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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(78)

2009-09-06 06:59:16 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 西脇の詩は長い作品が多い。長い作品の方が音楽が入り乱れて楽しいが、短い作品も軽快でいい。
 「秋」の「Ⅱ」の部分。

タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行つて
あの黄色い外国製の鉛筆を買つた
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずつた木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明朝はもう秋だ

 田村隆一ではないが、思わず、黄色い鉛筆を買いに行きたくなる。黄色い鉛筆を買ってきて、削って、燃やしてみたくなる詩だ。
 私は、その「意味」「内容」もおもしろいと感じるけれど、そんなふうに西脇の詩にそそのかされてしまうのは、「意味」「内容」よりも、この詩の音楽のためだと感じる。

 「タイフーンの吹いている朝」。これが「台風が吹いている朝」では、たぶん、おもしろくない。重くなる。「タイフーン」という音がこの詩を書かせている。「タイフーン」のアクセント「フ」にある。だから「吹いている」と「ふ」が重なる。台風なのに、まるで、かろやかな風である。「朝」という明るい響きもとても美しい。「タイフーン」の「フーン」という音のなかに、現実とは違った軽い響きがある。その軽さが「あさ」の開放的な音を強調する。母音「あ」がのびやかに広がる。「秋」(あき)の「あ」だ。
 次の行からは「秋」(あき)の「き」がはじまる。「近所」「黄色」「木」「木屑」の「き」。「扇」のなかにさえ「おうぎ」と濁音の「き」が隠れている。
 その「き」の上には「あの」の「あ」が繰り返される。
 この「あの」は意味上は無意味な「あの」である。「あの」と書いているのに、先行するどの行にも、その「あの」が指し示すものがない。「あ」と「き」を浮かび上がらせるための「あの」なのだ。
 
 そして、私は最後の行で、ちょっとつまずく。引用してみてはじめて感じたのだが、「明朝はもう秋だ」の「明朝」はどう読むのだろう。私の記憶の中では、この行は「あすはもうあきだ」という音になっていた。
 ところが「明朝」。
 「あす」と読ませるなら、ルビが必要だろう。ところがルビがない。
 「みょうちょう」なのか。
 「みょうちょう」だと、その前の行の「門」、そしてさらにその前の「バラモン」の「モン」、さらに遡って「燃やすと」の「も」、つまりま行の音と響きあい、「もう」の「も」ともなじむのだけれど……。

 「みょうちょう」という音は、私の感覚では「あき」という明るい音とは、しっくりこない。
 私の「頭」は、いや、そんなことはない。「タイフーン」「みょーちょー」という音はなかなかおもしろい変化だと、しきりに言うのだけれど。



西脇順三郎の世界 (1980年)
池谷 敏忠
松柏社

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誰も書かなかった西脇順三郎(77) 

2009-09-05 12:40:27 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 「冬の日」。後半が好きだ。

メグロ駅の方へ冬の祭りを見に走つた。
駅の近くのスキピオとかいう家
でおばあさんが笛を吹いて
酒もりをしている。
紫紺に染め草色のうらをつけた
我がマントをうしろからひつぱる少年がいた。
『さんまも栗も終つたが是非
おたちよりを願いたいとだんなが
いつていやはります
ソクラテスはんも来てやはる』
これはプラトンの「共和国」
の初めだ。

 なぜ、メグロ(目黒、だろう)にスキピオが出てきたり、プラトンが出てきたりするのか、その飛躍は、まあ、単なる飛躍だ。そういうことは考えても仕方がない、と私は考える。そういう飛躍に、私は、詩を感じない。
 しかし、キスピオの行に関して言えば、その行の独立のさせ方に詩を感じる。

駅の近くのスキピオとかいう家
でおばあさんが笛を吹いて

という行の展開は、教科書国語ではありえない展開である。「で」という助詞は単独では存在し得ない。「家+で」という形でつかわれるのが一般的である。ところが、西脇は、この「で」を切り離し、次の行の冒頭におく。あるべき「で」を欠くことで、「スキピオとかいう家」が独立する。その独立のさせ方に、詩がある。

 詩とは、ことばの独立である。

 西脇は、もしかするとどこかでそんなことを書いているかもしれない。書いていないかもしれない。不勉強な私にはよくわからないが、西脇が、詩をことばの独立と考えていたことは、その行からだけでもわかる。
 そして、詩とは、ことばの独立であるからこそ、

いつていやはります

 という行が、また1行として書かれもするのだ。少年のことばは、教科書国語では「さんまも栗も終つたが/是非おたちよりを願いたいと/だんながいつていやはります」になるが、そういう「文法」破壊し、西脇はことばを独立させる。
 「文法」を破壊することで「意味」の「通り」を寸断し、「意味」を宙ぶらりんにする。「意味」を「脱臼」させるといってもいいかもしれない。そたでは「意味」は動かず、ただことばが、音として、その形をみせる。

いつていやはります

 京都弁か、あるいはその近辺の関西弁か。よくわからないが、標準語ではない。「メグロ」の近くで話されていることばではない。
 その「音」の独立。
 西脇が「意味」を書きたいのなら、わざわざ、「いつていやはります」とは書かないだろう。
 音が独立し、そして、その独立して存在することが、また「スキピオ」や「プラトン」ともつながるのである。「目黒」が「メグロ」という音になってしまったとき、それは「目黒」という東京の「場」を超越して、祝祭の「場」になる。それは「スキピオ」の時代につながり、京都に重なり、プラトンとも交流する。
 こんなでたらめ(?)は詩の特権である。
 独立したことばは、「いま」「ここ」にしばられない。自由に時間、空間を超越して、音として互いに響きあう。
 こんな例えが適切であるかどうかわからないが、それはピアノとバイオリンとフルートが、「ド・レ・ミ」の和音をつくるように、響きあう。
 西脇の「和音」を聞きとるためには、たぶん、いろいろな文学素養が必要なのだろう。(そういう解説書はたぶんたくさん書かれているだろう。)けれど、たとえ文学的素養がなくても、耳をすませば、その音楽は聞こえる。
 音にはいろんな層がある。哲学的言語。文学的言語。そういうものばかりではなく、東京弁。京都弁。商人のことば。やくざのことば。少年のことば。女の声。男のなげき。そういうものを、西脇はさまざまに響かせる。
 どんなことばも、音として響きあうのだ。

ソクラテスはんも来てやはる

 「ソクラテス」と京都弁も響きあうのだ。「は」という音は、日本語本来の音としては文頭以外では「わ」というふうに発音される。例外は「はは」くらいで、外は助詞の「は」が「わ」であるのと同じように、「わ」。「やはた」は「やわた」。けれども、「いつていやはります」「ソクラテスはん」「来てやはる」の「は」は「は」のまま。日本語としては標準語より京都弁(関西弁)の方が古いはず(と私は勝手に思っている)だが、その古いはずのことばが「は」を「わ」と発音しない。まるで、外国語である。--と、西脇が感じたかどうかはしらないが、この行が、標準語ではなく京都弁として書かれているのは、そこに書かれているのが「意味」だけではないことの証拠になるだろう。西脇はいつでも音のことを考えていた証拠になるだろうと思う。



