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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(82)

2018-09-28 09:41:02 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
82 とりあえず

朝は一本足 昼は二本足 夕べは三本足……
この永遠の謎の三本足 三本目は彼方から
かつて枝が伸び 葉が繁っていた瑞みずしい若木
その葉をこそげ 枝を落とし 樹皮を剥がし
よく乾かし 何度も丹念に脂を塗りこんだもの

 「朝は四本足」というのが一般に伝わっている「なぞなぞ」だが、高橋の記憶間違いか(出版社の校正機能が働いていないのか)、それともそういう謎かけもあるのか。
 おもしろいのは「三本目の足=杖」の描写である。
 「若木」から書き起こしている。木にも「一生」があるだろう。双葉が出て、成長し、やがて枯れていく。その「一生」のなかから「若木」だけを取り出している。
 「かつて」と書かれているが、たぶん、まだ「若木」なのだ。
 まるで若者とセックスをするように、丹念に手をかける。自分の肉体(欲望)にあうように、外側から丁寧に「衣服」を脱がせる。素裸にし、ていねいに仕込む。「脂を塗り込む」と高橋は書いているが、情念(欲望)そのものを塗り込んでいるように見える。そうすることが「若返る」ことであるかのように。実際、若いしなやかな肉体にふれながら、高橋は「若さ」を吸収するのだろう。

それはいまのところ かろうじて私のものではないようだ

 と高橋はつづけている。まだ「杖」は必要としていない。それは高橋には「若い肉体」との接触が「若さ」をもたらしているからであろう。
 そう読むと、高橋の謎の勘違いは、違った風に見えてくる。
 「朝(生まれたとき/赤ん坊のとき)は四本足(四つんばい)」ではなく、「朝(生まれたとき)は一人」、「昼(活発な成長期)は二人」、「夕べ(老いたとき)は人以外の支えてくれる存在」も必要になる。「杖」をそんなふうにとらえているとも読むことができる。
 あるいは「二人」を支えてくれる「新しい人(もう一人の人)」があらわれてくることを夢見ているのかもしれない。
 杖をつくる描写が(高橋はほんものの杖を手作りなどしないだろう)、あまりにもなまなましく、丁寧なので、そんなことを思った。




つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社




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