goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ピーター・ランデズマン監督「ザ・シークレットマン」(★★★★)

2018-03-15 10:08:45 | 映画
ピーター・ランデズマン監督「ザ・シークレットマン」(★★★★)

監督 ピーター・ランデズマン 出演 リーアム・ニーソン、ダイアン・レイン

 現代は「マーク・フェルト」。FBI副長官であり、ウォーター・ゲート事件の「ディープ・スロート」である。
 ウォーター・ゲート事件を引き起こしたのは大統領であり、捜査を妨害しているのは権力だと「内部告発」をする。
 これを見ながら思ったのは、いま日本で起きている「森友学園」事件である。「文書改竄事件」と呼んでしまうと、「ウォーター・ゲート事件」を「盗聴事件」と呼ぶのに似てくる。「事件」が非常に狭い範囲に限定される。「改竄」「盗聴」に限定され、その背後で動いているものが見えなくなる。
 「森友学園事件」は、まさにそういう展開になろうとしている。文書を改竄したのは佐川であり、佐川が保身のために動いた。国会答弁と文書の間に「齟齬」が生じれば、佐川が嘘をついたことになるので、それをごまかすために改竄したということになる。
 なぜ、「文書は廃棄した(存在しない)」と言い張ったのか。そう言わざるを得なかったのはなぜなのか。その追及がおこなわれないことになる。
 映画にもどる。
 マーク・フェルトは、頻繁に、FBIは独立機関である。行政機関の指示は受けないと強調する。「犯罪は許さない」という強い信念がある。そして、新しいFBI長官が大統領にべったりであり、捜査に非協力的であるとわかると、「内部告発」に踏み切る。情報をリークし、さらにそれがどんな「意味」をもつのかまで、記者に教える。ただ情報をリークするだけではだめなのだ。
 一方、「内部告発者」がフェルトであると特定されないようにするため、部下に嘘もついている。「内部告発社」として誰それがうわさされている、というようなことまで言ったりする。
 うーむ。
 日本に、ここまで決意をもって「内部告発」できる人間がいる。自分の仕事に対して信念を持っている人間がいるか。
 その一方で、この映画はFBIの「裏側」も描いている。集めた情報には、人に知られたくないこともある。「秘密」がある。それをちらつかせて、人を動かす。「妻ではない女性と一緒に行動していた。女性ではない愛人がいる」とかの「情報」を公開する(妻に知らせる)と脅すのである。
 こういうことは、日本の場合、「捜査機関」ではなく、もっと別なところでおこなわれているかもしれない。
 与党第二党の、あまりにも自民党べったりの言動を見ていると(自民党内部からさえ、内閣批判、財務省批判が出ているのに、批判しない)、これは「知られたくない情報」をちらつかせて圧力をかけられているのではないか、と疑いたくなる。
 あ、ついつい、脱線してしまうなあ。
 映画そのものとしては、「音」の使い方がおもしろい。「盗聴」が映画のもう一つのテーマであることと関係しているのだが、背景に複数の声が流れる。ニュースであり、テレビのなかのコマーシャルであったりするのだが、そのなかから「必要」なものをピックアップして「情報」にする。「声」(音)というのは、「映像」以上に「事実」を語るときがある。「ことば」には「映像」とは別の「論理」があるからだろうなあ。
 「劇的」なことを「劇的」にせず、たんたんと描いている。それがそのままマーク・フェルトの「姿」に重なる。
 リーアム・ニーソンはスピルバーグの「リンカーン」役をことわったけれど、彼が演じていたらどういうリンカーンになったかなあ、というようなことも考えた。
 (t-joy 博多スクリーン10、2018年03月14日)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

コンカッション [SPE BEST] [DVD]
クリエーター情報なし
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ギリーズ・マッキノン監督「ウイスキーと2 人の花嫁」(★★★★★)

2018-03-09 21:33:33 | 映画
ギリーズ・マッキノン監督「ウイスキーと2 人の花嫁」(★★★★★)

監督 ギリーズ・マッキノン 出演 グレゴール・フィッシャー、ナオミ・バトリック、エリー・ケンドリック

 あ、この手のタイプの映画は、一番好きな映画だなあ、と見ながら思った。
 何が好きか。
 役者がのびのびしている。楽しんでいる。「作品の意図」というのはどういう作品にでもあるだろうけれど、それはそれとしてそれに縛られない。好き勝手というのではないけれど、こういう「役」はこれくらいでいい、という軽い感じ。「役」を演じると同時に「自分」を解放する。
 ちょっと「堅物」の「大尉」が出てくる。島民に規律を守らさせようとしている。妻が、そこまでしないていい。もっとみんなに溶け込んでほしいと思っている。で、妻からもちょっとばかにされている。いいようにあしらわれている。こういう「役」で自分を出すというのは、なんというか、「ばか」をさらけだすようであまり「特」とはいえないのだが、軽く立ち回っている。
 もちろん、そういう「損」な役以外の人は、もっと楽に演じている。いっしょに「作品」を楽しんでいる。「共同体」をつくっている。ルノワールとか、タビアーニ兄弟の映画には、こういうのが多いなあ。ウディ・アレンの「世界中がアイ・ラブ・ユー」も、そうだなあ。役者と知り合いになった気持ちになる。この人、知っている、という感じ。
 で。
 ウィスキーにまつわる映画で、飲むシーンもとっても多い。それが、とてもいい感じ。いいなあ、飲みたいなあ。ピートの香りの違いが楽しいだろなあ、なんて思うのだが。
 クレジットの最後の最後に、「撮影中は飲んでいません」という註釈が出る。
 えっ、うそだろう。飲んでるから「飲んでいません」というんだろう、とツッコミたくなる感じなんだなあ。
 と、書けば、たぶんこの映画の楽しさがわかる。

 ということとは別に、私がこの映画が好きな理由はもう一つある。
 舞台はスコットランドの島なのだが、海の色がとても美しい。スコットランド(イギリス)やアイルランドの海、空気の感じは、私が育った海の感じに似ている。見ていて、なつかしく感じられる。これが海の色だよなあ、こういう湿気のある空気なんだよなあ、と思う。
 最初の海の色は、氷見沖(富山湾)にある虻が島のまわりの海の色に似ている。ちょうど寒流と暖流が交錯するようなところなのだが、その「寒流」の色に近い。あ、この色、見たことがある、となつかしくなる。
 昼の海も、夜の海も、太平洋や地中海とは違う。
 ものに対する「感性」は、大人になるまでにつくられてしまうんだなあ、と思う。
 この映画の舞台の島の人は、やはり、やっぱりここで「感性」をつくる。ウィスキーを飲まないこどもまで、ウィスキーの「文化」を身につけて育つ。飲み始めてからウィスキーを知るのではなく、飲む前からウィスキーが「いのちの水」であることを知る。
 そして、その「感性」が共有される。
 こういうことと関係があるかどうかわからないが。
 座礁した船からウィスキーを盗み出すとき、島から船を出そうとすると日付がかわり日曜になる。そうすると神父が「日付が変わった。安息日だ。何もしてはいけない」と出港する船を止めてしまう。これにみんなが従う。盗んだウィスキーは神父も飲むのに、「日曜は安息日」ということだけは守るのである。
 この「文化」がおもしろい。「文化」が「感性」を作り上げていく。これが、さりげなく描かれている。
 (KBCシネマ1、2018年03月09日) 


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

グッバイ・モロッコ [DVD]
クリエーター情報なし
パイオニアLDC
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリント・イーストウッド監督「15時17分、パリ行き」(★★★★★)

2018-03-04 23:53:27 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 アンソニー・サドラー、アレク・スカラトス、スペンサー・ストーン