西脇順三郎変容の伝統 (1979年)
新倉 俊一
花曜社

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誰も書かなかった西脇順三郎(76)

2009-09-04 07:19:45 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「キャサリン」のつづき。
 「恋愛の無限人間の孤独人間の種子の起源」という直列のことばのあと、「のために涙が出そうに淋しく思うだろう。」というセンチメンタルなことばで、そのあとは、ことばはいっきに動く。行方を定めずに、動き回る。集中が強かったために、反動として発散が大きくなるようだ。
 途中を省略するが、

リンボクに花が咲いて
また実がなっておつさんが来て
ジン酒を造つて行つた。
もう少し先へ行つて横を曲つて
谷へおりたら霜ばしらの中で
あざみの蕾が出ているのだが。
西へ真すぐに歩いて行く。

 句点「。」が象徴的だが、ここでは「直列」は起きない。ただ、並列の風景があるだけである。
 この並列、この発散・拡散の運動は、西脇の視線を自由にし、同時に、その自由の中に「他人」を呼び込む。集中している精神の中かに他人は入って来れないが、拡散している精神、隙間の多い精神には、他人は簡単に入ってくる。

アンティガの女王の首の切手を売る
店のとなりが花屋で
やどり木が枝を路ばたに積んでいた。
カスリの股引きに長靴をはいたポリネシアの
おかみさんはごそごそやつていた。
『アメリカの人にはクリスマスの時に
売つたんだべ。一枝百円で。
もう十円でいいですよ』
青黒いゴムのような枝に
透明な黄色な実が鮭の卵のように
ついていた。
『だんな知つていなさるかへへへへへへ』
おかみさんは西方の神話がいかに
植物的であるかということを喜んだ。
      (谷内注・「いいですよ」は西脇は、をどり字で書いている)

 「アメリカの人には……」はポリネシアのおかみさんが言ったことばなのかどうかは、よくわからさない。「売つただんべ」とは、まさかポリネシアのおかみさんは言わないだろう。ここでは「だんべ」というおもしろい音が、音そのものとして書かれている。西脇は、おかみさんのことばを「意味」というよりは「音」として把握しているのだ。
 「他人」のことば、それを「意味」というよりは「音」として把握する。音の中にこそ、「意味」がある。ことばにならない「意味」がある。ことば以前の意味というより、ことばを超えていく意味、ことばでは伝えられない意味がある。
 『だんな知つていなさるかへへへへへへ』の「へへへへへ」という音のなかには意味を超えたものがある。そういうことを、ひとは誰でもが知っている。

 そんなふうに、拡散されたあと、西脇のことばはふたたび「直列」へ向かう。ただし、今度の直列は、いままでの直列とは少し違う。1行の中に、ことばが直列するのではない。

午後も枯れたバラの葉のように
なつた頃古道具屋を発見した。
石油ストーヴと真鍮のベッドの間に
十八世紀の画家ウォールトンの絵が
額の中にはいつていたものだ。
釣りに行つて来た少年の肖像
リンドウの花のように青い羽
をつけたシルクハットをがぶつたあの
田舎の少年のあのあかはら
あのてぐすの糸あの浮きの
あなたの耳飾りのような軽さ。

 ウォールトンの絵の中の風景は、「おかみさん」のことばか、あるいは少年の肖像か。「額の中に」は「ガクのなかに」なのか、「ひたいの中に」なのか、どちらともとれるように結びつけて、そのあと。
 「リンドウ」からつづく行の「あの」の繰り返し。「あの」によって次々にことばが集められ、それは「並列」ではなく、「直列」につながる。それは、直列電池が必ずしも、電池のプラスとマイナスの部分を接触する形ではなく、「電線」でつなげば横に並んでいても(見かけは並列であっても)、直列配置が可能なのに似ている。
 見かけは並列しながら、「あの」ということばで直列にする。
 この「あの」が進化(?)すると、西脇が多用する「の」になる。「の」は西脇の直列の詩学の、自在なコード(電線)なのだ。

 しかし、(というのは変な言い方だが)、この終わりの部分の美しさにはいつもびっくりする。直列のリズムがことばを美しくする。「あかはら」というのはイモリのような形の生き物で、とても貪欲というか節操がないというか、餌のついていない釣り針にでも食らいついてくる、腹が紅く(そして、黒い斑点もある)、ぞっとするようなものだが、ここでは「あの」の「あ」と響きあって、明るい「音楽」そのものになっている。「あからは」がこんな美しい「音楽」になるとは、池や川で、手製の釣り針で魚を釣っていた私にはまったくの驚きである。「あかはら」の気持ち悪さにぎょっとしていた私には、まるで夢のような、不思議な感じがする。なぜ、こんなに美しいのだろうと思ってしまう。
 この変化は、ことばの直列と、その直列をつくりあげる「あの」ということば抜きにはありえない。






西脇順三郎の世界 (1980年)
池谷 敏忠
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誰も書かなかった西脇順三郎(75)

2009-09-03 11:02:17 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「キャサリン」。書き出しは「飛躍」の大きい文体である。

女から
生垣へ
投げられた抛物線は
美しい人間の孤独へ憧れる人間の
生命線である

 これだけでは、何のことかわからない。「投げられた抛物線」とは何のことか。何を投げたのか。「視線」と考えると何かがわかったような気持ちになるが、一般的に視線は抛物線を描かない。直線である。抛物線をゆるやかな線と解釈すれば、何気なく時化が気に投げかけられた視線、ふっと生垣をながめる視線、ほとんど無意識の視線、ということになるだろう。
 私の連想が正しいかどうかは別にして、ことばはいろいろな連想呼び起こす。そういう連想を呼び起こすこと、ひとつのことばを契機に、ことばが「意味」から逸脱してどこかへ行ってしまうことを詩ととらえれば、ここに詩があることになる。
 「注釈」(解釈)というのは、まあ、そういう連想の「最大公約数」のようなものを引き出して、読者にとどけるという仕事(作業)なのだと思うが、私は、注釈も解釈もめざしていないので、違うことを書く。
 私が、いま引用した5行で一番ひかれるのは、

美しい人間の孤独へ憧れる人間の

 という行である。「美しい人間」「孤独へ憧れる人間」というふたつの「人間」が電池の直列のように結びついている。
 なぜ?
 西脇は、なぜ、どちらかひとつにしなかったのだろうか。
 「美しい人間の/生命線である」、あるいは「孤独へ憧れる人間の/生命線である」と書いた方が、5行の「意味」は簡潔になりそうである。
 しかし、西脇は「美しい人間の孤独へ憧れる人間の/生命線である」と書く。

