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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

錬肉工房公演・現代能「始皇帝」

2014-03-22 11:11:41 | その他(音楽、小説etc)
錬肉工房公演・現代能「始皇帝」(国立能楽堂、2014年03月20日)

 原作・那珂太郎「始皇帝」。演出岡本章。始皇帝、その亡霊(コロス)観世銕之丞、徐福(コロス)山本東次郎、徐福の後裔(コロス)宝生欣哉。

 10年ほど前、朗読だけの「始皇帝」を見た。今回の公演は、能の衣装をつけて、能役者が実際に動く舞台。ストーリーは不老不死を求めた始皇帝と、始皇帝の不死の夢を利用して生きる徐福の欲望が交錯する。徐福はほんとうに不老不死の薬をもとめて日本へ渡ったのか。それとも始皇帝の権力を逃れて日本へ渡ったのか。--というストーリーが兵馬俑の兵の声の間で展開する。兵馬俑もまた始皇帝の不死の夢の別の形である。(那珂太郎の詩は兵馬俑に触発されて書かれたもの。)
 能は大きくわけてふたつの部分からなる。(能の用語ではもっと簡単に言えるのかもしれないけど、私は能は初めてなので、自分のことばで「わかる」ことだけを書く。)
 そのふたつの中間点(折返点)、始皇帝が死んで、霊があらわれる転換(?)の場で、私はびっくりした。那珂太郎の「始皇帝」にはないことばが突然割り込んでくる。「始皇帝」にはないことばといっても那珂太郎の作品ことばである。「鎮魂歌」からの引用。それは「始皇帝」のストーリーのなかにあったものだが、「始皇帝」のなかにはいり込んで、違和感がない。いや、違和感がないというより、その乱入(?)によって、「始皇帝」の本質が深くえぐりだされるという感じである。「音楽」の愉悦が大展開する、という感じなのである。
 「音楽」の大展開のことはあとで書くことにして、まず、違和感(衝撃)のことから先に書いておく。この突然の「音楽」の乱入は、私には前衛劇(アングラ劇)の「音楽」のつかい方に似ていると思った。鈴木忠志の芝居や唐十郎の芝居の途中に、突然大音響で鳴り響く「歌謡曲」のような感じ。突然の違和感と、違和感でありながらなつかしいような、安心するような感じがする。やっていることは違うけれど、何か共通するものがある。鈴木忠志のギリシャ悲劇を題材にした芝居に、突然オーヤンフィフィの歌が流れると、「意味」を破壊しながら、「情念」が共通のものとして突然きらめく。「意味」ではなく、情念が人間を動かしていることが、本能的にわかる。その本能の目覚めのようなものが、「鎮魂歌」の挿入によって起きた。別なことば、そのことばの「音楽」が「始皇帝」の奥にある「音楽」を攪拌し、目覚めさせていく--そういう感じなのだ。
 この「音楽」の乱入の前には「意味」が非常に整然と動いていた。

 芝居はまず兵馬俑の兵士の声から始まる。「群読」のときと同じように、全員の一種のコーラスがある。ギリシャ悲劇のコロスである。コロスが「事件の背景」を語る。兵馬俑は始皇帝の不死の夢によってつくられたもの、幻が具体的な形となって実現されたもの。--そういう「群声」のなかから、徐福の末裔があらわれ、物語を動かしていく。集団の声のなかから「個人」が生まれてくる。始皇帝も、当然、そのコロスから生まれてくる。そういう関係をみていると、どんな偉大な声もまたコロス(集団/庶民?)の声である、一般のひとの声であるということなのか、それとも偉大な個人の声は集団のなかに広がり、広がりながら欲望を巨大にしていくということなのか……よくわからないけれど、コロスの声と個人の声は切り離せないということがよくわかる。声(意思)は集団という支えがあって動く。本物になる。
 この声の関係は、舞台と観客の関係にも似ている。舞台で生まれる声はストーリー(役者)の声だが、その声はまた観客のなかにある声だろう。あるいは役者の声が観客のなかに溶け込み、観客の肉体を刺戟し、観客に、この声は自分の声だと錯覚させるのか。いずれにしろ、観客は自分の肉体のなかにある声しか聞きとることはできない。(本を読んだとき理解できるのは自分の知っていること、自分のおぼえていること、わかっていることだけと同じである。)
 この個人の声、集団の声の融合と分離(独立)の関係がとても刺激的である。10年前の群読のときは、それぞれの個人が独立して動くわけではないので、分離の関係が「理知的」であったけれど、実際に役者が動くと、声が独立して「肉体」になる感じがする。明確であると同時に、非常に具体的で、刺激的だ。「頭」を刺戟してくるものより、肉体その藻を刺戟してくる感じがする。
 その群読と独立してくる声を聞きながら、私は、また別のことも感じていた。
 能の声、それは歌舞伎の声にも似たところがあるから、日本人の声と言えばいいのかもしれないけれど、その発声方法と声の広がり方は独特である。西洋のオペラのように肉体から出て、そのまま空間に広がっていくという感じではない。のどに圧迫感がある。声の出だしがつまっている。のどが解放されきっていない。その声を聞いていると、のどにせき止められ、外に出ていく声と同時に、肉体の内部に引き返す声があることがわかる。肉体の内部で声が響く。そして、その肉体の内の声と肉体の外部の声(外に出ていった声)が互いに呼応しあって、区別をなくす。境界がなくなる。では、それでは肉体が消えるのかというとそうではなく、肉体はそこにある。声が肉体になった、という感じがする。オペラでは、声は空間になり、観客をつつみこむが、能の声は、観客に触れてくると同時に、舞台の上で肉体のまま存在している。「声の肉体」と向き合っている感じがする。
 そういうことを感じながらも、私は、前半ではまだ「意味」を追っていた。ストーリーを追っていた。
 最初の群読、集団から個人が独立して声になるとき、そこにはまず「意味」があった。その「意味」はストーリーとしっかり絡みついていた。不老不死というのは人間に共通の夢である。その欲望にとりつかれた人間(始皇帝)とそれを利用して安楽の世界へ旅立った徐福、始皇帝は何を信じ、何を疑い、何にだまされたのか--というようなことを巡るストーリーを私は追っていた。
 ことろが、「鎮魂歌」の乱入によって、私は、そのストーリーから解放されて(?)、まったく別のことを感じるようになった。体がふるえるような興奮のなかで、その別のことのなかにのみこまれていった。
 「音楽」に。

 ことば、声には不思議な力がある。ことばは「意味」をもっている。意味というのはしっかりしたものである--か、どうかは簡単に言えないけれど、まあ、意味を中心にしてことばう動いているし、何かを理解するとは意味を理解することとほとんど同義である。
 けれど那珂太郎のことばを読むと(聞くと)、ことばには意味以外の何かあることがわかる。人間は論理(意味/ストーリー)とは違ったものによっても動かされていることがわかる。たとえば、実際に能のなかでつかわれたことば、「鎮魂歌」のなかのことばで言えば、「いろどり」ということばは鮮やかなイメージだが、その音はどこかで「どろどろ」という汚い(?)ものとも重なり合う。「意味」ではなく、音そのもの、その音を出すとき(発声するとき)、「いろどり」と「どろどろ」が混じり合う。これを不快と感じるひとがいるかもしれないが、私は一種の愉悦を感じる。「肉体」のなかに愉悦が生まれてくる。
 この愉悦はそれは「音楽」である。「意味」ではなく、「音」そのものの音楽(音の楽しみ)、音が自分で楽しんでいるのが肉体につたわってくる、その愉悦。

 で、「ことば」を「声」にするとき、「意味」とは別に「音」というものが動いているということを考えたとき、ふと、思い出したことがある。能役者の声の出し方は日常の声の出し方とはまったく違う。それはたとえば「兵(へい)」を標準語では「へえ」と発音するが、能役者たちは「へ」「い」と明確な音にするということ関係するのかもしれないが……能役者はことばを「意味」というよりも「音」そのものとして出していることがわかる。ことばというのは「音」がつながって、一塊になって「意味」になるが、能役者はひとつながりの音を、個別に、独立させて発声しているように私には聞こえる。まるで「意味」を分解して、「音」のなかに、ことば本来のもっている「意味」とは違うものを見つけ出そうとしているように感じられる。「音」そのものの力、美しさを解放しようとしているように感じられる。
 その印象が「鎮魂歌」の部分で、兵馬俑の描写ではないけれど、むくむくとことばのなかからあらわれてきたような印象があった。人間を(ことばを)動かしているものは「意味」ではない。ことばになる前の何か、「音(声)」、肉体から出て行く何か、肉体から生まれ出てしまう何かなのではないか、という感じがむくむくと動く。
 始皇帝の不老不死を求めるという欲望も、「意味」だけでは成立しない何かである。人間は誰もが死ぬということを知らない人間はいない。それでもその不可能を求めるというのは何か間違っているのだが、そういう間違いを誘い出すものが、人間の歴史を動かしている。人間は何かから逸脱し、そのために苦悩も愉悦も味わい、そのなかで生きている--その感じが、むくむくと動く。「音楽」のように、わけのわからないまま(意味にならないまま)、ただ強烈に動く。
 このときからあと、私は、能役者のことばを聞きながら、もうほとんど「意味」を追うことをやめていた。ストーリーは詩を読んで知っているからと言えばそれまでなのかもしれないけれど、能(芝居)にストーリーは関係ないような気がしたのである。
 「声の肉体」そのもののなかに、ストーリーを超える「意味」(意味と言っていいかどうかわからないが、何か大切なもの、能でしか表現できないもの)--そういうものがあるのではないかと思った。

 「声」が「ことば(意味)」ではなく「音楽」になったとき、その「音楽」にあわせて「舞」が始まる。私は正面席にすわっていて、「声」が右方向に座り、脇正面へむけて発せられているため、それまでの声とは違って聞こえることも、私の印象に影響しているかもしれないが。つまり、声は、人間の奥から肉体を突き破ってあらわれるというより、空気としてそこにあり、その声(音楽)のなかで肉体が陶酔して動いている、その陶酔が「舞」なのだと感じた。
 これに独特のリズムがくわわる(あるいは、「意味」ではなくリズムが肉体を動かしていく、という感じがする。)。能のリズムは、頭に拍があるのではなく、後ろに拍がある。歩くときの足の動きを見るとわかりやすいが、摺り足でうごいた足が最後につま先を挙げてそれからとんと下ろす。ツートン、という感じ。静かに動いてきたものが最後の瞬間爆発する感じ。そして、その「ツー」がだんだん詰まってきて、それが詰まるにしたがい爆発が大きくなる感じ。
 これに拍車をかけるのが、笛の「息」であり、太鼓、鼓の拍子である。群詠(コロス)が脇に座り、その声が正面からぶつかってこないかわりに、舞う役者の背後から、その肉体を突き破るようにして、息とリズムがあらわれる。息とリズムを拡大(増幅?)させてはっきり認識できるようにしたものが笛の音、鼓の音なのだ。
 ツーーートン、ツーートン、ツートン、ツトン、ットン、トン、トントン。
 (ひょーーーっ、ひょーーっ、ひょーっ、ひょろ、ひょ、ひ、ひ、ひひ)
 後ろにあった拍が前にせりだし、トントントンとつながると逼迫していく。陶酔が頂点に達する。
 このとき、私の体は自然に動く。能役者が足をドンと踏みならすとき、自然に足が動いてしまう。あっ、音をたててはいけない、と緊張しながら、その動きに酔ってしまう。
 その瞬間、「場」が消える。そこがどこなのか、忘れる。国立能楽堂なのか、始皇帝の霊がさまよう墓の近くなのか、そんなことは忘れる。ことばも消える。意味が消える。
 そして、「肉体」を発見する。
 はじめてそこに肉体がある(能役者がいる)ということに気づいたみたいにして、そこに「肉体」がある思う。
 ことばは「意味」から声になり、声は音になり、音は音楽になり、その音楽にあわせて動くとき肉体になる。
 声のなかに「肉体」があり、それが「人間」の「肉体」になって、あらわれている感じだ。意味が消えた声が音楽なら、その音楽によって生まれた肉体は舞(ダンス)だ。
 肉体の動きがダンス(舞)、声の動きが音楽。
 声の音楽(歌)から、音楽の肉体があられわて、舞いはじめている--その舞は、始皇帝の霊の舞であると同時に、コロスの舞でもあるのだと思った。
 群読からひとりの人間があらわれて動くように、コロスの声のなかからひとりの人間があらわれて舞う。それは始皇帝であると同時に、コロスの肉体のなかにいる純粋な人間のあり方である。
 そこにある、意味ではない力、何かが生まれてくる力そのものに、完全に酔ってしまうなあ。
 「幽玄」ということばがある。能を表現するのにしばしばつかわれるのだが、私は、無教養なので、そういうものは感じなかった。ただし、この陶酔が澄み渡ると「幽玄」になるのかもしれないと思った。「幽玄」とは、澄み渡った陶酔のことだろう。

 あらゆる「意味」が死に、そのあとに「意味」になろうとして動いた力が、声と肉体の幻のようにして、幻なのだけれど、くっきりと存在している。
 舞台が終わったあと、舞台にはだれもいない。けれど、そこには肉体の面影がある。生きて動いた、その動きが舞台に残っている。舞台の上で、その舞を真似してみたくなる。腕を振り上げて怒りに酔い、足を踏みならして苦悩に酔ってみたい衝動に駆られる。



