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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ライアン・ジョンソン監督「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」

2017-12-18 09:28:22 | 映画
監督 ライアン・ジョンソン 出演 デイジー・リドリー、ジョン・ボヤーガ、アダム・ドライバー、マーク・ハミル、ベニチオ・デル・トロ

 話題のシリーズなので見に行ったが、話題についていくだけのために見た、という感じだなあ。次はどうなるんだろうというはらはらわくわくがない。
 新登場(?)は、連れ合い(?)を焼き鳥にして食べられてしまった鳥と中国系の少女(おとな?)とベニチオ・デル・トロ。
 連れ合いを食べられてしまったのに、食べてしまったチューバ(だったっけ)についていく鳥がキャラクターとして矛盾(?)しているのがおかしい。飛行船のなかで「観客」をやっているところが、ディズニーのアニメだなあ。
 中国系の少女の登場は、中国市場をにらんでの起用か。しかし、ジョン・ボヤーガと恋に落ちるなんていうのは、なんだか「見え透いている」。どうせなら、オスカー・アイザックの恋人になり、ジョン・ボヤーガはデイジー・リドリーと恋人になるというくらいにしないと。
 この中国系の少女の登場で、デイジー・リドリーはジョン・ボヤーガと恋人になるという未来のストーリーはなくなり、かわりにオスカー・アイザックと恋人になるという伏線ができた。これではハン・ソロ(パイロット)とレイヤ姫(ヒロイン)の恋物語のトレースになってしまう。そこからまた「ダス・ベイダー」が生まれてくるというのではエンドレス。(両親がわからないままのデイジー・リドリーの後継者は、ラスベガス惑星で競馬馬の世話をしていた少年か。ラストに登場する。)
 ベニチオ・デル・トロは「エピソード3」のハリソン・フォードのように、うさんくさく登場してきて人気者になるタイプだね。「エピソード9」で期待できるのは、このベニチオ・デル・トロくらいか。
 新しい映像は、クライマックスの塩の浜辺での戦闘か。中古の戦闘機の車輪(?)をおろしてバランスをとりながら走る(飛ぶ)シーン。赤い砂煙が新鮮だった。(これに★1個追加。)
 宇宙での戦いは「絵」がきれいになりすぎていて、もの足りない。
 炭坑(?)を利用した秘密基地からの脱出の最後、デイジー・リドリーがフォースで浮かべる巨岩はいかにも発泡スチロールという「軽さ」が気になった。巨岩が空中から落ちるシーンと地面の揺れと舞い上がる土埃が必要。映像としてどうしようもない「手抜き」を感じた。
 映像の新しさ(これ、見たことがないという驚き)では「クボ」の「折り紙」に完全に負けてしまっている。
 フォースと禅、人間の暗黒面と善良な面の対決というのは、40年前はそれなりに「メッセージ」を持っていたと思うが、こんなに何度も繰り返されると、単なる「ストーリー」(流通概念)になってしまうなあ。「人間味」がなくなる。ここに人間味を持たせるには、どうしても「ダス・ベイダー」の暗闇の恐怖と魅力が必要なんだけれど、繰り返しによって最後はジェダイ(善)が勝つんだとわかってしまう。変な言い方だが、「人間味」というのは、「もしかしたら自分は悪人になれる」という昂奮かもしれない。「悪いことをしたい、でもいけないんだ」という葛藤を味わうことかもしれない。
 あ、まねしてみたいと思う「ダス・ベイダー」を登場させないと、だめだな。
(ソラリアシネマ1、2017年12月17日)




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スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望 (字幕版)
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ケネス・ブラナー監督「オリエント急行殺人事件」(★)

2017-12-12 09:50:44 | 映画
監督 ケネス・ブラナー 出演 ケネス・ブラナー、ジョニー・デップ、ミシェル・ファイファー、ジュディ・デンチ、ペネロペ・クルス

 ケネス・ブラナーがポアロを演じる、というところが失敗原因のすべてだろうなあ。
 ケネス・ブラナーのどこがいけないか。「声」が清潔である。これが、問題。舞台でハムレットを演るときは、この清潔さが魅力になるだろうけれど、この映画では逆。
 ハムレットとポアロを比較してみればいい。
 ハムレットは「世の中」のことを何も知らない。自分の「苦悩」しか知らない。ハムレットも「事件」の推理をするけれど、それは「他人(世間)」を熟知してのことではない。つまり、「事件」に残された「人間」の痕跡から人間の「本能/本質」を探り当て、それを動かして見せる(ことばで説明しなおす)ことで「ストーリー」を展開しなおすという作業ではない。父親の「幽霊」にうながされて「事件」を探るというのは、ほとんどハムレットの「妄想」である。ハムレットは「妄想」にあわせて「現実」を揺り動かし、母親を動揺させる。(オフィーリアをも動揺させる。)動揺した人間が、別の「現実」を動き始めるという構造になっている。
 ポアロは違う。登場する「人間」ひとりひとりに「ストーリー」を読み取り、その「ストーリー」を絡み合わせて「事件」の構造を発見する。「事件の構造」に目を奪われてしまうと、この映画(ドラマ)はとても単純。恨みを持っている人間が、集団でひとを殺すというだけ。おもしろいのは、ひとりひとりの「ストーリー」、つまりひとりひとりの「苦悩」。これを、ポアロがひとりひとりを訊問する過程で丁寧に浮かび上がらせないといけない。どこかで「容疑者」と「いのち」を共振させながら、容疑者そのものとなって事件のなかへ入っていかないといけない。こういうポアロ的人間には、「声」にしろ何にしろ「透明感」は似合わない。「不透明」な何か、「人間臭い」何か、うさんくさい魅力がないと、ひとはこころを許さない。
 ディケンズを読み、そこに登場人物に共感して「ひひひ」と下卑た笑いを上げるシーンが何度かあるが、ディケンズの登場人物に「ひひひ」と笑う感じそのままで、容疑者と共振しないかぎりは、ストーリーに深みが出ない。せめて、立派な口髭に対する「偏愛」を観客に向けてアピールするのではなく、容疑者(乗客)に向けてアピールすれば、そこから「人間的」なつながりが生まれるかとも思うが。
 ケネス・ブラナーは「体型」もスマートすぎて、「余剰」というものがない。別なことばで言いなおすと、隙がない。これでは他人は接近しない。どこかに醜い部分があると、ひとはポアロをさげすむだろう。見下すだろう。「優越感」をもつだろう。この「優越感」が人間に隙をつくる。そこへしのびこみながら、そのひとそのものの「本質」を探る。「探偵」には、何か「醜い余剰」のようなもの、他人からバカにされるような要素がある方がいい。
 (脱線するが、「刑事コロンボ」のコロンボは、よれよれのレインコートがみっともない。何かあるとすぐに「うちのカミさんが……」と言うのも、なんだか尻にしかれている感じで、「このバカ」という感じを誘うね。「犯人」を油断させる。ここが、「探偵」の大事なポイントだと私は思う。犯人を油断させることができない人間は「探偵」には向いていない。)
 正義感に燃える「青春探偵」と思って見れば、まあ、映画のスピーディーな展開と、最後の「オチ」も納得できるだろうけれど、私のようにもう「老年」になってしまった人間には、この「青春の推理」はどうも納得できない。
 見たいのはポアロの活躍ではなく、犯人たちの「動揺」(そのひとの秘密)である。「個人の過去」を演じるだけの時間を許されなかったのか、どの役者も、とてもへたくそに見える。いわゆる「存在感」を発揮できずにいる。唯一、殺されて、ぱっと消えていくジョニー・デップだけがおもしろい。ジョニー・デップは、何と言えばいいのか、着ている高級なスーツまで「高級だぞ、おまえには買えないだろう。おまえには着こなせないだろう」と自己主張(演技)をしていた。私は、ほれぼれという感じでみとれてしまった。
(中洲大洋スクリーン3、2017年12月10日)




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トラビス・ナイト監督「KUBOクボ 二本の弦の秘密」(★★★★★)

2017-12-04 08:36:15 | 映画
監督 トラビス・ナイト 出演 アート・パーキンソン、シャーリーズ・セロン、マシュー・マコノヒー

 大傑作である。観客の動きが、それを如実に語っている。映画が終わる(ストーリーの結末がわかる)と、多くの映画では観客が席を立ち始める。エンドロールのクレジットを最後まで見ないひとがいる。ところがこの映画では、だれも席を立たない。立てないのである。同じことを、私は「もののけ姫」で体験した。劇場に明かりがついて、やっと「ざわざわ」とあちこちで会話がはじまる。それまではシーンとして、だれも動かない。

