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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(93)

2010-01-27 09:24:44 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 2009年09月20日(日曜日)から中断していたが、また書きつづけてみようと思う。(09月20日、網膜剥離で入院し、24日に手術をした。中断は、このため。)
 私は書いたものを読み返さないので、いままで書いてきたことと違ったことを書くかもしれない。



 「かなしみ」。

花崗岩に
春が来た

 この書き出しの不思議さ。次にどんな行が来るか、想像がつかない。1行目から「意味の予定調和」が破られている。「無意味」が噴出してきている。
 そして、ここには「音楽」がある。私が「音楽」と感じるものがある。(私は音痴なので、クラシックだとか、ジャズだとか、Jポップというような「意味・定義」とは違ったことがらを指して「音楽」ということばをつかっている。いわゆる音楽というものは、私の耳には縁遠い。)
 「花崗岩」(かこうがん)という音が、私の耳には強烈に響く。それは「岩」というか「石」の種類であり、その石を私は見たことがあるし、そんなにかわった石ではないことを知っている。知っているけれど、この文字を読んで(音を聞いて)、私が石を思い浮かべるわけではない。そして、私は、括弧に入れる形で(音を聞いて)と書いたが--実際に意識のなかで「音」を聞いているのだが、それは実際に誰かの声をとおして聞いたときとは違ったふうに動く音なのだ。
 「花崗岩に/春が来た」。このことばを、たとえば誰か、いや西脇でいいのだか、西脇が実際に私に向かって話しているときに、そのことばを言ったとしたのだとしたら、つまり私が実際に耳で聞いたとしたら、驚く変わりに、私は「ばかじゃない?」と思ってしまうだろう。
 ところが、本に印刷された文字、そのことばを読み、私の「肉体」がその音を聞くとき、それは「ばかじゃない?」という印象とはまったく違った感じを引き起こす。聞いたことがない「音楽」として聞こえてくる。そして、その「音楽」に引き込まれてしまう。
 「意味」がわからない。「花崗岩に/春が来た」の「意味」が、文字を読んでいるとわからない。「意味」がわからないのに、そのことばが動いていくことだけがはっきりわかる。実感できる。いままで、私が読んできたことばとはまったく違うところへ動いていくということが、わかる。わかるというより、わかるもなにもないまま、強烈にひっぱられていくのだ。
 このとき、私をひっぱっていくのが「音楽」。ただの「音」。「花崗岩」という「音」なのだ。「か行」の美しい響き。そして、これはどう説明すればいいのかわからないが、その「か」は「春が来た」の「は」が、私には「和音」のように聞こえる。とても響きあうのだ。響きあって、そこにはない「音」が聞こえるのだ。「か」でも「は」でもない、何か別な音が。

 「かなしみ」の「定義」は、ひとそれぞれだろうけれど、こういう不思議な「音楽」を聞いてしまうと、あ、この「音楽」が「かなしみ」か、と私は思ってしまう。
 そこにある、不思議な「出会い」。
 あとは、その「出会い」がくりかえされる。変奏される。増幅される。

あの名もないさし絵かきの偉大さ
ヘカネーション、ミモーザ、
フリージヤ、すみれをささげる

 私は「もの」を思い浮かべない。いや、「もの」を思い浮かべようとする想像力が「音」にひっぱられて、違うことを感じてしまう。「ミモーザ」と「肉体」が「声」を出している。音を確かめている。(私は音読をしないが、文字を読む目が、いつのまにか目ではなく、発声器官にすりかわって、「声」を出している。)
 「あの名もないさし絵かき」と「すみれをささげる」という音の間にあるカタカナの音。カタカナの音をサンドイッチにしてしまう、ひらがなの音。その音そのものが、「意味・内容」を突き破って、どこまでも自在に動いていく。
 この自在さは、あえて「意味」にしてしまえば、

人間と鱸(すずき)が話をしている
キツネとコウヅルが立ち話をしている

 という「イソップ物語」の「世界」と関係するのかもしれないけれど、ああ、そのイソップ物語がなぜか外国の音ではなく、日本語の音として新しく響いてくる。

蜂、蝗、蟻、水がめ
風、太陽、葡萄、まむし
樫の古木、溺れようとする子供

 私は、そこに書かれていることばが指し示す「もの」が見えなくなる。私の目は、その文字を追う。そして、そのとき私の「肉耳」は、そこに書かれていることばの「音楽」に酔ってしまう。「意味・内容」が消えてしまって、ただ、そこに書かれている「ことば」が「ことば」そのものとして遊んでいる--そういう感じに襲われる。

 あえて言ってしまえば、「感情(私のこころ?)」を裏切って、ただ「ことば」が「ことば」として、そこで自由に動いている。--感情(こころ?)が、ことばから見放されている。けれど、その見放され方は、なんというのだろう、「さっぱり」としいてる。あ、この「さっぱり」した感じが「かなしみ」? そんなふうに感じてしまうのだ。





西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(92)

2009-09-20 06:55:08 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 異質なものの出会い、「俗」の乱入。それは、西脇の乱調の美学によるものだろう。乱調というのは、意識の脱臼だ。脱臼された世界--そこでは、ものがものとして存在する。ことばとものとが直接出会う。つまり、ことばが、ある意識によって統合された状態ではなく、意識が解体された状態で、独立して動く。
 それは、あたらしいことばの運動の可能性でもある。巨大な哲学(?)を構築する動きをとらないので、その運動は、可能性という視点からはとらえにくいが、それは、私たちに(私だけかもしれないが)、そういう世界を構築する視点が欠けているからにすぎない。すべての構築は、解体をしないことにははじまらないのだから。
 「アタランタのカリドン」の、ことばの不思議な出会い。

深沢のおかみさん
一生色ざめた桃色の腰巻きを
して狼のようにうそぶく
その頬骨のために
ピカソの作つた皿をあげる
雪女(ゆきおんな)の庭に春が来る
生きていた時紫のタビをはいた
女にあげる
あらびあ語に訳した伊勢物語を

 「色ざめた桃色の腰巻き」がいちばん魅力的だが、「頬骨のために/ピカソの作つた皿をあげる」の「頬骨」と「ピカソの皿」の取り合わせが、なんともいえず、「頬骨」を明るくする。強烈にする。「あらびあ語」と「伊勢物語」も、とてもおもしろい。
 こうした取り合わせを、私は「乱調」、あるいは「脱臼」と呼んでいるが、西脇自身は、別のことばをつかっている。その「西脇用語」の出てくる部分。

ピカソ人は
皿の中に少年を発見
少年の中に皿を発見
野ばらの中に人間
人間の中に野ばらを発見
野ばらの愛は
人間の中の野ばらの情感
野ばらとしての人間
人間としての野ばら
生命が野ばらと人間とに分裂した
がまだその記憶がにじんでいる
野ばらと人間の結婚
この生垣をのぞく
女の庭

 「取り合わせ」を西脇は「結婚」という。(フランス語で、料理と取り合わせの妙を「マリアージュ」というのに似ている。)そして、「脱臼」(解体)は「分裂」ということになるのだが、そのことばよりも重要なのは「記憶がにじんでいる」である。
 世界を解体する--そのとき、世界の存在が、ものが、もの自身が、孤立するのだが、その孤立の中に、人間が、そのものと一体だったころの「記憶がにじんでいる」。「記憶がにじんでいる」からこそ、解体した世界のなかで、そのものが、人間に直接触れてくる。他のものをおしのけて、たとえば「野ばら」が。野生のいのちが。