 「実話」の映画である。「実話」の核心はとても「劇的」なものである。しかし、これが実にあっさりと描かれている。
 映画は(あるいは、あらゆる芸術は)、時間と空間を自在に変形させる。「編集」といった方がいいかもしれないけれど。たとえば昨年評判になったクリストファー・ノーラン監督「ダンケルク」は三つの時間を「ひとつ」にしてクライマックスまで観客を引っ張っていった。これは極端な例だが、たいていの映画はクライマックスをいろいろな角度で「時間」を重複させたり引き延ばしたりしてみせる。イーストウッドの「ハドソン川の奇跡」も同じシーンが繰り返されている。(この反復は、裁判での「再現」ではあるが。)
 ところが、この映画ではイーストウッドは、そういう「劇的」にみせる手法をあっさり捨ててしまっている。「一回性」をそのままに、ぱっと再現している。カメラのアングルは考えられているが、カメラが「演技」することを拒絶し、あの瞬間を、あの瞬間のまま、ぱっとつかみ取っている。
 だから、とても奇妙な言い方だが、「はらはらどきどき」しない。「はらはらどきどき」しているひまがない。映画で「はらはらどきどき」するのは、実は、感情を楽しむ余裕があるときなのだ。「現実」は「無我夢中」のうち終わってしまう。「無我夢中」ということさえ、わからないうちに終わってしまう。
 とても特徴的なのが、列車内での銃撃を試みた「犯人」の人間像が、まったくわからない。銃をもって列車に乗り込み、乗客を殺そうとした、という以外のことを、乗客も(観客も)知らない。だから、映画ではその映像がとても少ない。
 うーむ。
 私はうなってしまう。「映画」であることを、やめている。あ、もっと、そのシーンを見たい。このシーンはこれから起きるストーリーの展開と、どうつながるのか。そういう「なぞとき」をさせない。このシーンで「はらはらどきとき」したい、というような観客の感情もあおらない。(とはいうものの、止血のために指で押さえているシーン。スペンサー・ストーンが看護師と交代する一瞬などは、とてもしっかりと描写している。どうしてスペンサー・ストーンが素手で犯人に立ち向かえたのか、という伏線はきちんと紹介されているが。)
 その結果、どういうことが起きるか。
 「一回」しか起きない事件そのものに立ち会っている感じがするのである。この「立ち会っている」という感じがすごい。「映画」であることを忘れる。
 どのシーンも「一回」しか撮影していないのではないかと感じさせる。
 でも、そうではない。予告編を見た人は気づくと思うが、列車の中のスナックタイム。コーラを注文するのだが、予告編では「コーラがちっちゃい」「フランスだから」というようなやりとりだったが、本編では「フランスだから」という台詞にはなっていない。何度か撮り直し、そのなかから一番いいシーンをつないでいる。しかし、とても、そうは思えない。そういう不思議さがある。
 ストーリーというか、クライマックスとは無関係の子ども時代のシーン、列車に乗るまでの旅行のシーンさえも同じである。あらゆることが、ごく普通に起きる「一回性」をそのまま浮かび上がらせる。「一回」だけれど、忘れらないことがある。それを「一回性」のまま映画にしてしまっている。これは、すごい。
 (ユナイテッドシネマ・キャナルシティスクリーン8、2018年03月04日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

ミリオンダラー・ベイビー [DVD]
クリエーター情報なし
ポニーキャニオン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソフィア・コッポラ監督「ビガイルド 欲望のめざめ」(★★)

2018-02-25 19:53:59 | 映画
ソフィア・コッポラ監督「ビガイルド 欲望のめざめ」(★★)

監督 ソフィア・コッポラ 出演 コリン・ファレル、ニコール・キッドマン、キルステン・ダンスト、エル・ファニング

 イーストウッドが出た「白い肌の異常な夜」のリメイク。私はイーストウッドが足を切られるというストーリーしか覚えていない。映画館ではなくテレビで見たんだろうなあ。
 ソフィア・コッポラの映画は「少女趣味的」で好きではない。父親のコッポラも、まあ、少女趣味が強かった。「ワン・フロム・ザ・ハート」はナスターシャ・キンスキーが出たので見たが、うーん、まるで少女マンガ。
 それに。
 キルステン・ダンストが私は嫌い。この映画の中で、コリン・ファレルが「美人だ」と絶賛するのだが、私はキルステン・ダンストを美人だと思ったことが一度もない。なぜ、映画女優をやっているか、わからない。
 それなのに、なぜ見たか。
 処女趣味が「欲望のめざめ」みたいな映画でどう展開するか、それを見たかった。これは「覗いてみたかった」ということ。
 で、結果を言うと。
 「少女趣味」は、ドレスのシーン、あるいはブローチだとかイヤリングのシーン(ことばのやりとりを含めて)に発揮されているのだが、私は、こういう「細部」の「少女趣味」(こだわりの美意識)というのが大嫌いなのだったということを思い出しただけだった。装飾品とか化粧品とか、あんなめんどうくさいものを選ぶ感性(忍耐強さ?)には近づきたくない。
 また、これか。
 選ぶ映画を間違えた、と思った。
 まあ、おもしろい部分というのは、「少女趣味」ではなくて、「少女」そのものを描いている部分かなあ。
 エル・ファニングが「少女」と「おとな」の境目を演じていて、その「境目」を基準にして言うと、「おとな(女)」の部分はおもしろくないねえ。「趣味」ではとらえきれないからなんだろうなあ。
 もっとおさない「少女」の方が、むしろ「おとなびと」いて興味深い。
 「白い肌の異常な夜」はまったく覚えていないが、毒キノコを食べさせようと少女が思いつくシーンがすごいなあ。「おとな」の意識を先回りして、とってしまう。こういう残酷さは「少女」にしかできない。「おとな(おんな)」は自分では言わない。言わないけれど、そういうことは「カンのいい」こどもは「本能」の力で先取りする。
 この延長で、コリン・ファレルがキルステン・ダンストにキノコ料理をすすめるとき、それをみて「先生はキノコが嫌いだったわよね」と言って、食べさせないところもいいなあ。
 なにもかも知っている。それが「こども」。これは「本能」は知らないことを先取りするということなんだろうけれど。
 男の監督は、ここまで「少女」を「おとな」として描かないかもしれない。「少女」のままに描いて、「おとな(おんな)」を浮かび上がらせるかもしれない。
 でも、これは「少女趣味」とは違った問題だね。
 女は年齢に関係なく、同性を「おんな」として見ている、ということなんだろうなあ。
 それから……。
 南部の風景に私はかなり関心を持っていた。アメリカ映画の緑は私にはどうもなじめない。ほんとうにアメリカの緑がああいう色なのか、疑問をもっている。この映画ではファーストシーンで南部の森が出てきたので、それがどう展開していくか気になったのだが、やはり納得がいかない。深みがない。広さが深さを奪っていくのかもしれないが、自然の力を感じることができない。
 これもがっかりした理由かなあ。
               (ソラリアシネマ・スクリーン3、2018年02月25日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

マリー・アントワネット (初回生産限定版) [DVD]
クリエーター情報なし
東北新社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イ・ジェヨン監督「エターナル」(★★★★)

2018-02-22 00:28:49 | 映画
イ・ジェヨン監督「エターナル」(★★★★)

