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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「教養」とは何か(和辻哲郎と向田邦子)

2023-12-07 13:13:00 | 考える日記

 

 

 和辻哲郎『桂離宮』を読んでいると、八条宮という人物が出てくる。「教養」のある人間だ。その「定義」のようなものとして「源氏物語」「古今集」などの「古典」精通というようなことが書いてある。このときの精通とは単に熟読している、知識を持っているということではないだろう。「味わうことができる」ということだろうと思う。
 「味わう」ということは、どういうことか。その「ことば」の世界を、生きて動いていくことだろう。それは、「ことば」の動きのなかにある「自然に動き出してくる力」にあわせて、自分を動かすということだろう。世界は「ことば」に満ちている。世界に満ちている「ことば」のなかにはむだなもの、余分なものもある。それを適切に切り捨てれば、「ことば」は自然に美しく輝き出す。この「切り捨て」のことを和辻は「精神の否定的な働き」と呼んでいる。
 この「精神の否定的な働き」という文章に出合った瞬間、私は、ふと向田邦子の『父の詫び状』を思い出した。そのエッセイは、向田邦子が体験した昭和の家庭のことが詳しく書かれている。人は何を大事にし、何を整理し(切り捨て)、生活を整えたか。その「整え方」も「教養」である。それを昔は「しつけ」と言ったのだが。
 本のタイトルにもなった「父の詫び状」には、父の客が家のなかで酔っぱらって嘔吐した。それが障子だったか襖だったか何か忘れたが、敷居の溝にはさまっている。それを楊枝(だったかな?)をつかって掘り出すようにして掃除する。それを読みながら、なんというのだろう。読んでいて美しいシーンが思い浮かぶのではないのだが、なんともいえず「美しい」と感じてしまった。この「美しさ」に対して、父がぎごちない「詫び状」を書くのだが、その「ぎごちなさ」がおかしくて、うつくしい。この「おかしい」は清少納言の書いている「をかし」かなあ……。
 脱線したが。
 生活のなかで鍛えられる「教養」がある。それは「生活の味わい方」なのだ。吐瀉物の掃除は、それ自体は「味わいたくないもの」かもしれない。しかし、そのあとに生活が整えられ、「美しさ」が味わえる。それは、たんに家が美しく掃除されていてきもちがいいという味わいではない。父が侘びたように、思わず侘びたくなるような何かである。そういう「味わい」を向田邦子のエッセイは、とても自然に輝き出す形で表現している。
 和辻のことばをつかって強引に言い直せば、向田は肉体をつかって吐瀉物を生活から「切り捨てた」。そのとき、そこにはやはり「否定する精神」が強く働いている。汚れを否定する精神。そして、それが日常を輝かせている。向田自身を輝かせている。そのまぶしさに、父は思わず「詫び状」を書かずにはいられなかった。
 その「詫び状」はぎごちないが、そこにも父の「教養」が滲んでいて、私は読みながら思わず泣いてしまった。「教養」とは人間を「嬉し泣き」させるものかもしれない。「自然に動き出すいのち」が輝く瞬間、そこには「教養」が動いている。

 『父の詫び状』は、これから日本語を学んでいるイタリアの青年と一緒に読み進めるのだが、日本語の知識だけではなく、そこに書かれている「日本の生活の教養」のようなものにも触れてほしいと思っている。

 

 

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和辻哲郎と林達夫

2023-12-02 21:51:57 | 考える日記


 人はどんなふうにしてあることばと出会い、それを好きになり、その「好き」が広がっていくのか。自分のことであっても、よくわからない。私は、いろんな著述家のいろんな文体が好きだが、和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んでいて、ふと林達夫を思い出した。
 薬師寺の薬師如来の作者が誰なのかわからないが、そのことについて、和辻は、あれこれ想像している。(岩波版、全集、123ページ)

 当時の文化はむしろ書紀に名を録せられない中流の知識階級によって担われていたと見られるべきである。たとえばわれわれはあらゆる民家に仏壇を造るべき命令が下ったことを知っている。この命令はある程度まで遵奉せられたであろう。そこには盛んな需要がある。供給者もまたなくてはならぬ。もしこの仏壇の最も優秀な例を玉虫の厨子や橘夫人の厨子に認め得るとすれば、仏壇の標準がすでに徳川時代のごとき低劣なものではない。そこで一般の需要に応ずる仏壇製作家もまた相当に有為な芸術家でなくてはならぬ。そしてその数も、少なくてすむまい。そうなるとそこに芸術家の社会が成立してくるであろう。その社会においては大寺の本尊を刻むことは非常な名誉であるに相違ない。そういう社会の雰囲気のなかでは、薬師寺金堂の本尊を造った様なすぐれた作家は天才として通用するのである。この種のことは建築家についても、僧侶についても、あるいはまた学者についても、存在したであろう。そうしてそれらはみな書紀と関わるところがない。

 林達夫は、こうした文章、文献的裏付けのない「想像力」だけがことばを動かしていくような文章は絶対に書かないだろう。そういう意味では、これは林達夫とは無縁の文章なのだが、私は、あ、林達夫はここから学んだに違いない、と私は思うのだ。
 ある「事実(現象)」がある。そのとき、そこには「社会」がある。「社会」の動きが、その社会で起きた「事実」と関係がある。
 和辻は「想像力」で、それを考える。林達夫は、「文献」を探し出して社会を浮かび上がらせる。どちらも「社会」を必要としている。「背景」を必要としている。「背景」(社会)があって、はじめて「事件」が起きる。

 私は学校で習う「歴史」が大嫌いだった。年号だとか、人の名前だとか、事件とか、やたらは記憶しないといけない。そんなものは必要なときに本で見ればいいのであって、覚える必要はない、と考えていたからだ。
 だから和辻の『鎖国』を読んだときは、非常に驚いた。「事件」ではなく、「社会」が描写されていたからだ。そこにはたとえば、世界一周をしたスペインの船が、大西洋にふたたび帰って来て、スペイン(だったと思う)の船と出合う。そのとき「航海日誌」の日付が違っていることに気がつく。日付変更線がまだ「存在」していなかった時代にも、時間はある。そして正確に「航海日誌」をつけていれば、必然的に日付が違ってしまう。つまり、世界一周した船の「航海日誌」をつけていた人は、無意識のうちに「日付変更線」を発見してしまったのだ。……これは「社会」というよりも、物理(あるいは数学科何か)の問題かもしれないが、「事件」の背後には、誰も意識していなかったような不思議な広がりがあり、それは「絶対的」なものなのだ。
 年号や人名、その他の「固有名詞」は、偶然のものにすぎない。必然的なものは、なかなてか記録されない。その記録されない必然こそが大事なのだ。

 私が林達夫、和辻哲郎の文章(ことば)に惹かれるのは、ふたりのことばの奥に、「学校教育」では無視される必然に気づかされてくれるからかもしれない。そうした必然は、なかなかことばにされない。しかし、そうした必然こそが、人間を「正しく」している。「日付変更線」に戻って言えば、間違いなく毎日「航海日誌」を書き続けるというような、地道な行為、そこに「正しさ」があるのだ。それは「人間の正しさ」につながる何かだと思う。

 

