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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

是枝裕和監督「三度目の殺人」(★★★★)

2017-09-06 08:04:42 | 映画
監督 是枝裕和 出演 福山雅治、役所広司、広瀬すず

 私は、こういう「謎解き」映画は好きではない。是枝の作品では「歩いても歩いても」のような、日常を描いたものが好きなのだが。
 あ、でもこれは問題提起として大傑作。
 真実とは何かを「裁判」をテーマに描ききっている。
 いちばんの見どころは、福山雅治と役所広司の、刑務所での面会シーン。ガラス(プラスチック?)の仕切りを挟んで二人が向き合い、対話する。ガラスなので、そこに顔が映る。その映った顔と、もうひとりの顔が重なる。ひとりの実像と、もうひとりの虚像(?)が重なる。これが、非常にスリリングである。
 「ひとつの殺人事件」をめぐって、「犯人」と「弁護士」が重なってしまう。
 重なり方には「ふたつ」ある。
 最初は、映画の中ほどから後半にかけてか。福山雅治が右側にいる。その福山雅治の顔を覗き込むように役所広司が顔をガラスに近づけていく。役所広司の目の中の光(マンガで言う星)が福山雅治の目に重なるようにして揺れる。福山雅治が役所広司の「気迫」に乗っ取られるという感じ。
 これをとおして、実際、福山雅治は役所広司に「人間」として乗っ取られる。そのきっかけになる。それまで役所広司は殺人を自白している。福山雅治は、いかに量刑を軽くするかという「法廷戦術」を展開しようとしていた。しかし、この重なり合いのあと、役所広司は「殺人はしていない。無実だ」と訴える。「自白すれば死刑にならずにすむ」といわれたので、そういったまでだと主張を転換する。
 これに、隠されていたいろいろな事実(人間関係)が加わるのだが、それはまあ、見てのお楽しみ。劇的な展開のあと、裁判があり、役所広司は結局「死刑判決」を受ける。決着がつく。
 このあとに、福山雅治は役所広司に最後の面会にゆく。そこでもガラス越しに二人の顔が重なる。こんどは福山雅治は左側。つまり、右を向いている。この顔に、同じく右を向いた役所広司の顔が重なる。ふたりは「同じ方向」を向いている。しかし、微妙にずれる。非常に近づいたかと思うと、すーっと離れていく。離れていくけれど、重なっている。
 ここにこの映画の主張(哲学)が凝縮している。
 ふたりは同じように「事件」を見ている。同じ側から見ている。そこにもうひとりの主人公の広瀬すずがからんでいる。
 何のために、役所広司は「無罪」を主張したのか。その「解釈」が、福山雅治と役所広司では違う。その「違い」を役所広司が受けれ入れたような印象を与える形で描かれている。(これは、受け取り方次第。)
 書くことは、いろいろあるし、いろいろにも書けるが、省略する。ぜひ、見てほしい。ひとは、何をどう考えるか。何のために、そう考えるのか。そのとき、そのひとは、どういう存在なのか。
 複雑である。そこが、非常におもしろい。
 このおもしろさは役所広司の演技に負うところが非常に大きい。主張が二転三転するのだが、どの主張も「不透明な手触り」として迫ってくる。他人を見る目も、自分自身を見る目も変化する。その七変化がなまなましい。
 それにしてもガラス越しのシーンの演技はたいへんだろうなあ。演じているふたりには相手は見えても、ガラス越しにどう映っているかは見えない。その見えない部分を重ね合わせるのだから、すごいとしかいいようがない。
 ガラス越しのふたりの演技を見るだけで、この映画に満足できる。この映像だけで全編が描ききれたら★10個。
 ベルリン(ベネチア?)映画祭の審査結果が楽しみである。
              (2017年09月05日、ソラリアシネマ1、TNC試写会)

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歩いても 歩いても
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ジム・ジャームッシュ監督「パターソン」(★★★★★)

2017-09-05 18:10:12 | 映画
監督 ジム・ジャームッシュ 出演 アダム・ドライバー、ゴルシフテ・ファラハニ

 はじまってほどないシーンに息をのんだ。アダム・ドライバーが運転するバスのフロントグラスにパターソンの街が映る。バスが進んでいくと、フロントガラスに映っていたビルが実景として登場する。実景の前に、いわば虚像があり、虚像が実景を呼び寄せるようにして風景が展開する。これはバスの進行方向にあるものがバスのフロントガラスに映ることで生じる現象なのだが、とても美しく、またこの映画そのものを象徴するもののように思えた。
 アダム・ドライバーはバスの運転手をしながら詩を書いている。詩集もたくさん読んでいる。その生活を、いわば「詩的」にとらえているのだが、その「詩」とは何かを語るひとつの要素が、フロントガラスの虚像(鏡像)と実景に凝縮している。
 実景ではなく、それをとらえる虚(像)がある。「虚」を「ことば」と置き換えるとどうなるだろうか。「ことば」をさらに「詩」と置き換えるとどうなるだろうか。詩が先にあって、そのあとに実景がことばにあわせるようにして登場してくる。「ことば(詩)」は現実を先取りする。詩にはそういう力がある。
 これはストーリーそのものとしても展開される。アダム・ドライバーと暮らしているゴルシフテ・ファラハニは夢を見たと語る。子供がいる。ふたりだ。双子だ。子供が双子だったらどんなに楽しいだろう、と言う。そのことばにアダム・ドライバーは共感したのだろう。行く先々で「双子」を見る。最初に登場するのはベンチに腰掛けている老人。それからバーで玉突きをする兄弟。兄弟というけれど、どうみても双子にしか見えない。詩を書いている少女がいて、彼女が待っていた母と姉(妹)がやってくると、その姉はやはり双子のようだ。双子ではないけれど、バスのなかで女にもてたときの話をするふたりは、気持ちが「双子」だ。ほかにもバスのなかで話す二人が出てくるが、気持ちが「友人」をとおりこして「双子」という感じ。そして、その「双子」の感じというのは、ひとりが先にあらわれて、そのあとそっくりのもうひとりがあらわれる、という形で展開する。
 この関係を「双子」にとらわれずに、向き合った「ふたり」ととらえなおすと、それはアダム・ドライバーとゴルシフテ・ファラハニの関係にもなる。映画はベッドで目覚めるふたりのシーンから始まるが、そのふたりは「向き合っている」。背中をくっつけているときもまた「向き合っている」と言える。
 アダム・ドライバーは詩を書いているが、自分自身の「欲望」をことばにすることはない。一方、ゴルシフテ・ファラハニは詩を書かないが、「欲望」をことばにし、それを実行していく。その姿は、だからアダム・ドライバーをどこかで代弁している。ゴルシフテ・ファラハニはアダム・ドライバーに詩集を出すことを勧める。アダム・ドライバーはかたくなに拒んでいるが、きっとひそかに詩集を出すことを夢見ている。ゴルシフテ・ファラハニのように、「欲望」をことばにし、それを実現していくことができたらどんなにいいだろうとひそかに思っているだと思う。
 映画のなかで最初に紹介される詩、マッチの詩のなかで「メガホン」のようになった文字のことが語られるが、その詩を読んでいないはずのゴルシフテ・ファラハニが、「あのメガホンのようになった文字のことも書いたの?」と問いかけるところが印象的だ。ふたりは「語りあわない」部分でつながっている。「ことば」を共有していることが暗示されている。
 映画の最後では、「ことば」が現実を先取りするというのとは逆の詩の「力」も紹介されている。アダム・ドライバーがおじいさんが歌ってくれた歌を思い出す。歌には「詩」がある。そこではさまざまなことが語られているのに、アダム・ドライバーが思い出すのはある一行(ここでは書かない)。詩は必ずしも全部がひとをとりこにするわけではない。一行がなぜかいつも思い出されてしまう。思い出すのではなく、まるで向こうから語りかけてくるみたい。
 そうなのだと思う。「先取り」しているように見えても、それは「先取り」ではなく、先に存在しているものが、向こうからやってくるものなのだ。あまりに突然なので、すでに存在していたものが姿をあらわしただけということに気がつかない。
 最後のエピソードに永瀬正敏が登場する。なぜ、そこに永瀬正敏が? 日本人が? しかもアダム・ドライバーの好きな詩人の詩集を持って? それは突然のできごとだけれど、やはり「過去」からやってきたのである。時間をこえて、「いま」に「過去」が噴出し、それが「未来」になってゆく。
 詩だけではなく、これは文学に共通することなのかもしれないけれど。
 こういう刺戟的なことを、ジム・ジャームッシュは「日常」のなかにぐいと沈潜させて描いている。とても美しい。
 あ、書きそびれたがゴルシフテ・ファラハニの描く「絵」がとてもおもしろい。飼ってている犬をモチーフにした絵など、思わず笑ってしまうし、カーテンの模様なども素敵だ。「情報」がもりだくさんだけれど、「情報量」をアピールするというより、その「情報」をささえる日常を静かに浮かび上がらせているが、とてもいい。