監督 イ・ジェヨン 出演 イ・ビョンホン、コン・ヒョジン 

 この映画の見どころは二つある。
 ひとつは、いつ「ストーリーの構造」に気がつくか。もうひとつは、イ・ビョンホンの演技。
 「ストーリーの構造」についていえば、私は、犬が車の下から出てきたときに確信した。当然姿をあらわしていいはずの運転手が姿をみせないからである。まあ、これ以上は書かないが。
 あとのひとつ、イ・ビョンホンの演技。これは、ちょっと感激した。「ストーリーの構造」から言って、目を引くアクションも、台詞回しもない。ただ、そこにいて、妻を見ているだけという役なのだが、これが「生きている」。
 動かないことによって、感情が動く。
 目で演技している。映画を心得ている。前半に出てくる眼鏡が小道具として、とても効果的だ。現実では、あんなに目がはっきりわかるほど近づいて人の顔など見ない。その現実には見ることのできない大きさにまで拡大された目が、眼鏡を外すことでさらにぐいと観客に近づき、それが微妙に潤む。悲しみが潤む。
 ふーむ。
 一か所、眠っている妻の首を絞めようとするシーン。寸前にやめるのだけれど、あそこはよくないなあ。あ、これは脚本が悪いのかもしれない。余分なシーンだ。
 なぜ余分か。
 ここだけ、「アクション」だからである。
 アクションしないことで成り立っている映画で、アクションがあると、それが全部をこわしてしまう。このシーンがなかったら、私はこの映画に★5個をつける。
 手のアクションを比較するといい。
 イ・ビョンホンの手のアクションは、直後にもう一度出てくる。息子が眠っている。息子の手をそっと握る。手をそっと握るというのは、アクションだけれど動かないアクションである。働きかけ、相手に影響を与えてしまうアクションではない。相手は何もかわらない。何もかわらないから、かわりにイ・ビョンホンの「肉体」のなかで感情が動く。肉体のアクションのあとに、感情が動いてついてくる。
 妻の首を絞めようとするシーンは逆だね。感情が先に動いて、手を首の方に引っ張っていく。まあ、思いとどまるのだけれど、このシーンだけ、全体の中で「トーン」が違ってしまっている。
 他のシーンでは、イ・ビョンホンは自分の「感情」にとまどっている。悩んでいる。でも、妻の首を絞めようとするシーンでは、感情ではなく「肉体/手」そのものが葛藤する。それが激しすぎる。シーンが長すぎたのかもしれない。また手の動きが首を絞める形に近づきすぎたのかもしれない。両手ではなく、片手だったら違ったかもしれない。0・5秒くらいだったら、「あっ、いまのは何だったんだろう」と観客のこころに残ったかもしれない。
 むずかしいね。
 (中洲大洋スクリーン1、2018年02月21日)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
スキャンダル [DVD]
クリエーター情報なし
アミューズソフトエンタテインメント
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フェルナンド・レオン・デ・アラノア監督「ロープ 戦場の生命線」(★★★★★)

2018-02-18 20:54:06 | 映画
フェルナンド・レオン・デ・アラノア監督「ロープ 戦場の生命線」(★★★★★)

監督 フェルナンド・レオン・デ・アラノア 出演 ベニチオ・デル・トロ、ティム・ロビンス、オルガ・キュリレンコ、メラニー・ティエリー、フェジャ・ストゥカン

 おもしろいなあ。大好きだなあ。こういう作品。「戦場」なのに戦争ではなく「日常」が描かれている。どこにでも「日常」がある。でも、それはよく見ると「日常」ではなく、やっぱり「戦場(戦争)」。
 区別がつかない。
 井戸に投げ込まれた死体をひきあげる。でもロープが切れてしまう。そのロープを求めて右往左往する。店にはたくさんロープがあるが売れないという。旗を掲げているポールのロープがある。「売ってくれ」「旗を降ろせば戦争だから殺される」。ロープなら家にある、という少年といっしょに家に行ってみれば、ロープは確かにあるが、猛犬をつないでいる。奪えない。思いがけずロープを手に入れて井戸へ引き返してみると、死体をひきあげるためについた嘘が邪魔をしてひきあげ作業は中断してしまう。
 うーん。
 これは、喜劇か?
 いや、「日常」というものは、そういうものなんだろうなあ。
 では、こういうとき、映画の何を見る?
 役者ですね。役者の「肉体」。顔。表情。目つきや、口の動き。さらには、ベニチオ・デル・トロもティム・ロビンスも、太ってしまって、完全に「おじさんだなあ」とか。
 完全に「おじさん」になっているにもかかわらず、あらまあ、もてるんだわ。これが。で、そのもてぶりを見ながら、どうすればもてるようになるかなあ、なんていうことを考える。あの目つき? それとも冷淡ふうなあしらい? 困惑?
 これは自分の「日常」を考えるということだね。
 映画って、これにつきる。
 映画で見ることというのは、自分では体験できないこと。見たことがないものを見ること。でも、その見たことがないものを見ながら、自分の「日常」にひきつけて、あれこれ思う。
 このあれこれなんて、ことばにするのは面倒くさい。ことばにしないまま、あ、そうか、と思うだけなんだけれど。
 たとえば、ティム・ロビンスとメラニー・ティエリーが乗った車が牛の死骸と出くわす。車は右か左か、どちらかを通らないといけない。地雷が埋めてあるのは、どっち? わからない。で、ティム・ロビンスは牛を避けるのではなく、牛を乗り越えていくことにする。そのあと、メラニー・ティエリーが猛烈に怒る。これは、どうして? 安全かどうかわからない行動にメラニー・ティエリーをまきこんだから? それとも死んでいるとはいえ、牛をもう一度ひき殺すという野蛮が許せないから? 「答え」は観客にまかされている。
 これが「しょっぱな」だから、あとはその連続。
 これは、どうして? このときベニチオ・デル・トロ、ティム・ロビンスは、何を思っている? そのこと行動は、ほんとうにそうしたいから? それとも仕方がないから? それで、その正解は?
 わからないね。
 わからなくてもつづいていくのが「日常」。
 ベニチオ・デル・トロとオルガ・キュリレンコが「痴話喧嘩」をして、「財布を見たのか」「パスポートを探しただけよ」というのを、別の車の中で聞いていて(大声だから聞こえてくる)、話をふられたときに「財布を見たのか」「パスポートを探しただけ」と繰り返すところなんか傑作だなあ。
 「仲間うち」のなれあいというか、どうしようもできない「信頼感」のようなものが、そこからぱっと噴き出る。「秘密」なんて、ない。それが「戦場」であり、それが「日常」。みんな知っているからこそ、助け合える。
 最後の「雨さえ降らなければ、最高の日(パーフェクトデイ)」と言ったとたんに雨が降り始める。でも、それは「最高の日」を望む人にとって「最低の日」になるのだけれど、一方で、知らない力が働いて、あれほど苦労したのにひきあげられなかった死体が、井戸に流れ込んだ雨のために浮かんでくるというオチなんかが、とってもいい。
 
 それにしてもね。

 あんな山の中。そんなところで戦争してどうなるんだろう。その土地を奪う、あるいはそこに暮らしている人を殺して、世界がどう変わるんだろう。戦争というのは、いったいなんなのだろうなあ、と素朴な疑問も持つのである。
 そういう素朴な疑問を、素朴にもつための映画かもしれない。
   (2018年02月18日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン9)



 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

チェ 28歳の革命 [DVD]
クリエーター情報なし
NIKKATSU CORPORATION(NK)(D)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パオロ・ビルツィ監督「ロング、ロングバケーション」(★★)

2018-02-14 18:33:16 | 映画
パオロ・ビルツィ監督「ロング、ロングバケーション」(★★)

