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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

レンブラント光の探求/闇の誘惑

2011-07-27 09:01:35 | その他(音楽、小説etc)

レンブラント光の探求/闇の誘惑(名古屋市美術館、2011年07月20日)

 レンブラントの版画(エッチングなど)を意識的に見たことはなかった。名古屋市美術館の催しは油絵よりも版画が多かった。版画も油絵同様、夜の闇とろうそくの光を描いたものが多いのだが、「ヤン・シックス」は昼の光を描いていておもしろい。
 男が窓辺に立って、窓を背にして、雑誌を読んでいる。逆光である。逆光だから、顔は暗くなる--はずなのだが、雑誌の照り返しが顔にあたり、完全な逆光にならずにやわらかな光をただよわせている。とても微妙である。その微妙な陰影と、無傷(?)の窓の外の光の対比がとてもおもしろい。
 フェルメールの光も繊細だが(フェルメールを見た直後なので、どうしても思い出してしまう)、この「ヤン・シックス」の光の繊細さには圧倒される。繊細な豊かさ--というような、ちょっと矛盾したことばがかってに動きだしてしまう。
 フェルメールは昼の光、レンブラントは夜のろうそくの光と私はかってに思い込んでいたが、レンブラントにも、こんなに美しい昼の光があるのだ、と驚いてしまった。
 油絵に、どんな昼の絵があっただろうか--そう思いながら会場をめぐっていると、「アトリエの画家」に出会う。全体のトーンの明るさが「昼」をあらわしているが、「昼」を決定づけるのはカンバスの角の真っ白な光である。カンバスの板の断面。それがまるで太陽の光を反射する鏡のように輝いている。真っ白な、すべてを拒絶する力が、そこにある。
 朝日新聞で大西若人がこの絵について書いていたことがある。その大西の文章に対する感想を、このブログで書いたことがある。何を書いたか忘れてしまったが、あ、大西はこの真っ白な拒絶する光を見たのだ--とそのとき思った。
 拒絶する光--と私は書いたのだが、なぜ、拒絶するということばが突然浮かんだのだろう。
 記憶のなかで、もう一度絵を見つめなおす。そうすると、その白は、太陽の光の反射ではなく、それ自体で発光しているように見えてくる。
 この強い光に対抗できるのは、セザンヌの塗り残しの空白だけである、とも思った。
 色になる前の、純粋な光、純粋な白。純粋すぎるので、それに追いつけない私が、拒絶されていると感じてしまうのかもしれない。
 そうすると……私がなじんでいるレンブラントの夜の光とは何だろう。昼の太陽の光が色になる前の純粋な透明な白だとすると、夜の光は色になってしまったものの「何か」である。
 色が、いくつもの色と出会い、その差異のなかから見つけ出す「何か」。「色」自身のなかにある燃え上がるものかもしれない。
 それが「ろうそく」の光に向かって動いているのかもしれない。ろうそくが照らしだしているのではなく、いくつもの色がまじりながら--色がまじると黒になる--まじることで生まれた黒から、もう一度生まれようとする「色の力」かもしれない。

 あ、私は何を書いているのだろう。

 実際に絵を目の前にしてことばを動かしているのではないので、どうも「自制」がきかない。ことばが暴走し、絵から、そしてレンブラントの色から離れて行ってしまう。
 絵の感想というのは、絵を見ながら、その場でことばを動かさないことには、結局のところ、奇妙なものになってしまうのかもしれない。

 目をつぶって、もう一度、あの「白」を思い出してみる。画面のほぼ中央、斜め右上から左下へ、まっすぐに伸びた輝き。--あの「白」に拮抗する夜の「白」をレンブラントは描いているだろうか。「夜警」のなかに、あの「白」に拮抗する輝きはあるだろうか。それを確かめるためにアムステルダムへ行きたい--と、急に思ってしまう。



 版画に戻る。
 レンブラントは驚いたことに和紙にも印刷している。和紙で版画をすると、インクが微妙ににじむ。全体がやわらかくなる。そうして、そのやわらかさのなかに「色」がひろがる。洋紙に印刷したときは版画の線は線なのに、和紙では線が色になる。--これはもちろん錯覚なのだが、とてもおもしろい。
 もうひとつ。
 版画というのは「面」ではなく「線」の交錯である。交錯する線が増えると、その部分が「黒」になる。これは常識的すぎて、わざわざ書くべきことではないのかもしれないが、それをわざわざ書いたのは……。レンブラントは、「面」を「色の線」の交錯と見ていたのかもしれないと、ふと、思ったからである。
 で、そうであるなら、というのは飛躍のしすぎかもしれないけれど。
 「アトリエの画家」のカンバスの白、その強い直線は、やはり「線」なのだ。どの方向の「線」とも交わることを拒絶した力なのだ。光の力なのだ。
 版画--交錯する線によって作り出される「闇」の絵のなかに「アトリエの画家」を置いて見ると、そんなことを思ってしまう。
 この絵を、版画から切り離して、たとえば「夜警」や「自画像」と並べてみたとき、また、違った感想を持つだろうと思う。
 絵はきっと、「美術館」のなか、展覧会という会場で生きている。いつも違った表情に生まれ変わる。だから何度見た絵でも、その絵を見にゆかなければならないのだとも思った。
                            (09月04日まで開催)


もっと知りたいレンブラント―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
幸福 輝
東京美術
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お薦めの一品

2011-07-27 09:00:00 | その他(音楽、小説etc)
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フェルメール「地理学者」とオランダ・フランドル絵画展

2011-07-26 09:01:17 | その他(音楽、小説etc)
フェルメール「地理学者」とオランダ・フランドル絵画展(豊田市美術館、2011年07月20日)

 フェルメール「地理学者」を見ながら、私はふと「手紙を書く女と召使い」を思い出した。京都で見た3点の内の1点。きのう感想を書かなかった作品である。空間処理の感覚が似通っている。そして、大きく異なっている。

 似通っている点。
 人物の配置は「地理学者」が左側、「手紙を書く女と召使い」は右側と違っているのだが、どちらも左側に窓があり、そこから陽の光が室内に入ってきている。この左側の窓の「白」の処理の仕方が似ている。窓を画面の最左端まで描くのではなく、最左端は暗いカーテンで隠す。そのことによって光の明るさが強調されると同時に、室内の透視図(?)の遠近感の歪みが消える。(一点透視図で窓を画面の端まで描いてしまうと、一点透視の、焦点へ向かう斜線が強調されて、端の方がどうも不安定になる--と感じるのは私だけかな?)そうして、室内の奥行きがとても自然になる。視線は、自然にカーテンが占める領域を省略して、光があふれる部分だけを見てしまう。絵が、大きいにもかかわらず、小さく落ち着いたものになる。こうした構図の技法はフェルメールに限らないのだろうけれど、この処理のときのカーテンの占める「位置」(割合?)がとてもいい。
 もう一点。
 窓があり、光が左斜め上から差してきて、その中心に人物がいて、机がある。そのまわりの空間--人物の大きさに比べて空間が広すぎる。その広すぎる空間のあいまいさのなかに、ぽつんと「もの」が置かれる。「地理学者」の場合は、まるまった地図らしきもの。「手紙を書く女と召使い」は羽ペンらしきもの。その「もの」の存在によって、床の漠然としたひろがりがきゅっと収縮し、広さを感じさせなくなる。