 「意味」のとりようはふたつある。ひとつは「美しい人間の/生命線」であり、同時に「孤独へ憧れる人間の/生命線である」。つまり、並列されている、と考える見方。こちらは「意味」がとりやすい。
 もう一つは、先に「電池の直列」と書いたのだが、並列ではなく、ふたつが「直列」であるという状態。あくまでも、それは直列につながり、直列のまま、「生命線である」ということばに結びつくのである、という考え方。
 では、その直列のつながりだと、「意味」はどうなる?
 実は、どうにもならない。「意味」は、まあ、どうでもいいのだ。「意味」を通り越して、あれ、何か、変なことばの動きだなあ。無理なエネルギーが動いているなあ、という感じ。つまり、ふつうのことば(学校教科書のことば)とは違った何かがここにあるぞ、という印象が残ればいいのだ。ふつうのことばでは言えないことを言おうとして、西脇は、「わざと」ことばを直列にしているのである。

 「直列」というのは、エネルギーを膨れ上がらせる方法なのである。

 この視点から、きのう読んだ「近代の寓話」の「に合流するのだ私はいま」という行もまた直列である。その1行自体「直列」だが、その行によって「考える故に存在はなくなる」というような形而上学的なことばと、「ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ」ということばが「直列」になる。異質なことばが直列になって、いままで存在しなかったエネルギーを発散しながら動いてゆく。

 この直列を、きのう私は「つまずき」と書いたが、つまずくのは、そこに障害物があるからではなく、エネルギーが高まりすぎて、筋肉の中をそのエネルギーが暴走するからなのだ。

 直列のエネルギーと逸脱、あるいは暴走。逸脱・暴走による乱調。そこに西脇の美がある。乱調は、直列のエネルギーが大きいほどあざやかに乱れる。

女から
生垣へ
投げられた抛物線は
美しい人間の孤独へ憧れる人間の
生命線である
ギリシャの女神たちもこの線
を避けようとするのだ。
十二月の末から一月にかけて
この辺は非常に淋しいのだ。
コンクリートの道路が
シャンゼリゼのように広く
メグロの方へ捨てられた競馬場を
越えて柿の木坂へ走っているのが
あの背景はすばらしい夕陽。
さがみの山々が黒くうねって。
この夕焼けを見たら
あなたも私と同じように
恋愛の無限人間の孤独人間の種子の起源
のために涙が出そうに淋しく思うだろう。

 直列によってエネルギーが高まったことばは、もう、国語教科書的な動きはしない。「十二月の末から一月にかけて/この辺は非常に淋しいのだ。」は何気ない2行、非常に散文的な2行だが、とても変である。「この辺」って、どの辺? あとを読んでいけばわかるが、ふつうの散文では、まず場所を明確にし、そのあとで「この辺」という。「この」という指示代名詞は、それに先行するものがないと、何を「この」と呼んでいるかわからない。
 直列によって、ことばのエネルギーが高まっているため、ことばが先回りしてしまうのだ。あとでいうべきことが、倒置法のように、先になってしまうのだ。いいたいことを行ってしまったあとで、説明する。
 それだけではなく、その説明の過程で、ことばが散文的に散らばってしまうと(三万なると?)、ことばが徐々に直列の方向へ態勢を整え、むりやり直列になってしまう。

恋愛の無限人間の孤独人間の種子の起源

 読点「、」も1時アキもなしに連続したことば。
 西脇のことばは直列によってエネルギーを蓄え、暴走することによって、そのエネルギーを解放し、ふたたび直列をめざし、互いを呼び寄せ合う。
 そういう集中(直列)と解放(発散)を繰り返すが、その集中と発散が「乱調」なのである。集中なら集中、発散なら発散ではなく、それを繰り返す。そこに、入り乱れた美が生まれる。





西脇順三郎の世界 (1980年)
池谷 敏忠
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誰も書かなかった西脇順三郎(74)

2009-09-02 12:34:38 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『近代の寓話』の「近代の寓話」のつづき。
 西脇のことばは「つまずき」や「脱臼」のような運動に特徴がある。「に合流する私はいま」の運動を「つまずき」ときのうの日記に書いたが、「つまずき」と書くと、「つまずきの石」が必要になるから、ほかの表現がよかったかもしれない。「マイナスの飛躍」とか……。
 いや、やはり「つまずき」がいいだろう。
 「つまずき」--つまずいた瞬間、体のリズムが乱れる。そして、予想外のところへ体がはみだしてしまう。「に合流する私はいま」には、そういう急激な変化がある。
 そしておもしろいのは、こういう「つまずき」のあとでは、「飛躍」が「飛躍」に感じられないことである。

考える故に存在はなくなる
人間の存在は死後にあるのだ
人間でなくなる時に最大な存在
に合流するのだ私はいま
あまり多くを語りたくない
ただ罌粟の家の人々と
形而上学的神話をやつている人々と
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ
アンドロメダのことを私はひそかに思う

 「アンドロメダ」がなぜここに登場するのかわからない。「考える故に存在はなくなる」という思いと「アンドロメダ」をつなぐものがわからない。「ワサビののびる落合でお湯にはいる」こととの関係もわからない。
 わからないけれども、「に合流する私はいま」という奇妙な「つまずき」の行のあとでは、さーっと読んでしまう。たぶん、「つまずき」の方が肉体にとっては衝撃が大きいのだ。飛躍が意識された運動であるのに対して、「つまずき」は想定外の運動であり、そこには意識が存在しない。「つまずき」の対象に対する意識が欠如していたために起きた予想外の運動である。たぶん(また、たぶんなのだが)、ことばにも「肉体」というものがあり、ことばが「つまずく」とき、ことばの「肉体」にも不思議な衝撃のようなものが残り、その影響で「飛躍」をなんでもない一歩のように意識させてしまうのだろう。
 こういう運動には、「音楽」も影響していると思う。
 「アンドロメダのことを私はひそかに思う」という音の動き--それは、その前の「ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ」の音と、とてもよくち響きあっていると私には感じられる。「ワサビののびる落合で」のなかの濁音の位置というか、濁音が閉める位置がつくりだすリズムと「アンドロメダ」の濁音のリズムが響きあう。「ワサビののびる落合で」のリズムが凝縮する(?)と「アンドロメダ」のリズムになる。そして、その凝縮には、同じ「ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ」の「だけだ」の短い濁音の交差するリズムが影響している。「ワサビののびる落合で」が「だけだ」のリズムに叩かれて「アンドロメダ」という形になったのだ。
 こういう急なリズムのあとに、そのリズムを「脱臼」させるように、ゆるやかなことばがつづく。「考える故に存在はなくなる」というような「形而上学」のあとに「お湯にはいる」ような動きである。