 これだけて感想を終わりにしてもいいのだが。まあ、少し書く。

 舞台は日本である。だから(というわけでもないだろうが)、「折り紙」が登場する。これが実に効果的。
 映画はストップアニメーションというのか、人形を少しずつ動かしながら撮影し、ひとつづきにしたもの。人間のようにスムーズではない。いいかえると、「にせもの」である。
 ところが、これに「折り紙」が加わると、人形よりも「折り紙」の方がさらに「にせもの」の度合いが強い。そこにある形を、想像力ふくらませて「実物」と思わないといけない。「人形劇」のなかに、もうひとつ別の「人形劇」が加わる。そうすることで、「外側」の人形劇が「リアル」にかわる。「リアル」だと錯覚してしまう。想像力で補わないと「リアル」(人間)にならないはずなのに、折り紙の動きを想像力で補い「リアル」と思うとき、人形に想像力が「加担している」ことを忘れてしまう。あるいは、折り紙の動きを「リアル」と感じる想像力が、人形の動きをさらに「リアル」であると感じさせるのかもしれないが。
 もう少しストーリーに則して言いなおすと、主人公クボ(人形)は、折り紙の人形劇(折り紙劇?)を上演することで暮らしている。折り紙を動かしながら、三味線でストーリーを語ることで金を稼いでいる。そういう設定である。で、その折り紙劇の折り紙というのが、アニメになっていて、実にすばらしい。幻想的で、かつリアルである。折り紙という「設定」なので、「嘘」なのだが、その「嘘」のものが本物(?)の人形よりもスムーズに動き、まるで夢を見ているような感じ。幻想とか、ファンタジーということばは好きではないのだが、うーん、これは酔ってしまうぞ。
 これは、折り紙がほんとうに動いているのか、それともクボの「語り」によって、それを見ている(聞いている)村人(人形)が「想像力」で見ている世界なのか、わからなくなる。この「村人」の気持ちと観客の気持ちが交錯する。融合する。区別がつかないものになると言いなおせばいいのか。つまり、映画の中で展開する「語り(ストーリー)」に刺戟されて、観客は、ほんとうは動かないはずの人形と折り紙が動いていると錯覚しているだけなのか。これは映画ではなく、私が見ている「夢」であり、私が見たいと思っている「現実」なのではないか。映画スタッフがつくった「夢」なのか、「現実」なのか、私が見ている「夢/現実」なのか。あるいは、私の「夢」が映画スタッフにつくらせた「現実」なのか。
 こうなってくると、ストーリーはさらに交錯する。ここで展開している「世界」は、クボが夢見ている世界なのか、世界がクボに体験させている現実なのか。サルとカブト虫(ゴキブリ、という字幕になっていたが)は、「現実」なのか、クボが見ている「夢」なのか。復讐劇自体が、「現実」なのか、クボの見ている「夢」なのかということもあやしくなる。たぶん、区別してはいけないのだ。
 「つくりもの」でありながら、何が現実で、何が夢なのか、夢と現実はどう入れ替わるのかを問いかけてくるこの映画は、人形のストップアニメーションに折り紙を組み合わせるという「方法」を考えたときに、「大傑作」になることを運命づけられたのである。

 主人公の、三味線の語りと、それに合わせての折り紙の劇を、この映画の「序曲」にして、本編の「オペラ」がはじまる。ワーグナーの「指輪」なんかを思い出してしまう。(よく知らないのだが)。特に三種の武器(折れない刀、強靱な鎧、兜)を探し当て、「死に神」と戦うというところ、さらに死に神と人間(武士)との恋愛、魔法に駆けられての「変身」という要素がダイナミックに交錯し、わくわくしてしまう。自分の「わくわく」に酔ってしまうような感じになるのだが、この昂奮を半分おさえ、半分加速させるのが人形と折り紙の交錯である。どっちもニセモノ(つくりもの)なのに、昂奮(酔い)のなかで、すべてがリアルに変わる。
 北斎の「波」とか、浮世絵のような背景(版画的世界/間接的な表現世界)が、またすばらしく効果的である。嘘に嘘がかさなり、現実を超えて、さらにリアルになる。目で見るというよりも、脳が直接、世界を見ている感じ。これは考えてみれば、怖いことなのだが、その「怖さ」を人形と折り紙が「嘘だから安心して」という具合に、ささやきかけてくるので、安心して酔うことができる。

 で、大傑作なのだが、ひとつ「不満」がある。もの足りない。
 何がかというと、「二本の弦の秘密」の「二弦」が「ストーリー」で終わってしまっている。(原題を直訳すれば「クボと二本の弦」なのだが。)
 クボは三味線(音楽)にあわせて折り紙劇を上演している。この三味線には「魔力」というか「神秘的な力」がある。折り紙を自在に動かす力がある。それはクボの力でもあるのだが、私は「音楽の力」だと信じたい。
 で、三味線は弦が三本である。三本の弦でひく音楽、二本の弦でひく音楽の「違い」というか、三本の弦の「違い」を音楽そのものとして描いていない。それぞれの弦が、それぞれの「主人公」を代弁する音楽として動いていれば、この映画は完全に「オペラ」になる。(クボが主人公だが、脇の二人がまたストーリーの主人公でもある、という構成なので、特にそう感じる。)
 しかし、そうなっていない。
 これが見終わった瞬間、何とも言えない「悔しさ」として胸に残る。「人形」「折り紙」「音楽(三味線)」が「一体」になり、さらに三味線のそれぞれの弦がひとりひとりの「音楽(旋律とリズム)」になり、三つがかさなり「三重奏」、あるいは「交響曲」へと変わっていくということろまで、「音楽」が追求されていない。それが悔しくて悔しくてならない。

(t-joy 博多スクリーン4、2017年12月03日)


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キム・ジウン監督「密偵」(★★★★)

2017-11-27 00:33:24 | 映画
監督 キム・ジウン 出演 ソン・ガンホ、コン・ユ、ハン・ジミン、鶴見辰吾

 日本が統治する1920年代の朝鮮半島が主要な舞台なのだが、どこで撮影したのだろう。なんとなくセットっぽく見える。そして、この「セット感覚」がなかなかおもしろい。リアルというよりも作り物、作り物だけどリアルを装う。その嘘と現実の感覚が、ストーリーにぴったりあっている。だれがほんとうのことを言っている? ほんとうの密偵はだれ? だましているのは、どっち? 最初の、逃げる男を警官が追いかけるとき、道ではなく屋根の上を走るというのは「忍者」みたいで、そういう「嘘っぽさ」もなかなかい。信じちゃいけないよ、と観客に言うことで、「虚構」を完璧にする。「信じろ」といわれるより、「信じちゃいけない」と言われた方が、「ほんとうなんじゃないか」と思ってしまうからねえ。
 映画のクライマックスは、列車の中になるのかなあ。逃げ場がないところで、どう戦い、どう知られざる「密偵」を探り出すか。わざと嘘の情報を流すという、まあ「スパイもの」の「定番」トリックなんかもつかわれている。うーん、そこは「安心」して見ていられるのだけれど、ちょっと「虚構性」からオリジナルなものが消えるのが惜しいかなあ。
 サッチモの音楽、ボレロの音楽のつかい方も、まあ、「定番」だねえ。「世界」に売り込もうとすると、どうしてもそういう音楽の選択になるのだと思うけれど、オリジナルで勝負してほしかったなあ、という気がする。