 能の感想とつながるかどうかわからないのだが……。
 「始皇帝」のなかに「信じる」ということばが出てくる。「疑う」ということばも出てくる。始皇帝は徐福の不老不死の薬を見つけてくるということばを信じた。そして、徐福が帰って来ないので、彼のことばを「疑った」。疑いながら死んでいった。そこに、また「欺く」ということばもあった。
 「信じる」を中心に、一方に「疑う」があり、他方に「欺く」がある。それは三つあわさって「ひとつ」の「肉体」になっている。
 こういうことを那珂太郎は「知(知る)」ということばで「世界」にまとめる。那珂太郎には「疑う-信じる-欺き」という運動が世界を動かしていることがわかっている。それで、その関係を始皇帝と徐福の関係として再構成する。そういう「知」の世界の一方で、「音楽」の陶酔の世界がある。
 ことばは「意味」であると同時に「音楽」である。そして、もしかすると知(意味)よりも音楽の方が力を持っている。音楽の力を解放すると、世界が陶酔のなか(無秩序のなか)で動き、まだそこに存在しない「未生」のものを生み出す。
 そんなことも考えた。感じた。



現代能 始皇帝
那珂 太郎
思潮社
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小山田浩子「穴」

2014-02-13 09:25:52 | その他(音楽、小説etc)
小山田浩子「穴」(「文藝春秋」2014年03月号)

 小山田浩子「穴」は第百五十回芥川賞受賞作品。私は眼が悪いので、最近はほとんど小説を読んでいない。芥川賞の発表のときに文藝春秋を買って読む程度である。だから、いまの小説の「文体」というものになじんでいないのだけれど……。
 読みはじめてすぐ、つらいなあ、と感じた。読みづらい。

 私は夫とこの街に引っ越してきた。五月末に夫に転勤の辞令が出、その異動先が同じ県内だがかなり県境に近い、田舎の営業所だったためだ。営業所のある市が夫の実家のある土地だったので、手頃な物件でも知らないかと夫が姑に電話をかけた。

 書き出しだが、最初の文は読めたが、あとは、うーん、つらい。ことばに「音楽」がない。「音楽」のかわりに、「説明」がある。「転勤」「辞令」「異動」は、同じことをいいえ変えているにすぎない。「県内」「県境に近い」「田舎」も、私は同じことを書いていると感じる。ことばが進んでゆかない。停滞している。しかもその停滞が、「名詞」の言い換えにすぎない。動いているのに、動いても動いても同じところにいるという不条理な停滞ではなく、動きはまったくないのに「名詞」を書き換えることで動いているように見せかけている。「営業所のある市」「夫の実家のある土地」も同じ。情報量が少ないのに情報量が多いふうに装っている。情報の少なさを「名詞」の書き換えでごまかしている。
 こんな比較は間違っているのかもしれないが、森鴎外や志賀直哉だったら半分のことばで書いてしまうだろう。小山田の文章は「散文」になっていない。「事実」をつかんで、「事実」を積み重ねて進むという散文精神が抜け落ちている。

 「じゃあうちの隣に住めば?」「隣?」「うちの借家があるじゃない。ついこの間空いたのよ」姑の声はよく通り、夫の脇にすわっている私にまでその声が聞こえた。

 「名詞」が重複しない場合でも、同じである。
 「ついこの間」は、ひどく説明的である。読んでいて、いらいらしてしまうくらい、もたついていて、とても母と息子のやりとりとは思えない。「ついこの間」なんて説明はしてもらわなくてもいい。ないほうが「ついこの間(突然)」という感じがわかる。書かなくていいことが、小山田の文章には多すぎる。「声はよく通り」「脇にすわっていた私にまで(略)聞こえた」も、書かなくてもわかることがわざわざ書かれている。省略したのは「その声が」ということばだが、ないほうがことばの運びが速くて、軽く読めるでしょ?
 まあ、速い文体を避けた。現実にはりつくような文体を作り上げた、と言えるのかもしれないけれど、私には、ただぎっしりとことばを埋めたみたという感じしかないなあ。
 ことばに飛躍がなく、飛躍のつくりだすリズムがなく、ことばが「音楽」として響かない。私は黙読しかしないが、このしつこい説明にげんなりした。声で聞いたりしたら、さらにげんなりするだろう。小山田は自分の書いたものを声にして読んでみたことがあるのだろうか、と疑問に思った。こんなにまだるっこしくては、舌がもつれてしまう。のどが疲れてしまう。

 私は卓上のメモに『一戸建て?』と書いて夫に見せた。夫はうなずき、手を伸ばしてそのメモに『にかいだて』と書いた。

 これは映画の一シーンにすればおもしろいだろうなあと思う。でも、小山田のことばではスピードが遅すぎて、影像がスローモーションになってしまう。「書いて夫に見せた」と書かなくても「書いた」で十分夫に見せたことはわかる。夫に見せたくて書いているのだから「見せた」と書かれると、「シーン」を見ている(現場に立ち会っている)というよりも、ただことばを聞かされていると感じてしまう。「事実」を明確にするためにことばを動かすというより、ことばを動かすために「現実」を利用しているという感じ。「小説」を読んでいるというより、小説になる前の「未整理のことば」を読んでいる感じといってもいい。「手を伸ばして……」の部分で言えば「そのメモに」がのろのろしすぎている。説明が多すぎて、つまずいてしまう。せっかく『にかいだて』とひらがなまでつかって「現実」を明確にしているのに、「そのメモに」などと書いてしまう神経がわからない。「そのメモ」以外の何に書くのだろう。手まで伸ばしているのに。

 私は卓上のメモに『一戸建て?』と書いた。夫はうなずき、手を伸ばして『にかいだて』と書いた。

 省くと速くなるでしょ? 「書いた」という動詞が「見せるために」(声に出して聞く替わりに)を含んでいることは、状況から「わかる」でしょ? 「肉体」で「わかる」ことを小山田はことばで説明するから、その説明を読んでいる間、「肉体」の動きがスローモーションになる。「肉体」のなかで融合しているものを、わざわざ「頭」で分離して、文字を読まされている感じがしてしまう。

 こんな文章が芥川賞でいいのかなあ。

 好意的に読めば。
 このくだくだしい文体、現実に触れるというよりも、現実の表面を何度も何度もなぞることで、ことばと現実の間に何も入れないようにしておいて(何も紛れ込ませないようにしておいて)、「黒い獣」「穴」という非現実(説明を省略した何か)を印象づける--ということかもしれない。
 こりゃあ、知能犯だね。確信犯--ととらえれば、まあ、そうなのかもしれないが、でも、選考委員はこれくらいの「確信犯」に「まいりました。おみごと」と言ったわけ? 選考委員の理想の文体(?)は、こういう「頭でっかち」のしつこさ?
 なんだかげんなりするなあ。
 あ、私の感想は、ぜんぜん好意的に読めば、になっていないね。好意的になろうにも、書くとすぐにいやになってしまう。
 でも、一か所くらいは、おもしろいと書いておこう。
 葬式の「一本花」の部分、参列した老人のことば、

「お花がね、こういう時は一本。いっぽんにするのよ。それがこのへんの決まりなのよ」「よそじゃ知らんが」「あらよそじゃ違うの?」「よそのことなんか知らんが」「とにかくいっぽんばなよ」

 だけはおもしろかった。ここには「よそじゃ知らんが」「よそのことなんか知らんが」と、ほぼ同じことばが繰り返されている。しかし、ことばは同じなのに「感情」がまったく違っている。「感情」が違うことで、ことばに「音楽」をつくりだしている。この瞬間に、ことばでは説明できない「肉体」がみえる。あ、「わかる」と「肉体」が納得する。こういう言い方を、ひとはするものである。そして、そういう言い方をするときの「人間」の顔や形がぱっと浮かんでくる。そういうことを言う「おばあさん」を「肉体」が思い出してしまう。
 小説とは、たぶん、同じことばなのに「意味が違う」と感じさせることばの運動のことなのだ。「意味が違う」のに、説明抜きで「わかる」と感じさせてくれることばなのだ。ここに書かれている「会話」のように。
 この、ことばにならない「わかる」が響きあって、小説の「音楽」をつくる。それを聞くのが「小説」の楽しみというものだ。



 田中慎也が芥川賞をとった時、私はその文体を古くさいと批判したが、あれは間違いだったなあと思う。古くさいは古くさいが、音楽がある。

小山田 浩子
新潮社
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アンドレ・ケルテス『読む時間』

2014-01-21 09:45:31 | その他(音楽、小説etc)
アンドレ・ケルテス『読む時間』(創元社、2013年11月20日)

 アンドレ・ケルテス『読む時間』は写真集。先日、谷川俊太郎さん(作品について触れないときは、敬称をつける)と話す機会があり、私のブログの誤字・脱字の多さが話題になった。「私は目が悪いので書いたものは読み返さない」と開き直ったら(?)、「これなら目に負担がかからないよ」と一冊わけてくれた本である。(どうも、ありがとうございました。--あのとき、お礼を言い忘れたような気がする。緊張して、どきどきしていたんだなあ、きっと。--「日記」なので、こういうこともたまには書いておこう。)
 
 で、写真集。
 私は写真のことはわからないのだが、その作品に引き込まれた。そして、すぐにひとつのことに気がついた。アンドレ・ケルテスの写真の特徴ではなく、この写真がとらえている「時間」の特徴に気づいた。
 「読む」というのは必ずしも「本」だけではなく、新聞やチラシ、食堂のメニューなども含まれるのだが、その「読む」瞬間、読んでいる瞬間、ひとの「肉体」は動かない。あたりまえのことなのかもしれないが、へええっ、と思った。そして、写真というのは人間の動きを固定してとらえてしまうものだけれど、その「動かない肉体」を表現するには最適の媒体かもしれないとも思った。
 そして、いま書いていることと矛盾するかもしれないのだが、肉体が動かないのに、何かが動いていることに気づく。それは、「頭」で考えたことばで言うと、「思考」が動いている。肉体は動かないが、読むときの人間の「精神」が動いている、「感情」が動いているということばになって広がっていくのだが。
 あ、これは、違う。もちろん、本を読みながら精神が動くのだけれど、そんなものはことばによる説明であって、写真がつたえているものじゃないからね。ことばはいつだって「意味」になって、適当な「感動(結論?)」をでっちあげる。動かない肉体をとらえた写真の奥に、動きつづける精神を見た。本を読むときに動く人間のこころをアンドレ・ケルテスは表現している--なんて書いてしまうと、それなりに「かっこいい意味」になってしまう。こういう「かっこいい意味」になってしまうことばというのは、危険だね。ことばは積み重ねればかならず「意味」になってしまい、そこに何か人が見落としていそうなことを付け加えると「かっこよく」なる。そのとき、私は、なんにも考えていない、ということが起きてしまう。だいたい、そんな「見えない精神」なんて書いても、写真とは関係ないよなあ--と私は思うのである。
 書いていることがごちゃごちゃしてきたね。
 何を感じたのか、見えない精神ではなく、何が私を引きつけたのか。何が動いていると見えたのか。「精神」などという「頭のことば」を捨てる。目だけになってみる。
 読むひとの肉体は動いていない。写真だから動きようがないのだが……。その動かない写真ということと矛盾してしまうのだが、たとえば2ページ目のニューヨークのビルの屋上の写真。剥げた男が椅子にすわって新聞を読んでいる。そのまわりには蓋をした煙突(?)のような何かわけのわからないものがある。その煙突のようなものが影をつくっている。その影も写真だから動かないのだが……。動かないのに、私には動いて見えた。影の方向、影と光のコントラストの影響があるのかもしれないが、その影は太陽の動き(時間の経過)とともに少しずつ動きつづける、ということが伝わってくる。この太陽の動きと影の変化というのは「空想」だけれど、その「空想」は現実でもある。だれでも太陽が動けば影が動くことを知っている。その動き--新聞を読む男とは無関係な動きが写真には同時に存在していて、それが何といえばいいのか、新聞を読む男の内部で動いている「精神」と呼応して「音楽」になっている、と感じたのだ。
 男が新聞を読んでいる。一瞬、夢中になって、肉体が動くのをやめている。でも、そういう人間の動きとは無関係に動く何かが世界のほうにある。男の外部にある。その外部を男は一瞬忘れているが、その忘却の空白で世界が静かに鳴っている。そこに音楽があると感じたのだ。

 まるで知らない曲を聴くように、私はつぎつぎにページをめくっていく。1枚1枚の写真がもっている「音楽」はそれぞれに違う。本のまわりで鳴っている「音」は違う。けれども、たしかにそこには本(本を読む人)とは別の「音」があって、それは「和音」になっている。