形而上学的神話をやつている人々と
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ
アンドロメダのことを私はひそかに思う
向うの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうつている
ふところから手を出して考えている

 リズムのかきまぜ、攪乱が、西脇のことばをいきいきとさせる。
 「つまずき」も「脱臼」も、ことばの攪乱なのだ。そうやって、ことばの「乱調」がはじまる。
 西脇の美は「乱調」にある--と言いなおすこともできるだろうと思う。

 「乱調」(「つまずき」「脱臼」など、教科書文法からはありえないことばの動き)の例。

ベドウズの自殺論の話をしながら
道玄坂をきぼつた頃の彼のことを考え
たり白髪のアインシュタインがアメリカの村を
歩いていることなど思つて眠れない

 「考え/たり」という行のわたり。ふいの意識の「ずれ」。そこに「乱調」がある。

一本のスモモの木が白い花をつけて
道ばたに曲つている、ウグイスの鳴く方を
見れば深山の桜はもう散つていた
       (西脇は「スモモ」を「をどり字」をつかって表記しているが、
        ここでは表記できないので「スモモ」と書いておく。)

 「道ばたに曲つている、ウグイスの鳴く方を」は「に合流するのだ私はいま」に似ている。読点「、」があるぶん意識はたどりやすいが、なぜ1行に書いたのか、そのことは明確には理由が特定できない。「つまずいた」のだ、としかわからない。
 そして、このつまずきのあと、ことばがとても美しく動き。

一本のスモモの木が白い花をつけて
道ばたに曲つている、ウグイスの鳴く方を
見れば深山の桜はもう散つていた
岩にしがみつく青ざめた菫、シャガの花
はむらがつて霞の中にたれていた
私の頭髪はムジナの拝椅子になつた
忽然としてオフィーリア的思考
野イチゴ、レンゲ草キンポウゲ野バラ
スミレを摘んだ鉛筆と一緒に手に一杯
にぎるこの花束
あのたおやめのためにあの果てしない恋心(れんしん)
のためにパスカルとリルケの女とともに
この水精の呪いのために 

 「岩にしがみつく青ざめた菫、シャガの花/はむらがつて霞の中にたれていた」の「は」の位置。「青ざめた菫、シャガの花」および「野イチゴ、レンゲ草キンポウゲ野バラ」の読点「、」の有無。そして、「スミレを摘んだ鉛筆と一緒に手に一杯/にぎるこの花束」の入り乱れたことばの順序。「スミレを摘んだ」のあとに、学校教科書なら句点「。」が必要である。一般的な行かえ詩なら、そこで改行があるはずである。しかし、西脇は読点や改行をことばの運動の中に吸収、消化して痕跡を消してしまう。
 その「つまずき」のあと。
 「あおやめのための」という音楽。「あの」という音も「たおやめ」「ための」と響きあい、パスカルとリルケも、ここでは音(音楽のための要素)になってしまっている。
 なんとも楽しい。




西脇順三郎全集〈第1巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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誰も書かなかった西脇順三郎(73)

2009-09-01 23:56:22 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『近代の寓話』の「近代の寓話」。書き出し。

四月の末の寓話は線的なものだ
半島には青銅色の麦とキャラ色の油菜
たおやめの衣のようにさびれていた
考える故に存在はなくなる
人間の存在は死後にあるのだ
人間でなくなる時に最大な存在
に合流するのだ私はいま
あまり多くを語りたくない
ただ罌粟の家の人々と
形而上学的神話をやつている人々と
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ

 自然の風景と、思索とが互いをひっかきまわすように動いている。「旅人かへらず」の「一」の「この考へる水も永劫には流れない/永劫の或時にひからびる/ああかけすが鳴いてやかましい」の取り合わせにいくらか似ている。
 私がとてもおもしろいと思うのは

に合流するのだ私はいま

 という1行である。この1行は「人間でなくなる時に最大な存在」という行と「あまり多くを語りたくない」という行を一気に結びつける。そこには「間」がない。文法的(?)にはというか、教科書国語的には、「人間でなくなる時に最大な存在に/合流するのだ/私はいまあまり多くを語りたくない」という「意味」になるのだが、そんな「意味」にしたくないという意思が働いている。
 整然と「意味」を整理したくない。ことばを「意味」に従属させ、整然とした形にしたくない。そういう意思が働いている。

 整然、の反対は何だろうか。猥雑、だろうと、私は思う。

 西脇は、猥雑に動く人間の精神を、そのまま描きたいのだ。整然とことばを動かし、その整然としたことばの動きを「論理的」と定義するなら、西脇のやっていることは「非論理的」なことばの運動である。「論理」を破壊することばの運動である。
 「論理」を破壊する瞬間に、詩が溢れ出るのである。
 そして、その瞬間、瞬間を、猛スピードで拾い集めていく。それが西脇の詩の特徴である。そして、その猛スピードが象徴的にあらわれているのが、

に合流するのだ私はいま

 という行である。
 「考える故に存在はなくなる」という考えがふいに浮かぶ。浮かぶのだけれど、それを追求しつづけるのは、ことばを窮屈にする。だから、それを破壊する。破壊して、「自由」な風をとおす。
 そして、というのは、論理の飛躍になるかもしれないが、この破壊の方法として、論理的なことばから非論理的なことば(?)へ移動する方法として、西脇がとっている方法は、とても矛盾に満ちている。
 論理的なことばの運動--それは、緊密な「間」をもっている。「間」に揺らぎがない。ことばからことばへの移動には、整然とした「間」がある。その「間」が整然としていないと、論理はつかみにくい。別なことばでいうと、ことばからことばへの運動において(意味の形成過程において)、「飛躍」があると、なぜ、そんなふうになる? という疑問がわく。「飛躍」した部分で「意味」がわからなくなる。
 「飛躍」の大きい文章が「非論理的」と呼ばれる文章である。
 ところが、西脇は、その「飛躍」を隠すのである。「飛躍」をむりやり1行に凝縮するのである。

に合流するのだ私はいま

 本来あるはずの「間」をもう一度/をつかって書き直せば「……に/合流するのだ/私はいま」になる。その「間」を消してしまう。「間」の位置をわざと不自然な位置に動かしてしまう。
 「飛躍」ではなく、「つまずき」である。

 「つまずき」が西脇の詩である。

 「つまずき」とは、また、笑いでもある。特に、「論理」のように、ちょっと偉そう(?)なものがつまずくとおかしい。子どもがバナナの皮で滑ってもおかしくないが、警官がバナナの皮で滑って転ぶとおかしい。そういうときの「つまずき」。
 あるいは、「脱線」「脱臼」と言い換えてもいいかもしれない。
 整然と進むべきものが(整然とあるべきものが)、その本来の位置からずれる。
 その瞬間に、笑いが生まれる。その笑いのなかに、詩がある。