 そして、この「記憶がにじんでいる」感じが「淋しい」である。
 詩は、「もの」ににじんでいる「記憶」の発見--「もの」から人間のにじんでいる記憶を引き出すことである。




西脇順三郎のモダニズム―「ギリシア的抒情詩」全篇を読む
沢 正宏
双文社出版

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誰も書かなかった西脇順三郎(91)

2009-09-19 07:25:56 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「山の酒」。誰の詩だったか思い出せないのだが、唐詩に、友が尋ねてきて一緒に酒を飲み、音楽を楽しむ。やがて、主人が「俺は酔ったから、寝る、きみは帰れ。あした、また、その気があるならやってくるがいい」というようなことをいう。その詩に雰囲気が似ている。
 そのなかほど。次の部分が好きだ。

つかれた友人はみな眼をとじて
葉巻をのみながらねむつていた
認識論の哲学者は
その土人女の説によると
映画女優のなんとかという女に
よく似ているというので
礼拝してほろよいかげんに
石をつたつてかあちやんのところへ
帰つたのであつた

 ふいに登場する「かあちやん」ということばと「認識論の哲学者」の取り合わせがおもしろい。「俗」が「認識論の哲学者」を脱臼させる。そのあいだに入ってくる「映画女優」というのも「俗」で、とてもいい。「聖」といっていいのかどうかわからないところもあるのだけれど、「哲学者」という硬い感じのことばと、その対極にある「映画女優」「かあちやん」の取り合わせによって、世界をつなぎとめている何かが一瞬解き放される。そして、すべての存在が、それぞれ、世界そのものとは無関係に、一個一個の存在として輝き始める。
 この詩は、次のようにつづいていく。

ゴーラの夜もあけた
縁先の古木には
鳥も花も去つていた
アセビの花

岩の下に貝のような山すみれ
が咲いていたが
だれも気がつかなかつた
山の政治と椎茸の話ばかりだ
ツルゲニェフの古本と
まんじゆうを買つて
また別の山へもどつたのだ
あすはまた青いマントルを買いに
ボロニヤへ行くんだ。

 世界は解体し、そこに自然が自然のまま取り残される。その孤立した自然としての、たとえば「山すみれ」。それと向き合い、新たに世界全体を構築しなおす。そのとき、世界は、やはり「俗」を含みながら展開される。
 ツルゲーネフとまんじゅう。ロシアと日本。その出会いは、意識をくすぐる。「異質」なのものが出会い、その出会いの場として「世界」というものがある--ということを感じさせてくれる。



西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
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誰も書かなかった西脇順三郎(90)

2009-09-18 07:07:02 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「夏(失われたりんぼくの実)」のつづき。

 西脇の詩には植物がたくさん出てくる。

ゆすら梅も、りんぼくの実もみつからない
生垣にはグミ、サンショウ、マサキが
渾沌として青黒い光りを出している

 私がおもしろいと感じるのは、そうのち「ゆすら梅も、りんぼくの実もみつからない」というような否定の中に出てくる植物だ。そこにあるもののなかから美しいもの、珍しいものをことばにするのなら、そこには植物に対する美意識が働いていることになる。もちろん、そこにないものを「ない」というときも、もしそれがあれば、という美意識が働くだろうけれど、そのほかに「音」、音に対する感覚が働くとはいえないだろうか。
 「ゆすら梅」「りんぼく」--その音だけではなく、「ゆすら梅も、りんぼくの実もみつからない」と言ったときの「音」。それは、たぶん、次のように書き換えることができる。全部ひらがなにして、音がわかるように書くと……。

ゆすら・むめ・も・りんもく・の・み・も・みつからない

 「ま行」の音の動きがとてもおもしろいのだ。「むめ(うめ)」「りんもく(ぼく)」。私には、西脇は、この行を、音の楽しみのために書いたとしか思えない。
 その音は、「ジュピーテル」や英語で書かれている音とはずいぶん違う。くずれ方(?)というか、つながり方というか、そういうものがずいぶん違う。日本語の、不思議にまるっこい(?)音が、カタカナ(外国語)の音と拮抗して、何か、いままで聞いたことのない音楽を聴いたような気持ちになる。
 たぶん、その「ま行」のくずれ方を浮き彫りにするために、次の行に「グミ、サンショウ、マサキ」というシャキッとした音が選ばれているだと思う。

 そして。

 これから書くことは、私の「誤読」の癖だと思っているのだが、その「ま行」が、復活してくるのを感じる行があるのだ。

この小径は地獄へゆく昔の道
プロセルピナを生垣の割目からみる
偉大なたかまるしりをつき出して
接木している

 「偉大なたかまるしりをつき出して」。この行の「ま」の音が、「ゆすら梅も、りんぼくの実もみつからない」という行をぐいと引き寄せ、その間のことばを圧縮する。消してしまう。消してしまうというと言い過ぎかもしれないけれど、私には、なんだかどうでもいい行に見えるのである。
 「たかまるしり」(高まる尻)とは、直接的には女神・プロセルピナの尻であり、プロセルピナは「ジューピテル」との関連で出てくると思うのだが、私は、それとはまた別のことを考えてしまう。連想してしまう。
 接ぎ木をした木は、その接ぎ木の部分が、すこし膨れ上がっている。これを「たかまるしり」と呼んだのだとしたら、どうなるだろう。
 私は、そう読みたいのだ。誤読したいのだ。
 接ぎ木の膨れ上がった「肉体」。そこにある「いのち」。その「かたまり」の「たかまり」の「まるっこさ」。私の、口蓋で、「ま行」がゆらぐ。そして、「ゆすら梅……」の「ま行」のゆらぎの間で、すべてのことばが消えていく。
 「ゆすら梅……」の行がなかったら、「偉大なたかまるしり」はきっと違うことばになっていたと思う。

 それは、途中をちょお省略するが、次の行へとつづいてゆく。

散歩に出て蝶ががまずみの木や熊鉢
がたかとうだいの樹にとまつている
のをみつめている人間と生垣との間に
恐ろしい生命のやわらかみがある

 「生命のやわらかみ」。それは人間と人間とは別のものの「間」にある。そういう「間」をうめるもの、つなぐものとして、人間は「ことば」を持っている。ことばは基本的には「意味」なのかもしれないが、「意味」を超える何かも持っている。「音楽」を持っている。
 どう書いていけば、それをきちんと証明(?)できるのかわからないが、私が感じるのは、西脇は人間と人間ではないものの「間」を「音楽」で埋めようとしているということだ。「音楽」のなかに「生命のやわらかみ」がある。そんなふうに西脇は感じている--と思うのである。


西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)

慶應義塾大学出版会

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誰も書かなかった西脇順三郎(89)

2009-09-17 07:17:29 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「夏(失われたりんぼくの実)」のつづき。
 詩は「意味」ではない--そうわかっていても(頭で理解していても)、「意味」が出てくるとどうしても「意味」を追いかけてしまう。頭は「意味」に頼ってしまうものなのかもしれない。

