リドリー・スコット監督「エイリアン コヴェナント」(★★)
監督 リドリー・スコット 出演 マイケル・ファスベンダー、キャサリン・ウォーターストン
マイケル・ファスベンダーが善と悪の二役って、あ、これはもう「ターミネーター」じゃないか。「エイリアン」じゃなくて、「ターミネーター コヴェナント」。「コヴェナント」なんていうことばの意味は知らないけれどね。
この続編はきっと、「エイリアン」をつくりだしたアンドロイドの動きを阻止するために、未来からあたらしいアンドロイドがやってくる、という映画になるなあ。
創造に目覚めたアンドロイドが、完璧な生命体とは何か、と考え始める。理想(?)とする生命体の中に入り込みながら、DNA(?)を吸収し、自分を作り替えながら成長する、というのはなかなかおもしろいテーマというか、ストーリーだが、どうもうまく生かされていない。
ストーリー(意味)が単純に二極化されているためである。善と悪は、愛と憎しみということばに言い換えられている。それが美と醜という形で視覚化、聴覚化されている。
初代アンドロイドは、善というか、「完璧」なのものを教えられた。この世界には「完璧」がある。それを具現化しているのが初代アンドロイドである。でも、初代アンドロイドは、それをつくった男に愛されなかった。男が愛しているのは「完璧」なもの、たとえばワーグナーの音楽だった。アンドロイドに求められているのは「完璧」を再現し、提出すること。それが「仕事(義務)」だった。自分が愛されているわけではないと知ったアンドロイドが、愛に飢え、憎しみをつのらせていく。と書けば、これは「フランケンシュタイン」にもなるなあ。「フランケンシュタイン」が下敷きになっていることは、バイロンやシェリーが登場してくるところからも推測できる。
映画好きには「ターミネーター」を、文学好きには「フランケンシュタイン」を連想させるというのが、狙いかもしれないけれどね。
あるいは、映画にしろ何にしろ、あらゆる「芸術」というのは、何かに「寄生」しながら、「母体」を破壊し、生まれかわかることという「哲学」を語っているのかもしれない。「芸術」がそういうものであるから、リドリー・スコットが「ターミネーター」に寄生し、「フランケンシュタイン」に寄生し、「エイリアン」を改良していくのは、ごくごく自然なことなのであるけれど。
どうも、ストーリーがというより、ストーリーを動かす「思考」が見え透いている。
この「見え透いている」部分を、どう破壊するか。思いもかけなかったことを「映像」として提出するか、何を「破壊」するか、がいちばん問題なのだけれど。破壊することで、観客の「肉体」をどう刺戟するかが問題なのだけれど。「頭」にこのパズル解けるというような信号をいくら送られてもねえ。
新しいことは、何もない。宇宙船をコントロールする「マザー」というコンピューターは「2001年宇宙の旅」の「HAL」そのものだし。エイリアンはすでに見ているし、体に侵入して、体を突き破って生まれるというのも見ているし、エイリアンを船外機に誘い出し宇宙に放出するというのも見ているし。いや、すでに「醜い」ものが「美しい」ものを凌駕して、こころを引きつけるというのは、「エイリアン」の出発点そのものであったしなあ……。
初代アンドロイドのマイケル・ファスベンダーが次世代アンドロイドのマイケル・ファスベンダーにキスして始まる「混乱(闘争)」が、カンフー映画みたいになってしまったことが失敗なのかなあ。アンドロイドだから「混乱」しないというのが「基本」なのかもしれないが、「愛」というのは「混乱」から始まるものだからねえ。「混乱」のなかから、何を選び、自分を変えていくかが「愛」にとっていちばんおもしろい部分なのに、そこが省略されている。単なる「破壊ごっこ」(相手を殺す)に終わっている。
いや、ラストシーンは違うぞ、という意見もあるだろうけれど、(透明カプセルに入ったエイリアンの胎児を口から出産するというのは、ちょっと新しいグロテスクだけれどね)、でもこの「ご都合主義」がいちばんおもしろくない。キャサリン・ウォーターストンが見たものは(気づいたことは)、アンドロイドが彼女を守ってくれていた(愛していてくれた)アンドロイドなのか、それとも初代のアンドロイドなのか、あるいは彼女を守ってくれていたアンドロイドの内部で何かが新しく生まれたのか(変質したのか)を観客にまかせて、「続編がありますよ」というのは、安直すぎる。
(2017年09月23日、中洲大洋1)
*
