古代ギリシャ展(国立西洋美術館、2011年07月20日)
「円盤投げ」の彫像を見ながら不思議な疑問を持ってしまった。
モデルが誰であるかわからないが、この裸の青年の手足、頭、胸、腹、腰--つまり、その肉体はモデルの肉体を正確に再現しているのだと思うが、それを美しいと感じるのは、いったい、なぜなんだろうか。
この前にセザンヌを見ていなければ、たぶん、こういう変な疑問は生まれなかった。
私は、もともとピカソが好きである。それも「青の時代」とか「ピンクの時代」という初期の、リアリズムをある色で叙情的に統一した作品群ではなく、晩年のエッチングに代表されるような、いわばデフォルメの多い、猥雑で、でたらめな作品群が大好きである。そういう作品とギリシャの美術は遠く離れている。
ギリシャ美術展の前にみたセザンヌの父を描いた絵もデッサンが狂っている。私の好きな絵は、ようするに「正確」とはかけ離れている。「正確」から「逸脱」し、狂っている、狂いを含む作品こそ芸術だと感じている。
それなのに「円盤投げ」を見ると感心してしまうのである。美しいと思ってしまうのである。それも、その作品が、円盤を投げる動作の一瞬を切り取り、「正確」に再現しているから美しいと感心してしまうのである。「動き」を「正確」に再現している。肉体がそうした姿勢をとるときの「筋肉」の変化を「正確」に再現している。「肉体」のなかの、いのちの躍動を「正確」に再現している。だから、「美しい」。
「美しい=正確」という「基準」が、なんの躊躇もなく、私のなかに蘇ってくる。
それだけではない。青年の「肉体」の動き、その筋肉や骨の動きが、私の眼を通って私の肉体のなかに入ってくるとき、この青年のとっているような一瞬のポーズを私は再現できないことを知る。私は円盤投げをしたことがないから、こいうポーズをとれないが、たとえ円盤投げをしたことがあっても、こういうポーズをとれない。その肉体の動きは、私を完全に超越していると感じる。
「正確」と「美しい」の間に、「私を超越する」という感覚がまじっている。
と、ここまで書いて、ちょっと私は落ち着く。ギリシャの「正確」は「私を超越する・逸脱する」ことによって「美」に到達している。
「逸脱」という項目を挟み込むことによって、もしかしたらピカソの逸脱、セザンヌの逸脱と通じるものがあるかもしれない--と考えることができる。(かもしれない)。
でも、強引だなあ。これは。私のことばは、どこかで、それこそ「逸脱」している。
「私を超える」ということばを何か別のことばに置き換えて考え直す必要がある。ことばを動かしなおす必要があるのだ。
「美しい=正確」。その「正確」はほんとうにその青年を「正確」に再現しているのか。それとも「正確」をよそおって何らかなの「加工」が施されているのか。
ここに「私を超越する」ではなく、作者を超越する、ということばを差し挟んでみる。そのとき作者にとって「作者を超越する」とは何だろうか。作者がたどりつこうとしてたどりつけないもの。
理想。
それは単なる「正確」ではなく、「理想」にとって「正確」ということなのだ。
「イデア」ということばも思い浮かぶ。これは、私がプラトンが大好きだからなのだが、人間には何かしら「いま/ここ」では満足しきれない思いがあって、それがかってにつくりだすものがある。
理想。
この不思議なものが「正確」を制御する。「正確」を超えて、別な形にする。「正確」を超えたときにのみ、「美しさ」がほんとうに輝く。
これ、しかし、ちょっと困ったことだなあと思うのである。
「美術」さえもプラトンに代表されるギリシャ哲学の「領域」のなかで動いている? ほんとうは違うかもしれないが、私のことばは知らずにそういう領域で動き回る。そこを超えることができない。
別に超える必要はないとは思うのだが、不思議なのである。
「正確」であること、そして「正確」をより正しく「正確にする」(理想化する)ということばの運動。精神の運動。意識の働き。
なぜなんだろうなあ。
たとえば、そういうこととは完全に縁を切って、自堕落に酒におぼれて肉欲におぼれて、だらしなく生きたら楽しいだろうなあという「理想」も私にはあるのになあ。
ギリシャ美術を見ながら「美術」を逸脱して「ギリシャ」そのものにとらわれてしまったのかな?