連想を破ることだ
意識の解釈はしない

 この2行には、どうしても、そこに西脇の「思想」が書かれていると思ってしまう。詩の「理想」が書かれていると思ってしまう。
 きのう読んだ部分につづく行にも同じことがおきる。

連想を破ることだ
意識の解釈をしない
コレスポンダンスも
象徴もやめるのだ
さんざしの藪の中をのぞくのだ
青い実ととび色の棘(とげ)をみている
眼は孤立している

 「眼は孤立している」に、どうしても「意味」を感じてしまう。「孤立した眼」に西脇は「理想」を託していると読んでしまう。
 「象徴もやめるのだ」という行は、たとえばさんざしを見る。そのさんざしになんらかの意味を与える。象徴としてながめる、ということをやめることを言っていると思う。眼はただ単純にさんざしをみつめるだけで、そのさんざしを「いま」「ここ」にないものの象徴としてみない、象徴とすることで、そこになんらかの「意味」(意識)をつけくわえないということだろう。さんざしに、「意味」も「意識」も、あるいは「意味」や「意識」につながる何者をも結びつけない。そうすると、「眼」は人間の意識から離れ、つまり孤立して、さんざしという存在と向き合うことになる。
 「孤立している」とは、「自然」(詩人のまわりにあるもの)から「孤立」しているという「意味」ではなく、詩人の「意識」そのものから切り離され、孤立しているということである。
 こういう状態こそが、「意識を解釈しない」ということであり、「連想を破る」ということだ。「意識」から離れて「孤立」しているから意識を「解釈」しようがない。そして、「孤立」しているといことは、「意識」の「連続」を破っているということでもある。「意識の連続」とは、また、連想のことでもある。
 西脇は、ここでは、西脇のいちばん大切な思いをことばにしている。「思想」を書いている--と私は思ってしまう。

 そして、たしかに「思想」を書いているのかもしれないけれど、それを「思想」として読んでしまってはいけない。こういうことばを「思想」と連続させて解釈してしまう--そういう意識を破らないことには、西脇の書いている詩とはほんとうに向き合っていることにはならない。
 ここでは、私たちは、西脇の「思想」に触れているのではなく、西脇から重大な課題を与えられているのである。
 ことばを連想からひきはがしてしまうこと。肉眼を「意識」からひきはがしてしまうこと。そういうことを求められているのだ。それは、「意識」を、「いま」「ここ」という「社会」からひきはがすということでもある。
 ひきはがして、どうするか。と、書くと、また「意味」になってしまうのだが、たぶん、こういう矛盾を犯しながらというか、西脇が禁じていることをやりながらしか、西脇には接近できないのだと思う。禁止を犯し、同時に犯していると自覚して、考える。いま、考えていることは、やがて否定されなければならないとわかっていて考える--そういう行為でしか、西脇には接近できないのだと思う。

 ひきはがして、どうするか。「いま」「ここ」ではなく、「宇宙」と一気につながってしまうのだ。

レンズの神性
ジュピーテルの威厳
バスの終点から
一哩も深沢用賀(ふかざわようが)の生垣をめぐる
オ! ジュピーテル
あらゆる生垣をさまよつた
初めてthe wayfaring treeに wood-spurge
を発見した

 「ジュピーテル」と叫んでみる。叫ぶことで、ジュピターと一体になる。ジュピターのように、「意識」から離れて、宇宙に孤立してしまう。

 あ、またまた「意味」を書いてしまった。




ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(88)

2009-09-16 07:40:42 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「夏(失われたりんぼくの実)」は最初に俳句のような不思議な1行がある。俳句なのかな? 「人間の記号が聞こえない門」。「人間」の「間」と「門」の向き合い方がとても気になるのだが、「聞こえない」ことのなかに、何かを見ているのかもしれない。

黄金の夢
が波うつ
髪の
罌粟(けし)の色
に染めた爪の
若い女がつんぼの童子(こども)の手をとつて
紅をつけた口を開いて
口と舌を使つていろいろ形象をつくる
アモー
アマリリス
アジューア
アーベイ
夏が来た

 「アモー」からはじまる行の展開がとても好きだ。耳が聞こえないこどもに読唇術を教えているのだろうけれど、その聞こえない耳へむけて発せられる音の美しさ。口の形が、他の存在と結びつく。そのとき、こどもの「肉体」のなかで何が起きているのだろう。わからないけれど、そこにも音楽がある、と感じさせる音の動きだ。
 こどもは、若い女の「口」という肉体の門をくぐって、世界につながる。聞こえないけれど、聞こえないまま、若い女の口の動きに自分自身の口の動きを重ねる。「肉体」の重なりが、「肉体」のなかで音になる。「アモー/アマリリス/アジューア/アーベイ/夏が来た」。突然、やってくるいままでと違う音。その瞬間、その夏は「光」である。音のない世界の、「肉体」のなかの闇(?)から、「声」、まぼろしの「声」になって噴出してくる真っ白な光のように感じられる。 
 そして、「アモー/アマリリス/アジューア/アーベイ/夏が来た」というリズムだけを引き継いで(と、私には感じられる。リズムだけ、というのは「意味」を引き継がずに、ということである)、新しい行が展開する。

オルフェ コクトオ ガラス屋の背中
オルフェの話を古代英語で読まされた
ブリタニアの日のかなしみに
暗い空をみあげるのだ
ガラスの神秘
カーリ(詩の女神)の性情
連想を破ることだ
意識の解釈をしない
コレスポンダンスも
象徴もやめるのだ

 その新しい展開のなかで、ふいに、西脇のことばの運動を、西脇自身で解説したような2行が登場する。「連想を破ることだ/意識の解釈をしない」。そこに詩があると、西脇はいっているような気がする。
 連想を破る。「アモー/アマリリス/アジューア/アベーイ」という音の動きのように。そこには音があるだけで、それらのことばを結びつけるものはない。音は、音そのものに分解される。なぜ、「アモー」のあとに「アマリリス」かなど、解釈してはならない。ただ音だけになる。
 オルフェも、コクトオの書き直したオルフェも、きっと「意味」を解釈してはだめなのだ。ただ、そこにある「音」として、あじわう必要があるのだろう。
 必要--などということばを書いてしまうと、そこには、もう「意味」が入ってくるから、こんなことは書いてはいけなかったのだ、とふと思う。




ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
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誰も書かなかった西脇順三郎(87)

2009-09-15 07:19:04 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 「午後の訪問」のつづき。

梅の古木(こぼく)が暗い農家の庭から
くもの巣だらけの枝を道の上にさしのべて
旅人(たびびと)の額(ひたい)をたたくのだ。
その実はまだびろーどのように柔(やわらか)い。
野原の祖年に一つもいで人間を祝福した。
あの白いいばらの花もこひるがほの花も
人間の悲劇を飾るものだ。
この辺には昔(むかし)、オセアニアという
理想国があつたかも知れない。
この盆地を初めて耕(たがや)した者は
春に薔薇を摘み秋には林檎を摘んだのだ。
この短い旅のはて、ようやくお湯屋へ
たどりついたが、友は留守……
『ではさようなら』……
世田ヶ谷で古い茶釜を買つて帰つて来た。