監督 パオロ・ビルツィ 出演 ヘレン・ミレン、ドナルド・サザーランド

 うーん、いまひとつおもしろくない。
 たぶん、これは私が「アメリカ大陸」を知らないから。ロードムービーなのだが、移動していく感じがよくわからない。「土地鑑」がない。木々の色や空気の色が、「土地」と結びつかない。背景の「土地」に対する愛着も感じられない。これは監督がイタリア人であるためか。
 「映画」というよりも、「ストーリー」になってしまっている。
 唯一おもしろいと思ったのは、ヘレン・ミレン、ドナルド・サザーランドが行く先々で、スライド写真を映してみるときに、「観客」がいるということ。最初は遠くからそっと見ている。次のシーンでは「いっしょに見ていいか」と若者が声をかけてくる。
 他人の思い出(プライバシー)を見る、見たいのはなぜだろう。
 ここが映画のポイントだね。
 実際、ドナルド・サザーランドは認知症になりながら、妻の初恋(?)の男との関係が気になってしようがない。嫉妬する。その一方、妻の友人(隣人の女)と浮気していたことを、認知症が原因で洩らしてしまう。妻を愛人と勘違いして、昔の思い出を語るのである。
 だれにでもプライバシー(秘密)があり、ひとは「秘密」に心を動かされるのである。「いま/ここ」にいる人の、「いま/ここ」だけでは見えないものを見るというのは、妙に「わくわく」する。不思議な「なつかしさ」がある。人間は「過去」を持っている、ということが、ひととひとをつなぐのかもしれない。
 もうひとつ。
 「匂い」のつかい方もおもしろかった。「嗅覚」はもっとも原始的な感覚である、といわれる。そのため最後まで「生き残る」感覚ともいう。
 やっと辿りついたヘミングウェーの「家」で、ヘレン・ミレンは倒れ救急車で運ばれる。ドナルド・サザーランドは「だれか」を探しているが、だれを探しているかことばにできない。しかし、妻のバッグを見つけ、香水を嗅ぎ「妻を探している」と言うことができる。
 これは、実は、最初に重要な「伏線」がある。ドナルド・サザーランドは車を運転しながら、ヘレン・ミレンに「おならをしただろう」と非難する。車の排気ガスが車内に流れ込んでいる。それを何とはわからないが、ドナルド・サザーランドは「匂い」としてつかみとっている。この「伏線」は「巧み」すぎるかもしれないが、なかなかいい。「排気ガス」にヘレン・ミレンは気づかなかったのだが、ドナルド・サザーランドのことばによって、それを知らされ、最後はそれを利用するというのは、「結末」としてきっちりしすぎているかもしれないけれど。
 しかし、この「映画」も「映画」にするよりは、「舞台」にした方がおもしろそうだ。「ロードムービー」の「ロード」に私が実感をもてないからそう思うのかもしれないが。「実写」よりも「書き割り」と「ことば」だけの方が、役者の「肉体」が浮き彫りになって迫ってくると思った。
                     (KBCシネマ2、2018年02月14日)




 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/



黄金のアデーレ 名画の帰還 [Blu-ray]
クリエーター情報なし
ギャガ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジム・シェリダン監督「ローズの秘密の頁」(★★★)

2018-02-13 00:12:02 | 映画
監督 ジム・シェリダン 出演 ルーニー・マーラ、バネッサ・レッドグレーブ、エリック・バナ

 「聖書」を「日記」にする、というのが、なかなかおもしろい。
 「聖書」に対する考え方はいろいろあるだろうが、神との一対一の関係がそこにある。だれも「信仰」に関しては口をはさめない。個人の完全な自由。精神の問題に属する。
 「聖書」のこの、神と人との直接関係(直接契約)は、「ショーシャンクの空」でも非常に厳格につかわれていた。ティム・ロビンスが「聖書」のなかに脱獄につかうハンマーを隠しているのだが、刑務所側はそれを調べない。手には取るが、開かない。閉じたままでも、それは「日記」なのだ。神と個人との「対話」がそこにある。そこには、だれも入ってはいけない、というのがキリスト教の「感覚」なのだろう。
 私には、この神と個人との「契約(密約?)」という感覚が「頭」では理解できたとしても、「肉体」ではつかみきれない。だから、ここが「ポイント」とは思いながらも、どうも、もうひとつ「親身」になれない。
 
 映画には、「宗教」に関係して、もうひとつポイントがある。舞台がアイルランド。イギリスとは「宗教」が違う。同じ「キリスト教」と考えるのは、私がキリスト教徒ではないからだ。背景のひとつに、イギリスとアイルランドの対立があり、そこにはカトリックとプロテスタントの対立がある。
 ヒトラーとの戦いでも、この違いが「壁」になり、イギリスとアイルランドは「共同戦線」をつくれない。国家のことはわからないが、この映画の中では「個人(宗教)」の対立が「悲劇」の引き金となっている。親イギリス派の男(主人公の恋人)をアイルランド人が許さない(殺してしまう)ことが、「悲劇」のはじまりである。
 このあたりの「感覚」がなんともつかみにくい。
 さらにこれにアイルランドの神父(か牧師か、私には区別がつかない)が「恋敵」としてからんでくるから、「宗教」が問題なのか、「愛」が問題なのかも、簡単には割り切れない。
 アイルランド人でないとわからないようなことが、きっと細部にたくさん描かれているのだと思うが、私には「荒涼とした風景」としかつかみとれない。(この、湿気を含んだ北の空気、さらにそのまわりの閉鎖的な感じのする人間の関係というのは、雪国育ちの私にはなぜかなつかしくて、アイルランドが舞台の映画は、私はとても好きなのだが。)

 で、わからないことがさらにさらにあるのだが。

 クライマックスの「手紙」のシーンは、映画としてとてもよくできていると思った。これは、この映画の前に「スリー・ビルボード」の「手紙」の処理の仕方に不満をもったからでもある。「スリー・ビルボード」では「手紙」が「舞台」の手法でつかわれていた。それが映画を叩き壊していた。この映画では、しっかりと「映画」になっていた。
 エリック・バナが両親が残した手紙を見つける。開いて読み始める。そのとき「ゴトッ」という音がして何かが封筒から落ちる。映画はそれを映さない。映さないけれど、見ている観客には、それが恋人の「勲章」であることがわかる。主人公がこどもを自分で産み、へその緒を切った時の「勲章」であることが想像できる。
 それが最後に主人公に手渡される。それは「聖書(日記)」にくり抜かれた「十字架」にすっぽりおさまる。(「ショーシャンクの空」でハンマーが聖書のくり抜きにおさまるのと同じである。)そして、それは主人公の「空白」のすべてを埋める。他の人たちから「幻想」と見做され、精神病院にとじこめられていた主人公の言っていたことが、「幻想」でなく「事実/真実」としてあらわれてくる。
 これを、「ことば」ではなく「具体的な映像」として、さらには「音」として、はっきりスクリーンで展開する。まさに映画である。
 で、こう書いてくると、涙が出るくらいに感動するのだが。
 うーん、やっぱり「聖書」が邪魔をする。わからないのである。あの「十字架」のくり抜きは、たぶんルーニー・マーラが恋人から「愛の証」としてもらったとき、その隠し場所として「聖書」を選んだときにつくったものだろう。そのときはまだ「日記」ではなかった。ルーニー・マーラにとって、そのとき「聖書」はなんだったのだろうか。これが、わからない。いや、「破壊(くり抜き)」を許してくれるのが神なのか。
 もうひとつ。これは、私が映画をぼんやり見ていて、はっきり記憶していない。「裏口」があいているとわかり、ルーニー・マーラは精神病院を脱走する。そのときルーニー・マーラは「聖書」から「勲章(十字架)」をとりだして逃げ出したのか。それとも、ふつうは「聖書」に隠さずに身につけていたのか。たぶん、「逃げる」ときに「勲章」を「聖書」からとりだしたのだと思うのだが、見落としてしまった。(手紙から勲章が「落ちる音」のようなものを見逃してしまった。つまり、最初の「伏線」を完全に見落としてしまったことになる。だから、はっきりとは言えないのだが。)
 もし逃げる寸前に、大事な勲章だけを持ち出すというシーンがあったなら、この映画はてともとても丁寧な映画である。完璧な映画である。
 再び精神病院につれもどされたルーニー・マーラにとって、「十字架(勲章の形)」にくり抜かれた「聖書」は、彼女におきたことをすべて「証明」してくれるものになる。精神は正常である。「聖書」は単なる「日記」、つまり「記憶」をつづったことばを残しているだけではなく、「愛の事実」が刻み込まれているからである。
 このとき「聖書」は、だから、「愛を証明する本」になっている。

 さてさて。何と言っていいのかわからないが。

 教会(牧師? 神父?)ぐるみで、ルーニー・マーラの「愛」が見守られていたということが、最後に「ことば」としてちょっと語られるが、このややこしい「愛」と「憎しみ(嫉妬?/愛を否定する何か)」と、「愛を見守る聖書(あるいは教会)」という関係が、「神」には何の関心もない私には、どうにもつかみきれないのである。
 アイルランド人にしかわからない映画なのかもしれないなあ。
                     (KBCシネマ2、2018年02月11日)




 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/


マイ・レフトフット [DVD]
クリエーター情報なし
20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サイモン・バーホーベン監督「はじめてのおもてなし」(★+★)

