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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

円城塔「道化師の蝶」

2012-02-13 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
円城塔「道化師の蝶」(「文藝春秋」2012年03月号)

 円城塔「道化師の蝶」を読み始めてすぐ、あ、これは田中慎弥「共喰い」にとても似ている、と思った。(「共喰い」の感想はきのう書いたので、そちらを読んでください。)世間一般(?)では、田中の作品は「文学文学している(古典的)」、円城の作品は「前衛的」といわれているみたいだけれど--うーん。似ている。そっくり。私はこのふたつの作品をひとりの作家が書いたと聞かされたら信じてしまう。
 私が円城の作品が田中の作品に似ていると思い、それを確信したのは、次のような部分。

作品ではなく作品の作り方を交易している。(436 ページ)

完成品を仕上げるためではなく、途中の品をつくるために仕事をしている気分になってきて、実際その通りであったりする。(438 ページ)

真相を知る者は記念館にもおらず、あるいは最初からいたことがなく、規則だけがまわっているというのが月並みながらありそうだ。(445 ページ)

 「規則」ということばがおもしろい。これを「方法」と言い換えることができると思う。「方法」のなかには「規則」が存在する。「無規則」の「方法」はない。
 で、何が似ているかといえば、円城も田中も「方法(規則)」によってことばを動かしている。
 円城の作品にではなく、ここに書かれていることを、田中の作品にあてはめてみると、二人の作品がそっくりであることがわかると思う。
 田中の作品は、作品の完成(結末)をもっているけれど、それはただそこで終わっているというだけであって、それは便宜上のものである。結末はどうでもいい。ストーリーはどうでもいい。作品のなかで人間が(登場人物が)どう動くかだけを問題にしている。そこには人間の動き方、「交易」の仕方が書かれているだけである。「交易」というのは、誰が誰に何をし、それに対して誰がどのように答えたか、ということ。
 いちばん「交易」にふさわしい部分は、母親が鰻料理を鍋に入れて主人公に持たせる。そうすると鍋には父と一緒にいる女の手料理か何かが入って返ってくる。鰻料理と手料理が「交易」している。そういう関係が、母親と父の女との間に成り立っている。
 主人公がアパートの女とセックスをし、その代金を「父からもらえ」というのも「交易」である。
 さらには、きのう書いた「鰻の頭の裂け目」に勃起する主人公と、父に殴られて頬が破れる恋人の傷も「交易」している。「人間の動き方」が「同じ」というか「対等」である。釣り合っている。
 「完成品」ではなく「途中の品をつくるために仕事をしている」というのは、蝸牛の描写の部分が相当する。蝸牛をみながら、蝸牛とは無関係なあれこれを思う。その「無関係さ」の連鎖こそが田中の作品のいちばんの魅力である。いまでは、だれもが「無関係」を主張している部分、「そんなことは俺には関係ない、俺は父とは別個の人間だ」といっている部分を、「無関係」とは言わずに「関係」させていく--つまり関係という「途中」をつくる仕事を、田中のことばはしている。
 「真相」、田中の作品のテーマ(?)に則して言えば、人間の内面の衝動、その普遍性(父と子で共通する、あるいは女たちに共通する--その共通という普遍性)を描くがテーマなのかもしれないが、そんなテーマを知っている登場人物はいない。そんなテーマなど、登場人物には存在しない。人間が関わる(無関係が関係になる)とき、そこに暴力が入り込む、そして傷つけあうという「規則」があるだけである。

 円城と田中の作品に違う点があるとすれば、田中のことばが関係によって「滞る(停滞する)」こと。そして、その「停滞」することで、たまったものが底から噴き上げてくること。
 円城のことばは「旅の間にしか読めない本があるとよい。」という書き出しが象徴するように、「停滞」ではなく「移動」する。スピードが問題なのだ。そこには手芸をするとか何かをつかまえるとかという「停滞」もあるが、それは単に移動のスピードを明確にするための方便(手段)の類である。
 二人は、いわば逆向きのベクトルを生きている。逆のベクトルへ向かっている。けれど、その「方法」と、その「方法」にかけるエネルギーの度合い(?)が私にはそっくりにみえる。
 とてもていねいである。
 そのていねいさは、文体にあらわれている。二人の文体は驚くほど読みやすい。1行1行ではなく、速読本の教科書を読むように、5行ずつくらい、一気に読み進むことができる。(あ、私は速読本で勉強したことはないので、ここに書いていることは勝手な想像なのだけれど。)読み間違えが起きないように書かれている。熟達している。

 作品とは少し(かなり)離れるのだけれど、伝え聞く今回の芥川賞の経過はとてもおもしろい。
 田中の作品が過半数の票を集めて早々と「受賞」が決まった。ところが、そこで選考が終わらずに円城の作品をどうするかであれこれがあり、最終的に2作の受賞が決まったという。
 田中の作品は「文学」としてとても評価が高く、昔の選考なら、田中の作品の受賞が決まった段階で選考が終わったと思う。でも、それだけでは何か物足りない--と思う気持ちが選考委員にあって、それが円城の作品を「受賞」に引っぱり上げたのだと思うのだが、このときの「相互関係」が、私が先に書いた二人の「類似性」と関係しているように思えるのだ。
 田中と円城は二人でひとりなのだ。そのことばを貫いている「方法」はひとつであって、一方だけを選ぶと、何か半分足りない気持ちになるのだろう。
道化師の蝶
円城 塔
講談社
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田中慎弥『共喰い』

2012-02-12 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
田中慎弥『共喰い』(集英社、2012年01月30日発行)

 田中慎弥『共喰い』を読みながら中上健次を思い出した。暴力とセックスが書かれている--という単純な理由によるのだけれど。で、それではどこがほんとうに似ているのか、と考えはじめると、全然似ていないことに気がつく。中上健次の文体は短いくせに粘着力がある。田中慎弥の文体には、粘着力というより、淀みがある。そして、その淀みがおもしろいと思った。田中は「淀み」とはいわずに「滞り」と書いているが、その「滞り」が田中の肉体(思想)だと感じた。
 カタツムリの描写がある。46ページから47ページにかけてである。

 乾いた空気に晒された濡れ縁を大きな蝸牛(かたつむり)が這っている。なぜ日差の下にそんなものがいるのか分からない。円い殻の移動を、遠馬は見つめる。夢でも見間違いでもない。この川辺に流れ、時々滞りもするする時間というものを見つめていることになるのかもしれないと思ったが、どう見方を変えても、それはやはり右向きに巻いている殻と、柔らかいのに噛めば歯応えがありそうな肉でしかない。触覚の輝いている先端がはっきり見えるのは大きいからでもあるが、間近で見ているからでもある。(略)自分が仁子さんのように川辺に残るのか、琴子さんを真似て出てゆくのか、琴子さんがいなくなったことを父が知ったらどうなるのか、千種とはいつになったら元通りに会い、セックスできるようになるのかを、そういうことといっさい関係ない蝸牛の鈍い足取りを見つめながら考える。

 「滞り」とは何か。引用部分の最後のことばがとても印象的である。
 「そういうことといっさい関係ない」--無関係なものが、「いま/ここ」に存在し、そこで立ち止まる。中上のことばにはこういうことはなかったと思う。(しばらく読んでいないので、記憶で書くのだけれど。)
 「物語」(時間)を動かすのではなく、動いていくことを邪魔する。その瞬間、その動かない部分が濃密になる。これがおもしろいと思った。中上の場合は、動く時間が濃密になる。動きのなかから「濃密」が射精のように噴出してくる。
 そして、それは関係がないのだけれど、その関係がないものの存在を通らないと「考え」は存在しない。そのことを田中は書いている。

 この小説は、セックスしながら女を殴る父と、その父の血をひく主人公の関係を中心に物語が進む。父と子は、父子の関係があるといえばいえるけれど、ひとりの男と男であり、独立した存在である。無関係である。たとえば父が女を殴ろうが主人公の責任ではない。息子が女を殴ろうが父の責任でもない。それが現在の社会の「法律」の制度である。
 そういう「無関係」を、あえて「関係」として通過することで時間を滞らせ、「いま/ここ」を濃密にする。
 --なんだか、こんなふうに書くと「むりやり」ことばを動かしている。ほんとうは逆に書いた方が田中の世界に接近できるのではないか、という気がしてくるのだけれど、それでも私は、いま書いているように、逆説的に、わざと変なふうに書きたいのである。
 たぶん、そう思うのは、この小説があまりにも「古い」というか、「小説的」すぎるので、変な気持ちになるのだ。時代が逆流している感じがする。中上健次を思い出したのも、時代の逆流という印象があるからだ。
 その「逆流」から、ふつうの流れ(?)に戻るためには、何か、逆説的なことばを通らないと、考えが動かない。ことばが動かない感じがするのだ。

