田中宏輔『The Wasteless Land. V 』(2)(書肆山田、2010年10月10日発行)
きのうの、田中宏輔『The Wasteless Land. V 』の感想は、かなり中途半端で終わったかもしれない。私は目が悪いので1日に(1回に)書ける時間が限られている。一休みしてつづきを書こうとしたら、つづきが違ったものになってしまう。だから、中途半端でも時間内に書き終わったところで終わりにしてしまうのだ。
と、書きながら、つづきを書いてしまう。
いや、つづきかどうかわからないけれど、もう少し田中宏輔の詩について書いてみる。どんなにかけ離れたことを書いても、テキストがひとつなのだからそんなに遠くへは行かないだろう。きのう書いたこととどこかつながっているだろう。
思想というものを考えるとき、私は、カントだとかデリダだとかマルクスだとか--そういうひとたちのうことばが出てくる文章がよくわからないからついつい敬遠してしまう。そういう「学校教科書」の「哲学」(思想)は、それはそれで意味があると思うが、私にはぴんとこない。
そういうものとは違うところに、ひとの思想はあると思う。カントやデリダの思想は彼らのことばのなかにあるけれど、それは簡単には他人の思想にはならない。彼ら独自のものであって、それをどこかに引用しても、それは違ったものになってしまう、と思っている。
で、これならわかる--というものだけを、私は勝手に「思想」と呼んでいる。たとえば田中宏輔の今度の詩集のなかに思想。それは「そだよ。」ということばにあらわれている。「そだよ。」が田中の肉体そのものである。これはもちろん「そうだよ。」がつまったことばである。口語である。肉体になってしまったことばである。
変形バージョンに「そなの?」がある。
「そだよ。」と「そなの?」は反対のことばの動き、肯定と疑問(反論?)に見えるが、ねっこは同じである。その根っこは、簡単にいってしまえば、前に話されたことばをきちんと引き継ぐということである。だれかが何かをいう。それに対して肯定するときは「そだよ。」になり、疑問を感じたり反論をいうときの出発点が「そなの?」になる。
この、先行することばを引き継ぐというのは、相手に対する愛なのだ。無視しない。しっかり受け止める。受け止めた上で、自分のことばを動かす。どこだったか忘れたが、詩集のなかに、相手の目を見ないで言ってしまったことばがあって、それを申し訳ないと田中が思っているという数行があったが、相手をしっかり見て、相手のことばをしっかりと受け止めて、それに対して自分の言えることを言う--そういう生き方がつまっているのが「そだよ。」「そなの?」である。軽いことばに響くけれど、それは意味がないように響くけれど、実際、意味などない。ただ、そこには田中の具体的な肉体がある。相手の前に自分がいる、そのときの肉体がある。それは隠しようがない。隠そうにも隠せない。それを見せて、「私はここにいる」ということを相手にはっきり見せて、それからことばを動かす。
ここに田中の「正直」があり、これが田中の「思想」なのだ。ゆるぎのないものであり、田中のひとつの精神の到達点である。
この「そだね。」のおもしろいのは、それが単に「肯定」だけに終わらないことだ。「そだね。」と肯定して、そこから出発して、先行することばを越えていく。台風の翌朝、鴨川の河川敷をジョギングしていたら足元がぬめる。ザリガニが這い上がってきて、それを自転車が踏み潰していくので、つぶされたザリガニがぬるぬるするのだ。そういう話の後、次のようにつづく。
「そだね。」としっかり相手の言い分を肯定して、それからまた自分の言いたいことを語りはじめる。それは前の話とつながってはいるが、少し変わってもいる。ザリガニのかわりに、カエルがつぶされる。どちらもつぶされる小さな生き物というところではつながっているが、違っている部分もある。ザリガニのぬめる道は走ると危ないので歩いた。でも、カエルのつぶされる道は、そのまま車で走った。あらら。ずいぶん、違うねえ。さらに、その道が危険化どうかではなく、田中は「頭から血がすーって抜けてく感じがした。」と自分の感覚の方にことばを動かしてしまっている。
