唐十郎「下谷万年町物語」(2)(2012年01月27日、シアターコクーン)
きのうの感想はかなり大雑把すぎたかもしれない。
宮沢りえの演技に夢中になった、ということを書こうとして、結局、どこに夢中になったか書きそびれている。
どの部分もすばらしいが、特に火事のなかをブロマイドを探しに行ったときの「思い出」を語る部分がいい。燃え上がる無数のブロマイドの向こうに、すばらしいブロマイドがある。それに手をのばし、それは鏡に映った自分の姿である--と知った、と語る。
この部分をどう理解するか。役者はナルシストであるという意味か。役者は自分しか見ていないという意味か。
役者は、自分を発見することで役者になる、ということかもしれない。
まあ、そんなことはどうでもいいのだが、その瞬間、ほんとうに鏡に映った宮沢りえを見ている宮沢りえが舞台にいるのである。それはキティ瓢田という「役者」の記憶のはずなのに、そして宮沢りえにはそういう記憶がないはずなのに、私がそこに見るのは「キティ瓢田」ではなく、宮沢りえなのだ。
白いタキシードを脱いで赤いシュミーズになる瞬間も、びっくりするくらいすばらしい。「男装の麗人」というキティ瓢田の「役」から、「役」を捨ててキティ瓢田にもどる瞬間なのだが、そのとき何度も同じことを書いてしまうが、宮沢りえは、その「演じている役」をすてて自分に帰るという運動そのもののなかで、宮沢りえになる。キティ瓢田を突き破って、宮沢りえが動く。--だから、というのは、私自身のすけべごころをさらしているようで恥ずかしいが、あ、宮沢りえの乳房が見えるかもしれない、宮沢りえの恥部が見えるかもしれない、芝居だから何が起きるかわからない、と一瞬思ってしまうのだ。
こういうはらはらどきどきで劇場の視線をひっぱっていく力はすごい。はらはらどきどきを、はらはらどきどきさせながら、瞬間瞬間には忘れさせてしまう力がすごい。実際に宮沢りえの乳房がこぼれるということがないのだが、たとえ乳房がこぼれたとしても、それを見たことさえ忘れるに違いない「肉体」の迫力がある。肉体があれば乳房があるのは当然という清潔さがある。
これは、たとえば藤原竜也がオカマの集団に襲われ、ズボンを脱がされるシーンと比較すると歴然とする。藤原竜也の下半身は肌色のタイツでしっかり防御され、生身をさらしていない。そこには「役」としての「洋一」はいるけれど藤原竜也はいない。
この宮沢りえと藤原竜也の差は、非常に大きい。藤原竜也の演技は安定しているが、はらはらどきどきがない。
はらはらどきどき--と書いたついでに。
宮沢りえの歌ははらはらどきどきする。音痴の私が言うと、じゃあ、おまえ歌ってみろと言われそうで困るのだが、音が不安定である。高い音から低い音へ下がってくるときの、そのいちばん下の音が特に不安定に感じる。感じるのだけれど--これが、また非常にびっくりする。どこから出で来る声なのかわからないが、その不安定な音を突き破って、ハスキーな、非常に広い声が聴こえてくる。えっ、これテープ? 口パク? と思ってしまう。最初の歌の、最初の低音で、それを感じた。宮沢りえの肉体から離れた場所、劇場の空間の、どこかわからない場所からすーっと広がってくる声。 あ、もういちど聴きたい。もう一度リプレイして、と言いたくなる。
ハスキーな声というのは、基本的には硬質な声だと思うが、宮沢りえのハスキーな低音は、とてもやわらかい。声の出所が「のど(声帯)」ではなく、違うところにあるような印象がする。「肉体」の内部に、不思議な共鳴装置がついているのかもしれない。
蜷川の舞台はけれんみが充満している。この芝居には、そのけれんみがとてもあっているとも思う。水の張った池(地下)から3階建て建物まで、天地の空間も存分につかって肉体が動くのは、まさに「見せ物」であり、とても楽しい。どんな哲学も「見せ物」にして肉体化するというのは楽しい。
特に池に水を張り、役者がそこに飛び込み走り回るとき、観客に水しぶきがかかる。そのとき、観客席はもう舞台なのだ。観客の全員が濡れるわけではないが、ひとりでも濡れれば、そのとき観客は全員濡れるのである。
芝居は、やっぱり、いい。そこに「肉体」があるというのは、すばらしい力だ。
この芝居は、芝居に関する芝居なのだが、見ながら、詩のことばは、いまここで演じている役者の「肉体」のような力を獲得しないと、ほんとうの詩にはならない、とふと思った。