 写真には、光と影のように「時間」とともに動くものが描かれているときと、まったく動かないものが同居している作品がある。17ページ。ワシントンスクエアの路上の「蚤の市」(?)かなあ、女が本を読んでいる。その隣のテーブルにだれも買わないようなフクロウのオブジェ、膝をついた人間の彫刻のようなもの(いわゆるアート?)がある。背後の道を車が走っている(あるいは駐車している?)が、このオブジェ(アート)はどんなに時間が経っても変化しない。しかし、それが女性の本を読む行為と響きあう。そこに「音楽」が生まれるのはなぜなのか。それぞれのオブジェ(アート)が「過去(時間)」をもっているためだ。あるものがある形になるまでの「時間」。それがゆっくりとあらわれてくる。人間が動いているときは、どうしても人間の動きにひきずられて見えなくなるのだが、どんな「もの」にもそれぞれの時間があり、その時間は人間の肉体が沈黙しているときに、そっと静かな音を響かせる。それが写真全体のなかで「和音」になる。
 紹介が逆になったが、16ページの写真は逆。路上に額に入った写真(?)がある。写真の男はテーブルの上で何かを読んでいる。メニューかな? その男は写真だから動かない。その写真の前を手をつないだ男女が写真にちらりと目をやって通りすぎる。写真は足もとと男女の手しか写していないが、男の写真を見ているだろうなあと想像できる。そして、その足の形や組み合わさった手の形から、ふたりの「過去(関係)」のようなものもかってに想像できる。動くものは、動くことで「音」を立てる。ここにも動かないものと動くものの出会いがつくりだす不思議な「音楽」がある。

 というようなことを感じると、ふと、また違ったことばが私のなかで動きだす。
 本を読む(活字を読む)というのは、「意味」なんかではなく「音楽」を聞くためである。自分の肉体の中にある「音楽」を聞くためである、と思うのだ。「いま/ここ」にある肉体は、「意味」にしばられている。何かをしなければならない、という「仕事」にしばられている。そういう「仕事/社会的意味」を拒絶(排除)して、「無意味」にかえる。自分を忘れて、自分の肉体と響きあう「音」に耳を傾ける。忘我、だね。
 この文章の最初の方に、「見えない精神の動き」なんていう気障なことばを書いたけれど、そしてそれは危険な嘘だと書いたけれど--いや、ほんとうに、それは嘘なのだ。本を読むとき「精神」なんて動かない。「精神」を捨てる、忘れる。「頭」を忘れる。そして、「肉体」が覚えていること、遠い遠い昔の肉体が体験したことが奏でる「音」を聞く。その「音」は最初は何かわからない。わからないけれど、少しずつ「音楽」になって、私の「肉体」を気持ちよくさせてくれる。
 実際、本を読んでいて感じるは、そういうことだなあ。「音」を聞く。その「音」が「音楽」になって、何か肉体をととのえてくれる。それがうれしい。

 あ、写真から離れてしまったかな?



 この写真集には「読むこと」という谷川の詩がついている。(作品について書くので、敬称はつけない。)

なんて不思議……あなたは思わず微笑みます
違う文字が違う言葉が違う声が違う意味でさえ
私たちの魂で同じひとつの生きる力になっていく

 「違う」と谷川が書いていることを、私は、私の書いてきた「時間の動き」を重ねる。「音」を重ねる。そして「ひとつの力」を「音」が重なり合ってできる「音楽」と言い換えてみる。
 「読む」とは「音」をつかわずに「音楽」を聞く方法なのだと感じた。
 (谷川の詩については、はしょりすぎた感想になってしまったが、私は40分以上つづけて書くと目がおかしくなるので、こんな中途半端な形になってしまう。「日記」だから、これでいいかな、と私は思っている。)



読む時間
アンドレ・ケルテス
創元社
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小池昌代『産屋』

2013-12-12 10:55:38 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『産屋』(清流出版、2013年11月28日発行)

 小池昌代『産屋』はエッセイ集。エッセイへの感想というのは書きにくいなあ、と感じる。エッセイが「感想」みたいなもので、感想に感想を積み重ねてしまっては、ことばがだんだん希薄になってしまう。
 でも、あえて書いてみる。
 巻頭の「恋」という文章は清潔で、少し色っぽくて、小池の特徴がとてもよくでていると思う。「紅葉に目を奪われる心は、「恋」のようだな、と私は思う。」と始まるのだが、その短い文章の後半の3行。

 そのとき、色づいた葉っぱの「色」が、葉っぱの「形」から分離して、抽象的な命のエキスとなり、私の身体に、私の命に、ダイレクトに染み込んできた感じがした。

 色が形から分離して、と書いたあと、そのことばのなかにひそむ「理性」の動き(色が形から離れるの見るのは「感性」だけれど、それを「分離(する)」と把握し直すのは「理性」である)が、「抽象的」ということばをはじき出す。
 感覚におぼれる、感覚に酔ってしまうということが小池にはない。感覚の変化(感覚でとらえた世界の変化)を「理性」として表現して見せる。だから、さっぱりしている。清潔である。
 「官能」を描いても、「官能」が直接ことばになるわけではない。ちょっと意地悪な指摘になるかもしれないが、たとえば「菜の花と麦」という文章。花屋の主人(男性)の指に目を引かれる。

指には、無数の筋がついていて、そこに汚れが入り込み、容易に落ちそうもないほど、黒ずんでいる。美しい花とその手の組み合わせには、どきっとするような官能性がある。

 見た通り、感じた通りに書いているのだと思うけれど「官能性」を「官能性」ということばにしてしまっては、ずるい。小池の「個性」が「汚れた手と美しい花」の組み合わせという「小池の外にあるもの」にすりかわってしまう。それを見たとき、小池の「肉体の内部」で動いたものが、「もの」によって抽象化されてしまう。汚れた手、美しい花は「具体的」なようであって、具体的ではない。「汚れ」にはいろいろな色と形がある。それを「汚れ」とひとことで言ってしまうのは抽象である。「美しい花」にも色と形とにおいと感触(たとえばやわらかい)がある。それを「美しい」といってしまっては抽象である。その抽象が「官能性」という抽象的なことばを引っ張りだしてしまう。
 抽象というのは、むずかしいようで、とってもわかりやすい。具体的なものを省略して、「概念」を「流通」しやすくしたものが「抽象」だからである。ああ、「官能性」か。「官能」なら知っている--と人に思わせてしまう。
 でも、官能というものは、ある具体的な出会いのなかで、その場かぎりのものである。二度と同じ官能はない。だから決して抽象できない。それは、とってもめんどうでややこしい。そういうものに本気でつきあうのは、まあ、セックスをしていたときだって面倒くさくなる。ほどほどのことろでエクスタシーにしてしまう。そして、「官能」と呼んでみたりする、と私は思う。
 「官能」というのは、「官能」ということばをつかわなかったときの方が、はっきりと伝わってくる。およそ「官能」とは無縁のものを、官能と思わずに、じっくりとことばで追うと、そこに自然に浮き上がってくる。思わず自分の外へ出てしまうこと(エクスタシー)といっしょにあるもの、切り離せないものが官能である。
 「からっぽの部屋」にそれを強く感じた。昔生活していたアパートのことを書いている。持ち物がほとんどなく「からっぽ」と呼んでいいような部屋のことである。

 とうにそこを出た今になって、がらんとしたあの部屋が、時折、記憶のなかに現れる。「わたしの空間」にはついにならなかった、ひどくよそよそしいあの部屋が、わたしがいなくなって初めてようやく、わたし以外の何者でもないような生々しさで、記憶のなかに浮かびあがってくる。部屋の方がわたしを思い出しているのか。

 私は、知らず知らずに、「あの部屋」を「別れた男」と読み替えてしまう。

 別れたあの男は「わたしの男」にはついにならなかった、ひどくよそよそしいあの男の肉体が、わたしの肉体に触れなくなって初めてようやく、わたしの知っているのはあの男の肉体以外の何者でもないような生々しさで、記憶のなかに浮かびあがってくる。男の肉体の方がわたしを思い出しているのか。

 あの男に触られた私のからだのことを思い出すのか、私のからだに触ったあの男のからだのことを思い出すのか--わからなくなる。その「わからなさ」だけが「わかる」というところに「官能」がうごめいている。官能はおくれて肉体に復讐してくるのである。
 で、小池はここでは「男」を描いていないのだが、この部分がこのエッセイ集のなかでは私はいちばん官能的でおもしろいと感じた。



 エッセイ集のタイトルになっている「産屋」は河瀬直美の映画に対する感想である。私はその映画を見ていないので、とんちんかんな感想になると思うのだが……。
 女性がこどもを産む。そのとき、一般的に生まれるのは「こども」であると信じられている。けれど、私は、どうも母親の方が生まれるのだと思う。産むのではなく、生まれる。生まれ変わる--と言った方がいいかもしれない。こどもを産んだあとと産む前では「人間」が違ってしまう。
 男にはなかなかこういう「体験」はなくて、たぶん、人を殺すということくらいが、「人間」を生まれ変わらせるのだと思うが、女は「殺す」かわりに「産む」。そして「生まれ変わる」。もしかすると、「産む」という体験で自分自身を「殺す」のかもしれない。そういう変化を、傍から見ていて感じる。
 だから、というのは、とんでもない飛躍なのだが。
 たとえば谷川俊太郎は詩のなかで、こどもにもなれば若い娘にもなるし、中年の女性にもなるのに、女が「おばさん」になるように「おじさん」にはなれない。谷川だけではなく、だれも「おじさん」を詩に書けない。「おばさん」を書く詩人はたくさんいるのに。(小池は、いまのところは「おばさん詩」を書かないけれど)。
 これは余分なことなのだけれど、最近、そういうことを考えているので書き加えた。
産屋―小池昌代散文集
小池 昌代
清流出版
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「マッチョ思想」とは何か(阿部嘉昭と私のスタンスの違い)

2013-10-09 19:01:22 | その他(音楽、小説etc)
「マッチョ思想」とは何か(阿部嘉昭と私のスタンスの違い)

 以下の文面は知人がFBの阿部嘉昭のタイムラインにある文章を私に転写してくれたものである。阿部の発言は、私には見えない設定になっているので知らなかった。(阿部の発言にある「うえの詩篇」は転写されていなかった。)
 いくつかの疑問点を書いておく。

アタマのわるい性格異常者からのネット上の攻撃がつづいている。火に油をそそいだぼく自身がわるい。それと、いかに卑劣な誘導とラべリングがあろうとも、書かれていることの出鱈目は自明、ともはや沈黙するしかない。けれども恵贈された詩集の逆パブを平気で書いて居直るそのマチズモは、みなの恐怖の的なのではないだろうか。こういう「書
きっぱなし」のことばの暴力にはどう対処すればいいのだろう。当事者とはいえバカにみえてしまうので、おなじ土俵にあがることも控えるしかない。粘着質のそのひとは、冷笑ぎみに土俵をさしだしているけれども。ともあれ精神衛生にわるいので、FB上の友人関係を切らせていただいた。もうそのひとのサイトもみないだろう。
昨日は敬愛するおふたりから、詩集送付の礼状がきた。岩佐なをさんと柿沼徹さん。双方の文面に懇切で胸をうつ賛辞がならぶ。そこではぼくの詩集のことばのしずかさと、かれらのことばのしずかさが「似ている」。やはりこれが正常だろうと、きもちを持ち直した。FBでも励ましのメールをいろいろいだだいた。ありがとうございます。
うえの詩篇は飲み屋で博士課程のI川さんがこれまでかたったことを、ぼくなりにコラージュしたもの。そのI川さんにもなぐさめられた。」
「ちなみに、ぼくは鎌倉の「山そだち」なので、友だちと一緒にあけびをもいで、よく食べた。ひらいている箇所をさらにひらき、種のまざったやわらかくしろい部分を舌でこそげる。それから、種をはきだしつつ、果肉をのどにながす。うすいあまさに、なにか薬のような味がくわわる。整腸剤の味に似ている、とみなでかたりあったものだ。
あけびは緑がかったふかい灰色に、むらさきが不気味に兆す。割れていることは不吉だが、それが女性器に似ているとはおもわない。むろん小学生当時は女性器など知らない。
現在もあけびにもっとなにか中性的なもの--死と生の中間的なものをかんじる。あけびの実りも縊死にみえたのだった」

(1)マッチョ思想の問題。
 阿部と私では「マッチョ思想」に対する定義が違っている。前回書いた「スタンス」が違うように。どういう違いがあるかを検討せずに「マッチョ思想」について書いてもしようがない。
 阿部は「恵贈された詩集の逆パブを平気で書いて居直るそのマチズモ」と書いている。ここからわかることは、「恵贈された詩集の逆パブを平気で書」くこと、さらにそれに対する阿部からの批判に「居直る」ことを、阿部が「マチズモ」と呼んでいることがわかる。簡単に言いなおすと、非礼と感じる態度をとることを「マチズモ」と呼んでいるように見受けられる。詩集を頂いたら感謝するべき、その詩集の宣伝をすべきであって、疑問を書いてはいけないということかもしれない。もう少し言いなおすと、相手の立場(自分の立場)を考慮に入れずに自分の考えを正直に言うことをさしているように見受けられる。詩集を頂いたのなら、頂いたひとは感謝と称賛をすべきという考えが、その奥にあるのかもしれない。
 私が阿部の詩に感じた「マッチョ思想」の定義は、「非礼」とも「相手の立場を考慮せずに自分の考えを発言すること」でもない。私は、自分の「肉体」で感じたことをそのまま書くのではなく、「頭」で知っていることで、ことばを補強することを「マッチョ思想」と呼んだ。「頭」で知っていることというのは、たいていの場合「社会に流通している概念」である。自分自身の「肉体」で消化されていないままのことばを私は「頭で書いている」と言い、そこに「マッチョ思想」を感じると書いている。
 「権威の流用」を、私は「マッチョ思想」と呼ぶ。阿部は「岩佐なをさんと柿沼徹さん」から礼状がきたと書いてあるけれど、こういう書き方も私は「マッチョ思想」と感じる。岩佐なをと柿沼徹は有名な詩人だけれど、その二人がどんな感想(礼状)を書こうと、私が感じたこととは関係がない。ひとはひとそれぞれに感想を持つものである。文学というのは「物理的尺度」で「客観的」に計測できるものではない。
 二人の感想が私の発言と関係があるとすれば、二人が「あけび」をどう読んだか。「雪」をどう感じたか、ということを書いてもらわないと私への反論にはならないだろう。私は、阿部の書いている「雪」も「あけび」も「頭」で書いたことばであると感じた。「頭」で書いていると感じたから、そこに「マッチョ思想」のようなものを感じたと書いた。
 有名詩人の二人の名前(権威)を持ち出してきて、権威のある二人が称賛しているのだから谷内の読み方はまちがっている--というような論法を私は「マッチョ思想」と呼んでいる。
 阿部に阿部自身の考えがあるなら、それを阿部自身のことばで語ればいいのに、と私は思う。
 私と阿部の「マッチョ思想(マチズモ)」は、まったく正反対のものである。だから、私は阿部が私のことを「マチズモ」と呼んで批判しているけれど、私はぜんぜん批判されたとは感じない。「スタンスが違う」、話がかみあっていなと思うだけである。