こういう「ずれ」は、しかし「ずれ」とはなかなか意識されないなあ。そこがいわゆる「哲学書(思想書)」のことばの運動と違うところで、そこに田中の思想のいちばんいいところがある。
話はどんなにずれても、逸脱しても、いつでも「肉体」をくぐってことばが動いているのだ。肉体のなかではすべてがつながっている。「ブチブチ、ブチブチ」という音を聞いたのは耳である。そして「カエルをタイヤが轢いてる」という説明を聞いたとき、その「耳」が聞いている音は、車が轢いている音ではなく、きっと田中の足が(肉体が)踏み潰している音なのだ。田中は足の裏にカエルが潰れていくときの感触を感じている。靴を履いてじゃなくて、きっと裸足で。だから、それは肉体に直接響いてくる。頭から血がすーっと抜けていくというのは、そういうことだ。
田中はいつでも、「精神」ではなく、「肉体」をさらけ出すのである。「肉体」こそが思想なのである。
「そだね。」は相手のことばを肯定しながら、いったん引き継いだ後は、田中自身の肉体になって、どうしても「ずれ」ていく。「頭」で受け止める抽象的な哲学用語(思想のキーワード)はずれるとたいへんだけれど(話が通じなくなるけれど)、肉体は「ずれ」ても平気だ。もともと「肉体」は他人と共有していない。共有できない。それぞれ独立したものだ。違っていてあたりまえだ。
それで、というのは変な飛躍なのだが。
「そだね。」に似たことばで、違うことばもある。「そだ。」これは、「そうだ。」と同じ。ただし、相手への「同意」ではなく、自分自身への「同意」である。
次のようにつかわれる。
「そだ。」からはじまるのは、前の会話とは関係がない。オーストラリアのラクダとは関係がない。けれども。ここには引用しなかったが、その前にある行と関係している。エリオットやらパウンドやらたくさんの詩人の名前が出てくる。「そだ。」は田中自身の「記憶」(2ちゃんねるで見かけた質問)と関係しているだけのようだが、深いところで、それまで知人と話した内容ともつながっている。
それはラクダへと逸脱したことばをパウンドやエリオットへと引き戻す具合に動いている。パウンドやエリオットの存在は田中には「肉体」になってしまっているから、そういうことが起きるのだ。「そだ。」と突然思いついたことへ逸脱がはじまるのだが、その逸脱は結局田中の肉体の奥へと帰っていく。
あるときは「そだね。」と肯定し、あるときは「そなの?」と疑問(反論)をし、あるときは「そだ。」と飛躍する。けれど、そのことばは全部、田中の肉体のなかを通り、田中の肉体をさらけ出させる。そこにあるものが田中の肉体そのものであることを語る。ただそれだけのためにことばは動く。
ことばは肉体となって、田中として、そこにある。
こういうことばを、私は「思想」と呼ぶ。そして、こういう思想のことばの動きを「文体」と呼んでいる。

きのうの、田中宏輔『The Wasteless Land. V 』の感想は、かなり中途半端で終わったかもしれない。私は目が悪いので1日に(1回に)書ける時間が限られている。一休みしてつづきを書こうとしたら、つづきが違ったものになってしまう。だから、中途半端でも時間内に書き終わったところで終わりにしてしまうのだ。
と、書きながら、つづきを書いてしまう。
いや、つづきかどうかわからないけれど、もう少し田中宏輔の詩について書いてみる。どんなにかけ離れたことを書いても、テキストがひとつなのだからそんなに遠くへは行かないだろう。きのう書いたこととどこかつながっているだろう。
思想というものを考えるとき、私は、カントだとかデリダだとかマルクスだとか--そういうひとたちのうことばが出てくる文章がよくわからないからついつい敬遠してしまう。そういう「学校教科書」の「哲学」(思想)は、それはそれで意味があると思うが、私にはぴんとこない。
そういうものとは違うところに、ひとの思想はあると思う。カントやデリダの思想は彼らのことばのなかにあるけれど、それは簡単には他人の思想にはならない。彼ら独自のものであって、それをどこかに引用しても、それは違ったものになってしまう、と思っている。