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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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監督 リドリー・スコット 出演 マイケル・ファスベンダー、キャサリン・ウォーターストン
マイケル・ファスベンダーが善と悪の二役って、あ、これはもう「ターミネーター」じゃないか。「エイリアン」じゃなくて、「ターミネーター コヴェナント」。「コヴェナント」なんていうことばの意味は知らないけれどね。
この続編はきっと、「エイリアン」をつくりだしたアンドロイドの動きを阻止するために、未来からあたらしいアンドロイドがやってくる、という映画になるなあ。
創造に目覚めたアンドロイドが、完璧な生命体とは何か、と考え始める。理想(?)とする生命体の中に入り込みながら、DNA(?)を吸収し、自分を作り替えながら成長する、というのはなかなかおもしろいテーマというか、ストーリーだが、どうもうまく生かされていない。
ストーリー(意味)が単純に二極化されているためである。善と悪は、愛と憎しみということばに言い換えられている。それが美と醜という形で視覚化、聴覚化されている。
初代アンドロイドは、善というか、「完璧」なのものを教えられた。この世界には「完璧」がある。それを具現化しているのが初代アンドロイドである。でも、初代アンドロイドは、それをつくった男に愛されなかった。男が愛しているのは「完璧」なもの、たとえばワーグナーの音楽だった。アンドロイドに求められているのは「完璧」を再現し、提出すること。それが「仕事(義務)」だった。自分が愛されているわけではないと知ったアンドロイドが、愛に飢え、憎しみをつのらせていく。と書けば、これは「フランケンシュタイン」にもなるなあ。「フランケンシュタイン」が下敷きになっていることは、バイロンやシェリーが登場してくるところからも推測できる。
映画好きには「ターミネーター」を、文学好きには「フランケンシュタイン」を連想させるというのが、狙いかもしれないけれどね。
あるいは、映画にしろ何にしろ、あらゆる「芸術」というのは、何かに「寄生」しながら、「母体」を破壊し、生まれかわかることという「哲学」を語っているのかもしれない。「芸術」がそういうものであるから、リドリー・スコットが「ターミネーター」に寄生し、「フランケンシュタイン」に寄生し、「エイリアン」を改良していくのは、ごくごく自然なことなのであるけれど。
どうも、ストーリーがというより、ストーリーを動かす「思考」が見え透いている。
この「見え透いている」部分を、どう破壊するか。思いもかけなかったことを「映像」として提出するか、何を「破壊」するか、がいちばん問題なのだけれど。破壊することで、観客の「肉体」をどう刺戟するかが問題なのだけれど。「頭」にこのパズル解けるというような信号をいくら送られてもねえ。
新しいことは、何もない。宇宙船をコントロールする「マザー」というコンピューターは「2001年宇宙の旅」の「HAL」そのものだし。エイリアンはすでに見ているし、体に侵入して、体を突き破って生まれるというのも見ているし、エイリアンを船外機に誘い出し宇宙に放出するというのも見ているし。いや、すでに「醜い」ものが「美しい」ものを凌駕して、こころを引きつけるというのは、「エイリアン」の出発点そのものであったしなあ……。
初代アンドロイドのマイケル・ファスベンダーが次世代アンドロイドのマイケル・ファスベンダーにキスして始まる「混乱(闘争)」が、カンフー映画みたいになってしまったことが失敗なのかなあ。アンドロイドだから「混乱」しないというのが「基本」なのかもしれないが、「愛」というのは「混乱」から始まるものだからねえ。「混乱」のなかから、何を選び、自分を変えていくかが「愛」にとっていちばんおもしろい部分なのに、そこが省略されている。単なる「破壊ごっこ」(相手を殺す)に終わっている。
いや、ラストシーンは違うぞ、という意見もあるだろうけれど、(透明カプセルに入ったエイリアンの胎児を口から出産するというのは、ちょっと新しいグロテスクだけれどね)、でもこの「ご都合主義」がいちばんおもしろくない。キャサリン・ウォーターストンが見たものは(気づいたことは)、アンドロイドが彼女を守ってくれていた(愛していてくれた)アンドロイドなのか、それとも初代のアンドロイドなのか、あるいは彼女を守ってくれていたアンドロイドの内部で何かが新しく生まれたのか(変質したのか)を観客にまかせて、「続編がありますよ」というのは、安直すぎる。
(2017年09月23日、中洲大洋1)
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