 きのう読んだ部分には「悲しみ」ということばがあった。最後の部分には「悲劇」ということばがある。どちらも、「よそぞめ」とか「いばら」「こひるがほ」の花とか、自然が出てくる。
 非情、あるいは非人情としての自然。
 そういうものと向き合いながら、人間は孤独を知る。それを「旅」という。「旅人」とは、野を歩き、自然の非人情を知り、その非人情によってあらわれていく人間の淋しさをことばにする人のことだ。

 そういう「旅」をしたあと、「旅人」はもう、「友」にあう必要はない。もう、ことばはつかってしまった。自然のなかで、つかってしまった。
 ことばにしてしまえば、もう、友に語る必要はないのである。

 ここから、きのう読んだ部分のおもしろさが、ふっと、浮かび上がってくる。
 西脇は友人とは会話しなかった。だから、その会話の記録は、この作品にはない。けれど、西脇は、老人と話をした。草木の名前を聞いた。そして、そのことはきちんとことばとして書かれている。
 老人のことば--きのう、その特質について書かなかったが、そのことばは、西脇に西脇の知らないことをつげる。単に「よそぞめ」という名前だけではなく、その花を暮らしのなかでどんなふうにつかっている。どんなふうに、その花とむきあっているか、をつげる。それは、西脇にとっては「他人」のことばである。「他人」のことばにふれて、西脇は、また「他人」になる。「他人」として生まれ変わる。ここにも、「旅」の要素がある。いままでの自分をふりすて、新しいもののなかで生まれ変わるのが「旅」である。
 そして、「他人」と「他人」は、まるで友人以上に親密な何かに触れる。花、自然を自然のまま愛する「いのち」として。
 老人と西脇が会話するとき、その会話は「こんな草むらにもれきく、キリギリスの/ような会話」と書かれていた。老人がキリギリス、西脇が草むらか、あるいは老人が草むら、西脇がキリギリスか。どちらがどちらであってもいい。草と昆虫という別個のものが「共存する」。その「共存」が、草とキリギリスを、同時に分け隔てる。
 この共存と分離--共存と分離しながら、「会話」をして生きていく--ということのなかに、「淋しさ」がある。「悲しみ」がある。「悲劇」がある。
 説明はできないけれど、私は、そう感じる。





最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社

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誰も書かなかった西脇順三郎(86)

2009-09-14 07:28:40 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「午後の訪問」のつづき。
 引き剥がされた現実--それは現実を描写していても、すぐに現実を超えてことばが動くということだ。

菫(すみれ)の色は衰えタンポポは老いた。
だがあの真白い毛冠とあの苦い根は
人生の夢だ。

 春から夏へかわるとき、菫の季節はすぎ、タンポポの季節もすぎる。それは現実の描写である。けれど、それは同時に自然そのものからは引き剥がされている。そこには西脇の想像力、精神の力が作用している。だから

人生の夢だ。

 というようなことばが、ふいに入り込むのだ。そこから、また、西脇は自然へ、現実へ引き返す。というより、これは、往復するといった方がいいのかもしれない。そして、ことばが動くたびに、自然は、とてつもなく美しくなる。

絶望の人は路ばたにころがる石の
あどけなさに、生垣のどうだんの木に
極みない情(なさけ)をおぼえる。
せめて草木の名前でも知りたい。
畑のわきで溝(みぞ)を掘っている老人に
「この細(こまか)い花の咲く木は何といいますか」
ときいてみる。
「それはなんです、よそぞめとかいいまして
秋になると赤い実がなり、この辺では
十五夜に、すすきと一緒にかざるのです」
こんな草むらにもれきく、キリギリスの
ような会話にも旅の悲しみはますものだ。

 ことばは、「人生の夢」から「絶望」へと飛躍し、その隙間に、小石が転がり込む。
 「ころがる石の/あどけなさ」。
 石があどけない、と私は思ったことがない。けれど、西脇は、そう書いている。そして、この「あどけなさ」はどうだんによって補足される。どうだんのように、あどけないのだ。あの、ピンクのすじの入ったかわいらしい花のように。
 「絶望の人」は、そこに「情をおぼえる」。
 自然は、人の絶望などは気にもかけず、非情のまま、かわいらしく咲く。あどけなく、存在する。それが非情であるからこそ、人は「情」というものが人間にあるのを知る。
 文法的には、絶望の人は、小石のあどけなさ、どうだんの(かわいい--というのは、私の感想だが、そのかわいい)花に、情をおぼえるのだが、それはその石や花に情があるからではない。人間にこそ、情がある。その情を人間は、石や花に託して感じるだけなのだ。
 この「情」を西脇は誰かと共有したいと思い、畑で働くひとに声をかけている。「どうだん」を、老人は何と呼ぶか、それを知りたいと思って。
 ものに名前をつける--たぶん、これが人間の「情」というものなのだ。「情」があるからこそ、それに名前をつける。「情」のわかないものには名前などいらない。
 (老人の答えた「よそぞめ」がどんな花なのか知らないので、私は、それをどうだんの花だと思っているのだが、違っているかもしれない。私の書いていることは、いつものように、完全な誤読かもしれない。)
 この会話のあとの、2行が、とても不思議で、とても楽しい。

こんな草むらにもれきく、キリギリスの
ような会話にも旅の悲しみはますものだ。

 西脇は、西脇と老人の会話を「キリギリスの/ような会話」と読んでいる。草の間にないているキリギリスのかわす会話のようだと。それは、たぶん、人間の生活とは無縁、という意味だろう。ある意味で「非情」なのだ。そして、そこに美しさがある。いつでも、「非情」なものだけが、清潔で美しい。それはいつでも「情」を呼び覚ますからだ。「非情」だけが、引き剥がされた「情」だけが、人間の内部に「情」を呼び起こす。
 「情」のあるものが「情」を呼び起こすのではなく、「非情」が「情」の思い出させる。「情」を揺さぶる。
 この感覚を、西脇は「淋しい」と呼んでいる、と私は思っている。
 ここでは「淋しい」のかわりに「悲しみ」ということばがつかわれているが。

 「悲しみ」とは「淋しさ」。それは、現実から引き剥がされ、孤立した純粋な存在のことである。
 「孤立したもの」を別の「孤立したもの」に「ささげる」。
 十五夜には、月に「よそぞめ」やすすきをささげる。それは、月に、宇宙に、「よそぞめ」を愛している人間が存在することを思い出してもらうためだ。月に、宇宙に、そんなことを思い出してもらっても何にもならないかもしれない。しかし、その何にもならないことに、純粋の美、現実から引き剥がされた美がある。
 人は、現実から引き剥がされた美、絶対的な孤独の美に触れないことには、たぶん生きている意味がないのだ。





西脇順三郎詩集 (現代詩文庫 第 2期16)
西脇 順三郎
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(85)

2009-09-13 07:15:08 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「午後の訪問」は友人を訪ねたが、友人は留守だったので帰ってきた--という作品だが、とてもおもしろい。1回では書き切れないくらいおもしろい。たぶんきょうと、あすとの2回に分けて書くことになると思う。短い詩を何回にも分けて感想を書くというのは詩にとっていいことなのか、わるいことなのか、よく分からない。
 詩はストーリーではないから、まあ、どこから読んでも、どこでやめてしまってもいいものだろうと思うので、思いつくままに書いていく。