 異なっている点。
 「地理学者」がおもしろいのは、余分な(?)空間を消してしまうカーテンを垂直に垂らさないところである。斜めによぎっている。
 そして、この斜めに空間を消してしまうカーテンと呼応するように、手前の机の上の布の領域が、右下へなだれるように斜めになっている。「手紙を書く女と召使い」はカーテンがほぼ垂直に垂れているので、画面はその分だけ左側が狭くなった四角形になるが、「地理学者」の場合は四角形を斜めに倒した(傾けた)具合になる。光が左上から斜めに差し込む形をそのまま四角形に切り取った形になる。四角い画面のなかに、光の輝きの領域が斜めに傾いた四角形として嵌め込まれている感じである。
 これは、見ようによってはとても不安定である。その不安定さを机の上に置いた左手の垂直の線でがっしり支え安定させている。一方、その線が強調されないように、コンパスを持つ手は肘から軽くまがり、宙に浮き、軽やかさを出している。この、ひとの形が描き出すリズムと、斜めに倒れた光の四角形の感じが、この絵をおもしろくさせている。
 斜めに倒れた光の四角形は、背後にある箪笥(?)の影の斜めの四角形の存在によって、静かな透明感にかわり、それが「地理学者」の「学者」の雰囲気に似ている。--これも、なかなかおもしろい。

 一昨年、東京のフェルメール展で2点同時に見ているはずだが、一緒に見たときは気がつかなかったことが、別々の会場で見ることで見えてくる、というのは不思議な感じがする。たぶん、1点1点が充実しているので、まとめて見ると印象が競合して、まとまりがつかなくなるのだろう。
 フェルメール三十数点、まとめて見るのが私の夢だったが、そうではなくて、こうやって1点1点追いかけながら、かつて見たものを思い出し、そこにない絵と「肉体」のなかで出会わせながら見るのもおもしろいかもしれないと思った。
 1点だけなのでどうしようか迷っていたのだが、豊田市美術館まで行ってよかったと思った。
                             (08月28日まで開催)



フェルメール全点踏破の旅 (集英社新書ヴィジュアル版)
朽木 ゆり子
集英社
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フェルメールからのラブレター展

2011-07-25 10:39:42 | その他(音楽、小説etc)
フェルメールからのラブレター展(京都市美術館、2011年07月20日)

 今回公開されている「手紙を読む青衣の女」は修復されたものだと言う。アムステルダムで見たとき、頬(顔)から首にかけての汚れ(?)のようなものは何だろうと思った。それは修復によってどうなったのだろうと気になって見に行った。その汚れはそのままだった。あれはいったい何なのだろう。いつついた汚れなのだろうか。
 わからないものはわからないままにして……。
 「青衣の女」というから「青」が中心の絵である。中央に光のなかで変化する「青衣」がある。左右に椅子があり、その椅子の背もたれ、座面が青い革(?)で覆われている。その椅子の青が暗い藍に近く、女の窓に向いた軽い青と美しく響いている。
 椅子の青にも諧調があって、右の椅子の背もたれの折れ曲がって陰になった部分などとても強い感じがする。深い感じがする。あ、ここも青だったのか、と今回気がついた。
 左手前の、何だろう、ベッドカバーだろうか、ソファーのカバーだろうか、そこにもほとんど黒に近い藍があって中心の青の変化をしっかりと支えている。
 しかし、私が驚いたのは、実は「青」ではない。
 背後の壁の白の変化にびっくりしてしまった。とても明るい。特に窓際が静かで透明な白に生まれ変わっている感じがした。そして、その白が、青と同様、一様ではなく光のとどく距離によって変化している。その白の変化がとても美しい。
 その白に促されて、私は、次のようなことを考えた。
 手紙を読む女のこころ、光(希望)へ向かって動いていくこころのような感じがする。女は立ち止まって手紙を読んでいるのだが、読み進むにつれて、もっとはっきり読みたい、と光のなかへ一歩足を動かす感じがする。動きを誘う白である。
 青がじっとそこにある青、滞って(?)藍にまで沈んでいくのに対し、白は、その青を誘っている。光のなかへ誘っている。それが服にも手紙をもつ手にも、女の額にも、手紙そのものにも輝いている。
 光の方向へ、左側へという動きには、壁に吊るされた地図、その地図をまっすぐに垂らすための錘(?)の存在が大きく影響しているかもしれない。先頭に丸い玉がついた鉄の棒のようなものだが、この強い水平線が、絵を動かしている。
 女の手紙を読む視線(目と手紙を結ぶ斜め左下への斜線)、それと平行するように額(頭部)と地図をまっすぐにするための鉄の棒の先頭の玉を結ぶ見えない斜線があり、ちょうどその斜線と直角に交わるように窓から光が降り注いでいるような感じがする。その二つの斜線が交叉するあたりが、絵の一番濃密な部分であり、その濃密さを安定させる形で空間が広がっている。女の右背後の壁の白、その静かな陰--あ、これも美しいなあ、と思った。

 フェルメールは他に2点。「手紙を書く女と召使い」「手紙を書く女」。
 フェルメール以外では、ヘラルト・テル・ボルフの「眠る兵士とワインを飲む女」がおもしろかった。絵というよりも、その時代の風俗が伝わってきて、楽しかった。展覧会の主眼も、「時代を伝える絵画」という点にあるようだった。
                         (10月16日まで、京都市美術館)

フェルメールの世界―17世紀オランダ風俗画家の軌跡 (NHKブックス)
クリエーター情報なし
日本放送出版協会
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六月博多座大歌舞伎(夜の部)

2011-06-12 22:52:05 | その他(音楽、小説etc)
六月博多座大歌舞伎(夜の部)(2011年06月12日、博多座)

 「仮名手本忠臣蔵 七段目 祇園一力茶屋の場」「英執着獅子」「魚屋宗五郎」。
 「仮名手本」の幸四郎はひどかった。芝居のおもしろさは「肉体」のおもしろさである。人間の「肉体」は似ているようで似ていない。動く瞬間、動く限界の位置がそれぞれ違う。歌舞伎というのは肉体の誇張である。ふつうは人間の肉体はそんなふうには動かないのだが、動きを拡大することで、肉体のなかにあることばにならないものを見せるということに特徴があると私は思っているのだが、幸四郎の芝居は「肉体」が動かない。「台詞」だけが動く。台詞でストーリーを説明するだけである。極端に言うと、台詞を言ってしまってから、肉体の動きがそれを追いかけている。これでは小学生の「学芸会」である。緊張して台詞を忘れてしまいそう、忘れないうちにちゃんといわなくっちゃ……と焦っている小学生の学芸会である。
 魁春が、梅玉から、夫は殺された--と知らされ、ことばをなくす場面と比較するとわかりやすい。人間のことばというのは、いつでも肉体から遅れて動く。肉体が先に動いて、それからことばがやってくる。この動きを、幸四郎は先にことばを発してから肉体を動かしている。--まあ、「好意的」に言えば、幸四郎の役は「酔っぱらったふり」をしている、つまり芝居をしている役所なのだから、芝居そのものを演じているということを演じて見せた演技といえるかもしれないけれど。ねえ、そんなばかな、である。
 藤十郎の「英執着獅子」は前半の恋する姫の部分はよかった。手、指先の動きなど、まるで少女である。(口がぱくぱく動いてしまうのは、息がつづかないからなのだろう。まあ、みなかったことにする。)しかし、後半の獅子の踊りはつらいねえ。特に、獅子のたてがみをふりまわすところなど、一生懸命はわかるけれど、それがそのまま動きにでてしまう。たてがみがまわりきらない。腰を中心に上半身がまわらないのだ。芝居というのは役者が苦しい姿勢をしたときに美しく見えるというが、それはあくまで苦しみを隠しているとき。たとえば、姫を演じたときの、腰を落としたままの動き。けれど獅子のように、苦しみが見えてしまうと、なんだかはらはらしてしまう。
 「魚屋宗五郎」は特別すばらしいわけではないと思うけれど、幸四郎と藤十郎がつらかっただけに、菊五郎がかっこよかった。酔っぱらいの感じも幸四郎の酔っぱらいとは大違い。華がある。酔って乱れる。片肌脱いで、裾も乱れて、褌までちらりと見せる。そのとき舞台が活気づくのである。芝居小屋の空気が生き生きしてくるのである。芝居というのは、芝居を見るんじゃない。役者の肉体を見るのだ、ということがその瞬間わかる。よっ払いというのは現実ではみっともないが、それは現実の「人間」が不格好だからである。菊五郎のように色男なら、乱れたところが華となって輝くのである。菊五郎の芝居は、それをみて「人間性」の本質を感じる(人間はこういう存在なのだ、と実感する)ということはないのだが、やっぱりいい男だなあ、色男だなあ、持てるだろうなあと人をうらやましがらせるところがある。役者の「特権」を持っている。と、あらためて思った。