で、これならわかる--というものだけを、私は勝手に「思想」と呼んでいる。たとえば田中宏輔の今度の詩集のなかに思想。それは「そだよ。」ということばにあらわれている。「そだよ。」が田中の肉体そのものである。これはもちろん「そうだよ。」がつまったことばである。口語である。肉体になってしまったことばである。
変形バージョンに「そなの?」がある。
「そだよ。」と「そなの?」は反対のことばの動き、肯定と疑問(反論?)に見えるが、ねっこは同じである。その根っこは、簡単にいってしまえば、前に話されたことばをきちんと引き継ぐということである。だれかが何かをいう。それに対して肯定するときは「そだよ。」になり、疑問を感じたり反論をいうときの出発点が「そなの?」になる。
この、先行することばを引き継ぐというのは、相手に対する愛なのだ。無視しない。しっかり受け止める。受け止めた上で、自分のことばを動かす。どこだったか忘れたが、詩集のなかに、相手の目を見ないで言ってしまったことばがあって、それを申し訳ないと田中が思っているという数行があったが、相手をしっかり見て、相手のことばをしっかりと受け止めて、それに対して自分の言えることを言う--そういう生き方がつまっているのが「そだよ。」「そなの?」である。軽いことばに響くけれど、それは意味がないように響くけれど、実際、意味などない。ただ、そこには田中の具体的な肉体がある。相手の前に自分がいる、そのときの肉体がある。それは隠しようがない。隠そうにも隠せない。それを見せて、「私はここにいる」ということを相手にはっきり見せて、それからことばを動かす。
ここに田中の「正直」があり、これが田中の「思想」なのだ。ゆるぎのないものであり、田中のひとつの精神の到達点である。
この「そだね。」のおもしろいのは、それが単に「肯定」だけに終わらないことだ。「そだね。」と肯定して、そこから出発して、先行することばを越えていく。台風の翌朝、鴨川の河川敷をジョギングしていたら足元がぬめる。ザリガニが這い上がってきて、それを自転車が踏み潰していくので、つぶされたザリガニがぬるぬるするのだ。そういう話の後、次のようにつづく。
「ザリガニの死骸がびっしりの河川敷ね。
でも
ザリガニって鴨川にもいるんや。
ふつうは池だよね。」
「いると思わないでしょ?」
「そだね。
むかし
恋人と雨の日に琵琶湖をドライブしてたら
ブチブチ、ブチブチっていう音がして
これ、なにってきいたら
カエルをタイヤが轢いてる音
って言うから
頭から血がすーって抜けてく感じがした。
わかる?
頭から
血が抜けてくんだよ。
すーっと下にね。」
「そだね。」としっかり相手の言い分を肯定して、それからまた自分の言いたいことを語りはじめる。それは前の話とつながってはいるが、少し変わってもいる。ザリガニのかわりに、カエルがつぶされる。どちらもつぶされる小さな生き物というところではつながっているが、違っている部分もある。ザリガニのぬめる道は走ると危ないので歩いた。でも、カエルのつぶされる道は、そのまま車で走った。あらら。ずいぶん、違うねえ。さらに、その道が危険化どうかではなく、田中は「頭から血がすーって抜けてく感じがした。」と自分の感覚の方にことばを動かしてしまっている。
こういう「ずれ」は、しかし「ずれ」とはなかなか意識されないなあ。そこがいわゆる「哲学書(思想書)」のことばの運動と違うところで、そこに田中の思想のいちばんいいところがある。
話はどんなにずれても、逸脱しても、いつでも「肉体」をくぐってことばが動いているのだ。肉体のなかではすべてがつながっている。「ブチブチ、ブチブチ」という音を聞いたのは耳である。そして「カエルをタイヤが轢いてる」という説明を聞いたとき、その「耳」が聞いている音は、車が轢いている音ではなく、きっと田中の足が(肉体が)踏み潰している音なのだ。田中は足の裏にカエルが潰れていくときの感触を感じている。靴を履いてじゃなくて、きっと裸足で。だから、それは肉体に直接響いてくる。頭から血がすーっと抜けていくというのは、そういうことだ。
田中はいつでも、「精神」ではなく、「肉体」をさらけ出すのである。「肉体」こそが思想なのである。
