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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

梅田智江『梅田智江詩集』(3)

2009-02-06 10:55:18 | 詩集
梅田智江『梅田智江詩集』(3)(右文書院、2008年08月15日発行)

 梅田智江の詩集のなかで、『変容記』は変わった詩集である。形式的には「散文詩」という形をとっている。そして、それは多くの散文詩がそうであるようになにごとかの「物語」を含んでいる。梅田智江は正直な詩人だが、その正直さだけでは語れないものがあることに気がついたのかもしれない。
 正直さだけでは語れないもの--正直には語れないもの。それを、ひとはときに「秘密」と呼ぶ。そして、ひとは「秘密」によって他人と切り離され、独立する。「秘密」の存在によって、悲しみと悦びを手に入れる。矛盾した存在になる。「秘密」とは、他人から見れば「謎」でもある。「謎」によって人間は完成する。そして、不思議なことに(あるいは不思議ではなく、当然のことなのかもしれないけれど)、その「謎」はほんとうは本人にとっても「謎」なのである。「謎」であるからこそ、「秘密」にするしかない。そして、「謎」であるにもかかわらず、「謎」の答えは、それぞれのひとがそれぞれに知っている。本能的に知っている。そして、その知っていることを、疑いつつ、ほんとうなんだろうか、とさらにその「謎」へ分け入っていく。確かめるために生きる。そういう「確かめる」という運動を私は「正直」と呼ぶのだが、この運動には矛盾がある。「正直」には語れないものを、その「秘密」(謎)を語りつづけることが「正直」であるという矛盾が……。
 だが、矛盾でしか語れないものがある。人間は矛盾しているのだから--としか、私には、いえないのだけれど。

 「誕生」は次のようにはじまる。

 深い山の奥の、その谷間に、紺碧の天を映し、鏡のように光る湖がある。岸には、いちめんに曼珠沙華の花なども咲いて、ひもじい女だけが知っている湖がある。

 「秘密」を梅田はここでは「女だけが知っている」と書いている。「秘密」とはそのひとだけが知っていることである。ほかのひとは知らない。
 梅田は(梅田の描く女は)、その「秘密」のなかへ分け入っていく。

 透明なある朝、女は湖水のまんなかに、小さな舟を出す。舟のなかで、素裸となってそべり、その真っ青な天にうっとりと見入るのだ。--誰も知らない。辺りは森閑として、このまま千年がたってもおかしくはない深い谷で。やがて、太陽は金色の毬となって、宙天にかかり、山を温め、女の白い肉体も柔らかくなる。小舟のなかから見上げると、ゆらゆらと燃える太陽だけしかみえなくて、太陽は女だけのものになる。誰も知らない。女だけの太陽になる。

 「秘密」のなかで、女は誰も知らないことをする。「素裸となってそべり、その真っ青な天にうっとりと見入る」。そうすると、女が変わりはじめる。「女の白い肉体も柔らかくなる。」この変化はとても重要である。太陽にあたためられて肉体がやわらかくなるというようなことは、ごくふつうのようなことのようであるけれど、ここに書かれている「柔らかくなる」の「なる」はとても重要である。「なる」とはある存在が、それまでとは違ったもの(状態)へと変わってしまうことである。そうすると、それにあわせて女だけではなく、まわりも変わっていく。「太陽は女だけのものになる。」これは、女の意識のなかでの変化ではない。実際に、太陽そのものが、おんなだけのものに「なる」のである。ほかのひとからは見えない。ほかのひとは気がつかいな。--誰も知らない。
 「秘密」の世界へ分け入れば分け入るほど、誰も知らない存在になる。そして、誰も知らないはずだけれど、それは不思議なことに誰もが知っている愉悦と結びついている。誰も知らないことを「正直」に語るとき、それはそれぞれが実感している「誰も知らない」こととぶつかり、そこで誰彼の区別がなく、融合してしまう。「秘密」を書けば書くほど、そこには梅田の「秘密」ではなく、読者の「秘密」が立ち上がってくる。読者の「秘密」が、人間の「秘密」が明るみに出てくる。

 そのとき、太陽は遥かな永遠の高みから、その巨大な光の男根を、ひとすじ、虹のように降ろして、女の露な女陰を射し貫いた。女の子宮は、一瞬にして鋭く立ち上がり、たちまちのうちに妊んでしまった。
 小舟は、太陽に射し貫かれた女を乗せて、空中へと浮揚していった。それからぴたりと、そのまま止まった。しどけなく深い眠りに溶けている女。疲労に皺よって、太陽も山の端に落ちていった。
 いつしか、小舟は中空に宙吊りになったまま、皓々と月光に濡れている。女の白い肉体も、闇に浮かんで。
 --誰もしらない。このまま千年がたってもおかしくはない深い谷で。眠る女の股間から、毬のような赤い卵が産まれた。闇と光にみがかれて、卵はくっきりと曼珠沙華のように赤く輝いていた。

 もう、女は何になったのか、わからない。太陽になり、月になり、卵になり、曼珠沙華になる。つまり、すべてになる。女が「秘密」の奥に分け入り、そこで「正直」になるとき、女を女としてしばっていたものがすべて溶解し、女はあらゆるものに「なる」。そのときそのとき、そこにあるものに「なる」。すべての存在と溶け合って、そのすべてに「なる」。つまり、「いのち」になる。「いのち」の運動になる。
 なぜ、そんなことが起きるのか。それこそ「謎」である。「謎」であるけれど、そうなってしまうことは、「謎」ではなく、「謎」を超越した「実感」である。
 私たちは「謎」を解くことはできない。しかし、「実感」はそれを超越していて、それに従うしかないのだ。「実感」に、どこまでもどこまでも従うことを「正直」という。

 こういうとき、つまりすべての存在の「枠」が消えて、そのつど何かに「なる」というとき、そこでは「時間」も消えてしまう。「このまま千年がたってもおかしくない」とは、そういう感覚のことである。それを別なことばでは「永遠」ともいう。
 「実感」と「正直」--それが結びついたとき、永遠があらわれるのである。

 そういうものを書くために、梅田は、この詩集『変容記』では、あえて「嘘」を導入している。「正直」とは反対のものを「秘密」という名前で書き進めている。深い山奥の谷に湖がある、というのは「嘘」である。そんなものなど誰も見たことがない。地図にはのっていない。グーグルの航空写真にも写ってはいない。そういう「嘘」を「秘密」「謎」(誰も知らないもの)として捉えなおし、その「謎」へ、「正直」に分け入っていく。そういうことをするために、「散文形式」が必要だったのである。
 「散文形式」は、この詩集の場合、必然なのである。

 梅田智江の詩集を一冊選べと言われたら、私はためらいなく『変容記』を選ぶ。




梅田智江詩集
梅田 智江
右文書院

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