 博多座の観客のマナーは相変わらず悪い。お喋りが耐えない。台詞が始まるまで芝居ではないと思っているのかもしれない。だから「英執着獅子」のように、役者がしゃべらないとき、踊りのときがひどい。ひそひそ声がうぉーんという感じで歌舞伎座全体に広がる。全方向からノイズが聞こえてくる。まいる。


歌舞伎名作撰 白浪五人男 浜松屋から滑川土橋の場まで [DVD]
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NHKエンタープライズ
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大西若人「森の存在感は何故か」

2011-05-25 18:52:36 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「森の存在感は何故か」(朝日新聞2011年05月25日夕刊)

 大西若人「森の存在感は何故か」はポール・セリュジエ「ブルターニュのアンヌ女公への礼讃」について書いたものである。
 私はポール・セリュジエについては何も知らない。初めて見る画家である。女(たぶんアンヌ女公)が左側にいて、右側には3人の男がいる。背景は「森」と言うことになるのだが、奥行きは感じられず、ちょっとマチスの室内の装飾を思わせる。壁、何かを仕切る壁のような感じがする。
 この絵について、大西はこう書いている。

 カーテンの柄のように文様化された葉の群れは、人物とは重なっていない。同じ一つの面に収まっているとも映る。
 葉は、実は背景ではないのかもしれない。つまり、森との共存。ほら、木々の葉たちも、兵士たちと対等な存在として、女公の言葉に聴き入っているようではないか。

 いつもながらに楽しい文章である。絵を超える文章である。大西の文章を読んだあと、それ以外の視点で絵を見るのが難しくなる。
 ――という、いつもの感想とは別に、私はちょっと違うことを感じた。あれっとつまずいた。「木々の葉たち」。うーむ。「葉たち」、複数か。思いつかないなあ。この「葉たち」の「たち」がつぎの「兵士たち」の「たち」と重なりあう。そのために、「葉」が人間に思えてくるときの錯覚(?)が強くなる。説得材料のひとつになる。
 こういう工夫(?)を大西はしていたのかなあ。気がつかなかった。
 それに先立つ、「つまり、森との共存。」という断定。そして、間をおかずに「ほら、」とつなぐ呼吸。あ、これも、なんだか新しい大西を見る感じがするなあ。


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千住博「空の庭」「ザ・フォールズ」

2011-05-11 22:57:22 | その他(音楽、小説etc)
千住博「空の庭」「ザ・フォールズ」(家プロジェクト「石橋」)

 2011年05月10日、香川県直島の「ベネッセアートサイト直島」で「空の庭」と「ザ・フォールズ」を見た。私が行ったときは雨が降っていた。
 「空の庭」はそのとき降っていた雨に溶け込んでいた。絵の中にも雨が降っていて、その雨のために山がかすんでいる、という感じである。実際の雨を呼吸して、木々も、そして空気もしっとりとまじりあう。
 その絵そのものもおもしろいのだが、絵の邪魔(?)をしている柱の感じがとてもいい。柱がつくりだす遠近感の向こうに、絵そのものの遠近感がある。絵そのものの遠近感といっても、西洋画と違ってどこかに焦点(透視図の中心)があるというわけではない。ただ奥行きがある。その遠近感は一点透視のように収斂する遠近感ではなく、むしろどこまでも無へ向かって広がっていく広大な遠近感である。柱がつくりだす遠近感は一点透視の遠近感なのだが、その向こうに焦点があるのではなく、広大な広がりがある。無、と呼んでもいいのかもしれない。しかし、その無というのは何もないということではなく、何があってもかまわない、どんなものでも受け入れる広がりとしての無、豊かさにつながるひろがりである。
 柱と床、天井がつくりだす真四角の構図、それが重なることでうまれる幾何学的な遠近感と、幾何学を無視した絵のなかの無(千住博は、私が無と呼んでいるものを「空」と名づけているのかもしれない)の不思議なアンバランス(?)がとても美しい。
 柱がつくりだす遠近感の枠組みはひとつではなく複数ある。それがまた、とてもおもしろい。私がこれまで書いたのは、正面から見た絵の印象なのだが、それを斜めから、つまり部屋の入り口から見たときは、また違った遠近感が働くのである。「空の庭」は右手に木々の塊があり、左手に行くに従って木々が低くなり空間が広くなる構図をとっているが、それをその部屋の入り口から斜めにみるとき、正面からみるときとは違った柱の遠近があり、その幾何学的な遠近感と絵の「無の空間」が交錯する瞬間が刺激的なのである。絵が動くのである。そして、その動きに誘われるようにして歩いて行った先で、床の間の上の小さな襖に、絵のつづきというか、大きな襖の絵に呼応するように小さな枝を見つけるとき、まるで山の中を実際に歩いている気持ちになる。家という空間がとつぜん解体し、外にほうりだされた感じになるのだ。
 この絵が飾られてある部屋の前には庭がある。そしてその庭には石の「椅子」がある。そこにすわって眺めると、また違った風景が見えるはずである。庭の芝があれるというので、いまは立入禁止だった。想像力で見た風景を書いてみると……。
 襖は部屋の向こうの現実の風景を隠している。絵は、その風景を隠している--はずなのだが、きっと石の椅子にすわってみると、それは開け放たれた「窓」にみえるだろう。「窓」を通り越して、あらゆる壁を取り払った家と、その向こうの風景にみえるだろう。特に私がその絵をみたときのように雨が降っていれば、そこに描かれているのは、まさに「現実」になる。「現実」の空間になる。描かれた空間があるのではなく、ほんとうの「無」がある。千住博の絵は、その現実の「無」に対してひとつの「形式」を与えることになる。絵が現実を真似るのではない。現実が絵を真似るのだ。現実の山や木々が千住博の描いた絵にあわせて自分の姿を整えるのだ。--そんなことを夢想した。
 そして、次の「ザ・フォール」を見るために、廊下を回っていった先で、「ザ・フォール」の描かれている「蔵」のなかに入る前に、ふとさっき見た襖の裏側を見ることになる。すると、そこには木々のつづき、小枝のつづきが描かれている。あ、私は部屋のまわりをまわったのではなく、ひとつの山そのものをまわったのだ。その絵は、というか、描かれている小枝自体は小さい。けれど、それは山の中に入って目の前の枝を小枝と思うのと同じであり、その枝のつづきには大きな山がある。小さい小枝に引きつけられていくとき、私は「家」がそこにあることを忘れるが、それが山に入り込む感じそっくりなのである。小枝をみて、山を見ない。けれど、そこには山があり、山が家を隠してしまっている。「空間」というか、「もの」の大きさが、その瞬間一気に逆転するのである。「現実」が千住博の絵によって、逆転するのである。
 これは、この展示方法以外ではありえない「絵」である。「石橋」へ来て見るしかない「絵」であり、またそこでしか味わえない「哲学」である。