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林達夫と「勉強」

2023-10-18 22:55:22 | 考える日記

 ようやく「林達夫著作集」の再読を終えた。これから読み始める本(中井久夫や林達夫より古い本)のための、なんというか、「ウォーミングアップ」のつもりで、中井久夫のエッセイ、中井久夫著作集、林達夫著作集と読み進んできたのだが、正月から10か月もかかってしまった。このままでは、死ぬまでに読みたい本を読み終えることができない、とかなしくなる。
 福大病院の検診には、診察券もマスクも忘れてしまった。物忘れが激しくなったし、検査の結果も、予想はしていたがつらいものがあった。
 でも。
 林達夫には励まされる。晩年になってから、ロルカに出会い、スペイン語の勉強をはじめている。NHKのラジオ講座で。かつて勉強したことがあるロシア語もラジオ講座で復習している。何歳になっても、勉強している。
 そういえば。
 林達夫の文章には、よく「勉強」ということばが出てくる。生涯、勉強をつづけた人なのだ。林達夫からはいろいろ学んだが、この「勉強」ということばは、林達夫の思想をとてもよくあらわしていると思う。
 林達夫は、いろいろなことに対して、異論・反論を書いている。ある「学問」に対して、別の視点を提供している。それは、多くの「学問」が何ごとかを整理・要約するのに対して、その整理・要約された「学問の周辺」を勉強して、領域をひろげるという作業のように思える。
 「山」には頂点がある。そして、山にはすそ野がある。それだけではなく、山には「周辺」がある。山は、思いもかけないところから始まっている。どこから山へ上りはじめるか。それは、「きり」がない。「きり」がないとわかっているのに、林達夫は、そんなことはない、と信じて「周辺」をひろげ、そのために勉強している。
 「勉強」ということばに触れるたびに、私は、林達夫の書いているあれこれを思い出し、自然と、それをまねしたくなる。

 

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林達夫「イタリア・ファシズムの教育政策」

2023-10-01 11:54:26 | 考える日記

林達夫「イタリア・ファシズムの教育政策」(林達夫著作集5)(平凡社、1982年3月23日、初版第12刷発行)

 林達夫「イタリア・ファシズムの教育政策」を読んでいて、次の文章に出会う。昔は気がつかなかった。読み落としていた。

 ファシスト教育はあらゆる手段を以て資本主義体制を防衛し、ブルジョアジーの階級的支配を確保することに重点を置いている(30ページ)

 ここでいう「ブルジョアジー」とはいわゆる「資本家」のことである。

 労働者階級の地位を徹底的に劣悪化することによって(賃金値下げ、労働時間延長、合理化強行)辛うじて命脈を保ってきたイタリア資本主義は、今日、深刻な経済恐慌の渦中にあって気息奄々としている。(35ページ)

 「イタリア資本主義」を「アベノミクス」に変えれば、日本の現状にぴったり合致する。
 いま岸田は、「賃上げ」によって方針転換をしているように装っているが、賃上げは物価高によって相殺される。そして、そのとき労働者に還元される金よりも、資本家が確保する金の方が「大きい」だろう。だから「賃上げ」はみかけにすぎず、労働者の生活は一向に改善しない。私のような年金生活者は物価高によって年金が目減りするだけである。

 ここからひるがえって(?)思うのだが。

 いま世界で進行しているのは、ファシズムである。アメリカ資本主義(アメリカの資本家)が資本を独占しようとする動きである。それを戦争で遂行しようとしている。
 私が念頭に置いているのは、ロシア・ウクライナ問題である。ロシアがウクライナに侵攻したことは、もちろん悪い。そして、最終的に、アメリカがベトナムやアフガニスタンから撤退したように、ロシアは撤退するだろうと思うが、これを、アメリカ資本主義(強欲資本家)から見つめなおせば、こういうことだろう。
 つまり、ロシアがウクライナに侵攻する前は、EUとロシアの経済関係はとてもよかった。EUとロシアは経済的に相互依存の関係にあった。言い直せば、アメリカの資本家はEUでの「利益」をロシアに奪われていた。それを取り戻す必要があった。ロシアの経済を「封じ込める」必要があった。そのためにウクライナを利用したということだろう。
 もちろん、こんなことをアメリカ資本主義(その傀儡のバイデン)が言うはずがない。ウクライナに侵攻したロシアが悪い、民主主義、法の支配を破壊する行為だという。そのほかのことを考えさせないために、懸命に宣伝している。マスコミが(マスコミもまた資本主義のブルジョアであるから)、一生懸命、その片棒を担いでいる。
 林達夫は自分のことばではなく、ムソリーニが「反ファシスト新聞」を禁止したときの、新聞『イムペロ』から次のことばを引用している。(パシュカーニスからの「孫引き」らしい。)

「何人も自分の頭を以て考える権利を有するというが如き愚かな空想は、今晩から絶滅されなければならぬ。イタリアは唯一の頭を有する。ファシズムは、唯一の頭を有する。それは『指導者』の頭であり、脳髄である。裏切り者のすべての頭は、容赦なく切り捨てなければならない。」(39ページ)

 「自分の頭で考える」人間は「裏切り者である」。ここでいう「裏切り者」のことを、日本の右翼は「反日」と呼んでいる。安倍-岸田の言うことを批判する人間は「反日」である。そういう「反日」の「すべての頭は、容赦なく切り捨てなければならない」。これが、いわゆるインターネットの世界で起きていることでもある。

 読みながら、林達夫が生きていたら、いまの日本の社会を見たなら、形をかえた「日本ファシズム」論を書いたかもしれないと思う。
 書かれていることが、あまりにもいまの日本(あるいは世界の動き)と重なる。
 だから、こんなけとも思う。
 日本では、見かけの「賃上げ」「物価上昇」(好景気)の影で、資本家の利潤だけが拡大し、さらにその利潤に労働者の視線が向かないようにするために、いわば誘導策戦として戦争がつぎつぎに引き起こされるだろう。ロシア・ウクライナのあとは、中国・台湾である。アメリカは、すでにロシア・ウクライナで十分な利益を上げたと判断したのか(あるいは、厭きたのか)、ウクライな支援予算について不満をもらし始めている。ヨーロッパのいくつかの国でもウクライナ支援を手控える動きが出ている。このことは、アメリカの視線が中国・台湾へと向かっていること、世界の視線を中国・台湾に向けさせようとしている動きといえるだろう。実際に「台湾有事」が起きるかどうかは別にして、危険だと大騒ぎすれば日本はアメリカの軍需産業から武器を買う。それだけでもアメリカの資本家は大喜びをするだろう。

 

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林達夫「三つの指輪の話」(林達夫著作集3)

2023-08-24 12:14:30 | 考える日記

林達夫「三つの指輪の話」(林達夫著作集3)(平凡社、1979年12月01日、
初版第7刷発行)

 林達夫「三つの指輪の話」には、林達夫の「文体(思想)」の特徴があらわれている。
 林達夫は、彼自身の考えを彼自身のことばでは書かない。他者の考え、他者のことばを紹介することで、自分の考えを語る方法(文体)をつくりだした。「三つの指輪の話」には、それが美しい形で実現している。
 林達夫は、読者を迷路に誘い込む。この世界、この世界に存在するものは、迷路という規則(理性)をもっていることを明るみに出す。その迷路をつくりために林は妥協を知らない。迷路の設計図を、正確に描くのである。
 その設計図ができあがったとき、それは迷路ではない。つまり設計図がわかれば、迷路は存在しないのだが、その設計図を林は「完成図」としては提示しない。
 「結論」はない。いつでも「仮説」というか、未解決のものを残している。「結論」を解放している。
 逆に言えば、林がやろうとしていることは、閉ざされた「解決」を徹底的に拒み、つねにことばを「未知(わからない)」へ向けて解き放つことなのだ。

 もし真理というものがあるとすれば、それは「何かを探す」という行為(思考)のなかにのみあるのだ。「三つの指輪の話」は、信仰(宗教)をめぐる話だが、その「結論」として林が書いているのは、彼自身の「信仰告白=何かを探すことのなかに探しているものがある」ということだろう。


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林達夫「切支丹運動の物質的基礎」

2023-08-20 12:16:39 | 考える日記

林達夫「切支丹運動の物質的基礎」(林達夫著作集2)(平凡社、1982年03月23日、初版第9刷発行)