「そだね。」は相手のことばを肯定しながら、いったん引き継いだ後は、田中自身の肉体になって、どうしても「ずれ」ていく。「頭」で受け止める抽象的な哲学用語(思想のキーワード)はずれるとたいへんだけれど(話が通じなくなるけれど)、肉体は「ずれ」ても平気だ。もともと「肉体」は他人と共有していない。共有できない。それぞれ独立したものだ。違っていてあたりまえだ。
それで、というのは変な飛躍なのだが。
「そだね。」に似たことばで、違うことばもある。「そだ。」これは、「そうだ。」と同じ。ただし、相手への「同意」ではなく、自分自身への「同意」である。
次のようにつかわれる。
「野生化してるんですよ、
オーストラリアのラクダって。
馬じゃ、あの大陸、横断できなくて
ラクダを連れてきたんですけど。
いまじゃ、オーストラリアから
アラブに輸出しています。」
「そだ。
このあいだ
2ちゃんねるでさ。
外国の詩の雑誌にも投稿欄があるのかどうか
きいてたひとがいたけど、
外国の詩の雑誌にも投稿欄って、あるの?」
「そだ。」からはじまるのは、前の会話とは関係がない。オーストラリアのラクダとは関係がない。けれども。ここには引用しなかったが、その前にある行と関係している。エリオットやらパウンドやらたくさんの詩人の名前が出てくる。「そだ。」は田中自身の「記憶」(2ちゃんねるで見かけた質問)と関係しているだけのようだが、深いところで、それまで知人と話した内容ともつながっている。
それはラクダへと逸脱したことばをパウンドやエリオットへと引き戻す具合に動いている。パウンドやエリオットの存在は田中には「肉体」になってしまっているから、そういうことが起きるのだ。「そだ。」と突然思いついたことへ逸脱がはじまるのだが、その逸脱は結局田中の肉体の奥へと帰っていく。
あるときは「そだね。」と肯定し、あるときは「そなの?」と疑問(反論)をし、あるときは「そだ。」と飛躍する。けれど、そのことばは全部、田中の肉体のなかを通り、田中の肉体をさらけ出させる。そこにあるものが田中の肉体そのものであることを語る。ただそれだけのためにことばは動く。
ことばは肉体となって、田中として、そこにある。
こういうことばを、私は「思想」と呼ぶ。そして、こういう思想のことばの動きを「文体」と呼んでいる。
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いささか恥ずかしい勘違いかもしれませんがそう思います。
「文体から滴る臭うものが思想」というのは、そのとおりだと思います。
実は谷内さんの「思想」には前々から「文体」以上に引っかかっていました。何でもかんでも「思想」になれるのかぁ・・・と。今回明快に書いて頂けて私の疑問もすっきり(ガッカリが実情)です。
たぶん全くお好みに合わぬでしょうが、ルイ・アルチュセールを長年私は読んできました。ガタリ、ドゥルーズ、ヴェイユも大変深く共感を感じますし例のデリダなどはもはや極限であろうと感じます。ほとんどの現代詩はもはや思想からは、崩れ落ちていった亡霊のようです。
私にはとても谷内さんほどのことは書けませんが、谷内さんのいう「思想」を私は思想と感じませんし、それがいかに「文体」だけは書いてもそれで「詩」になったとは考えません。詩はもっともっと減るべきです。
肉体をどれだけ殺ぎ落とした精神を地に落とせるか、言葉(文体)を神のごとく信じている谷内さんに、言葉という神を信じず、文体は道具であり技術に過ぎないと考える私は、この程度しか言えず、太刀打ち不可能だな!・・・というのが本日のところの私の「敗者の白旗宣言」です。
というか、先人のことばを手がかりにしないと何も読めない。
そのあとですね。問題は。
そのまま「引用」するのではなく、自分の肉体をくぐらせてからことばを動かしてみる。
そうすると、自分の肉体のなかで動いてくれることばと、どうしても「頭」で「意味」を理解することだけしかできないことばの違いが出てくる。
たとえば、田中宏輔は膨大な読書量が感じられる詩人だけれど、「頭」ではなく、「肉体」でつかみとれることばを厳しく選び抜いている。