 「ザ・フォール」はおびただしく落ちる水を描いている。滝である。落下する水は、ほとんど霧状に砕け、白くなっている。激しい音が聞こえる--はずである。どうしたって、こんなに水が落ちていれば、そこにはゴーゴーと鳴る音が響いているはずである。だが、私はまったく音を感じなかった。音がないばかりか、音を聞こうとする「意識」、あるいは「耳」さえもが、何かに吸い込まれていくような感じ--深い深い「静けさ」を感じた。
 これはいったいなんだろう。どうしてこんなに静かなのか。
 じっーと見ていると、最初に目にした「落下する水」の背後に黒い壁があることに気がつく。滝の岩壁、になるのかもしれない。この岩壁の不思議さは、荒々しくないことだ。ごつごつしていないことだ。そして、壁と書いたことと矛盾してしまうのだが、それは「壁」ではない。それはどこまでもどこまでも「奥」がある。「奥」だけがある。「空間」といってもいいのかもしれないが、私は「奥」と呼びたい。
 「空の庭」の木々や山の向こうにはたしかに「空間」につながるどこまでも開放的にひろがるひろがりがあったが、「ザ・フォール」の場合は、解放というより、底無しに吸い込まれていく感じなのである。「空間」にはきっと広がる空間と、吸い込まれる空間(ブラックホールのような空間)があるのだ。
 「ザ・フォール」というくらいだから「落下する水」を描いていることには間違いはないのだろうが、落下する水よりも、見ているとどうしても闇の方に吸い込まれてしまう。闇に「落下」していく感じがする。
 水は、上から下へ落下する。しかし、そのとき、音は上から下へではなく、「ここ」から水が落下する壁の向こう側へ「落下」する--水平に落下していく感じがする。あらゆるものが、水が落ちている壁の向こう側へ、水平に落下していくのだ。水平に落下するということばは、まあ、普通は言わないから、吸い込まれていくということになるのかもしれないけれど、その吸い込み方があまりに徹底しているので、水平に落下していくといいたくなってしまうのだ。
 だから、というのはたぶんこじつけめいているかもしれないが……。これだけ水が落ちてくるのに、少しも水が私をぬらしに来る感じがしない。落ちた水が、私の方に流れてくる感じがしないのである。足下に「滝壺」があるかもしれないが、そこには水がないという感じがするのである。もし、水に濡れるのなら、しぶきではなく、真っ暗な闇にふれたときこそ濡れるのだと思う。闇に吸い込まれるように、壁の向こう側へ行って濡れるのだ。
 この作品でも、私は、何か「空の庭」に通じる「空間」の解体を感じるのである。「空間」の意識が逆転するのを感じるのである。ここには落下する水はあっても、まんまんと広がる水はない。水は向こう側にある。そして、その水を存在させているのが暗い暗い闇なのだ。水があるのではなく、闇があるのだ。

 そんなことを考えているとき、絵の表情がぱーっと変わった。落下する白い水がきらきらと輝いた。あ、これは、私の思ったことと絵が何かしらの反応を起こしたのだ--と私は少し興奮した。うん、私の絵の見方を、この絵が喜んで、その喜びに絵が輝いたのに違いない。
 だが、そうではなかった。
 私が「空の庭」を見ていたとき雨が降っていた。「ザ・フォール」の部屋に入ったときも雨が降っていたのだと思う。それが突然晴れたのである。晴れて、外の光がかわった。その光がたまたま明かり取りの窓から入ってきただけなのだが、びっくりしてしまった。ほんとうにまぶしいくらいにきらきら輝き、絵が動いたのである。闇も明るんだ気がしたが、それが明るくなるということが、また逆に明るくなりうる奥深さをもった闇なのだということを実感させるのだ。
 私の考えた一種の思い付きは、まあ、どうでもいいことだなあ。絵が一瞬の光で表情をかえるということを知った。それだけわかれば、この絵を見た甲斐があるというものだ。こういう変化を見せるために、この絵の展示方法も工夫されている。「空の庭」と同様、展示方法を含めて「作品」なのだ。

 帰り際、「石橋」で絵の紹介をというか、鑑賞者の案内をしているひとに方角を聞いてみた。私は「窓は東側ですか」と聞いたのだが、「わかならい」ということだった。絵の表情が晴れて光が入ってきたとき、突然変わったというようなことを話したら、「夕方みると、色の変化がとても美しいは評判だ」と教えてくれた。夕暮れにもういちど来てみたいと思ったが、途中で携帯の電源がきれて時間がわからなくなり、帰りの船までの余裕もわからなくなった上に、雨が激しくなったので夕方の絵の変化は見ることができなかった。それが心残りである。




千住博の滝
クリエーター情報なし
求龍堂
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大西若人「主役を演じるのは誰?」

2011-04-13 17:14:53 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「主役を演じるのは誰?」(「朝日新聞」2011年04月13日夕刊)

 大西若人の文章には不思議な力がある。ほとんど「大西マジック」としかいいようがない。「主役を演じるのは誰?」はレンブラントの「アトリエの画家」について書いたものである。紙面の大半を占める絵を見る。中央の、カンバスの左側の強い光、強い反射光に目が行く――と同時に、大西の書いている文章の最後の方の文字が目に飛び込んでくる。

板絵の左端を一筋に輝かせるほどに、何もない空間からは光があふれ出している。

 あ、もう絵を見ている感覚がなくなる。大西の視線にのみこまれ、大西になって絵を見てしまう。そこから離れるのは、とても難しい。

 で、いつのながらの、意地悪な疑問がわいてしまう。「主役は誰?」 大西の文章? レンブラントの絵でなくていいの?
 うーん。
 しかし、大西の文章が好きだなあ。

 欲を言うと・・・。
 今回の文章は少しだけ変だった。新聞紙面の組み方の問題だが、段落ごとの空白が少なく、ぎっしり詰まっている。それが文章全体を窮屈に見せる。漢字とひらがなのバランスが美しいのが大西の文章の特徴だが、その特徴が生かされていない。大西以外のひとの視線(国立西洋美術館の幸福輝の意見)が挿入されていることも遠因かもしれないが。



 

もっと知りたいレンブラント―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
幸福 輝
東京美術
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現代詩講座のお知らせ