 「無関係」を「関係」にさせる。関係ないものを通りながら、自分を考える。
 それは、なんといえばいいのだろう。たとえば、現代は「親子(家族)関係が稀薄」といわれる。「稀薄」は「無関係」は違うけれど、まあ、「無関係」と考えよう。その「無関係」な親子(家族)を、どれくらい希薄か(無関係か)を描くのではなく、逆に切って捨ててしまった方が楽になるものをあえて関係させる。そうすると、そこに時間が停滞し、停滞したもののなかから、何かが立ち上がってくるのだ。
 それは、たとえば次のような具合だ。

「おんなじ目、しちょる言うそよ。もうちょいと、」と自分の顔を指差して、「こっちに似せて産んじょきゃあよかったけど、もう手遅れじゃわ。」(35ページ)

 母親が主人公に対して、「父親と同じ目をしている」と指摘する。父親と同じ人間であってほしくないと思うなら、そういうことは言わない方がいいだろう。同じであるということで、さらに同じになるのだ。似ていても、似ていない。無関係である--といいつづければ、そこから「断絶」がはじまる。関係が「希薄化」する。
 この小説の登場人物は、そういう考え方をしない。逆に、「無関係」を「関係」にするためにことばを動かす。ここから、すべてがはじまる。「滞り(停滞)」が、重力のように、あらゆるものを惹きつけ、ブラックボックスとなり、そこからビッグバンが起きる、という具合だ。

 28ページの、釣り上げたウナギの描写も、それに通じる。

細かく何度も合わせたからか、釘の両端が肉を突き破り、片方は顔を引き裂いている。はりすをくわえている深緑色の細長い受け口が光っている。絡みついた道糸を振りほどこうとして鈍くのたうつ。遠馬は自分が興奮し、下腹部に熱が集中してゆくのを感じる。初めて釘針にかけて釣り上げたためもあったが、裂けて、半ば崩れかけた鰻の頭を目にしたからだと意識する。

 「無関係」なのに、それを「関係」づけて「意識する」。「関係づける意識」がすべてを動かしている。裂けた鰻の頭に、殴られて傷ついた女の顔を関係づける。鰻と女は別個の存在なのに、関係づける。そうすると、その瞬間、鰻を処理する運動が「滞り(停滞し)」、女との時間が噴出してくる。そうして勃起する。
 ここには、なにかしら、不思議な「混同」がある。
 「関係」は「混同」をもたらし、人間の行動を不思議な形で支配する。「時間」をねじまげてしまう。
 この「混同」は、16ページに、この小説の「テーマ」のようにして、書かれている。

川と違ってどこにでも流れていて、もしいやなら遠回りしたり追い越したり、場合によっては止めたり殺したりも出来そうな、時間というものを、なんの工夫もなく一方的に受け止め、その時間と一緒に一歩ずつ進んできた結果、川辺はいつの間にか後退し、住人は、時間の流れと川の流れを完全に混同してしまっているのだった。

 ここで「時間」と呼ばれているものを、「親子(家族)関係」と読み替えてみると、テーマがはっきりする。

 もしいやなら遠回りしたり、つまり家族から遠く離れて、ひとりで暮らしたり、場合によっては人間はそれぞれ独立した存在だから血縁などは人格とは無関係であるということもできる血縁関係(家族関係)を、なんの工夫もなく一方的に受け止め、家族と一緒に暮らしてきたために、主人公は(あるいはその周辺の登場人物は)、父親の人格と主人公の人格を完全に混同してしまっているのだ。(混同するようになってしまったのだ。)

 うーん。わかりやすすぎる。「小説」らしすぎる。

共喰い
田中 慎弥
集英社
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誰か教えてください(2)(公開メール)

2012-02-11 11:39:43 | その他(音楽、小説etc)
 きのう「誰か教えてください」という「日記」を書いた。
 そのあと、武田肇さんから、再びメールが届いた。「まさか返信が来るとは」というタイトルがついていた。
 何が書いてあるのか、よくわからない。
 短い返信を書いたが、そのとき書かなかったことを含めて、少し書いておきたい。引用部分(字下げ部分)が武田のメール。それ以外は私のことば。

谷内修三へ最後の私信

まさか返信が来るとは思っていなかったね。これは意外だった。よほど知名度が欲しいらしい。ちと薬が効き過ぎたようだ。

 武田さんは何を期待して、どんな薬を処方したのですか?
 私は武田さんの書いていることは、私に対しては無効ですよ(薬が効きませんよ)という意味でメールを書きました。
 「知名度」ということばを武田さんはつかっていますが、私はもちろん誰にも知られていません。ブログの閲覧者は限られています。コメントを寄せてくれる人もほとんどいません。
 でも、武田さんにメールを書くと知名度が上がるのですか?
 どんなふうに?

蒼い顔をしながら相手の「怒りのメール」も「非難」も受け入れない頑迷さには、周到なインテリジェンスも年齢相応のユーモアも余裕のかけらもない。

 「怒り」「非難」を受け入れないも何も、私には武田さんの書いていることがわかりません。武田さんのことばを借りて言えば「インテリジェンス」がないということになります。私のことばで言いなおせば、私と武田さんでは共通することばがありません。

武田は自分が気に入るような評を望んでいると思うのか。毀誉褒貶は当然だろう。それこそ君の書きたいように書けばいい。誰も邪魔はせぬ。

 私は書きたいように書いています。
 武田さんにじゃまされたとも感じません。
 じゃましたつもりなんですか?

そもそも歌枕という自明の読み間違いを著者から正された時、何故それをひとまず率直に受け入れて、陰で舌でも出せないのかね。それをそうせずに開き直る。成熟したオトコの弁じゃないね。

 「船岡山」の句に対して、私は武田さんの指摘を受け入れませんでしたか? 私は「船/岡山」と読んだけれど、「船岡山」という山というのが武田さんの指摘だったと記憶しています。
 私はそのことに対して、自説を再度書くというようなことはしていません。「船/岡山」と読むのが正しいと、その後、どこかで私が書きましたか? 武田さんは、それをどこで読みましたか?
 武田さんから電話で指摘を受けたとき「ありがとうございます」と言ったと思いますが。

あろうことか、公器ともいえるブログ上で「感想を書くのが面倒くさい」「読みたいように読む」とエラそうに開き直る。駄々をこねてまで正当化する。「読め」と幾度も催促しながら何という大人気ない方便かね。

 感想を書くとき、この感想を書いたら武田さんはどう思うか。私の読み方は武田さんの意図にそっているかどうか確認してから感想を書かなければならないのだとしたら、それは私には「面倒くさい」ことです。
 だから、私は読みたいように読み、読んだ通りに感想を書きます。
 それ以外のことはしません。

甘ったれるな。根こそぎ軽蔑する。言い訳に言い訳を重ねては、自分から人格を貶めていることに気づかない。

「この作品はこう読んでもらいたいという「主張」があるのなら、それを明記し、そう読んでくれる人だけに読んでもらえばいい」?

そんな気弱でオメデタイ著者がいたら見てみたいものだ。「私は誰の作品も、同じように勝手に誤読します」? 良い歳をして、今度は文学論が無いとの宣言か。それならそうと、君こそ「日記」の大前提として万人を前に掲げておくべきだろう。結局は武田にくさされて、行きがかり上自分の大事な文学論まで公然と修正する始末だ。まあ、尤もこれは気味がよいがね。

 私は武田さんに「くさされた」とは感じていません。
 私自身の「文学論」も修正していません。
 どこを、どう修正したと武田さんは感じたのですか?
 具体的に指摘してください。

田舎者の木の葉天狗だ。陰湿で稚拙で文弱の野心家で、だから詩人団体を切る勇気も無い。

 私は田舎の生まれだし、田舎に住んでいます。
 で、私の「野心」というのはなんですか? 私は書きたいことを書きたいと思っています。それが野心なら、その野心のどこに問題がありますか?
 武田さんの考えに合わないこと?
 私の考え方に合わない人なら、たくさんいると思うけれど、なぜ、私が武田さんの考え方にあわせなければならないのか、それが私にはわかりません。
 「詩人団体を切る勇気」とはなんのことでしょうか。
 私とどの詩人団体との間に問題があるのですか?
 どこかの詩人団体が私のことを批判していて、それに私が反論しない?
 私はあいにく、そういう批判を聞いたことがありません。
 また詩人団体の活動についても熟知しているわけではありません。どこかの詩人団体で、何か批判しなければならないような主張をしているのですか?