私は美術のことはまったく知らないが、美術の専門家(あるいは歴史の専門家でもいいけれど)は、ギリシャで生まれた「美」(正確)と、いま・ここで(たとえば東北大震災後の日本で)動いている美意識との関係を、どんなふうに定義しているのだろうか。
どうことばにすることで「鑑賞」の立場を維持しているのだろうか。
なんだか、わけのわからないことばかり考えてしまうのだった。
(09月25日まで開催)
「円盤投げ」の彫像を見ながら不思議な疑問を持ってしまった。
モデルが誰であるかわからないが、この裸の青年の手足、頭、胸、腹、腰--つまり、その肉体はモデルの肉体を正確に再現しているのだと思うが、それを美しいと感じるのは、いったい、なぜなんだろうか。
この前にセザンヌを見ていなければ、たぶん、こういう変な疑問は生まれなかった。
私は、もともとピカソが好きである。それも「青の時代」とか「ピンクの時代」という初期の、リアリズムをある色で叙情的に統一した作品群ではなく、晩年のエッチングに代表されるような、いわばデフォルメの多い、猥雑で、でたらめな作品群が大好きである。そういう作品とギリシャの美術は遠く離れている。
ギリシャ美術展の前にみたセザンヌの父を描いた絵もデッサンが狂っている。私の好きな絵は、ようするに「正確」とはかけ離れている。「正確」から「逸脱」し、狂っている、狂いを含む作品こそ芸術だと感じている。
それなのに「円盤投げ」を見ると感心してしまうのである。美しいと思ってしまうのである。それも、その作品が、円盤を投げる動作の一瞬を切り取り、「正確」に再現しているから美しいと感心してしまうのである。「動き」を「正確」に再現している。肉体がそうした姿勢をとるときの「筋肉」の変化を「正確」に再現している。「肉体」のなかの、いのちの躍動を「正確」に再現している。だから、「美しい」。
「美しい=正確」という「基準」が、なんの躊躇もなく、私のなかに蘇ってくる。
それだけではない。青年の「肉体」の動き、その筋肉や骨の動きが、私の眼を通って私の肉体のなかに入ってくるとき、この青年のとっているような一瞬のポーズを私は再現できないことを知る。私は円盤投げをしたことがないから、こいうポーズをとれないが、たとえ円盤投げをしたことがあっても、こういうポーズをとれない。その肉体の動きは、私を完全に超越していると感じる。
「正確」と「美しい」の間に、「私を超越する」という感覚がまじっている。
と、ここまで書いて、ちょっと私は落ち着く。ギリシャの「正確」は「私を超越する・逸脱する」ことによって「美」に到達している。
「逸脱」という項目を挟み込むことによって、もしかしたらピカソの逸脱、セザンヌの逸脱と通じるものがあるかもしれない--と考えることができる。(かもしれない)。
でも、強引だなあ。これは。私のことばは、どこかで、それこそ「逸脱」している。
「私を超える」ということばを何か別のことばに置き換えて考え直す必要がある。ことばを動かしなおす必要があるのだ。
「美しい=正確」。その「正確」はほんとうにその青年を「正確」に再現しているのか。それとも「正確」をよそおって何らかなの「加工」が施されているのか。
ここに「私を超越する」ではなく、作者を超越する、ということばを差し挟んでみる。そのとき作者にとって「作者を超越する」とは何だろうか。作者がたどりつこうとしてたどりつけないもの。
理想。
それは単なる「正確」ではなく、「理想」にとって「正確」ということなのだ。
「イデア」ということばも思い浮かぶ。これは、私がプラトンが大好きだからなのだが、人間には何かしら「いま/ここ」では満足しきれない思いがあって、それがかってにつくりだすものがある。
理想。
この不思議なものが「正確」を制御する。「正確」を超えて、別な形にする。「正確」を超えたときにのみ、「美しさ」がほんとうに輝く。
これ、しかし、ちょっと困ったことだなあと思うのである。
「美術」さえもプラトンに代表されるギリシャ哲学の「領域」のなかで動いている? ほんとうは違うかもしれないが、私のことばは知らずにそういう領域で動き回る。そこを超えることができない。
別に超える必要はないとは思うのだが、不思議なのである。
「正確」であること、そして「正確」をより正しく「正確にする」(理想化する)ということばの運動。精神の運動。意識の働き。
なぜなんだろうなあ。
たとえば、そういうこととは完全に縁を切って、自堕落に酒におぼれて肉欲におぼれて、だらしなく生きたら楽しいだろうなあという「理想」も私にはあるのになあ。
ギリシャ美術を見ながら「美術」を逸脱して「ギリシャ」そのものにとらわれてしまったのかな?
私は美術のことはまったく知らないが、美術の専門家(あるいは歴史の専門家でもいいけれど)は、ギリシャで生まれた「美」(正確)と、いま・ここで(たとえば東北大震災後の日本で)動いている美意識との関係を、どんなふうに定義しているのだろうか。
どうことばにすることで「鑑賞」の立場を維持しているのだろうか。
なんだか、わけのわからないことばかり考えてしまうのだった。
(09月25日まで開催)
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