2011-03-29 11:44:47 | その他(音楽、小説etc)
4月からよみうりFBS文化センターで「現代詩講座」を開きます。受講生を募集中です。
テーマは、

詩は気取った嘘つきです。いつもとは違うことばを使い、だれも知らない「新しい私」になって、友達をだましてみましょう。

現代詩の実作と鑑賞をとおして講座を進めて行きます。
このブログで紹介した作品も取り上げる予定です。

受講日 第2、4月曜日(月2回)
    13時-14時30分(1時間30分)
受講料 3か月全納・消費税込み
    1万1340円(1か月あたり3780円)
    維持費630円(1か月あたり 210円)
開 場 読売福岡ビル9階会議室
    (福岡市中央区赤坂1、地下鉄赤坂駅2番出口から徒歩3分)

申し込み・問い合わせ
    よみうりFBS文化センター
    (福 岡)TEL092-715-4338
         FAX092-715-6079
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小池昌代『弦と響』

2011-03-25 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『弦と響』(光文社、2011年02月25日発行)

 小池昌代『弦と響』は四重奏団のラストコンサートの一日を中心としたオムニバスである。人間関係よりも、そのなかに出てくるひとりひとりの音楽に対する感じ方、それを書いた部分にひかれた。そして、いま、ひとりひとりの、と書いたのだが、そのひとりひとりの音楽に対する感じ方の違いというのは、この小説ではあまり感じられない。ひとりひとりの区別は、肩書(?)や名前、少しずつあらわれてくる人間関係のなかで描かれているが音楽に対する感じ方のなかにまでは個別化されていないように思える。言い換えると、小池は彼女自身の音楽に対する思いを、幾人かに語らせているのだが、そこにそれぞれの個性が出るというよりも、小池自身が顔を出してしまっているということである。

 正直を言えば、長く聴いてきて、心底、感動したという記憶は数えるほどだ。しかも、その感動には実体がない。演奏がよかったということのほかに、そのときの聴衆に一体感があったのかもしれないし、たまたま、わたしに何か哀しみや悩みがあって、心が敏感になっていただけのことかもしれない。そうした、様々な要因が重なり合って、感動という、得体の知れないものは作られる。確かなものなど、一つもない。

 「演奏がよかったということのほかに、そのときの聴衆に一体感があったのかもしれない」という部分に、私は共感を覚える。私はめったにコンサートに行かないが、コンサートにかぎらず、芝居、映画でも言えることだが、「感動」には「聴衆の一体感」が大きく影響する。コンサートでは、いい演奏のとき、あるいは演奏がよくなるとその瞬間、聴衆の姿勢がすーっとよくなる。そして会場の空気がぴーんとはりつめる。はりつめた空気のなかで音がまっすぐにのびる。それは、こころ(感情)を通り越して、肉体そのものに響いてくる感じがする。
 これを小池は「感動」と呼んでいる。この感じ方に、私はとても共感する。
 こういう共感から小説が始まると、読んでいて気持ちがいい。小説は小説なのだが、小池の気持ちを読んでいるような感じ、小池の声を聴いているような感じで、誘われるように読んでしまう。

 初めて聴いた曲を好きになることは、わたしの場合、まれである。幾度も幾度も聴いているうちに、その時間が堆積して、身の内に積もってくる。それこそ、雪のように。ある重みまで積もったとき、その曲はもう、わたし自身だ。だから聴けば、それを聴いた、かつての時間が総動員され、それが巻き上がって感動をつくる。わたしは音楽を、それを聴いた、かつてのすべての記憶とともに「いま」という時間のなかで聴く。

 小説とは関係なく、というといいすぎになるのだろうけれど、こういう部分を読むと、小池はここに書いているような「音楽観」を書きたくてこの小説を書いたのだと思えてくる。
 音楽を聴いた「時間が堆積して、身の内に積もってくる」。この「時間」は「感情」(思い)と重なるものだろう。音楽を聴いているあいだ(時間)、ひとは何かを思う。そういう「体験」そのものが、「身の内」につもる。この感じは、私にはとても納得がいく。共感を覚える。「身の内」ということばは非常に幅が広い。「身」を私なら「肉体」というけれど、そのときの「身」(肉体)というのは骨や肉や内臓だけではなく、神経、感覚も含むものである。
 それが、かつて聴いた曲をもう一度聴くとき、「いま」という「とき」のなかに噴出してくる。そのことを「記憶とともに」に小池は書くのだが、その記憶は「身の内」の「身」と同じである。肉体のすべて、そして感覚のすべて--分離できないものとともに聴く。
 これは別なことばで言いなおせば「いま」をこそ、聴く、ということかもしれない。「いま」というのものは「過去/記憶」とともにある。「過去/記憶」とどこか遠いところにあるのではなく「いま」のなかに蓄積(堆積)している。
 そう考えると、音楽とは音楽ではなく、「いま」「ここ」そのものなのだ。それはまた「わたし」そのものだ。「その曲は、もうわたし自身だ」。
 こうした「時間」のあり方、音楽のあり方を、小池は「セカンドバイオリン」のなかで次のように言い換えている。

 音楽のなかに「時間」が見えた。それは普段の時間のように、一直線上を進んでいくものでなく、同じところにいて、噴水のように繰り返し、噴き上がっては落下する時間だ。メロディーは円を描きながら、回転し上昇し、そして天上に解けて消える。波が海辺を一掃するように、聴いたあとには何も残らない。しかし記憶のなかには時が流れ去ったという、切ない感触の跡が残る。

 「同じところ」とは「いま」(ここ)である。「いま」のなかへ「記憶」が噴き上がっては落下する。「いま」から出ていかない。それは天上へ消えていく。何も残らない--とはいうものの、記憶のなかに時が去ったという感触、切ない感触が残る。この「残る」というのは「堆積する」ということである。「記憶」が「感触」をもつなら、その「記憶」とは「身(肉体)」にほかならない。「身(肉体)」のなかに「触覚」(触った感じ--感触)があるのだから。 

 引用の関連づけが前後するが、「聴衆の一体感」に重なることばは、「チェロ」の部分に次のように書かれている。

ほんとに音楽が好きだったら、すばらしい演奏に、自我なんてものは吹っ飛び、嫉妬なんかは消滅してしまうもんだと思うけどね。音楽のよろこびは、自己の消滅にあり。他者と溶け合って自分が消えてなくなる。

 「他者と溶け合って自分が消えてなくなる」。それは「一体感」のことだが、ここからまた別のことばも動きだす。「他者」とは何か。「身」にとっての「他者」とは「記憶」。それはしかし、「溶け合う」のである。「身」のなかで「身」ではありえないのも、「記憶」(たとえばことばで語りうること、あるいはことばそのもの)が溶け合う。区別がつかなくなる。よろこびとは、区別がつかなくなること。何か、いままでの自分ではないものになってしまう瞬間に訪れるエクスタシーの総称かもしれない。自己がなくなるとき、自己が生まれる。他者となって生まれ変わる。
 それはまた、「過去/記憶」が「いま」に噴出してきて、「いま」が「過去/記憶」なのか、それとも「過去/記憶」が「いま」なのかわからなくなるのと似ている。

 また引用が前後するが「聴いたあとには何も残らない。しかし記憶のなかには時が流れ去ったという、切ない感触の跡が残る」は次のようにも言い換えられている。「マネジャー」の章。