(2)「知っていること」と「わかっていること」の違い。
 「あけび」について、「博士課程のI川さん」の発言が要約されている。わざわざ博士課程と書いているのも、私には「権威主義」的に感じられて、あ、「マッチョ思想」にそまっているな、と思うのだが……。
 その「博士課程のI川さん」によれば、「あけび」は「中性的なもの」ということになる。「男性的」とは書いていない。ということは、やはり、「博士課程のI川さん」も阿部の「あけびを男性の下半身」の比喩とすることには完全に同意はしていないのではないだろうか。私は「博士課程のI川さん」の意見を読んでも、それによって自分が感じたことがまちがっているとは思わない。批判されているとも思わない。そうか、「中性的か」、私とは感じ方が違うなあと思うだけである。
 一方、「博士課程のI川さん」の食感から「死と生の中間的なものをかんじる。あけびの実りも縊死にみえたのだった」という「わかっていること」をことばにしていく部分は、とても感動した。熟れた果物には、たしかに死の匂いがあるなあ、と思い出した。こういう具体的なことばの動き、「誰かが書いたことば(流通していることば)」ではなく、自分の体験を書いたことばに私は詩を感じる。
 でも、不思議なのは、どうして阿部は「博士課程のI川さん」のことばを引用するのかなあ。なぜ、阿部自身の「あけび体験」を書かないのかなあ。--これが、とても疑問。
 私が阿部の今回の詩集に対する疑問は、そこに要約されている。
 「他人のことば」で自分を補強するのではなく、自分自身の体験をなぜ書かないのか。「頭」でことばを操っていないか。(私の意見では「他人のことば」で自分を補強するのは「マッチョ思想」である。)

 で、これはちょっと余分なことかもしれないが。--と書きながら、ほんとうはこれが言いたいのだけれど。
 「博士課程のI川さん」の「小学生当時は女性器など知らない」ということば--ここに、私はとても興味をもった。私も小学生のときは女性性器は知らない。めいのおしめを替えたり、同級生と「お医者さんごっこ」をしたりで、少女の下半身は見たこともあるし、さわったこともあるけれど、大人の女性の性器は、中学生のときも知らない。
 でも、知らないからといって、それが「わからない」わけではない。中学生になってオナニーをおぼえる。そうすると、自分(男)の性器をどうすれば何が起きるか。そのとき「気持ち」はどうなるかは、「わかる」。肉体で、本能(欲望)で「わかる」。だから、本能(欲望)が肉体をそそのかす。「頭」は「オナニーばかりしていてはダメ」といっても「本能(欲望)」は、そんなことばに従いはしない。気持ちいいと「わかっている」からである。そして、その気持ちいいと同じことが「女性性器」と自分の「性器」がいっしょになったときに起きることも「わかる」。「頭」ではなく「本能(肉体)」で「わかる」。「知らない」のに「わかる」。もちろん、この「わかる」は「妄想」の類かもしれないが、人間は「妄想」で現実を切り開いていくものである。この「わかる」に目をつむって、それを「知らない」というのを、俗に「カマトト」と呼んでいるように私は思う。
 世の中には「知る」から「わかる」にかわることと、「わかる」から「知る」にかわることがある。セックスなどというのは「わかる」が先なのだ。だからこそ、「おまえまだ女を知らないのか」という表現もある。そしても、女を知った(セックスを体験した)からといって、「女がわかる」とはなかなか言えない。自分がどうしたら気持ちいいかは「わかる」が相手にどうしたら気持ちよくなるかなんて、とてもむずかしい。
 逆の「知る」と「わかる」もある。たとえば外国語。「これは本です」を英語では「This is a book」ということは知っていても、英語が「わかる」わけではない。それだけでは「つかえない」。イランで話されることばはペルシャ語、その他のアラブで話されるのはアラブ語ということを私は「知っている」が、彼らが話すのを聞いても、あるいは書かれた文字を見ても、それがどちらかは「わからない」。
 こういうことは、「流通概念」の世界でも起きる。たとえば私は、阿部が書いていたアガンベンとベンヤミンの名前は知っているが、彼らの思想は「わからない」。自分のものとして使うことができない。デリダとかドゥルーズとか脱構築ということばも「知っている」けれど、「わかっていない」。「わかっていない」のに「知っている」からといってそれを流用するのは、私には「マッチョ思想」に感じられる。

 あとは、さらに余分なことだけれど。
 阿部は「アタマのわるい性格異常者」と書いている。だれと明記していないが、文章全体から、それが私(谷内)のことであるのは「わかる」。あ、すごい言い方だなあ、と思う。私が読むことのできない阿部が管理するページで、こういう発言をする人だったのか、と初めて知った。私は対話の相手を閉め出しておいて、こういう発言をすることはしません。阿部がいつでも読めるところで発言をしています。
 私とは阿部とでは、それくらい「スタンス」が違います。

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藤野可織「爪と目」

2013-08-15 09:03:09 | その他(音楽、小説etc)
藤野可織「爪と目」(「文芸春秋」2013年09月号)

藤野可織「爪と目」は芥川賞の受賞作。
とてもいやな感じが残る文体である。途上人物は3人+1人、じゃなかった、女2人に男2人――でもないなあ。女2人。父親の愛人(後妻)と父の連れ子の3歳の少女、と言った方がいいのかな? 厳密にいうと死んだ母親も出てくるから女3人?
こういう単純なところからややこしくなるくらいに、いやあな感じなのだ。それは一番いい部分の文章を見るともっとはっきりする。

水分を失った眼球は、型くずれしはじめていた。ほんとうならただ丸く膨らんでいるはずのまぶたは、膨らみの最頂部でぽこんと小さく凹んでいた。それが、死んだわたしの母のまぶただ。           (428ページ)

しおり紐が「し」のかたちではさまっていた。まだ一度も使われていないしおり紐だった。その薄紫色のしおり紐をつまみあげると、ページの表面が同じ形にくぼんでいた。                  (431ページ)

「もの」のへこみが描写されている。へこみの原因は違うのだが、対象を長く見つめてきた人間だけが気づく小さな対象の変化である。これが「ひとり」の登場人物の視点なら、それはそのひとの個性になる。ところがこの小説では、前者は3歳の少女、後者は父の愛人である。年齢も立場も違う人間が、同じようにもののへこみに目をこらし、それを丁寧に描く。これは奇妙である。
ふたりの人間には共通項がある――ということを暗示しているととらえることもできるが、そうではなくて作者が最初からふたりをふたりとして描き分けることを放棄している。「わたし」と「あなた」を区別していないのだ。
だから気持ちが悪い。
 人間の感性は通い合い、そこには「わたし」と「あなた」の区別がないという哲学を書きたいのなら、へこみというものを共通させるのはなく、違ったものをぶつけて、そこに、いままで存在しなかった新しい「存在の形式」を登場させなければ、昇華にならない。弁証法にならない。私は弁証法を信じるわけではないのだが、こんな奇妙な「合致」はきもちがわるくてやりきれない。

小説のストーリーは書きつくされ、文体の特異性でしか作家は個性を発揮できないということか。特異な文体なら「現代詩」にあふれている。「感覚」をことばに定着させる競争なら「現代詩」のあちこちでおこなわれている。
変な文体の前に、人間の手触り、抵抗感を書いてもらいたいと思う。人間を読みたい。



爪と目
藤野 可織
新潮社
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木下龍也『つむじ風、ここにあります』

2013-06-02 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
木下龍也『つむじ風、ここにあります』(書肆侃侃房、2013年05月25日発行)

 木下龍也『つむじ風、ここにあります』は歌集。
 私はいつも読み違える。読み違えたまま感想を書こうとして、引用して、あ、間違えたと気づく。

裏側に張りついているヨーグルト舐めとるときはいつもひとりだ

 私は巻頭のこの歌が、最初は好きだった。この歌が好きだったとき、私は

裏側に張りついているヨーグルト舐めるときいつもひとりだ

 と読んでいた。「舐めとるときは」ではなく「舐めるとき」。7音ではなく5音なのだから、その段階で間違いに気づくべきだったのかもしれない。でも、気づかなかった。短歌のリズムが私の肉体になっていないためだろう。そういう「門外漢」がこの歌集を読むと、まあ、次のような感想になる。

 まず、私が読み間違えた巻頭の一種。「舐めとるときは」という音の中には「と」の繰り返しがある。そしてそれはこの歌の主題(?)でもある「ひとり」の「と」と呼応するのだが……。うーん、私の感覚では、この歌の基調音は「い」である。「と」が後半で重なると「い」の音が聞こえにくくなる。それが残念。「裏側に張りついている」には「に」を含めて「い」の音がたたみかけるように動く。それが「ヨーグルト」で別の音になり、「なめるとき」(誤読の短歌を優先して書いておく)ともう一度別な音になり、「いつもひとりだ」で「い」にもどる。
 そのとき、「舐めるときは」ではなく「舐めるとき」と「は」がないと、「き」のなかの「い」と「いつもの」「い」が重なり合うようにして動く。「とき」のなかの「い」が「いつも」の「い」を押し出して、その押し出された勢いで「ひとりだ」というセンチメンタルが動く。「は」があると……どうも「勢い」中断する。そして、なんといえばいいのか「意味」が強調される。
 この「意味の強調」は、私にはちょっと息苦しい。

 たぶん、木下にとっては、短歌は「意味」なんだろうなあ。「文学」は「意味」なんだろうなあと思う。

自販機のひかりまみれのカゲロウが喉の渇きを癒せずにいる

 自販機のなかには冷たい水がある。けれどもカゲロウはそれを飲むことができず、喉は渇いたままである。「意味」とは、ここでは「矛盾の構造」と同じようなものである。「矛盾」によって、いままで意識しなかった世界が見えてくる。その発見が「意味」であり、「詩」である、ということになる。

カードキー忘れて水を買いに出てぼくは世界に閉じ込められる

 ホテルの、だろうか、カードキーを忘れて外に出てしまったために、部屋に入れない。それは部屋に閉じ込められるの逆で世界に閉じ込められるということである。締め出されるを、逆に言ってみる。そこにも「矛盾」のようなもの、「逆説」のようなものがあり、その「逆」の視点によって世界が新しくなる。
 こういうことばの運動は、秋亜綺羅の詩にいくらか似ている。
 これはこれで木下の個性なのだろうから、これ以上「批評」しても、あまりおもしろくないことになる。
 そういう「世界の見せ方」が評価されているのだろうけれど、私には、あまりおもしろくない。「頭」で書かれた作品、という感じがどうしてもしてしまい、そこに「肉体」が見えてこない。「肉体」を「分有/共有」する感じがしない。

 私が気に入ったのは、たとえば

手がかりはくたびれ具合だけだったビニール傘のひとつに触れる

 ここにはじかに「肉体」が「おぼえていること」が出てくる。「肉体がおぼえていること」だけが、ビニール傘を自分のものと主張する。これはいい。ここには「無意味」がある。「矛盾」とか「逆説」を追いかけて、「世界」を別の角度から見るのではなく、ただじかに「もの」に触れて、触れることによって「おぼえていること」を「事実」にする。「事実」というのは「無意味」だ。「このくたびれた傘は私のものである」というのは、「新しい」世界ではない。「古い世界」であり、「古い世界」を強固にしたものである。この「強固」が、私の感覚の意見では詩であり、思想である。「肉体」である。

いくつもの手に撫でられて少年はようやく父の死を理解する

 「ようやく」が「肉体」である。思想である。「理解する」というのは、いつでも遅れてやってくる。(季村敏夫を、私は何度でも思い出す。私は季村敏夫の『日々の、すみか』によって、「肉体」をたたかれ、ことばをたたかれ、思想を仕込まれたと感謝している。)いくつもの手で撫でられる。その「撫でる」という「肉体」が少年の「肉体」をいままでとは違うものにかえてしまう。その「変化」のなかで少年は父の死を「思い出す」。「肉体」は、父の死をはっきりと「おぼえる」と言い換えてもいい。
 「わかる」とは「肉体がおぼえる」ことなのだ。