そこから、ことばが思想として動きはじめる。
そこがおもしろい。
そのひとがほんとうに思ってるなら。
ほんとうに思っていることをことばで言えないなら、それは思想ではない、と思います。
私は三木清の、ことばはその国民が到達した精神の頂点である、というような意味合いのことばを私の考えのよりどころとしています。
三木清は、国語、国民というレベルで言っていたと思うけれど、私は、それを個人の状態で考えます。
犬が好き--というだけでも、その「好き」をどんなことばで、どのことばを最優先にし、どう動かしてひとつの文章にするか。そのとき読者の意識をどんなふうに想定するか。そういう具体的なことがらのひとつひとつが「文体」にあらわれます。
私は、ことばのなかにあらわれてきた、そういうこまごまとしたものを「思想」と呼んでいます。
山内さんが取り上げているひとのなかでは、私はデリダが大好きですが、それは、やはり「文体」が好きです。
どんなふうにしてことばを動かして、ひとつの「論理」にするか--その過程が好きです。
別な例でいえば、たとえば数学の問題。
答えそのものではなく、答えにたどりつく過程。
答えが思想ではなく、過程の数式が思想。
数学の途中経過の数式というのは、答えがでてしまえば、まあ、いりませんね。
採点は「答え」が正しいかどうかで採点されるけれど、おもしろいのは過程ですね。
考え「方」です。
その考え「方」が、文章では「文体」になると思います。
数学の問題。その答えが違っていても、考え方がおもしろく、そこから新しい問題が生まれてくることもあります。
同じように、ことばの動かし方そのものがとてもおもしろく、それを発展させていけばおもしろい世界が描ける--そういうことがあると思います。
「答え」は共有できるけれど、考え「方」は共有できない。
そこに個性があり、その個性を私は「思想」と呼んだり、「肉体」と呼んだりしています。
数学のお話はすうっと胸を降り下りました。
あっ、そうなのか、と思ったのは、私は哲学(思想)は最終的に自ら(哲学・思想)を終わらせるために行われている営為であり努力だと信じてきた・・という点です。
最後の日、使命を終えて遂に哲学(思想)がこの世から消えていく、その日のためにアルチュセールは出現し、絶後とも思えるデリダをも超える方法をそのために人間は追い詰めるのだと考えてきました。
「詩」も同じで・・・「歌謡」ではなくなってしまった「文字詩」は、必ず最後におのれの力で自ら亡びるために、この道を選んだ筈だというのが私の乾涸びた「現代の詩への思想」です。
だから・・・あぁ・・・また苦体のように終えるしかないのですが、数学のように(数学とは違って?)、答えにたどりつく「過程」ではなく「答え」をわたしは急ぐし、詩を遂に「答え」だけに削り落としたいのでした。
そういえば、ブロッホが
『ウェルギリウスの死』(川村二郎訳)のなかで
「詩とは、認識への焦慮なのです。」と
ウェルギリウスに語らせていました。
本人。
やっぱり博覧強記ですねえ。
私は読んだ本のタイトルすら思い出せない。
感想を書いているときは、なんとか覚えているけれど。
「焦慮」は難しくて、久々に辞書を引きました。
そしたら、よけいにわからなくなりました。
山内さんの
「答えにたどりつく「過程」ではなく「答え」をわたしは急ぐし、詩を遂に「答え」だけに削り落としたいのでした。」
というお言葉を目にしてです。
山内さんは、きっと詩を狭い領域のものにしておかれたいのですね。
ぼくは、詩を人生を生き生きとさせるものとして見ていますから
アスペクトがまったく異なります。
ぼく自身、ペシミストであったこともありますが
いまは、向日性の哲学(ぼくの造語かしら)に興味があります。
人生をいかに心地よく過ごすか
自分とかかわったひとに心地よく過ごさせられるか
その可能性の追求と実践に、とても関心があります。
詩作や詩集上梓は、その試みと実践のつもりです。
こんどの拙詩集に対して精緻な解析を山内さんがしてくださったおかげで
ますます詩の可能性について追及していきたいと思いました。
ありがとうございました。