バスの終点から野に出てみた。
のびた麦(むぎ)は月夜(つきよ)の海のように銀色に光つていた。
春の淋しさは夏のさびしさへと
いつの間(ま)にか変つていたのであつた。
下馬でお湯屋(ゆや)をはじめた男と話が
したいので用賀をまわつて行つた。
燃えたつような蜻蛉(とんぼ)も
極彩色の蝶々もまだ出ていない。
犬は生垣の下から鼻を出してかすかに吠えるが
外へは一匹もうろうろしていない。

 何時、とは書いていないのだが、昼下がりの光景だろう。時間が昼間なのに、夜を連想する2行目、

のびた麦は月夜の海のように銀色に光つていた。

 これに驚かされる。「いま」と「いまではない時間」が突然結びつけられる。この急激な、予想外のものの出会いのなかに詩がある。広がる麦畑を海にたとえるというのは慣用句の一種だが、そこに「月夜」が呼び込まれるのでびっくりしてしまう。
 いきなり、現実の風景が、現実から引き剥がされ、純粋な風景になる。
 3行目に登場する「淋しさ」(淋しい)は西脇が多用することばだが、2行目のあとに読むと、その「意味」(内容)がわかったような気持ちになる。
 淋しさとは、現実(日常)から引き剥がされた純粋さ、純粋な「美」のことである。その「美」に共感するこころのことである。現実(日常)から引き剥がされた--とは、人間の人事とは無関係という意味である。熟れた麦の美しさは、人間の感情などには配慮しない。非情である。情を拒絶した美しさ--それを感じるときの、情の欠落が「淋しい」であると私は思う。
 自然は人間の情を拒絶して生きている。そして、その情を拒絶した美のなかにも変遷がある。季節ごとの美しさがある。春のみどりから、夏の銀色、乾燥しきらきら光る麦の穂。そこには変化があるが、「美」であることそのものには変化がない。矛盾をかかえこみながら(のみこんで、消化してしまって、あるいは昇華して)、自然は輝いている。
 そんな光景に触発されるからだろうか。西脇の精神は、現実(日常)から引き剥がされて、美の世界を飛び回る。

燃えたつような蜻蛉も
極彩色の蝶々もまだ出ていない。

 この2行には驚くしかない。
 「燃えたつような」「極彩色の」。なんでもない修飾語のようにみえる。安っぽい(?)というか、安易な直喩にもみえる。ところが、なんでもないことはない。安易でも、慣用句でもない。
 ふつう、そういう修飾語は、たとえばトンボがいて、蝶が飛んでいて、そのトンボや蝶の美しさに触れて、はじめてそういうことばが出てくる。
 ところが、西脇が歩いている野にはトンボも蝶もいない。その存在しないトンボ、蝶を描写して「燃えたつような」「極彩色の」ということばが飛翔する。「蜻蛉も/蝶々もまだ出ていない」なら現実(日常)の描写である。けれども、そのトンボ、蝶々に精神力が呼び込んだ修飾語が結びつくとき、それは現実や日常の描写ではなくなる。現実、日常から引き剥がされた「美」の描写になる。
 そういう虚というか、現実から引き剥がされた美のあとでは、現実の描写は、なんとも生々しい。リアルである。

犬は生垣の下から鼻を出してかすかに吠えるが
外へは一匹もうろうろしていない。

 「生垣の下から鼻を出して」という肉眼で見たままの描写がすごい。いないトンボや蝶々の描写のあとで、こんなふうに楽々と現実へ帰ってくる精神の力がすごい。ことばのちからがすごい。
 そして、その生々しい描写が、不思議なことに、とても軽い。重大なことにつながらない。
 たぶん、「外へは一匹もうろうろしていない。」がそういう効果を引き起こしている。犬、その生々しさは、「現実」に属してはいるけれど、それはあくまで「生垣」のなか。「生垣」の外ではない。
 生垣の外は、あいかわらず、現実・日常から引き剥がされている。淋しさに輝いている。
 --このことは、また、あす。





西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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誰も書かなかった西脇順三郎(84)

2009-09-12 06:52:43 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『近代の寓話』には「さんざし」と「ささげる」ということばが頻繁に出てくる。きのう読んだ「冬の日」にも両方出てくる。そのあと「梨」「山●の実」(谷内注、漢字が表記できないので●にした。木偏に虎冠、儿の部分が且)「人間の記念として」とつづいている。「さんざし」の表記、「ささげる」の表記はちがっているが……。真っ赤な林檎のような実とみどりの対比が好きだったのだろうか。

 「梨」という作品。そこに、不思議な不思議な1行がある。

めぐって来た百姓の生垣の薄明に
とつた山査子の実にギリシャの女神
の哀愁をおぼえるのだ
三十年前にいたロンドンの北部の
坂のある町に老人と一緒に住んだ時の
ことなど忘れた釘のように
脳髄を衝き刺すのだ 

 「ことなど忘れた釘のように」は「ことなど忘れた/(はずだが、だが、その思い出が)釘のように」という「意味」だと思うが、この文脈のはげしいショートカットに、とても驚く。
 忘れていたが、山査子の実を見て、ふいに思い出した。
 そう、つげて、この詩はそれから老人との思い出になっていく。そこに「ささげる」が出てくる。

この老人は朝早くから晩おそくまで
トトナム・コート・ロウドの暗い事務所でなにか
商売をしている野羊のような人間
この家の裏に細ながい庭があつて
秋のかすみのなかで黄色い梨がなつた
毎日でたらめにピアノをひいて老人
が帰るのを待つていた
或夜古本でボオドレルの伝記を買つて
来てくれたが手あかで真黒くなつて
いたので指先でところどころひろげた。
このシャイロックのような老人に
不幸な女の涙と野ばらの実を捧げ
たいのだ

 「野ばらの実」と書いているが、さんざしはバラ科の木なので、さんざしの実のことを「野ばらの実」と書いているのかもしれない。
 なぜ、ささげたいのか。
 老人は商売人である。その老人が、ボードレールの伝記を買って来てくれた。その「落差」に、西脇は人間の哀愁を感じたのだ。生きていて、その暮らしのなかで、うまく「形」にすることができないまま、生きている「いのち」。その「いのち」に触れたことを、西脇は忘れたくない。
 長い間、忘れていたが、忘れたくない。
 「ささげたい」は、一緒に「思い出したい」ということなのだ。

 恋人に花をささげるのは、花を見て、私を思い出してくださいという意味だ。神に供物をささげるのは、神に私のことを思ってくださいという意味だ。

 老人に「野ばらの実」(さんざしの実)をささげるのは、私はさんざしの実をみてあなたと一緒に過ごした時間を思い出します。だから、あなたも、私のことを思い出してほしい、と願うからだ。
 なぜ、思い出してほしいのか。
 それは「なぜ」ではなく、何を思い出してほしいのかを考えた方がいいかもしれない。
 老人はボードレールの伝記を買ってきてくれた。商人のような老人がボードレールとつながっているということに、西脇はこころを動かされたのだ。商人とボードレールは不似合いかもしれない。そこに断絶があるかもしれない。その断絶を越えて、商人とボードレールが結びつく。そこに、詩、がある
 西脇は、詩、が存在した瞬間を、老人に思い出してほしいと願っている。その詩を、いま、ここに、呼び出すために、供物のようにさんざしをささげるのだ。
     