                      (KBCシネマ1、2017年09月05日)

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ポール・バーホーベン監督「エル ELLE 」(★★★★★)

2017-08-31 12:40:20 | 映画
監督 ポール・バーホーベン 出演 イザベル・ユペール、ローラン・ラフィット、アンヌ・コンシニ、シャルル・ベルリングリ、ビルジニー・エフィラ 

 イザベル・ユペールが出ている。舞台はパリ。セーヌ河が登場する。しかし「フランス映画」という感じがしない。フランス人を見ている感じがしない。
 なぜなんだろう。
 監督がポール・バーホーベンだった。オランダ人だ。そうか、オランダ人から見るとフランス人はこう見えるのか、と思ってしまった。
 もし私とポール・バーホーベンとのあいだでフランス人に対する「共通認識」があるとすれば「逸脱力」というものかもしれない。私は、この「逸脱力」をフランス人の「わがまま個人主義」と呼んでいるのだが、ポール・バーホーベンは「わがまま」というよりも「自立性」になるかもしれない。
 「わがまま」と「自立性」は、どう違うか。
 「わがまま」は簡単に言うと「他人をまきこむ」(他人に頼る部分がある)。「自立性」は「他人をまきこまない」。
 この映画に則していうと、たとえばイザベル・ユペールの息子や別れた夫、同僚女性の夫は「わがまま」である。好き勝手なことをしながら、イザベル・ユペールに頼っている。息子が極端な例だが、経済的にはイザベル・ユペールに頼りっぱなしである。そのくせ、自分の主張をする。
 同僚の夫なんかもすごいなあ。自分がセックスしたいのに、「おまえの方がセックスしたいんだろう。我慢できないんだろう」というような調子で迫ってくる。これを、許してしまう。受け入れるというよりも、むしろ誘い込んでいる。
 ふつうの(?)フランス映画だったら、ここでイザベル・ユペールの方も「わがまま」を発揮して、他人に頼る。他人の人生をかき乱す。
 でも、彼女はしない。
 レイプされて、犯人を自分で探し出す。それも犯人を警察に突き出すということが目的ではない。ただ犯人を知りたいのだ。どんな欲望が犯人のなかに動いているか、それを突き詰めたいのだ。
 これには父親の過去が影響している。父親は残忍な殺人犯である。なぜ、人を殺したのか。その理由はイザベル・ユペールにはわからない。この映画のなかではイザベル・ユペールは父親を受け入れてはいないが、いつも思い出している。そして、「答え」を探している。「答え」と自分との関係を探しているともいえる。
 イザベル・ユペールは、わりと簡単に犯人を探し出す。そして、そのあとが、またすごい。犯人と共存する。つまり、レイプを再現する。そして、そのときの自分の欲望をも再確認するのである。
 これは、すごい。
 すごいし、ぞっとする。
 こんなふうに「逸脱」していいのかどうか、私にはわからない。何か、私の感じている「人間」というものから完全に「逸脱」しきっている。
 これは一体、なんなんだ。
 そう思ったとき、この映画の主人公が携わっている仕事が重要だと気づいた。
 イザベル・ユペールはゲームソフトの開発をしている。そのゲームは、何やらレイプシーンがあるというか、セックスと暴力が一体になったものである。そのゲームのセックスが影響している、というのではない。
 ゲームは、たぶん一回限りのものではない。リプレイする。なんどもプレイする。そのことが、イザベル・ユペールの「意識」を支配している。リプレイすることで、何かを確かめる。
 ふつう、人間は嫌いなことは再現しない。リプレイしない。
 けれどイザベル・ユペールにとってはリプレイこそが人生なのだ。生き方なのだ。
 彼女の不幸は父親が殺人犯だったことにある。だから、それから逃れるように、父親とは接触していない。けれど、それは表面的なことであって、意識はいつでもリプレイしている。
 このリプレイに関係づけていうと、映画の中に非常に興味深いシーンがある。イザベル・ユペールはレイプされたときのことを思い出す。そのなかで彼女は単にリプレイするだけではなく、一度、犯人に反撃する。ただ犯されるのではなく、男を攻撃する。その瞬間、それはリプレイではなくなる。「空想」になる。「現実」ではなくなる。
 ここが、たぶん、この映画のポイント。
 「現実」を描きながら、どこかで「空想」になっている。「現実」と「空想」の関係のなかで、イザベル・ユペールがもがいている。もがきながら、完全に「自立」している。その「自立」は、異様である。完全に、「人間」を逸脱していると思う。
 この「逸脱」を受け入れることができるかどうか。私は受け入れたくない。ぞっとする。だから最初の感想は★2個。こんな映画は嫌い。私の大好きなルノワールの描く人間から、あまりにも遠い。こんなフランス人とは知り合いになりたくない。
 でも、実際に感想を書き始めると、イザベル・ユペールがその前で動くのである。生身の人間として目の前にあらわれてくる。だからよけいにぞっとするのだが。
 あ、この映画はイザベル・ユペールなしにはできなかったなあと思う。「逸脱」しながら、周囲の人間から浮いてしまわない。「逸脱」しているのに、周囲の人間を「引きつける」。イザベル・ユペールを受け入れるかどうかは、彼女は問題にしていない。彼女が他人を引きつけ、支配する。
 レイプというのは男が女を犯すことだが、その瞬間においても、彼女はレイプを受け入れているのではなく、レイプを主導している。支配している。支配できる「犯人」を手に入れ、リプレイする。リプレイを強要する、と言ってもいいかもしれない。
 そして、そのことを、どうもイザベル・ユペールは「ゲーム」としてとらえている。すべてを「ゲーム」としてリプレイする。この奇妙な「逸脱」の原因を、父親の殺人にもとめると安易な「心理分析」になってしまう。そういうことをせず、ただ「逸脱」を、目に見える「現実」として描ききっている。
 こんな映画は大嫌い。
 でも、見ていると引き込まれる。
 力業の映画である。
                      (KBCシネマ1、2017年08月30日)
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エドガー・ライト監督「ベイビー・ドライバー」(★★)

2017-08-24 10:03:16 | 映画
監督 エドガー・ライト 出演 アンセル・エルゴート、リリー・ジェームズ、ケビン・スペイシー、ジェイミー・フォックス