きのうの感想はかなり大雑把すぎたかもしれない。
宮沢りえの演技に夢中になった、ということを書こうとして、結局、どこに夢中になったか書きそびれている。
どの部分もすばらしいが、特に火事のなかをブロマイドを探しに行ったときの「思い出」を語る部分がいい。燃え上がる無数のブロマイドの向こうに、すばらしいブロマイドがある。それに手をのばし、それは鏡に映った自分の姿である--と知った、と語る。
この部分をどう理解するか。役者はナルシストであるという意味か。役者は自分しか見ていないという意味か。
役者は、自分を発見することで役者になる、ということかもしれない。
まあ、そんなことはどうでもいいのだが、その瞬間、ほんとうに鏡に映った宮沢りえを見ている宮沢りえが舞台にいるのである。それはキティ瓢田という「役者」の記憶のはずなのに、そして宮沢りえにはそういう記憶がないはずなのに、私がそこに見るのは「キティ瓢田」ではなく、宮沢りえなのだ。
白いタキシードを脱いで赤いシュミーズになる瞬間も、びっくりするくらいすばらしい。「男装の麗人」というキティ瓢田の「役」から、「役」を捨ててキティ瓢田にもどる瞬間なのだが、そのとき何度も同じことを書いてしまうが、宮沢りえは、その「演じている役」をすてて自分に帰るという運動そのもののなかで、宮沢りえになる。キティ瓢田を突き破って、宮沢りえが動く。--だから、というのは、私自身のすけべごころをさらしているようで恥ずかしいが、あ、宮沢りえの乳房が見えるかもしれない、宮沢りえの恥部が見えるかもしれない、芝居だから何が起きるかわからない、と一瞬思ってしまうのだ。
こういうはらはらどきどきで劇場の視線をひっぱっていく力はすごい。はらはらどきどきを、はらはらどきどきさせながら、瞬間瞬間には忘れさせてしまう力がすごい。実際に宮沢りえの乳房がこぼれるということがないのだが、たとえ乳房がこぼれたとしても、それを見たことさえ忘れるに違いない「肉体」の迫力がある。肉体があれば乳房があるのは当然という清潔さがある。
これは、たとえば藤原竜也がオカマの集団に襲われ、ズボンを脱がされるシーンと比較すると歴然とする。藤原竜也の下半身は肌色のタイツでしっかり防御され、生身をさらしていない。そこには「役」としての「洋一」はいるけれど藤原竜也はいない。
この宮沢りえと藤原竜也の差は、非常に大きい。藤原竜也の演技は安定しているが、はらはらどきどきがない。
はらはらどきどき--と書いたついでに。
宮沢りえの歌ははらはらどきどきする。音痴の私が言うと、じゃあ、おまえ歌ってみろと言われそうで困るのだが、音が不安定である。高い音から低い音へ下がってくるときの、そのいちばん下の音が特に不安定に感じる。感じるのだけれど--これが、また非常にびっくりする。どこから出で来る声なのかわからないが、その不安定な音を突き破って、ハスキーな、非常に広い声が聴こえてくる。えっ、これテープ? 口パク? と思ってしまう。最初の歌の、最初の低音で、それを感じた。宮沢りえの肉体から離れた場所、劇場の空間の、どこかわからない場所からすーっと広がってくる声。 あ、もういちど聴きたい。もう一度リプレイして、と言いたくなる。
ハスキーな声というのは、基本的には硬質な声だと思うが、宮沢りえのハスキーな低音は、とてもやわらかい。声の出所が「のど(声帯)」ではなく、違うところにあるような印象がする。「肉体」の内部に、不思議な共鳴装置がついているのかもしれない。
蜷川の舞台はけれんみが充満している。この芝居には、そのけれんみがとてもあっているとも思う。水の張った池(地下)から3階建て建物まで、天地の空間も存分につかって肉体が動くのは、まさに「見せ物」であり、とても楽しい。どんな哲学も「見せ物」にして肉体化するというのは楽しい。
特に池に水を張り、役者がそこに飛び込み走り回るとき、観客に水しぶきがかかる。そのとき、観客席はもう舞台なのだ。観客の全員が濡れるわけではないが、ひとりでも濡れれば、そのとき観客は全員濡れるのである。
芝居は、やっぱり、いい。そこに「肉体」があるというのは、すばらしい力だ。
この芝居は、芝居に関する芝居なのだが、見ながら、詩のことばは、いまここで演じている役者の「肉体」のような力を獲得しないと、ほんとうの詩にはならない、とふと思った。
![]() | 下谷万年町物語 (1981年) |
唐 十郎 | |
中央公論社 |