 ということは別にして。
 映画を離れて、いろいろ考えてしまった。
 主人公は日本の警察の中で「地位」を確立している韓国人。韓国人にとっては「裏切り者」だね。その彼をどう「韓国独立派」の方へ引き入れるか。「裏切り者」を「密偵」として利用できないか、ということを中心に映画は動いてく。
 いまは「裏切り者」だけれど、「民族の血」が最終的に主人公を寝返らせる、ということを期待して独立派集団が主人公に接近していく。なぜ、「裏切り者」であるとわかっていて接近してくるのか、主人公はいぶかるのだけれど、その接近を利用すれば「手柄」を立てることができる。さらに出世できるという思いもあって、揺れ動きながら交渉をつづける。
 これからあとのことは、書いても書かなくても、どうでもいいことだが。
 ここに描かれているようなことは、日本が朝鮮半島を統治していたとき、さまざまにおこなわれていただろうと思う。「密偵」になったひとは、どうなったのだろう。深い心の傷がいつまでも残っただろうと思う。
 主人公のように、最終的に「日本側」から独立派へ変わった人間にしても、「日本側の密偵」をやっていたときの苦悩は尾を引くだろう。
 そういうことを、いま安倍があおっている「北朝鮮の脅威」と結びつけると、安倍が見落としているものが見える。
 安倍は「北朝鮮の脅威」を言うけれど、また現実に北朝鮮と韓国は国境を挟んで対立しているけれど、北朝鮮が韓国に侵攻する(戦争をしかける)というようなことはあるだろうか。同じ民族なのに、戦うということはあるだろうか。たぶん、多くのひとが苦悩し、また実際には戦争などしないだろうなあと思う。
 朝鮮民族が戦うとしたら、彼らを「分断しているもの」と戦うことになると思う。簡単に言いなおすと、南北朝鮮という「世界戦略図」をつくった国との戦いになるだろうなあ。韓国は日本同様アメリカの支配下にあるように見える。言いなおすと、戦いを「宣告」するとしたら、それは「韓国」ではなく「北朝鮮」であり、相手は「アメリカ」だね。「韓国にいるアメリカ」だね。
 日本が北朝鮮から攻撃されるとしたら、それはアメリカの基地があるから、というだけのこと。「韓国にいるアメリカ」は「日本にもいるアメリカ」である。
 もし不幸にして戦争がはじまったとしたら韓国にもアメリカ軍の基地があるから、韓国も戦場になるだろう。そのとき、軍人はどう動くのかなあ。北朝鮮と韓国の兵士はたがいに殺し合うか。「抵抗」があるだろうなあ。どうしても、そこで戦うのは「アメリカ兵対北朝鮮兵」ということになるだろう。「アメリカ軍」には「集団的自衛権」を憲法違反ではないと言った「日本軍(自衛隊ではなくなっているね)」が加担することになるだろう。そのとき、韓国人はどう思うかなあ。「韓国のために日本が戦ってくれている」と思うだろうか。この戦争をきっかけにして「日本の統治」がふたたびはじまると思うだろうか。不安や、憎しみがつのるだろうなあ。不安や憎しみをもったひとたちのなかで、「日本軍」は「アメリカ軍」と協力できるだろうか。「韓国軍」は「アメリカ軍」とは協力しても「日本軍」とは協力したがらないだろうなあ。日本が朝鮮半島に侵攻しなければ、朝鮮民族の南北分断ということも起きなかっただろう。戦争がはじまれば、「反日感情」はいっそう強くなるだろう。
 安倍は、人間の、ひとりひとりの「感情」というものを見落としている。いや、「ひとりひとりなんてどうでもいいと思っているから「独裁」を目指すのだろうけれど。
 映画の中では、日本の「指揮官」は最後は殺される。「指揮官」には実際に「殺し合わなければならない個人(ひとりひとり)」がわからないから、その「ひとり(個人)」に反撃される。人間は、自分が「ひとり」であることを忘れると、「ひとり」に反撃される。「国家」ではなく「ひとり」に。「ひとり」という存在は、絶対になくならないものである。

 「北朝鮮の脅威」を言う前に、近隣の国との「完全な和解」が必要なのだ。戦争で「脅威」をたたきつぶせば「平和」が確立されるわけではない。いつまでもいつまでも「憎しみ」が残る。それは必ず「反撃」してくる。
 「ひとりひとり」の感覚が大事なのだと、映画を見ながら思った。 
(KBCシネマ2、2017年11月25日)

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エイプリル・マレン監督「アンダー・ハー・マウス」(★)

2017-11-20 08:30:21 | 映画
エイプリル・マレン監督「アンダー・ハー・マウス」(★)

監督 エイプリル・マレン 出演 エリカ・リンダー、ナタリー・クリル

 予告編で見たエリカ・リンダーがかっこよくて、ついつい見に行ったのだが。
 うーん、最初から最後までレズビアンシーンの連続。湯船につかりながら、蛇口からお湯を流し続けるオナニーのように見たこともないシーン(これはレズビアンとは関係ないか)がつぎつぎに展開されるので、それはそれで「見応え」のようなものもあるのだけれど、セックスはどうがんばってみてもセックス。人に見せるものじゃないから、どうしても「覗き見」したという感じが残ってしまう。
 女性がクリトリスをなめられてエクスタシーを味わうというシーンでは、私はどうしてもハル・アシュビー監督「帰郷」(ジェーン・フォンダ、ジョン・ボイト主演)を思い出す。ジョン・ボイトはベトナム戦争で負傷して不能になっている。でもジェーン・フォンダとセックスがしたい。互いに求めあう。それでジョン・ボイトがジェーン・フォンダのクリトリスをなめる。このときのジェーン・フォンダの裸体の動きがとても美しい。映画のなかでジョン・ボイトが「なんて美しい」と声を洩らすが、その声にあわせて「なんて美しい」と言ってしまう。それくらいに美しい。官能の絶頂が女性を美しく見せる、その典型のようなシーン。そのシーンの演技でアカデミー賞を受賞したわけではないだろうが、あのシーンは絶品だなあ。「覗き見」したという感じではなく、「そうか、愛している、という気持ちが動くと官能は輝くのか」と、「発見」した感じになった。ほんとうに感動してしまった。
 あ、脱線してしまったか。
 脱線するのは、つまり、脱線させるような映画であるということ。
 アブデラティフ・ケシシュ監督「アデル、ブルーは熱い色」(アデル・エグザルコプロス、レア・セドゥー)で、すでに十分にレズビアンシーンを見てしまっているからなあ、というようなことも思った。
 で、「アデル、ブルーは熱い色」はレズビアンシーンだけではなく、主役の二人がちらりと相手を見て、その瞬間にひきつけられてしまうシーンの、二人の演技(顔、目つき)がとても印象的だった。特に、レア・セドゥーの目つきが強くて(前歯が隙ッ歯になっている)、こういう目で見られたら誰だってこころを動かされるなあと思う。セックスよりも、セックスがはじまるまでが映画なんだなあと思う。
 「アンダー・ハー・マウス」も、まあ、そうなんだけれど。エリカ・リンダーがナタリー・クリルを見つけて、ぐいぐい迫っていくときの目つきの強さは非常に色っぽい。(予告編でも、同じ。)さすがモデルだけあって、服の着こなしも、線が鋭い。輪郭がくっきり見える。とてもかっこいい。服が歩いているし、いっしょに肉体が歩いている。
 だけれど、互いが「過去」を打ち明けあったり、セックスしているところを婚約者に見られて、関係が揺らぐというのは、なんだか「ストーリー(意味)」になってしまっていて、つまらない。「ストーリー」になってしまうと、セックスシーンが単なる「見せ物」になる。
 予告編だけ見て、エリカ・リンダーはなんとかっこいい女だろうと思っているのがいいかもしれない。
                      (2017年11月19日、KBCシネマ1)




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チョ・ウィソク監督「MASTERマスター」(★)

2017-11-12 21:19:45 | 映画
監督 チョ・ウィソク 出演 イ・ビョンホン、カン・ドンウォン、キム・ウビン

 韓国犯罪史上最大規模の金融投資詐欺事件「チョ・ヒパル詐欺事件」を題材にしたといわれる映画。
 うーん。
 「金融投資詐欺」というのは、金融投資に無縁の私にはわからない。巨額の金が動いているらしいが、「実感」がもてない。しかも映画の中心がどうもつかみにくい。なぜ、中心が見えにくいかというと。
 詐欺集団の親分、イ・ビョンホンが「口先」だけだからだろうなあ。金融投資詐欺なのでコンピューターが「大活躍」するのだが、イ・ビョンホンはその操作にからまない。企画し、指示するだけ。でもさあ、こういうことって、コンピューター操作に熟知していないと、嘘っぽい。単なる「金集め詐欺」になってしまう。貧乏人をだまして「金儲け話がありますよ」という詐欺。それはそれでいいのかもしれないけれど、なんだか「現代的」じゃない。
 集めた金を権力者(政治家?)にばらまき、法の目をくぐりぬけ、というのは昔のままだし、紙の「帳簿」が「証拠」というのも古くさいなあ。身内(犯罪集団)のなかに「天才ハッカー」がいるからコンピューターには保存できないということなのかもしれないが、ネットに接続しないパソコンなら大丈夫じゃないのか、と私は考えてしまう。
 まあ、「ストーリー」にむりがある。
 というか、それなりに工夫をしてはいるんだけれど。
 主役はイ・ビョンホンと彼を追いつめていく刑事のはずなのだけれど、その間に「天才ハッカー」が「二重スパイ」のように介在させる。そうすることで、「人間味」を出すといえばいいのか、悪人-中間の人間-正義の味方という仕掛けを作り、「中間の人間」が両極の「人間の本質」を浮き彫りにする、といえばいいのか。
 あ、こう書くと何だかおもしろそうな映画だねえ。
 いや、「天才ハッカー」がいないことには成り立たないのだから、彼を中心にしてこの映画をつくりなおせばとってもおもしろいものになるはずなんだけれどね。それを「脇役」にしてしまったために、全体がただの「ストーリー」になってしまう。「人間」が出て来ない。「天才ハッカー」は「おまえは、とんでもない両面テープだ」みたいな批判のされ方をする。そのあたりの人間の複雑さが出ればいいのだけれど、ことばで説明されるだけだから、がっかりしてしまう。
 韓国で逮捕されそうになったので国外に逃亡し、逃亡先のフィリピンでフィリピンの政治家をまきこんでまた詐欺を試みる、というのは実際にあったことにしても、あまりにも「ストーリー」にとりつかれている感じ。ふたつの「ストーリー」をつないで、わざと「大作」をでっちあげていると言えばいいのか。
 映画の魅力は「ストーリー」ではなく、「人間」の姿なのに。人間の感情をスクリーンに拡大してみせ、その「大きさ」で観客を押しつぶすところにあるのに。
 「こんな映画をつくってはだめ」という「見本」にはなっているね。
                   (中洲大洋スクリーン2、2017年11月12日)