2018-02-09 10:39:36 | 映画
サイモン・バーホーベン監督「はじめてのおもてなし」(★+★)

監督 サイモン・バーホーベン 出演 センタ・バーガー、ハイナー・ラウターバッハ、エリック・カボンゴ

 この映画は、いわゆる「肩すかし」の映画である。
 舞台はミュンヘン。裕福な家庭が難民を受け入れる。それをコメディータッチで描くという触れ込みだったが、難民が難民として映画に組み込まれていない。「異文化」の衝突がない。「文化」の違いに、だれも悩まない。
 展開されるのは、裕福な家族が、裕福さゆえにバラバラになっているのだが、そのバラバラが絆に変わるという過程。きっかけが「難民」である必然がない。「難民」が「客寄せ」の話題としてつかわれているだけである。

 でも、これは逆に言えば。
 「難民」を受け入れるということが、ドイツでは、それだけ「日常」になっているということかもしれない。「異文化」にとまどうという段階を通り越して、困っている「自国民」を受け入れる、ホームレスを善意で家庭に受け入れるということと変わりがなくなっているということかもしれない。
 舞台になっている「裕福な家庭」そのままに、ドイツ自体が「裕福さ」ゆえに「バラバラ」になっている。みんながそれぞれ自分のために生きている。助け合うというよりも、自分の欲望を優先させている。「難民」に向き合うことで、この「自分優先(自分ファースト)」を見直すという具合に、社会が変わりつつあるということかもしれない。
 そうであるなら、それでいいのだが。

 で、救いは。
 「難民」が「難民」として描かれていないということかなあ。(もちろん、これは不満にもなるのだが。)
 つらい記憶が語られるが、それは「語られる」だけであって、彼が生きている過程で、「肉体」からにじみ出てくるものではない。つらい体験が、他人を引きつける、あるいは他人を拒絶する「不可解なもの」としては描かれてない。「ことば」として受け入れられるものとして描かれている。
 つまり「生理的反撥」というものが、きれいに「除去」されている。これはドイツが「難民問題」を「ことばとして処理できるところまで整理している」ということである。(もちろん、これはそのまま不満でもあるのだが。)
 「難民」をみんなで受け入れようよ、と軽い調子で呼びかける映画と思えばいいのかもしれない。

 心配は。
 だれもが、ここに描かれている家庭のように「裕福」ではないということ。自分の生活に苦しみがある。精神的にというのではなく、経済的に。そうすると、この映画の家庭のようには簡単に「難民」を受け入れることができない。自分の生活が犠牲になる。
 そうなると、どういう反応が起きるかなあ。
 「ふつうの家庭」を舞台にしない限り、問題は見えてこない。
 ドイツ人がみんなあんなふうに「裕福」とは思えない。
                     (KBCシネマ1、2018年02月07日)





 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
さらばベルリンの灯 [DVD]
クリエーター情報なし
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考

2018-02-06 11:17:34 | 映画
監督 マーティン・マクドナー 出演 フランシス・マクドーマンド、ウッディ・ハレルソン、サム・ロックウェル

 マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」は脚本が非常によくできている。しかし、それは映画向きではない。舞台向きだ。
 ラストシーン。フランシス・マクドーマンドとサム・ロックウェルが「レイプ魔」らしい男を殺しに行く。その途中で「ほんとうに殺す?」というようなことを相談する。「行く途中で考える」というような、やりとりだ。これは「舞台」なら余韻のある幕切れだが、映画では不完全燃焼である。「台詞」が邪魔だ。ことばに頼らずに、「どうする?」「ドライブしながら考える」というのを、「肉体(表情)」で伝えないと映画にならない。ことばで説明してしまうので、「余韻」を押しつけられる感じがするのである。
 芝居は、「一声、二姿、三顔」という。これをもじって言えば、映画は「一顔、二姿、三声」である。初期の映画が「無声映画」であったように、ことばは「補足」。なくてもわかるのが「映画」である。表情の変化を見せるために巨大スクリーンがある。そのことをこの映画は忘れてしまっている。そして、ことばに頼っている。
 もし、これが「舞台」だったら、と想像してみよう。そうすると「脚本」の「傑作」さ加減がわかる。
 まず最初に登場する赤いビルボード(看板)。「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」という文字は、舞台なら「一幕」中、ずーっと「背景」として存在する。観客はいつでも「看板(文字、ことば)」を見ながら役者の演技を見る。フランシス・マクドーマンドが何を言うたびに、そこに「声にならない声」があると気づかされる。実際に「声」でいわなくても「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」も、それが「聞こえる」。看板は、フランシス・マクドーマンドの、もうひとつの「顔」であり、「姿」である。その赤い色、黒い大きな文字は怒りと悲しみの「声」である。つまり、舞台では、常にフランシス・マクドーマンドが二人いることになるのだ。「生身」の肉体と、「看板」になった肉体。その「拮抗」が芝居そのものをつくっている。
 映画では、その拮抗が薄れる。緊張感が「舞台」ほどもりあがらない。「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」と、観客が常に思い出さないといけない。その声は聞こえるは聞こえるが、「記憶」としての声である。常に看板が目の前にあり、それが「現実」として見えるわけではない。「声」の見え方が違う。フランシス・マクドーマンドは頑張っているが、「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」が観客の意識に常に「見える」わけではない。それが「ドラマ」の拮抗を弱くしている。
 この映画が「声(ことば)」に頼っている、という欠点は、ストーリーがウッディ・ハレルソンの自殺を契機に動くところに極端に現れている。ウッディ・ハレルソンは自殺することで「ことば(遺書)」を残す。それがフランシス・マクドーマンドにもサム・ロックウェルにも働きかけ、ふたりをつなぐことにもなる。「ストーリー」としては「芝居」であろうが「映画」であろうが、同じだが、「声」を問題にするとまったく違う。
 「舞台」は何度でも書くが、「声」を聞く場である。観客はまず何よりも「役者の声(ことば)」を共有する。声の変化、強さ、スピード、明るさ、暗さ。「声」がぶつかりあって、それが「感情(肉体)」のぶつかりあいになる。「声」が「空間」を支配し、「声」の飛び交う空間(劇場)そのものが観客の「肉体」になるとき、「劇場」全体が昂奮する。そこでは「顔」の占める「領域」は小さい。
 「声」を聞かせるものだから、それが「遺書」であっても、かまわない。またその「声」が必ずしもウッディ・ハレルソンのものでなくてもいい。ウッディ・ハレルソンの「声」ではじまり、途中からフランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルの「声」に変わったとしても、(あるいはフランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルの「声」ではじまり、ウッディ・ハレルソンの声に変わったとしても)、それは「声」を弱めるのではなく、逆に「声」を強くすることになる。「声(ことば)」が共有され、死者と生きているものによって共有され、その共有がそのまま観客に共有されるからだ。
 これは「舞台」でなら、絶大の効果をあげる。(と、思われる。)
 でも、映画では逆に「興ざめ」になる。「声」が聞こえるとき、その「声」の持ち主の姿は見えず、読んでいるフランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルが見えるだけだからである。映画の「撮り方」に問題があるのだ。「映画」になりきれていないのだ。自殺するシーンそのものに「遺書の声」がかぶさる、あるいは「遺書のことば」を一気に読み上げるのではなく、断片的に別なシーンに重なる形で紹介されるというのでないと、「意味」だけが押しつけられたものとして残る。三枚の看板のように、三通の手紙(妻と、フランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルの三人への手紙)として、観客が「意識」しないとストーリーが展開しなくなる。役者の「肉体」が「そえもの」になってしまう。「声」と「肉体」が戦わなくなってしまう。
 舞台では、そこに常に「生身」の「肉体」がある。その「肉体」を突き破って「声」が動く。暴れる「声」と「肉体」が常に向き合っている。ときに戦い、ときに助け合い、「声」と「肉体」が同時に解放される瞬間を目指している。
 映画は違う。
 映画は、常に「顔(肉体)」が解放される瞬間を待っている。「顔」がかわる瞬間、役者が役者ではなく、「生身の人間」になる瞬間を待っている。それを観客は見る。そのとき観客の「肉体」のなかで、観客の「声」が動く、観客自身の「声」が生まれてくるというのでないと、映画とは言えない。それを、この監督は理解していない。人間が微妙にからみあい、そこから人間が変化していくという「ストーリー」は完璧だが、それは「ストーリー(脚本)」として完璧なのであって、「映画」としては不完全である、と私は思う。
(T-joy博多、スクリーン2、2018年02月04日)

