詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本かずこ『恰も魂あるものの如く』

2020-10-23 09:39:25 | 詩集
山本かずこ『恰も魂あるものの如く』(ミッドナイト・プレス、2020年09月23日発行)

 山本かずこ『恰も魂あるものの如く』を手にして、私は「あっ」と声が漏れた。それは次の瞬間、「しまった」という気持ちになった。
 つい先日、本棚からはみだしてしまう本を整理するために『故郷』をブックオフに出したところなのだ。私は山本と面識はないが、『故郷』はとても好きな詩集である。『詩を読む詩をつかむ』に感想が書いてあるので、ここでは繰り返さないが、忘れられない詩集の一冊である。この本だけは、と思い、残してあったのだが、つい手離した。最近、山本の詩を読んでいなかったので、ふっと気が緩んだというか、魔がさした感じ。私の肉体の中に、ふっと生まれた「間」。そこから、こぼれ、どこかへこぼれてしまった……。
 「しまった」という気持ちを消すことができないので、どこまでことばが動いてくれるか、動かすことができるかわからないが、感想を書いてみる。
 「還暦の鯉」は、巻頭の詩。やはり「最初に読む詩」というのは印象が強い。

還暦の鯉をよんでいると
さかなのにおいがしてきた。
ずっと前、
新聞の薔薇の花をみていると
薔薇のかおりがしてきたことがあったが、
きょうはのは
還暦の鯉だった。
生きているとおもった。
生きているさかなのにおいだ。
釣り糸の先で
逃げたくて、はねている。
そのはねた水がわたしの顔にとびちっている。
「さわってみいや」
父が言った。
「こわいき、いやや」
とわたしが言った。
五歳だった。
父は、
還暦の鯉に同情はないだろう。
父が死んだのは、五十六歳だった。
わたしは、
「還暦」という言葉の釣り針にまずひっかかり、
いまは、水中にて、もがいているところか。
やがて、浮上する、そのしばらくのあいだ。

 注に、「還暦の鯉」は井伏鱒二の随筆とある。
 書き出しの「さかなのにおいがしてきた。」は井伏の文章がリアルだ、と言いたいのだと思う。この「におい」は「生きている」と言い直されている。魚屋の魚の匂いではなく、水の中で泳いでいる魚。けれど、水のなかの魚の匂いは、ほんとうはわからない。私はかいだことがない。私が知っているのは、水から上がった魚の匂いである。山本が言っている「生きている(におい)」は、やはり水から上がった魚(水を奪われた魚)の匂いだろう。それは、逆に言えば「死に直面しているにおい」でもあるだろう。
 井伏の随筆を知らないので、断言はできないが、井伏は「還暦」のとき釣り堀に行って魚を釣った。そのときのことを書いているのだろう。釣り上げた魚が、肉体に残っている水を、あばれながらまきちらしている。
 それを山本が感じるのはなぜか。その魚を肉体で覚えているからだ。井伏の随筆を読みながら、山本は山本の肉体が覚えていることを思い出している。
 父と魚釣りをした。山本がせがんだのではなく、父が山本を連れていったのだろう。父は釣れた魚が自慢である。だから「さわってみいや」というようなことも言う。
 ここからが、非常に、微妙だ。
 山本は、ほんとうに「魚の生きているにおい」をかいだのか。あるいは、「父の生きているにおい」をかいだのか。区別はできない。「魚の生きているにおい」は「父のいきているにおい」なのだ。そして、そのとき、二つのにおいを結びつけているのは「生きている」という「事実」なのだ。さらに、「生きている」ということばといっしょと思い出してしまうのは、魚も父も「死んでいる」からなのだ。「生きている」のなかには「死んでいる」が含まれている。だからこそ、なまなましい。
 父は五十六歳で死んだ。だから「還暦」についてあれこれ思うことはない、というのは悲しいユーモアである。山本は、私を、少し笑わせる。しかし、少し笑うと、その笑いが自分を裏切っていることに気づき、さらに悲しくなる。
 山本が五歳だったとき、父は何歳だったのだろう。五歳のときとはっきり覚えているのは、父の死が五歳に刻印されているからだろう。山本が五歳のとき、あるいは、この釣り堀の体験の翌年(六歳のとき)に死んだのではないのか。そうすると、「生きている」は、単に水から上げられてあばれている以上の意味を持ってくる。「さわってみいや」「こわいき、いやや」にも別の感情が混じってくる。
 私は「誤読」するのである。つまり、自分の「肉体」で山本のことばを読んでしまうのである。
 私の父の兄、つまり叔父は胃がんで死んだ。叔父の家は山の中腹にある。そこから私の家まで降りてくる。私は叔父と二人でテレビを見ていた。両親は野良仕事に出ていて、家には私以外いないからである。しばらくして「家に帰る」と言う。しかし、歩いて帰れない。私は叔父をおぶって坂道をのぼる。そのとき、叔父の腹が、私の背中にぺったりとはりつく。肉体を維持する力がなくなって、ぺたりとはりつく。胃がんそのものが背中から私の肉体に侵入してくるのではないと思うくらいの、ぺたりである。私は小学五年か六年だった。だから、非常にこわかった。死と生が、いっしょに動いている感じがしたのである。
 あるいは、兄が事故死したとき、その息子(つまり甥)が、周りの人に言われて遺体に直面する寸前、あとずさりした、というようなことも思い出したりする。
 「死んだ」という状態になる前に、「死ぬ」という動きがある。その「死ぬ」という動きは、同時に「生きている」という動きである。「状態」ではない。だからこそ、「こわい」のかもしれない。
 脱線したかなあ……。
 この釣りの思い出のあと、「還暦」ということばに山本はこだわる。それは父が「還暦」前に死んだということに関係があるというよりも、山本の年齢に関係があるのだろう。先に書いたように、私は山本とは面識がない。彼女が何歳か知らない。だが、この詩を書いたころは「還暦」前後だったのだろう。父が「還暦」を知らないけれど、山本は「還暦」を知る年になった。父より長く生きている。さて、これから、どうなるのか。
 そのことを、あれこれ思うのだろう。
 そうすると。