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トム・フォード監督「ノクターナル・アニマルズ」(★★★+★)

2017-11-08 21:16:41 | 映画
監督 トム・フォード 出演 エイミー・アダムス、ジェイク・ギレンホール

 これは反則映画である。
 映画のなかで主人公(エイミー・アダムス)が、別れた夫(ジェイク・ギレンホール)が書いた小説(ノクターナル・アニマルズ)を読む。小説は「映画」として描かれている。エイミー・アダムスの「頭の中」、小説を読んで思い浮かべる「情景」が「映画」として描かれている。
 こんな反則は、いけない。
 どっちが「映画」なのか、わからない。
 小説を読んでいるエイミー・アダムスが映画なのか、別れた夫との関係が映画なのか、それとも小説を再現した部分が映画なのか。しかも、「現実」の別れた夫と、再現映画の主人公をジェイク・ギレンホールが演じるので、とてもややこしくなる。
 エイミー・アダムスが主人公を想像するとき、ジェイク・ギレンホールを重ね合わせただけなのか、「現実のジェイク・ギレンホール」は小説の中の主人公を「自分」と重ね合わせて書いているのか。エイミー・アダムスが「小説の主人公」と「現実ジェイク・ギレンホール」と重ねるとき、その小説に出てくる「妻」と「娘」はどうなるのか。エイミー・アダムスとほんとうの娘なのか。
 小説のなかでは妻と娘はレイプ魔に殺される。そのためにジェイク・ギレンホールは苦しむのだが、現実にあったことは、エイミー・アダムスがジェイク・ギレンホールのこどもを堕胎する。生まれるはずの「娘」を殺したのは、「現実」の世界ではエイミー・アダムスであり、彼女は生まれるはずの「娘」を殺すことでジェイク・ギレンホールを殺したとも言える。(愛を葬り去った。)小説の中のジェイク・ギレンホールの姿を追いながら、エイミー・アダムスは隠し続けてきた彼女の「殺人」に出会ってしまう。それは「意識」のなかの「殺人」である。
 この「意識」を中心に「全体」を見渡しなおすと、「現実のジェイク・ギレンホール」は「現実のエイミー・アダムス」の「殺人(堕胎)」に対しての復讐をするために、小説を書いていることになる。(復讐は、映画の途中で「リベンジ」という文字として登場してくる。)小説のなかでは、ジェイク・ギレンホールは妻と娘を殺したレイプ魔を殺している。
 という具合で。
 映画は、「現実」と「小説/小説の映画」は交錯しながら、登場人物の(エイミー・アダムス、ジェイク・ギレンホール、レイプ魔)の関係を微妙にずらしながら重ね合わせる。「意識」がまじりあう。「小説の映画」のなかの登場人物が、実際は誰を「象徴」しているのか、わからなくなる。どう解釈しても、その解釈が成り立つようになっている。
 この「重ね合わせ」と「ずらし」を、「小説映画」のなかの映像(エイミー・アダムスの想像)と「現実の映像」をシンクロさせる形で強調する。小説のなかで殺された妻と娘の向き合った裸は、現実の娘(新しい夫との間の子ども)が男とセックスし、抱き合っている姿と重なるという具合に。
 とても巧妙である。
 そして、この「重ね合わせ」が素早くできるようにするために、「小説」の舞台をテキサスの荒野にしたところが、また、とても「ずるい」。反則ではないが、反則であることを確信して、映画をつくっている。誰もいないハイウェー、その暗いだけの道。そこで起きる「事件」は、「目撃者」がいない。だから、それは「空想」かもしれない。それこそ「小説」であって、現実ではないかもしれない。「意識」のなかで、ことばがストーリーをつくっているだけなのかもしれない。「意識」だから、すべてが簡単に「交錯」し、また入れ替わる。
 こういうことができるのは、繰り返しになるが、情報量が少ないからである。映像がシンプルである。だから簡単に重ねあわさるのだ。都会のハイウエーで起きた「レイプ」なら、こんな具合にはいかない。
 この情報量の少なさは、エイミー・アダムスの「仕事」を、なんだかよくわからない現代アートにしたことによって、さらに効果的になっている。逆手にとっている、ともいえるなあ。「現実」の映像が、シンプルで、奥行きがない。とても「豪華」であるのだけれど、「余剰」がない。

 どうも、どこまで「反則」が可能か、を追及した映画のようにも見える。映画そのものはふつうの娯楽映画なのだが、この手の込んだ「反則」と、真剣に「反則」をしかけてくるつくり方に★を一個追加した。最後の最後、小説に感動した(?)エイミー・アダムスがジェイク・ギレンホールをデートに誘うのだが、その誘いに「いく」と答えながら姿をあらわさないところなど、「反則」の仕上げとして最高によくできている。「来ない」ということは、見ていれば誰にでもわかるのだが、その誰にでもわかるところに「幕」をもっていくというのは、「反則」の結末としてとてもいい。
(KBCシネマ1、2017年11月01日)



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ダニエル・トンプソン監督「セザンヌと過ごした時間」(★★★)

2017-11-01 20:45:18 | 映画
監督 ダニエル・トンプソン 出演 ギヨーム・カネ、ギヨーム・ガリエンヌ

 私はピカソが大好きである。その次に好きなのがセザンヌ。三番目がマチス。
 セザンヌの生涯を私はまったく知らない。(ピカソについても、マチスについても知らないが。)
 この映画はゾラから見たセザンヌを描いている。こども時代からの友情と反発。当然、間に女がからんでもくる。ゾラは小説家として成功するが、セザンヌは名声を手に入れることができない。そればかりか、ゾラの「制作」という小説のなかで、みじめな画家として描かれる。そのことが二人の関係をとりかえしのつかないものにするのだが。
 というようなことは、別にして。
 あ、別でもないのかなあ。うーん、セザンヌというのは、こんなに我の強い人間だったのか。
 まあ、それはそれでいいんだけれど。

 この映画の収穫は、そういう人間描写よりも、エクス・アン・プロヴァンスの自然の美しさをとらえていること。ふたりが(仲間も参加するが)エクス・アン・プロヴァンスの野山を歩くと、そこにそのままセザンヌの描いた風景があらわれる。赤い土、水分の少ない木々のみどり、でも太陽に向き合う強いみどり。透明な光。あ、セザンヌの絵だ、と叫びそうになる。
 私は「芸術」の舞台には関心がないが、あっ、エクス・アン・プロヴァンスへ行きたいと思ってしまう。エクス・アン・プロヴァンス全体がセザンヌの絵なのだ。
 サント・ヴィクトワール山をみつめるシーンが途中で一瞬出てくる。このときはまだサント・ヴィクトワール山を描いていないが、セザンヌの絵といえばサント・ヴィクトワール山。それをちらっただけみせるところが、とても印象的だ。いつセザンヌがサント・ヴィクトワール山を描くところを映画にするんだろうとずーっと待っていたら、映画の終わりで、何枚ものサント・ヴィクトワール山が重なるようにあらわれる。
 思わず涙が流れる。セザンヌは十分な評価を受けないまま死んでいったが、他人の評価とは関係なく、ひたすらサント・ヴィクトワール山を描くことで、絵の構図と色との関係を追及したのだと思うと、「芸術家の理想の生き方」のように感じてしまう。
 映画のなかでポーズを取るモデルに向かって、「リンゴは動かない」と何度もいう。モデルが動いてしまうことに対して怒るのだが、この「リンゴは動かない」の「動かない」にはセザンヌの「哲学」があふれている、と私は思う。「動かない」を象徴するのがサント・ヴィクトワール山だ。セザンヌのふるさとの山だ。動かないものを求めている。動く必要のないものを求めている、と言えばいいのか。
 セザンヌといえば、構図と色だが。がっしりした構図と堅牢な色。
 その色について、やはりおもしろいことを言う。妻をモデルに描いているとき、動くことに対して「リンゴは動かない」と文句を言うだけでない。「色」が違う(いろが動いている)と文句を言う。きのうは美しかった肌の色が、きょうは青ざめている。セザンヌは動かない色を求めていたのだ。
 でも。
 サント・ヴィクトワール山の色は、季節によって違うね。動いているね。セザンヌは、何枚ものサント・ヴィクトワール山を描いているが「同じ色」のものはない。セザンヌは、この「色の変化」をどう感じていたのか。
 たぶん「変化」を描きながら、その「変化」の奥にある「不動」を探していたのだろう。これは、「見果てぬ夢」というか、かなえられない「到達点」かもしれない。
 でも、この「動かない色を求める」という意識がセザンヌの堅牢な色を産み出しているのだと思う。
 そしてこれは「動かない色」というのは、変な言い方になるが「動き出すことができる色」なのかもしれない。光が動く、感情が動く。そうすると、それにあわせて「色」のなかから別の色があらわれて動く。ちょうどエクス・アン・プロヴァンスの野山で、風が吹くと木々のみどりが変化し、風の匂いが変化するように、その絵を見た人の「感情」に触れて、動き出すことができる色。
 セザンヌの色は「堅牢」だが、その「堅牢」は、「色が生まれる力を持っている」という強さの別の言い方かもしれない。
 うーん、セザンヌ詣でをしたくなるぞ。