 林達夫「切支丹運動の物質的基礎」は、キリスト教の布教は、どうやって日本でおこなわれたのか。彼らが日本で布教できたその背景の、経済的基盤はどうなっていたのか、ということについて書いている。私は学校教育の「歴史」は好きではないが、こういう文章を読むと「歴史」というのはとてもおもしろいと思う。「過去」のできごとではなく、「いま」の問題としても見えてくる。
 いや、実際、彼らが日本に来て、どうやって布教したのか。「情熱」や「使命感」だけではできない。そこには何らかの「戦術」というか「政略」がないと、できない。
 林達夫は、彼らが、日本とポルトガルとの貿易のなかに割り込んで、商人となることで金を稼いだということを明らかにしている。彼らは、世界に支店をかまえる「ヨーロッパ最大の商業会社」だったのだ。
 びっくりして、目が覚めてしまった。
 スペインを中心とした国がアメリカ大陸に進出し、「布教」したのも、その背景には「商業主義」があった。金儲けがあった。金儲けをしたい集団と手を組んで、布教はおこなわれた。これは日本でも同じだ。

 宗教(キリスト教)が「金儲け」をしていいのか。私は信徒ではないから、そういうことは気にしないのだが、どんな世界にだって、人間が生きていくとき、「理念」から逸脱していく何かがある。そこに、人間の生き抜く力がある。
 それを肯定するか、否定するかは、これは別問題なのだが。

 ここから、私は、ぜんぜん関係ないことを思い出すのだ。
 私はかつて仲間と一緒に詩の同人誌「象形文字」を発行していた。そのときの同人のひとりに阿部泰久がいる。彼の詩は、なんというか「理念」を書いていなかった。言い直すと、「荒地派」のような詩ではなかった。むしろ、キリスト教の「商業活動」のように、どこか「生活」に密着しているものがあった。別なことばで言うと、そんなこと詩にしなくたっていいじゃないか。隠しておいた方が、詩(理念)っぽくない?というようなこと。詩集がどこかにあるはずだが、ちょっと見つけ出せないので、具体的な引用はしない。そこには「理念」ではなく、生きている人間の「視点」の確かさがあった。
 阿部は、この「視点」を掘り下げる形で、詩から俳句へとことばの運動を変えて行った。
 この「視点」は、別の「視点」から見ると、なんというか「間違い」であった。つまり、その当時の流行の詩からは少し「ずれていた」。そのためにとんでもない批判、こころない批判をするひともいた。しかし、どんな「間違い」にも、それぞれの「存在理由」がある。
 それはキリスト教布教が貿易に関与し、商業会社として動いてもいたということに少し(かなり)似ている。

 ここからまた脱線するのだが。
 私は詩の講座で詩を教えている。日本語教師として、外国人に日本語を教えている。日本語教師として大きな声では言えないが、私が目指しているのは「間違える」ことを教えたい。
 私は「学校の先生」にはいい印象を持っていないが、それは「先生」が「正解を教える」ことに忙しくて、「間違える」ということを教えないからだ。
 いつ、どこでも「間違い」は存在する。「正しい回答」と同じように、存在する。存在してしまう。
 それはなぜなのか。
 なぜ人間は間違え、その間違いを後で修正するにしても、間違えるという瞬間はなぜ存在してしまうのか。言い換えると、ひとはなぜ間違えることができるか。
 これは、私が「永遠の課題」のようにして考え続けていること。
 人間は、間違えることができる。そこに人間のヒミツガあると思う。
 どんな間違いの中にも、何かしらの真実、一理がある。それなりの理由がある。そこに「生きる力」のヒミツがある、と私は考えている。
 これは、また逆のことも言える。
 どんな「正解」のなかにも、「間違い」のきっかけはある。物理の発見が、ただ人間の幸福のためにだけ役立つかといえばそうではなく、原爆が開発され、多くの人が犠牲になったように。もし物理学者が「間違い」つづけていたら、1900年にわかっていることだけが「真実」だったら、原爆は完成しなかっただろう。また別の武器が開発されたかもしれないが。

 林達夫の書いている文章の趣旨とは関係がないが、つまり、こういう感想は、学校作文(論文)では「間違い」なのだが、いまの私には、こういうことを書くだけの「理由」がある。書かずにはいられない「理由」があるということだろう。それは、他人に説明しても、たぶん、わからない。「間違い」だから。

 

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チャットGPTの精度

2023-07-28 13:29:48 | 考える日記

 「チャットGPTの精度が落ちた」というニュース(見出し)を読売新聞で読んだ記憶があるが、検索しても出てこないので、テキトウな感想になるのだが。
 私は、これを当然だと思っている。
 世の中には「正確な情報」よりも「間違った情報」の方が多い。というか、「正確な情報」というものは、たいていの場合「修正」を重ねることで「正しい情報」にかわっていくものである。
 「情報」を「知識」と言い直して考えてみれば、すぐわかる。
 「天動説」が「地動説」にかわるまでに、どれだけ時間が必要だったか。「地動説」が登場して、すぐに「天動説」が修正されたわけではない。科学の世界でさえ、そうなのだから、「科学」ではない「人事」が動いている世界では、それがあたりまえだろう。
 さらに問題は、ひとは簡単には「間違い」を認めない、というか、「間違いを訂正して正しい情報に書き直す」ということをいちいちしない。たいてい、ほったらかしにしておく。
 ほんとうに正直な人間だけが、「あれは間違っていた、修正すます(訂正します)」と報告する。そして、そのとき、そのときの「情報」の大半が正しくて、ただ一点だけ間違っていたとしても、ひとは「やっぱり、あの情報は間違っていた」と間違いだけをとりあげて情報全体の価値を否定することが起きる。
 具体的偽は書かないが、「慰安婦問題(報道)」では、そういうことが頻繁に起きた。
 記者が責任をもって書いた「報道」では「訂正」がおこなわれるが、情報が匿名で発信され、拡散される世界では、「訂正」は拡散されず、「間違いの指摘」だけがひろがり、「正しい情報」が「間違った情報」になり、「間違った情報」が「正しい情報」にかわってしまうこともある。このときの「基準」が、その「情報の引用回数」で判断されると、それはとんでもないことになる。
 チャットGPTがどうやって情報を集めるのか知らないが、そしてそれが正しいか間違っているかどう判断するか知らないが、間違った情報を集めてしまう限り、どうしてもその「結論」は間違ったものになるだろう。
 いまはまだ「専門家」がチェックしている段階だから「精度が高い」のであって、だれもがつかい始めると精度はどんどん落ちるだろう。
 私がインターネットを始めたころ、「誰もが必ず一度はPLAYBOYを覗きに行く」と言われたが、いまはその手の情報は、PLAYBOYどころではなくなっている。PLAYBOYが掲載していた写真など、いまでは幼児向けの絵本みたいなものだろう。同じことが起きるだろう。

 私は情報と呼ばれるものが、新聞、ラジオ、テレビ、インターネットと変化してきた時代を生きてきたが、その変化に伴って「正しい情報」が広まると同時に、「間違った情報」が広がるもの目撃してきた。そして、思うことはただひとつ。「正しい情報」は確かに維持されるが、「間違った情報」はかぎりなく「拡散する」ということである。「正しい/間違っている」は機械的には判断できない。「間違い」を修正し「正しい」に変えていくことができるのは、「良心」だけである。「良心」の定義が難しいが。「倫理」が必要だというと、自民党の政策みたいになるが、あれは「良心」を失った強欲集団がつくったものだから、私は、いつも「少数派」のなかにこそ「倫理(良心)」の「基本」のようなものがあると考えることにしている。「多数派」にはつねに疑問を持つことが必要だ。
 最初に戻って言い直すと。
 「間違っている」ことを認識し、それを「正しい」に変えていくひとは少ないし、さらにそれを「記録」として残すひとはさらに少ない。情報社会では、そうやって確立された「正しさ」は非常に少ない。チャットGPT、それを見逃すだろう。そうしためだたない「正しさ」を収集しきれないだろう。
 