やがて、浮上する、そのしばらくのあいだ。

 というのは、非常に微妙なことを書いていることになるが、「微妙」は「論理的」に読むから「微妙」になる。
 釣り針にひっかかっても、すべての魚が釣り上げれら、死んでいくわけではない。釣り針がはずれ、もう一度水の中に帰ることがあるし、釣り上げられたら釣り上げられたで、そのときにしか知ることのできない世界がある。それを「生きる」ことができるだろう。
 そう思うとき、いま、山本はどんな「生きているにおい」を発しているのだろう、とも私は考えてしまう。
 会ったことはない。写真を見たこともない。何も知らない。何も知らないけれど、山本という人間の「肉体」を思うのである。
 この作品の「父」もそうだが、『故郷』に出てくる「母」もしっかりと「肉体」をもっている。ことばが「頭」ではなく「肉体」から、そのまま出てくる、という感じで動いている。
 人間はだれでも、母とも父とも違う人間(個人)になるために生まれてくるのだと思うが、私は同時に、ああ、山本は両親の肉体を山本自身の肉体として引き継いで生きているなあ、と感じるのである。両親を「他者」と呼ぶのは変だけれど、山本の肉体は他者と共存して生きている、ということを、私はなんとなく感じる。
 井伏の随筆がどういうものか知らないが、それを読む山本は、読んでいるとき父を思い出しているだけではなく、井伏とも一緒に生きているのだろう。一緒に生きているという実感が、本を(活字を)超えて、父にまで繋がっているのだろう。
 「生きている」ということばが、畳みかけるように、二度書かれているが、この「生きている」がこの詩のキーワードなのである。だから、最終行は、ほんとうは、

やがて、浮上する、そのしばらくのあいだ生きている。

 なのである。「しばらくのあいだ」は、まだまだつづく。山本の新しい詩集は、そのことを告げている。だからこそ、『故郷』を手離したことが、何とも悔しい。これからも山本は詩を書きつづけるだろう。
 「生きている」ということばはつかわれていないが、それが隠れている作品に「夏の写真」がある。

おそろいの
赤いりんごの浴衣を着ていた
妹より
わたしのほうが
まだ
背が高かったころの夏休み

一枚の
写真が残っている
かけっこが大好きだった
妹のおでこには
転んだときにできた
すり傷がある

この夏を境に
妹の背丈はぐんと伸びてゆくのだけれど
そんなことは
まだ だれも知らない

 「生きている」ということは、「だれも知らないことが起きる」ということである。「だれも知らない」から私たちは「生きている」(生きてゆける)のだ。そして、これから起きる「知らないこと」は自分の肉体で受け止めるしかないのである。
 魯迅ではないが、道はあるのではなく、道はなるのだ。ひとが、道なのだ。
 と、書いて、あ、そうか、私は山本のことばに、魯迅に通じる「正直」を感じていたのか、といま、あらためて思う。





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