今回たまたま武田によって暴き出された(今や内心悔いているのはワカル)、己の劣悪で歪んだ性向から出た、いわば狭い谷内状況内の事情だけを主張するのに、持って回った屁理屈に縛りつけられて、「非難を楽しみにしている」の智恵の無さで嗤ったよ。可哀想なオトコだ。

「楽しみにしている」と言った以上、G誌は京都の三月書房に注文したまえ。必ずそうしたまえ。それが、もうすでに「読む機会」があるのないのと、場当たりのせいにして怖がっている。あいにく武田は自分の文章を直接本人に押し付ける、君のような三枚目じゃない。G誌を読んで、君の公器で弁解しろ。

 私は何も悔いていません。何を悔いる必要があるのですか?
 私は武田さんのように、いろいろな文学知識を持ち合わせていません。だから、武田さんがひとつのことばにこめた意図を読み違えることはあります。これは武田さんの作品だけでなく、誰の作品に対しても同じです。
 私は私の知っている範囲でことばを読み、私の感想を書きます。
 そのとき、間違ったまま、筆者の意図とは無関係なことを感想に書くことはあります。これは、どうすることもできません。
 私は「ガニメデ」(なぜ、武田さんは「G誌」と書いているのですか? タイトルをかえたのですか?)を注文してまでは読みません。そんなことをするのは「面倒くさい」。「読みたい」というのは単なる「社交辞令」の類です。「読みます」さえも「社交辞令」で言うことがありますけれどね。
 武田さんは「あいにく武田は自分の文章を直接本人に押し付ける、君のような三枚目じゃない。」と書いていますが、私の感想は、武田さんから句集いただいたから、書いたものです。私が自分で句集を買って、感想を書いたものではありません。送ってくださいと依頼したこともありません。
 武田さんが私に句集を送るのは「押し付け」ではなく「寄贈」であり、私が武田さんに感想を書きました、読んでくださいというのは「押し付け」になるようだけれど、ふーん、そうなんだ、と思うしかないですねえ。
 武田さんから貴重な句集をいただきました。ありがたく拝読しました。読み方で間違いがありましたら、ご指摘下さい。読み方を間違えて申し訳ありませんでした。--という具合に、武田さんと向き合わないといけないのかもしれないけれど、これはほんとうに面倒くさい。
 私は誰に対しても、そういう向き合い方をしたことがない。
 私はいただいた詩集や詩誌の感想をブログで書いています。これは返礼を手紙・はがきで書くかわりにしていることです。書いたことを年に一度、詩集などを送ってくれた人に、ここに感想を書いていますとお知らせしています。それが「押し付け」と感じるのでしたら、読まなければいいでしょう。

安心したまえ。これが最後の私信だ。眠くなった。

武田

 武田さんからのメールがくることが、私にとって不安? 私は武田さんのメールに不安を感じないといけないんですか? こないとわかったら安心しないといけないんですか?
 武田さんのメールは脅迫状だったんですか?
 私は鈍感なので、そういうことはまったく感じなかった。
 「これが最後の私信だ。」がほんとうかどうか、まあ、楽しみです。





薔薇のプローザ
武田 肇
蒼土舎
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小池昌代『黒蜜』

2012-01-30 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『黒蜜』(筑摩書房、2011年09月20日発行)

 小池昌代『黒蜜』の帯に「瑞々しくも恐ろしい子どもの世界」と書かれている。そして「倦怠を知ったのは、八歳のときだ」という刺激的な文が引用されている。でも、私の読んだ印象は、そこに書かれていることとかけ離れている。子どもが描かれているが、そうして子どもが主人公のように書かれている作品もあるが、子どもの視線ではない部分の方がわたしにはおもしろく感じられる。
 「鈴」という作品の最初の方に飛行機事故をテレビで知る場面がある。解説者がコメントしている。事故から微妙にずれて、奇妙な解説である。

 人生の奥義につきあたったのか、解説者は口ごもって歯切れが悪い。その淀みにこそ面白さを覚えて、翼の母はじっと画面を凝視したが、アナウンサーは、さっと残酷に切断して、天気予報へとつないでしまった。

 「その淀みにこそ面白さを覚えて」という部分が楽しい。「淀み」と「面白さ」の結びつきに、小池の「肉体」を感じる。そして、この「淀み」を「面白い」と感じる感覚は、子どもの感覚とは相いれないものだと思う。
 「淀み」を「面白い」と感じる「肉体」だけが、アナウンサーの切り換えを「残酷に切断して」と言える。
 そうか、「淀み」の反対のことばは「切断」であり、その「切断」を「残酷」と言うのか。「残酷」は「淀み」の対極にあるのか。「淀み」とは、何事も「切断」しないことであり、その「淀み」のなかには「残酷」ではなく、「温かさ」のような「触覚」がごちゃごちゃにいりみだれているということだろう。「淀み」には、たしかに受け入れなければすんだものがたまりつづけて濁っていくときの、妙な「不自由さ」と、それゆえの「ぬるい」感じ、触覚を誘い込むとろりとしたものがあるなあ、と思う。
 小池の書いているのは短編であり、詩ではないのだが、こういう部分に出合うと、詩を感じるのである。

 こんな、なにもしゃべらない子といっしょにいて、翼はほんとうに楽しいのか。
 翼の母は、一瞬、高行のことを憎みたいような気持ちになった。

 この母の(大人の)描写も、面白いというか、説得力がある。「憎んだ」ではなく「憎みたいような気持ちになった」という「ことばの長さ」のなかに、私はやっぱり、ほーっと思うのである。
 「切断」ではなく、「接触面」というのだろうか--あ、これは、適当なことを書いているので、正しい用語なんかじゃないからね--何かを切るにしろ、そのとき動いていくことばの距離が長い。長いので、切る対象にずーっと触っている感じがする。その「触覚」に、私は女を、つまり小池の「肉体」を感じ、ほーっと思うのである。
 小池には会ったことがないのだけれど、こういう瞬間に、私は「肉体」を感じるのである。

 作品のなかでは「姉妹」が私はいちばん好きだ。
 夫の知り合いの女からピアノをもらうことになる。そして、そのピアノを再び返してくれと言われる。そこに姉妹が登場する。ピアノのメーカーも「姉妹」という意味の名前をもっている--というようなことは、まあ、申し訳ないが、私にはあまり関心がない。
 ここはいいなあ、と思ったのが次の部分。

鍵盤そのものは硬いのに、底に沈んで戻ってくるとき、指先に、やわらかな布に押し返されたような感触が広がる。なんて官能的。ピアノはまるで内臓を持っているかのようだ。

 「官能的」と「内臓」が結びつくところがおもしろい。そうか、「官能」は触覚にあるとしても、それは「肌」にあるのではないのだな。「肌」のように直接目に見えるものではなく、その目に見えるものに隠されている「内部」、つまり「内臓」(蔵--隠すとか納める、という意味があったな)のうごめきが「官能」なのだ。
 視覚や表面的な触覚ではなく、内臓そのものが、そこには肉が蔵(かく)しているものが交わることがセックスなのだな。そのなかには「もの」としての「肉」だけではなく、「肉」とは定義されていない感覚や精神の動きもきっと含まれる。どこからどこまでが視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚といえないような、奥深いところで融合している核に触れたとき、そこから官能が動きはじめるということだろう。
 子どもの感覚(官能)は、そういう部分を小池が書いている大人のようにゆっくりとは辿らない。辿れないものがあって、その辿れないところをジャンプして跨いでしまう。飛翔してしまう。--まあ、ここから「童話」がはじまるのだが(そうして、小池はそういう「童話」めいたものを書いているのだが)、私は、やはり大人を書いた部分がいいと思う。
 「切断」のことば、「淀み」のないことば--は、小池の「肉体」には似合わない。





黒蜜
小池 昌代
筑摩書房
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「パリへ渡った石橋コレクション 1962年、春」

2012-01-30 13:55:34 | その他(音楽、小説etc)
「パリへ渡った石橋コレクション 1962年、春」(石橋美術館、2012年01月28日)

 「石橋コレクション」がパリで1962年にパリで紹介され、話題を呼んだという。そのときの「コレクション」をそのまま東京で紹介している。
 私はピカソとセザンヌが大好きだが、「石橋コレクション」のピカソとセザンヌはちょっと不思議な感じがする。強烈には惹きつけられない。おだやかに、その絵の前で呼吸したくなる。なんだろうなあ、これは。マチスにしても同じだ。過激さがない。私は過激なものが好きなので、こういう静かな感じにつつまれると、一瞬困惑するが……。

 ピカソ「女の顔」(1923年)は不思議なところがふたつある。
 ひとつは、ざらりとした絵肌の感じ。白の絵の具の感じが、ざらざらしている。そして、それがギリシャの夏の光を乱反射させると同時に、目に見えないような影を内部に抱え込む。矛盾。そして、その矛盾が、何か、絵の暴走、色の暴走を押さえ込んでいる。
 もう一つは顔の輪郭。バックの青--そのグラデーションの美しさがあるのだから、白い顔に輪郭はいらないだろう。白い肌、白い布の境目に線があるのはまだ納得がいくが、顔の輪郭線はなぜ? しかも、それは正確(?)ではない。一部が顔の内部に食い込んでいる。あるいは白い頬が輪郭をはみだしているというべきなのか。しかし、これがまた、ざらざらの白の絵の具の肌と同様、不思議に絵を落ち着かせている。「ゆらぎ」というとまた別の概念になるのかもしれないが、そこに自然な動きがある。固定されない「ゆれ」がある。呼吸がある。

 その呼吸について考えていたとき。

 私はふと、山田常山の急須のつなぎ目の手の跡を思い出したのである。完璧ではなく、むしろ不・完璧(非・完璧?)であるものが持つ力。そこから広がる余裕のようなもの。その不完全なところで、鑑賞者が遊べる、参加できる余地がある。「女の顔」の頬の大きさを線にまで引き戻したり、白い頬の形そのままになるまでひろげたり。そうして、自分にとっての「女」はどっちだろう、どっちが美人、と思ったり。どっちが母親らしい? あるいは娘らしい? どっちが悲しい? どっちが恥ずかしい顔? 恥じらいを秘めた顔?