台本にゆれるゆれると書いてありやっぱり僕は木の役だった

 この「やっぱり」も「肉体」である。「肉体」の世界の発見の仕方は「逆説」ではなく「順接(?)」である。ただ、それをおしつづける。「肉体」をくりかえしおしつづけると、だんだん「じか」が出てくる。それが「ほんもの」になる。
 「逆説」の描き出す構図は「あざやか」というか、印象に残るが、それは「頭」が刺戟されるということであり、それは最終的にはどっちだっていい、ということになる。ほかの「逆説」もあるという感じがする。--これは、私の直感であり、印象にすぎないけれど。

爆風は子どもの肺にとどまって抱き上げたときごほごほとこぼれた

 これも順接。「肉体」には「逆説」などない。とても強烈な響きがある。

救急車の形に濡れていない場所を雨は素早く塗り消してゆく

 ここにも逆説はない。ただ時間がすぎる順序で、世界が自然に変わってゆく。「人為」がない。「人為がない」ということが自然であり、「肉体の思想」なのだ。目が生きて動いている。「写生」というのかもしれないけれど。
 ほかにも

たくさんの孤独が海を眺めてた等間隔に並ぶ空き缶

呼応して閉じられてゆく雨傘の最初のそれにぼくはなりたい

 にも私は二重丸をつけた。

 逆に×をつけたのは。

遺失物保管係が遺失物ひとつひとつに名前をつける

 これは寺山修司あたりが書きそうな「頭」の「物語」。「頭」の「物語」のセンチメンタル。大富豪が(そんなことはないだろうけれど)道に落ちているものを拾い集める趣味があって、その拾い集めているものに名前をつけているという「物語」なら、そのセンチメンタルはかなり違ったものになる。「遺失物保管係」を選んだとき、そこにはすでにセンチメンタルが用意されている。それを「頭」で増幅したのが、木下の短歌である。

少年がわけもわからず受け取ったティッシュが銃じゃなくてよかった

 「銃じゃなくて」が「頭」で考えた「平和」。寺山修司や秋亜綺羅なら「銃なら」と肯定するだろう。「銃じゃなくて」という否定、否定による世界の見せ方--この短歌に、たぶん木下のことばの運動がいちばん的確にあらわれていると思う。
 この一首が好きなひとは、私がいちゃもんをつけた短歌は全部好きだと思う。


つむじ風、ここにあります (新鋭短歌シリーズ1) (新鋭短歌シリーズ (1))
木下 龍也
書肆侃侃房
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村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

2013-04-17 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋、2013年04月15日発行)

 私は村上春樹の熱心な読者ではない。群像新人賞をとったときの作品と、『1Q・・(タイトルは忘れた)』と今回の作品と3作品しか読んでいない。『1Q・・』は2まで読んで、3は買ったが、読まないままどこかに紛れてしまった。
 文章があまりにわかりやすすぎて、小説を読んでいる感じがしない。私は目が悪くて読むのに非常に時間がかかるはずなのに、あっという間に読めてしまう。それが、読んでいて、とてもいやな感じなのである。
 で、今回の作品。

つくるの意識の中で、父子の姿かたちは自然に重なり合った。二つの異なった時間性がひとつに混じり合うような、不思議な感覚があった。あるいはその出来事を実際に体験したのは父親ではなく、ここにいる息子自身なのかもしれない。      (79ページ)

 沙羅がテーブル越しに身を乗り出し、彼の手に手をそっと重ねた。(略)それは、遠い場所でたまたま同時的に起こっている、まったく別の系統の出来事のようにも感じられた。                               (147 ページ)

 ここにテーマが要約されている。(他にも随所にテーマは要約されているが)。
 違ったもの(二つのもの)が時間と場所を超えて重なり合う。あるいは違ったもの(二つのもの)が時間と場所を同時にしながら離れる。人間の関係(社会構造)は、そんな具合にできている。
 この単純化は『1Q・・』にも通じる。『1Q・・』のQは9と重なりながら離れてもいる。世界の構造(人間関係)があまりにも単純化されているので、とてもわかりやすい。初めて読む本なのに何度もくりかえし読んだ本のように即座に要約でき、キーセンテンスが読む前から傍線つきで見えてしまう。
 これは、たぶん、世の中はそんなふうに単純化してはいけない、ということなのだと思う。確かにどんなことでも、出会いの瞬間、それは別次元を引き寄せるか、あるいは別次元への乖離(分裂)かという運動を引き起こすけれど--そんな「要約」を小説のなかに持ち込んでは、「小説」が「世界構造の解説書」になってしまう。それも学校の先生がつかう「アンチョコ」のような解説書になってしまう。オリジナリティーがまったくない、「流通解説書」になってしまう。村上春樹に「小説の読み方」を教えられながら読んでいる、授業を受けているような、しかも教科書のアンチョコをそのまま読みあげている先生の授業を受けているような、つまらない気持ちになる。いやあな感じになる。そのアンチョコ解説書にしたがえばテストで 100点をとれるかもしれないけれど、それで何かを学んだことになる?  100点の取り方を学んだだけじゃない?

 小説って違うんじゃない? そこに登場する人物がたとえ人殺しであっても、あ、この人殺しになってみたいと思わせるのが小説じゃない? 主人公がどんなに不幸になろうが、その不幸に泣きながら、その主人公になってみたいと思うのが小説じゃない? そのとき、世界がどんな構造になっているかなんか忘れて、ひとりの人間になってしまうのが小説じゃない? あるいは、こんなことを書くなんてこの作家変じゃない? 異常じゃない? でも、なんだかおもしろい。できれば真似してみたい、と思うのが小説じゃない? (あるいは魅力的な先生じゃない?)
 私は、私の読んだ限りの小説で言えば、村上春樹の書いている小説の主人公になってみたいと思わない。そこに登場する悪役になってみたいとは思わない。また解説つきの作品は小説とは思わない。

 ちょっと脱線したかな?
 村上春樹は、小説の「要約」をところどころにはさみながら、読者を誘導し、ストーリーを展開する。だから、とても読みやすい。わかりやすい、読みやすいという点では村上春樹は日本でいちばんわかりやすく、読みやすい作家だろう。けっして読み間違えることはない。テーマを読み落とすことはない。だれでも同じ「結論(?)」に間違いなくたどりつける。
 という具合に小説をつくっているのだが。
 307 ページ。この小説のハイライトの部分で、私は、びっくり仰天してしまった。何だ、これは。こんなむちゃくちゃなことばの運動があっていいのか。これが小説と言えるのかと本を投げつけたくなった。(会社で、こっそり仕事中に読んでいたので、それはできなかったが……。)

彼は息を止め、目を堅く閉じてじっと痛みに耐えた。アルフレート・ブンデルは端正な演奏を続けていた。曲集は「第一年・スイス」から「第二年・イタリア」へと移った。
 そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷とによって深く結びついているのだ。痛みと痛みにって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。

 「人の心と人の心は……」以下は、最初に引用した「二つの世界」の出会い方と分離のしたか(重なり方、調和の仕方、離れ方)を言いなおしたものである。どんな出会いでも、それが「調和」するときは「傷み」よって「重なり合う」、「傷み」を共有することによって「一つ」になる。
 それはその通り。阪神大震災、オウムのサリン事件、東日本大震災をとおして、いまの日本は「痛み」を「共有」することで、なんとか調和している。そういう「現実」とも重なり合っているし、この「結論(?)」に私が文句を言いたいわけではない。
 またそれが最初に書いたことがらの言い直しであることに対して文句が言いたいわけでもない。ひとは大事なことは(ほんとうに言いたいと思っていることは)、ことばをくりかえしながら何度でも言うものである。
 私が怒りたいのは、

そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。

 この「そのとき」である。「そのとき」って、何? いや、わかるさ。だれが読んだって、「そのとき」は「曲集は「第一年・スイス」から「第二年・イタリア」へと移った」ときである。
 でも村上春樹は、「第一年・スイス」と「第二年・イタリア」がどんなふうに違うのか、読んでわかるように書いていない。主人公がその違いをどんなふうに感じているのか、それをことばにしていない。
 こんなばかげた文章があっていいのか。
 「第一年」の痛みがどのようなものであり、「第二年」の痛みがどのようなものであるか。それを主人公がどう感じたのか書かずに、「第一年」の痛みと「第二年」の痛みが重なるように(結びつくように)、主人公多崎つくるの痛みと彼の友人たちの痛みが結びついていると言われても、それは「解説」として書かれている「図式」にすぎない。
 しかも「気取った解説」である。「巡礼の年」という曲を聴いた人なら「違い」を解説しなくてもわかるでしょ?という暗黙の(?)プレッシャーをかけ、反論を許さないというずるい解説である。
 私はもちろんその曲を聴いたことがない。私はばかだから、そしてそれを聴いたことがないということを恥ずかしいとは思わない。初版本を買った50万人のうちの何人がそのメロディーを口ずさむことができ、またそのうちの何人が誰それと誰それの演奏の違いを自分のことばで言えるか知らないが、まあ、読者をばかにしているなあとムカムカしてしまう。
 だいたいねえ。
 「傷」と「傷」、「痛み」と「痛み」をつなぐ、それによって「調和」するなんてねえ、そんな簡単に言ってしまっていいことなのか。
 他人の痛みなんて、わからない。わからないからこそ、その痛みを具体的に知りたい。わからないけれど、聞きたい。
 先の引用の前に、

 過ぎ去った時間が鋭く尖った長い串となって、彼の心臓を刺し貫いた。無音の銀色の痛みがやってきて、背骨を凍てついた氷の柱に変えた。        (307 ページ)

 と書かれているけれど、こんな痛み、わかる? 「くだらない現代詩の比喩」にしか見えない。「心臓」「背骨」は出てくるが、それは単なる肉体の部位の名称であって、肉体そのものではない。肉体が動いていない。そんなことろに、共有できる「痛み」なんかない。
 道端に腹を抱えてうずくまる人間がいれば、あ、腹が痛いのだと、他人の痛みのなのに痛みとして感じることができるが、それは私たちが腹を抱えて「痛い、痛い」とうめいた体験があるからだ。私は心臓を串で刺し貫かれた体験はないし(しかも、その貫く串が過去というわけのわからなもの)、背骨が氷の柱になったこともない。
 こんな「でたらめ」の「痛み」(空想)はとても「痛み」として共有できない。
 「共有不能な痛み」(気取った教養)を振りかざした「社会の構図(図式)」「人間関係の構図(図式)」を教えてもらいたくて私たちは小説を読むわけではない。(少なくとも、私は、そんなふうには読まない。)そういう「気取った精神」を「わかりたくて」読むわけではない。
 世界の図式なんか、わからなくてもいい。むしろ、図式がわからなくなったほうがいい。いま、自分が直面している思い通りにならない図式(社会/現実)がそこにあるだけで、けっこう。そんな「図式」はわかったって、いまを突き動かしてはくれない。わかりたいのは(感じたいのは)、いま自分が直面している人間であり、いま、ここにある「関係(図式)」を突き破って動いていく人間(個人)の可能性、力である。どんなふうにすれば、自分が自分でなくなれるのか。それが殺人者だろうが、殺される人間だろうが、その人間になってみたいという思いである。自分ではない人間になってどきどきしたい。そのどきどきのなかにだけ「わかる」がある。そのどきどきした「わかる」があれば、人間は生きていける。

 別なことばで言いなおすと、村上春樹の小説には、主人公の「逸脱」がない。登場人物の「逸脱」がない。登場人物は、村上春樹の「世界観」をなぞらされている。そして、その「正確なトレース」のために、ほんとうに書かなければならない部分が省略されている。
 これは小説と呼ぶには、あまりにもひどい作品である。ひどい作品とわかっていたからこそ、巧妙な宣伝で50万部を売ってしまうことにしたのだろうか。
 






色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
村上 春樹
文藝春秋
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瀧井孝作全集第七巻

2013-02-27 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
瀧井孝作全集第七巻(中央公論社、1979年03月25日発行)

 昨年の年末から思い立って瀧井孝作を読んでいるのだが、とても奇妙なことに気がついた。瀧井孝作の文章はごつごつしていて、必ずしも読みやすいとはいえないのだが、一巻から五巻までの小説を読み終わり、あとは随筆だから早く読めるかな……と思っていたのだが、逆だった。短い随筆なのに、読めども読めども、進まないのである。むずかしいことが書いてあるわけではない。
 たとえば、きょう読んだ「碧梧桐の随筆」という文章。「晩年のものは、筆が枯れて、枯れ光がしたやうに冴え冴えして、ほがらかで、滋味が溢れて、幾度読んでも飽きのこない、名文になつてゐます」という紹介で始まる。「筆が枯れて、枯れ光がしたやうに冴え冴えして、」というような、「枯れる」の繰り返しのつかい方、ふつうなら整理して「枯れる」をひとつ減らすかな、というところを、繰り返すことで、意識を反復させて、ごつごつした生の実感にひきもどすようなことばの動きに瀧井の特徴があると私は思うのだが、実際にどんなふうに碧梧桐の随筆を紹介しているかというと……。

 昭和十年一月の東京堂月報に「子規居士と読売」といふ五六枚の原稿を出してゐます。これは文人の書斎のありさまが描かれてゐます。獺祭書屋と云つた、乱雑な投出した机のまはりは、子規ばかりでなく、碧梧桐にしろ、私共にしろ、同じやうだと、これを読んで吹き出しました。が、病子規の勉強ぶりを叙した末尾に至つては、襟を正して、頭がさがり、涙がわきました。