 
 


*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか1月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977



問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com



ファーゴ [Blu-ray]
クリエーター情報なし
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」(★★★)

2018-02-04 18:00:14 | 映画
監督 マーティン・マクドナー 出演 フランシス・マクドーマンド、ウッディ・ハレルソン、サム・ロックウェル

 冒頭、フランシス・マクドーマンドが帰宅中に、道路脇の看板に気がつく。誰もつかっていない。古い看板が破れている。このときの「絵」が、まさに「絵」。映画の一シーンというよりも「絵画コンクール」の作品。構図がきちんとしていて、「そうか、こういう絵を描きたいのか」ということがよくわかるものなっている。
 ここが曲者。「絵」として美しいから、文句のつけようがないのだが、「絵」として変に完成しているから面白みに欠ける。はみだすものというか、あふれだすものがない。「枠」におさまりすぎている。まあ、これは芝居で言えば「書き割り」のようなものだからこれでもいいのかもしれないが。
 この「かっちり」した感じ、「絵」になりすぎる感じが、全編をつらぬく。役者が登場して動いても、その「動き」が「絵」のなかでおさまってしまう。これが、どうも窮屈である。「映画」というよりも、「文学」になってしまっている。
 娘をレイプされ、さらに殺されてしまった母親が「警察は何をしているんだ」という怒りを「看板」にこめる。そこから「あつれき」が街中に広がり、思わぬ展開になる。憎み合い、やがて和解へというのは、なかなか「人間臭い」ストーリーなのだが、それが「ストーリー」の「枠」のなかにおさまりすぎてしまう。「小説」で読むならこれでいいのだが(好きなところでページをめくるのをやめ、もう一度ことばを読み直すことで、そこにある感情を味わいなおすことができるが)、時間といっしょに動いていく映画では、「ストーリー」を突き破って動く人間の「肉体」がないとおもしろくない。ストーリーを忘れて、役者の「肉体」に認める瞬間というものがないと映画ではない。役者の「肉体」にみとれながら、ふいに気がついて「あ、これはこういうストーリーだった、こいつは悪役だったんだ、忘れて応援してしまった」と思ったりするのが、映画の不思議な魅力である。
 あるいは「舞台」でなら、生身の「肉体」の代わりに、激しく動く感情が「ことば」となって空間に飛び散る瞬間があって、おもしろいかもしれない。ことば、声が肉体のように「劇場」内に飛び散る瞬間があって、おもしろいかもしれないが、「映画」では「ことば」はぶつかりあうものではなく、あくまで補足だからね。実際、この映画では、ことばはとてもしっかりかみ合ってストーリーを動かしていくウッディ・ハレルソンの「遺書」などは、あまりにもご都合主義だ。そのことは、この映画がことばをストーリーの都合に合わせてつかっている、という証拠でもある。そういう「部分」が、まったく「映画」になっていない。
 サム・ロックウェルが「だらしない」警官を演じ、その「だらしなさ」のなかに、「こいつ、こういう男なのか」と思わせるもの(演技を超える存在感)があって、それはすこし見物だが、フランシス・マクドーマンドもウッディ・ハレルソンも、まるで「教科書」みたい。欠けているものは何もない。でも、「余分」もない。それが窮屈なのだ。
 何度も何度も取り直して、「演技」を閉じこめてしまっている。「間違い」はないけれど、「味」もない。
 上映前にイーストウッドの新作の予告編「15時17分、パリ行き」をやっていたが、イーストウッドが監督なら、完全に違った映画になっていただろうと思う。イーストウッドの映画では、だれもが「完璧」な演技をしない。「完璧」になる寸前の、ちょっとあいまいな部分がある。そこに不思議に「人間らしさ」が滲む。「スナイパー」では主役が赤ん坊を抱くシーンがあったが、そこでは「赤ん坊」は最近の映画では珍しく「人形」だった。本物ではなかった。リハーサルだったのかもしれない。そのリハーサルの方が「演技」になりきっていないのでよかったのだろう。それで、それをそのまま本編にしてしまった、という感じである。なんといえばいいのか、イーストウッドの映画では、役者か「演技」に疲れていない。余裕がある。そこに何か「安心感」がある。
 でも、この映画では、フランシス・マクドーマンドが特にそうだが、「完璧」に「演技」になってしまっている。「余分」がない。フランシス・マクドーマンドは「疲れていない」というかもしれないが、観客が疲れてしまう。「ミシシッピー・バーニング」や「ファーゴ」のような「肉体」の感じがない。これでは、窮屈である。
 ラストシーンなど、「頭」では理解できるが、フランシス・マクドーマンドの「未決定の感情」(意思)が「肉体」として伝わってこない。「台詞」をとおして「意味」になってしまっている。最後に「台詞」で「感動」を呼ぶというのは、まるで「芝居」であって「映画」じゃないね。
(t-joy 博多、スクリーン2、2018年02月04日)




 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

セブン・サイコパス [DVD]
クリエーター情報なし
TCエンタテインメント
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スタンリー・トゥッチ監督「ジャコメッティ 最後の肖像」(★★★)

2018-01-24 21:08:02 | 映画
監督 スタンリー・トゥッチ 出演 ジェフリー・ラッシュ、アーミー・ハマー

 ジャコメッティというと細長い彫像がすぐ思い浮かぶが、彫像ではなく「肖像画」で悪戦苦闘しているところが、まあ、おもしろい。
 しかも、この絵の描き方というのが、塗り重ねである。黒というか、セメント色というか、無彩色が主体だが、これを塗り重ねる。気に食わないと灰色で消してしまって、その上に描く。
 途中に少し鏡像をつくるシーンもあるが、こちらはもっぱら粘土を剥がしていく。絞り込んでいく。
 彫像と絵では「制作方法」が逆なのだ。
 ふーむ。
 でも、見続けていると違うこともわかってくる。
 彫像も絵画も完成しない。未完成。それを象徴的に語るのが、肖像画の最後。キャンバスには余白が残っている。いや、余白だらけである。描き込もうとすれば、描き込める部分だらけである。
 ここからまた違った言い方もできる。
 ジャコメッティは絵画のなかでも彫像と同じ方法をとっている。すべてを「描写」するのではなく、最小限の「神髄」だけを具体化している。彫像が余分なものを削ぎ落とした「細い」形であるのと同様、絵画でも余分なものを削ぎ落として「やせ細った」形なのである。
 違うように見えて、同じことをしている。
 で、ここからが映画である。(ここまでは、ジャコメッティの「創作」の「意味」である。)
 この絵画もまた「削ぎ落としていく」という過程でできている、あるいは「未完成」という形のなかに完成がある、という「概念」をどう視覚化するか。
 ジェフリー・ラッシュとアーミー・ハマーの「肉体」の対比がとてもおもしろい。
 ジャコメッティ役のジェフリー・ラッシュは、アル中、女狂いのだらしない体型をしている。鼻は、いわゆるアルコール焼けという感じ(赤くは見えないが)の、なんともしまりがない形。歩き方も、ものの食べ方も、非常にルーズである。髪もボサボサ。
 一方のモデル役のアーミー・ハマーは、モデルか役者(それも鑑賞用の役者)しかできないような均整のとれた体型と顔をしている。顔が完全に左右対称で歪み(乱れ)がないのは、まるでギリシャ彫刻以上である。途中で水泳(飛び込み)をしているシーンも出てくるが、裸を見せなくてもスーツ、いやコートの姿からも余剰がない体型が見える。
 このまったく無駄のないアーミー・ハマーの「肉体(顔)」さえ、まだ「余剰」がある、「神髄」ではないと思い、ジェフリー・ラッシュは、そこから「削ぎ落とし」を試みるのである。しかし、生身の「肉体」は「削ぎ落とせない」。ここに、厳しい葛藤が生まれてくる。現実に存在するものと、ジェフリー・ラッシュが描き出したいものとの間に、どうすることもできない「乖離」が生まれる。絵は、見れば見るほどアーミー・ハマーそのものを感じさせるのである。「神髄」だけを表現できないのである。
 これは「神髄」を表現すれば、おのずと「全体」が浮かび上がる。そこにジャコメッティの芸術の力があるという具合に言いなおすこともできるのだけれど、まあ、こんなことは「意味論」になるので、映画から離れてしまう。
 映画にもどると。
 自分の描いているものと、理想の芸術との「乖離」に苦悩し、ジェフリー・ラッシュはしきりに罵詈雑言を吐いて、創作は中断する。
 ジェフリー・ラッシュの罵詈雑言は自分自身(の技量、あるいは芸術)に向けられているのだが、モデルのアーミー・ハマーにしてみれば、彼へのののしりに聞こえるかもしれない。
 これは制作途中の絵を見れば、さらに、その感じが強くなる。絵は、すばらしい。何が不満なのか、アーミー・ハマーにはわからない。
 ということが、まあ、延々と続く。
 これは、見方によっては、とてもつまらない作品なのだが(めくるめくストーリー、事件がないからね)、それを「映画」に仕立ているのが、二人の役者の「肉体」である。(妻役の完全な垂れ乳も、まあ、すごいものである。)役者の「肉体」が、しかもアクションなどないのに、ぐいと観客の視線を引きつける不思議な強さをもった映画である。アーミー・ハマーは椅子に座って姿勢を変えないというつまらない役なのに、役を越えて人間になっているのが魅力的だった。
(2018年1月24日、KBCシネマ2)