 これはなかなか楽しい時間である。
 あ、私はこんなことも思えるんだ、とちょっとびっくりした。「女の顔」の輪郭については、長い間、あれは一体なんだろう、どうしてなんだろうと思っていたが、こんなふうにことばが動くとは思わなかった。

 これはきっと山田常山を見た影響である。
 芸術はどこで見るか、どの順序で見るかによって、毎日、姿を変えるものかもしれない。だからこそ、何度も何度も見なければならないのかもしれない。

 セザンヌの「帽子をかぶった自画像」(1890-94年頃)の塗り残しも、自己主張のない、ほんとうの塗り残しに見える。それが自然で楽しい。「サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」も、色が色になる前の運動のように思える。
 石橋正二郎は、静かな絵を呼吸するのが好きな人だったのだろう、と思った。
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「三代山田常山--人間国宝、その陶芸と心」

2012-01-29 19:59:59 | その他(音楽、小説etc)
「三代山田常山--人間国宝、その陶芸と心」(出光美術館、2012年01月28日)

 三代山田常山という人を私は知らなかった。常滑焼の急須は家にあった、といってももちろん山田常山のつくったものではなく、スーパーで売っている類のものである。つるりとしていて朱色である。こういう日常的につかうものを「芸術」に高めるとはどういうことなのか。わからない。
 わからないまま、会場に入る。まず朱泥の急須がある。むかし家にあったものと似ているか--というと似ていない。朱色の具合がまず違う。妙に静かである。手にとるわけにはいかないが、どれもずいぶん軽そうである。そして、こういう印象があっているかどうかわからないが、不思議なやわらかさがある。肌がはりつめながらも、何か余裕がある。緊張感、硬さがない。しなやかである。そうか、これが芸術というものか、と素人は思ったままに書く。
 途中で、あれっ、と思う。注ぎ口、把手と胴というべきなのかなんというべきなのかしらないけれど、本体とのつなぎ目がスーパーで売っているようなものとは違う。きちんとしていない。土をのばしてくっつけた手の跡(指の跡?)が残っている。手でつくっているという証拠? 滑らかな肌を無造作に汚している(?)ところがおもしろい。ふーん、芸術とはこういうものか、と知ったかぶりをしてみる。「この手の跡がいいんだよね」と言うと、通らしく聞こえるかな? 今度言ってみよう、とひそかに思ったりする。
 藤田穐華の彫刻(文字)入りのものもある。これはこまかい。拡大鏡がそばにあるが、私は目が悪いので拡大鏡越しにもその文字は読めない。不思議なのは、文字が刻まれていても、急須の肌が傷ついていないという感じがするところだ。さっき、しなやかということばをつかったが、硬いだけだと、たぶん傷になる。他者をしなやかに受け止める力があるのだろう。
 でも、こういうものって、実際につかうのなかなあ。
 朱泥の急須を見たあと、紫泥、烏泥の急須がある。白泥、藻がけ、彩泥といろいろな種類があり、さらに酒器、食器があり、自然釉の壺などがある。つるりとした急須の印象はここでは完全に消えて、泥そのままの、ざらりとした感じがなかなかおもしろい。あ、こういう自然な感じがいいなあ。こういうのがほしいなあ--と思った瞬間。
 変なことが起きた。
 いやあ、やっぱり、最初に見た朱泥の急須がいちばんいいんじゃないかなあ。私のなかでだれかが、静かに異議を唱えたのである。
 引き返して見なおした。ほら、静かだろう? 自己主張がなく、見落としそうだろう? こういうのを実際につかうとぜいたくだぞ。つかいながらうれしくなるぞ。人をひきつけるというより、人といっしょにいるという感じを呼び寄せる。この急須でお茶を入れると、そのまわりに自然に人が集まってくる。そして、ああ、おいしいお茶だねえ、とお茶をほめる。急須ではなくて。それを急須がうれしそうに聴いている。そのとき、空気が和むのを聴いている。そういう静かさがあるなあ。
 自然釉の壺は、どうつかう? 花を飾るには自己主張が強すぎる。庭の隅にころがして、気がつく人だけ気がつくように飾っておく? でも、なんだかそれはわがまますぎるなあ。気がつく人は気がつけよ--というのは、気がつかない人は相手にしないと主張しているようなものだ。思わず、身構えてしまう。

 帰りがけに、ふと壁を見ると山田常山が妻と一緒に急須をつくっている写真があった。ほーっ、と思った。これはいいなあ、とも思った。妻は何やらブラッシング(?)しているような手つきだが、--うーん、「芸術」なら、どんな作業も他人にはまかせないなあ。妻にはまかせないなあ、と私は思う。でも、常山は、何かを平気で妻にまかせている。それじゃあ、ここにある急須は常山と妻の合作? じゃないんだね。そこが、おもしろい。そこがすばらしい、と思った。
 私が最初に急須に感じたしなやかさはこういうことなのかもしれない。他人に何かをまかせる度量の大きさ。それがしなやかさにつながる。そして静かさにつながる。人があつまって、なごむ。そのための器、ということを感じた。
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唐十郎「下谷万年町物語」(2)

2012-01-29 11:44:55 | その他(音楽、小説etc)
唐十郎「下谷万年町物語」(2)(2012年01月27日、シアターコクーン)

 きのうの感想はかなり大雑把すぎたかもしれない。
 宮沢りえの演技に夢中になった、ということを書こうとして、結局、どこに夢中になったか書きそびれている。
 どの部分もすばらしいが、特に火事のなかをブロマイドを探しに行ったときの「思い出」を語る部分がいい。燃え上がる無数のブロマイドの向こうに、すばらしいブロマイドがある。それに手をのばし、それは鏡に映った自分の姿である--と知った、と語る。
 この部分をどう理解するか。役者はナルシストであるという意味か。役者は自分しか見ていないという意味か。
 役者は、自分を発見することで役者になる、ということかもしれない。
 まあ、そんなことはどうでもいいのだが、その瞬間、ほんとうに鏡に映った宮沢りえを見ている宮沢りえが舞台にいるのである。それはキティ瓢田という「役者」の記憶のはずなのに、そして宮沢りえにはそういう記憶がないはずなのに、私がそこに見るのは「キティ瓢田」ではなく、宮沢りえなのだ。
 白いタキシードを脱いで赤いシュミーズになる瞬間も、びっくりするくらいすばらしい。「男装の麗人」というキティ瓢田の「役」から、「役」を捨ててキティ瓢田にもどる瞬間なのだが、そのとき何度も同じことを書いてしまうが、宮沢りえは、その「演じている役」をすてて自分に帰るという運動そのもののなかで、宮沢りえになる。キティ瓢田を突き破って、宮沢りえが動く。--だから、というのは、私自身のすけべごころをさらしているようで恥ずかしいが、あ、宮沢りえの乳房が見えるかもしれない、宮沢りえの恥部が見えるかもしれない、芝居だから何が起きるかわからない、と一瞬思ってしまうのだ。
 こういうはらはらどきどきで劇場の視線をひっぱっていく力はすごい。はらはらどきどきを、はらはらどきどきさせながら、瞬間瞬間には忘れさせてしまう力がすごい。実際に宮沢りえの乳房がこぼれるということがないのだが、たとえ乳房がこぼれたとしても、それを見たことさえ忘れるに違いない「肉体」の迫力がある。肉体があれば乳房があるのは当然という清潔さがある。
 これは、たとえば藤原竜也がオカマの集団に襲われ、ズボンを脱がされるシーンと比較すると歴然とする。藤原竜也の下半身は肌色のタイツでしっかり防御され、生身をさらしていない。そこには「役」としての「洋一」はいるけれど藤原竜也はいない。
 この宮沢りえと藤原竜也の差は、非常に大きい。藤原竜也の演技は安定しているが、はらはらどきどきがない。
 はらはらどきどき--と書いたついでに。
 宮沢りえの歌ははらはらどきどきする。音痴の私が言うと、じゃあ、おまえ歌ってみろと言われそうで困るのだが、音が不安定である。高い音から低い音へ下がってくるときの、そのいちばん下の音が特に不安定に感じる。感じるのだけれど--これが、また非常にびっくりする。どこから出で来る声なのかわからないが、その不安定な音を突き破って、ハスキーな、非常に広い声が聴こえてくる。えっ、これテープ? 口パク? と思ってしまう。最初の歌の、最初の低音で、それを感じた。宮沢りえの肉体から離れた場所、劇場の空間の、どこかわからない場所からすーっと広がってくる声。 あ、もういちど聴きたい。もう一度リプレイして、と言いたくなる。
 ハスキーな声というのは、基本的には硬質な声だと思うが、宮沢りえのハスキーな低音は、とてもやわらかい。声の出所が「のど(声帯)」ではなく、違うところにあるような印象がする。「肉体」の内部に、不思議な共鳴装置がついているのかもしれない。