 具体的な引用がなく、内容の「要約」と「感想」をさーっと書いている。乱雑な机のまわりの描写に笑ったが、勉強ぶりを紹介している部分には頭がさがり、涙が出た。うーん。何も書いてないくらいに、何も書いていない。どうしてこんなに読むのに時間がかかるのだろうと、思ってしまうが。
 たぶん、何も書いていていくらいに見えるから、時間がかかるのだ。「病子規の勉強ぶりを叙した末尾に至つては、襟を正して、頭がさがり、涙がわきました。」には、いくつもの動詞がある。肉体の動きがある。「襟を正して」「頭がさがり」「涙がわきました」。この三つの動詞は、ひとつの文章におさまっているために「時間」の経過がないようにみえる。一瞬にみえる。けれど、勉強ぶりを書いた文章に出会い、はっと気がついて「襟を正す」ということがあり、それから「頭がさがる(頭をさげる)」までのあいだには、かなり長い「時間」がある。襟を正して、ことばを読み返す。そこには、何か反復というだけではとらえきれない「時間」と肉体の変化がある。襟を正すだけでは追いつかず、頭をさげるという動詞として肉体が動くまでには、肉体のなかをことばがなんども行き来している。さらにそれが「涙がわく」になるまでにも、おなじような繰り返しがある。
 繰り返して繰り返して、余分なものを捨ててしまって、繰り返しをつらぬいているものだけを、最小限度のことばで書いている。その繰り返しの「時間」に、無意識のうちに引き込まれてしまう。そこで、無意識のうちに「長い時間」をつかってしまう。そのために、読むのに「時間」がかかる。
 小説では、登場人物たちの動きが、もっと客観的に描写される。他人の肉体の動きとして書かれている。ところが随筆では、もっぱら自分の肉体の動きを書くので、自分(瀧井)にとってわかりきったことは省略されてしまう。しかし、その省略は、そのときの肉体の動きそのものまでは省略できない。勉強ぶりを読んで襟を正し、頭がさがり、涙がわいた--というときの「精神」の動きは、とてもまっすぐで、あっという間だが、肉体はあっという間にそういうことができるのではない。ところが、瀧井は、それが自分の肉体なので、まるで精神の動きのように簡潔に書いてしまう。小説には存在した肉体の動きが随筆では最小限度にとどめられているので、それを読者は自分の肉体で反復(復習?)しないといけない。そのために、とても時間がかかるのかもしれない。
 瀧井は、どうも、「反復(繰り返し)」という動詞で鍛え上げた何か、磨き上げられた何か(それは、整えられたを上回る結晶化のようなもの)を文章にしようとしている。そしてそれは他人の文章を読むときの「基準」のようでもある。
 碧梧桐がパリでマチスにあっている。そして、ふたつの文章を書いている。それに触れながら、こう書いている。

巴里の旅宿ですぐに書いた「マチスを訪ふ」といふ紀行の一章もあり、それは新鮮で溌剌としたスケツチですが、後の「アンリ・マチス」の方は、何年か経つて思ひ出のくり返された所のしんみりした姿が写されています。

 「思ひ出のくり返された所のしんみりした姿」という文のなかの「くり返す」。くり返すことで「しんみり」する。感情が「しっかり」と定着する。強固なものになる。「しんみり」を「強固」と呼ぶのは変だけれど、繰り返しよって「しんみり」が「しんみり」そのものになる。それ以外のものをはねのけて、純粋になる。そういうものを瀧井は信じているのだと思う。
 それは最初に引用した「筆が枯れて、枯れ光りしたやうに」の「枯れる」という動詞にもあらわれている。くり返すことで「枯れる」ということばそのものになる。それ以外のものはいらなくなる。そうなるまで、瀧井は肉体を繰り返し動かしている。そして、その肉体の繰り返しの運動を、小説ではないので、瀧井は省略している。読むときは、その省略された肉体の動きを再現しながら読まないといけないので、とても時間がかかるのだと気がついた。






無限抱擁 (講談社文芸文庫)
瀧井 孝作
講談社
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黒田夏子「abさんご」

2013-02-11 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
黒田夏子「abさんご」(「文藝春秋」2013年3月号)

 75歳、最高齢の芥川賞、横書き、ひらがなの多様……と話題が豊富なのだが。まあ、そんなことは関係ないなあ。読みはじめたら、そこにことばがあるだけ。
 この作品の特徴は「主語」の書き方にある。「私は」とか「黒田は」とか「父は」ということばのかわりに、

示されなおした者は、

目ざめた者は、

 という形(書き出しの1段落、 414ページ)。動詞が「者」を修飾することで、主語を区別している。なかには「きかれた小児は、」( 414ページ)という形をとるものもあるが、基本は「……者は」である。
 で、この「動詞」なのだが、動詞というのはちょっとおもしろい働きをする。他人の描写(小説のなかの登場人物の描写)であっても、それを読むと、読者の「肉体」が動く。私だけかもしれないが--まあ、そんなことはないだろうと思う。
 「肉体」が動くと、それは「登場人物」の「肉体」であるにもかかわらず、その瞬間「私の肉体」になる。動詞に合わせて肉体が動くことで、登場人物のガ「肉体」になって、読者と「一体(ひとつ)」になる。そうすると、たとえば「示されなおした者」がAであり、「目ざめた者」がBであったとしても、ABの区別は「頭」がすることであって、肉体的には区別がない。ABは見分けがつかなくなる。融合してしまう。「者」という同一のことばが、その融合に拍車をかける。これがこの小説のおもしろさの基本、ことばの基本である。
 この「融合」にさらに拍車をかけるように、

 ごくうすい絹だったか紙だったか、あるいは絹のも紙のもあったのか、卵がたのも球にちかいのも、淡い水いろをおびたのもそうでないのも        ( 412ページ)

 という具合な描写がつづく。ふつうなら「もの」をくっきりと描くところを、逆にあいまいにする。どちらでもいいように書いてしまう。その結果、この文章からは「もの」そのものは消えて、「ごくうすい」とか「淡い」とか「おびた」とかいう「状態」をあらわす属性だけが浮かび上がる。それが「もの」の共通項だからである。ひとはだれでも「個別」のものを覚えると同時に「共通」のものを覚える。そして繰り返される「共通」のもののほうが、繰り返された分だけ「肉体」に入ってくる。別なことばで言うと「印象」だけが「肉体」に入ってきて、「事実」は「肉体」にはもちろんのこと、「頭」にも入って来ない。「頭」には「……だったか、あるいは……だったか」(そうである、そうではない)という断定を避けた「意識」だけが残る。
 こういう「印象」とか「意識」の状態(あり方)を何と呼ぶか。
 「まじる」という。
 「まじる」が黒田の書いている「肉体(思想)」のテーマというか、キーワードである。それはキーワードだから、ほんとうは書いてはいけないのだけれど、どうしても書かずには進めないときに、それが出てきてしまう。 412ぺーである。ちょっと長いがその1段落を引用しておく。

 それぞれにちがったはずの花の絵がらもまるでおぼろで、秋くさなのだかと似ていないではない配置がおもいえがかれても、木わくとのれんかんもつかないばかりか、夏ぶとんの染めもよう、掛け軸の筆のはこび、はてはずっとのちになって店さきで見かけただけのうちわの絵やだれかがだれかからうけとったようなうけとらないような絵はがきなどもまじってしまい、そんなはかない影のうちでも最もはかない稲科植物の葉ずえのとがりに消えこんでいく。

 ここに書かれた「花の絵」のように、主人公の「記憶」はあらゆるものと「まじってしまう」。母の記憶なのか、父の記憶なのか、母の死後に家族に入り込んだ女の記憶なのか--それはひっくりめて「私」の記憶なのか。もちろん書いているのが「私(私ということばは出てこないのだが、便宜上、そう書いておく)」なのだから、それはすべて「私の記憶」であって、「父の記憶」ではない。「父」が何かを思い出しているわけではない。
 で、いま、私の書いた文章は、ちょっとこんがらがるでしょ?
 私が覚えている父のことを「父の記憶」と私は書く。そして「父の記憶」ということばからはふたつのことが考えられる。「私が覚えている父」と「父自信が覚えていること」と。「父の記憶」ということばのなかで、ふたつがまじりあい、そしてそれはときには、まったく同じ「事実」を指すときもある。たとえば「私が幼いときに母は死んだのだが、そのときの父はやはり若かった」、「私(父)が若いとき、妻(娘の母)は死んだ」。幼い子供、若い父、若くして死んだ母--この「事実」は同じである。
 しかし「事実」が同じだからといって、そのとき感じたことが「ひとつ」ではない。つまり「同じ」ではない。それはあたりまえのことである。だが、その「ひとつではない」ことを、いざことばにすると、そのことばのなかで奇妙なことが起きる。「私が感じたこと」を書いても、それは「私」だけのものではなく、もしかしたら「父」が感じたことかもしれない。また「父」が感じたことであっても、あ、いま「父」はこんなことを感じていると思った瞬間から「私」のものにもなる。
 まじりあって、ひとつになって、「全体」になる。つまり、「生きている」ということの「世界」をつくりあげる。
 これを黒田は、一篇の小説にしているのである。そしてこの「まじる」を押し進めるのが「動詞+者」という形の主語の書き方なのである。
 「まじる」ということばは、私は目が悪いので読み落としたかもしれないが、もう一回410 ページに、「親族がいとなむ料理屋で、一そう目には二けんの使用人がいりまじってくらしていた。」という形でつかわれているが、ほかには書かれていない。「まじる」ということばをつかわずに、この小説が書かれたなら、さらにおもしろいものになったと思うけれど、そのキーワードをつかってしまったのが、この小説の「限界」でもあると私は思った。(「まじる」ということばがでてきた瞬間に、小説の構造が露呈し、「私小説(自分史文学?」が露骨に動きはじめる。)

 脱線しすぎたかな? 小説に戻る。--というか、「肉体」の問題に戻る。ことば、思想の問題に戻る。

示されなおした者は、

目ざめた者は、

 こういう「主語」を「動詞」で特定することばの運動では、おもしろいことが起きる。「動詞」というのは、「過去」のことを書いても「いま」の「肉体」を刺戟する。
 別な言い方をすると、この冒頭の段落に出てくる「示されなおした」という「時」と、「眼ざめた」という「時」は離れているのだが、その「あいだ(時間の隔たり)」は「肉体」のなかでは客観化できない。また「示されなおした」という「動詞」のなかには「示した」という「なおした」という「時」以前の「時」もふくまれていて、その「時」と「目ざめた」という「時」の関係は、もう、ほとんどどう客観化していいかわからない。
 「頭」では「示された(幼い時)」「示されなおした(現在の夢--現在の少し前)」「目ざめた(現在)」という具合に、線上に配列できるかもしれないが、そういう「こと」を思うとき、それはすべて「一瞬」のなかに統合されている。ことばは「一瞬」ではすべてを言えないので、便宜上、別々に動くだけで、ほんとうはいっしょに動いている。「肉体」が「動詞」を反芻するとき、そこには「いま」しかない。そして「いま」のなかで「過去」も「未来」もひとつになる。10年前の「過去」も1日前の「過去」も、「肉体」がそこで起きたことを「動詞」として反芻するとき、「時差」というものがなくなる。「あいまい」になる。この結果、黒田の「まじる」は「同時代的」でありながら、「通時代的」でもあるという具合に、「融合」の世界を広げる。
 「世界」は「いま」という時間でのみ「融合」するのではなく、時間を超えて、つまり過去とも未来とも「融合」する。いいかえると、その瞬間に「永遠」になる。「融合」するとこで、「永遠」が浮かび上がる。
 このことを、黒田は「肉体」でつかみとって、それをことばにしている。それが、この小説である。
 ここまでが、私の、この作品に対する「評価」。いいなあ、と思う点。