 手垢で黒くなった古本。ボードレールの伝記。ボードレールと手垢で黒くなった本の断絶と、断絶を越えて結びつく何か。手垢で黒くなったという「不潔」と、それほどまでに愛読されたという証拠、「純粋」の結びつき。本は愛読すればするほど、手垢で汚れる。この、純粋と不潔の、矛盾の、不思議な結びつき--のようなものを、西脇は、とても愛しているのだ。
 詩が、矛盾のなかにあることを思い出すために、西脇は、さんざしをささげる。あるいは、ことばをささげる。

 「山●の実」(さんざしの実、と読んでください)にも、さんざしを「ささげる」ということばが出てくる。

十月の末のマジエンダ色の実のあの
山●の実を摘みとつて
蒼白い恋人と秋の夜に捧げる
だけのことだ。
なぜ生垣の樹々になる実が
あれ程心をひくものか神々を貫通
する光線のようなものだ。
心を分解すればする程心は寂光
の無にむいてしまうのだ。
梨色になるイバラの実も
山●の実もあれ程Romantiqued なものはない。
これほど夢のような現実はない。
これほど人間から遠いものはない。
人間でないものを愛する人間の
秋の髪をかすかに吹きあげる風は
音もなく流れ去つてしまう。

 ここに、西脇の考えていることが、端的に書かれている。
 「あれ程心をひくものか神々を貫通/する光線のようなものだ。」は何度もみてきた西脇独特のつまずき、ショートカット、である。「あれ程心をひくものか/(まるで)神々を貫通する光線のようなものだ。」としてしまえば、教科書国語の文法になる。だが、教科書国語では「心をひく」と「神々を貫通」することが並列されてしまう。それでは直列のエネルギーにならない。並列のエネルギーのままでは、次の「心を分解すればする程心は寂光/の無にむいてしまうのだ。」という哲学へ突き進むことはできない。
 直列の文脈でエネルギーを巨大にし、ふつうのことばではたどりつけない「こと」を書いてしまう。心は分解すればさびしい(淋しいではなく、西脇は、ここでは寂しいをつかっている)光、無になる。それは、いいことか、悪いことか。わからないけれど、そういう一種の「矛盾」に到達する。そういう寂しい光、無のなかで、山●の実はロマンチックなものになる。
 その、ロルンチック、とは何?
 西脇は「夢のような現実」と定義し、すぐに「これほど人間から遠いものはない。」と定義している。
 ロルンチックが人間から遠い?
 これは、心を分解し、それが寂しい光になって、無になって、はじめてリアルになるものがロルンチックであるという意味である。寂しい光、無--それはふつうにいう「人間」からはとても遠い人間である。ふつうの人間から遠くはなれたところまでいける人間だけがロマンチックに触れることができる--そういう意味である。
 「人間でないものを愛する人間」とは、たとえば、さんざしの赤い実を愛する人間のことである。さんざしの赤い実に、寂しい人間だけが発見できる美--それを愛する人間である。
 そういう「美」のありようを思い出すために、秋の夜にさんざしの実を西脇は「ささげる」。
 人間のさびしい美しさを思い出すために、さんざしの実をささげる。
 「思い出す」を、いま、ここに呼び出す、と言い換えると、ささげるの意味はもっとはっきりするかもしれない。

 詩が、いま、ここには存在しないものを呼び出すためのことばであるように、すべてはいま、ここにないものを実在させるために西脇のことばは動く。




Ambarvalia (愛蔵版詩集シリーズ)
西脇 順三郎
日本図書センター

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誰も書かなかった西脇順三郎(83)

2009-09-11 07:25:03 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 

 センチメンタルにつながることば、抒情にまみれたことば--というものが、私はどうも好きになれないが、西脇がつかうと、とても清潔に、宝石のように輝いてみえる。たとえば「涙」ということばさえも。
 「冬の日」の最後の行に出てくる。

或る荒れはてた季節
果てしない心の地平を
さまよあ歩いて
さんざしの生垣をめぐらす村へ
迷い込んだ
乞食が犬を煮る焚火から
紫の雲がたなびいている
夏の終りに薔薇の歌を歌つた
男が心の破滅を嘆いている
実をとるひよどりは語らない
この村でラムプをつけて勉強するのだ。
「ミルトンのように勉強するんだ」と
大学総長らしい天使がささやく。
だが梨のような花が藪に咲く頃まで
猟人や釣人と将棋をさしてしまつた。
すべてを失つた今宵こそ
ささげたい
生垣をめぐり蝶と戯れる人のため
迷つて来る魚狗(かわせみ)と人間のために
はてしない女のため
この冬の日のために
高楼のような柄の長いコップに
さんざしの実と涙を入れて。

 なぜ、西脇の「涙」が清潔なのか。
 「涙」が登場するまでに、さまざまな「脱臼」があるからだ。
 「乞食が犬を煮る焚火」には、はげしい野蛮のいのちが輝いている。それは、ふつういう「涙」の対極にある。涙は、野蛮ないのちではなく、繊細なこころである。
 しかし、繊細なこころというのは、単純ではない。
 「犬を煮る焚火」の煙を「紫の雲」というとき、「紫」を感じるこころは繊細であると同時に冷徹である。さらに、その比喩としての「雲」を「たなびいている」というとき、そのこころは、もしかすると「犬を煮る」こころよりも野蛮かもしれない。乞食が犬を煮るのは「いのち」のためである。そこから生じる煙を「紫の雲がたなびいている」と言ってしまうのは、「いのち」とは無関係である。人間の感性は、野蛮である。感性の美しさは「繊細」であるだけではなく、「野蛮」でもある。「野蛮」であるから、暴力を含んでいるから、つまり何もかを壊しながら輝くから「美」なのである。
 野蛮とは、非情ということでもあるかもしれない。 

 冬の村の、非情。厳しい自然。人間の事情など配慮しない風景。その風景から、さらに「人間の同情」を奪いさっていく感性。そのなかで理性は「ミルトンのように勉強するんだ」と主張する。それは、感性以上に野蛮であり、感性の野蛮をさらに徹底するから、美しい。
 異質な世界が、それぞれ野蛮を、つまり「本能」を本能のまま剥き出しにして、互いに配慮することなく、ぶつかる。その瞬間の「脱臼」。
 そこでは何かがかみ合って、「美」を構成するというよりも、それぞれが互いを破壊することで、叩き壊す力としての「美」を発散するのだ。
 その瞬間にも、自然は「梨のような花が藪に咲く」という具合に勤勉である。季節がくれば、本能のままに勤勉に花を咲かせる。一方、人間は怠惰である。「ミルトンのように勉強する」どころか、「猟人や釣人と将棋をさしてしまつた」。
 異質なものが出会い、衝突し、そのとき世界が「脱臼」しながら、拡大する。
 その「脱臼」「拡大した裂け目」--それは、一種の「無重力」である。
 文体の重力から解放されている。「常識」という日常の重力からも解放されている。
 その重力から解放されたところに、ふと「涙」がまぎれこむとき、その「涙」はやはり「無重力」状態にある。どんな文体(過去の歴史)も背負っていない。
 だから、清潔で、軽い。そして、まるで宝石のように輝く。



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店

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誰も書かなかった西脇順三郎(82)

2009-09-10 10:48:16 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 「☆(マチスのデッサンに)」。ことばが、とても軽い。軽く動いていく。なぜだろう。