 でも、やっぱり、映画としては不満だなあ。
 何よりもセザンヌが絵を描くシーンが少なすぎる。カンバスの上で絵筆が動くシーンが少なすぎる。「色」がうまれてくる瞬間がパレットでしか描かれていない。筆の動きが描かれていない。
 これは「再現できなかった」ということなのだろうけれど。
 再現してみせたら再現してみせたで、「文句」がくるだろうけれど。私も、えっ、その描き方おかしいんじゃない、と苦情を言う方かもしれないけれど。
 セザンヌ好きには、ちょっと、評価に困る映画だった。
(KBCシネマ1、2017年11月01日)



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ドゥニ・ビルヌーブ監督「ブレードランナー2049」(★)

2017-10-31 09:29:41 | 映画
監督 ドゥニ・ビルヌーブ 出演 ライアン・ゴズリング、ハリソン・フォード

 予告編を見たときから「どうしようもなさ」を感じていたが、本編を見てほんとうにがっかりした。
 「ブレードランナー」がつくられたとき、日本は景気がよかった。簡単に言うと輝いていた。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の勢いで世界を征服しそうだった。だから「未来都市」がアジアのごった煮で、環境破壊の影響で雨が降り続いているというのは、なんというか「不気味な未来」だった。
 いまの日本を反映させろ、というのではない。
 あれから時間が経っているなら、その「不気味な未来」はさらに不気味になって、観客をわくわくさせないといけないのに、まるでいまの日本を象徴するみたいに汚れきっている。
 あ、日本が舞台ではなく、カリフォルニアが舞台か。
 それならなおのこそ、「未来の未来」は想像を裏切る形で不気味になっていないといけないのに。
 街の看板にあらわれる「SONY」はスポンサーだから、それはそれでいいとして。
 あの、フォノグラム(?)の女はなんだ。
 35年前はまだ「PLAYBOY」の時代だった。インターネットだって、接続したら必ず見るサイトというのが「PLAYBOY」だったその時代なら、まだ街角の巨大な女性のフォノグラムは「未来の現実」だった。
 でも、いまは違うねえ。
 女の描き方(人間の描き方)がすっかり違ってきているのに、映画では昔のまま。これでは「未来」へ時間が進んだというよりも「逆戻り」した感じ。「逆戻り」して、それが妙になつかしい(肉体の記憶を刺戟する)というのならいいけれど、こんな映像なつかしくもなんともないね。
 うさんくさい、というのとも違う。
 見ていて「肉体」を刺戟してくるものがない。
 主人公の「お相手」の普通サイズのフォノグラムの女が、現実の女とシンクロしてセックスをするというのは、「設定」としておもしろいけれど、やっぱり古くさい。「未来社会」でも女は男の気を引こうとしている。女は男のセックスを満足させるために奉仕する、というのがげんなりする原因だなあ。
 欲望のかたちが古くさいままで、「未来」とは縁遠いのだ。
 主人公を女にしてしまえばよかったのだ。シャリーズ・セロンの「アトミック・ブロンド」みたいに。
 どっちにしろ、アンドロイド。男の肉体とかわらないしアクションをしても不思議はないし、「頭脳」だってAIなんだから男女差はない。優劣はない。それに女の方が、「妊娠する」ということを通して、新作に描かれることと深く関係してくる。「妊娠させる→子供が生まれる」という視点ではなく、「妊娠する→子供を産む」という視点で見ると、違ったものが見えてくるはずである。アンドロイドが「肉体」として迫ってくる。
 全体が古くさい男の視点をひきずったままなのが、この映画の大失敗の原因である。「子供を産む、子供が生まれる」という驚きではなく、「物を作りだす」という視点のまま全体が動いている。「物を作りだす」というのを「物を産み出す」ともいうけれど、女の感覚では「子供を産み出す」とは言わないだろう。その違いを、女が主人公なら、もっと繊細に描き出せたはずである。あるいはもっと生々しく描き出すことができたはずである。
 古くさい男の視点をひきずっているから、「論理のクライマックス」である「自分が秘密の子供」かもしれないという謎解きが「感傷」に終わってしまう。まるで少女マンガみたいというと、少女マンガファンに怒られるだろうけれど。主人公が女なら、自分で釘の世代の母親になるという「世界創造」が可能になる。つまり、「物語」が「抒情詩」ではなく「神話」にまで高めることができる。

 あ、謎解き、抒情と書いて、急に思い出したが、この映画にはナボコフが「引用」されているらしい。(クレジットにナボコフの文字が出てきた。)「本」が出てきて、そこにナボコフの文字があった。赤い表紙の本。タイトルはよく見えなかったが「ロリータ」か。ナボコフというと「青白い炎」を思い出すが、あの一篇の詩を他人が註釈するという方法からこの映画を見直すと、まあ、主人公が前作を註釈しながら別の世界へ入っていく(自分自身の世界へ入っていく)という構造を持っていると見ることもできるのだけれど。
 そんなふうに見たって、やっぱり古くさい。
 「未来の荒廃」が古くさいし、そこに描かれる女がなんとも古くさい。女が古くさいということは、男の方はもっと「どうしようもない」くらい古くさいということ。
 映画のなかで、男の物の見方はどう変わったか、男の視点は映画をどう変えたか、変えなかったかという「資料」にはなっても、払ってみるに値する作品とはとても言えない。
(tjoy博多、スクリーン6、2017年10月29日)


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フランソワ・オゾン監督「婚約者の友人」(★★)

2017-10-26 08:33:36 | 映画
監督 フランソワ・オゾン 出演 パウラ・ベーア、ピエール・ニネ

 フランス人が見たドイツ人の恋愛不器用さがテーマ? あるいはフランス人はやっぱり不倫が大好きがテーマ?
 よくわからない。
 一か所、パウラ・ベーアとピエール・ニネが、かつてパウラ・ベーアが婚約者と歩いた野原を歩くシーン、トンネルをくぐり抜けるとモノクロ画面がカラーにかわる瞬間だけが見どころかなあ。
 そのシーンを含むドイツのシーンは、ドイツ人の恋愛下手というか、純情さ加減がなかなか美しい。戦場で婚約者を殺した男に、そうとは知らずにだんだん惹かれていく女。男が語る話を、そのまま信じ込む感じがなかなかおもしろい。
 パウラ・ベーアの婚約者の両親までもが純愛のめりこみ、パウラ・ベーアを応援する。へええっと、驚きながらみてしまう。
 名前だけだが、「リルケ」が出てくる。ドイツ人の精神はリルケのように透明ということかなあ。
 これが後半、舞台がフランスになると、実に不思議。
 パウラ・ベーアの「純愛」を、フランスの誰もが信じない。
 「あら、あんたわざわざ男を追いかけてフランスへやってきたの」「息子を奪う気ね」「婚約者から恋人を横取りするつもりね(男には、婚約者がいる)」という具合。息子(男)がパウラ・ベーアにこころを動かされたというのは「事実」だろうけれど、それがどうした?という感じ。
 フランスの金持ちの男が、ドイツの貧乏人の女と結婚するわけがない。結婚は「恋愛」とは違っている。「恋愛」があって「結婚」があるわけではない、と突き放した感じになる。
 本音がそのまま出ているんだろうけれどね。

 で、ここから振り返ると。

 あのモノクロからカラーに変わる瞬間のひとつづきの変化というのは、パウラ・ベーアが婚約者を忘れ、男にひかれていくときの始まりであり、女のこころの変化をあらわしているということになる。婚約者(恋人)を思い出しながら、新しい男にひかれていく。
 これを「美しく」撮る、というのは。
 そう、フランスの男は、ほかの男を愛している女が自分の方に傾きかける瞬間をいちばん美しいと感じているという証拠である。だから、その瞬間を「美しい」ものとして懸命に描く。そして、ずっーと自分をひとすじに愛してくれる女よりも、途中で心変わりしてくれる女の方が好きということ。なぜか。心変わりをするということは、自分の方に魅力があるということを証明していることになるから。
 まあ、こういう「論理」は、自分勝手なわがままフランス人しか思いつかない論理だけれどね。
 それを、平然と描ききるところに感心しないといけないのかもしれないなあ。