 チャットGPTが、「多数(派)」への疑問を持つことができるかどうか、「少数(派)」が維持する疑問を正確に認識できるかどうか。それが課題なのだが、強欲集団がつくりだしたものが、そういう基本的性質を持つとは考えることができない。10年後、私は生きてはいないだろうが、そのころはきっとチャットGPTの「誤作動」が大きな問題になっているだろうなあ。

 

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頭と肉体(感覚、あるいは実感)

2023-07-15 10:44:30 | 考える日記

 たとえば、東京の、とても見晴らしのいい高層ホテルに泊まったと仮定する。窓からスカイツリー(の頂点)と金星と北極星が見える。その3点を結ぶ。三角形ができる。その三角形の内角の和は? 簡単に考えてしまうと180度。でも、実際に測るとそうではないね。頭は180度を思い浮かべる。たしかに自分が立っている位置を無視して3点を結ぶ「平面」を想定すれば180度になるかもしれないが、自分の立ち位置がつくりだす「場の歪み」のようなものが影響して180度にならない。
 もっと簡単なわかりやすい例で言い直すと。
 たとえば、東京の、とても見晴らしのいい高層ホテルに泊まったと仮定する。(ごくふつうのホテルでもいいし、自分の部屋でもいいのだが。)天井と壁の三面がつくりだす天井のコーナー。それぞれの面のコーナーは90度。三つ重なれば、それは270度。でも、ベッドに寝転んで(あるいは椅子に座って)、その三面のつくりだす角度を見ると、なんと270度ではない。どの角も90度を超えている。(視覚の問題。)さらに、それを紙に描いて見ると(平面上に展開してしまうと)、その合計は360度になる。
 なぜ、どうして? 「立体だから」(空間だから)と言えばそれまでだが、立体だから(空間だから)を、それではわかるように数学的に説明できるか。三角形の内角の輪は180度、立方体のひとつの隅の角度の合計は270度のように説明できるか。まあ、証明できる人もいるだろう。でも、ふつうは、できない。
 そういうことは、「日常」にはたくさんある。
 きのう「神は死んだ」という日本語について書いたが、「無意識」が修正する「正しさ」のようなものが、どこかにあって、それは「正しい」と同時に「まちがい」でもある。それが「世の中」を動かすことがある。
 私は日本語を教える一方、スペイン語を勉強している。その教室で「わいろ」についての「ディベート」というと大袈裟だが、考えていることをスペイン語で話さなければならないことになった。その前に「政治」の話、「国際関係」、日本の「組織」の話をしていたので、私は、ふと田中角栄のことを思い出した。
 田中角栄の失脚の引き金は、立花隆が「金脈」を告発したことにあるが、問題は、そんなに簡単ではない。その前に、ベトナム戦争があり、アメリカは日本に自衛隊の派遣を要請した。角栄は、憲法9条を盾に拒否した。(韓国は派兵している。)怒ったアメリカは、角栄を追放することを決めた。(首相を交代させることを画策した。)それがどんなふうに実行されたか、それは知らないが、ともかく角栄は逮捕され、失墜した。これを見た政治家は、アメリカに逆らえば失墜するということを「頭」ではなく「肉体」で感じた。そして、それは多くのジャーナリズムのトップにも感染した。ここから、ずるずると「論調」はアメリカべったりになっていった。
 「頭」では、自分がアメリカによって、いまある地位からひきずり降ろされるということは起きないとはわかっていても、もしかしたらという「不安」が、肉他のどこかに残ってしまう。それは、人間をじわじわと蝕んでいく。いろいろなトップだけではなく、トップの姿勢は、その下で働く人にも。
 あ、少し脱線したか。あるいは、非常に脱線したか。
 私は、角栄に起きたのと同じこと(あるいは、それに近い圧力)が、世界中で動いていないか、疑問に感じている。それは何も、「中立」であることをやめて、NATOに加わわろうとするいくつかの国のことだけではなく、ロシアそのものにおいても。プーチンは、アメリカがプーチンをひきずり降ろそうとしているという「動き」ではないのか。それに対抗する形でウクライに侵攻した、ということもあるのではないだろうか。習近平や金日恩は、そうした「圧力」、同じように「追い込まれようとしている」と感じていないか。
 このアメリカの、すべてをアメリカの思うがままにという「圧力」は、多くの国が(多くのリーダーが)感じているかもしれない。なんとか、アメリカに対抗して、自分の国を守りたい(独自路線を貫きたい)と思っている国は多いだろう。ベネズエラは石油資源を盾にアメリカに抵抗している。南米で多くの左翼系の政権が誕生している。これは、アメリカへの「抵抗」ではないだろうか。この「抵抗」を感じるからこそ、アメリカはヨーロッパやアジアでアメリカの「圧力」を強めようとしているのかもしれない。

 飛躍しすぎる論理かもしれないが。

 アメリカの帝国主義は、たとえば三角形の内角の輪は180度、立方体のひとつの角の角度の輪は270度というのに似ている。それは、現実(立体空間、世界のなか)で「体感すること」とは違うのではないか。「頭」で考えるだけではなく、何か、私たちは「体」で感じるものを抱えて生きている。そして、それは「正しい」ことなのか、「まちがっている」ことなのかわからないが、人間を深いところで動かしている。「肉体」で感じることを、自分に言い聞かせるようにして、自分の見ている世界を受け入れている。
 なぜ、部屋の片隅の、三つの面の角は90度であるはずなのに、90度に見えないのか。一つ一つの角を測れば90度なのに、離れて見た瞬間90度ではなくなるのはなぜなのか。そして、90度ではないのに、それは90度であると判断できるのはなぜなのか。この問題を、いろいろな「世界」にあてはめるようにして考えてみたいと私は思っている。
 別の言い方で言えば。
 どちらが「正しい」か「まちがっている」か、簡単に判断しない。いま、自分は、どちらを選んでいるのか、どの立場で世界を見ているのか、それを忘れないようにしたいと思う。


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「神は死んだ」(日本語を教える)