 蜷川の舞台はけれんみが充満している。この芝居には、そのけれんみがとてもあっているとも思う。水の張った池(地下)から3階建て建物まで、天地の空間も存分につかって肉体が動くのは、まさに「見せ物」であり、とても楽しい。どんな哲学も「見せ物」にして肉体化するというのは楽しい。
 特に池に水を張り、役者がそこに飛び込み走り回るとき、観客に水しぶきがかかる。そのとき、観客席はもう舞台なのだ。観客の全員が濡れるわけではないが、ひとりでも濡れれば、そのとき観客は全員濡れるのである。
 芝居は、やっぱり、いい。そこに「肉体」があるというのは、すばらしい力だ。
 この芝居は、芝居に関する芝居なのだが、見ながら、詩のことばは、いまここで演じている役者の「肉体」のような力を獲得しないと、ほんとうの詩にはならない、とふと思った。




下谷万年町物語 (1981年)
唐 十郎
中央公論社
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唐十郎「下谷万年町物語」

2012-01-28 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
唐十郎「下谷万年町物語」(2012年01月27日、シアターコクーン)

 演出・蜷川幸雄、出演・宮沢りえ、藤原竜也、西島隆弘。(2012年01月27日、シアターコクーン)

 玉手箱のような芝居である。劇とは何か--さまざまな角度から問いかける。
 いろいろな見方があるだろうが、私は劇・芝居とは、そこにないものをそこにあるものとして存在させることである。舞台の上で演じられていることは、いまここで起きていることではなく、かつて起きたことである。かつて起きたことであるけれど、いまここで役者が演じるとき、かつて起きたことが、いまここで起きていることになる。ここには、不思議な矛盾がある。
 だれかの役を演じる。そのとき役者は役者であるけれど、役者ではない。いまここにいないだれかである。いまここにいないだれかであるけれど、それではほんとうにそのだれかなのかといえばそうではなくて役者である。
 わかりきったことだが、そのわかりきったことのなかにある矛盾。
 このことを、この芝居では「そこにいる」「そこにいない」ということばで簡単に表現している。
 そこにいないのに、それを求めるとき、そこにいる。いや、そこにいてほしいと求めるとき、そこにはいなくて、「ここ」にいる。「ここ」とは求める人間そのものの「肉体」のなかにいる。
 というのも、矛盾である。
 この矛盾を、宮沢りえが、実に美しく、実に劇的に、具体化する。具現化する。宮沢りえは、宮沢りえでありながら、キティ瓢田であり、キティ瓢田はキティでありながら、洋一を演じる。その洋一は、いまそこにいて、キティに洋一を演じさせている。このとき、宮沢りえと洋一の関係は?
 考えると、ややこしい。
 だが、芝居はややこしくない。演劇に通じるいろいろな問題をことばにして語るが、それはどうでもいい。そこに宮沢りえがいて、体を動かしている。演じている。それは、しかし宮沢りえが演じているのではないのだ。
 という書き方(言い方)は矛盾だが、あえて言う。
 そこでは宮沢りえが演じているのではない。キティが、宮沢りえを演じているのだ。あるいは洋一が(キティによって演じられた洋一が)、宮沢りえを演じている。宮沢りえとはこういう役者であると、演じている。
 私は芝居を見ていないのである。劇を見ていないのである。ただ、宮沢りえという役者の肉体を見ている。その動きを見ている。声を聴いている。歌を聴いている。ダンスを見ている。白いタキシードを見ている。赤いシュミーズを見ている。あ、脱げそう、とすけべごころを抱きながら、その衣装を肌そのものにして動き回る宮沢りえを見ている。細い細い宮沢りえを見ている。細いけれども、絶対に折れない強靱な何かを持っているその肉体を見ている。白い肌を見ている。その肌を汚す血のあざやかさを見ている。宮沢りえそのものを見ている。
 人と人が出会い、そこで何かが動くとき、その動きは矛盾に満ちている。どんなに志が同じであっても、人と人はそれぞれの肉体を持っているから、どうしたってひとつにはなれない。けれど、その不可能へ向けて人間は動く。矛盾を肉体の内部にとりこみ、肉体で押さえ込む。あるいは肉体をとおして矛盾を噴出させる。押さえ込むことは噴出することは相反することがらだけれど、つまり矛盾することがらだけれど、その矛盾があらわになるとき、そこにかけがえのない「ひとつ」の絶対的な「肉体」が屹立する。
 それにしても美しい。白と赤がとても似合う。この世に、ほかの色があるのを忘れてしまうくらい、宮沢りえには白と赤が似合う。
 宮沢りえはいつ出てくるんだ、なぜ出でこないと我慢しきれなくなったころ、みどりの瓢箪池から瀕死の状態でひきあげられる。そのときの白の輝き。ライティングで輝いているのではなく、宮沢りえがライトに向かって発光しているのだ。強い光を投げかけているのだ。だからこそ、その輝きは劇場全体をつつむ。
 このときからほんとうの芝居がはじまる。宮沢りえの肉体が、ほかの役者のすべての肉体を引き寄せ、突き放す。宮沢りえの肉体をとおって、純粋になり、猥雑になり、狂おしくなり、悲しくなり、切実になる。「芝居」なのに芝居ではなく、いま、ここで起きていることになる。役者たちは唐十郎の書いたことばを声にしているのではない。蜷川の演出に従って動いているのではない。宮沢りえが、唐十郎にこういう芝居を書かせたのだ。蜷川にこういうおおげさな舞台を要求したのだ。--というのは、もちろん時系列的にいって矛盾だが、しかし、芝居が演じられるとき、役者が動き、ことばが発せられるとき、事態は逆転するのだ。そこにあるのは、まず役者の肉体である。そのなかで唐のことばが動き、蜷川の演出が動くだけである。
 繰り広げられるのは、どこまでがほんとうなのか、ほんとうは何が起きたかのか、わからない。しかし、そのわからなさを貫いて、そこに宮沢りえがいるということがわかる。宮沢りえのなかで、いくつもの激情が炸裂し、疾走し、暴れているのがわかる。それがどこまでつづくのかわからなくなる。もう、それは唐の書いた芝居ではない。蜷川の演出した芝居ではない。宮沢りえの肉体が舞台そのものになっている。劇そのものになっているのだ。
 もし肉体というものがなければこころはもっと傷つかずに生きられるのか。あるいは逆に肉体というものがあるからこころは傷ついても傷ついても生きられるのか。--こんな問いかけはおろかだ。どっちでもいい。そのときそのとき、人はどちらかを選ぶだけに過ぎない。どちらを選んでも、そこには肉体がある。そのたしかさ、その強さに震えてしまう。




下谷万年町物語 (1983年) (中公文庫)
唐 十郎
中央公論社
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「フェルメールからのラブレター展」

2012-01-28 21:42:12 | その他(音楽、小説etc)
「フェルメールからのラブレター展」(ブンカムラ ザ・ミュージアム、2012年01月27日)

 「フェルメールからのラブレター展」は、2011年07月20日に京都市美術館で見ている。2011年07月25日の日記に感想を書いた。今回、時間の都合でフェルメールの3点だけを見に行ったのだが、
 うーん。
 京都で見たときとまったく印象が違うので驚いた。
 ブンカムラの展示では、フェルメールの作品だけ、壁面が赤い布で覆われていた。また絵のなかに出てくるような厚手のカーテンが装飾的に天井近くに飾ってある。これがうるさい。絵のまわりで不愉快な音がするのである。そして、そのために絵のなかにある(絵から聴こえてくるはずの)音楽が少しも聞こえてこない。
 「手紙を読む青衣の女」の場合、私の記憶(アムステルダムで見たときと京都で見たときの記憶)では、左側の窓からの透明な光そのままに、しずかな音からほんのすこしずつさらに静かになって右下の椅子の青い座面に落ち着く。沈黙。--しかし、沈黙ではなくて、そこには聞きとれない音がある。音を飲み込む音かもしれない。あれは、まぼろしだったのだろうか。
 絵全体がもっている青と白の波長と、赤の波長が違いすぎるのかもしれない。
 京都で見たとき、壁面がどうだったのだろう。思い出せない。やはり赤い色の布が背後を覆っていただろうか。そうなら、そのときうるさい音を感じなかったのはなぜだろう。壁面の大きさだろうか。室内の空間の大きさだろうか。あるいは他の壁面の色、床の色が関係しているのか。
 照明の仕方も非常に気になった。何かうるさい。光がわざとらしい。フェルメールの絵は光の諧調が美しいのが特徴だと思うが、絵のなかの光の音楽と、会場の絵を照らす光の音楽があわない。絵が窮屈に閉じ込められている感じがする。絵がカンバスの外に広がってゆかない。
 ただし、「手紙を書く女」の場合は、背後は赤でもいいかな、と思った。絵のなかの黄色い色が、不思議に強い音に聴こえてきた。背後というか、周囲の赤い色を吸収して、黄色が輝きを増す。そのとき、何か強い音が響いてくる。