 オープニングは非常におもしろい。音楽と映像が一体になっている。音楽はイヤホンでアンセル・エルゴートが聞いているものなので、現実には聞こえないはずなのだが、それを観客も聴く。そうすると、観客の「耳」というか、「頭」というか、「肉体」が、そのままアンセル・エルゴートになった感じ。「のり」に感染してしまう。車は、もう車ではなく、走るアンセル・エルゴートの「肉体」。
 音楽がアンセル・エルゴートの「肉体」そのものをかえてしまうのは、車を降りて街を歩くシーンでも再現される。コーヒーを買い、秘密のオフィスにもどるだけなんだけれど、なかなか楽しい。
 私は、この映画でつかわれている音楽にはなじみがないのだが、つかわれている曲を知っている人はもっと楽しいと思う。「のり」に酔ってしまうかもしれない。
 最初のエピソード部分は、★10個のすばらしさ。
 でも、
 まあ、映画の「お約束ごと」なんだろうけれど、ボーイ・ミーツ・ガールの部分から、面白みがなくなる。リリー・ジェームズの好んでいる歌は、車を暴走させる音楽にはふさわしくない。まあ、母親を思い出す、ということで、そういう音楽がつかわれている。「意味」はあるのだが、その「意味」がわざとらしく、重苦しい。
 それを無視してしまえば。
 アンセル・エルゴートと里親(?)の黒人との関係がおもしろい。「耳鳴り」で苦しんでいて、音楽で耳鳴りを消している。ことばは「唇」で読む、ということと里親が口が聞けない、手話で会話するというような部分が、不思議に、映画全体をしっかりと支えている。細部が生きている。「情報」が「情報」でおわらずに、ストーリーとなって動いているところがいい。
 アンセル・エルゴートが録音した「音(声)」をもとに音楽をつくっていくところもいいなあ。ケビン・スペイシーの声が、私はわりと好きである。一度ネットで歌っているのを見たことがあるが、話している声の方が音楽的。その声をミキシングして音楽にする。最後のタイトルバックでも、ケビン・スペイシーの声が聞こえたとも思うが。
 ケビン・スペイシーついでにいうと。
 「ユージュアル・サスペクツ」のころの初々しさ(?)は消えて、すっかり太って、でぶに拍車がかかっている。さらに禿がすすんだのか、カツラで懸命にごまかしている。前からだけではなく、頭の後ろ、カツラのつなぎめ(?)をどう処理しているかまで克明にみせているのが、なんともいえずおかしい。 
                 (t-joy 博多スクリーン4、2017年08月23日)

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セスク・ゲイ監督「しあわせな人生の選択」(★★★)

2017-08-21 09:42:46 | 映画
監督 セスク・ゲイ 出演 リカルド・ダリン、ハビエル・カマラ、トルーマン(犬)

 ガンを宣告された俳優と、その友人のストーリー。俳優は治療を拒否している。死期が近いとわかったら服毒自殺するつもりでいる。でも、そのまえにしたいことがある。何より気がかりなのは、愛犬の将来。飼い主を失ったら犬はどうなるのか。喪失感にとらわれるのか。獣医のところに相談にゆき、里親探しもはじめる。
 それから仲違い(?)した人とは仲直りをし、離れて暮らす息子にも会いたい。これからのことを語りたい。友人は、その手助けのためにカナダからマドリッドにやってきた。その友人との4日間を描いたものだが。
 終わり間際のセックスシーンがすばらしい。
 主人公に「服毒自殺するつもりだ」と告げられて、女友達は怒りだす。カナダの友人はどうしていいかわからない。女友達は怒って家を飛び出す。ところが電話を忘れてきたことに気づきもどってくる。その女と友人が道で出会う。女を引き止め、「こんなふうに怒りの感情を抱いたまま別れるのはつらい」と言う。これは女も同じ。ふたりは、でも、どうしていいかわからない。わからないまま友人のホテルへ行く。そこでセックスが始まる。なぜ、こんなところで、セックスが?
 この伏線が、実は、ある。アムステルダムまで主人公の息子に会いにゆく飛行機の中。主人公の不安に反応して(感応して)、友人がナーバスになる。そのとき主人公が「マスでもかけよ。不安なときは落ち着く」という。セックスには、こういう「忘我」の効能がある。
 主人公が死んでしまうという不安に、友人と女友達はどう向き合っていいかわからない。支えなければいけないとは「頭」でわかっていても、「こころ」がついていかない。どうしても怒りだしてしまう。感情を爆発させてしまう。主人公を傷つけてしまう。それが「こころ」にははっきりとわかる。そうして、ますますどうしていいかわからなくなる。わからないから、不安の中でセックスをする。「忘我」をもとめる。「忘我」をもとめながら、「肉体」はそのとおりに反応するのだけれど、「忘我(エクスタシー)」の瞬間、ふたりとも泣き出してしまう。まるで射精するように泣き出す。
 「肉体」で受け止めるしかないものがある。
 ふたりして泣くことで、ふたりは主人公の死を、受け止める「用意」ができる。もちろん、それは完璧なものではないが(つまり、実際に主人公が死んだら、また苦しみ、悲しむのだと思うが)、なんとなく、これが「生きる」ということなのだとわかる。すこし晴々とする。
 友人がカナダへ帰る日、主人公がホテルへやって来る。友人と女友達が一緒に階段を降りてくる。何が起きたのか、主人公は「わかる」。「そういうことか」という顔をする。起きたことを「受け入れる」。
 生きることは、起きたことを「受け入れる」こと。「受け止める」こと。と、書いてしまうと、「理屈」になってしまってよくないのだけれど。そういうことが、なんとういか、「肉体の欲望」と一緒に描かれるところが、なかなかおもしろい。あ、スペイン人って、こういう人間だったのか、と気づかされる。(主人公はアルゼンチン人が演じているが、舞台はマドリッド。)
 最後の最後、主人公は犬のことでわがままを言う。(犬の名前は「トルーマン」で、これが映画の原題になっている)。ここも、なかなかいい。わがままが言える相手がいるというのはすばらしいことだ。わがままを受け止めてもらえる人がいるというのは、とてもいいことだ。
 ここから振り返ると、さまざまなエピソードが「受け入れ/受け止め」という形で展開していたということに気がつく。アムステルダムでの主人公と息子のハグのシーンなんか、見ていて「あれっ」と思うのだが、その「あれっ」と思ったことが静かに補足説明されるところなんかも美しいなあ。
                      (KBCシネマ2、2017年08月20日)

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ニコラ・ブナム監督「ボン・ボヤージュ 家族旅行は大暴走」(★★★)