西脇順三郎全集〈第2巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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誰も書かなかった西脇順三郎(72)

2009-08-29 10:40:12 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

一六八
永劫の根に触れ
心の鶉の鳴く
野ばらの乱れ咲く野末
砧の音する村
樵路の横ぎる里
白壁のくづるる町を過ぎ
路傍の寺に立寄り
曼陀羅の織物を拝み
枯れ枝の山のくづれを越え
水茎の長く映る渡しをわたり
草の実のさがる藪を通り
幻影の人は去る
永劫の旅人は帰らず

 2行目。「心の鶉」。なぜ、「うずら」なのだろう。「こころのうずらのなく」と、もし、ひらがなで書いたら「こころのうずく」と読み間違えるかもしれない。こころが、うずらのように美しい声で鳴く、うずく。--こころがうずく、と書いてしまえば、センチメンタルになる。特に「永劫の根」に触れ、こころが疼くと書けば、「意味」が強すぎて、詩から遠いものになるだろう。
 だから、「わざと」、そこに「うずら」を紛れ込ませる。紛れ込ませながら、音の遠く(?)というか、音を聞きとる耳の奥、声をだす口蓋や舌や喉に、かすかに「うずく」を感じさせる。
 そして、「うずら」を利用して、「野」に出て行くのである。
 あり得ないことだけれど、たとえば2行目が「鶉」ではなく、「カナリア」だったら、「永劫の旅人」は「野」には出て行かないだろう。草原に住む鶉だからこそ、3行目の「野」が自然に引き出される。「野ばら」「野末」。それから「の」。西脇の大好きな、助詞の「の」。
 野を通り、村を通り、町を通り、また山を越え、水を渡る。ときには曼陀羅に立ち止まるけれど、それは野や村を通るのが自然・暮らしの道を歩くのに対して、文化の道・哲学の道を歩くといいかえることができるかもしれない。自然を歩き、また文化をも歩く。
 そうやって、「永劫の旅人」は帰らなくなる。

 「帰らず」は、そのとき、人は人ではなくなるということだろう。詩人は詩人ではなくなる。自分ではなくなる。自分ではなく、別の人間に生まれ変わってしまう、ということだろう。
 詩は、何かに触れ、そのとき動いたこころ(こころのうずき)をそのまま書き写すことなのだろうけれど、ことばをうごかすと、人は自分のままではいられない。自分を超えてしまう。その超え方にはいろいろあるだろうけれど、ともかく自分ではなくなる。
 「旅人かへらず」のなかで、西脇は、歩きつづけた。歩きながら、「アムバルワリア」の詩人から、また違った詩人になった。そして、そのあとも、変わりつづけていく。生まれ変わりつづけていく。





西脇順三郎全集〈第3巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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誰も書かなかった西脇順三郎(71)

2009-08-28 07:27:47 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

一六七
山から下り
渓流をわたり
村に近づいた頃
路の曲り角に
春かしら今頃
白つつじの大木に
花の満開
折り取つてみれば
こほつた雪であつた
これはうつつの夢
詩人の夢ではない
夢の中でも
季節が気にかかる
幻影の人の淋しき

 「春かしら今頃」。この1行がおもしろい。倒置法によって、ことばが緊密につながっている。そして、その「今頃」は実際に結びついているのは「春かしら」ではなく、「(花の)満開」である。書き出しから「春からしら」までの4行がゆったりと動いているのに対して、「春かしら」から「満開」までは、精神が(意識が)急激に動く。凝縮して動く。そして、その凝縮そのものが「春かしら今頃」という切れ目のないことばになっている。
 こういう精神の凝縮は誰でもが体験することである。そして、それは「錯覚」(勘違い)であったりすることが多い。錯覚や勘違いとわかったとき、ふつう、ひとはそれを訂正して(修正して)書くが、詩人は、そういう錯覚、勘違いのなかに「詩」があると知っているから、それをそのまま書き留める。

花の満開
折り取ってみれば
こほつた雪であつた

 これは古今集からある「錯覚」の詩。梅に雪、花かとみまごう雪、という例がある。これに対する次の行が非常におもしろい。

これはうつつの夢
詩人の夢ではない

 すでに定型化されたことばの運動、定型化された錯覚は「詩人の夢」、詩人がめざす詩ではない、というのである。そして、その詩人の夢ではないものを「うつつの夢」、「現実が見た夢」と否定している。「うつつ」とは、このとき「日常」にもつながるだろう。「日常」とは「定型化」した「時間」である。
 西脇が詩でやろうとしていることが、ここに、正確に書かれている。
 定型化したことばの運動が描き出す「美」は詩ではない。それを破っていくものが美である。「日常」「現実」を破っていく美--それが、詩である。

 最後の3行、

夢の中でも
季節が気にかかる
幻影の人の淋しき

 「うつつの夢」、見てしまった夢(つまり、ある意味で実在してしまった夢)のことなのに、その夢のなかにでできた「季節」が気にかかる。季節というものに反応してしまう。そのことを「淋しき」と、西脇は書く。
 西脇の美意識は、一方で日常を破壊することにあるけど、他方で人間の力のおよばない季節(自然、無常)というものにも反応し、それが気にかかる、という。
 これは、西脇の美は、日常を破壊するけれども、その破壊の仕方は、世界の存在を支えている時間(永遠)を無視するものではない、ということを別のことばで表現したものである。
 日常(現実)を破壊するけれども、永遠は破壊しない。むしろ、日常を破壊することで、永遠を誕生させる--そういうものを詩と考えていることが、ここから読みとることができる。
 日常(現実)を破壊し、永遠を誕生させるという二つのことを同時にやるのが、幻影の人、永劫の旅人なのだ。




西脇順三郎全集〈第6巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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誰も書かなかった西脇順三郎(70)

2009-08-27 07:39:06 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『旅人かへらず』のつづき。

一六六
若葉の里
紅(べに)の世界
衰へる
色あせた
とき色の
なまめきたる思ひ
幻影の人の
かなしげなる

 この詩は、なんだか不思議である。「若葉」と「紅」のとりあわせが奇妙である。「若葉」はふつうは「みどり」。「紅」(赤)は補色である。1行目と2行目のあいだに、深い断絶がある。あるいは、「わざ」とつくりだされた対立がある。
 だが、この「わざと」があるから、それにつづく行がおもしろくなる。
 衰えた色(とき色)の「衰えた」には「なまめき」がある。それは「いのち」の最後の輝きなのか。「衰え」と「なまめく」は一種の矛盾、対立であり、それは「補色」のように、互いを引き立てる。--そういう補色の構造をうかびあがらせるために、西脇は、わざと「若葉」と「紅」を隣り合わせに置いたのだろう。
 