 京都展も東京展も主催に「朝日放送、テレビ朝日、博報堂」が名を連ねており、「京都市美術館」と「ブンカムラ」が違うだけなのだが、展示の指示はだれがやっているのだろうか。

 でも、こういう体験をすると、絵はやはり生きものという感じが強くなる。どこで見るか。いつ見るか。それもきっと絵の大切な要素なのである。その土地の空気、光もきっと影響する。自然光を遮断した室内で見るにしても、空気が違う。絵が呼吸する空気が違うと、絵は変わってしまうのかもしれない。
 ブンカムラで見た人は、ぜひ、違う会場でもう一度見直してください。きっと印象が違うはずです。
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アン・アキコ・マイヤース ヴァイオリンリサイタル

2012-01-10 22:27:36 | その他(音楽、小説etc)
アン・アキコ・マイヤース ヴァイオリンリサイタル(アクロス福岡シンフォニーホール、2012年01月10日)

 アン・アキコ・マイヤースを聴くのは初めてである。たいへん攻撃的な演奏だと思った。ベートーヴェン「ヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調、春」の第1楽章。アン・アキコ・マイヤースの演奏する春は、明るさ、のどかさ、はつらつというより苦悩である。詩でいうとエリオットの「荒れ地」という感じ。
 疾走する輝く音に、水のきらめきを感じることが多いが、アン・アキコ・マイヤースの音にはそれ以前の「春」を感じる。氷が溶ける。そのときのきらめき--ではなく、氷が死ぬ、という苦悩のようなもの、氷が死ぬことで春の清冽が美しさが生まれる。その、矛盾した一瞬、死と生が拮抗している感じがして、びっくりしてしまった。
 この印象は「春」の間中、かわらない。もちろんずーっと氷が溶ける苦悩というのではないけれど、何かが萌えいずるとき何かを破壊する。破壊されたなかから新しいいのちが誕生する--といういのちの緊張感を感じた。
 この印象は、その前に聴いたシュニトケ「古い様式による組曲」の影響が私に残っていたせいかもしれない。これは初めて聴く曲だった。演奏の前にアン・アキコ・マイヤーズが曲の内容というか誕生秘話を紹介してくれた。シュニトケが歯科治療を受けた。そのときの印象を曲にしたという。「だから最後の第4楽章にはとても気持ちの悪い音がでてくる。歯の神経を抜いている感じ」という。たしかにとても気持ちの悪い音がでてくるのだが、--気持ちが悪いといえば言えるけれど、私にはとても強い音に感じられた。だれも表現したことのない強さ。だれも経験していないから、その音をどこに位置づけていいかわからない。不安になる。だから気持ちが悪いということになるのだが、最初に気持ちが悪い音と聞いていたせいか、私には気持ち悪さよりも強さの方が印象に残った。
 奏でる--というより、絃から音を絞り出す。まだ、だれも出していない音を絞り出すという感じがする。円熟の正反対、円熟することを拒んで音を突き破ろうとする音。音のなかの闇を噴出させる感じがする。
 ジイコブ・チウピンスキー(で、いいのかな?)「海の底のウンブリア号(日本初演)」はシンセサイザーとの共演。作曲家がアン・アキコ・マイヤースのために作曲した曲。作曲家がダイビングをしたとき海底で難破船を見つけた。その印象がこの曲を生み出したという。この演奏も非常に強い音である。絃から絞り出すと同時に、何かと向き合っている。その向き合っている対象は、アン・アキコ・マイヤースの「解説」に従えば、ジイコブ・チウピンスキーが海底で発見したもの、出会ったものということになるのだろうけれど、暗いことが輝きであるような、強い印象がある。刺激的だ。
 滝廉太郎「荒城の月(三枝成彰/マイヤース編)」は私には不思議な印象がした。日本の、しかも歌詞がついている曲を聴くとどうしても「日本語の呼吸」で聴いてしまうことになる。それが、あわない。つまりアン・アキコ・マイヤースの演奏と私の呼吸があわない。あたりまえのことなのかもしれないが、こういう音の方が、私には「気持ちが悪い」。聴いたことのない「和音」(「古い様式による組曲」「海の底のウンブリア号」の和音)よりも、呼吸が何か違う感じがする。
 呼吸で、ちょっと驚いたことがある。私はたまたまアン・アキコ・マイヤースの近くで演奏を聴いたのだが、彼女の呼吸(息づかい)の音がすごい。近くといってもかなりはなれていて(8メートルくらい?)、私は目が悪いせいもあり、最初は「だれか寝息を立てているのか」と思ったのだが、そうではなかった。力を込めて、ふりしぼるように演奏するその直前に、「すーっ」と強く息を吸い込むのである。そしてゆっくり吐き出す。ほかの演奏家は知らないが、あ、そうか、ヴァイオリンも「息」で演奏するのか、と思った。どうりで人間の声に近い深さの幅がある。


バーバー:ヴァイオリン協奏曲 作品14/ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調 作品26
マイヤース(アン・アキコ),バーバー,ブルッフ,シーマン(クリストファー),ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
ポニーキャニオン
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小池昌代『自虐布団』

2012-01-08 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『自虐布団』(本阿弥書店、2011年12月08日発行)

 小池昌代『自虐布団』は短編集。最初の「醜い父の歌う子守唄」に「時間の隙間からは永遠が見え、」ということばが出てくる。小説に限らず、文学はみな「瞬間の隙間から永遠が見え」るときのことを書こうとしていると思う。そのとき、「永遠」とはどんな形をしているか。何に存在基盤をおいているか。「永遠」なのだから存在基盤など必要ないのかもしれないけれど……。
 小池はいろいろなことを書いているが、私が「永遠」を感じるのは、たとえば、

 「詩」という言葉は不吉である。耳で聞くと、「死」と区別をつけることができない。しかし「しっ」という、叱責のような子音の破裂は、発音するたびに、妙な快楽を口内に残す。

 ここでは、ことばはまず「耳で聞くと」と聴覚の問題として語られている。しかし、その聴覚で「詩」と「死」が区別できないと書いた後、すぐに「叱責のような子音の破裂は、発音するたびに、妙な快楽を口内に残す。」と「発音」の問題に変わってしまう。
 そして、その「発音」は「快楽」に変わってしまう。
 「口内」の「快楽」。肉体の快楽。
 この「変化」のなかに、そして、変化をつなぐものに、私は「永遠」を感じる。
 人間の「肉体」なかには(感覚のなか、精神のなか、というひともいるかもしれない)、それぞれが独立しながら、何かと混じり合うものがある。
 ことばを考えるとき、小池が書いているように、聞くという要素があり、また話すという要素がある。そして、それぞれに耳が対応し、口(喉)が対応する。耳と口は名前が違うのだからもちろん別個の存在なのだが、肉体としてつながっていて、その肉体としてつなぎとめるなにか、特定できない力が協力して動く。
 で、その耳と口をつなぎとめ、ことばを肉体に引き入れる力--それが動くとき、小池はそこに「快楽」を見つけ出している。
 そこが、私は好きだ。
 それも(というのは、ちょっと論理的ではない言い方なのだけれど)、精神の快楽ではなく、「口内の快楽」(肉体の快楽)。
 このとき「永遠」は「どこ」にあるのか。
 「肉体」のなかにある。
 --永遠を発見するとは、肉体を発見することなのだ、と私は思う。

 ことばと肉体。肉体はことばにふれて、肉体のなかに永遠を発見する。そういうことが、この短編集のひとつのテーマだと思う。

 「凍れる蝶」の次の部分も、とても好きだ。

 「冬ざれ」という言葉に惹かれた。「ざれ」という音、石畳に靴底がこすれる感じがする。その下を見ると、俳句が一句。
 冬ざれや石に腰掛け我孤独  虚子

 ここでは主人公は「冬ざれ」の「意味」を理解していない。理解しているのかもしれないけれど、どういう意味かということを書かずに、「石畳に靴底がこすれる感じ」と自分の肉体が体験したこと、そしてそのとき感じたことの方へことばをひっぱっていってしまっている。「意味」よりも、自分の肉体と感覚、肉体がおぼえているものを「耳」で復元して俳句をつかみ取ろうとしている。
 このとき、主人公の解釈は間違っているかもしれない。
 しかし、間違っていても、そのとき「永遠」が見える--のだと私は思う。
 「正しい解釈」と「誤った解釈」の「隙間」から「永遠」が見える。「肉体」のなかに残っている「音」が見える。