2023-07-14 17:40:20 | 考える日記

 「死ぬ」という動詞のつかい方は難しい。私の授業のときではないのだが、ある生徒が「かわいがっていた犬が亡くなってしまった」という文章を書いた。それに対して、「動物の場合は、亡くなったとは言わない」と別の先生が教えた。これは、まあ、正しい。そのあと「死ぬ、死亡、死去、逝去、崩御」というようなヒエラルキー(?)も学んだらしい。
 まあね。
 動物は「死ぬ」。「死亡」は「豪雨で7人死亡」(名前を具体的に出さない、自己や災害のおおきさをあらわす)。「ミラン・クンデラ氏死去」(固有名詞とともにつかわれる。有名人だ)。「エリザベス英女王逝去」(ミラン・クンデラよりも偉い、といっていいかどうかわからないが、肩書がかなり違う限られた人)。「天皇崩御」(天皇クラスにしかつかわない)。
 で、ね。
 これからが問題。日本語検定試験ならそれでいいけれど、ことばは「生きもの」だから簡単に割り切れないのだ。
 たとえば父親。私は「きのう私の父親が亡くなりました」ということばを聞くと、ぞっとする。何か、違う。これは「かわいがっていた犬が亡くなってしまった」よりも、ぞっとする。「かわいがっていた犬が亡くなってしまった」には犬に対する愛情が感じられるが、「きのう私の父親が亡くなりました」には愛情が感じられないのだ。「他人行儀」な感じがしてしまうのだ。肉親の場合、とくに憎しみがこもっていない限りは「父が死んだ」がふつうなのではないか。少なくとも、私は、そう言う。
 「死んだ」ということばを発するとき、何か身を切られる思いがある。こころが強く結びついているとき、「死んだ」と言うのではないか。
 これは、こう考えてみるとわかる。
 私はちょっと意地悪な質問を生徒にしてみた。死なない存在が神なのかもしれないが、「もし、神が死んだら、何という?」
 「ことばのヒエラルキー」に従ってだろうが、「神が崩御」という答えが返ってきた。でも、そんな言い方は絶対にしない。「神が死んだ」としか言わないだろう。なぜか。神とは、こころと直接、しっかり結びついた存在だからである。そういう「親密」な関係にある存在に対しては「死亡/死去/逝去/崩御」などとは絶対に言わない。
 ことばの奥には「こころのルール」がある。そして、それは「文法(形式?ルール)」では説明できないのである。「かわいがっていた犬が亡くなってしまった」には、こころがある。「父が死んだ」にもこころがある。「父が亡くなった」にもこころがある。その「こころ」をどう読み取るかは、これまた、ひとりひとり違うから、まあ、ことばはほんとうにおもしろい。

 「検定試験」の合格が目的なら「犬は死んだ」と覚えないといけない。しかし、いま日常的に、「犬に餌をやる」ではなく「餌をあげる」という人が増えているし、数学の計算でも、「まず、括弧のなかの掛け算をしてあげて、それから括弧の外の数字を足してあげる」(これとこれを先に計算してあげて、それから……)という言い方をする教師もいる。昔なら「あげて」とは言わず「やって」と言っただろう。

 脱線したが。
 「死ぬ」ということばをどうつかうかは、ほんとうに難しい。私は、私が尊敬する人物について書くときは「死んだ」と書いてしまう。ミラン・クンデラが死んだ、という具合に。ミラン・クンデラが死亡した、とは書けないなあ。

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日本語を教える、あるいは教えることをとおして学ぶ(2)

2023-06-28 23:21:26 | 考える日記

 「翻訳コース」の生徒のつづき。日本語のニュアンス、使い分けを知りたい(論文を書くときの参考にしたい)ということなので、ベルグソンの「笑い」、ボーボワールの「アメリカその日その日」をテキストに、ことばの使い分け、文体の工夫などについて考えた。
 たとえば、ベルグソンは「検討」と「研究」をつかいわけている。(訳文は、つかいわけている。)

(1)先覚者たちの考えを徹底的に検討し、
(2)いくつかの研究が発表された

 (2)を「いくつかの検討が発表された」とすると、すこし違和感があるかもしれないが、(1)が「先覚者たちの考えを徹底的に研究し」であっても、違和感は少ないだろう。しかし(1)は「検討」と書いている。どう違うのか。
 「検討」は「研究」を含むのである。そして、「検討」は、そこに書かれていることの「当否」を検討するのである。「比較検討」ということばがあるが、そこには何かを比較し、選ぶ、という動きがある。
 だからこそ、(1)の文章は、「笑いに関する理論のしかるべき批判を打ち立てるべきではないかとも考えた」とつづいていく。「検討し」「批判を打ち立てる」。「批判する」よりももっと強いことばがつかわれている。どの「笑いの理論」が的を射ていて、どの「笑いのす理論」が間違っているか、はっきり識別する。
 「検討する」ということばには、そういう「論理展開」が準備されている。それを踏まえてことばが動いているから、「文体」にスピードが出て、強く響いてくる。こういうことも、どのことばを選ぶかということには重要な問題である。
 いま、追加で書き加えた文章の中の、

(3)笑いに関する理論

 この「理論」は「論理」とどう違うか。「理論」はまとまったひとつの体系。「論理」は考え方(思考の動かし方、ことばの動かし方。だから、たとえば「理論」はアインシュタインの理論(相対性理論)というようなつかい方をするが、アインシュタインの論理、相対性論理とは言わない。これは、セロリーとロジックのような関係。フランス語では、日本語ほど字面(音)が似ていないから混同しないが、日本語学習者は混同する危険性が高い。

(4)意識的に、あるいは暗々裏に、

 「暗々裏」は「ひとに知られずに(隠すように)」とか「内々に」とか「秘密に」という意味を持っているが、これは「意識的」にしかできないことである。だから「意識的に、あるいは暗々裏に」というときの「あるいは」は単なる「別の何かの提示」をするときの「または」とは違う。しかし、「または」とも言い換えることもできる。
 ここには皮肉というか、批判をこめた「強調」がある。
 気づくひとは気づくだろうが、気づかないひとは気づかないだろう。しかし、私は書いている、という意味がふくまれる。

 ボーボワール「アメリカその日その日」は、もっとおもしろい例がある。

(5)幾筋かの光の刷毛が、赤や緑の信号灯のきらめく地面をさーっと掃く
(6)あっという間に赤い滑走路照明灯が地べたに叩きつけられる

 「地面」と「地べた」。ボーボワールがフランス語でつかいわけているかどうか。フランス語では、どういうことばがつかわれていると思うか、と質問しながら、日本語を考えるのだが。
 私の感覚では「地べた」は肉体と深くつながる。地面に倒れた、地べたに倒れた、を比較すると「地べた」の方が肉体の記憶が強く呼び覚まされる。倒れたときの感情が強くよみがえる。
 ボーボワールは、私にとっては、論理的であると同時に、いつも「女の肉体」を感じさせる何かがある。それが、たとえば、この「地べた」ということばにある。訳者が、ボーボワールの「文体」(ことばの動くときの調子)を再現しようとしているのだと思う。

(7)祝祭の晩、夜のお祭り、私の祭りだ。

 この文章のおもしろさは、おなじ意味のことばが繰り返されること。「晩」と「夜」。「祝祭」と「祭り」。これは、受講生も気づいている。この似たことばの動きのなかで、最後に「私」が浮き上がってくる。
 このリズムも、翻訳のときは、とても重要だろう。
 「祝祭の晩、晩の祝祭、私の祝祭だ」では、いきいきした感じがぜんぜん伝わってこない。「文体」は、作家の命である。

(8)表情にそう書いてある。

 これは、フランス語なら「表情に出ている(あらわれている)」という感じになると思う、と受講生が言った。そして、「なぜ、書いてある、ですか? 描いてある、という漢字ではないのですか?」(書くと描くのつかいわけを、受講生は知っていて、そう質問する。)
 「表情にそう書いてある」はさっと読みとばしてしまうが、もっと日本語らしく「翻訳」するならば「顔に書いてある」だろう。訳者は「顔に書いてある」ということばを思い出したけれど、それをそのままつかってしまうと、あまりにも「日本人の感覚」になる。だから、ボーボワールが日本人ではないということを、意識的に、あるいは暗々裏に気づかせるために「表情に」と訳しているのだろう。そして、その「表情」は、たしかにフランス語を「直訳」したものなのだろう。訳者は二宮フサだが、そういう配慮ができる訳者なのだろう。
 
 こんなことを書きながら思うのは。
 私は、「思想(意味、内容)」が好きなのではなく、その「結論(要約)?」の細部を支えることばの選択にこそ関心があり、そこにこそ「その人の思想=生き方、肉体」を感じているんだなあ、ということである。
 思想の意味は、みんな、おなじ。「どうしたら人間は幸福になれるか」ということを考え、答えをその人なりに出している。ほかの「結論」なんかは、ない。だからこそ、「結論」ではなく、その「過程」で動いていることばの在り方だ重要なのだと思う。「ことばの肉体」ということばをつかうとき、私は「こそばそのものの肉体」と同時に「ことばにまぎれこんだ人間の肉体」を感じている。ボーボワールは、私は日本語でしか読んだことがないが、彼女のことばにはいつも「肉体」がまぎれこんでいる。
 追加で書いておく。

