2009年09月20日(日曜日)から中断していたが、また書きつづけてみようと思う。(09月20日、網膜剥離で入院し、24日に手術をした。中断は、このため。)
私は書いたものを読み返さないので、いままで書いてきたことと違ったことを書くかもしれない。
*
「かなしみ」。
この書き出しの不思議さ。次にどんな行が来るか、想像がつかない。1行目から「意味の予定調和」が破られている。「無意味」が噴出してきている。
そして、ここには「音楽」がある。私が「音楽」と感じるものがある。(私は音痴なので、クラシックだとか、ジャズだとか、Jポップというような「意味・定義」とは違ったことがらを指して「音楽」ということばをつかっている。いわゆる音楽というものは、私の耳には縁遠い。)
「花崗岩」(かこうがん)という音が、私の耳には強烈に響く。それは「岩」というか「石」の種類であり、その石を私は見たことがあるし、そんなにかわった石ではないことを知っている。知っているけれど、この文字を読んで(音を聞いて)、私が石を思い浮かべるわけではない。そして、私は、括弧に入れる形で(音を聞いて)と書いたが--実際に意識のなかで「音」を聞いているのだが、それは実際に誰かの声をとおして聞いたときとは違ったふうに動く音なのだ。
「花崗岩に/春が来た」。このことばを、たとえば誰か、いや西脇でいいのだか、西脇が実際に私に向かって話しているときに、そのことばを言ったとしたのだとしたら、つまり私が実際に耳で聞いたとしたら、驚く変わりに、私は「ばかじゃない?」と思ってしまうだろう。
ところが、本に印刷された文字、そのことばを読み、私の「肉体」がその音を聞くとき、それは「ばかじゃない?」という印象とはまったく違った感じを引き起こす。聞いたことがない「音楽」として聞こえてくる。そして、その「音楽」に引き込まれてしまう。
「意味」がわからない。「花崗岩に/春が来た」の「意味」が、文字を読んでいるとわからない。「意味」がわからないのに、そのことばが動いていくことだけがはっきりわかる。実感できる。いままで、私が読んできたことばとはまったく違うところへ動いていくということが、わかる。わかるというより、わかるもなにもないまま、強烈にひっぱられていくのだ。
このとき、私をひっぱっていくのが「音楽」。ただの「音」。「花崗岩」という「音」なのだ。「か行」の美しい響き。そして、これはどう説明すればいいのかわからないが、その「か」は「春が来た」の「は」が、私には「和音」のように聞こえる。とても響きあうのだ。響きあって、そこにはない「音」が聞こえるのだ。「か」でも「は」でもない、何か別な音が。
「かなしみ」の「定義」は、ひとそれぞれだろうけれど、こういう不思議な「音楽」を聞いてしまうと、あ、この「音楽」が「かなしみ」か、と私は思ってしまう。
そこにある、不思議な「出会い」。
あとは、その「出会い」がくりかえされる。変奏される。増幅される。
私は「もの」を思い浮かべない。いや、「もの」を思い浮かべようとする想像力が「音」にひっぱられて、違うことを感じてしまう。「ミモーザ」と「肉体」が「声」を出している。音を確かめている。(私は音読をしないが、文字を読む目が、いつのまにか目ではなく、発声器官にすりかわって、「声」を出している。)
「あの名もないさし絵かき」と「すみれをささげる」という音の間にあるカタカナの音。カタカナの音をサンドイッチにしてしまう、ひらがなの音。その音そのものが、「意味・内容」を突き破って、どこまでも自在に動いていく。
この自在さは、あえて「意味」にしてしまえば、
という「イソップ物語」の「世界」と関係するのかもしれないけれど、ああ、そのイソップ物語がなぜか外国の音ではなく、日本語の音として新しく響いてくる。
私は、そこに書かれていることばが指し示す「もの」が見えなくなる。私の目は、その文字を追う。そして、そのとき私の「肉耳」は、そこに書かれていることばの「音楽」に酔ってしまう。「意味・内容」が消えてしまって、ただ、そこに書かれている「ことば」が「ことば」そのものとして遊んでいる--そういう感じに襲われる。
あえて言ってしまえば、「感情(私のこころ?)」を裏切って、ただ「ことば」が「ことば」として、そこで自由に動いている。--感情(こころ?)が、ことばから見放されている。けれど、その見放され方は、なんというのだろう、「さっぱり」としいてる。あ、この「さっぱり」した感じが「かなしみ」? そんなふうに感じてしまうのだ。
私は書いたものを読み返さないので、いままで書いてきたことと違ったことを書くかもしれない。
*