 ことばは「意味」である前に音である。それは耳で聞くもの。そして口(喉)をつかって発するもの。聞いて、発して。発して、聞いて。その繰り返しのなかで、「意味」が「肉体」のなかにたまってくる。「意味」がととのってくる。
 そこには「誤解・誤読」が混じっているかもしれない。
 でも、その「誤解・誤読」は、もしかすると「ほんとう」の何かかもしれない。
 「頭」は「ほんとう」だけを選びとるわけではない。「ほんとう」を選んでしまうとめんどうくさいので、あえて「うそ」も選びとるという操作を「頭」はすることができるが、「肉体」はそんな具合にはいかない。肉体は「快楽」の方を選んでしまう。こっちの方が気持ちがいいから、こっちでいい。そのときの「間違った選択」のなかに、「永遠」がある。間違えることができるという不思議な永遠がある。

 --ということが、それこそ、ちらっ、ちらっと見える作品集である。

 あ、「苦痛」なのかに見える「永遠」も、補足しておく。やはり「凍れる蝶」のなかの部分。

 最近、父の本棚が明るくなった。そればかりか品もよくなったと思う。(略)てかてかの表紙のなかに、布張りの本だの、箱入りの部厚い本だのが混ざり、それらには、あまり見たことのない単語が重々しく印字されていた。ただそれだけの変化なのに、父と二人だけの生活に、見知らぬ人がそっと混じってきたかのようで、時子は微妙な違和感を覚えている。

 小池は「苦痛」とは書かずに「違和感」と書いているのだが、これは「快楽」とは逆のものだね。それを主人公は肉体で「覚えている」。
 「覚えている」(覚える)というのは不思議なもので、「知る」わけではないが、「知る」を超えている。
 たとえば自転車に乗る。泳ぐ。そういうことを私たちは「肉体」で「覚える」。そうすると、長い間それをしていないくても自転車に乗れる。泳げる。どんな仕組み(?)で自転車が転ばないのか、肉体が沈んでしまわないのか--そんなことは説明できないが、ちゃんと肉体をつかって、肉体で動いていける。「つかえる」というのが「覚える」の力である。
 「快楽」も「肉体」で「覚える」が、「苦痛(違和感)」も「肉体」で「覚える」。
 そして、その「覚えている」何かを、もう一度「肉体」のなかへ探しに行って、「覚えている」ことを復元するとき--その力のなかに「永遠」はある、と私は小池のことばを読みながら感じた。

(補足の補足)
 この本棚の部分を、「詩」(しっ、口内の快楽)や「冬ざれ」と比較すると、おもしろいことがひとつある。
 小池が肯定的にとらえている「永遠」には、「口」「耳」など、音が関係しているが、否定的にとらえている「永遠(違和感)」には音がない。本棚の「ことば」を主人公は口に出して「違和感」を感じているのではない。「目」で「見て」感じている。
 目で見ることばよりも、小池は耳で聞き、口にすることばが好きなのだと思う。





自虐蒲団
小池 昌代
本阿弥書店
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大西若人「どこが『美人画』なのか」

2011-08-31 17:10:01 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「どこが『美人画』なのか」(「朝日新聞」2011年08月31日夕刊)

 大西若人「どこが『美人画』なのか」は岡田三郎助の「あやめの衣」について書いた文章である。後ろ向きの、肩肌を脱いだ女性を描いているが、顔は見えない。それなのに「美人画」と言われている。それはなぜ?

 丸みのある顔のライン、赤みが差す耳や頬、そして、さまざまな色彩が重なり合ったきめ細かい素肌。確かに美しいが、着物の部分を隠してみると、急に魅力が減じはしないか。鮮やかな着物が美しいのも間違いないが、美人の根拠にはなりえない。

 「着物の部分を隠してみると、急に魅力が減じはないか。」という問題提起の形でのことばの動かし方が大西マジックである。「減じはしないか」という気取った(口語的ではない)ことばが、これから「大事なこと」を書くぞ、と告げている。
 そして、実際「大事なこと」(魅力的なことば)が次の段落で始まる。

 だが、両者の組み合わせの妙。完全なヌードでもなく、着衣でもない。右肩がのぞく構図は次の動きを想像させ、きぬ擦れまで聞こえそうだ。

 「両者の組み合わせの妙。」という体言止めで、ことばが加速する。「完全なヌードでもなく、着衣でもない。」と否定形をたたみかける。そして「右肩がのぞく構図は次の動きを想像させ、きぬ擦れまで聞こえそうだ。」の文の巧みさ。「想像させ」ということばで、絵を見るには想像力がいるのだと指摘した後、絵にはないもの(視覚では捉えられないもの)、つまり「きぬ擦れ」という「音」を聞かせようとする。聴覚を刺激する。芸術のなかで、人間の感覚が融合し、そこから絵を超える「美しさ」が噴出してくる。
 あ、絵よりも美しい。――絵より美しくていいのか、という疑問が常につきまとうのが大西の欠点(長所)である。

 今回の文章は、しかし不思議だねえ。最後の段落がつまらない。大西の文章でつまらないと感じたのは初めてのことなので、指摘しておく。

 ヌードでもなければ、着衣でもない。顔も見えない。否定形の積み重ねの果てに、大いなる美が肯定されている。

 これは、私が引用した二つ目の段落の繰り返しである。「完全なヌードでもなく、着衣でもない。」「ヌードでもなければ、着衣でもない。」の繰り返しは、あまりにもことばが重なりすぎるし、「否定形の積み重ねの果てに、大いなる美が肯定されている。」という美の数学は、せっかく「きぬ擦れまで聞こえそうだ。」と書いたときの、「聴覚」の存在を見えなくしてしまっている。
書きすぎて、「美」が傷ついてしまった。


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古代ギリシャ展

2011-07-31 15:04:53 | その他(音楽、小説etc)
古代ギリシャ展(国立西洋美術館、2011年07月20日)

 「円盤投げ」の彫像を見ながら不思議な疑問を持ってしまった。
 モデルが誰であるかわからないが、この裸の青年の手足、頭、胸、腹、腰--つまり、その肉体はモデルの肉体を正確に再現しているのだと思うが、それを美しいと感じるのは、いったい、なぜなんだろうか。
 この前にセザンヌを見ていなければ、たぶん、こういう変な疑問は生まれなかった。
 私は、もともとピカソが好きである。それも「青の時代」とか「ピンクの時代」という初期の、リアリズムをある色で叙情的に統一した作品群ではなく、晩年のエッチングに代表されるような、いわばデフォルメの多い、猥雑で、でたらめな作品群が大好きである。そういう作品とギリシャの美術は遠く離れている。
 ギリシャ美術展の前にみたセザンヌの父を描いた絵もデッサンが狂っている。私の好きな絵は、ようするに「正確」とはかけ離れている。「正確」から「逸脱」し、狂っている、狂いを含む作品こそ芸術だと感じている。
 それなのに「円盤投げ」を見ると感心してしまうのである。美しいと思ってしまうのである。それも、その作品が、円盤を投げる動作の一瞬を切り取り、「正確」に再現しているから美しいと感心してしまうのである。「動き」を「正確」に再現している。肉体がそうした姿勢をとるときの「筋肉」の変化を「正確」に再現している。「肉体」のなかの、いのちの躍動を「正確」に再現している。だから、「美しい」。
 「美しい=正確」という「基準」が、なんの躊躇もなく、私のなかに蘇ってくる。
 それだけではない。青年の「肉体」の動き、その筋肉や骨の動きが、私の眼を通って私の肉体のなかに入ってくるとき、この青年のとっているような一瞬のポーズを私は再現できないことを知る。私は円盤投げをしたことがないから、こいうポーズをとれないが、たとえ円盤投げをしたことがあっても、こういうポーズをとれない。その肉体の動きは、私を完全に超越していると感じる。
 「正確」と「美しい」の間に、「私を超越する」という感覚がまじっている。
 と、ここまで書いて、ちょっと私は落ち着く。ギリシャの「正確」は「私を超越する・逸脱する」ことによって「美」に到達している。
 「逸脱」という項目を挟み込むことによって、もしかしたらピカソの逸脱、セザンヌの逸脱と通じるものがあるかもしれない--と考えることができる。(かもしれない)。

 でも、強引だなあ。これは。私のことばは、どこかで、それこそ「逸脱」している。

 「私を超える」ということばを何か別のことばに置き換えて考え直す必要がある。ことばを動かしなおす必要があるのだ。
 「美しい=正確」。その「正確」はほんとうにその青年を「正確」に再現しているのか。それとも「正確」をよそおって何らかなの「加工」が施されているのか。
 ここに「私を超越する」ではなく、作者を超越する、ということばを差し挟んでみる。そのとき作者にとって「作者を超越する」とは何だろうか。作者がたどりつこうとしてたどりつけないもの。
 理想。
 それは単なる「正確」ではなく、「理想」にとって「正確」ということなのだ。
 「イデア」ということばも思い浮かぶ。これは、私がプラトンが大好きだからなのだが、人間には何かしら「いま/ここ」では満足しきれない思いがあって、それがかってにつくりだすものがある。
 理想。
 この不思議なものが「正確」を制御する。「正確」を超えて、別な形にする。「正確」を超えたときにのみ、「美しさ」がほんとうに輝く。