 


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日本語を教える

2023-06-21 15:03:03 | 考える日記

 きのうの生徒は「翻訳コース」の生徒。翻訳といってもジャンルによってことばが違うので、何を求めているのか、何を教えればいいのか、実はわからなかった。学校のカリキュラムに従って「小説」などの読解をすることにしたのだが。
 一回目に読んだ「海辺のカフカ」は、生徒の求めているものとは違っていた。「ノンフィクション」の「翻訳」を目的としている、という。二回目は、新聞・雑誌の日本語に触れた。新聞の読み方(見出しを読んで本文を推測する、見出しに助詞などを補い短文にする)を勉強したのだが、これも、何かピント外れな感じがする。授業が終わったあと、次回(つまり、今回)の相談をした。フランス人なので、フランス語から翻訳されたものを読むのもいいかもしれないと思ったが、それでは「日本語」にじかに触れることにはならない。それで、中井久夫がバレリーについて書いた文章、あるいはプルーストについて書いた文章を読んでみようということになった。
 そして、今回。
 「思索」ということばに出会った。意味がよくわからないというので、あれこれ説明していると、突然。
 「思考、思索、思想はどう違うのか。どうつかいわけるのか」
 という質問があった。
 実は、こういうことを知りたかったらしい(学びたかったらしい)。
 大学院生で、いま、論文の準備をしている。そのとき、たとえば、ある文脈で「思考」ということばをつかうべきなのか、「思索」ということばをつかうべきなのか、あるいは「思想」を選択すべきなのか。
 マルクスの思想とは言っても、マルクスの思索とは言いにくい。マルクスの貨幣に関する思索、となら自然に言える。思想は、いわば全体像をさすが、思索はある部分を深く掘り下げるときにつかう。研究に近いか。思索の索は索引の索であり、検索の索でもある。全体をおおうというよりも、やっぱり追求するに似ている。これは、長い間いろいろな文章を読んでいる内に自然につかみ取るもの。区別を意識するのは、多くの文章に(ことばに)触れる人だ。
 そうだねえ。
 論文を提出したら、「ここは思想ではなく、思索」という具合に注意されても、それだけではなかなかわからない。それが知りたかったのか、と驚いた。
 中井久夫の文章のなかに出てきた、実存主義、構造主義(もう古いか)はすぐに理解できるし、ヴァレリーはもちろん(「カイエ」や「若きパルク」を含む)、ヴォーボワール、ソシュール、デリダ、ラカンもわかる。しかし、おなじ中井久夫のエッセイでも「けやき」について書かれたものがわからない。木の名前がわからないし、どの木のことを描いているかわからないから、描写が「映像」にならない。けやきを知っている日本人なら、その美しい描写に感動するが、感動できない。
 ことばは「簡単(日常語に近い)」ければわかる、「難解(学術語)」ならわからない、ということはないのだ。むしろ「学術語」の方になじんでいることもあるのだ。
 
 似たようなことは、他の生徒にも感じた。
 林達夫をいっしょに読んでいるのだが(林達夫の文章には特に難解なことばがでてくるわけではないのだが)、何度もつまずく。そして、そのつまずいた部分を説明するのが、非常にむずかしい。林達夫は、なんというか、「趣味人」で、日常のささいなことを非常に細かく掘り下げて、いま起きている問題点を描き出す。現実の細部から出発し、その細部の「根本」にまでさかのぼり、そこから「いまの現実」を再構成することで、現実の問題点をダイナミックにとらえ直す。だから、とても、おもしろい。「鶏を飼う」など、非常におもしろいが、それは鶏の種類、餌の種類、あるいは餌の流通がどうなっているかなどがわからないと、ちんぷんかんぷんである。いちどでも鶏を買ったことがある人なら納得ができるが、そうでないと馬鹿馬鹿しいエッセイに見えてしまうだろう。林達夫の「思想」の「深み」、「思考」の「運動」のダイナミックな切れ味がわからないだろう。

 どんなことばを生徒が求めているか。それを把握しないと、語学の指導はむずかしい。日本語検定の問題などは、いかに受験生を不合格にするかを狙っているとしか思えないものが多い。いまどき、「拝啓」につづき、時候のあいさつを書いて、そのあと「本題」にはいるというような手紙の書き方をする人はいない。それに、教えている先生にしても「前略」はともかく「草々」は知らない、見たこともないという人がいる。それなのに(そういう人がちゃんと働いて給料をもらっているのに)、外国人にそういう日本語をもとめるなんて、「日実用的」だろう。

 ときどきアルバイトをするだけだが、いろいろなことがわかるのが、やはり働くことのおもしろさだなあ。

 それにしても。
 「私は、こういうことをするために、こういう日本語が習いたい」と正確に言えるなら、日本語学校へなど来ないだろうなあ、と思う。つまり、学校の方で、生徒の「要望」をていねいに引き出すことが必要なんだと思う。

 

 

 


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村上春樹の日本語

2023-06-17 21:45:56 | 考える日記

村上春樹の日本語

 私は外国人に日本語を教えるとき、村上春樹の小説をつかうことが多い。とても便利だからである。村上春樹の文体には「繰り返し」が多い。そして、そのことが日本語を教えるのに好都合なのである。
 「繰り返し」の特徴のひとつの「述語」の省略がある。
 きのう読んだ「シェラザード」の最後。わかりやすくするために省略された述語の部分を(***)で示しておく。

 羽原は目を閉じ、シェラザードのことを考えるのをやめた。そしてやつめうなぎたちのことを想った。石に吸い付き、水草に隠れて、ゆらゆらと揺れている顎を持たないやつめうなぎたちを(1***)。彼はそこで彼らの一員となり、鱒がやってくるのを待った。しかしどれだけ待っても、一匹の鱒も通りかからなかった。太ったものも、痩せたものも、どのようなものも(2***)。そしてやがて日が落ち、あたりは深い闇につつまれていった。

 (1***)は「想った」、(2***)は「通りかからなかった」。ともに、直前の文章の末尾の熟語を省略している。重ねて書くと「うるさい」ということがあるのかもしれないが、それなら文章をふたつにわけずにひとつにすればいいのだが、そうすると長くなる。だから、こんな「工夫」をしている。
 これがどうして日本語を教えるのに有効かというと。
 日本語の会話は(会話だけではないが)、最後まで聞かないと意味がわからないというがほんとうはそうではなく、途中まで聞けば末尾は推測できる。その末尾の推測能力を鍛えるのに、とても役立つのである。
 末尾を推測するというのは、そんなに複雑なことではなく、日本人ならだれもが自然にやっていることだが、外国語の文体は「動詞(述語)」が主語につづいて、文頭近くに出てくるので、それを推測するということには、外国人はあまり慣れていない。
 「(1***)のあとには述語(動詞)が省略されているけれど、それは何?」
 と、私は生徒に質問する。さっと答えられたら、その生徒の日本語能力は高い。これは日本人相手にやってみても、きっと有効な「能力検査」になる。じっくり読めば、わかる。そうではなくて、即答できるかどうか。
 私が教えている18歳は、これができる。読めない漢字がいくつかあるが、これは「知識」の問題。述語の推測は「知識」ではなく、「理解能力」の問題。彼は、それをクリアーしている。