たとえ演奏が聴けなくても、ホールには「残響」というものが漂っていて、演奏会が終わったあとの、興奮の残った会場を掃除することはうれしいことだとも。

 「切ない感触が残る」のは「身/記憶」(肉体)だけではない。それは「身」の外部である「ホール」にも残る。ホールには「残響」が漂う。同じように、音楽を聴いた「身/感覚」(肉体)のなかにも、「残響」が漂い、それが「堆積」するのである。

 音楽をとおして、音楽を聴くことで「身」が「記憶」になり、「感情」になる。あるいは「感情」が「記憶」になり、それが堆積して「身」になる。それは、音楽(楽器の音)と「聴衆」、「音楽」と「ホール」の関係にも似ている。
 それぞれに名前がある。名前があるということは区別があるということである。けれど、音楽のなかで、その区別がなくなる。あるのは「一体感」と、その「一体感」がもたらすよろこびである。
 --と、書きすすめてくれば、この小説の「狙い」と「成果」もおのずと浮かび上がってくる。
 この小説は「オムニバス」である。複数の登場人物が語り手となり(筆者自身も、ときどき語り手として姿をみせる)、自分の立場から、いろいろなことを語る。それは、ほんとうは区別があるひとりひとりである。けれど、ストーリーがすすめば、それはひとりひとりでありながら、「一体感」をもった「集団」のようにもなる。意識されない「かたまり」である。「身」と「記憶」と「感覚」と、さらには「ホール」が加わる。そして、それは「四重奏」ならぬ、もっと複数の「重奏」(あるいは交響曲)となり、ひとつひとつ(ひとりひとり)では到達できなかった「音楽」に結晶する。

 小池はこの小説で「音楽」を語りながら、小説そのものを「音楽」にしようとしている。



弦と響
小池 昌代
光文社



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大西若人「はかなき影が語るもの」

2011-03-02 22:52:28 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「はかなき影が語るもの」(「朝日新聞」2011年03月02日夕刊)

 朝日新聞に「水曜アート」というページがある。この欄の大西若人の文章はとても輝いている。約1年ほど大西若人の文章を読んでいなかった(ほかのページで書いていたかもしれないし、私が読み落としているかもしれないのだが……)。久々に読んだ。
 大西若人の文章は独特で、ページを開いて、その全体を眺めた瞬間に、あ、大西若人かな、と思う。漢字とひらがなのバランスが新聞記事らしくないのかもしれない。改行の構造が新聞らしくないのかもしれない。分析したことはないのだが、何か、目を誘うものがある。(私は目の手術をして以来、活字を読むのがとても苦手になったのだが。)
 きょうも、なんの期待もなく(もう大西の文章に出会えるとは思っていなかったので)、ページを開いて、瞬間的に、あ、と思い、署名を確かめたら、大西若人だった。

 影が美しいのは、張りつめた輪郭があるから。影がはかないのは、重力の離脱に成功しつつあるからなのだ。

 最後の「しつつあるからなのだ」が、古めかしくて、ださい。うるさい。けれども、やはりことばのバランスがとても美しい。「影が美しいのは」「影がはかないのは」という繰り返しとずれ、ずれというより意識の移行、うつろいか……を論理化する文章の構造も楽しい。
 大西若人の文章に欠点があるとすれば、ああ、そうだねえ、前にも書いたことがあるけれど、美術の紹介なのに、その肝心の美術作品を忘れてしまう。文章に惹きつけられてしまうということかもしれない。
 美術作品の紹介を通り越して、批評家の文章の領域の仕事をしているのだ。

 で、先の文章。何の紹介かというと、倉俣史朗「ブルーシャンパン」というテーブルの批評である。テーブルの紹介なのだが、まるで大西の文章にあわせてつくったテーブルに見えてしまう。写真は、Hiroyuki Hirai 。これもまた、大西の文章にあわせて撮った写真に見えてしまう。
 いいことかわるいことか、わからない。けれど、大西の文章がすばらしいことだけは確かである。
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教えてください

2011-02-28 09:22:05 | その他(音楽、小説etc)
現在IEがつかえません。以下の表記がでます。

アドオンで問題が発生したためIEを閉じる必要があります。
この問題の発生時には次のアドオンが実行されていました。
ファイル SpeeDial.dll
会社名 Jword.inc
説明 Jwordプラグイン

この問題の解決方法は? だれか知りません?

panchan@mars.dti.ne.jp
へ、メールをいただけると助かります。
winXPをつかっています。
Jwordのバージョンはわかりません。

コントロールパネル→インターネットオプション→プロパティ→プログラム→アドオンの管理→アドオン無効→OKと進みますが、解決しません。
アドオンを確認すると、削除されないまま、残っています。
削除そのものができません。
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笹井宏之『てんとろり』

2011-02-25 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
笹井宏之『てんとろり』(書肆侃侃房、2011年01月24日発行)

 私は歌集というものをめったに読まない。笹井宏之という歌人も知らなかった。読みはじめてすぐに気がつくが、笹井の短歌は乱調の美学で構成されている。

ともだちを一匹抱いて夕焼けに消えてしまいそうな私のうで
                            
 ともだちを「一匹」と数えることばの破壊、出会ってはいけないことばの出会い、出会うはずのないことばの衝突--その乱調の音楽が笹井のいちばんの特徴である。
 ふつうはともだちを「一匹」とは数えない。「ひとり」と数える。それを承知で、わざと「一匹」と数える。そうすると、肉体とこころ(精神)が微妙に乱れる。肉体が乱れたのか、こころが乱れたのかわからないが、何かが乱れる。不思議な亀裂が入るのだ。亀裂は跳び越えなければならない。亀裂は歩いてはわたれない。亀裂にわたす橋は、とりあえずは、存在しない。だから、その深い亀裂を笹井は飛び越すのである。その跳躍は、ときに跳躍を通り越して飛翔になる。軽やかに明るく飛んでしまう。
 その亀裂と橋をもたない貧しさに青春のかなしみが近づいてくる。そして、その亀裂を飛び越す跳躍力・飛翔力(豊かな力)にことばの若さが輝く。必要なものがないという「貧しさ」、けれどそれを克服できる「豊かさ」。その矛盾したものが笹井のことばを輝かせる。
 こういうことは、たぶん多くのひとが語るだろうし、もう語ってしまっていることかもしれない。だから、私は少し違うことを書こうと思う。
 私が笹井の短歌で非常におもしろいと思ったのは、「Ⅱ」(63ページ以降)の部分に収録されている歌である。