 それとは別にして。

 ここの部分の音の動きもおもしろい。「衰える」と「なまめく」を対比させ、結びつけるのにつかわれている「とき色」。その「き」が「なまめきたる」の「き」のなかにつよく残っている。「衰え」の「と」、「色あせた」の「た」という「た行」の音は、「なまめきたる」の「た」のなかにあるが、同じように、「とき色」の「と」にもある。
 「衰える」と「なまめく」という二つの概念を結びつけるには、どんな色でもいいというのではない。特別な色でなければならない。そして、その色を決定しているのは、光学的(美術的?)な「色」ではなく、その色の呼び名の「音」なのだ。
 そして。

なまめきたる思ひ
幻影の人の
かなしげなる

 最終行の「かなしげなる」のなかには「なまめきたる」の「な」が2回繰り返され、同時に「幻影の人の」の「げ」もある。
 ただし、この「げ」の音は、「幻影」の「げ」は鼻濁音ではなく、「かなしげ」の「げ」は鼻濁音だから(標準語なら、という意味だが)、この二つの音が響きあうとしたなら、西脇は鼻濁音をつかっていなかったことになる。
 私は西脇の話すのを、テープやテレビラジオを含め、聞いたことがないので、いつもこの点が気になる。


西脇順三郎全集〈第7巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(69)

2009-08-26 03:05:21 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一六五
心の根の互にからまる
土の暗くはるかなる
土の永劫は静かに眠る

 「からまる」のなかにある「か」と「る」がこまかに震えながら「くらくはるかなる」に変わるとき、あ、ことばに音があってよかったなあ、と思う。私は音読はしたことかないが、「くらくはるかなる」という音の美しさは、とてもいいと思う。
 その音を取り囲む、「心の(根の)」「土の」「土の」という繰り返しを突き破って、「永劫」(えーごー)という強く長い音が、逆に「静かな」という異質のイメージを呼び起こし、「眠る」へと落ち着く。

 あとは、夢のスピードでことばが動いていく。

種は再び種になる
花を通り
果(み)を通り
人の種も再び人の種となる
童女の花を通り
蘭草の果を通り
この永劫の水車
かなしげにまはる
水は流れ
車はめぐり
また流れ去る

 「種は再び種になる/花を通り/果を通り」は「人の種も再び人の種となる/童女の花を通り/蘭草の果を通り」と長くなるとき、その長くなった部分、新たにつけくわえられた部分は、それが浮きでてくるというよりも、沈み込み、逆に、繰り返された音が、よりなめらかな音、スピード感のある音として、こころに残る。
 そして、そのスピードがあまりにも快適なので、1連目で「土の永劫」であったものが、2連目で「永劫の水車」(水の永劫)に変わってしまっても、それが変なこととは思わない。
 土が出てきて、水が出てきて、自然というか、宇宙が、ことばのリズムにのって、自然に広がり、「哲学」を誘う。
 
無限の過去の或時に始まり
無限の未来の或時に終る
人命の旅
この世のあらゆる瞬間も
永劫の時間の一部分
草の実の一粒も
永劫の空間の一部分
有限の存在は無限の存在の一部分

 無限の中に有限がある--その、一部分として、ある。そして、その「一部分」であることが「淋しさ」なのだ。
 次の部分に出てくることばたちは、無限のなかで、ふっと有限にかわってあらわれてくる「淋しさ」のエネルギーのようなものだ。
 次の行の展開がとても好きだ。好きで、好きで、たまらない。

この小さな庭に
梅の古木 さるすべり
樫 山茶花 笹
年中訪れる鶯 ほほじろなどの
小鳥の追憶の伝統か

 「さるすべり/樫 山茶花 笹」は、それぞれ庭に属していながら、常に庭から独立して出現するのだ。それは、奇妙な言い方になってしまうが、「淋しく」出現することによって、それぞれの木や花になるだけではなく、庭を作り上げる。つまり、木(草)であることを超越して庭という「場」そのものになる。
 この、俳句のような「場」のあり方。
 そして、そう思った瞬間、響いてくる音、音楽。

小鳥の追憶の伝統か

 この行にある「お」の変化が、とても気持ちがいい。特に「でんとお」と「お」をゆったりと響かせたあと、唇をぱっとひらき、「か」(あ)に変わる時の、音の明るさの差とリズムが美しい。
 このあとに出でくる

旅人のあんころ餅ころがす

 という俗、笑いと「ころ」の丸々とした音の感じも、「淋しさ」を刺戟しておもしろい。それまでの「淋しさ」がより「淋しく」なるだけではなく、「庭」の存在すべてを「淋しく」する笑いのなかで、笑いは笑い自身の「淋しさ」を抱きしめるのだ。



西脇順三郎全集〈第8巻〉 (1983年)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(68)

2009-08-25 10:33:10 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一六四
めざめる夢をみる男の如く
ねむられず夜明前
露の間(ま)の旅に
何人の山の家か知らねど
白いペンキの門をくぐり
坂をのぼった
東南に傾いた山
青磁色の山々が地平に
小さく並んでゐる
そのテラスの上に
水つきひからびた噴水の
真中に古さびた青銅のトリトンの
淋しくしやがんでゐる
水なきふくべの如く
香水の空瓶の如く
鎗さびの五月の朝

 視点がすばやく動いていく「絵画的」な詩である。同時に、また、音も非常におもしろい。
 「東南に傾いた山」。これは何でもないことばのようだけれど、山の傾き(稜線?)が東南に延びているということを描写しただけのような感じがするけれど、読み終わるとなぜか頭のなかに「とうなん」という音がよみがえってくる。
 なぜか。
 「真中に古さびた青銅のトリトンの」の「トリトン」が異質な音で、その「トリトン」と「とうなん」が響きあうのだ。そして、いったん、音が響きあうと、「絵画的」な詩が、ことばの数々が、突然「音楽的」にかわる。
 「青磁色の」「青銅の」、「水つき」「水なき」、「ひからびた」「古さびた」、「古さびた」「鎗さびの」。そして、「の」の繰り返し、「如く」の繰り返し。
 この詩は、「東南に傾いた山」の「東南」ということばが西脇に訪れたときから、突然、駆けだしたのだ。
 その証拠、というのも奇妙な言い方になるが。

そのテラスの上の

 の「その」。「その」は何を指し示すか。「山の家」。「南東の山」へ動いた視線が、突然、「山の家」にもどり、その「テラス」にもどり、近景のなかで、音が響きあう。視線を遠景から近景に引き戻すための「その」。
 これは音が響きあう「近景」をすばやく引き寄せる、粘着力のある力で引き寄せるための「その」なのである。