 この「シェラザード」の末尾には、村上春樹を教材に使う別の理由もある。最後の文章。

そしてやがて日が落ち、あたりは深い闇につつまれていった。

 この文章は、小説を読み慣れた人なら「そしてやがて日が落ち」まで読めば、「(あたりは)深い闇につつまれていった。」が推測できる。「常套句」で成り立っている。村上春樹の小説は「常套句」の宝庫である。「そしてやがて日が落ち」まで読み、それにつづくことばを推測できれば、これは完全に日本語をマスターしているといえる。
 私は生徒にここまで質問はしないが、推測できるようになれば、きっと村上春樹の文体が、たまらなく「退屈」になる。私は、退屈で仕方がない。だから、村上春樹の小説は嫌いだが、日本語教材としては、とてもいい。だいたい「語学教材」というのは、退屈なものだ。

 もうひとつ、村上春樹の「文体」の特徴に、ちょっと「わかりにくいことば」をつかったあとは、必ず、それを「説明する」というものがある。「わからなことば」に出会っても、つづけて読んでいけば、その「意味」を推測できる。
 「木野」という小説に、妻を寝取られた男(木野)が登場する。木野は、妻の浮気に気がついていなかった。浮気現場を目撃して、はじめて気がつく。
 そのあと、こんな文章。

木野はそういう気配にあまり聡い方ではない。夫婦仲はうまくいっていると思っていたし、妻の言動に疑念を抱いたこともなかった。もしたまたま一日早く出張から戻らなければ、いつまでも気づかないまま終わったかもしれない。

 この文章の「聡い」ということばは、かなりむずかしい。しかし、末尾の「いつまでも気づかないまま」が、それをていねいに説明している。(余分なことだが、さらに、このあと段落をかえて、実際に妻の浮気の現場が描写されるのだが、これもまあ、なんというか、想像力を刺戟しないというか、即物的(説明的)である。
 村上春樹は、細部まで即物的に説明しないと何が起きているか(主人公が何を感じているか)、理解できないと思っているのかもしれない。
 脱線したが、「わからないことば」に出会ったとしても、一文を全部読ませる。ときには、一段落を全部読ませる。そのうえで、「聡い」の意味をどう考える?と問いかければ、上級の日本語学習者なら推測できる。そういう推測ができるような「文体」が村上春樹の特徴である。

 きのうは、もうひとり38歳とも村上春樹を読んだ。「海辺のカフカ」。彼は「語感」が鋭くて、日本人がしないような質問をする。新潮文庫の17ページに「薄手の服」ということばが出てくる。「薄い服」ではなく「薄手の」。
 「薄い」と「薄手」はどう違うか。「最近の若い人は、薄いというでしょ?」。まあ、「薄手」よりも「薄い」の方が通じるかもしれない。「手」は何を意味しているか。手でさわった感触である。そして、それは「感触」というよりも、なんというか「肉体の参加」である。そこには「親身」というのに近い感覚がある。
 おなじ「手」のつかい方は、おなじページの次の文章の中にある。

 15歳の誕生日は、家出をするにはいちばんふさわしい時点のように思えた。それより前では早すぎるし、それよりあとになると、たぶんもう手遅れだ。

 「手遅れ」と「遅い」の違い。「手遅れ」の方が「親身」である。抽象的(物理的)というよりも具体的、実感的である。先に「肉体の参加」と書いたが、「手」は「実感」を代弁しているのである。
 この38歳は、ここに注目すると同時に、いま引用した文章の「想われた」にも注目する。「思った」ではなく「思われた」。「思った」は主幹、「思われた」には、どこか客観的なもの(主体だけではないという印象)がある。そして、彼はここから、この小説の主人公は15歳の設定だが、どこか父親の意識を引き継いでいると指摘する。
 とても、鋭い。
 彼もまた漢字の読解には問題があるのだが、小説の読解については、問題はない。むしろ、私の方が耳を傾けなければならないとさえ感じる。

 漢字の問題については、ちょっとおもしろいことがあった。「木野」のなかに「寡黙」ということばが出てくる。その意味を、18歳は「寡占」と結びつけて、「完全に沈黙しているわけではないが、それに近い沈黙」と定義した。「寡占はほとんどだが、独占なら完全。寡占の寡があるから、そう思う」。
 この「推測」は完璧。
 私は常に漢字熟語が出てきたときは、それぞれの漢字を含む別の熟語を紹介することで、意味を「ふくらませている」のだが、18歳には、これができる。だから、「読む」ことはできないくても「理解」(推測)ができる。
 「語学」というのは、結局、「推測能力」のことだと思う。村上春樹の文体とは直接関係ないが、書いておく。

 

 

 

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ろくでもない、の意味は?

2023-06-09 16:44:23 | 考える日記

 日本語学校で、村上春樹の「海辺のカフカ」(テキストは新潮文庫)を読んだ。生徒はカナダ人。38歳。
 高校1年のとき、日本に留学していた。しかし、多くの漢字を忘れている。だから、漢字はときどき読むことができないのだが、「小説」の読解能力は、超一流。
 15ページに「二重の意味」ということばが出てくる。この「二重の意味」は、いわばこの小説のキーワード。小説のなかでは、あらゆるものが「二重の意味」のなかを展開していく。その「予測」を、「二重の意味」ということばにつづいて書かれている「光と影。希望と絶望。……」ということばをつかって語り直すことができる。つまり、「予測」ができる。(あ、繰り返しになってしまった。)
 私がさらに驚いたのは、16ページ。
 「土地のろくでもない連中とかかわりあうことなる、の『ろくでもない』は、どういう意味ですか? ろくに漢字はありますか?」
 「ろくは漢字で書けば、禄。財産とか、金の意味する。(昔は、給料を意味した。)昔は、金持ちは、正しい、という印象。だから、ろくでもないは、正しくない、というような意味。ろくでもない連中は、ギャング、マフィア、やくざみたいな感じ」
 「ちんぴら、ですね」
 「あ、そうそう」
 「先生は、いろんなことを知っているけれど、現代の俗語(?)は、私の方が知っている」
 「あ、ほんとうに、そう」(私は、いまの若い人がつかうことばは理解できるが、自分でつかうことはない。だから、ちんぴらも聞けばわかるが、自分では思いつかなかった。そういう意味で、とても教えられた。)
 というやりとりのあと、つぎの一言がすごい。
 「村上春樹は、ここでは少年に『ちんぴら』ではなく『ろくでもない連中』ということばをつかわせることで、少年の育ちの良さを表現している」

 まさに、そのとおり。

 たとえば何かの試験で「村上春樹が、ここで『ちんぴら』ということばをつかわずに、『ろくでもない』ということばをつかった理由は何か、どう考えられるか」という設問が出たとき、彼のように答えられる日本の学生が何人いるか。
 9ページの「砂嵐想像ゲーム」の場面で、ここで「カラスと呼ばれる少年」と「僕」が同一人物であることがわかるのだが、このとき、デービッドはそれを即座に理解した。
 「日本人の読者のどれくらいの人が、ここで同一人物とわかるか」という厳しい質問が出たが、たぶん、1割だろう。小説を読まないひとは、ほとんど「理解」しないだろうし、「同一人物である」という根拠を「目を閉じる」「暗闇」「ため息/静かに大きく息をする」「共有」ということばをつかって論理的に説明し直すとなると、かなりむずかしいと思う。

 私は村上春樹は好きではないのだが、日本語を教えるには最適の教材だし、その「最適の教材」の「最適」な部分にきちんと反応する生徒に出会うと、とても楽しくなる。

 

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「死」について

2023-05-24 09:07:00 | 考える日記

 見知らぬ人からメールが届く。ふと気になってメールを開く。友人の友人と名乗る人からのメールで「友人は3年前に死んだ」と言う。突然メールが途絶えた理由は、それだったのか。
 私自身の年齢とも関係するのだろうけれど、近年、訃報に接する機会が増えた。友人、友人の家族、あるいは愛犬。

