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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(7)中井久夫訳

2009-01-18 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
第三の男    リッツォス(中井久夫訳)

男が三人、海をみつめていた。窓の下に坐って。
一人が海を語った。二人目が聴いた。三人目は語りもせず、
聴きもしなかった。海中深く潜っていた。浮かび上がった。
窓ガラスの向う側で彼の動きがひどくのろのろして見えた。
うすい青色に染まってはっきり見えた。沈んだ船を探検しているのだ。
その生命の失われた時鐘を鳴らしてみた。こまかな泡が
かすかな音とともにどっと昇って行った。
--突然「あいつ、溺れたのか?」と誰かが尋ねた。聞かれた相手は
「うん、溺れたね」と言った。三人目が海中から絶望して二人を見た、
溺れた人間を見る目付きで--。



 この詩は2種類の読み方ができる。1行目の「三人」というのは実は3人ではない。昔は3人でいっしょに行動していた。友達だ。3人のうち1人が溺れ死んだ。2人は、その彼のことを思い出して語っている。溺れたときの様子を。1人が語り、もう1人が聞いている。それは、ある意味での追悼である。
 もう一つ別の読み方ができる。生き残ったのは1人である。2人は溺れ死んでしまった。そして、その遺体はまだあがっていない。残された1人は、2人の遺体を探して沈没した船へと潜っている。そして、夢を見ている。溺れたのが2人ではなく、ほんとうはじぶんひとりが溺れ、残された2人は、溺れた彼のことを窓の下で坐って思い出し、語っている--と。2行目から3行目の「三人目は語りもせず/聴きもしなかった」は、そういうことを想像させる。3人目は、2人と自分が逆だったらどんなにいいだろうと思いながら2人を探しているのである。かわれるなら、かわってやりたい。そういう強い友情で結びついているのだろう。

 リッツォスの詩は、いつも不思議なドラマを内包している。そのドラマは、読者の読み方によってさまざまにかわる。かわることを受け入れて、読者に向かって開かれている。ドラマとは、たぶん、読者のなかにあるのだ。ストーリーはいつでも読者のなかにあるのだ。その眠っているストーリー、ドラマを呼び覚ますのが詩である。リッツォスの詩である。

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