ボア街の上にバルコニー
をもつ昔の貴族の家で
ひるめしをたべながら
ジャン・コクトオの友人の
ゴアオン夫人と話をした。

 ことばの「水準」が「脱臼」するからである。
 「ボア街の上にバルコニー/をもつ昔の貴族の家で」の「を」が学校教科書の文法を「脱臼」させたものだとすると、「昔の貴族の家で/ひるめしをたべながら」の「貴族」と「ひるめし」はことばの「水準」の「脱臼」である。私は貴族ではないし、フランス人でもないから「貴族」と「ひるめし」が同じ「水準」のことば(表現)であるかどうかは知らないが、私の日本語の感覚(私の日常会話の感覚)では、「貴族」と「ひるめし」は結びつかない。かろうじて結びついても「昼ご飯」である。「ひるめし」には、非常に俗っぽい響きがある。「貴族」が「聖」なら、「ひるめし」は「俗」。「ひるめし」は「貴族」が食べるものではなく、庶民が食べるものである。主語、目的語(補語)、動詞には、それが自然に結びついている「水準」がある。日常的な感覚がある。これを、西脇は「脱臼」させる。
 「貴族」と「ひるめし」。その組み合わせが、その世界を、軽くする。笑いを含んだものにする。

フランスの野原には麦や
虞美人草が沢山ある。
ロスィニョールが鳴く。

 この3行にも「貴族」と「ひるめし」のような「脱臼」がある。「フランス」と「虞美人草」。もちろんフランスに「虞美人草」があってもいいのだが、その「虞美人草」と「ロスィニョール」がいっしょに並ぶとき、あれっ、と思う。何?と思う。「ロスィニョール」というのは鳥なのか、虫なのかもフランス語を知らない私にはわからないのだが(あるいはラテン語? もっとほかのことば?)、日本語ではないことは確かである。
 ここでは日本語の音と外国語の音が並んでいる。ことばの「水準」(どこの国のことばか、という基準)が「脱臼」させられ、統一させられていない。そこに、不思議な軽さがある。

ローン河のほとりの葡萄園
百姓はゴッホのような帽子
をかぶってしやべつていた。
また野ばらのとげ先で
女のあごやへそのくぼみを
かく老いた男のために
杏子の実を一籠送る
ことを忘れてはならない。

 「貴族」と「日めし」に比べると、「百姓」と「しやべつている」には、違和感というか、「水準」のずれ--「脱臼」はない。「ゴアオン夫人と話をした」と比較すると、西脇は、主語が「聖」であるとき、補語や動詞に「俗」をぶつけて、「聖」の文体を「脱臼」させることがわかる。主語の「俗」に、「聖」の補語や動詞をぶつけて「脱臼」させることはない。
 「脱臼」とは「聖」か「俗」になる瞬間に起きる。
 「俗」を主語にしたとき、西脇は「脱臼」のかわりに「昇華」をぶつける。「俗」を洗い清める。「俗」のなかにある「美」を引き出す。
 「百姓」の、そのあとに出てくる絵。そして、その「絵」の内容。「女のあごやへそのくぼみ」。それは卑近なものであるけれど、「絵」になることで「美」になる。そして、その「美」は「百姓」そのものとつながっている。卑近な健康(いのち)という部分でつながっている。
 「聖」は「脱臼」させ、笑いを呼び、「俗」はその奥の「いのち」にふれることで「美」に昇華する。そのふたつの運動が、西脇のことばのなかにある。そのことが、西脇のことばの運動を軽くする。

 「野ばらのとげ先で」絵を描く--そういう不思議な美しさ、意外さのおもしろさも、ことばを軽くしている。「野ばらのとげ先」ではなく、たとえば「くじゃくの羽ペン」で描くとすると、それは、とてもつまらなくなる。
 「芸術」(絵)には、素朴を、自然をぶつける。そこにも「脱臼」がある。
 「脱臼」が西脇のことばを軽くする。



田園に異神あり―西脇順三郎の詩 (1979年)
飯島 耕一
集英社

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誰も書かなかった西脇順三郎(81)

2009-09-09 07:49:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇の詩には「非情」の詩がある。「情」を拒絶した、「存在」の清潔な詩がある。「南画の人間」のなかほど。

シャカ堂道をのぼつて行くと
イーソップ物語の木版に出てくる
ような百姓がウナギを探しに来ていた。
彼らはロマン・ロランもロトレアモンも
知らない偉大な人間だ
数丈ある岩から山の藤豆が花の咲く
長い蔓(つる)をたらして旅人の頬をかする。

 「非情」とともに生きている「イーソップ物語の木版に出てくる/ような百姓」はロマン・ロランもロートレアモンも知らない。けれど、偉大である。彼らは、自然を知っている。山藤の花が旅人の頬をかすることを知っている。それは、山藤からの「あいさつ」である。自然は、人間の「情」には配慮をしない。ひとが悲しんでいようが喜んでいようが、そういうことに配慮して、表情をかえるというようなことはしない。人間が、かってに、自分の感情を自然におしつけて、自然が自分といっしょに嘆いたり、悲しんだりしていると思い込むだけである。
 自然は人間の「情」に配慮はしない。しかし、「あいさつ」はするのだ。

 西脇の詩を読んでいると、ときどき「俳句」の世界に触れたような気持ちになるときがある。それは、そこに昔ながらの自然、ちいさな植物たちが丁寧に描かれているから--というよりも、そのことばが「あいさつ」に満ちているからだ。
 誰かと出会い、何事かを話す。そのとき、話されたことばは「結論」をめざして動くわけではない。「やあ、こにんちは。お元気ですか? どうしています? 私は、いま、こんなことを考えています。あなたは、なにか新しいことを考えていますか? あ、それはおもしろそうですね」という具合だ。
 そこにはことばを突き合わせ、何かを探し出すというようなやりとりはない。それぞれの「世界」を報告するだけだ。「過去」を確かめあう--それぞれが生きてきた「時間」を互いにたたえあう、というのに似ている。
 この作品の、前半にある3行。

小山さんを尋ねたのはこの月だ。
郵便局のわきを曲つたとき突然
羅馬人のように「ジューピテル」と叫んだ。

 小山さんが「ジューピテル」と叫んだという事実だけが書かれている。それに対する批評はない。「「ジューピテル」と叫んでしまう小山さんの「過去」と「いま」をただ受け止めている。受け止めた、と伝えるのが「あいさつ」である。

 この作品の終わりも「あいさつ」である。

二人は庭を見ながら南画の人間の
ようにチョンマゲを結んで酒を汲み
かわした「雪が降つていたらいいんですがね」
宗時代の時期のかけらを眼を細くして
すかしてみた。「なるほどね」

 ここでは、互いを受け止めるだけである。「いま」「ここ」で出会えてよかった--そういうことを、さまざまなことばで言い換える。それが「あいさつ」だ。





西脇順三郎変容の伝統 (1979年)
新倉 俊一
花曜社

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誰も書かなかった西脇順三郎(80)

2009-09-08 07:19:07 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「梅のにがさ」。その書き出しの3行。