2017-08-02 20:30:06 | 映画
監督 ニコラ・ブナム 出演 ジョゼ・ガルシア、アンドレ・デュソリエ

 予告編を見たとき、ロバート・ダウニー・ジュニアがなぜフランス映画に、と思っていたが、フランス人だった。ジョゼ・ガルシア。というようなことは、どうでもいいことだけれど。
 まあ、いい加減なストーリーなのだけれど。
 なるほどフランス人というか、フランス人以外は、こんな行動をしないなあ。行動が、とってもとってもとっても「フランス個人主義」。
 フランス個人主義というのは、人間の関係が常に「一対一」。「個人対個人」。絶対に「組織対個人」というような動きがない。「一対一」のなかで「自己主張」をする。いいかえると「わがまま」になる。
 新車を買った。その新車が故障し、高速道路を暴走する。これって、基本的にメーカーの問題。メーカーの責任。でもフランスでは販売員(ディーラー)と運転者のあいだで「問題」が動き始める。販売店すら出て来ない。メーカーなんて、もちろん出て来ない。メーカーの製造責任なんて、どこにも出て来ない。
 ジョゼ・ガルシアが演じる整形外科医と患者の関係も同じ。医療ミス(?)というのは病院の問題だけれど、そのことに関する追及はない。
 車の暴走の、最初の被害者も、被害を警察に訴える、というような悠長なことをしない。「頭に来た、復讐してやる」と個人で行動する。その「事故」の背景に何があるかなんて、もちろん考えたりはしない。まわりで何が起きているか、そんなことは気にしない。自分の「感情」を優先する。(彼がずっーと映画のなかでは脇役のまま無視されるのは、主人公たちからは「一対一」の関係になっていないからだ。車を壊したのは主人公たちの車だけれど、一家は自分のことに夢中になっていて、彼が存在することを知らない。ほかのひとも、もちろん知らない。彼だけが、最初から最後まで、だれとも「一対一」の関係になれない。)
 警察組織も同じ。暴走する車を助けに行くのは個人。二人なんだけれど、二人は恋人同士。二人で何とかしようとする。「一組」という「一」になって、「家族」の「一」と向き合う。
 最終的に、組織が動き、ヘリコプターも出動するのだけれど、組織がどう動いたかなどはまったく描かれない。事故に気づいた警官が、直属の上司に対して「早く手配しないと、上層部に訴えるぞ」と言うくらい。これだって、組織というよりは、警官対直属の上司、警官隊上司の上司という構造をチラつかせるくらいで、組織そのものが問題に取り組むということではない。直属の上司は、部下との関係をピンポンの勝負(一対一の戦い)で支配している。組織なんて、少しも考えていない。「私の方がピンポンが強い。だから上司なのだ」という感じ。
 フランス人がおもしろいのは、こういう個人対個人という個人主義を生きているくせに(生きているからかもしれないが)、その個人対個人に個人が口をはさむ。あ、その問題なら、私が知っている、という感じ。これが、ことをややこしくする。また、どういうことでも「個人」の問題にして処理してしまうとも言えるけれど。
 イギリス個人主義の場合は、誰もが知っていることでも、問題の個人が「ことば」で語らない限り、絶対に、その関係に入り込まない。コメントしない。
 だから、というのはちょっと「強引」に聞こえるかもしれないけれど。
 映画の最初の方のシーンに、とてもおもしろいキーワードが出てくる。父親(ジョゼ・ガルシア)が娘に向かって、「家に置いていくぞ」と脅す(?)。すると娘は「よかった、やっと一人になれる」と言う。どんな「一人」も常にだれかと「一対一」であることを要求される。だれかと「一対一」であることを拒絶して生きることができない、というのがフランスの個人主義なのである。完全な「孤独」を許されない。
 あ、脱線しすぎたかな。
 ストーリーに戻って「一対一」の「個人主義」に関して言うと。
 フランスの車の運転というのは、もう、勝って気まぐれ。だれもルールを守らない。くねくねくねくね、隙間を見つけて走り回る。これはね、複数の車が「一本」の道路を走っているという感覚がないから。自分の車が走っている。そして、近くにまた別の車が走っているが、それは「自分の車対他人の車」だけの関係。ここで路線を変更して追い抜いたら他の車にも影響する、というようなことは考えない。自分が安全なら、他人の危険なんかどうだっていい。他人の安全が自分の安全につながるなんて、考えない。知ったことではない、というのがフランス人なんだなあ。
 こんなふうだと社会がでたらめになる?
 そうとも言えない。「一対一」を最優先するから、それでは「複数」がいるときはどうするかというと「暗黙の了解」がある。
 暴走する車からの救助では、最初に少女、次にその弟、そのあと若い娘という具合に順番が決まっている。だれも、何の相談もしない。母親は妊婦なのに、ほっておくのか、という問題が入り込むかもしれないが、これだって走る車から走る車への移動はむずかしい、ヘリコプターにまかせよう、ということが、もう「事前に」決まっている。
 基本的なルールが揺るがないから、「一対一」の「わがまま個人主義」がいきいきと動く。

 監督はフランス人の「わがまま個人主義」を描きたかったわけではないだろうけれど、私には、「フランス個人主義」の見本市のように見えた。
                     (KBCシネマ1、2017年08月02日)

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パオロ・ジェノベーゼ監督「おとなの事情」(★★★)

2017-07-27 08:47:37 | 映画
パオロ・ジェノベーゼ監督「おとなの事情」(★★★)

監督 パオロ・ジェノベーゼ 出演 スマートフォン

 三組の夫婦、一人の独身男が集まり、食事会。一組の「新婚」のお祝いを兼ねているのかも。その食事のテーブルで、ゲームが始まる。
 電話がかかってきたらスピーカーをとおして会話する。着信したメールは公開する。みんな親友なのだから「秘密」はないはず。でしょ?
 でもね。
 みんな「秘密」をもっている。それが電話、メールのたびに明らかになって、だんだんそれぞれの夫婦仲があやしくなってくる。愛していることに間違いはないのだけれど、不信感が強くなる。愛は最初は強くてだんだん弱くなるのに対して、不信感は一度持ってしまうと消えることがない。愛とはまったく逆に動く。
 問題は(?)は、このグループにゲイがいたこと。
 一人の男が「女が毎晩写真を送ってくる。スマホが同じだからきょうだけ交換して」と独身男に頼む。で、なんとか「女の写真」問題を乗り越えるのだが。そこへ独身男の恋人からメールがくる。電話がかかってくる。ゲイだった。突然、ゲイを隠していたことになってしまう。みんなの態度ががらりと変わる。「俺はゲイげはない。この電話は俺のではない」と言ってしまうと、クリアしたばかりの「女の写真」の問題が持ち上がってくる。隠していただけに、問題は大きくなる。どうしよう……というどたばたがある。
 ほかは、精力をもてあまし何人もの女に手を出していることがばれたり、フェイスブックの男とメールのやりとりをしていたりという、まあ、「単発」ものというか、話題(?)が他人にはあまり広がっていかない。
 そのなかで、「秘密ではない秘密」がある。高校生の娘から父親に電話がかかってくる。「男友だちの家に誘われたのだけれど、行っていい?」これに対する「答え」がなかなか心を揺さぶる。そうなることが半ば予想できたのだろう、父親は娘にコンドームを渡していた。娘はそのことも電話で語る。「コンドームをくれたのは初めて。どうしてくれたの?」さて。いろいろなことを言うのだが「笑って家に帰れるという自信(?)があるなら、男友だちのところへ行きなさい。そうでないなら、ことわりなさい」というような結論。
 ここが美しすぎて、コメディーになりきれていない。
 のが、残念だけれど。
 このシーンと、ラストシーンが好きだなあ。ゲイの男にはときどき「エクササイズメール」がくる。それがくると何をしていても体操をする。そうすると減量できるというシステム。車を運転して帰る途中、そのメールがくる。橋の上。車をとめて、歩道で体操をはじめる。その律儀なおかしさが、とてもうれしい。
 いろいろあったけど、なんとなく元におさまってめでたしめでたし。いつもとおなじことがつづくだけ。いや、つづけるだけ。それが夫婦。その感じがとてもよく出ている。独身の男に、そういうことを象徴させているのが、軽くていい。
 ほぼ会話だけ、ほとんど一室でのストーリーなのだが、脚本が非常によくできていて、それぞれの登場人物をいきいきとさせている。
                     (KBCシネマ1、2017年07月26日)

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エレノア・コッポラ監督「ボンジュール、アン」(★)

2017-07-15 09:07:11 | 映画
監督 エレノア・コッポラ 出演 ダイアン・レイン、アレック・ボールドウィン、アルノー・ビアール

 エレノア・コッポラはコッポラの妻だという。自らの体験に基づく映画だそうである。そうすると、ダイアン・レインがエレノア・コッポラで、アレック・ボールドウィンがフランシス・コッポラか。うーん、どっちも「実物」より役者の方が美女、美男だな。エレノア・コッポラは、写真も見たことがないから知らないけれど。
 で。
 何が言いたいかというと、「実物」よりも「役者」が「美形」だとしたら、この映画では「現実」が「理想化」されているということ。「理想化」が悪いわけではないが、「理想」ほど退屈なものはない。
 「理想」は裏切られるためにある。「理想」がこわれるたびに噴出してくる「現実」。これが映画に輝きを与える。役者にしたって、「美形」が一瞬「醜悪」になる。あるいは「ブス」が一瞬「美形」にかわる。そういう瞬間って、おもしろいよねえ。
 あの「キャリー」のシシー・スペイシクさえ、ダンスパーティーの「女王」に選ばれた瞬間、「私は美しい」という喜びにあふれた顔になり、「あ、美人じゃないか」と思ってしまうからねえ。
 あ、脱線した。
 スタートは、まあまあ、よかった。
 アレック・ボールドウィンが電話で誰かと話している。「調子はどうだい」みたいな声に、ダイアン・レインが「耳の調子は大丈夫」みたいに答えてしまう。その間合い、それからの展開が自然。実際にあったことなんだろうなあ。リアルだなあ。そのあとダイアン・レインがコンパクトカメラで写真を撮る。細部にこだわり、アップの写真。全体は見た人に想像させる。
 この写真が、映画のあちこちで登場する。
 おもしろいのは、はっきり言ってしまって、この「写真」だけ。細部の拡大。全体はわからない。でも奇妙に充実している。
 でもねえ。写真は、動かない。これが問題だなあ。
 映画も、まったく動かない。
 あ、カンヌからパリまで車で移動する。動いている?
 これは、間違い。映画のなかでは何も動かない。人間は、最初から最後まで「自分」の殻に閉じこもっている。殻を突き破って、新しい人間(感情)が動き始めるわけではない。だから、外部(風景)を動かすことで、ストーリーが動いているようにみせかけているだけ。
 もちろん、このロードムービーを気取った「理想化」と見れば、ほんとうは「何か」が隠されているということになる。「理想」を映画化したのであって、「現実」は、いやはや、たいへんだった。くんず、ほぐれつの、行く先々でのはめをはずしたセックスがあった。ようするに、だれもかれもが浮気し放題だった。でも、それをなかったことにして「理想」の男女の旅行を描いた。
 でもねえ。
 それを感じさせるには、ダイアン・レインは「冷たすぎる」。アルノー・ビアールも色気がなさすぎる。あふれてくるものがない。
 これに比べると、イギリス男が二人でローマを旅しながら「グルメルポ」をやる映画の方がおもしろかったなあ。男二人なのに、妙に「色気」があった。漫才みたいに「物真似ごっこ」をやるところがおもしろかったし、料理もイタリアの方がおいしそうだな。
                     (KBCシネマ1、2017年07月12日)