 パウラ・ベーアからの最後の手紙(最初の手紙?)で、パウラ・ベーアが嘘をついていると感じるドイツの、婚約者の両親の、その最後の演技がなかなか。ドイツ人は、ほんとうに純粋。悲しくなるくらいに純粋、と私は思ってしまうのだった。
 両親は最初ピエール・ニネにだまされ、次にパウラ・ベーアにだまされる。息子をフランス人に奪われ(殺され)、信じていた息子の婚約者にもだまされる。裏切られる。これは、つらいね。
 なんてことを思うのは、私が日本人だからだろうなあ。フランス人は、ドイツ人には恋愛なんかわからない、というだけだろうなあ。
 そういう意味では。
 恋人動詞の秘密の会話(手紙)にはフランス語がつかわれ、ドイツ語がつかわれない、というのは意味深だなあ。手紙なんて、だいたい他人のものを読んではいけない。そういうプライバシーはどこの国でも共有されている。それなのにフランス語でやりとりする婚約者と恋人。そして、それを盗み見するのはドイツ人ではなく、フランスの兵士。ここから映画を見直すと、映画ではなく「小説」になっていく。映画はオリジナルではなく、「原作」があるのかもしれない。
                      (KBCシネマ、2017年10月25日)


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デビッド・リーチ監督「アトミック・ブロンド」(★★★)

2017-10-23 09:11:00 | 映画
監督 デビッド・リーチ 出演 シャーリーズ・セロン、ジェームズ・マカボイ

 この映画の成功は、主役が女であること。時代がベルリンの壁がある時代であるとこ、だな。
 と、書くと。
 特に「主役が女」という見方は「女性蔑視」の視点があると言われそうだが。
 そうかもしれない。
 でも、そう思うのだからしようがない。

 なぜ「主役が女」であることが映画をおもしろくしているか。
 近ごろのスパイ映画は、どれもこれもアクションが超人間的。ジェームズ・ボンドもジェイソン・ボーンも。あんなこと、できっこないよなあ。
 これがシャーリーズ・セロンがやると、まあ、同じことはできないのだけれど、こんな細身の女にできるなら、自分もできるかも、と思ってしまう。アクションスピードも、どことなく「遅め」に感じるなあ。
 こういう「錯覚」は、水泳とか 100メートル競走なら、女に勝てるかもしれないと思うのと似ている。実際にはオリンピックはおろか、県民体育大会に出てくる女性アスリートにも負けるんだけどね。水泳なんか、小学生女子のトップクラスにも私はまったくついていけない。
 でも、「勝てる」とか、思ってしまうんだね。男だから。大人だから。
 さらに、時代が「ベルリンの壁」以前。だから出てくる「小物」がみんなレトロ。盗聴器なんて、びっくりするくらいでかい。それをギプスに隠している、なんて、わーっ、懐かしい。シャーリーズ・セロンが下着姿で、自分の体に録音機をつけるのもいいなあ。「からだを張っている」感じ。ネットや通信衛星の監視網をかいくぐり、あるいは組織がそういうものを利用する、というのではない。あくまで「人間」が主体。デジタルでなくって、うーん、なんだっけ、あ、そうそうアナログ。「肉体」の延長戦に世界がある。
 オープンリールのテープレコーダーがあって、テープがからからまわったり、「テープ巻き戻して聞いてみる?」なんて台詞があったり。
 いまの若者は、この感覚がわかるかなあ、と心配になるくらい。
 それでもってねえ。
 主人公が女物のスパイ物語。ジェームズ・ボンドだと、女がからんでくる。セックスシーンがある。自分ではセックスできないような女とジェームス・ボンドがセックスするのを見て、やっぱり女はボディーだよなあ、なんと思ったりする。それが女だと、やっぱりそうか、レズビアンのセックスシーンか。あ、こういうの見たかったんだよなあ、とスケベ心が刺戟される。
 いわば「定番」なのだろうけれど、(「女囚サソリ」にもあったと思う)、これが妙にわくわくする。
 カーアクションだとか、スナイパー(昔もそういったかなあ……)も出てくるが、いまのように「派手」ではない。どうせCGという感じにならないからね。
 さらに。
 敵(?)が「ソ連」というのもいいなあ。
 へんになつかしい。
 シャーリーズ・セロンが英語、ドイツ語、ロシア語をしゃべるというのも、これがスパイだぞという感じで、うれしい。スパイには「語学力」が必要なのです、はい。英語はともかく、ロシア語なんて聞くと、それだけで「秘密諜報部員)」になれるかも、なんて男は思ってしまうんですよ。ばかですね。
 あ、アクションと女にもどろう。
 女が主役だと、おもしろく感じるのは、このアクションシーン、私なんかはやっぱり男の側から見てしまう。女をやっつける男、を。映画だから、最後はシャーリーズ・セロンが勝つに決まっているだけれど、途中までは「互角」。ほら、やっぱり男の方が強いじゃないか、女にはスパイはむりだよなあ、なんて思ったりするのだ。
 映画というのは、たいてい主人公に自分を重ね、主人公になったつもりになるのだけれど、女が主役だと、ちょっとそこに「ずれ」があって、「主観」があっちへいったり、こっちへいったり。「意味」としてはシャーリーズ・セロンの行動を負うのだけれど、「肉体」は別に動いてしまう。
 このあたりの感覚、女性はどうなのかなあ。ジェームス・ボンド、ジェーソン・ボーンの出る映画。あ、あれは敵が男か。女とアクションをするなんて、ないね。「ロシアより愛をこめて」では戦った相手がメイドのおばさん(おばあさん?)だったしね。対等で戦うというシーン、主役がやられてしまうかもしれないというような格闘はないから、そういうことは思わないかなあ。 

 という感じで、あれやこれや、とりとめもない。
 そういうとりとめもないことを思いながら、ときどきドキドキ、ワクワクしながら見る、昔懐かしい映画だね。
    (ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン6、2017年10月21日)

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エミール・クストリッツァ監督「オン・ザ・ミルキー・ロード」(★★★★★)

2017-10-15 08:57:32 | 映画
監督 エミール・クストリッツァ 出演 エミール・クストリッツァ、モニカ・ベルッチ、プレグラグ・ミキ・マノジョロビッチ

 映画には、いろいろな楽しみがある。エミール・クストリッツァの映画では、音楽が楽しい。動物が楽しい。人間も楽しいのだが、音楽と動物が、なんともいえず「わいざつ」なところがいい。「わいざつ」というのは「人間っぽい」ということである。「人間」のなかにある「野生」を音楽と動物が代弁してくれる感じがする。
 たとえば、こんなシーン。豚が殺されそうだと察知すると、あちこちからアヒルが集まってくる。ほかの動物の悲劇が好き? なんて思ったりしたのだが、なんとなんと。豚の血をためたバスタブ(のようなもの)にアヒルたちが次々に飛び込む。なぜ? なぜ、わざわざ血まみれになって汚れる? なまぐさい血のにおいに蠅が集まってくる。それを「ぱくぱく」食べるためなのだ。どのアヒルが最初に思いついたか知らないが、これはアヒルの知恵なのだ。
 それからロバは、兵隊を起こす起床ラッパのまねをする。起床ラッパといっても、ほんもののラッパではなく、兵士が口でラッパの音をまねする。その音そっくりに鳴くのである。へええ、ロバってこんなに器用? こんなに耳がいい?
 主人公と仲がいい鷹(ハヤブザ? よくわからないが、猛禽類)は主人公の演奏する音楽に合わせて肩(翼の付け根)でリズムをとる。蛇はこぼれたミルクをのんだ恩返しに、主人公を助ける。
 動物は、戦争とは無関係に生きている。人間のやっていることなんか無視している。自然の「非情」が動物にあらわれているのだが、この「自然の非情」というか、「自然」そのものが、人間の「無防備」の美しさにつながる。「野蛮」なの美しさ、といいかえてもいいかなあ。
 「停戦(終戦?)」を祝いながらも、「ビッグ・ブラザーがいるかぎり戦争はつづく。ビッグ・ブラザーは戦争が大好き」というような歌を歌う民衆の強さ、ひねくれ加減がいいなあ。その歌の、「なまなましい地声」がいいなあ。どこにでも、いつでも、音楽がある。「平和がきてよかった」という歌よりも、「事実」を見ている。
 後半の、「恋の逃避行」も楽しい。ファンタジーなのだが、ひとはいつでもファンタジーを生きる。戦争のさなかでも。木の上での、はじめてのキスとか、川を流れる結婚式の白いドレスとか、水辺の小屋でのセックス(唐十郎の芝居みたいに、小屋が解体し、自然のなかにさらけだされる)とか、水をつめた瓶を楽器にしたてて始まる音楽とか、とても楽しい。
 でも、二人がハッピーエンドにならないのなら、こんなシーン、何のために?
 最後の最後に、羊飼いが、自殺しようとする主人公を引き止めて、こう言う。「死んじゃいけない。おまえが死んでしまったら、誰がいったい彼女のことを思い出すのだ」。
 あ、いいなあ。
 人は、人を、思い出さないといけない。思い出の中で人は生き続ける。これを大げさに言うと「歴史の中で人は生き続ける」ということ。どうやって人が生きたか、それをつたえるために「歴史」がある。「歴史」を無視するとき(修正するとき)、死ぬは死ぬ。というより、二度目の殺人にあう。二度、殺される。
 ふと、安倍のことを思ったりする。
 最後の最後、主人公が、恋人の地雷で死んだ野原に石を敷き詰めるシーンがある。15年後、ということだが、15年間、通い続け、一個一個敷き詰めてきたのだ。まだ空き地がある。そこを埋めないといけない。これは、戦争で殺された同胞を忘れない、というエミール・クストリッツァ監督の「決意表明」みたいなものだ。まだまだ、撮り続ける。「主演」も兼ねているのは、そういうことを明確にするためだろう。
 (こういう「意味」ではなく、映画のなかに出てきた動物についてもっともっと書きたかったのだが、最近疲れ切っているので、どうしても「意味」に意識が流れてしまう。流されてしまう。最後の文章は無視して、動物が人間のようにふるまい、人間が動物のなまなましさ、かわいらしさで動くシーンを味わってください。)