「かなしみ」。
花崗岩に
春が来た
この書き出しの不思議さ。次にどんな行が来るか、想像がつかない。1行目から「意味の予定調和」が破られている。「無意味」が噴出してきている。
そして、ここには「音楽」がある。私が「音楽」と感じるものがある。(私は音痴なので、クラシックだとか、ジャズだとか、Jポップというような「意味・定義」とは違ったことがらを指して「音楽」ということばをつかっている。いわゆる音楽というものは、私の耳には縁遠い。)
「花崗岩」(かこうがん)という音が、私の耳には強烈に響く。それは「岩」というか「石」の種類であり、その石を私は見たことがあるし、そんなにかわった石ではないことを知っている。知っているけれど、この文字を読んで(音を聞いて)、私が石を思い浮かべるわけではない。そして、私は、括弧に入れる形で(音を聞いて)と書いたが--実際に意識のなかで「音」を聞いているのだが、それは実際に誰かの声をとおして聞いたときとは違ったふうに動く音なのだ。
「花崗岩に/春が来た」。このことばを、たとえば誰か、いや西脇でいいのだか、西脇が実際に私に向かって話しているときに、そのことばを言ったとしたのだとしたら、つまり私が実際に耳で聞いたとしたら、驚く変わりに、私は「ばかじゃない?」と思ってしまうだろう。
ところが、本に印刷された文字、そのことばを読み、私の「肉体」がその音を聞くとき、それは「ばかじゃない?」という印象とはまったく違った感じを引き起こす。聞いたことがない「音楽」として聞こえてくる。そして、その「音楽」に引き込まれてしまう。
「意味」がわからない。「花崗岩に/春が来た」の「意味」が、文字を読んでいるとわからない。「意味」がわからないのに、そのことばが動いていくことだけがはっきりわかる。実感できる。いままで、私が読んできたことばとはまったく違うところへ動いていくということが、わかる。わかるというより、わかるもなにもないまま、強烈にひっぱられていくのだ。
このとき、私をひっぱっていくのが「音楽」。ただの「音」。「花崗岩」という「音」なのだ。「か行」の美しい響き。そして、これはどう説明すればいいのかわからないが、その「か」は「春が来た」の「は」が、私には「和音」のように聞こえる。とても響きあうのだ。響きあって、そこにはない「音」が聞こえるのだ。「か」でも「は」でもない、何か別な音が。
「かなしみ」の「定義」は、ひとそれぞれだろうけれど、こういう不思議な「音楽」を聞いてしまうと、あ、この「音楽」が「かなしみ」か、と私は思ってしまう。
そこにある、不思議な「出会い」。
あとは、その「出会い」がくりかえされる。変奏される。増幅される。
あの名もないさし絵かきの偉大さ
ヘカネーション、ミモーザ、
フリージヤ、すみれをささげる
私は「もの」を思い浮かべない。いや、「もの」を思い浮かべようとする想像力が「音」にひっぱられて、違うことを感じてしまう。「ミモーザ」と「肉体」が「声」を出している。音を確かめている。(私は音読をしないが、文字を読む目が、いつのまにか目ではなく、発声器官にすりかわって、「声」を出している。)
「あの名もないさし絵かき」と「すみれをささげる」という音の間にあるカタカナの音。カタカナの音をサンドイッチにしてしまう、ひらがなの音。その音そのものが、「意味・内容」を突き破って、どこまでも自在に動いていく。
この自在さは、あえて「意味」にしてしまえば、
人間と鱸(すずき)が話をしている
キツネとコウヅルが立ち話をしている
という「イソップ物語」の「世界」と関係するのかもしれないけれど、ああ、そのイソップ物語がなぜか外国の音ではなく、日本語の音として新しく響いてくる。
蜂、蝗、蟻、水がめ
風、太陽、葡萄、まむし
樫の古木、溺れようとする子供
私は、そこに書かれていることばが指し示す「もの」が見えなくなる。私の目は、その文字を追う。そして、そのとき私の「肉耳」は、そこに書かれていることばの「音楽」に酔ってしまう。「意味・内容」が消えてしまって、ただ、そこに書かれている「ことば」が「ことば」そのものとして遊んでいる--そういう感じに襲われる。
あえて言ってしまえば、「感情(私のこころ?)」を裏切って、ただ「ことば」が「ことば」として、そこで自由に動いている。--感情(こころ?)が、ことばから見放されている。けれど、その見放され方は、なんというのだろう、「さっぱり」としいてる。あ、この「さっぱり」した感じが「かなしみ」? そんなふうに感じてしまうのだ。
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