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マーレン・アーデ監督「ありがとう、トニ・エルドマン」(★★★)

2017-07-10 08:51:47 | 映画
監督 マーレン・アーデ 出演 ペーター・シモニスチェク、サンドラ・フラー

 悪ふざけが好きな父親、生真面目な娘。父親が娘の生き方を心配し、見守り、ちょっかいを出すという映画。
 細部がていねいで、とてもいい。
 特にいいのが、二人がドイツ大使と秘書を名乗って、イースターの準備をしている夫人の家をたずねるところ。娘は「童心」というものをすっかりなくしているからイースターの卵(模様づけ)には関心がない。いやいや作業をしている。その最後に、父親が、「お礼に私がピアノを弾き、娘が歌う」という。娘は仕方なしに歌を歌う。これが投げやり。投げやりだけれど、どこかにほんとうの気持ちが表れてしまう。「自分を信じて、自分に自信を持って」というような歌詞が出てくるが、あ、そういう時代があったと思い出すのである。いまでも仕事をこなし、やり手と思われてはいるが、それは自信ではなく、ある種の「虚勢」かもしれない。自分のしていることが、目一杯とわかっているから、娘はどことなくギスギスしてしまう。
 その直前の、視察先の石油(?)掘削現場近くで、父親が近くの家でトイレを借りるシーンもいいなあ。近くの家の人がリンゴまでくれたりする。まあ、そこには「首にしないで」というような思いもあるんだろうけれど、なんといえばいいのか、人に頼る人の弱さの美しさというものが静かに描かれている。頼っている人を、簡単に見捨てていいのか。娘の仕事はリストラを進める、リストラの方法を企業に教える、いわばコンサルタントなのだが。
 これがあって、イースターの卵づくりへとつづいていく。イースターの卵をつくったからといって誰かがほんとうに幸せになるわけではない。けれど、そういうことをする、みんなで何かを「願う」というところに「しあわせ」というものがあるんじゃないだろうか。人は人を頼りにしている。
 「女子会(?)」で、自分のつまらなかった週末の出来事を自慢し合う、そうやって慰め合うというのも、まあ、それに通じるかもしれない。どこかで自分の弱さをさらけだす。つらかったことをさらけだす。それができることの「しあわせ」。「不幸」なんだけれど、なんとなく「不幸」から吹っ切れる瞬間。
 でも。
 うーん、盛りだくさんすぎる。エピソードが多すぎて、なおかつそのすべてが「ていねい」に描かれていて、映画なのに映画と思えなくなる。それがこの映画の見どころではあるのだけれど、これはつらいなあ。
 ぜんぜんハッピーな感じにはなれないのである。
 娘の誕生パーティー(ヌードパーティー)に、父親が全身毛だらけの着ぐるみであらわれる。公園まで娘が追いかけ、「パパ」と抱きつく。なかなか感動的なのだが、そのあと、着ぐるみが脱げなくなって、父親が近くの事務所(?)に飛び込み、受け付けの女性に着ぐるみを脱がせてくれ、というところなど、そういうことが「事実」であるにしろ、「現実的」すぎて……。

 ペーター・シモニスチェクはすばらしいし、ジャック・ニコルソンがぜひやりたいと言って、リメイクされるみたいだが。つまり、役者にとっては、とってもやりがいのある役どころなのだが、これを3時間も見せられるとちょっとつらい。アメリカ版は、もっともっと整理されて短くなるだろうけれど、でも、そうすると今度は完全に違ったものなるだろうなあといういやな感じもあるし。
 意外と、現実がつらくてつらくてしようがないという人、サンドラ・フラーと同じ立場にいる人には、ぐいっと迫る映画かもしれない。我慢して我慢してエリートであることを維持している人が見ると泣いてしまうかもしれない。でも、そういうひとはこの映画を見ないだろうなあ。見ている時間はないだろうなあ。
                     (KBCシネマ2、2017年07月09日)


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ホセ・ルイス・ゲリン監督「ミューズ・アカデミー」(★★★)

2017-07-06 09:06:28 | 映画
監督 ホセ・ルイス・ゲリン 出演 ラファエレ・ピント、エマヌエラ・フォルゲッタ、ロサ・デロール・ムンス、ミレイア・イニエスタ、パトリシア・ヒル