 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

プラダを着た悪魔 [Blu-ray]
クリエーター情報なし
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン (FOXDP)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エリック・ポッペ監督「ヒトラーに屈しなかった国王」(★★★)

2018-01-14 21:34:00 | 映画
監督 エリック・ポッペ イェスパー・クリステンセン、アンドレス・バースモ・クリスティアンセン 

 ナチスが「中立国」ノルウェーに侵攻する。降伏を迫る。それに対して当時の国王がどう向き合い、どう判断したか。その三日間を描いている。
 結果的にいうと、国王は降伏を拒む。その結果、ナチスはさらに侵攻し、最終的には国王はイギリスに亡命、ノルウェーは降伏する。解放は第二次大戦の終結を待たなければならなかった。見方によっては、国王の決断がノルウェーの戦争被害を拡大したといえるかもしれない。戦力的に圧倒的に劣り、勝てる見込みがないのだから。
 でも、その国王の判断は国民から支持された。戦後、亡命先のイギリスから帰国し、再び王の位に就いたし、皇太子もそのあとを継いだ。いまは孫が王になっている。
 何が支持されたのか。なぜ、国王が慕われたのかが、この映画のポイントだ。
 王であるけれど、民主主義を貫いた、ということにつきる。自分は国民に選ばれた王である。国民が自分を支持してくれているのだからヒトラーの要求にしたがうわけにはいかない。その主張はまた、民主主義そのものへの「信頼」を語ることでもある。この民主主義について語る部分は、非常にすばらしい。力がみなぎっている。いま世界各地で極右勢力が台頭しつつあるが、それに対する「抵抗」がこのシーンにはこめられているかもしれない。
 ということを書き始めると、あまりおもしろくなくなるなあ。「意味/意義」は「意味/意義」として、わきにおいておいて。

 登場人物の「人間」の描き方が、なかなかおもしろい。国王は「腰痛」を抱えている。だから腰を折って、膝を抱えるような姿勢で痛みをこらえる。そういう不格好な姿も丁寧に描いている。人が来ればきちんとした姿勢をとるために苦労する姿も描いている。毅然とした態度しか人には見せないが、その毅然の背後に誰にでも起こりうる苦痛を抱えている。「精神」ではなく、「肉体」として、それを描いている。空爆から森へ逃げるときの右往左往も、ひとりの人間として描いている。最初は国王を守ろうとしている人がすぐそばにいるが、だんだんばらばらになる。森にたどりついたころには、国王のまわりには側近はいない。ひとは誰でも、それぞれが自分のいのちを守る。そういうことが「自然」に描かれている。
 逃げ込んだ森の中のシーンでは、幼い子供が木の影でうずくまっているのを見つけ、助けようとする(力づけようとする)エピソードがとてもいい。王は子供をかばう。空爆の合間に、母親が子供の名前を呼びながら子供を探している。母親の声を聞くと、子供は王の手を振りほどき、母親の方へかけだす。親子がしっかり抱きしめあう。それを王は、じっと見ている。家族がいっしょに生きているその「幸福」をあらためて実感している。王であることを忘れて、あるいは王であることを思い出して、かもしれない。王である、王でない、という区別がなくなり、「人間」として迫ってくる。国王は国王であるがゆえに、家族がいっしょにいられない。その決断をしたばかりなので、その親子の姿が胸に響くのだが、このシーンはなかなかおもしろい。
 一方で、ドイツ側の外交官の苦悩も丁寧に描いている。彼にも家族がある。妻がいて、子供がいる。家族を守りたい、家族といっしょにいたい。その気持ちが、ナチスによって邪魔される。仕事と家族との間で、苦悩し、苦悩を抱えたまま国王との交渉に当たる。このあたりの、なんというか、サラリーマンっぽい揺らぎが、気弱で、貧弱な(?)人相と相まって、簡単に拒絶できない。ドイツ人(悪)だから、どうなってもいいという感じにはならない。こういうドイツ人の描き方には、ノルウェー人の「度量」の大きさのようなものを感じた。
 生きているのは、いつでも「ひとりの人間」という視点が、映画全体を支えている。それがあって、国王の「民主主義」への信頼のスピーチが強く響く。
(KBCシネマ1、2018年1月14日)



 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

おやすみなさいを言いたくて [DVD]
クリエーター情報なし
KADOKAWA / 角川書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミック・ジャクソン監督「否定と肯定」(★★★)

2018-01-07 23:12:14 | 映画
監督 ミック・ジャクソン 出演 レイチェル・ワイズ、トム・ウィルキンソン、ティモシー・スポール

 ホロコーストはあったのかなかったのか、法廷で争う。ホロコースト否定論者を批判したことが「名誉棄損」にあたるという。なんだか、「論理」がよくわからない。それをさらに複雑にしているのがイギリスの裁判制度。イギリスでは、訴えられた方が「無罪の立証責任」を追う。ホロコーストがあったということ(歴史的に誰もが知っていること)を立証しなければならない。
 なんだ、これは。
 この過程で、まあ、イギリスらしいというか、さすがに「ことば、ことば、ことば」(ハムレット)の国だけあって、ほんとうに「ことば、ことば、ことば」(論理、論理、論理)の展開なのである。
 イギリス人はめんどうくさい、と思う半面、何がなんでも「ことば」で決着をつけようとするところが、うーん、すごい、とも思う。

 実は。
 この映画を見る前に、松井久子監督「不思議のクニの憲法2018」という映画の撮影があり(我が家で、私が松井監督からインタビューされた)、私の思っていることを語ったのだが、「語る」のはとても難しい。
 書くときは、書くスピードがことばを抑制する。文字をみながらことばを反芻する。でも、語るときは反芻できない。書きながら考えることができる。私は早口のせいもあるが、話しながら考えることができない。
 「ことば」が「論理」にならない。
 「声(ことば)」に考えを託し、「論理」でひとを説得するのは、かなり訓練がいるぞと思ったばかりなので、法廷の「攻防」に、何とも言えないものを感じた。
 感情のままに語るのではなく、時には感情を否定して、「論理」にする。「論理」になったものだけが「事実」としてひとに共有される。こういうことをイギリス人は日常的ではないかもしれないが、常に訓練しているのだと思い、びっくりした。
 「ことば」として「共有」されないものは存在しない。それがイギリス人の「肉体」になっている。「思想」になってしみついている。イギリス人のひとりひとりがシェークスピアなのだ。
 イギリスの法廷に引っ張りだされるレイチェル・ワイズが「感情型」のアメリカ人(ユダヤ人)なので、「ことば」と「論理」と「事実」のつかみ方が違っていて、それがさらにイギリス特有の「ことば」感覚を浮き彫りにしていて、ストーリーの展開よりも、はるかにスリリングなのである。