 これ、しかし、ちょっと困ったことだなあと思うのである。
 「美術」さえもプラトンに代表されるギリシャ哲学の「領域」のなかで動いている? ほんとうは違うかもしれないが、私のことばは知らずにそういう領域で動き回る。そこを超えることができない。
 別に超える必要はないとは思うのだが、不思議なのである。
 「正確」であること、そして「正確」をより正しく「正確にする」(理想化する)ということばの運動。精神の運動。意識の働き。
 なぜなんだろうなあ。
 たとえば、そういうこととは完全に縁を切って、自堕落に酒におぼれて肉欲におぼれて、だらしなく生きたら楽しいだろうなあという「理想」も私にはあるのになあ。

 ギリシャ美術を見ながら「美術」を逸脱して「ギリシャ」そのものにとらわれてしまったのかな?
 私は美術のことはまったく知らないが、美術の専門家(あるいは歴史の専門家でもいいけれど)は、ギリシャで生まれた「美」(正確)と、いま・ここで(たとえば東北大震災後の日本で)動いている美意識との関係を、どんなふうに定義しているのだろうか。
 どうことばにすることで「鑑賞」の立場を維持しているのだろうか。
 なんだか、わけのわからないことばかり考えてしまうのだった。
                             (09月25日まで開催)



ギリシャ美術史―芸術と経験
J.J. ポリット
ブリュッケ
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ワシントンナショナル・ギャラリー展(2)

2011-07-29 09:16:09 | その他(音楽、小説etc)
ワシントンナショナル・ギャラリー展(2)(国立新美術館、2011年07月20日)

 セザンヌ「『レヴェヌマン』紙を読む画家の父」は不思議な絵である。素人の私からみるとデッサンが狂っている。セザンヌの父が背もたれ、ひじ掛けのある椅子に腰掛けて新聞を読んでいるのだが、ひじ掛けの描き出す「透視図」が変である。ひじ掛けが手前にむかって狭まって見える。椅子の前面よりも背後の方が広い。椅子の座面が台形になっている。しかも逆台形に。こんな椅子ある?
 で、この狂った透視図をセザンヌは巧妙に隠している。セザンヌの父はまっすぐに腰をおろさず、画面を中心にしていうと向かって右側半分に上半身をずらして座っている。ひじ掛けと座面がつくりだす直角の隅っこを隠すようにして座っている。逆台形の前面の線は足で隠されて見えないようになっている。
 でも、いくら隠したって、これは狂っているよなあ--と思うのだが、絵の前を歩きながら通りすぎたとき、変なことが起きた。
 虎の絵で、どこから見ても(右から見ても、左から見ても、正面から見ても)、どうしても目が合ってしまうというものがある。(たしか小倉城にも、その一枚があった。)その虎の絵のように、動きながら右から見る、正面から見る、左から見ると、どういえばいいのだろう、まるで「ほんとう」の人間が座っているように見えるのである。誰かが椅子に座っている--その前を、その人のことを気にしながら歩いていく。ちらちらと視線をやりながら。そのとき見える「人間」のように、セザンヌの父が見えるのである。
 通りすぎながら対象を見るとき、私たちの目は(私の目は?)、その人のまわりを含め、つまり全体を見ているのは見ているのだが、視線の焦点は体のある一部を見ている。たとえば顔を。あるいは、組んでいる足の組み方を。あるいは、上半身を傾けている、その傾き具合を。
 自然に見えたのである。
 正面からじーっと探るように見たときは、狂って見えるデッサンが、動きながら見ると気にならない。気にならないどころか、自然に見える。
 モノの「日傘の夫人」について書いたとき、モネはモデルの手前にある空間を描いている、と書いたが、同じような言い方をすると、セザンヌは何を描いているのだろうか。絵の前を通りすぎながら見ると自然に見える絵だから、やはり手前の空間? 違うなあ。セザンヌの絵の前では、「空間」を感じない。モデルの奥、モデルから始まる空間しか感じない。モデルの奥の空間を感じるからこそ、その奥に向かっての透視図の狂いが気になるのだ。
 では、何を見ている。
 絵の前を通りすぎる。何度も、往復する。
 あ、絵は動かないが、目は動いている。私が動き回っている。そうなのだ。セザンヌの目は動いているのである。
 考えてみれば、これは自然なことだ。何かを見つめるとき、私たちは「一点」にとどまって何かを見るわけではない。いろいろな角度から見る。私の「肉体の目」は二つだが、その二つの位置は肉体とともに動く。視点はひとつではない。複数ある。複数の目が一枚の絵のなかで出会っているのである。複数の目が一枚の絵を作り上げているのである。
 この複数の目をさらに過激にすると、たとえばピカソになる。ひとりの顔のなかに横から見た目、正面からみた目が同居することになる。セザンヌはそこまで過激なことをしていないが、その先駆けをやっている。それぞれの細部をがっしりと描きながら、複数の視点で画面を再構成している。
 絵とは、セザンヌにとって、対象の「再現」ではなく、「再構築/再構成」なのだ。再構築・再構成のために、対象を四角や円や三角や、揺るぎない純粋な形にまでつきつめているのだ--そう思った。
                             (09月15日まで開催)



セザンヌ (ニューベーシック) (タッシェン・ニューベーシックアートシリーズ)
クリエーター情報なし
タッシェン
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ワシントンナショナル・ギャラリー展(1)

2011-07-28 12:35:02 | その他(音楽、小説etc)
ワシントンナショナル・ギャラリー展(1)(国立新美術館、2011年07月20日)

 モネの「日傘の女性、モノ夫人と息子」が展示されているコーナーに入った瞬間、私は、ぐいっとその絵に引きつけられた。駆け寄りたい衝動に襲われた。
 この絵は美術の教科書にも載っている。中学の美術の教科書で見たのが最初である。私は、印象派の絵はもともと好きではないし、この絵も好きと思ったことは一度もない。気障、というか、光の眩しさを強調するために影に焦点をあてているのが「わざとらしい」感じがして嫌いだった。「逆光」の構図が「わざとらしい」と感じて大嫌いだった。
 その大嫌いな絵が、ぐいっと私をつかむのである。「ほんもの」の力といえばそれまでなのだが、何が美しいのだろう。ほかの絵と何が違うのだろう。

 絵というのは--私は素人だから、ごく単純に考えるのだが、たとえば人を描くとき、人が中心である。そして人が中心ということは、人が「前面」にでているということである。バック(背景)はあくまでバック(後面)である。つまり、人の後ろに空間があり、空間はそこに描かれている人の後ろにある。あるいは、人の横(となり)に広がっているものである。もちろん人の前にも空間はあるのだが、それは描く瞬間に消える。描かれている人からしか空間は始まらない。そう思っていた。
 その考えが(そういう絵の見方が)、この絵を見た瞬間、くつがえったのである。びっくりしてしまった。
 描かれているモネ夫人の背後にも空間がある。まぶしい雲と青い空が背後にある。モネの息子もモネ夫人の背後にいて、視線を絵の奥へと誘っている。それにもかかわらず、私は、モネ夫人の背後、あるいはモネ夫人の横に広がる空間を感じる前に、モネ夫人の手前にある空間を強く感じたのだ。モネとモネ夫人の間、モデルと画家との間にある「空間」をとても強く感じたのだ。
 逆光のため、モネ夫人の影が手前に伸びているから?
 そうなのかもしれないが、そうした「構図」を超えたものが、ここには描かれていると感じたのである。

 モネ夫人は絵のなかで振り向いている。そのとき影が動いている。影の占める「領域」そのものは動かないけれど、その「領域」のなかで影が動いている。その動きは、影ではなく、ほんとうは光なのだ。モネ夫人が振り返ったとき、水色の影が涼しく流れたのではなく、光が錯乱したように動いたのだ。光が乱反射したのだ。
 モネ夫人の背後の光は動かない。均一である。けれど、モネ夫人とモネの間では、その「均一」が崩れる。いままで動かずに存在していた光が動いたのだ。モネとモデルの間にある光、それが動いた。その変化をモネは描いているのである。

 対象の表面に存在する光、光の変化としての色ではなく、対象と画家との間にある「空間」そのものの変化をモネは描いている。この絵は、画面の奥に向かって立体的なのではない。画面の手前に向かって立体的なのである。そして、その立体感は「透視図」ではとらえられない立体感である。まるごと、「空間」そのものがそこに存在する。その「空間」のなかに入って、「空間」そのものを見つめるための絵なのだ。

 私は、この絵によって、私の絵画観(大げさすぎるかもしれないけれど)が変わってしまった。絵のなかに描かれた「空間」ではなく、その手前にある「空間」というものに気がついた。
 そして大好きな一枚になってしまった。
 「ほんもの」はすごい。「ほんもの」は見なくてはならない、とあらためて思った。
                             (09月15日まで開催)




モネ (ニューベーシック) (タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)
クリエーター情報なし
タッシェン
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