おそらくは腕であるその一本へむぎわら帽を掛ける。夕立

そのみずが私であるかどうかなど些細なことで、熟れてゆく桃

てのひらの浅いくぼみでひと休みしているとてもやさしいたにし

内圧に耐えられそうにないときは手紙の端を軽く折ること

 ある抒情的なこころ(精神)と、それとは無関係な「もの」との出会い(特に、「たにし」がその例になるだろう)は、笹井の特徴である。そういう異質な出会いが乱調の輝かしさの源である。--という性質は、この一群の短歌でもかわらない。
 しかし、リズムがまったくかわってしまっている。軽さが消えてしまっている。
 「おそらくは」の歌は、句点「。」まで登場して、前半と後半に大きな断絶がある。それは、その断絶を超えて(跳躍して、飛翔して)ことばが運動したということを示しているが、「跳んだ、飛んだ」という感じがしないのである。そこにあらわれる抒情も青春の透明さがない。
 そのかわりに、不透明で重い暗さがある。
 それは、跳躍(飛翔)するときは、踏み切る足が大地にもぐりこむ感じに似ている。跳躍・飛翔するとき、足は硬い大地の反動を利用して大地から離れるのだが、この一群の作品では、跳躍・飛翔するするためにふんばった足が、大地に沈み込んでいく。そのときの、つらい悲しみがある。あ、ほんとうはもっと高く跳べる(飛べる)のに、という絶望が、そこにまとわりつく。
 そしてそれは、なんといえばいいのだろう、絶望なのだけれど、絶望しながら、暗い部分へ踏み込むことで、そこにあるものをつたえようとしているようでもある。
 ことばの方向(ベクトル)がここでは完全に変わっているのである。
 自分の悲しみ・絶望から飛翔するのではなく、自分の悲しみ・絶望をえぐるのである。掘り進むのである。

こころにも手や足がありねむるまえしずかに屈伸運動をする

 この歌は「Ⅰ」の3首目の歌だが、自分をしずかになだめながらみつめるというような視線から、さらに深く、何か、突き刺さるような感じでことばは動いていく。

うっとりと私の耳にかみついたうすももいろの洗濯ばさみ

 というような、不思議なかなしみ、不思議なわらいの歌もあるのだが……。

死んだことありますかってきいてくるティッシュ配りのおとこを殴る

感傷のまぶたにそっとゆびをおく 救われるのはいつも私だ

おくびょうな私を一羽飼っているから大声は出さないように

 ひと(他人)との距離が、どこかで絶対的に変わってきてしまっている。自分自身への距離のとりかたが違ってきているのを感じるのだ。
 この絶望を掘り進み、その絶望の底に深い亀裂を入れることができたら、笹井はもういちど絶対的な飛翔をなし遂げたに違いないと思う。けれど、もう、そのことばの運動を私たちはみることができない。読むことができない。とても残念である。とても悔しい気持ちになる。




てんとろり 笹井宏之第二歌集
笹井 宏之
書肆侃侃房
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西村賢太「苦役列車」

2011-02-20 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
西村賢太「苦役列車」(「文藝春秋」2011年03月号)

 西村賢太「苦役列車」は、書き出しに驚いてしまった。

 曩時(のうじ)北町貫多の一日は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へと立ってゆくことから始まるのだった。

 いきなり「ことば」から始まるのだ。もちろん小説(文学)だから、それが「ことば」でつくられていることは承知しているのだが、しかし、私は驚いてしまうのである。
 「曩時」って何? 私はこんなことばはつかわない。広辞苑で調べると「さきの時。むかし。以前。曩日(のうじつ)」とある。意味はわかったようで、わからない。「いま」ではなく、「むかし」ということ、なのかもしれない。つまり、ここに書かれていることは、「むかしむかし」で始まる「物語」ということなのかもしれないが……。
 うーん。
 言い換えると、ここに書かれているのは「現実」ではなく「物語」なのだ。そして、この小説は、あくまでも「物語」なのである。この小説は「私小説」、西村の体験を描いたものというふうに言われているけれど、それが西村の体験だとしても、西村はそれをあくまで「物語」として提出している。「ことば」の運動として提出しているということになる。
 よくみると、たしかにそうなのである。ここに書かれているのは「日記」のことばではない。「日記」の文体ではない。自分を語るときのことばではない。自分の行動を記すのなら、

北町貫多(私)は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へと立っていった。

 ということになる。けれど、西村は、そうは書かない。あくまで「北町貫多」を「私」という視点ではとらえない。「自動詞」の主語にはしないのである。「自動詞」としての行動を描くときでも、それを対象化する。つまり、つきはなす。
 北町貫多は便所へ行った、ではなく、北町貫多の一日は便所へ行くことから始まるのだ、と対象化する。
 そして、そのつきはなしによって、読者が主人公と向かい合うようにするのだ。読者が主人公になってしまうことを拒絶する。読者を主人公にはしない--という操作で、主人公を「私(西村)」に引きとどめておく。そういう形での「私小説」である。
 これは同時に芥川賞をとった朝吹真理子の小説と比べるとよりはっきりする。

 永遠子(とわこ)は夢をみる。
 貴子(きこ)は夢をみない。

 ふたりの主人公が登場し、ふたりの行動は「自動詞」として書かれる。「夢をみる」「夢をみない」。そこに書かれているのは「私」ではないが、彼女たちは「私」として行動する。このときの「私」とは、「私=朝吹」ではなく、「私=読者」である。
 ふたりの主人公を、読者は「私」として読みはじめる。それは「私」ではないけれど、小説を読むことで読者は「永遠子(私)」になり、「貴子(私)」になる。ふたりは別個の存在だが、そのどちらにもなる。ときには、同時にふたりになったりもする。
 こういう主人公と読者の「同化」を西村のことばは拒んでいる。「主人公=読者(私)」を拒絶することで、「主人公=西村(私)」という形をとる。
 「主人公=読者(私)」ではない世界では、「ことば」はけっきょく「読者(私)」のものではなく、西村のものである。そのことが、

あ、ここにあるのは、ことばだ、

 という印象を呼び起こすのである。

 しかし、パンパンに朝勃ちした硬い竿に指で無理矢理角度をつけ、腰を引いて便器に大量の尿を放ったのちには、そのまま傍らの流し台で思いきりよく顔でも洗ってしまえばよいものを、彼はそこを素通りにして自室に戻ると、敷布団代わりのタオルケットの上にふたたび身を倒して腹這いとなる。

 若い肉体が書かれているのだが、私には、その肉体よりも、それを描写する「ことば」ばかりが見えてしまう。勃起したペニスは見えない。勃起したペニスを描写する「ことば」が見える。
 「顔でも洗ってしまえばよいものを」ということばには、顔を洗わない主人公ではなく、顔を洗わない主人公を描写する「作者」が見える。
 どの描写をとっても同じである。そこには「主人公」はいない。「主人公」を描写する「ことば」があり、その「ことば」を書きつらねる「作者=西村」がいる。
 なるほど、そういう構造をもった作品が「私小説」なのか、と私は、考えながら納得してしまった。

 もう一か所、具体的に書いておく。日雇い労働の昼飯どき。弁当が配られ、それを食べてしまう。そのあとの描写。

 当然、これでは到底もの足りなく、むしろ底抜けな食欲の火に油を注がれたみたいな塩梅である。

 西村の小説に何度も出てくる「塩梅」。自分のことを語るときにも「塩梅」ということばはつかうかもしれないが、ここではあくまで自分ではない誰かをみて、それを描写している。「食欲の火に油を注がれた」ように感じているときは、そんな自分を「塩梅」というように悠長に描写してはいられない。狂ったように動く感覚を、飢えを語ってしまうのが「自分」のことば、「主人公=私(読者)」のことばである。はげしい飢えがことばになっているとき、読者(私)は、その飢えを私自身のものと感じ、その感じのなかで主人公と一体化する。
 「塩梅である。」という描写(ことば)では、読者(私)は主人公の飢えと一体化しない。離れたところから主人公を眺めてしまう。主人公と読者(私)のあいだに、「ことば」があって、その「ことば」を眺めてしまうのである。そして、あ、この「ことば」が西村なのだと思うのである。
 金がないから主人公は弁当だけですませるが、金のある日雇い仲間は、自動販売機のカップラーメンやワゴン車が売りにきた焼きそばなどを食べている。それを眺める主人公の描写。

