この1行で、この作品は完全に、詩になった。
(なんまいだぶ)はもちろん「南無阿弥陀仏」である。お経である。情景の「意味」としては、「おじさん」が立ち小便をしながら、ぶつぶつ、なむあみだぶつ、と「こえ」を漏らしたということだろうが、この音のなかにある愉悦--それがお経の愉悦、生と死のであいの愉悦を呼び覚ます。あ、お経とは、生と死の出会いの愉悦なのだと、私は感じてしまう。
「おじさん」にとって何が死で何が生か。泥酔した「脳(頭)」が死んでおり、小便を吐き出す肉体が生きているということか。それとも制御のきかなくなった膀胱が死んでおり、それを解放している「頭」が生きているのか。どっちでもいい。そんな区別とは無関係に、小便をした瞬間に、尿が尿管を走っていく快感に酔う瞬間--生きているというほっとした感じ、あたたかな感じ--その愉悦は「なんまいだぶ」の愉悦そのものだ。
「南無阿弥陀仏」には、そんな立ち小便の愉悦とは関係ない、もっと深遠な「意味」があるのだろうが、そういう「深遠な意味」というのは肉体にはどうでもいいことである。「深遠な意味」など、ごく少数の「頭」で引き継がれてゆくものであって、肉体はその「意味」の端っこをかじりながら、ほっと息をつく、そういうものである。それでいいのである。
と、いうのが「空気」である。
「空気」とはいいかげんなものである。しかし、なくてはならないものでもある。なくてはならないものだからこそ、ほとんど「いいかげん」でいいようにできているのかもしれない。ほんとうに必要なものが厳密にしかつかえないものだったら、それをつかえる人は限られてくるし、使い方がそんなに難しいのだったら、人間は生きてゆけないだろう。いいかげんであるからこそ、そこに自在に自分をだしたりひっこめたりしながら、(ちょうど立ち小便をするためにチンポをだしたりひっこめたりするようにしながら)、「空気」を呼吸するのである。
(あんたもか)
(ちがうよ)
左右のおかしいにんげんもいるからな
だれだってすがたをあらわす技術にはすこしくせがある
この4行のおかしさ。「あんたも小便がだまんできなくなったのかい?」「ちがうよ」なんていう会話のあとに「だれだってすがたをあらわす技術にはすこしくせがある」というおしゃれな批評。あ、立ち小便をしてしまうのも、その人の姿をあらわす(さらけだしてしまう)技術なのか。ひとは、カラオケで歌を歌うことでその人の姿をあらわすこともあれば、会議で激昂して姿をあらわすこともある。立ち小便も、それと差はないのである。--というゆったりした感じ。
「空気」を描きながら、廿楽は、そういう批評(?)で、廿楽自身の「空気」をさりげなくだしてもみせる。「空気」をそんなふうに、ちょっとかき混ぜてもみせる。おもしろいなあ、と思う。