 (きのう、ここまで書いた。)

 で。
 話が「意味」に断線してしまったので、もう一度、映画にもどっておく。
 映画の冒頭に、とっても変な巨大時計が出てくる。その時計にみんな困っている。困って、壊してしまうのだが、またつかっている。これって、何かの「比喩」? そうかもしれない。でも「比喩」だとしても、「意味」は考えない方がいい。巨大時計の、へんてこりんな「リアリティー」だけを感じればいい。
 思い出というのは、こういう「リアリティー」のことである。「意味」を突き破って、そこに存在している「実感」。
 主人公をめぐって、二人の女が「恋のさや当て」をするシーン、そのふたりの姿。なぜか似ている。それも楽しいし、病院に入院している二人の女(同じ病気、時計にかまれて、その毒が回る)を見舞いに来た男が、雨漏りから二人を守るために鍋を両手に抱えて立っているシーンも好きだなあ。男の上にも雨漏りがするので、男はやっぱり鍋をかぶっている。
 うまく説明できないが、「真実」があって、その「真実」に気づいたとき、ひとは「逸脱」していく。ばかばかしい行為をしてしまう。「野生」にもどる。そう、私は感じてしまう。
 ラスト直前の、二人が、羊がこどもを産むシーンを見るところなんかにも。兵士に追われ、自分が死ぬか生きるかというときに、小羊が生まれ、それを羊飼いが水で洗ってやるシーン(洗礼する?シーン)に、みとれている。そんな余裕があるのか。ない。ないけれど、ふと、みとれてしまう。ここにも「意味」はあるだろうけれど、このシーンが何かを「暗喩」しているのだろうけれど、そういうことはわからないまま、ただ、そこにある充実した時間にのみこまれてしまう。
 そういうことが、たぶん、生きているということなのだろうなあ。
 主人公が飛び交う銃弾のなかをミルクを運ぶ。缶に弾があたり、ミルクがこぼれる。そのシーンも好きだし、ふっとんだ耳を女に縫いつけてもらうシーン、もうひとりの恋人が体操で鍛えた身のこなしで男に絡みつくシーンも好きだなあ。そんなこと、ありえない? でも、思い出のなかでは、そういう具合に、「リアリティー」が独立して動いていく。「意味」に支配されずに動いていく。「リアリティー」が解放されていくと言ってもいい。
 どうでもいいが、二人を追いかける兵士が、「俺たちはここにいる」と鏡に太陽の光を反射させて知らせるシーンなんかも、私は好きだなあ。おいおい、追いかけているなら、追いかけていることを知られないようにして追いかけるのが、相手をつかまえるための鉄則だろう、なんて、言っても始まらない。
 イタロ・カルビーノの「真っ二つの子爵」で、悪人の残したなぞなぞを解きながら、悪人の指定した場所へ対決しに行くエピソードに似ている。なぞなぞの答えを間違えたら、対決できないだろう。なぞなぞなんかで敵を呼び出すなよ、というのは「客観的批判」であって、読みながら、なぞなぞで対決場所を指定するなんて、やってみたいなあ、おもしろいなあ、と私は笑いだしてしまう。
 私たちは、たぶん、そういう「くだらない逸脱」を生きている。そこに「自由」がある。「自由」とは「くだらない逸脱」のことである。
 最初、私は「わいざつ」と書いたが、「わいざつ」とは「意味」に整理される前のリアリティーであり、くだらない逸脱のことだろうなあ、と思いなおす。
 あ、また「意味」を書いてしまったか。
              (KBCシネマ2、2017年10月14日)




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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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セオドア・メルフィ監督「ドリーム」(★★)

2017-09-30 20:00:16 | 映画
監督 セオドア・メルフィ 出演 タラジ・P・ヘンソン、オクタビア・スペンサー、ジャネール・モネイ、ケビン・コスナー

 まだ人種差別がきびしかったケネディの時代、NASAで活躍した3人のアフリカ系女性の描いている。「実話」らしい。原題は「Hidden Figures(隠れた人物、隠された人物?)」というから、アメリカでも知られていない話なのだろう。
 で。
 ストーリーはおもしろいが、映画としては、どうか。主役の3人の女性が、あまりにも「しっかり」している。立派すぎて、共感する、という感じになれない。
 白人の高校に入学する(受講する?)ことになる女性が、判事を説得するシーンなど、エンジニア(技術者)というよりも、弁護士やなにかのよう。「文学者」というか、「ことば」の人という感じ。もちろん、きちんと伏線で「口達者」なところは描かれているのだが。
 困難の中で、苦悩し、ゆらぐというシーンがなくて、少し味気ない。
 クライマックスは、ロケットの打ち上げ寸前の「トラブル」かなあ。コンピューターの計算が、きのうと、きょうとで違う。どうする? 宇宙飛行士が「タラジ・P ・ヘンソンの計算なら信じる」と言い、いったん首になったタラジ・P・ヘンソンが呼び戻され、検算しなおす。その「あの女性の計算なら信じる」という人間に対する信頼、それにこたえようとする熱意かなあ。タラジ・P・ヘンソンの、このときの演技派「地味」なのだけれど、引き込まれたなあ。
 女性エンジニアを目指す女性に対し、ユダヤ人の技術者が語りかけるところもよかった。彼女に説得される判事もよかった。タラジ・P・ヘンソンに地位(?)を奪われる上司も、かっこよくないところが、おもしろかった。人間は、やはり「揺れる」方がおもしろい。
 それと比較してはいけないのかもしれないが。
 ケビン・コスナーは、揺れない。宇宙計画の責任者だけあって、信念がしっかりしているといえばそれまでなのだが、揺らがないところがおもしろくないねえ。あ、腹が出てきたなあ、年取ったなあ、というどうでもいいことを見てしまうのだった。アラ探しといえばアラ探し。そういうところに目が行くのは、映画として退屈ということだね。
 「映画的」なクライマックスになるはずの、帰還のシーンも、なんだか平凡。NASAのスタッフが、祈るように無線の応答を待っているなんてなあ。そこへゆくと、「アポロ13」はおもしろかった。計算をするのに、計算尺まで出したり、宇宙船の周囲に何がつかえるか、日常にあるもの(そして宇宙船でつかっているもの)を総点検するところなんか、宇宙がぐいと「生活」に近づいてきたからね。
 ということで。(どういうことで?)
 「意味」はわかりますが、「肉体」は動かされないという映画でした。
          (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ13、2017年09月30日)


 *

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リドリー・スコット監督「エイリアン コヴェナント」(★★)

2017-09-24 09:57:58 | 映画
リドリー・スコット監督「エイリアン コヴェナント」(★★)