 金のある者は弁当と共にそれらを添えておいしそうに食べているさまが、貫多には腹立たしく眺められて仕方がなかった。

 食べている者を眺め、腹立たしかった、ではない。また、腹立たしく眺めた、でもない。「貫多には腹立たしく眺められて仕方がなかった。」と、はげしく動く感情を突き放して描写するのである。「ことば」にしてしまうのである。
 感情を生きるのではなく、「ことば」を生きるのである。
 「私小説」とは「ことば」を生きる作家の生き方なのだ、と思った。あ、こんなふうにして西村は自分を救ってきたのだ、「ことば」を生きることで現実を超越してきたのだ、と感じた。
 これは最近ではめずらしい形の「ことば」と作家の関係であると思った。





苦役列車
西村 賢太
新潮社
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朝吹真理子「きことわ」

2011-02-17 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
朝吹真理子「きことわ」(「文藝春秋」2011年03月号)

 朝吹真理子「きことわ」は、文体に特徴がある。この作品は「短篇」の部類に入るのだと思うが、短篇というよりは長編の文体である。長い長い時間の中で、乱れが乱れでなくなる。乱れであると思っていたものが、まっすぐに見えてくる。--そういう印象を誘う文体である。

貴子が春子に妊娠されていたとき、脂肪のほとんどない春子の腹を布越しに永遠子は撫で、「これからどんどん膨らむらしいの」と春子は永遠子の手をとって腹部に運ばせた。

 これは、私の感覚からすると、とても変な乱れた文章である。「貴子が春子に妊娠されていたとき」とは、私なら絶対に書かない。「春子が貴子を妊娠していたとき」か「貴子が春子の体内(胎内)にいたとき」のどちらかである。「妊娠」は「する」ものであって、「される」ものではない。「妊娠」するの主語は、母親(春子)である。その「妊娠」ということばを朝吹は、子供である貴子を主語にしてつかっている。そこに乱れがある。主語と補語の乱れがある。
 この乱れは、それにつづく文章に微妙なかたちで影響している。
 「脂肪のほとんどない春子の腹を布越しに永遠子は撫で、」の主語は永遠子である。永遠子は春子の脂肪のほとんどない腹を布越し(洋服越し?)に撫でた、という意味である。
 その次の「「これからどんどん膨らむらしいの」と春子は永遠子の手をとって腹部に運ばせた。」では主語は春子である。そして、主語が春子に代わったために、前の文では永遠子が春子の腹を自発的に「撫で」(自動詞)ていたはずなのに、ここでは永遠子の意志とは無関係に(?)、春子が永遠子に撫でさせる--手をとって腹部に運ばせるということにすりかわっている。
 この文章(句点「。」で区切ったものをひとつの文章だと仮定すると……)では、三つの文から成り立っていて、それは読点「、」で明確に区切られているのだが、その区切りのたびに主語が代わっている。つまり、ひとつの文章のなかに主語が三つあることになる。そして、その三つを、むりやりつなぐために、「妊娠されていたとき」というような、学校教科書文法からみると許されないような語法が捏造され、「撫でる」という自発的な行為が、手を腹部に「運ばせる」という使役の形(永遠子からみれば、「運ばせられる」という受け身)になっている。
 三つの主語が、微妙にねじれ、動詞がねじれている。
 そして、この乱れとねじれが、それにつづく文章の中で、ととのえられ、まっすぐになる。
 
貴子が知りようもない過去に違いなかったが、生まれる前に貴子に触れているのだと永遠子から何度も聞かされているうちにその思い出が身のうちに入り込み、いまはみたこともないその光景もすでに貴子の記憶となっていた。

 貴子、永遠子というふたつの主語がことばのなかで区別をなくしていくのである。--そして、これはこの小説の主題でもある。この小説の主人公は「貴子」と「永遠子」と、ふたりいるのだが、物語の中で、そのふたりは区別をなくしていく。「肉体」は別個であるが、意識が融合し、どちらがどう感じたのか、あいまいになる。あいまいになるだけではなく、入れ代わりさえするのである。
 永遠子の、春子の体内にいる貴子を撫でたという記憶が何度も語られる(ことばになる)ことによって、それを聞きつづけた貴子は撫でられたという記憶をつくりだしてしまう。けれど、「撫でられた」という記憶は捏造なので、それをそのまま持続することは難しく、ごく自然な「撫でた」という記憶の方にずれていく。そして、貴子は知らず知らず永遠子になる。
 これは変なことなのだが、そういう変なことがおきるのは、人間がことばを生きているからかもしれない。
 こうしたことを別の形で書いた部分がある。406 ページ。バーベキューをしたことを思い出す場面である。

バーベキューの埋み火に松毬(まつぼっくり)をいれると形を残したまま炭化すること、午睡からめざめると草木を透して永遠子の髪と畳みに流れていた暮れ方のひかり、明け方、緻密につむぎだされた蜘蛛の巣の露に濡れたのを惚(ほう)けるようにしてみあげたこと、一瞬一刻ごとに深まるノシランの実の藍の重さ。そのときどきの季節の水位にそったように、照り、曇り、あるいは雨や雪が垂直に落下して音が撥ねる。時間のむこうから過去というのが、いまが流れるようによぎる。ふたたびその記憶を呼び起こそうとしても、つねになにかが変わっていた。同じように思い起こすことはできなかった。

 ことばのなかで、「つねになにかが変わっていた。」「同じように思い起こすことはできなかった。」とは、同じことばにはできなかった(できない)、という意味である。
 主語を貴子にして語ろうとしても、主語は永遠子に代わる。
 さらに、朝吹は繰り返している。

いつのことかと、記憶の周囲をみようとするが、外は存在しないとでもいうように周縁はすべてたたれている。形がうすうすと消えてゆくというよりは、不断にはじまり不断に途切れる。それがかさなりつづいていた。映画の回想シーンのような溶明溶暗はとられなかった。もはやそれが伝聞であるのか、自分自身の記憶なのか、判別できない。

 ことばがとらえるものは、実際、だれが発したことばなのかを問題にしないことがある。ごくわかりやすい例で言えば、たとえば交通事故がある。それを私が目撃していたとする。そしてその事故がニュースで流れる。そのときのニュースのことばは私のことばではない。けれど何度も見て、聞いているうちに、それはほんとうにニュースのことばなのか、それとも私が見たことをことばにするとそういう形になるのか、区別がなくなる。
 ことばは、「事実」の前では主語をなくしてしまうことがある。その「事実」は、あるときは「永遠」とか「真理」とか呼ばれることもあるかもしれない。
 ある「こと」が「ことば」になる、そのときおきる「世界」の変化そのものを、朝吹は書いているのだとも言える。こういう「哲学」(思想)は、文体のなかにだけ存在するものである。そしてそれは短篇ではなく、やはり長篇小説のものであると私は思う。
 1000枚単位の長篇小説こそが朝吹にはふさわしいと思う。長篇小説を書いたとき、朝吹はほんとうの朝吹に、巨大な作家になると思う。そういうことを教えてくれる小説である。



きことわ
朝吹 真理子
新潮社

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