 後半は、その家の窓の描写から、女の描写(想像の女の描写)へと動いていくのだが、そこでは「か」という音が印象に残る。

家の窓は皆とざされ
ただ二階にひとつあく窓
花咲くいばらの中から外へ開かれ
鏡台のうしろが見える

 「二階」というのはふつうのことば(?)だが、その「か」が、その直前の「ただ」という濁音、「とざされ」という濁音をふくんだことばのあとでは、非常に開放的な響きである。「閉められ(しめられ)」や「二階にひとつだけあく窓」では「か」が死んでしまう。「とざされ」「ただ」だから「二階」の「か」が美しい。
 その開放的な響きを引き継いで「中から外へ開かれ」という説明的な、散文的なことばが、突然、明るい音楽にかわる。
 途中を省略して、

夢を結ぶ女の住むところか
この荒れ果てた家に
うれしき夢の後かまた
ねむれずにか早く起きて
髪をくしけずる
女(ひと)の知りたき
蜜月の旅のねどこか

 「疑問」の「か」の連続。疑問だけれど、深刻ではない。軽い。軽々と飛んで行く連想である。「か」の音のない「この荒れはてた家に」という行には、「か行」の「この」が挿入されている。「その」テラスと同様、「この」家の「この」もなくてもことばは動く。意味的には「この」以外にはあり得ない(あの、そのと離れた場所にある家ではあり得ない)のだが、そのわかりきった「この」を音楽のためにつかっているのだ。「か行」の音がないと、ことばの「間(ま)」がだらしなくなる。

 音へのこだわりは、最後の行にも象徴的にあらわれている。

ばらの実の
いとほしき生命の実の
ささやきのささやきも
葉をうつ音永劫の思ひ

 「葉をうつ音永劫の思ひ」のアキなしの連続したことば--連続させることで、隠された「音」という「意味」と「音」。



西脇順三郎全集〈第11巻〉 (1983年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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誰も書かなかった西脇順三郎(67)

2009-08-24 07:15:23 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一六二
秋の夜の雨
とび石の臼にたまり
菊のにほひする
昔のはるかなるにほひ

 西脇順三郎は「が」という助詞が嫌いなのかもしれない。「が」を鼻濁音で発音したのか、鼻濁音ではない音で発音したのか。もしかすると、鼻濁音ではなかったのかもしれない。鼻濁音ではない「が」の音は、私にはときとき「か」に聞こえる。九州に住むようになって長いので、だいぶなれたが、破裂する「が」の音はときどきぞっとする。
 この詩の場合、

秋の夜の雨(が)
とび石の臼にたまり
菊のにほひ(が)する
昔のはるかなるにほひ

 と、「が」があった場合、どうなるだろう。鼻濁音なら問題がないが、破裂する音だとかなりとげとげしい。そういうとき、西脇は好んで「の」をつかうように私には思える。

秋の夜の雨(の)
とび石の臼にたまり
菊のにほひ(の)する
昔のはるかなるにほひ

 音がなめらかになる。しかし、ここでは、西脇は「の」を書かずにいる。
 なぜだろう。
 「に」の音を活かしたかったのだろう、と思う。「にほひ」の「に」というよりも、助詞の「に」、「石の臼に」の「に」。
 「の」をつかうと「に」が「な行」に埋もれてしまって、聞こえなくなる。だから「の」を省略している。
 そひて「に」のなかにある母音「い」の音にも気を配っている。「にほひ」の「ひ」は発音は「い」。子音は消えてしまって、母音だけが残っている。その、不思議な音の放り出され方。その放り出された「い」と「石の臼に」の「に」が響きあう。「いし」の「い」の音もいっしょになって響く。

一六三
(略)
女が人形になるせつな
人形が女になるせつな
肉体から抜け出た瞬間の魂
夜明に薔薇のからむ窓の
開かれる瞬間
あの手の指のまがり
歩み出す足の未だ地を離れず
何事か想ふ女の魂
水霊のあがり
花咲く野に踏み入る心
暁の行く石の中かすかに

 「肉体から」からつづく3行。この3行のなかの「か」の音が私はとても好きだ。「開かれる」ということばがあるけれど、とても開かれた音だ、「か」は。「からむ」ということばさえ、窓と結びついて、開放的になる。そして、実際「開かれる瞬間」と解放される。しかも「開く」瞬間ではなく、あくまで「開かれる」瞬間。その「開く」「開かれる」の違いは、動詞の主語の影響を受けた動詞の活用というよりも、「か」という音を含むか含まないかの違いである。
 この開放的な「か」のあとでは「あの手の指のまがり」の「まがり」の「が」は鼻濁音ではないかもしれないという気持ちになる。鼻濁音だと「あ」の音は、口の外へは出ずに、喉の奥へ引き込んで行く。
 いや、だからこそ、鼻濁音なのだ--という感じもする。口の外へは出ずに、喉の奥に入り込んで行く感じと「歩み出す足の未だ地を離れず」がしっくりくる。いったんは、開放的になるが、思い止まり、足を地につける。その、密着した感じと鼻濁音「が」ののとの奥へと引き込む母音の響きがどこかでつながる。
 この感じは、「水霊のあがり/花咲く野に踏み入る心」にもつながる。「野に踏み入る」の「入る」。「踏み出す」でもいいのに、「踏み入る」ということばを選ぶ。そこには、出て行くと同時に、内部に入り込むという相反する動きが重なる。
 野に「踏み出す」と「踏み入る」。「踏み出す」をつかわず「踏み入る」ということばをつかうとき、そこに内省的な響きが生まれる。その、内省的な響きは--「かすか」である。
 あ、ここに、また「か」がよみがえってくる。

 ここに書かれていることには、もちろん「意味」はあるのだが、私には、「意味」以上に、音の揺らぎが楽しい。いろいろ、考えさせられる。




西脇順三郎全集〈第11巻〉 (1983年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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誰も書かなかった西脇順三郎(66)

2009-08-23 06:53:51 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一六一
秋の夜は
床に一輪の花影あり
もろもろの話つきず
心の青ざめたる
いと淋し
『古屏風の風俗画の中にある
狐のやうな犬
遊山する女の眼
桜と雲の上に半分見える
寺や社の屋根
秋のまつげのやうな草の葉
思ひ残る』

『から衣(ごろも)を着てゐた時代の
女のへそが見たいと云つた
女がある
秋の日のうらがなしさ』 

誰か立ちぎきするものがある

 まだつづきがあるのだが、この作品の「もろもろの話」には、終わりから2番目(ここでは引用していない)の連ににだけ「女」が登場しない。あとは「女」が登場する。ただし、最初の「話」のなかの「女」は絵である。その最初の「話」は屏風絵を題材にしているせいか、とても絵画的である。
 特に、 