 それにしても。
 今回の映画に限らず、最近はヒトラーに関係する映画が多い。ネオナチなど、「極右」の動きがヨーロッパで活発になっていることが影響しているのかもしれない。このままではヒトラーが生まれてくる。そういう不安が、ヒトラーがどういう人間だったのか、ヒトラーと人々はどう闘ってきたのか、その目的はなんだったのかということを問い直そうとしているのかもしれない。
 日本には「戦争映画」が皆無というわけではないが、戦争への「反省」を踏まえての映画、日本人は戦争とどう向き合ってきたか、「抵抗」を描いたものが少ないと思う。「権力」とどう闘ってきたか、という「歴史」を継承する作品が少ないと思う。
 こういう「反省」のなさも、安倍の「独裁」を暴走させているかもしれない。日本人は権力に「抵抗する」という訓練ができていないのかもしれない。「権力」の思いを「忖度」する訓練ばかりしているのかもしれない。

 話はごちゃごちゃになるが。
 「不思議のクニの憲法2018」は2月3日から上映される。機会があれば、ぜひ、映画を見て憲法について考えてみてください。
 安倍の狙いとおりに改憲されると、国民は戦場に駆り立てられ、そこで死に、「御霊」と呼ばれることになる。
(KBCシネマ1、2018年01月07日)



 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

ボディガード [DVD]
クリエーター情報なし
ワーナー・ホーム・ビデオ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アキ・カウリスマキ監督「希望のかなた」(★★★+★)

2017-12-24 18:49:28 | 映画
監督 アキ・カウリスマキ 出演 シェルワン・ハジ、サカリ・クオスマネン、イルッカ・コイブラ

 シリア人の難民(シェルワン・ハジ)がフィンランドにたどりつく。彼の希望(望み?)は生き別れた妹を探し出すこと。周囲の人がそれを助ける、と書くとなんだか難民を助けるというストーリーになってしまうが。
 ストーリーでは語るのがむずかしいことが描かれる。
 この映画には、主人公が何人も登場する。そして互いが助けられる、といえばいいのか。

 サカリ・クオスマネンは結婚しているが、訳があって(訳はよく見ればわかるが、よく見なければわからない。あ、あれが伏線か、と最後になってわかる)家を出ていく。シャツの卸が商売だが、それをたたき売って金をつくり、ポーカーで稼ぎ、レストランを経営する。シェルワン・ハジは、そのレストランの従業員になる。
 でもねえ、なぜ、わざわざ身分のはっきりしない難民を雇う?
 レストランの、それまでの従業員もとても変。まともではない。雇いなおした方がレストランもうまくいくだろう。そういうこともしない。
 なぜ?
 たぶん、「助ける」という感覚がないのだ。「助ける」のではなく、一緒に生きている。どうやったら一緒に生きて行けるかということを考えることが、「肉体」にしみついてしまっている。「思想」になっている。だから、だれも自分のしていることを説明できない。
 「資本主義社会」を生きているのだけれど、「資本主義」の限界を肉体でつかみとり、そこから違う一歩を歩き始めているということだろうか。「新しい一歩」なので、それを説明することばが、まだないのだ。

 最後の方のシーンから映画を見つめなおせば、書きたいことが書けるかもしれない。

 いくつも印象的なシーン(エピソード)があるが、サカリ・クオスマネンが、元妻の開いてる屋台(?)に行く。元妻が「もう酒はやめた」という。きっと酒が原因でふたりは別れたのだが、それはサカリ・クオスマネンが妻に愛想がつきたというよりも、妻をなんとか立ち直らせたいと思ってのことだったかもしれない。そして、奇妙ないい方だが、この妻を立ち直らせたいという思いによって、サカリ・クオスマネンは支えられていた。生きて行くことができた。
 同じように、レストランの従業員、シリア難民を支えるのも、一緒に生きることによって、自分が生きていることが実感できるからだろう。金儲けをする、というよりも、いま、こうやって一緒に生きているということが、生きていけるということが、「不幸ではない」。
 「幸せ」の定義はむずかしい。「幸せ」の形はきりがない。でも「不幸ではない」というのなら、漠然としていて、「いまのままで、いいんじゃないか」という感じ。何かを決めて、それを「求める」という感じではない。「幸福」を追求するのではなく、「不幸ではない」ということを追求する。「満足する」ということを追求する。
 こういうことと、関係するのかどうなのか、判断がむずかしいが。
 アキ・カウリスマキの映画には「情報量」が少ない。「もの」が少ない。全体がとてもシンプルだ。「もの」を求め、「もの」をあふれさせる、「もの」に語らせるのではなく、不可欠なものだけがそこにある。「断捨離」ということが一時期はやったが、すべてが「断捨離」されて、不可欠なものだけを組み合わせてつかっている。
 音楽も、必要最小限の楽器で、とてもシンプルだ。
 でも。
 絶対に捨てないものがある。
 シェルワン・ハジは妹を探し出すために、自分の「名前」を捨てた。身分証明書を偽造して、強制送還をのがれ、ヘルシンキで生きている。でも、探し出され、呼び寄せられた妹は、ニセの身分証明書を拒む。「自分の名前」を捨てない。「難民申請」をして、「難民」として生きることを選び、警察に出頭する。
 いろいろなものを捨てる。でも「自分」は捨てない。
 シェルワン・ハジにしても、「名前」を捨てたが、「妹を助け出す」という「希望」は捨てなかった。自分であろうとしている。

 「ハッピーエンド」というのではないが、しみじみとする映画である。

 で、ふと。
 「難民」ではないが、「国内難民」ともいうべきひとに焦点を当てた「わたしは、ダニエル・ブレイク」(ケン・ローチ監督)を思い出した。社会の安全保障システムからしめだされそうになる主人公。彼はシングルマザーと2人の子どもの家族を助けたことから、社会がどうなっているかをさらに認識するようになる。
 貧乏人はさらに貧乏になり、まるで社会には存在しないようになる。見えない部分に押し込められる。
 だが、だれにも「名前」がある。だれにとっても、「私は私である」ということは、絶対的な「希望」だ。
 この「希望」を守り抜くために、何をすべきなのか、というようなことも考えた。

 「難民」問題は日本には存在しないように装われている。隠蔽するために、極右的言動が蔓延し、安倍がそれを利用している。自衛隊を憲法に書き加え、安倍が軍事独裁を完成させるとき、「難民問題」は再び「アジア諸国への侵略」という形で拡大展開することになる。「難民」を日本に入国させないという方法のために戦争をし、日本国内の「難民(貧困者)」には戦争なのだから国民は貧困に我慢すべきだと、貧困をさらにおしつけるだろう。「ほしがりません、勝つまでは」政策が、すでに始まっている。社会保障が削減され、軍需費が拡大している。
 同時に「私は私である」という主張も抹殺されようとしている。護憲派の天皇は強制退位させられ、沈黙させられる。天皇を沈黙させたあと、国民を沈黙させる作戦は進んでいる。

 「難民」問題はむずかしいが、少なくともヨーロッパでは「難民」を受け入れ、「国内問題」のひとつとして向き合う動きがある。そういう動きが、政府の動きとは別な形で「個人」の動きとしても存在している。
 そういうことをも教えてくれる映画である。
 だんだん映画の感想ではなくなったが。
(KBCシネマ1、2017年12月24日)




 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

過去のない男/街のあかり HDニューマスター版(続・死ぬまでにこれは観ろ!) [DVD]
クリエーター情報なし
キングレコード
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする