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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫『中井久夫集6』(2)

2023-04-10 22:57:16 | 考える日記

中井久夫『中井久夫集6』(2)(みすず書房、2018年04月10日発行)

 中井久夫「訳詩の生理学」は、翻訳するときのことを書いているのだが、「詩を読むときの生理学」として読むことができる。

二つの言語、特に二つの詩--原詩とその訳詩--の言葉は、言語の深部構造において出会う                               (54ページ)

 わたしは、この文章で、思わず、息をのんだ。このことばは、こう読み直すことができる。

 だれかの詩を読む。そのとき、二つの言語、つまり詩を書いた人のことばと、詩を読んでいる人のことばが、言語の深部構造において出会う。

 たしかに私は中井の訳詩を読んだとき、中井のことばと私のことばが出会ったのだと感じた。ほかの人の詩を読み、それに感動するときも、だれかのことばと私のことばが出会っているのだと感じる。「出会う」ということは、その「出会い」によって、私のことばがかわっていくということでもある。
 だが、私が息をのんだのは、そういう「意味」を追いかけてのことではない。
 「意味」にも強く刺戟されるが、「意味」にしてしまうと、何かがこぼれ落ちていく。その「こぼれ落ちていく何か」に私は息をのんだのである。
 私が言い直した「意味」、--「意味」とは、必ず言い直すことができるものである--から何が「こぼれ落ちた」のか。「言い直せない」何かはなんだったのか。
 「おいて」ということばである。

 こう言い直せばいいだろうか。
 先の文章は、こうも言い直せる。

 だれかの詩を読む。そのとき、二つの言語、つまり詩を書いた人のことばと、詩を読んでいる人のことばが、言語の深部構造「で」出会う。

 何かが「出会う」。そこには「場所」と「時間」がある。そして、それは「で」という便利なことばで言い直すことができる。
 ところが、中井は、「で」をつかわずに「において」と書いている。その「において」の「に」はやはり「場」「時」を指定するときにつかうことがある。学校「に」行く。九時「に」会う。
 「おいて」には、何か、「に」では言い足りないもの、「で」ではあらわせないものを含んでいるのだ。
 「おいて」ということば、この文章では「キーワード」なのである。

 なぜ、「おいて」ということばを書かなければならなかったか。
 それは「深部構造」ということばと関係している。「深部」で出会うのではない、深部「構造」においてで出会うのである。
 どんな「構造」を詩のことばはもっているか。私は(あるいは翻訳する中井は)、どんなことばの「構造」をもっているか。「表面的な構造(これは、意味と言い換えうるかもしれない)」が出会うので葉手歩。「深部構造」そのもの同士が出会う。詩人のことばの「深部構造」が、読者の(翻訳者・中井の)ことばの「深部構造」に出会う。「構造」は「意味」をつくる(ささえる)かもしれないが、「意味」ではない。「意味」以前だ。
 「深部構造」を中井は、55ページで「ミーティング・プレス」と言い直しているが、「おいて」は簡単には言い直せない。言い直そうとすると、とても長くなる。
 しかし、中井は、とても親切な書き手であるから、きちんと「おいて」を説明している。「深部構造」を説明するかたちで、こう書き直している。

音調、抑揚、音の質、さらには音と音との相互作用たとえば語呂合わせ、韻、頭韻、音のひびきあいなどという言語の肉体的部分、意味の外周的部分(伴示)や歴史、その意味的連想、音と意味との交響、それらと関連して唇と口腔粘膜の微妙な触覚や、口輪筋を経て舌下筋、喉頭筋、声帯に至る発生(谷内注・発声の誤植か?)筋群の運動感覚(palatabilityとはpalate口蓋の絶妙な感覚を与えるものであって私はこの言葉を詩のオイシサを指すのにつかっている)、音や文字の色彩感覚を初めとする共感覚がある。さらに非常に重要なものとして、喚起されるリズムとイメジャリーとその尽きせぬ相互作用がある。
                                 (54ページ)

 「ことばの肉体(肉体のことば)」「ことばの響きあい」(ことばの交感)という表現を私はよくつかうが、それは中井の影響を受けたのか、中井のことばを知る以前からそういう表現をつかっていたのか、私ははっきり思い出せないが、ここに書かれていることは、私が中井と「文通」していたときに、くりかえし語り合ったテーマである。(ただ、palatabilityに関して言えば、これを「オイシサ」と定義したのは中井であり、私は、そのことを鮮明に覚えている。それは私が絶対に思いつかないことばだからである。)
 この、何と言うか、「要約」できないいくつもの「構造」は、たしかに「構造同士が出会う」、構造に「おいて」出会うとしか言えないものなのだ。たぶん、私は、そういうものにおいて、中井のことばに出会ったのだと、あらためて思う。

 この「おいて」は、前に書いたことに関連して言えば「即」でもある。原詩のことばの深部構造「即」中井のことばの深部構造というところから、中井は翻訳のことばを動かしている。「深部構造」が同一なら(区別できないなら)、その「表面」が違っていたとしても、そんなことは重大ではないのだ。原詩がギリシャ語、フランス語であり、翻訳が日本語であっても、問題はない。「深部構造」において出会い、それが共有されているとき、表面は「バリエーション」と考えることができる。バリエーションを楽しめばいいのだ。私の「感想」が『リッツォス詩選集』におさまっているのは、強引に言えば、それは読み方のバリエーションなのだ。

 これまで書いてきた「いずれにしろ」とか、「他方」とか、今回の「おいて」とかということばを、多くの人は注意を払って読まないと思う。
 今回書いた部分で言えば「深部構造」というこばを「思想」のキーワードと呼ぶ人はいるかもしれないが、「おいて」がキーワードであるという人は、たぶんいないと思う。しかし、私は、論理の「つなぎことば」のようなものにこそ、筆者の「肉体(肉体のことば/ことばの肉体)」が動いているのだと感じる。

 「意味の思想」はだれかが書くだろう。私は「ことばの肉体の思想(ことばの生理学、と中井なら書くだろうか)」について書きたいと思っている。

 

 

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中井久夫『中井久夫集6』

2023-04-09 13:26:01 | 考える日記

中井久夫『中井久夫集6』(みすず書房、2018年04月10日発行)

 中井久夫は「注」を膨大に書く。『中井久夫集6』の巻頭「一九九六一月神戸」の本文は1ページから8ページ(実質7ページか)までなのに対し、その注は8ページから32ページまでつづいている。3倍以上の注である。注の文字が小さいことを考えると4倍の分量の注になる。私は目が悪いこともあって、注はめったに読まない。必要なことは本文に書いてある、と考えているからである。
 注とは、いったい何なのか。なぜ、中井は注をつけるのか。そう思って、今回は読んでみた。12ページにこんな一行がある。

 他方、レジャーに行く人に代わって宿直を頼まれた人もいたわけである。

 私が注目したのは「他方」ということばである。「代わる」ということばである。
 中井が書いているのは、阪神大震災が起きた1995年1月17日は三連休の翌日の早朝だった、三連休だから仕事を休む人がいれば、病院などでは宿直を代わる人もいた、という病院の「実情」である。
 中井は、ある「事実(行楽に行く医師がいる)」があるとき、「他方」には「別の事実(病院には宿直の医師がいる」があるということである。かならず「別の事実」というものが存在する。そしてそれはときには頼まれて「代わる」ことによって起きてしまうことでもある。中井は、ここでは、本文には書かれなかった「事実の他方」があると告げているのだ。そして、その「他方」は本文で書かれたものよりも多いのである。常に、書かれたものよりも書かれないものの方が多い。
 以前、中井の思想について書いたとき「いずれにしても」ということばをとりあげた。病院があり、入院患者がいる。そのとき、「いずれにしても」だれかが宿直しないといけない。「いずれにしても」は「事実の多面性」を意味している。「他方」も「事実」の多面性」を意味している。
 中井は、それを見逃さない。というよりも、「事実」に見落としがないか、それを常に点検し、自分が気づいた「事実」のなかから、自分にできる最良のものを選ぼうとしているということだろう。
 それは、22ページのことばを借りれば、

他者に「おのれのごとくあること」をもとめない

 という姿勢でもある。他人には他人の選択肢がある。(23ページに「別の選択)ということばがある。)
 中井は医師である。患者がいる。患者が何かをするとき、中井は患者の選択を優先し、自分の選択を押しつけるわけではない。中井は患者に「チューニング・イン」しながら、患者が何を選択できるかを一緒に探すということだろう。それは少しことばを代えて言えば、患者に「代わり」、患者の苦しみを少し負担するということなのかもしれない。苦しみを少し負担するから、いっしょに生きる可能性を探そう、という誘いかけなのかもしれない。(もちろん、中井は、ことばにだしてそういうことを言わないが、私には、そういう声が聞こえた、ということである。)

 そこまで考えて、私は、再び、中井との共著『リッツオス詩選集』(みすず書房)を思い出したのである。出版の誘いを受けたとき、私は「私の感想は、詩が書かれた背景(事実関係)を無視している。つまり、誤読の類だけれど、共著にしてしまったら、中井の訳を損ねることにはならないか」というようなことを言った。中井は「(いずれにしても)詩なのだから、かまわない」という返事だった。
 中井は、それまでの訳詩に多くの注をつけている。『リッツオス詩選集』の場合、「あとがき」の詩に注をつけているが、それ以外はつけていない。それは中井の読み方のほかに、別の読み方もありうる。つまり「他方」、谷内はこう読んでいるということの、その「他方」を尊重してくれているのだろう。
 いまになって、私は、中井の「他方」ということばの思想(生き方)を、それが確かに存在すると実感している。

 そして思うのだが、私は、知らず知らずのうちに、この中井の「他方」の存在を意識することに共鳴し(チューニング・インし)、自分の考えを整えていたかもしれない。私は詩の講座でいろいろな人の詩を読んでいるが、そのとき一緒に読んでいるひとたちに呼びかけることは、たったひとつ。「私の読み方は、あくまで私の読み方であって、結論ではない。詩には結論はない。みんなが、それぞれ、ここが気に入った、ここが気に食わないということを見つけ出し、それを語り合えるようになりたい」。
 結論に向かって「収束」するのではなく、むしろ結論があるとしても、そこから離れ、遠ざかる。その遠く離れた部分で、新しく重なり合うもの(チューニング・インできるもの)を見つけ出し、そこから、自分自身のことばを動かしていく。それがおもしろい。結論(意味)は、各人がそれぞれ持っている。自分自身の結論をつかむことは当たり前のことだが、他人の結論には絶対に同調しないということも必要なのだ。自分であるためには。
 それは、別なことばで言えば「和音探し」ということかもしれない。「他方」を認めながら、むしろ「他方」が存在することを認識するとき生まれてくる何か。「私」と「他方」があって、はじめて響きあう何かを探すこと。
 それが文学かもしれない。

 そんなことを思っていたら、こんな詩ができた。

 「間違わなければならない」というのがたどりついた解だが、解を拒否する権利があるし、その権利を否定する思想があってもいいという文章は、どんな快(楽)であってもその快を拒否する権利があるし、生きる愉悦を否定する欲望があってもいいという文章を剽窃し、変換したものなのだが、逆に、愉悦を拒否する権利があるし、その権利を否定する論理があってもいいという文章から派生してきたものなのか、ことばにはわからなかった。乱丁によって欠落したページがあるのか、ことばの乱調が増殖、暴走したメモのような一行を消して、「間違わなければならない」ということばからはじまる文章のあとに、街角に雨が降ったということばが手書きで挿入される。雨にぬれる花屋のバケツには名前の知らない薄い色の花があって、その名前を知らない薄い色は雨のために変色したのか、花屋の黄色い明かりのために生じたのかわからなかった。立ち止まったままでいると、「知らないのかい?」ということばが、ことばの肩をつかんだ。それは花屋で見た花に似た造花のある部屋で繰り返され、それは後に、虫に食われて枯れた薔薇の造花のある部屋の詩では、聞こえなかったふりをする権利、返事をすることを拒否する権利があるし、他方、どのような権利も拒絶し、論理の破壊を推敲するしなければならないという欲望があってもいいということは知っているだろう?と付け加えられた。「知っているだろう?」というのは、しかし、あるいは(と、ことばは接続詞で迷った)、それは「知っている、わかっている」ということばを引き出すための罠だったということもできたのだが、こうしたことばの動きは正しくない(論理的ではないから理解できない)と削除されてしまうものであり、その誤謬のなかには、論理や倫理を踏み外したときにだけ、瞬間的に存在してしまうものがある。「間違わなければならない。わかるだろう?」しかし、耳の迷路を侵入してくる息はなぜこんなに熱いのか。

 

 

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中井久夫集4

2023-03-26 13:38:39 | 考える日記

中井久夫集4(みすず書房、2017年09月25日発行)

 中井久夫集4の「統合失調症の陥穽」に次の文章がある。

いずれにせよ、血液の選択的供給低下という事態は何らかの中枢神経内の血液分布を制御している機能があることを仮定している。             (70ページ)

 わたしは、はっとして、思わず傍線を引いた。「いずれにせよ」。これが中井の思想を雄弁に語っていると思った。
 世界の見え方は「複数」ある。「事実」はひとつかもしれないが「真実」は複数である。複数の人間が生きているのだから、それは「複数」になるしかない。中井は、このことを前提として「いずれにせよ」というのである。つまり、「複数」から、そのひとつを選んで生きる。
 そのとき、その「ひとつ」を選ばせるものは何か。中井の場合、それは何か。

だからこの陥穽は相当部分が心理的なものであり、決して宿命的なものではないと仮定しておくほうが、その反対の仮定よりもよいだろう。         (72ページ)

 「真実」は「仮定」にすぎない。つまり「宿命的」(決定的)ではない。そう「仮定するほうがよい」。
 ここには「事実」を自分で引き受ける「覚悟」がある。
 「いずれにせよ、私は、これを選ぶ」という覚悟である。

 それは同時に、中井以外の人間が、中井とは「反対の仮定」を選んだとしても、その選択を拒絶しないということである。中井の選択に従わせる、ということはしない、ということである。
 これは、実際に、私が経験したことでもある。
 中井はギリシャの詩人の作品を翻訳している。詳細な註釈も併記している。私はその註釈を無視して、ただ中井の訳(日本語)だけを読んで、私の感想を書いている。だから私の感想は、中井の「解釈」と合致しないことがある。
 リッツオスの詩について私が感想を書いたあと、中井がその翻訳の一部を変更したことがある。当然、私の感想も変わる。私が感想を書き換えると、中井が再び翻訳の一部を変更した。私もさらに書き換えた。
 『リッツオス詩選集』(作品社、2014年07月15日発行)の編集過程で起きたことである。
 これは「いずれにしろ」の「複数の仮定」の「複数」を具体的に提示して見せるということである。リッツオスの書いたことば、「事実」は変わらないが、それをどう読むかはそれぞれの読者によって違う。あらゆる解釈は「仮定」であり、同時に「真実」である。「仮定」「真実」は、いつでも変更が可能である。それは、一種の「交渉」である。中井がしていた別の仕事に関連づけて言えば「治療」ということかもしれない。それは、患者自分自身で生きる方法を探すということに似ている。中井は、それに立ち会う。立ち会うということを中井は選んでいる。
 この「交渉」の結果、中井の「真実(解釈/仮定)」と私の「真実(感想/仮定)」は一致したか。一致などしない。中井は中井の「読み方(解釈)」を私に押しつけない。中井の註釈と私の感想を読み比べてもらえばわかるが、そこには「一致」はない。
 こんなことで、いいのか。
 たぶん、ふつうの翻訳者なら、そういうことを受け入れない。ふつうの出版社なら、そういうものを受け入れない。しかし、中井は、それでいいと言った。
 はっきりとは言えないのだが、一緒に本を出そうという誘いが中井からあったとき、私は、「私の詩は、詩の背景を無視している。いわば、誤読だらけだ。中井の翻訳を邪魔することにならないか」と質問した。中井は「詩なのだから、どんな読み方があってもいい。ギリシャ語の詩、中井の訳、谷内の感想を一冊にできれば楽しい」と言った。ギリシャ語の原典を収録するという中井の夢は実現しなかったが、あのときの電話で、中井は「詩なのだから」のまえに「いずれにしろ」と言ったのではなかったか。突然、中井の「声」が耳に読みがえったのである。「いずれにしろ」を読んだとき。
 私は、実際に中井と話したことは少ない。だから推測するしかないのだが、中井はふつうの会話のなかで、ときどき「いずれにしろ」に似たことばをつかっているのではないだろうか。それは中井の「キーワード」ではないだろうか、と思ったのである。「キーワード」とは、無意識に、しかたなくもらしてしまうことばであるのだが、そして、だからこそ私はそれを「思想」と考えているのだが。 

 

 

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中井久夫集3

2023-03-20 18:54:37 | 考える日記

  中井久夫集3(みすず書房、2017年7月10日発行)を読み返していた。

 私は「解説」というものを、めったに読まない。人の書いた「解説」は、あくまでそのひとの考えであって、著作者(中井久夫)とは関係がないと思っているからである。この本でも、いままで「解説」を読んだことがなかった。最相葉月が書いている。そのめったに読まない「解説」をなぜ読む気になったのかわからないが、読んで、びっくり。私の名前が出てくるのだ。

 私は、なぜ中井久夫が、私の感想を組み込んだ『リッツォス詩選集』をつくろうと誘ってくれたのか、さっぱりわからなかった。中井の訳だけの方が売れるだろう。
 しかし、最相の「解説」を読むと、そうだったのか、と気づかされた。
 これ以上を書くのは恥ずかしいので、名前が出てくるページだけ、コピーしてアップしておく。
 ちょっと自慢してもいいかなあ、と思ったのである。

 中井から誘いの電話があったとき、私は完全に舞い上がって、自分で何かを判断したという意識がないが、この本の「解説」も私を舞い上がらせた。
 しばらく詩の感想を書いていなかったが、再び書き始めようと思った。
 とても励まされた。

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三木清「人生論ノート」から「個性について」

2023-03-05 23:07:51 | 考える日記

 長い文章。他のエッセイよりも若いときに書いたせいか「気負い」のようなものがあり、とてもむずかしい。18歳のイタリア人は、前回は読み進むことがむずかしく、前半で時間切れになったのだが。
 今回読み進んだ後半は、前半の「要約」というか、言い直しなので、一気に読み終わってしまった。最初から最後まで通読し、そのあと後半の「精読」という形で進めたのだが、すでに「個性とは個人がつくりだしていくもの」という主張が把握できているので「個性は宇宙の生ける鏡であって、一にして一切なる存在である」という後半の書き出しをつかみ取ると、あとは一気呵成。すべての文章が、この「個性は宇宙の生ける鏡であって、一にして一切なる存在である」の言い直しであると理解した。
 創造と自由について補足したかったのだが、それをすると私の三木清観の押しつけになってしまいそうなので、それはしなかった。
 あまった時間で「我が青春」と「読書遍歴」を読み進んだのだが、「人生論ノートは考えないとわからないが、これは考えなくてもわかる」。
 さらに「人生論ノート」の「後記」に書いてあった、「若いときの文章」という部分にふれて、「むずかしいのは(むずかしいことばが多いのは)、まだ背伸びして書いているからだね、君の作文みたいだね」というと、「それを言おうとしていた」という感想。
 いやあ、ものすごいなあ。自分で書いている作文の「問題点」もきちんと把握している。
 教えながら感心してしまう。
 次回からは「天声人語」をテキストにするのだけれど、難なく読みこなすだろうなあ。速読というか、多彩な語彙を身につけるために読むのだから、「天声人語」が適切だと思うのだが、「哲学を読みたい」とリクエストされてしまった。

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中井久夫集2『家族の表象』

2023-03-01 22:51:21 | 考える日記

 中井久夫集2『家族の表象』の「精神科医から見た子どもの問題」という文章。その「本筋」からふっと脇にそれる形で、こんなことが書かれている。戦争体験についてである。

空襲は台風に近い天然現象であって、恐怖ではあったが、アメリカに対する敵意は実感がなかった。

 「実感」。
 これは、とても大切なことではないだろうか。
 ロシアのウクライナ侵攻から2年、それを利用する形で「台湾有事」がしきりに話題になる。
 その話題のなかに占める「実感」というものは、どんなものだろうか。
 私は、さっぱりわからない。

 ウクライナの人は、ロシアに敵意をどれくらい持っているのか。爆撃の恐怖(死の恐怖)と敵意を比べられるものかどうかわからないが、敵意を持つよりも、恐怖を持つ方が多いのではないだろうか。
 他人の感覚はわからないが、「台湾有事」が起きたとして、そのとき私は中国に対して敵意を抱くか。それとも恐怖を抱くか。たぶん、恐怖である。そしてそれは中国に対する恐怖というよりも、死に対する恐怖だろう。私の余命は、そんなに長いものではないけれど、やはり恐怖がある。何よりも、痛いのはいやだなあ、と思ってしまう。

 そこから、こんなことを考える。
 「敵意」というのは、いったい、どういうときに生まれ、どう動くのか。いったい、ロシアのだれがウクライナのだれに対して「敵意」を持ったために戦争が起きたのか。侵略が起きたのか。個人が、どこかの「国家」という組織に対して「敵意」を抱くということが、私には、考えられない。私には、そういう「想像力」はない。
 「国家」が、どこかの「国家」に対して「敵意」を持つ、というのも、かなり論理的に飛躍した考え方だと思う。「組織」が自律的に「意識」を持つというとは、私には考えられない。
 具体的に言えば。
 プーチンが、ゼレンスキーに「敵意」を抱いた? 侵攻された結果、ゼレンスキー(ウクライ人)がロシア軍に「敵意」を持ったというのは理解ができるが、それは何か「個人の感情」とは別なものに思える。多くの人は「敵意」と同時に「恐怖」を感じたと思う。もしかすると、「敵意」を持つよりも前に、恐怖を持ったのでは、と思う。
 この「恐怖」を「敵意」に変えていくのは、かなりの精神力が必要だと思う。そして、その精神力というのは、私の感覚では「実感」ではない。何か、ある意図を持ってつくっていくものだ。そして、その「敵意」を集団を動かすものに仕立てていくというのは、こもまたたいへんな「力」がいると思う。
 そこから飛躍してしまうのだけれど、こういうことができるのは「恐怖」を感じることがない人間だけだろうなあ、と思う。自分は絶対に戦争に巻き込まれて死なないと判断している人だけだろうなあ、と思う。

 それから、こんなことも思うのだ。
 多くの国がウクライな支援のために武器を提供する。(買わせるのかもしれないが。)これはどうしてだろうか。ロシアがウクライナを超えて侵略してきたら「怖い」から? それならよくわかるのだが、しかし、わかりすぎて、変だなあと思う。自分の国が侵攻されると「怖い」から、そうならないようにするためにウクライナに戦わせる? これは、なんだか「支援」というのとは違うと思う。「利用」というのものだろう。
 どういう「利用」かというと、自分の国を攻撃されないための利用だけとは限らないだろう。
 武器を買わせて、金を稼ぐという「利用」の仕方もあるだろう。アメリカのやっていることは、これだと思う。「戦争」をウクライナにとどめておくかぎり、アメリカは攻撃されない。それだけではなく、武器を売ることができる。金儲けができる。そういう「判断」があると思う。
 それは中国や北朝鮮にもあるだろう。ロシアに武器を売るチャンスと考えている人もいるだろう。
 どちらの「陣営」にしろ、そこで金を稼いでいる人は「恐怖」は感じないだろうし、「敵意」だってもっていないかもしれない。「自由を守る」というととてもかっこいいが、かっこいいものは信じない方がいいかもしれない。自然にかっこよくなっているのならいいけれど、かっこよくみせるために、かっこをつけているのかもしれない。その人たちが感じている「実感」というものが、私にはわからない。

 かろうじてわかるのは、攻撃される人は怖いだろうなあ、ということだけである。私は戦争は体験したことがないが、「恐怖」は感じることができる。私は、いろんなことがこわい。私は老人だから、道で転ぶことさえ、とても怖い。
 プーチンが核をつかうとおどしているが、私は、広島や長崎の資料館見学だけでも「怖い」。「怖くない」というのは、もっとも「怖い」ことだと思う。岸田は先頭に立って「怖い」と世界中に語りかけるべきではないのか。侵攻したロシアが悪いのはわかっているが、どちらが正しいということは後回し死にしてでも、「怖い」と言わないといけない。ウクライナのひとたちの「恐怖」を代弁しなくてはいけないと思う。
 いま、恐怖を「実感」しない人が増えているのではないのか。

 

 

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三木清「人生論ノート」から「旅について」

2023-02-19 21:41:08 | 考える日記

 今回の文章はかなり長いので、時間内に読了できるかどうか不安だったが、30分以上余ってしまった。作文の指導に30分くらいかけているので、実質1時間で読んだことになるが、これには驚いてしまった。
 もちろんまだ読めない漢字も多いのだが「解放乃至脱出」の「乃至」を「ないし、と読む。意味はイコール(ひとしい)に近い」と説明すると「いわゆる、または、に似た感じ?」という鋭い指摘。
 三木清は反対概念を結びつけたり、ひとつのことばを別のことばで説明し直したりしながら、彼の「思想(ことば)のニュアンス」を明確にしていくところに特徴があるが、その運動を的確に追いかけることができる。
 簡単な例だが、たとえば

 旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的関係から逃れることである。

 ここには繰り返し(言い直し)がある。その言い直しの説明を求めると「日常=平生」「生活環境=習慣的関係」「脱ける=逃れる」とてきぱきと答える。「日常の生活環境を脱ける」が理解できなくても「平生の習慣的関係から逃れる」が理解できれば意味がわかる。そういう「文体」を、ほぼ完璧に把握している。(これは、多くの著述家が採用している文体であり、また日本語に限らず、他の言語でもみられることだが、この言い直し=繰り返しを発見するというのは「読解」の重要なポイントである。)
 「旅」のひとつのテーマである「発見」についても、「発明」との違いを、三木清の文章を踏まえながら、自分自身のことばで語りなおす。
 今回むずかしかったのは、最後に出てくる「動即静、静即動」の「即」の把握の仕方である。「即」は単なるイコールではない。「日常=平生」「生活環境=習慣的関係」「脱ける=逃れる」のイコールとは違う。「即」は「切り離すことのできない」であり、それが、その直後に出てくる「自由」の説明にもなっている。
 この「真の自由」を理解するためには、その前に書かれている「物からの自由」と「物においての自由」を理解しないといけない。「物からの自由」は、いわゆる「脱出」、しかし「物においての自由」は、そこに存在する「物」を形成しなおす構想力(能力)のことである。
 私の説明で、どこまで「即」の意味が通じたか、すこしこころもとないが、「物からの自由」と「物においての自由」について話し合ったとき、彼の方から「形成」という三木清のキーワードが出てきたので、たぶん半分くらいは理解できただろうと思う。

 日本語の勉強もさることながら「三木清の文章がほんとうに大好き」と言ってもらえるのは、テキストに三木清を選んだものとして、こんなにうれしいことはない。次は、最終回。「個性について」。

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三木清「人生論ノート」から「希望について」

2023-02-12 22:39:30 | 考える日記

  希望を、人生(生きること、いのち)、偶然と必然と関連づけながら、三木清は考えを進めていく。人間存在とはどんなものなのか、考えていく。「哲学」だから、ふつうのことばとは違う、というか、ふつうの「定義」ではないところへ踏み込んで行く。
 一読したあと、一段落ずつ読んでいくのだが、最初に出てくる「偶然」「必然」のほかに、私たちが日常的につかうことばで「然」を含むことばがある。
 それは何? 私は18歳のイタリア人に聞く。
 「自然」。
 その「自然」とは、どんなものだろう。そんなふうに話を向けると、
 途中に「間」ということばがあった、
 と三木清が問題にしている「核心」に切り込んで行く。「間」では、「間」にはなかったものが形成されていく。
 何が書かれているか、一読して、頭に入っている。これは、すごいことだと思う。

 さらに、希望を、欲望、目的、期待と三つのことばで言い直し(見つめなおす)部分では、目的は計画と関係する。目的を達成するためには計画が必要と言う。計画ということばは三木清の文章には出てこない。
 これも、すごいことである。

 ちょっと感心しすぎて、質問しなければならないことを忘れてしまった。
 339ページに、「間」を「根源的」と三木清は呼んでいるのだが、その理由は何か。宿題として、質問してみることにする。

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三木清「人生論ノート」から「娯楽について」

2023-02-06 17:28:52 | 考える日記

 「娯楽」について考えるとき、何から考えればいいか。娯楽の反対の概念は何か。仕事や勉強が思い浮かぶ。仕事からは、義務や責任ということばが思い浮かぶ。仕事(勉強)からの解放=自由。それが娯楽ということになるか。
 仕事と娯楽は反対。では、自由の反対は? 義務、責任はすでに考えた。ほかには? 仕事がつらいのは「強制」されていると感じるからかもしれない。強制は、支配。支配されると苦痛。苦痛から逃げられたら、自由。この自由は、幸福かもしれない。
 しかし、仕事をしないと生きていけない。生きていくとき、仕事をしなければならないと同時に、仕事だけでは苦しくて生きていけない。娯楽は、仕事からの解放。暮らしというのは、生活ということ。そうすると「生活」というのは「仕事」と「娯楽」から成り立っているのだが、このふたつということばに注目すれば「対立」とか「分裂」というこばが思い浮かぶ。「ひとつの生活」が仕事と娯楽に分裂する。対立する。遊びにゆきたいけれど、仕事がある。あしたデートの約束をしていたが、急に仕事のために会社に行かなければならなくなった。これは、つらいね。
 対立、分裂の反対のことばにどういうものがあるだろうか。統一がある。両立ということばもある。
 そういうことを話し合った後、いま考えたことばが、三木清のエッセイのなかでどんなふうにつかわれているか、注意しながら読んでいく。三木清は、美術鑑賞、音楽鑑賞という「受け身」の娯楽と、画家、音楽家という文化をつくりだす職業(仕事)を比較しながら、生活と仕事ではなく、生活と娯楽、さらに娯楽と芸術の両立(統一)についても考えている。終わりに近づいてきたところに、こういう文章がある。

 娯楽は生活のなかにあって生活のスタイルを作るものである。娯楽は単に消費的、享受的なものでなく、生産的、創造的なものでなければならぬ。単に見ることによって楽しむのでなく、作ることによって楽しむことが大切である。

 この文章を読み終わったとたんに、「これが三木清の結論だね」と18歳のイタリア人が言う。娯楽には享受的娯楽(受け取るだけの娯楽)と創造的な娯楽がある。仕事が何かをつくりだすように、娯楽も何かをつくりだすものでなくてはならない。作る楽しみがないといけない。
 私が、三木清がいちばん言いたいことは、どこに集約的に書かれている(結論があるとすれば、それはどこに書かれている)と問いかける前に、読みながら「結論」を推測する。それは、つねにどの文章に対しても「考えながら読む」という習慣がついているからだ。
 感激した。感激して、ほかにどういうことを語ったのか、どういう具合に三木清の文章を読み進んだのか、忘れてしまった。読むとは、だれかの考えを理解すると同時に、常に自分の考えを整理すること、自分の考えを見つめなおすこと。そのうえで、自分に納得できるものを「結論」と判断すること。
 その考え(結論)に賛成できるかどうかは別にして。
 自分なら、どう考えるか。どう論理を進めていくか。それを考えながら、読むことは、簡単そうでむずかしい。母国語でもむずかしいが、外国語になると、さらにむずかしい。それを、ぱっとやってしまう。
 そのうえで、「三木清の考え方に賛成だ」と言う。
 ほんとうに感動した。こういう「授業」を日本人相手にできるなら、それをやってみたいなあとも思った。
 時間が余ってしまったので、マルクス・アウレーリウスの「自省録」についても雑談した。イタリア人だから知っていて当然なのかもしれないけれど。「哲学青年」なのだと思った。余談だけれど。

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三木清「人生論ノート」から「偽善について」

2023-01-29 21:41:13 | 考える日記

 「偽善」ということばは、どの国のことばでもありそうである。しかし、ことばがあるからといって、その意味がぴったりとあうとは限らない。きょうイタリアの18歳と読んだ「偽善について」は、そのことを考えさせられた。事前に書いた「偽善について」の作文で、そのことに気づいたので、ゆっくり読み始めた。
 書き出しの文章は、特にむずかしい問題を含んでいる。

 「人間は生れつき嘘吐きである」、とラ・ブリュエールはいった。「真理は単純であり、そして人間はけばけばしいことを、飾り立てることをを好む。真理は人間に属しない、それはいはば出来上って、そのあらゆる完全性において、天から来る。そして人間は自分自身の作品、作り事とお伽噺のほか愛しない。」

 三木清が訳した文章だと思うが、二回目に出てくる「そして」が複雑である。
 最初に出てくる「そして」は「順接」というか、ふつうの「そして」であり、なくても自然に読むことができる。しかし、二回目の「そして」は「順接」とは言えない。
 「接続詞」のつかい方には一定の決まりがあるが、厳密ではない。なくても意味が通じる。一回目の「そして」はなくても意味が通じるだろう。二回目の「そして」は、ないとなんとなく読みにくい。直前が句点「。」で切れていることもあるが、「話題」というか「主語」がまったく変わってしまうからである。「主語」の連続性が感じられない。だから、それを「接続詞」をつかうことで連続させている。
 「そして」は一般的に「順接」である。そして、「順接」のとき、あるいは「並列」のときは、実は、省略してもそんなに不自然には感じない。一回目の「そして」はその類である。「真理は単純であり、人間はけばけばしいことを、飾り立てることをを好む」にしてしまうと、主語が変わるので少し読みにくいが、なくても「意味がわからない」というひとは少ないだろう。
 「飾り立てることをを好む。真理は人間に属しない」には接続詞がないが、おぎなうとすれば「そして」がいちばん最初の候補になるだろうか。前の文章が「真理は単純であり」を引き継いでおり、主語が変わらないので「そして」が省略されたのである。ここでは、「そして」以外の接続詞をつかうとすれば「また」かもしれない。「また」は並列だが、ここでは少し論理が転換するというか、論理が少し飛躍するので、何かしらの「逆接」めいた働きもするだろう。
 そうした文章(意識)の流れを受けての、二回目の「そして」。
 ここで、私はイタリアの18歳に質問した。「もし、ほかの接続詞をつかうとしたら、なにをつかう?」
 「しかし、をつかう」
 いやあ、びっくりしたなあ。
 「しかるに」ということばもあるが、いまはあまりつかわない。つかうなら、「しかし」がいちばん落ち着くだろう。「真理は天から来る。しかし、人間はその真理を愛さない。その真理よりも、自分自身がつくりだした作品(作り事)しか愛さない」と読むと、「論理」がすっきりする。
 「論理」をどうやって把握するか(正確に順を織ってとらえるか)ということと接続詞は緊密な関係にあるのだが、もう、教えることない、という段階。

 質問も、非常に鋭い。この書き出しの最後の文章についてであった。

真理は人間の仕事ではない。それは出来上って、そのあらゆる完全性において、人間とは関係なく、そこにあるものである。

 この「そこにある」の「そこ」とはどこか?
 答えられます? これはフランス語の「il y a」の「y 」、 スペイン語の「hay 」の「y 」、英語の「there is」の「there 」のようなものである。特定の「場」ではなく、頭のなかに浮かぶ「ある」という動詞をささえるための「そこ」としか呼べないものなのである。
 「そこ」とはどこか、と問うたとき、18歳のイタリア人は、日本語の、具体的なものとは対応していない何かに触れていて、それを言語化することを要求している。こういうことは、少しくらい勉強しただけでは質問できない。何かわからないことはない? どこがわからないか、わからない、という段階ではなく、わかることと、わからないことを明確に意識できる。
 だから、接続詞「そして」も、自分なら「しかし」をつかうと言えるのだ。

 この「偽善について」には、「偽悪」ということばも出てくる。こうした考え方(概念)はイタリア語にはないようだが、三木清が「偽悪家深い人間ではない」の「深い」ということばを手がかりに、きちんと定義することができた。

 

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中井久夫『アリアドネからの糸』

2023-01-28 17:27:29 | 考える日記

中井久夫『アリアドネからの糸』(みすず書房、1997年08月08日発行)

 中井久夫『アリアドネからの糸』のなかに「ロールシャッハ・カードの美学と流れ」というエッセイがある。これは、とてもこわい文章である。最初に出会ったとき、こわくなって、最後まで読むことができなかった。中井がつかっていることばを借りていえば「悪夢」のような文章である。
 「悪夢」は、こうつかわれている。

 もし、ロールシャッハ・カードが別々の十枚ではなく、ブラウン管の画面にまず第一カードが映り、この第一カードが変形して第二カードになり、第二カードが変形して第三カードになり、以下同様に第十カードまでつづくならば、これは想像するだに怖ろしい。これこそ端的な悪夢である。われわれはなすすべもなく、ただおののいて眺めるか、あるいは逃げ出すしかない。(354、355ページ)

 私は十枚のカードを「ブラウン管の画面」ではなく、中井の文章のなかで、次々に変形していくものとして読んだのである。十枚が別々のものではなく、一続きの連続した「流れ」としてあらわれ、その「流れ」のなかにのみこまれていく。
 そして、それは「映像」ではなく、「誤読」を許さない完璧な「論理」なのである。「論理」が私をのみこんでいく。これから書くことを中井は否定するかもしれないが、「論理」というのは「結論」という枠のなかにひとを閉じ込める。この閉塞感が、私とにっての「悪夢=恐怖」なのである。
 しかも、その「論理」が「中井の論理」というよりも、「ロールシャッハの論理」に感じられてしまう。中井は、いわゆる「チューニング・イン」状態で、カードの持っている美学とそれぞれの「意味」を語るのだが、それがほんとうにロールシャッハの「意図」そのものとして浮かび上がってくる。私は、ロールシャッハのカードを見たことはないし(本に収録されているのはモノクロの図版)、ロールシャッハの書いたものを読んだこともないから、私が感じる「ロールシャッハの意図(論理)」というのは「空想」でしかないのだが、ロールシャッハはそう考えたに違いないと感じてしまう。私は二重の「悪夢」のなかに取り込まれてしまう。
 この感じは、訳詩について書いた文章、特に「「若きパルク」および『魅惑』の秘められた構造の若干について」を読んでも感じられる。それは中井の分析なのだが、中井が分析しているというよりもヴァレリー自身が語っているような揺るぎない「論理」なのである。中井がヴャレリーに「チューニング・イン」してしまっている。

 たぶん「若くパルク」「魅惑」の中井久夫訳を「象形文字」に掲載した前後だと思うのだが、私は、中井久夫に会いたくて手紙を書いたことがある。そのとき、中井は「私は職業柄、どうしても会った人を分析的に見てしまうので、会わない方がいいでしょう」と断られた。そのことばは、「真実」であると同時に、今から思うと「親切」でもあったのだとわかる。
 「チューニング・イン」というのは、一方においてだけ起きることではなく、二人の間で起きることである。だから「生身」の人間が相手のときは、たぶん、危険なのだ。中井にとって「危険」というよりも、私にとっての「危険」の方が大きいだろう。私は、そのころ、中井の訳詩(そのことばのリズム)に陶酔していたから、「チューニング・イン」を起こした後では、もう詩が書けなくなっていたかもしれない。
 それから何年かして、『リッツォス詩選集』を出版するとき、編集者をまじえて三人で会ったことがあるが、これは三人だからよかったのだと思う。「ニューニング・イン」が緩和される。

 中井の文章は、あるいはことばと言った方がいいのかもしれないが、それは「チューニング・イン」を経てきて、表面化される。あるテーマについて書く。そのときそのテーマとともに存在する人間がいる。その人間に「チューニング・イン」して、そのリズム、論理でことばが動いている。だから、どの世界も「中井個人」の超えて、「別の世界」が二重写しになってダイナミックに動く。奥が深いとは、こういうことを言う。
 それが詩の場合は、わあ、おもしろい、という感嘆になるが、ロールシャッハ・カードの分析では、何か、私自身が「強制的」にテストされているとさえ感じてしまうのである。
 奇妙な言い方だが、中井が死んでしまったいまだからこそ、安心して読むことができる。「チューニング・イン」が、現実ではなく、ことばのなかだけで起きるからだ。中井の訳詩については、私はこれまでいろいろ書いてきたが、エッセイについて書いてこなかった。それは、どこかでこの「チューニング・イン」の力を恐れていたからなのだろう。
訳詩を読んで、そのことばの肉体感染したとしても、私はカヴァフィスに、あるいはリッツッスに「チューニング・イン」したと言い逃れることができる。

 

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三木清「人生論ノート」から「仮説について」

2023-01-22 21:03:57 | 考える日記

三木清「人生論ノート」の「仮説について」。

仮説とは何か。「本当かどうかわからない説」というのが18歳のイタリア人の「定義」だった。
ここから、「仮説」の反対のことばは何かを考える。どういうときに「仮説」ということばをつかうか。
コペルニクスは、地動説を唱えた。最初は「仮説」(コペルニクスは、信じていたが)。それが「事実(真理)」になるまでに、どういうことがあったか。「論理」が正しいと「証明」できたとき、「仮説」が「事実/真理」になる、というようなことを雑談で話し合った後、本文のなかに出てくる「証明」ということばに注目するようにして読み進める。
三木清の書いている「仮説」は科学的な「仮説」ではなく、「思想(まだ認められていない行動指針)」を「仮説」と呼ぶことで論を展開したもの。
つまり、三木清は「仮説」とはどういうものであるか、というよりも、「思想」とはどういうものであるかを、「常識」と対比させて語っている。
「思想」とは「信念」であり、それはときには危険である。他人にとって危険というよりも、本人にとって危険である。そのことをソクラテスを例に、さらりと書いている。ソクラテスが従容として死に就いたのは、彼が偉大な思想家だったからである、と。
この論理展開の仮定で、三木清の好きな形成、構想、創造ということばが出てくる。これを18歳のイタリア人が、的確に読み進める。

私がいちばん驚いたのは、途中に出てくる「自己自身」ということばを「自分自身」と読み違え、すぐに気づいて「自己自身」と読み直したこと。「自己自身」を「自分自身」と読み違えることができるのは、完全にネイティブのレベル。意味は同じだから。「最初の文字を見たら、次の文字を連想して読んでしまう」というのだが、それができるのがネイティブ。

さすがに、ソクラテスのところに出てきた「従容」は読めなかったが、これを正確に読むことができる日本人がどれくらいいるか。「従容」をつかって「例文」をつくれる日本人が何人いるか。

 

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中井久夫『記憶の肖像』(2)

2022-12-26 22:32:34 | 考える日記

 中井久夫はカヴァフィス、リッツォスだけではなく、他のギリシャ詩人も訳している。そのことを「ギリシャ詩に狂う」に書いている。そのなかで、こういう文章がある。エリティスの詩のなかの「風」について触れている。

舞い、ひるがえり、一瞬停止し、どっと駆け出す風のリズムがあった。

 あ、これは私が中井久夫の「訳詩」から感じ取ったものだ。「狂ったザクロの木」一部をエッセイのなかで紹介しながら、こう書いている。

歌い出しは「南の風が白い中庭から中庭へと笛の音をたてて/円天井のアーチを吹き抜けている。おお、あれが狂ったザクロの木か、/光の中で跳ね、しつこい風に揺すられながら、果の実りに満ちた笑いを/あたりにふりまいているのは?/おお、あれが狂ったザクロの木か、/今朝生まれた葉の群とともにそよぎながら、勝利にふるえて高くすべての旗を掲げるのは?」である。全六連の最後までザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままにしばしの陶酔を私に与えてくれる。

 中井の訳もすばらしいが、私は「最後までザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままに」というこの感想が大好きである。詩の陶酔は、何を読んでいるのかわからなくなることである。
 私は、この「陶酔」の感覚を、中井と共有できたのではないかと、秘かに感じている。私は中井のことばのリズムに酔った。そのことを最初の手紙に書いたと思う。そうしたら、中井から、私のことばのリズムは、ある詩人のリズムに似ている、という指摘があった。それは外国のとても有名な詩人だった。私は読んだことはなかったが、名前は知っている。別の機会にも同じことを言われた。驚いて、その全集を買ったが、「訳詩」が私には合わなかったのか、少し読んで挫折した。リズムが、違っている。「ザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままに」という感じにならないのであった。中井の訳で読んでみたいと思った。ことばのリズムに陶酔する。--それが詩を体験することだと、私は中井の訳詩(ことば)をとおして、あらためて学んだ。味わった。

 中井久夫が死んだ直後は、いろいろ書くことをためらったが、いまは少し書いてみたいと思う。私の「中井体験」は、他のひとの中井体験とは違うだろうと思う。多くのひとは「思想」について語っている。しかし、私にとっては、中井は「ことば」のひとであり、そのことばというのは「リズム」なのである。「意味」ではない。「意味」も重要だが、「意味」の前に、私は「リズム」に共感して読んでいる。
 きょう取り上げたエッセイでは、中井自身が「ことばのリズムの人」であると語っていると思う。

 写真は、中井久夫が送ってくれた「みすず」と、「みすず」のコピー。三十年前のことである。


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週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
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(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

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なぜ、いま?(読売新聞記事の書き方、読み方)

2022-12-24 13:16:46 | 考える日記

 2022年12月24日の読売新聞(西部版・14版)の一面。
↓↓↓
「特定秘密」漏えいか/防衛省 海自1佐処分へ/OB依頼 複数隊員通し(見出し)
 海上自衛隊の1等海佐が、安全保障に関わる機密情報にあたる「特定秘密」を外部に漏えいした疑いがあることが、政府関係者への取材でわかった。防衛省は近く1佐を懲戒処分にする方針だ。特定秘密の漏えいが発覚するのは初めて。
 政府関係者によると、海自OBが、知人の現役隊員に接触し、複数の隊員を経て1佐の元に依頼が届き、漏えいにつながったという。
↑↑↑
 「政府関係者への取材でわかった」と書いてあることからわかるように、これは防衛省の発表ではない。「特ダネ」である。
 どうして、わかったのだろうか、というよりも、私は「いつ」わかったのだろうか、ということの方に関心がある。
 きょうの、ふつうの新聞各紙のトップは「来年度予算」だと思う。(確認していないので、わからないが。)その内容といえば予算規模が114兆円、防衛費が今年度より6・7兆円増えることだろう。
 なぜ、そんなに防衛費だけが増えるのか。
 だれもが疑問に思うだろう。
 その疑問に答えるには、日本が攻撃される危機が強まっている、というのがいちばんである。その「攻撃の危機」は、特定秘密の漏洩という形でも起きている。日本の情報が狙われている。
 でも、どこの国が、あるいは誰が、特定秘密を手に入れたのか。それは、読売新聞の記事には、まだ、書いていない。「海自1佐」が漏洩した(処分を検討する)というところまでわかっているのだから、当然、漏洩先もわかっているはずだが、それは「政府関係者」から教えてもらえなかったのか、教えてもらったけれど、「特ダネ」の第二報に書くために残しているのかわからないが、書いていない。
 これは逆に言うと、今後もこのニュースが「一面トップ」に書き続けられるということである。そして、それは「予算」の問題をわきに押しやるということである。
 これが、このニュースのほんとうのポイントだと私は考えている。
 「安保の危機」をアピールする。その結果として、防衛費の増額を当然のこととする。その方向に世論を誘導していく。
 「特ダネ」だから、今後次々にたの報道機関がこのニュースを追いかけるだろう。つまり、このニュースのつづきが、紙面を埋める日がつづくのである。その間、防衛費が大幅に増えるということが忘れられる。あるいは、「特定秘密」まで狙われている、防衛費が拡大されるのは当然だという方向に世論が誘導される。
 そういう誘導をするための、リークである、と読む必要がある。

 で、問題はもとへもどって、「いつ」リークされたか。
 やはり、このタイミングで、リークされたのだ。予算の閣議決定に合わせてリークされたのだ。
 読売新聞の記事を読むかぎり、漏洩した人物は特定されている。そこからさらに漏洩が広がるということもない。すでに漏洩された内容も把握されている。処分することも決まっているらしい。
 海自1佐と漏洩を巡る「過去」はこれから次々に出てくるが、きょう以降(未来の時間に)漏洩が起きる可能性はない。だから、このニュースは、海自1佐を処分してからの発表でもかまわないわけである。
 だとしたら、やはりいちばんのポイントは「リークした時期」、なぜ読売新聞がその記事をきょう書いたかである。
 一面のトップ記事が予算ではなく、「特定秘密」漏洩か、という疑問形のニュースであることの意味を、私たちは考える必要がある。そのニュースは、私たちの生活に直結する予算よりも重大なニュースなのかどうか、考える必要がある。

 

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村上春樹の日本語

2022-12-19 17:02:40 | 考える日記
きょうアメリカ人と読んだ「1Q84」のなかに、次の文章がある。

(青豆は)ろくでもない三軒茶屋あたりで、首都高速道路三号線のわけのわからない非常階段をひとりで降りている。しみったれた蜘蛛の巣をはらい、馬鹿げたベランダの汚れたゴムの木を眺めながら。
「ろくでもない」「わけのわからない」「しみったれた」「馬鹿げた」を辞書で調べたがよくわからない、という。「しみったれた」は「ケチ」としか載っていなかったらしい。

私がした説明は、「それは英語で言えば全部FUCK(FUCKing)になる」。
日本語は、いわゆる放送禁止にあたるようなことばは少ないが、そのかわり様々な言い換えをしている。
だから、上記の文章、「ろくでもない」「わけのわからない」「しみったれた」「馬鹿げた」を入れ替えても「意味」は通じてしまう。
こんなぐあい。

「しみったれた」三軒茶屋あたりで、首都高速道路三号線の「ろくでもない」非常階段をひとりで降りている。「馬鹿げた」蜘蛛の巣をはらい、「わけのわからない」ベランダの汚れたゴムの木を眺めながら。

つくずく、村上春樹の日本語は、外国人が日本語を勉強するのに適した文体だと思う。かならず「言い換え」がある。そのために小説が非常に長くなっている。
だから、文章を読むのに慣れた人間なら、「退屈」としか言いようのないものになる。いつまでたっても終わらない。原稿料(金稼ぎ)の文体と言い換えてもいい。
 
 
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