 ちょっとめんどうくさい映画である。何がめんどうかというと、ことばがめんどう。「意味」がありすぎる。ダンテの「神曲」をテーマに、インスピレーションを与える存在(ミューズ、女性)とインスピレーションを受け「芸術」をつくる存在(詩人、男)について語り合うのだが、現実の存在と芸術は相互に交渉し合うので、じっさいのことろ「境界線」を設定しにくい。その「境界線」の設定しにくい部分を、男(ラファエレ・ピント)と女性の学生が綱渡りしていく。それも「思っている」ことを懸命に「ことば」にしながら。「思っていること」がすべて「ことば」になるわけではないのだが、哲学が主題なので、「ことば」だけが「思っていること」になっていく。でも、その「ことば」(思っていること)のまわりには、どんどん「ことばにならない思い」も増えてくる。「ことば」によって「世界」が明晰になっていくのか、あるいは「ことば」によって「世界」が不透明になっていくのか……。
 これが、スペイン語とイタリア語を混在したまま進んでゆく。さらにイタリアの方言まで侵入してくる。ことばが違えば、現実も違ってくる。そのことが、さらに映画の中の世界を混沌としたものにする。その混沌が、美しいという不思議な現象も起きるから、なおややこしい。
 いろいろ特徴的な映像とシーンがあるが、興味深いのは主人公(教授)と妻との対話。教授の家にいるのだが、手前に妻、奥に夫。妻の手前に、「ガラス」がある。窓? しきり? 何かわからないが、カメラは二人を直接写さない。ガラスに何かが映って反射している。それが二人の映像を、透明だけれど不鮮明にする。
 これは主人公と女性の生徒とのデート(?)でも頻繁に起きる。車のなかで対話している。それをフロントガラス越しに映し出す。フロントガラスには風景が映り込む。ときにはフロントガラスの反射のために二人の表情が見えない。
 こうしたなかで、男(教授)は、まあ、いい加減なことをいいますねえ。ミューズから刺戟を受けて、そのつどかわっていく、新しい「芸術」のなかに突き進んでゆくと言えばかっこいいけれど、簡単に言うと女を自分のものにしたくて「ことば」をかえていくと言った方がいい。新しいスタイルのナンパ。言い寄ってくる(?)女の方も、まあ、男によって「ことば」をかえるんだけれどね。
 で、こうしたことって、つまり「恋愛」って、結局「社交」というか、「都会」のものなんだなあ、と思わせておいて。
 映画は一転、別なものも描く。イタリアのナントカカントカという島。そこへ主人公は女をつれて旅行に行く。フィールドワークというとかっこいいが、まあ、手短な浮気旅行。そこで、女は羊飼いにあう。教授とはぜんぜん違う男。これに引きつけられていく。ここが、なんとも美しい。
 すべてが美しく輝いている。
 羊飼いが3人で歌うコーラスがある。羊の声のよう。実際、羊の声をまねている部分もあるのだが。ハーモニーがそのまま「世界」になる。「ことば」ではなく「ことば以前の音」が「世界」を震わせる。このコーラスによって、女の耳が覚醒する。新しい女が生まれてくる。彼女自身の「肉体」のなかから、あるいは「肉体」のなかへ、という奇妙な言い方をした方が正しいかもしれない。
 耳をすませば、まわりにはいろいろな音がある。小鳥の声だけではなく、木々の梢をわたる風の音も。男がその「音」の存在を知らせる。その、いままで聞いたことのない「音」そのものを「肉体」のなかにいれていくことで、女の「肉体」が官能に開いていく。実際にセックスが描かれるわけではないが、性交シーンよりもエロチックである。見上げる空の高みで揺れる木の葉は女の恥毛である。男の指は風になって、それを渡っていく。
 ここでは羊飼いという「自然」が、都会の女の「ミューズ」になる。男女が逆転する。「自然の男(ことばをあやつらない男)」が女の「肉体」を詩そのものにかえる。「肉体」のなかの、耳の変化が、つぎつぎに他の器官につたわってゆき、その微妙な変化が美しさとなってひろがる。
 その島の方言には「アモール(愛する)」ということばがないと男は言う。女は「ではこの島では男と女は愛し合わないのか」というよう挑発もする。このときも、男が「ミューズ」である。教授はいっしょに旅行しているのだが、いわば「寝取られ男」である。
 で。
 この男と女、詩人とミューズの「逆転」が、最後におもしろい展開を見せる。
 男(教授)の方は、あいかわらず女たらしに過ぎないのだが、女の方は男から得たインスピレーションによって詩人になっていく。「現実」を「写す鏡」なのだが、その「鏡」にはいままでと違った「世界」が映るのである。
 最後に、妻はひとりの女性学生と向き合う。妻にとって夫は、女たらしではあるけれど、けっきょく自分のところへ戻ってくるばかな男だったはずである。つまり、妻はいつまでたっても「ミューズ」であったはずなのだが。女性学生は、教授を「ミューズ」にすることで、「世界」を逆転させる。女性学生が教授を奪い去るのである。女性が「ミューズ」であった時代がおわり、男が女性の「ミューズ」になり、そのことが「ミューズ」のままでいたい古い女(妻)を叩きのめす。破壊する。

 でも、まあ、なんというか。
 これは浮気男の「弁明」映画という側面もあるなあ。
 と、あれやこれや考えると、めんどうくさい。
 こんな面倒くさい映画をとることができるのは、やっぱりラテン系ヨーロッパ人はセックスのことしか考えていないのかなあ、なんて思ったりもするのである。スケベなことしか考えないのに、それを「ことば」をつかって「哲学」にしてしまう。
 そう思ってみた方がよかったのかも。
 「哲学」とはスケベになることである、スケベであることは「哲学する」ことであると言いなおすと、ちょっと楽しいものではある。
                      (KBCシネマ2、2017年07月05日)


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ジョセフ・L ・マンキウィッツ監督「イヴの総て」(★★★)

2017-07-05 15:08:52 | 映画
監督 ジョセフ・L・マンキウィッツ 出演 ベティ・デイビス、アン・バクスター

 うーん、映画を見ているというよりも「小説」を読んでいる感じ。
 台詞回しが、妙にくっきりしている。今の時代と比較してはいけないのだろうけれど、その影響もあるかもしれない。「声」が「演技」をする。もっとも、これは映画の舞台が「舞台」だからかもしれない。舞台は「声」が勝負だからねえ。
 映画としておもしろかったのは、ベティ・デイビスの芝居のポスター。ベティ・デイビスは目と唇に特徴があるが、それを漫画化したポスターが、なんといえばいいのか「漫画」特有の「似顔絵」なのである。
 それと、最初にアン・バクスターが登場するシーンのレインコートもなかなかいい。背中を壁につけて立っていたのだろう。肩甲骨のところが黒くなっている。そこに「リアリズム」が発揮されている。
 あとは「会話(ことば)」のやりとり、騙しあいというか、見栄の張り合いみたいな感じ。
 これは「舞台」で見れば、おもしろいのかもしれない。
 ことばで自己分析したり、他人を分析したりする。そして、その「分析」のなかに溺れてしまうようなところもある。舞台だと、映画の中に出てくる台詞ではないが、ことばが炎になり、音楽になり、空間を飛び交うということになるのだが。
 映画は、「ことば」を聞かせるものではない。
 それに映画というのは、人間の顔を「拡大」してみせるもの。「拡大」された表情の細部に「感情」を読み取るもの。
 でも、こんなに「ことば」がくっきりしてしまっては、「拡大された顔(表情)」に「感情」を感じ取る前に、「意味」がことばといっしょに走り回ってしまう。
 「意味」が好きな人はいいかもしれないが、私は「意味」に興味がないので、この「複雑」に入り組んでいく「人間関係」が、どうもみていて面倒くさいものに感じてしまうのである。
            (中洲大洋、午前十時の映画祭8、2017年07月03日)


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アンジェイ・ワイダ監督「残像」(★★★)

2017-07-02 19:00:24 | 映画
監督 アンジェイ・ワイダ 出演 ボグスワフ・リンダ

 前衛画家ブワディスワフ・ストゥシェミンスキの生涯を描いている。私はブワディスワフ・ストゥシェミンスキの絵を見たことがない。あるかもしれないが、名前と絵が一致しない。そのせいもあって、どうもピンとこない。
 映像として美しいなあと感じたのは、予告編にもあった室内が赤く染まるシーン。窓の外にスターリンの肖像を描いた巨大な垂れ幕が掲げられる。垂れ幕の赤い色を通して光が入ってくるので部屋が赤くなる。
 このときの赤い光というか、ものを覆っていく、ものを染めていくときの感じが、実在の色というよりも、嘘を含んでいる「弱さ」のようなものがあって、とてもおもしろい。その色を拒絶するように、主人公は垂れ幕を破る。自然の光が赤い垂れ幕越しに、さーっと部屋の中に入ってくる。このときの印象も美しい。
 もうひとつ。主人公が妻の墓に青い花を捧げるシーン。白い雪と、青い花の色の対比が美しい。まるでモノクロ映画のなかで花の青だけ着色したようだ、と予告編を見たときに思っていた。
 そうしたら。
 あの青い花は、実際に着色した花だった。直前に白い花を青いインク(?)に浸し青くするシーンがある。あっ、これが墓に飾られるのだな、とそのときわかるのだが、この青の色が絶妙。下地が白。そこに重ねられた青。このため、雪の白に非常によくなじむのである。
 いやあ、美しい。
 そして、悲しい。
 主人公には、「青」が「残像」として残っている。妻の瞳の色。それは主人公の瞳の色でもあるのだが、主人公には自分の瞳の色は見えない。(娘から、お父さんも青いと言われるシーンがある。)あの青い花は、だから妻の瞳の色であり、主人公の妻を見つめる瞳の色でもある。
 それが「人工」のなかで出会っている。この「人工」を芸術と言ってもいいのかもしれない。芸術とは「現実」を切り開き、整える「視点」のことである。
 予告編になかったシーンでは、妻(娘の母)の葬儀のとき、娘が「赤いコート」を着ている。この赤はスターリンの垂れ幕の赤とは違って、もっと深くて強い。そのコートを見て、墓地に来ていた人が「母親の葬儀に赤いコートなんて」と言う。娘は「これしかないのよ」と反論した後、コートを裏返しにする。裏地が黒い。
 このシーンは、私たちがみている「色」というのは何なのかを考えさせてくれる。
 映画の最初に、ブワディスワフ・ストゥシェミンスキの「認識論」というか「芸術論」が語られている。「認識したものしか人は見ない」。「赤いコート」の「赤」の「認識」は、ただそのコートが「赤い」ということではない。葬儀のときは「黒い」服を着るという「認識」があるから、娘の着ているコートが「赤く」見える。葬儀のときは「黒い」服を着るものである、という「認識」がなければ、娘の着ている「赤」は認識されなかったはずである。だから、娘がコートをぱっと裏返し、「赤」を「黒」に変えるのは、一種の「認識」のぶつかりあいなのである。裏地はほんとうは「黒」でないかもしれない。焦げ茶だったかもしれないし、黒に近い紺だったかもしれない。「赤」をひっくり返して(裏返して)隠したときに、そこに「黒」が認識される。
 このシーンが、この映画のなかでは、一番のポイントである。
 「黒く」見える。しかし、それはほんとうに「黒」なのか、「赤」が否定されたために「黒」に見えたのか。
 ここから「政治(体制)」と「芸術」の問題もとらえなおすことができる。
 ある作品が政治的に利用されたり、批判されたりする。それはなぜなのか。「芸術」その自体が持っている「色(認識)」は何なのか。鑑賞者は、それをどう「認識」するか。
 ここから先のことを考えようとすると。
 私はつまずく。
 象徴的なシーンは、予告編にもあった壁画(レリーフ)をこわすシーンである。壁画は主人公の意図としては「搾取への抗議」である。しかし、権力はそうは認識しない。ブワディスワフ・ストゥシェミンスキは体制を批判している(体制に与しない)という「認識」で、作品そのものをも否定する。
 さてさて、むずかしい問題である。
 ブワディスワフ・ストゥシェミンスキを知らない。
 ということもあって、★3個。
 ブワディスワフ・ストゥシェミンスキに詳しい人の感想を聞きたい。