 死は、ほんとうに不思議だ。私は、「一元論者」である。ただし、「一元論」の定義は、ふつうに言われているものとは違うかもしれない。私は、私の意識が及んだところまでが世界であると考えている。私の意識が「世界」という「一元論」。そういう私にとって、死とは何か。
 「世界」が突然、そこで終わるのだ。
 ある人と一緒に見ていた世界から、その人が消えると、その向こう側がなくる。父が死んだとき、はっきり、それを感じた。「世界」の見え方がぱっと変わった。父が隠していたもの、父だけが知っているかもしれないことが存在しなくなり、目の前に突然「壁」ができた感じなのである。
 私の家の前の道から、碁石が峰という山が見える。いちばん高い山だ。父が死んだあと、姉が「父が死ぬ前、碁石が峰を見ていた」と言った。父が立っていただろう道から碁石が峰を見てみた。巨大な大きさで山が迫ってきて、そのあとぱっと消えた。元の位置にある。だが、その山の向こうに何があるか、それが一瞬、思い描けなくなったのである。山の向こうには、何もない。碁石が峰が世界の果だ、という感じ。もちろん、私はその向こうに何があるか知っているし、その向こう側を歩いたこともある。向こう側の海まで泳ぎに行ったこともある。それなのに、あの瞬間、それはすべて消えた。そのあとにあらわれてのは、父が見ていた碁石が峰と父が知っていた碁石が峰ではなく、私が別の人といっしょに(たとえば友だちといっしょに)知っている「別の世界」なのだ。ひとつの「世界=父の世界」は存在しなくなったのだ。

 この衝撃は大きい。ある詩人が死んだとき、私は、私の書いてきた詩が消えてしまったと感じた。ある翻訳家が死んだとき、やはり、そのことばの世界が消えてしまったと感じた。この「消えた」は、ほんとうは正しくない。「動かなくなった」と言い直せばいいだろう。
 しかし、まだ「ことば」が残されているときは、いい。
 「ことば」を読み返すとき、何かが動く。動き始める。まだ、いっしょに歩き始めることができる。まだ「世界」を広げていくことができる。
 それを頼りに、私はまた動き始める。つまり「世界」を少しずつ広げることができる。

 とはいうものの、「ことば」があれば、それでいいというものでもない。三島由紀夫が死んだとき、私はやりは「三島の世界が動かなくなった」と感じたが、それをもう一度動かして、私が見ることができな何か(三島だけが知っている何か)を見てみたいという気持ちは起きなかった。三島の死後、何冊か本を読んだが、やはり、その「世界」は動かなかった。そこに存在するが、それは存在とは言えないような何かだった。

 なぜ、こんなことを書いているのだろうか。書く気になったのか。よくわからない。友人の死を知ったことがきっかけであるには違いないのだが。死が近いのかなあ、死の準備をして始めているのかなあ、と感じる。
 私には何か「離人症」のようなものがある。(「離人症」を誤解しているかもしれない。)「死んだかもしれない体験」を私は二度している。一度は15メートルほどの高さから、下の田んぼに落ちたとき。落ちながら、このままでは頭をぶつける。体を回転させれば尻から落ちる。田んぼだから、やわらかくて助かるかもしれない。小学5年のときだ。そして、実際にそのとおりにして、私はケガをしなかった。もう一度は、中学1年のとき。雨の日、傘を差して自転車で学校へ向かった。風が吹いてきた。あおられて5メートルほど下の川に転落した。私は泳げない。(病弱だったので、泳ぐことは禁じられていた。)川は増水している。どうするか。川底に着いたら、川底を蹴ればいい。そうすれば浮き上がるだろう。そして、実際にそうした。その結果、助かった。後ろを走っていた上級生が、大慌てで近くの家に「(私が)川に落ちた」と知らせに言った。だから、人もやってきた。私は、そのときの自分の動きを、まるで「映画」でも見ているように、「外」から見ていた。
 最近、いろいろな訃報を聞くためだと思うが、「死ぬまであと〇年あるなあ、その間に、この本とこの本は読むことができるなあ」と思い、実際に、読み始めている。まるで崖から落ちたとき、増水した川に落ちたときのように。今度は、はたして助かるのかどうかわからない。「こうすれば助かる」ではなくて、「ここまでは読める(だろう)」という「予感」だけだから。

 

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広島サミット

2023-05-11 13:47:44 | 考える日記

 2023年05月11日の読売新聞(西部版・14版)が広島サミットについて書いている。
↓↓↓
 政府は、19~21日に広島市で開く先進7か国首脳会議(G7サミット)に合わせ、インドや韓国など、招待国8か国の首脳に広島平和記念資料館を訪問してもらう方向で調整に入った。岸田首相と8か国首脳がそろって訪問する案も検討している。
 複数の政府関係者が明らかにした。資料館訪問を巡っては、G7各国首脳がそろって行うことが既に固まっており、G7の枠を超え、核軍縮の重要性を国際社会に広く強調する狙いがある。
↑↑↑
 これが実現するなら、とてもうれしい。(バイデンは、債務問題で欠席する可能性がほうどうされているが。)
 この記事を読みながら思ったのは、「戦争」そのものについてである。

 「戦争」は、いつのころからかはっきりしないが(私は歴史が苦手)、兵士と兵士(軍隊と軍隊)の戦いではなくなっている。かならず一般市民がまきこまれるようになっている。その最大の悲劇のひとつが、広島、長崎への原爆投下である。敵の軍隊に勝利したら戦争は終わりではなく、なんというか、「敵の国民」を殲滅しない限り、戦争はおわらないという状態になってしまっている。

 そこから、ふと思うのだけれど。

 最近、活発に語られる「敵基地攻撃」なのだけれど、そんなことで戦争が防げるのか。戦争は軍隊と軍隊の決着という時代は、もうとっくの昔になくなっている。敵基地を攻撃し、ミサイル攻撃を一時的にしのいだとしても、戦争はつづく。
 戦争が話題になると、多くのひとが「敵が日本に上陸してきたら、どうするんだ。戦わないのか。家族をおいて逃げるのか」。私は「一緒に逃げよう」とは言うが、いざとなったらひとりだけ逃げるかもしれない。家族のために戦う、というようなことは、言っても実行はできないなあ。
 ということよりも。
 「敵が日本に上陸してきたら、どうするんだ。戦わないのか。家族をおいて逃げるのか」という質問、おかしくない? 敵の軍隊が、一般市民を殺すということを前提にした意見だと思う。つまり、戦争とは国と国(組織)の戦いではなく、ある国民が別の国民を殺すことが戦争である、という定義で話していると思う。国(自民党・公明党政権)だけでなく、多くの日本国民が「戦争の定義」を変更してしまっていることになる。
 もし、「戦争」というものが、多くの軍備増強派が定義するように、軍人が一般市民を平気で殺すことを意味するのなら、「敵基地攻撃」というのも、実は「敵の国民を全滅させる」ということではないのか。それは、「核による抑止力」というよりも、「核によって殲滅させるぞ」ということではないのか。

 戦争は、軍人と軍人が正々堂々(?)と戦い、それによって決着するという時代は、もう遠い過去のことなのだ。広島と長崎の原爆は、核兵器によって国民が殲滅させられるという恐怖を感じ、国が国民の命を守るためには降伏する(敗北を認める)と言わない限り終わらないのだ。その「証拠(記録)」が広島と長崎に残されている。
 これは、ぜひ、見てもらいたい。実感してもらいたい。多くの市民が犠牲になったというだけではなく、現代の戦争は、いったんはじまれば軍隊と軍隊の戦いで終結しないことを実感してもらいたいと思う。

 

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