五月の末むさしのの女達をたずねて
くぬ木の夢もはかない昔いた梅の
庭へ迷い込んだのだ。

 2行目の「くぬ木の夢もはかない」は、この作品の他の行とどんな関係にあるのだろうか。どの行とも関係がない。「くぬ木」は、その後、この作品には出てこない。「くぬ木の夢もはかない」は、ない方がことばの「意味」がとおりやすいといえる。
 けれども西脇は、その余分な(?)ことばを書く。
 意識とは、いつでも逸脱するものである。逸脱しながら、逸脱することで、新しい刺戟に触れ、ことばが動きはじめるためのエネルギーを獲得する。

オリーブ色の芝生を越え
下を向いて歩いた。
芝の花は人間の眼には
あまりに小さすぎる。
その唐紅(とうべに)の色は
人間の恋より偉大だが
芝生をみつめる女の涙を通してだけ
その花を発見するのだ。

 これは、「昔いた梅の/庭」を歩いているときの感想だが、「くぬ木の夢もはかない」という逸脱があったからこそ、芝の花の「唐紅の色は/人間の恋よりも偉大」というような飛躍が、飛躍ではなく、軽い逸脱になる。「はかない」が「恋」と「女の涙」を呼び寄せ、「昔」を清潔にする。
 「くぬ木の夢もはかない」という逸脱がなかったら、単なるセンチメンタルになる。つまり、「人間の恋」「女の涙」は、こだわりに、情のからんだものになる。「くぬ木の夢もはかない」が、ことば全体から「情」を洗い流すのだ。
 「情」を洗い流したあと、何が残るか。

八年はもう過ぎ去りあの梅園
枝をのばしみどりの実がふくらむ
くちなしの藪がしげる窓
からのぞいてみた。
『まだ梅はにがすぎる。

 この「まだ梅はにがすぎる。」の美しさ。自然のもっている非情、野蛮。人間の「情」にはいっさい配慮しないもの。ただ、自分のいのちをまっとうに育てる、その力だけがのこる。
 くちなしのころの梅は、まだ青い。青梅は毒、といわれるくらい、にがい。
 西脇の詩の美しさは、こういう自然を知っていることである。旬の味だけではなく、それが大きくなる前の、未熟な味を知っていることである。(エッセイに、熟す前の、まだ渋が白くて、水気の多い実の味について書いたものがあったはずである。)
 その「未熟な味」こそ、「センチメンタル」以前の、「はかない夢」である。

『まだ梅はにがすぎる。
お前もアップルパイかせんべいでも
コカコーラでも紅茶でも飲んでよ
お前の頭髪は長すぎる
短くお刈りなさい』と云つて
真紅なおしべをつけた姫百合
をさした花瓶の影から水色の
一人の女がピカソの作つた皿を出した。

 「はかない夢」を通って、ひとは「人間」になるということを知っているもの、「女の涙」をくぐりぬけたものは、知っているがゆえに、すべてを洗い流す「梅のにがさ」を、ただ「存在」としてそこに提出するのだ。
 それも、意味を拒絶して、わからなくていい、という感じで。
「意味」を拒絶して、ただ、ことばを独立させる。
 この運動は、そのつづきにこそ、よくあらわれている。「真紅」と「水色」の対比。対比は美しいが、では、その「水色」は何の色? 考えると、いろいろなものが「水色」に見えてくる。「一人の女」が「水色」かもしれない。ピカソの作った皿かもしれない。そうではなくて、「花瓶の影」そのものかもしれない。花瓶の影が水色だから、そこから女やピカソの皿が登場できるのだ。
 「花瓶の影」が「水色」だとすると、ことばの順序が違う?
 もちろん違う。
 しかし、詩は、国語の教科書ではない。詩は、教科書文法で書かれているわけではない。「くぬ木の夢もはかない昔いた梅の」というような奇妙なことばは教科書国語にはない。論理的な「文体」(構造)による詩もあるのだけれど、西脇は、そういう論理的構造の詩よりも、ことばが独立して、独立することで乱反射する乱調の美を描いているのだから、「花瓶の影」こそ「水色」であっていいのだ。

 という読み方は、強引すぎるだろうか。

 だが、私は「影」を「水色」と読みたいのだ。詩の、最後を読むと、特にそういう気持ちになる。

今日は新しい女神がこの大学
の校長になる儀式だ。
梅の樹のまたに腰掛けて
女神たちのささやきが終るまで
パイプをすいながら待つていた。
さびれた頭がふるえるのだ。

 青い梅。苦い梅の下で「水色」を思う。それは、ブルーよりも、みどりに近い水色かもしれない。繊細な美しさ。「過去」が、頭のなかでふるえる。「過去」は過ぎ去る。「はかない」夢は昔。今は、ただ青い梅のにがさが、そこにある。
 「水色」は青い梅の「にがさ」の色なのだ。






西脇順三郎の世界 (1980年)
池谷 敏忠
松柏社

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誰も書かなかった西脇順三郎(79)

2009-09-07 05:02:18 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 ことばの「脱臼」、行のわたりによることばの乱調は、「乱れ」というよりも、乱れの前後にあることばそのものをくっきりと浮かび上がらせる。乱れることによって、1行のことばの強さ、輝きが増す。そして、乱反射する。乱反射の光が、いままで見落としていた存在を照らしだし、にぎやかになる。あるいは、「やかましくなる」というべきか……。
 「秋の写真」の前半部分。

この武蔵野の門をくぐつてみると
ひとりの監視人以外に人間らしい
ものはなにもなかった。
今日は小鳥の巣のコンクールがある日
だつたがまだ一人もそうした少年芸術家の
青い坊主頭がいない
   (谷内注・「くぐつてみた」の「ぐ」を西脇はをどり文字で書いている。
    をどり文字が表記できないので、書き換えた。以降の引用も同じ。)

 行のわたりによって「監視人」「青い坊主頭」の存在の対比が強烈になる。「乱調」がなくても対比はあるけれど、それは「対比」として強調されるにすぎない。「乱調」は対比と同時に、それぞれの「存在」を印象づけるのである。文脈が破壊される(学校教科書の文法が、という意味である)ことによって、文章の流れ、構造ではなく、構造を支える「存在」がくっきりと浮かび上がる。「存在」がことばとして浮かび上がる。
 詩とは、「存在」を「ことば」として浮かびあがらせること--ではなく、「ことば」が「存在」になることなのだが、西脇の「脱臼」(乱調)は、「ことば」を存在」にしてしまう方法なのである。
 さまざまな「乱調」をくぐりぬけて、ことばは、次のように変化する。

秋の写真秋の女の写真
デュアメルの奥さんに読んで貰うものが
ないのはこまつたことだ。
くもつたカメラの中へこぼれるのは
ぼけ、いいぎり、くさぎ
まゆみ、うばら、へくそかずら
さねかずら
の実の色 女のせつない色の
歴史
歴史はくりかえされるのだ。

 ふいに登場する草々。どんな修飾語も拒絶して、ただ、「存在」そのままに、そこにある。「歴史」とはいつまでもかわらない「存在」のなかでのみくりかえされる。それは、女の「せつなさ」と同じもの。
 この突然の、「女のせつない色」は、乱調の光が照らしだしたもののひとつだ。何の説明もないが、それは説明できな。乱調そのものが説明を逸脱している。説明を逸脱していく、文脈を逸脱していくのが乱調なのだから。
 「女のせつない色の/歴史」ということばを、西脇は、この詩のなかでは、「存在」そのものにしたかったのだ。






西脇順三郎全集〈第1巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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