 欲を言うと。
 先に書いたことと関係があるのだが、「色」の変化が「赤」と「青」を通して描かれるのだが、もう少し他の「色」の変化も視覚化してほしかった。
 たえば、主人公に思いを寄せる女子学生の「視覚」のなかで「色」はどうかわったか。彼女は、どう「色」を変えることを知っていたか。あるいは主人公の友人の詩人の「視覚」のなかで「色」はどう変わったか。そういうものを描いてほしかった。
 タイトルには「黄色」が有効につかわれていたが、ブワディスワフ・ストゥシェミンスキにとって「黄色」は重要な色なのか。それは何を「認識」したものなか。そういうことも気になった。
                     (KBCシネマ1、2017年07月02日)

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アスガー・ファルハディ監督「セールスマン」(★★★★)

2017-06-28 19:58:56 | 映画
監督 アスガー・ファルハディ 出演 シャハブ・ホセイニ、タラネ・アリシュスティ、ババク・カリミ

 映画と、映画の中の芝居(セールスマンの死)が交錯する瞬間がある。それが「謎解き」の補助線になっているかというと、そうでもない。無関係なのに、ある瞬間「感情」というか「意識」が重なり、ぶつかり、噴出する。「芝居」なのに「現実」が「芝居」を乗っ取ってしまう。
 でも、これが「伏線」である、といえば「伏線」なのだ。「事件」そのものとは無関係なのだが、思いもかけないものが、瞬間的に「事実」になる。そして感情が動く。その感情の動きを人間は制御できない。
 うーん、文学的。映画的、というよりは、ね。

 隣に座っていた60代くらいのおばさん二人組。「何がいいたいのか、さっぱりわからない」を二人して繰り返していた。あ、そこが「文学」なんですよ。文学は「わからない」ことを考えるためのもの。「わかった」ら文学ではないのです。そこが、映画とは違うところ。

 とは、いいながら。
 アスガー・ファルハディにしては、この作品は、とてもわかりやすい。「おばさん、どこがわからなかったの?」と聞き返したい気持ちをぐっと抑える私でした。

 最初に書いたように、「芝居」と現実が重なる。
 「芝居」ではセールスマン(夫)と妻が、金が思うように手に入らなくて、いらいらし感情をぶつけ合う。感情の行き違いがある。これはレイプされた妻と、レイプ事件を解決したいと思っている夫との感情の行き違いと重なるのだけれど。
 そのときの「小道具」がおもしろい。妻は靴下をとりつくろっている。「靴下なんか、いつまでもつくろうな」と夫は怒る。夫は、寝室に落ちていた靴下を思い出しているかもしれない。で、この靴下が、クライマックスでもう一度出てくる。夫が、犯人と思っている男を問い詰める。犯人と思っている男の義理の父。その過程で、靴を脱げ、靴下も脱げ、という。すると……。傷を手当てしていた足があらわれる。犯人だ。
 ここ、うまいねえ。脚本が非常に巧みだ。
 もひとつ。部屋を紹介してくれた芝居仲間。彼は、その部屋の前の住人が娼婦だったということを隠している。また、主人公の妻がレイプされたらしいということを、周辺の住民から聞き出して知っている。そのことに対して主人公は怒りを爆発させる。「芝居」のなかで、セールスマンが上司と激突するシーンに重ね合わせて、「台詞」以外のことを言う。「アドリブ」なのだが、それが「アドリブ」であるとわかるのは、芝居に精通している人だけであり、観客は「芝居」そのもの一部と思う。
 これもクライマックスと重なる。主人公は「違うストーリー」を思い描いている。ところが話している内に「想像していたストーリー(予定のストーリー)」とは違ったものが動き始める。主人公を訪ねてきた男(老人)も、「予定外のストーリー」にぶつかり、おたおたとする。そして「地」がでる。つまり「事実」が、そこに噴出してきてしまう。
 そして、さらに。
 この思いがけない「ストーリーの破綻(事実の噴出)」があり、「新しい事件」が起きる。そのとき、それまで、そこで動いていた「感情」、かろうじて繋がってきていた主人公と妻の「感情」を決定的に破壊してしまう。「破綻」が取り返しのつかないものになってしまう。
 この結末は結末で、ある意味、「セールスマンの死」と重なる。夫は死亡し、その保険金でローンの支払いを終える。金銭問題は片づいた。しかし、「愛」はそのとき破綻している。愛し合おうにも、一人は死んでしまった。
 さて。
 おばさん二人が悩んでいたのは、私がこれから書く「難問」とは違うと思うのだが、「わけのわからない文学」の問いは、この映画の最後に、ぱっと提示される。問いかけられる。
 さて、死んだのは主人公? それとも妻? どっちの感情が決定的に死んでしまった? 二人とも死んでしまった、というのは「安直」な答えだなあ。どちらが、どちらを殺した?という形で問い直すと、ね、安直さがわかるでしょ?
 原因はどっち? 夫? 妻?
 映画のなかで「現実」として死ぬのは、主人公を訪ねてきた老人。でも、彼が死ぬ原因は? 主人公のせい? 妻のせい? 老人自身のせい? わかりませんねえ。
 はい、悩みましょうね、みなさん。
                      (KBCシネマ1、2017年06月28日)

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フランソワ・トリュフォー監督「突然炎のごとく」(★★★★)

2017-06-21 20:59:26 | 映画
監督 フランソワ・トリュフォー 出演 ジャンヌ・モロー、オスカー・ウェルナー、アンリ・セール

 男二人に女一人。
 この三角関係は深刻なのか、深刻でないのか。
 途中に出てくるエピソードが興味深い。アンリ・セールがバーで昔の女に出会う。女はアンリ・セールに恋愛遍歴を延々と語る。その会話を耳にもとめず、アンリ・セールの友人たち(男)がつぎつぎにやって来て、あいさつして去っていく。自分の関係しない女がどんな恋愛遍歴を語っていようが、そんなものは関係がない。それがフランスの男。それよりも男同士の友情の方が大切。もっぱら、相棒(オスカー・ウェルナー)はどうしている?というようなことを聞く。まあ、儀礼的なあいさつなんだけれど……。
 しかし、うーむ、と私は考える。
 この映画は、親友の男二人が、一人の女に振り回される。しかも、女は「傷つけられているのは私だ」と思っている。男二人のあいだを行き来しながら、別な男ともセックスをする。理由は? たぶん、男二人によって「傷つけられているから」。
 これって、どういうこと?
 なかなかフランス人の「恋愛感情」はわからない。女の感情だけではなく、男の方の感情もわからないのだが。
 キーワードは「傲慢」だろうなあ。
 オスカー・ウェルナーとアンリ・セールは、どこかの島の石の「女神」に魅了される。その「女神」の唇が「傲慢」をあらわしているからである。「傲慢」とは、自己主張の強さということかもしれない。ジャンヌ・モローの唇は、この「女神」の唇に似ている。「傲慢」である。
 そして、彼女の恋愛も「傲慢」である。「傷ついているのは私、あなたではない」。このときの「あなた」というのは、入れ替わる。入れ替わることによって、一人ではなく二人が、さらにそれ以上の男がジャンヌ・モローを傷つけている、という主張に換わる。
 男は女を傷つけてはいけない。特に恋愛においては女は絶対に尊敬されるべき存在であって、傷つけてはいけない。侮辱してはいけない。これは「フランス恋愛術」の鉄則。それを女の方からも要求してくる。これを私たち男のことばでは「傲慢」と呼ぶのだが、フランスの女は「当然の権利(自然な欲望)」ととらえている。
 で。
 で、なのである。
 フランソワ・トリュフォーは、これを批判しない。むしろ喜んで受け入れる。このフランス女の欲望は美しい、と。フランソワ・トリュフォーはフランス女になりたかったんだなあ、と思う。
 ジャンヌ・モローは私の意見では「美人」ではない。特に、あの、への字に下がった唇の両端が醜い。しかし、これがフランソワ・トリュフォーにかかると「美人」の条件である。自分の魅力に気がつかない男は、その「傲慢」な唇で拒絶する。気に入った男にだけ、口角をあげ、「女神/女王」の笑顔を見せる。拒絶と受け入れを交互に繰り返し、男を支配する。男を支配する「力」をもった存在。それが「美人」の条件である。フランソワ・トリュフォーにとっては。
 私は「突然炎のごとく」ははじめてみたのだが、この映画で展開される「美人観」というか「女性観」からフランソワ・トリュフォーの映画を見直してみる必要があるかもしれないと思った。たとえば「アデルの恋の物語」はかなわない恋を生きて死んでいった女の「悲劇」ではなく、最後まで自分の「恋」をつらぬいた「傲慢」な女の物語であり、「傲慢」ゆえに彼女は「美人」になったのだ。捨てられてもあきらめない。思い込んだ男は自分のものと言い張り続けるのはたしかに「傲慢」である。他者の意見を聞かないというのは「傲慢」である。だから、「美しい」。
 あ、こういう女につきあうのむずかしい。疲れる。きっと。だからフランスの男たちは男同士で寄り添うんだろうなあ。男同士の友情では、どちらかが「傲慢」ということはありえない。「尊敬」しあう。
 でも、この「なれあい」みたいなべたべた感が、女に「傲慢」を求める潜在的な欲望を生んでいるのかもしれない。女の「傲慢」を通して、「傲慢」の本質的なもの、絶対性に触れる。触れたい。触れることで絶対的なものとひとつになる。つまり自分自身も絶対になる。輝かしさを手に入れる。

 あ、何を書いているかわからなくなってきたけれど。

 どうでもいいか、私はフランス人じゃないのだから、というか、フランス人は面倒くさいなあ、と見終わって思うのだった。
       (「午前10時の映画祭8」、中洲大洋スクリーン4、2017年06月21日)

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ルキノ・ビスコンティ監督「家族の肖像」(採点不能)

2017-06-20 11:00:47 | 映画
監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 バート・ランカスター、シルバーナ・マンガーノ、ヘルムート・バーガー

 06月18日にKBCシネマ2で見た。予告編のときから懸念していたのだが、この劇場は4Kデジタル版の上映に向いていない。映像が暗い。
 「家族の肖像」は公開年(39年前らしい)に岩波ホールで見た。そのときの印象は★5個。傑作である。
 どこが傑作か。
 映画は「室内劇」。主な場所は教授の書斎。本がびっしり壁面を埋めている。そのあいだに「家族の肖像」の絵がある。色調は茶色が主体。赤と黒がまじっている。私はこの映画を見るまで、こういう色が美しいとは思わなかった。しかし、これが美しい。重みというか、落ち着きというか、何か動かない印象がある。動かないのだけれど、奥に強いものが存在している。存在を貫くものがある。
 もしかすると「血の色」に似ているかもしれない。「肉体」のなかを流れている「鮮血」ではなく、「肉体」から流れ出て、こびりついた「血の色」。実際にこびりつき、乾いてしまった血は黒くなると思うのだが(そういう記憶があるが)、まだ乾ききる前の、「流れ(動き)」を残した血の色という感じかなあ。
 あるいは「肉体」のなかにまだ流れているとしたら、老人の「肉体」のなかの、澱のたまった血というのか。澱んでいる。けれど流れる力をどこかに秘めている。不思議な艶やかさがある。
 そこに新しい「血」が流れ込んでくる。かき乱される。苛立ちながらも、何か輝きがある。それは「古い血」が流れ始めて輝くのか、「古い血」に闖入してきた「新しい血」が澱みにとまどいながら、それまでとは違った奇跡を見せるための変化なのか。
 よくわからない。
 けれど、殴られて唇を切り、血を流すヘルムート・バーガーに、バート・ランカスターが触れるシーンなんか、ぞくっとするねえ。血の不思議さ。傷つき、血を流し、血に汚れることで逆に輝くヘルムート・バーガー。あのとき、バート・ランカスターは、どういうつもりで血を拭き取っているのだろう。血を拭き取ったあとの方が美しいと思ったのか、血に汚れているときの方が美しいと思ったのか。
 あ、単に、傷ついているから治療しなければと思っただけ?
 いやあ、私は「妄想派」なので、あれこれ想像してしまうのである。
 バート・ランカスターは、ヘルムート・バーガーの裸を見ている。シャワーを浴びている。女とセックスしている。男がもうひとりいる。でも、それは全部見ているだけ。傷の手当てをするときだけ、触れている。顔を近づけ、その血を見ている。血を拭き取り、血の下からあらわれる肌を見ている。
 うーん。
 途中に絵の手入れをするシーンがある。よごれを拭き取り、新しくワックスを塗る(?)。そのときの手つきに似ているなあ。ただ、いとおしい。バート・ランカスターは、ヘルムート・バーガーを大切な「芸術品」として見ている。あつかっている。いや、ただいとおしい存在として向き合っている。ことばにならない愛が動いている。
 これは逆に言えば、「家族の肖像」を失ってはならない「大事ないのち」と見ているということでもあるんだけれど。
 これがねえ、岩波ホールで見たときは、スクリーン全体の色調として、劇場にあふれてくる。あのとき岩波ホールの壁は、幾冊のもの本と絵、赤茶色の壁紙がはりめぐらされていたのではないのか。そんなふうに、まるでバート・ランカスターの書斎にいる気持ちになってくるんだけれど、KBCでは違った。不鮮明で、よく見えない。
 部屋の改装の影響で壁面が水で濡れる。そのとき色の変化。キャンバスの裏がしめった感じ。そのぞっとするような悲惨さ。そういうものも、見えない。私は視力がどんどん落ちているので、その影響があるかもしれないが、どうもよくない。部屋の外にいて、鍵穴から室内を覗いている感じ。
 後半に出てくる上の階の改装した室内、白を基調とした輝きや、瞬間的に出てくるドミニク・サンダ、クラウディア・カルディナーレの鮮明な輝きも、何だか凡庸に見える。
 他の映画館ではどうなのだろう。映画は映像の美しさがいのちだと思う。もっと映像の美しさに気を配って上映してもらいたい。色調を正確に再現できないなら上映をあきらめるくらいの決断をしてもらいたい。
                      (KBCシネマ2、2017年06月18日)

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