 以下は、批判。
 こういうことは、小説では珍しいのかもしれないけれど、詩ではたくさん書かれている。「肉体」のなかで「時間」が入り混じり、その反映として「複数の人物」が融合する。融合しながら「世界」を目の前にあらわさせるというのは、そんなに不思議なことではない。また「融合」をとおして「永遠」を描くというのは、詩のもっとも基本的な形である。(だから、私は、何の驚きもなく、この小説を読むことができた。)
 現代の詩人たちと黒田の違いは、そういう文体をどれだけ続けることができるかである。詩人たちは、黒田のような文体で 100枚書くことはできない。そういう意味では黒田には詩人をはるかに上回る筆力がある。ただし、黒田の小説も15の「コンテンツ」に分かれているから、これは「小説」ではなく「散文詩集」ということにすれば、まあ、詩とは大差がない。
 ひらがなの問題も、現代の詩人たちが多用している方法と差はない。
 で、ひらがなの問題に関して別のことをいうと……。「選評」のなかで奥泉光が「読者はひらがなをいちいち漢字に変換して読み進むことを強いられるので、人によっては苛々するかもしれない。」と書いていた。まあ、奥泉は苛々しながら読んだのだろうけれど。あ、読み方が間違っている、と私は思う。ひらがなを漢字に変換して「意味」を読みとるという具合に読んでは、この小説を読んだことにはならない。
 たとえば「一そう目、二そう目」というような表現が出てくる。これは「一層目、二層目」かもしれない。そう読むと「建物の1階、2階」という具合に把握しやすくなる。しかし、そうではなく、わからないまま「一そう目、二そう目」ということばを「肉体」で生きてみないと、この小説は動かない。
 子供時代を思い出せばいい。大人が何かことばを話している。「一そう目、二そう目」。「そう」がわからない。でも「一」と「層」はわかる。それを頼りに、「一そう目、二そう目」ということばが出てくる現場に何度か出会う。そうすると、あ、「そう」は重なった何かだな、とわかってくる。建物には階が重なっている。そうか、「一そう目、二そう目」は「一階、二階」か……。それが「わかる」ためには、「意味がわからないけれど、音ならわかるという、その音」を「音」として繰り返し繰り返し書く(読む/聞く)ことで肉体に溜め込むことが大切。漢字に変換して「頭」で整理しなおしていたのでは黒田のことばを読んだことにはならない。黒田が懸命に作り上げた「文体」を読んだことにはならない。奥泉の読み方は、奥泉の「文体」で黒田を読むという方法にすぎない。そんなめんどうなことをするから時間がかかるのである。「文学」というのはもともと「個人語」で書かれた「外国語」なのだ。翻訳するのではなく、そのまま直接「ことば」にふれることを繰り返して、ことばが「肉体」のなかで「もの」として存在感を持つまで待つしかないものなのである。そして、それが「わかった」後は、やはり「一そう目、二そう目」ということばを引き続き信じるのが「文学」の読み方である。「一階、二階」と読み替えていたのでは「文学」にならない。(あ、黒田批判ではなく、奥泉批判になってしまった。)
 読み返すのではなく、読み返さずに突き進むことが、この小説の「思想(肉体)」に触れる方法である。

 詩との関係で言えば、たとえば、選評でだれかが書いていたが「傘」を「点からふってくるものをしのぐどうぐ」というように書かれてもぜんぜんおもしろくない。「どうぐ」ではなく、ここも「者」にしてしまえばいいのだ。「者」も「もの」にしてしまえばいいのだ。そうすると「人間」と「もの」がいっそう入り混じり、世界の「融合」がよりなまめかしくなる。

 もうひとつ。私は、この小説にベケットの影響を感じた。そして、その影響が、消化されきっていない。

言いたかったのが、どれをほしいとかほしくないとかではなく、いまえらびたくない、えらべるはずがない、えらぶ気になってからえらびたい、えらぶ自由をいっしゅん見せかけただけちらつかせるようなのではなく、決めない自由、保留の自由、やりなおせる自由、やりなおせるつぎの機会の時期やじょうけんの情報もほしいということだったとさとるまでに、とりかえしのつかない千ものえらびのばめんがさしつけられては消えた。

  390ページの、この「えらぶ」をめぐる言い直しの方法はベケットそのものである。違いは、ベケットは言いなおしてもけっして「前」へは進まない。「いま」という「時間」の重力のなかにどんどん沈んでいく。黒田の「肉体(思想)」でそういうことが起きれば、それはベケットを超えることになるかもしれないが、「前」に進んでしまえば、それまで書いてきた「融合」が大なしてある。
 また別なことばで別なことを言いなおすと。「自由」ということばが頻繁に出てくるが、この「自由」は「肉体」ではつかめない。「もの」ではないからだ。それは概念であり「頭」のことばである。こういう「頭」のことばは、「入り混じらない」。「まじる」ことを拒絶して「頭」野ことばは誕生したのだから、こんなものを「動詞+者」という形で動くことばの世界に持ち込んでは、せっかくの「動詞+者」という主語が死んでしまう。「頭」のことば、その融合を書くのなら、「動詞+者」というような文体はつかうべきではない。
 私はこの部分では、思わず、むかっと腹が立ってしまった。
 この部分では、ごちゃごちゃとあいまいなことを書いているようで、書かれていることはきわめて「論理的」である。「……だったか、……だったか、あるいは……」という前半の文章と比較するとそのことがよくわかる。
 このベケットの影響を受けた部分は、あまりにも異質で、作品から分離している。こんな具合にベケットをまねするふりはやめてほしい。






abさんご
黒田 夏子
文藝春秋
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鹿島田真希『冥土めぐり』

2012-08-13 09:28:40 | その他(音楽、小説etc)
鹿島田真希『冥土めぐり』(「文藝春秋」2012年09月号)

 鹿島田真希『冥土めぐり』の前半は読むのが苦しい。主人公(奈津子)の、母親と弟にまったく共感が持てないからである。ふたりに生活をずたずたにされながら生きている主人公にも、共感が持てない。どんなに嫌いでも縁を断ち切れないのが「肉親」というものなのかもしれないけれど。

 奈津子は不思議に思う。自分はあんなに嫌悪していた母親の思い出話を今、こんなふうに、他人のことのように思い描ける。(416 ページ)

 この文章は、ちょっと複雑である。「他人のことのように」というのは自分が経験してきたことを他人の経験のように、という意味だろう。「自分」が「他人」になってしまっている。それは、その「自分」を「自分のまま」、自分で引き受けることができなくなっている、ということだろう。「他人になってしまっている」ではなく、ようやく「他人にできた」のだろう。肉親を断ち切るのと同じように、自分を断ち切るのもむずかしい。自分を断ち切る方がもっとむずかしい。「、こんなふうに、」という具合に、「こんなふうに」が文章の中で独立しているところに、この主人公の「真実」がある。
 で、そこでちょっと一安心した後。
 海の部分がすばらしい。海には障害物がなく、水平線が見えるものである。広々としている。その感じが伝わってくる。海を見て、主人公のこころが広がっていく。

普通の人なら考える。もうたくさんだ、うんざりだ。この不公平は、と。だけど太一は考えない。太一の世界の中には、不公平があるのは当たり前で、太一の世界は、不公平を呑み込んでしまう。( 420ページ)

 「不公平を呑み込む」。海がすべてを呑み込むように。すべてを呑み込んでも、まっ平らな海であるように。--そこに、主人公が「共感」しはじめる。その「共感」に読者(私)も誘われる。
 他人に感心するというのは、とても大切なことなのだ。

 --海のことなら、小さい頃から知ってるよ。満ち引きがあるんだ。潮だよ。
                                (420 ページ)

 この海の定義もいいなあ。「満ち引き」を呑み込んで、海がある。動いていないように見えても海は動いている。そのことを主人公の夫、太一は知っている。
 そして、そのあと。一段落まるごとを、私は傍線を引く変わりに枠で囲んで、○印しまでつけてしまった。感動した。

 この人は特別な人なんだ。奈津子は太一を見て思った。いままで見ることのなかった、生まれて初めて見た、特別な人間。だけどそれは不思議な特別さだった。奈津子はそんな太一の傍にいても、なんの嫉妬も覚えない。そして一方、特別な人間の妻であるという優越感も覚えない。ただとても大切なものを拾ったことだけはわかる。それは一時のあずかりものであり、時がくればまた返すものなのだ。( 420ページ)

 変な文章と言えば変な文章と言えるのだけれど。「嫉妬」も「優越感」も、普通は、こんなふうにはつかわない。「拾った」というのも、「ものじゃないのになあ」という具合に言いはじめると、まあ、あっちこっち、ケチがつけられる。ケチだらけになるのだけれど……。
 こういうのは、しかし、「批判」であって。
 うーん、「批判」とか「批評」というものは、そうしてみると、とってもうさんくさいというか、自分で何かを定義しておいて、その定義に酔って、どれだけ暴言を勇ましく吐くかというようなところで成り立つものであって……。
 は、余分なことを書いてしまうのだが。
 うーん。
 あらゆる「批判」を吹っ飛ばして、「共感」してしまう。
 ほんとうに、奈津子は太一に出合うことで、大事な何かを見つけ出したのだ、ということに共感できるのである。奈津子は太一がいなかったら生きていけないなあ、ということがよくわかる。そして、この貴重な時間が「あずかりもの」であるということも、不思議に、納得してしまう。
 この場合、たとえば太一を神からのあずかりものであり、時がくればそれを神に返すべきなのだ--と奈津子は感じているのだとして。
 その「返す」がまた、微妙ですね。
 神に返すと仮定して、それでは実際に、太一が死んだら神に返すのかというと、そういうことではないと思う。「特別な人間」という意識を持たずに一緒に暮らすこと、なんでもないことのように生きるということなんだと思う。
 母親のことを書いていた最初に引用した文章に重ね合わせると、こんな具合になる。

 奈津子は不思議に思う。自分はあんなに特別な人間として大事に感じた太一(夫)の思い出話を今、こんなふうに、そんなことってあったのかしら、となつかしい自分の夢のことのように思い描ける。

 このとき、奈津子は、母と弟の思い出を呑み込んでしまっている。太一が、その「海」をゆっくり満ち引きしている。満ち引きは、まあ、じっと見ていてもわからものではあるけれど、それは満ち引きがあると思ってみるからであって、普通は、海はどこまでも広く変化がないように見える。平穏に見える。
 それは、「私(奈津子)」が平穏を生きているということである。平穏は美しいと思う。平穏を発見するのは偉大なことだとも思う。




冥土めぐり
鹿島田 真希
河出書房新社
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NODA・MAP番外公演「THE BEE」

2012-06-09 08:54:11 | その他(音楽、小説etc)
NODA・MAP番外公演「THE BEE」(2012年06月08日、北九州芸術劇場)

演出 野田秀樹 出演 野田秀樹、宮沢りえ

 シンプルな舞台構成と演劇の特権が巧みに溶け合った刺激的な舞台である。
 演劇の特権--と私が呼ぶのは、演劇は本物ではなく嘘である、ということである。本物はどこか別のところにあり、それを演じる(真似て見せる)というのが演劇である。芝居である。
 たとえばある事件が起きたとする。その事件をコピーして舞台で演じる。そのとき演じるひとたちは事件の当事者そのものではない。だれかがだれかのふりをしている。どうしても、そこには嘘が入る。そして、その嘘こそ事件の本質でもある。省略できないものである。
 その本質、省略できないものを、想像力でつかみ取る。想像力へ向けて投げつける。
 その嘘と本質を役者が肉体で表現するというのが演劇の特権である、ともいえる。これを、この芝居では登場人物よりも役者が少ないという手法で見せる。一種の早変わり。ある人物が、次の瞬間別の人物になるが役者は同じ。想像力のなかで、ストーリーは動きはじめる。
 この芝居では、具体的には野田秀樹の妻とこどもを人質に取っている犯人の家(宮沢りえ)へ、警官が野田秀樹を届ける。警官はそこで野田秀樹によって殴られ、外へ放り出される。その瞬間から警官は宮沢りえの息子を演じはじめる。--という具合である。そして、その息子は、あるときは野田秀樹の家族を人質に取った犯人も演じる。被害者と加害者、加害者と被害者をひとつの肉体で演じる。
 野田秀樹も、宮沢りえも同じである。最初は被害者であったのに加害者になり、被害者なのに加害者に同情したりする。
 そのとき観客のなかで動く想像力--それが演劇なのだ。観客の想像力を刺激しながら、いま起きている関係をリアルに感じさせるのが演劇なのだ。
 しかし、ただ関係を浮き彫りにする--現実(世界)の構造の謎解きをするというだけなら、演劇である必要はない。小説でも評論でもいい。それが演劇であるというときには、そこに役者の肉体がからんでこなくてはいけないのだが。
 うまいなあ。
 野田秀樹がうまいなあ。宮沢りえも、警官→こども→犯人を演じた役者(だれ?)もうまいが、野田がうまい。早変わりだとか、被害者・加害者の入れ代わりによる世界の構造というようなことをぶっとばして、そこに肉体がある。観客の視線を惹きつける。ときにはスローな動きで開脚開き(バレエダンサーみたいだ)をやったり激しく踊ったり、蜂の羽根音に苦しみ動けなくなったり--ストーリーを逸脱(?)しているような部分で、しっかりと存在をみせつける。演じられている役者の過去を噴出される。野田の肉体訓練の過去を噴出させる。そこに、演じられている「役」以上のものが溢れてくる。
 つまり(言い換えると?)、ストーリーを肉体がなぞり、想像力が世界の真実にふれる瞬間を演じながら、そのストーリーや真実と思われるものまで、肉体で破壊して見せる。私たちが真実と思い込んでいるものは単なる想像力の名残である。現実の本質は想像力ではない、と否定して見せる。こにあるのは肉体である、ここに生きているのは不透明な人間であると宣言する。
 まあ、それも演劇の特権。役者の特権、役者の肉体の特権というものだろうけれど。
 それにしても野田秀樹は立ち姿が美しいなあ。無駄がない。余分な力が入っていない。いや、こんなに美しく見えるのは、どこかに無理をしているからなのだろうけれど、そう感じさせない。だから小さい体なのに、小さく見えない。
 宮沢りえも、後半の台詞のない部分が美しかったなあ。「下谷万年町」のヒロインのときほどの魅力はないが、今回は受けの演技でむずかしい面があるのかもしれない。