遊山する女の眼
桜と雲の上に半分見える
寺や社の屋根
秋のまつげのやうな草の葉

 が絵画的である。「桜と雲の上に半分見える」は屏風絵の描写だが、まるで絵のなかの女がさくらや雲の上に半分頭を出している寺や神社の屋根を見ているような感じがする。まるで、「湯算する女」そのものになって、絵ではなく、実際の風景を見ているような錯覚に陥る。絵の登場人物になったと錯覚するくらい、つまり、西脇の詩ではなく(ことばではなく)絵そのものを見ているような錯覚に陥る。ことばが絵画的だから、そういう印象が生まれるのだと思う。
 また、「秋のまつげのやうな」ということばの中にある「まつげ」が「遊山する女の眼」へ引き返すので、いっそう、絵のなかの登場人物になったような気がする。
 だから「思ひ残る」ということばに触れたとき、自分のこころが、絵のなかの女、遊山する女の中に、確かに思いが残ってしまったのだという気持ちになる。

 次の「話」。その3行目「女がある」は少し変わっている。「いた」ではなく「ある」。存在した、「いた」(いる)という意味で「ある」。「誰か立ちぎきするものがある」の「ある」と同じつかい方である。
 ただし、厳密には、同じではない。「誰か立ちぎきするものがある」というとき、その「誰か」は「男」か「女」かわからない。どんな存在かわからないとき、「いる」ではなく「ある」ということが多い。英語では、こういうとき主語に「he(she )」ではなく「it」をつかい、動詞は「be」をつかうが、日本語では「動詞」の方で「いる」「ある」という使い分けをするように思う。
 ここで「ある」をつかわれると、なんとなく、くすぐったい感じになる。なぜ「いる」(いた)をつかわなかったのか。
 次の行と微妙に関係しているのではないか、と思う。
 「女がある」でことばがおわるのではなく、「女が/ある秋の日のうらがなしさ」という具合にことばが行を渡ってゆくべきなのではないか、という思いが私には残る。
 3行目が「女が」でおわってしまうと、それを受ける「動詞」がなくなるが、詩は、散文とは違うから、そういう乱れはあっていいのだ。「女が……」と言おうとして、その「……」を考えているうちに、次のことばがやってきたので、ついついそれを取り込んでしまった。そういう印象がある。
 「いま」「ここ」の「秋の日のうらがなしさ」ではなく、「ある」秋の日のうらがなしさ。過去を思い出している。思い出している限り、女は、また「いま」「ここ」にはいない。「いま」「ここ」にはいないのだけれど、「秋の日のうらがなしさ」とつながる形で思い浮かぶ。「いま」「ここ」にあらわれてくる。
 だから「ある」なのだ。
 いくつもの「意味」がかさなりあって、「ある」を奇妙な存在感のあることばにかえてしまっている。
 詩、というのは、きちんとした散文にはなれずに、ふいに乱れる意識かもしれない、と思うのである。
 「女がいた」と書けば単純だけれど、そう書こうとする意識をふいに裏切って、ことば自身が動いていくのだ。ことばがことば自身で、ことばの「理想」を実現してしまう。詩人は、それをきちんと受け止め、書き留める--それが詩人の仕事なのかもしれない。





詩人西脇順三郎 (1983年)
鍵谷 幸信
筑摩書房

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誰も書かなかった西脇順三郎(65)

2009-08-22 07:02:10 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一五九
山のくぼみに溜(たま)る木の実に
眼をくもらす人には
無常は昔の無常ならず

 「くぼみ」から「くもらす」への移動。「くぼみ」の「ぼ」は「たまる」の「ま」を通って「くもらす」になる。「ば行」と「ま行」のゆらぎ。ともに唇をいったん閉じて、それから開く音。
 「無常」は「むじょう」。突然、あらわれたことばのようであるけれど、「むじょう」もまた「ま行」を含む。
 ここにも「音楽」がある。

一六〇
草の色
茎のまがり
岩のくずれ
かけた茶碗
心の割れ目に
つもる土のまどろみ
秋の日のかなしき

 「つもる土のまどろみ」という音が美しい。「ど」と「ろ」。さて、この「ろ」はRかLか。私の場合、Rの音になる。
 「つもる」の「る」はLに近づく。TとLは相性(?)がいい。
 けれどもTが濁音(?)Dになったとき、ら行はLよりもRに近づく。
 この行には、LとR、TとDが交錯し、口蓋、舌、歯の接触が微妙に違って、とてもたのしい。清音と濁音では声帯の響き方も違う。その変化に、私は音楽を感じる。



 


西脇順三郎全集〈別巻〉 (1983年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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誰も書かなかった西脇順三郎(64)

2009-08-21 07:53:59 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一五七
旅に出る時は
何かしらふところに入れる
読むためではない
まじなひに魔除けに
ある人は昔
「女の一生」を上州へ
ある国の革命家は
「失はれた楽園」を
野の仕事へ

 ここに書かれているのは、異質な取り合わせの「詩」。異質なものが出会う時、詩が生まれる。--それはそうなのだが。
 私は2行目が気に入っている。「何かしらふところに入れる」。この、「ら行」のひびきが滑らかである。そして、そのなめらかなひびきが「読むためではない」という異質な音と断定によって破られるのも、不思議と気持ちがいい。
 あ、音ばかりを楽しんでいては、詩にはならないのだね。反省。
 しかし、次の「まじなひに魔除けに」がまた、おかしい。「まじなひ」「魔除け」と、なぜ同じようなことを2度言うのか。たぶん、「ま」をくりかえすため。「に」をくりかえすため。こういう音楽があるから、それ以降に出てくる本と、それを持っていく人の対比が新鮮になる。そこでは「ら行」のようなくりかえし、「ま」「に」のようなくりかえしがない。一回きりの音と異質なものの出会いがある。

 途中を省略して、詩の後半。

旅に出る時
恋に落ちないやうに
飢餓に落ちないやうに
ダンテの「地獄篇」の中に
えのころ草をはさんで
食物は山の中に沢山ある

 「恋に落ちないやうに/飢餓に落ちないやうに」。「恋」と「飢餓」の対比がおもしろいが、その対比が生きるのは「落ちないやうに」がくりかえされるからだろう。

 最後の行は私は「しょくもつは」と読んでいる。「食物は」とは読まない。「しょくもつ」の方が「たくさん」という音と響きあう。「山」と「沢山」と、そこでは視覚上「山」がくりかえされているのだが、「山」でありながら「やま」と「さん」のずれ。それは「しょくもつ」の「し」、「たくさん」の「さ」のずれの感じとも響きあう。「たべもの」と読むと「たくさん」と頭韻になってしまって、ずれがなくなる。「やま」と「さん」のずれが埋没してしまう。それでは、なんとなく、私にはおもしろくない。



西脇順三郎全集〈第4巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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