監督 リドリー・スコット 出演 マイケル・ファスベンダー、キャサリン・ウォーターストン

 マイケル・ファスベンダーが善と悪の二役って、あ、これはもう「ターミネーター」じゃないか。「エイリアン」じゃなくて、「ターミネーター コヴェナント」。「コヴェナント」なんていうことばの意味は知らないけれどね。
 この続編はきっと、「エイリアン」をつくりだしたアンドロイドの動きを阻止するために、未来からあたらしいアンドロイドがやってくる、という映画になるなあ。
 創造に目覚めたアンドロイドが、完璧な生命体とは何か、と考え始める。理想(?)とする生命体の中に入り込みながら、DNA(?)を吸収し、自分を作り替えながら成長する、というのはなかなかおもしろいテーマというか、ストーリーだが、どうもうまく生かされていない。
 ストーリー(意味)が単純に二極化されているためである。善と悪は、愛と憎しみということばに言い換えられている。それが美と醜という形で視覚化、聴覚化されている。
 初代アンドロイドは、善というか、「完璧」なのものを教えられた。この世界には「完璧」がある。それを具現化しているのが初代アンドロイドである。でも、初代アンドロイドは、それをつくった男に愛されなかった。男が愛しているのは「完璧」なもの、たとえばワーグナーの音楽だった。アンドロイドに求められているのは「完璧」を再現し、提出すること。それが「仕事(義務)」だった。自分が愛されているわけではないと知ったアンドロイドが、愛に飢え、憎しみをつのらせていく。と書けば、これは「フランケンシュタイン」にもなるなあ。「フランケンシュタイン」が下敷きになっていることは、バイロンやシェリーが登場してくるところからも推測できる。
 映画好きには「ターミネーター」を、文学好きには「フランケンシュタイン」を連想させるというのが、狙いかもしれないけれどね。
 あるいは、映画にしろ何にしろ、あらゆる「芸術」というのは、何かに「寄生」しながら、「母体」を破壊し、生まれかわかることという「哲学」を語っているのかもしれない。「芸術」がそういうものであるから、リドリー・スコットが「ターミネーター」に寄生し、「フランケンシュタイン」に寄生し、「エイリアン」を改良していくのは、ごくごく自然なことなのであるけれど。
 どうも、ストーリーがというより、ストーリーを動かす「思考」が見え透いている。
 この「見え透いている」部分を、どう破壊するか。思いもかけなかったことを「映像」として提出するか、何を「破壊」するか、がいちばん問題なのだけれど。破壊することで、観客の「肉体」をどう刺戟するかが問題なのだけれど。「頭」にこのパズル解けるというような信号をいくら送られてもねえ。
 新しいことは、何もない。宇宙船をコントロールする「マザー」というコンピューターは「2001年宇宙の旅」の「HAL」そのものだし。エイリアンはすでに見ているし、体に侵入して、体を突き破って生まれるというのも見ているし、エイリアンを船外機に誘い出し宇宙に放出するというのも見ているし。いや、すでに「醜い」ものが「美しい」ものを凌駕して、こころを引きつけるというのは、「エイリアン」の出発点そのものであったしなあ……。
 初代アンドロイドのマイケル・ファスベンダーが次世代アンドロイドのマイケル・ファスベンダーにキスして始まる「混乱(闘争)」が、カンフー映画みたいになってしまったことが失敗なのかなあ。アンドロイドだから「混乱」しないというのが「基本」なのかもしれないが、「愛」というのは「混乱」から始まるものだからねえ。「混乱」のなかから、何を選び、自分を変えていくかが「愛」にとっていちばんおもしろい部分なのに、そこが省略されている。単なる「破壊ごっこ」(相手を殺す)に終わっている。
 いや、ラストシーンは違うぞ、という意見もあるだろうけれど、(透明カプセルに入ったエイリアンの胎児を口から出産するというのは、ちょっと新しいグロテスクだけれどね)、でもこの「ご都合主義」がいちばんおもしろくない。キャサリン・ウォーターストンが見たものは(気づいたことは)、アンドロイドが彼女を守ってくれていた(愛していてくれた)アンドロイドなのか、それとも初代のアンドロイドなのか、あるいは彼女を守ってくれていたアンドロイドの内部で何かが新しく生まれたのか(変質したのか)を観客にまかせて、「続編がありますよ」というのは、安直すぎる。
                        (2017年09月23日、中洲大洋1)


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クリストファー・ノーラン監督「ダンケルク」(★★)

2017-09-10 20:33:32 | 映画
監督 クリストファー・ノーラン 出演 フィオン・ホワイトヘッド、トム・グリン=カーニー、ジャック・ロウデン

 よくも悪くもイギリスの映画というか、まあ、イギリス人が撮ると戦争映画もこうなるという見本のようなものだなあ。
 何がイギリスかといって、最後のチャーチルの「ことば」。新聞に書かれている「声明(たぶん演説を書き起こしたもの)」がイギリス。イギリスはシェークスピアの国だけあって、「ことば」だけが「事実」。チャーチルの演説がそれを端的にあらわしているが、もっとわかりやすいのが遊覧船での逸話。
 海で助けたイギリス兵と少年が船内でぶつかる。少年は大怪我をし、やがて死ぬ。イギリス兵は「少年は大丈夫か」と二度聞く。一度目、イギリス兵に怒っている青年が「大丈夫じゃない」と答える。二度目、多くのイギリス兵を救助する。船内がイギリス兵であふれかえる。少年は船室で死んでしまっている。このとき、青年は「大丈夫だ」と答える。嘘をつく。いま、少年と衝突したイギリス兵を動揺させても何にもならない。まだ生きている、大丈夫だと信じ込ませて、多くのイギリス兵を救助することの方が大切だから、そうする。このときの「嘘」は、青年にとっての「事実」よりも、イギリス兵にとっての「事実」を重視するということである。イギリス人だから「大丈夫だ」ということばを聞けば、それが「事実」になる。
 チャーチルの演説は、この延長にある。「撤退」を認める。ダンケルクの戦いは「敗北」だったと認める。だが、「敗北」を「事実」にはしない。「事実」のとらえ方はいろいろある。イギリス軍はドイツ軍に敗北した。だが、その敗北のさなかにあって、兵士だけではなく一般市民(遊覧船の船長ら)がイギリス兵の救出に全力を尽くした。そして33万人をダンケルクから救い出した。これは大きな成果(勝利)であるととらえなおす。33万人が死なずにすんだのである。戦争において勝利とは「生き残る」ことである。「生き残る」、そして何度でも戦いなおす。そういうことを、実に、力強く言いなおす。「生き残った、再び戦い、ヒトラーを倒す」ということを「ことば」で先取りし、「事実」にしてしまう。
 一種の「煽動」と言えるかもしれないけれど、さすがにシェークスピアの国だなあ、と感心してしまう。
 また、いま書いたような「劇的なことば」以外でも、いたるところで「ことば」が活躍する。引き潮で浜に座礁しているオランダ船。イギリス人が逃げ込む。満潮になって船が浮かぶのを待っている。その船が銃撃練習の「標的」になって、船隊に穴が空く。だれが穴を塞ぐか。そういう「議論」がちゃんと「ことば」でかわされる。ひとりまぎれ込んだフランス兵を問い詰めていくのも「ことば」である。イギリス人にとっては「ことば」が「事実」であり、「すべて」である。そういうことを感じさせてくれる。
 飛行機でも非常におもしろいシーンがある。「ことば」とは意識されにくいかもしれないが、ここがもしかするといちばんイギリスっぽいといえるかもしれない。ドイツ機からの攻撃を受け、燃料計器が故障する。そのとき、パイロットはどうするか。別の機体の操縦士に、どれだけ残っているか、聞く。聞くことで、燃料の残りを確認する。これは「合理的」といえば「合理的」だが、まだるっこしい。いっしょに飛んできて、いっしょに戦っている。そうであるなら、同僚に燃料がどれだけ残っているかを報告してもらわなくても、ただいっしょに行動すればいいだけである。同僚が「燃料がなくなった、引き返そう」と言えば、その指示に従えばいい。そういうことをしないで、何時何分、何パーセントの燃料が残っていると「ことば(数字)」で把握し続ける。これが、とてもとてもイギリス的。
 そして計器の故障していない飛行機のパイロットが「引き返すための燃料を残しておこう」と言っていたにもかかわらず、燃料が切れてしまうまで戦い続け、浜辺に不時着するというのも、とてもおもしろい。ここでは「ことば」が動いていない。「ことば」を無視して、人間が行動している。
 これは、だから、私がいままで書いてきたことを、完全に覆す行動でもある。覆すものとして、とらえなおすことを迫ってくる。
 イギリス人にとって「ことば」が「事実」だが、イギリス人は「事実」である「ことば」に従うわけではない。「ことばの予測」にとらわれずに行動する。行動したあとで、おきたことを「ことば」によって「事実」にしていく、ということをしている。
 と、書くと。
 あ、チャーチルの演説にもどるのかなあ。
 常に行動が先にある。行動したあとで、行動を「ことば」でとらえなおして、共有できる「事実」をつくる。それが政治家(リーダー)の仕事というわけか。
 (日本の政治の現場で動いている「ことば」と比較すると、その違いに唖然とする。)

 戦闘シーンが迫力がある、という評判だったが、私は「ことば」の動きの方にとてもひかれた。
 ユナイテッドシネマ・キャナルシティのIMAX劇場(12スクリーン)で見たのだが、映像には特に迫力を感じなかった。画面が大きいだけである。また音が非常に大きくて、私には耐えられなかった。たまたまイヤホンをもっていたので、イヤホンを耳栓がわりにしたが効果はなかった。映画館を出ると、頭痛がしてしまった。
                          (2017年09月10日)

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