 と、その野田の特権的な肉体に非常に感心した上でのことなのだが。
 この芝居には、しかし、不満がある。ほんとうは、これを書きたくて、私は感想を書いている。
 北九州芸術劇場の「中劇場」でやったのだが、その劇場に役者の肉体がなじんでいない。野田の肉体でさえ、この劇場を支配しているとはいえない。
 なぜ、こんなことが起きるのか。それは単純に言ってしまえば、中劇場でさえ、この芝居には広すぎるということになるのだが、それとは別の問題もあると思う。それは、この芝居が「地方巡回興行」だからという点だ。北九州芸術劇場の「中劇場」で何度も練習し、何度も上演し、観客の反応を見ながら声の出し方、体の動かし方を調整するという時間が、役者の肉体のなかに蓄積されていない。よその場所で練習してきて、本番前に実際に劇場をつかってリハーサルはしたかもしれないが、それだけでは不十分なのが演劇だと思う。劇場の空気と役者の肉体がなじみ、劇場のなかに役者の肉体のなごりが漂っていないと、役者の肉体は自然な動きにはならない。劇場のなかに残っている過去の役者の肉体の時間が、そのはるかな遠くから舞台の上の役者の肉体を、「ほら、こっちのほうへ動いて」と自然に誘う感じになると、劇場全体が非常に濃密な空間になる。
 声にその問題がいちばん大きく影響する。役者の声が劇場の空間そのものをつかみきっていない。野田秀樹にしても、そういう問題をここではかかえていたように私には感じられる。どこかに隙間ができる。静かな声も大声もきちんと聞こえるのだが、耳のなかから肉体に入ってくるときに、余分な空隙のようなものを抱き込んでしまう。そうすると、ぎすぎす--という感じが残る。こういうとき、どうしても観客の意識は役者の肉体から離れてしまう。ストーリーのほうにひっぱられてしまう。肉体がストーリーを動かしているはずなのに、逆に見えてしまう。
 舞台のうえにではなく、劇場内に、隙間を感じてしまう。舞台の上ではあんなに濃密なのに、それを劇場の空間が薄めてしまう。
 せめて月単位で劇場をつかいこなさないと、役者の肉体は空間になじまないのかもしれない。観客の方も、たぶんなじみの劇場でないと、芝居を正確には受け止めることがむずかしいのかもしれない。イギリスであった初演(りえちゃんは、その芝居に通いつめたということだけれど)を見たかったなあ、と思う。あるいは、せめてここではなく野田が本拠地にしている劇場で見たかったなあ、と思った。
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唐組第49回公演「海星」

2012-05-29 10:34:19 | その他(音楽、小説etc)
唐組第49回公演「海星」(2012年05月27日、雑司ヶ谷・鬼子母神)

作・演出 唐十郎、 出演 稲荷卓央、土屋真衣、赤松由美、大美穂、久保井研

 役者は声が勝負である。そのことを実感した。
 私が見た「海星」は、限りなく退屈だった。稲荷卓央、土屋真衣、赤松由美らの声がつまらない。声が出ていない。
 芝居は舞台と観客席との二つから成り立っている。舞台の上には役者の肉体がある。その役者の肉体は、役者から観客にふれてくることは滅多にない。ときどき舞台から降りて観客に触るというような演出もあるだろうが、基本的に舞台の上にある。その舞台の役者の肉体に、観客は自分の目で触れる。役者が接近するのではなく、観客が接近するのである。
 ところが声はまったく逆である。観客はときには「久保井!」と声をかけることはあるがこれはまれ。基本的には役者が台詞をしゃべり、その声が観客の肉体(耳)に触れる。舞台から観客席に声は乱入するのである。そして観客の耳に触りまくるのである。
 芝居が「一声、二顔、三姿」と言われるのは、声だけがそういう「特権」をもっているがゆえのことに由来すると思う。声は「肉体」をはみ出し、空間を占有することができるのである。そして観客をつつみこむことができるのである。
 そしてそのとき、声は肉体そのものである。
 今回の公演では、そういう声が存在しなかった。だから芝居はすべて舞台の上で完結している。(最後に、例のごとくテントの背景が開き、役者は現実の世界へと動いていくのだが……。)それが非常につまらないのである。
 だいたい唐の芝居・戯曲というのは、ことばがあふれている。今回の「海星」は「鐘ヶ淵」という地名から鐘が沈んだ淵、なぜそんなところに鐘があるか。何のためにあるのか。どんな音を鳴らすのか。--そういうことに関する、あれこれの「思い」の反乱をことばにしたものである。
 ことばは、普通は、ことばにならずに肉体のなかにあることが多い。思いは思いとしてあるのだが、なかなかことばにならない。そのことばにならないものを、唐の脚本はつぎつぎにことばにしてしまう。そのとき(脚本を読むとき、という意味だが)、ことばは肉体を突き破ってどこかへ行きたがっている。自分の肉体を突き破って、他人の肉体にまで侵入したがっているということがよくわかる。
 ことばは、ことばとてし発せられるだけではダメなのだ。声になって他人の肉体に侵入し、他人の肉体のなかを駆け抜け、他人の肉体を自分の肉体にしてしまう。そこまで行って、ことばははじめてことばになる。
 他人のことばを引き継ぎ、そこから自分のことばを語りはじめるということが、唐の登場人物たちにはしばしばあるが、それは役者同士のなかで、ことばが声になり、他人の肉体に入りこみ、そこから他人の肉体を生きるということの「実践」なのだが、その緊張した呼吸が今回の芝居では欠けている。
 役者の声は観客に届かないばかりか、そこで演じている役者同士の間でも届いていない。声が出ていない。声が役者のなににとじこもったまま、とじこめられたままなのである。
 最後の方に稲荷卓央のストリップというサービスがあるのだが、声が出ないのだから、もちろん性器も出はしない。声が出ていれば、つまり声が客の肉体に触れていれば、性器が丸出しになっていたって平気である。性器ではひとりとしかセックスできないが、声でなら何人とも同時にセックスできる。だれも性器なんかは気にしない。声が出ていないから、性器を隠すのだ。隠さないと、そこに観客の視線が触れてくるからだ。
 芝居は見せ物である。見せ物というのは客が役者の肉体を存分にみつめることができるという意味ともとれるが、ほんとうは見せるふりをして、役者が客の欲望に触れて、それを目覚めさせ、暴走させる装置である。
 役者はまず声を鍛えてもらいたい。



唐組熱狂集成 (ジョルダンブックス)
唐 十郎
ジョルダン
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フェルメールの模写現場を見て考えたこと

2012-05-16 00:55:47 | その他(音楽、小説etc)
 05月の連休を利用して駆け足でアテネ、ウィーンをめぐってきた。アテネでプラトンとソクラテスの「亡霊」に会うのが目的だったのだが--そして、実際に会えたつもりなのだが、そのことは別の機会に書くことにして。
 貴重な写真を公開します。

 ウィーン美術史美術館でフェルメール「絵画芸術」を見た。
 このとき、模写(レプリカ?)が製作されていた。その現場に出合った。写真は、模写(左)と本物と、その前の私。
 この日の公開は「午後4時から」ということだったのだが、列ができるかもしれないと思い、3時40分に行ったら、たまたま一番乗りできた。(列はできていなかった。)公開は3時45分から約20分、4時5分まで。4時に行っていたら、あるいは4時以降に行っていたら見ることができなかった。
 実は入場前にインフォメーションで聞いたら「きょうの公開は4時から。あすの予定はわからない」というあやふやなものだった。理由はわからない。「日本人がフェルメールを見たいといっているが見ることができるか」とトランシーバーで女性が尋ねてくれたのだが、そのときは詳細な事情は私の語学力ではわからず、まあ、四時まで待ってみるか、それまでほかの作品を見るかと思って入場し、偶然、その公開時間にめぐり会ったのである。(4時5分後は部屋の外から摸写しているのを見ることができた。)

 このとき、私が考えたこと。
 私は「ことばは肉体である」ということを考えるためにアテネに行った。そして、そのついでにウィーンに行ったのだが……。
 ことばと絵の違いは何か。
 ことばは誰でもが正確に転写できる。転写しながら他人に伝達できる。
 ところが絵の場合は「正確」にはそれを他人に手渡すことができない。
 私が目撃した「絵画芸術」の模写では、大きさ、形はそのままだし、色もそっくりである。そっくりであるけれど、たとえば女性の持っている本の色が私には少し違って見える。(私はいま色覚異常の検査を受け、原因を調べている状態なのでいるので正しい?色を識別しているとは言えないかもしれないけれど……。)
 で。
 そうすると、ことばの伝達、絵画(色と形)の伝達の場合、何が共通し、何が違うのかという問題が生じる。
 ことばにおける肉体の役割、絵画における肉体の役割--伝達における肉体の役割が違っていることに気がつく。
 ことばを「文字」をとおして伝達していくとき肉体の占める領域は少ない。下手な字であろうと上手な字であろうとことばのもっている「意味」を伝えるとき、上手下手は関係ない。つまりどんなふうに肉体を動かすかということはあまり関係がない。私がいま書いているようにワープロをつかうと、それはもっと差がなくなる。書道は別にして、ことばそのものをことばとして伝えるとき肉体の果たす役割には個人差が入り込む余地がない。
 けれど絵画の場合は違う。どんなふうにして筆をつかえるか。どんなふうにして色を識別し再現できるかは個人の肉体の力によって違ってくる。
 で。
 絵の模写を通じて何かを誰かに伝えるとしたら何を伝えるのか。もし、ことばと共通項があるとすれば何が共通項になるのか。

 技術。

 私は、ふと技術ということばを思いついた。
 フェルメールの模写が伝えることができるものがあるとすれば、それは絵画の技術である。どんなふうにして色を組み合わせるか。どんなふうにして筆を動かすか。
 「技術」という点から見ていけば、ことばと絵画には共通のものがあるかもしれない。
 どんなふうにしてことばを組み立てるか。どんなふうにことばを動かすか。
 それは「技術」であり、思想である。
 技術はいつでも思想なのだ。技術の中には思想がある。
 それはアテネで見たパルテノン神殿にも通じる。
 大理石を切り出し、ある形に加工する。それを積み上げる。それは技術である。技術であるけれど、技術だけではない。そこには数学(物理)の思想が入ってくる。また美術の嗜好(思想)も入ってくる。
 技術としての思想は、たとえばパルテノン神殿の場合、それを建設する人間の肉体によって具体化される。
 同じように、フェルメールの模写の場合も、それを模写(複製)をするひとによって具体化される。

 ことばの場合、ことばが具体的な形をとらないためにわかりにくいけれど、ことばそのものの肉体のなかに、その技術は継承されているに違いない。

 ことばを「文字」ではなく「声」という点から見つめなおすと肉体の関与はもっと強くなる。
 私はウィーンではオペラ座で「椿姫」は「サロメ」を見た(聞いた)が、そのときことば(声)と肉体、肉体の技術ということについてあれこれ思った。
 このことはいずれ書きたいと思うけれど、きょうの「日記」は、まあ、そんな思いよりも、いまウィーンの美術史美術館ではフェルメールの模写がおこなわれており、偶然が重なればそれを目撃できるということを紹介することが目的なので、これでおしまい。

 (あすウィーンに行って模写の現場に立ち会えるかどうかは、私にはわかりません。)
 
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パソコンのモニターと色について詳しいひとはいませんか?

2012-05-01 11:10:59 | その他(音楽、小説etc)
(資料写真が大きいので、画面をスクロールして、見てください)

パソコンのモニター、あるいは色の電子光学(工学?)について詳しいひとはいませんか?
私は2012年01月30日からパソコンのモニターの色が正確には識別できません。
デフォルトの白(薄灰水色?)がピンクに見えます。
ただし全部のモニターがそうなのではなく、ナナオのEIZOのモニターで起きます。
もっと詳しくいうと、IPS方式を採用しているFlex Scan SX2462 W-HX のモニターの白がピンクに見えます。
VA方式のFlex Scan SX2262 Wでは起きません。
そして、この現象はデジタルカメラで撮影したとき再現されます。
デジタルカメラで撮影するとIPS方式のモニターの白はピンクになるけれど、VA方式のモニターはデフォルトの白のままです。





掲載写真の左がVA方式、右がIPS方式。ともにナナオのホームページ(トップページ)を映しています。
掲載の写真は、福岡・天神のナナオのショールームで係員立ち会いのもとに撮影したものです。(係員がデジタルカメラで撮影するとピンクに撮影されるのを目撃しています。)
私のつかったカメラはCanon IXYですが、プロ仕様のカメラでも同じことが起きます。(会社にあるモニターをプロのカメラマンに撮影してもらい、確認済み。)

また、IODATAのモニターでは、正面から見るとグリーンの色が、斜め上から角度を変えてみるとピンクに変わります。これは私の肉眼だけに起きることではなく、ほかのひとにも起きる現象です。富士通の一部のパソコンでも角度を変えてみると水色がピンクに見えるものがあります。これも私の肉眼だけではなく、他のひとの肉眼でも同じです。
そして、IODATAのモニター、富士通のモニターをデジタルカメラで撮影すると、グリーンはグリーン、ピンクはピンクと肉眼に見えたのと同じ状態です。

ナナオのFlex Scan SX2462 W-HXの場合だけ(ほかにも厳密に調べていけばあるかもしれないけれど)、私の肉眼で起きる異常とカメラの反応が同じになります。

なぜそういうことが起きるのか、幾つかの病院で医学の場から検査していますが、原因が特定できていません。
網膜の検査、脳のMRI検診では異常と特定できる部位は見つかっていません。(視路の検査は5月下旬に受ける予定です)
色の電子光学(工学?)から見ると、どういうことなのか、わかることがありましたら教えてください。
コメント (4)
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