「キャサリン」。書き出しは「飛躍」の大きい文体である。
女から
生垣へ
投げられた抛物線は
美しい人間の孤独へ憧れる人間の
生命線である
これだけでは、何のことかわからない。「投げられた抛物線」とは何のことか。何を投げたのか。「視線」と考えると何かがわかったような気持ちになるが、一般的に視線は抛物線を描かない。直線である。抛物線をゆるやかな線と解釈すれば、何気なく時化が気に投げかけられた視線、ふっと生垣をながめる視線、ほとんど無意識の視線、ということになるだろう。
私の連想が正しいかどうかは別にして、ことばはいろいろな連想呼び起こす。そういう連想を呼び起こすこと、ひとつのことばを契機に、ことばが「意味」から逸脱してどこかへ行ってしまうことを詩ととらえれば、ここに詩があることになる。
「注釈」(解釈)というのは、まあ、そういう連想の「最大公約数」のようなものを引き出して、読者にとどけるという仕事(作業)なのだと思うが、私は、注釈も解釈もめざしていないので、違うことを書く。
私が、いま引用した5行で一番ひかれるのは、
美しい人間の孤独へ憧れる人間の
という行である。「美しい人間」「孤独へ憧れる人間」というふたつの「人間」が電池の直列のように結びついている。
なぜ?
西脇は、なぜ、どちらかひとつにしなかったのだろうか。
「美しい人間の/生命線である」、あるいは「孤独へ憧れる人間の/生命線である」と書いた方が、5行の「意味」は簡潔になりそうである。
しかし、西脇は「美しい人間の孤独へ憧れる人間の/生命線である」と書く。
「意味」のとりようはふたつある。ひとつは「美しい人間の/生命線」であり、同時に「孤独へ憧れる人間の/生命線である」。つまり、並列されている、と考える見方。こちらは「意味」がとりやすい。
もう一つは、先に「電池の直列」と書いたのだが、並列ではなく、ふたつが「直列」であるという状態。あくまでも、それは直列につながり、直列のまま、「生命線である」ということばに結びつくのである、という考え方。
では、その直列のつながりだと、「意味」はどうなる?
実は、どうにもならない。「意味」は、まあ、どうでもいいのだ。「意味」を通り越して、あれ、何か、変なことばの動きだなあ。無理なエネルギーが動いているなあ、という感じ。つまり、ふつうのことば(学校教科書のことば)とは違った何かがここにあるぞ、という印象が残ればいいのだ。ふつうのことばでは言えないことを言おうとして、西脇は、「わざと」ことばを直列にしているのである。
「直列」というのは、エネルギーを膨れ上がらせる方法なのである。
この視点から、きのう読んだ「近代の寓話」の「に合流するのだ私はいま」という行もまた直列である。その1行自体「直列」だが、その行によって「考える故に存在はなくなる」というような形而上学的なことばと、「ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ」ということばが「直列」になる。異質なことばが直列になって、いままで存在しなかったエネルギーを発散しながら動いてゆく。
この直列を、きのう私は「つまずき」と書いたが、つまずくのは、そこに障害物があるからではなく、エネルギーが高まりすぎて、筋肉の中をそのエネルギーが暴走するからなのだ。
直列のエネルギーと逸脱、あるいは暴走。逸脱・暴走による乱調。そこに西脇の美がある。乱調は、直列のエネルギーが大きいほどあざやかに乱れる。
女から
生垣へ
投げられた抛物線は
美しい人間の孤独へ憧れる人間の
生命線である
ギリシャの女神たちもこの線
を避けようとするのだ。
十二月の末から一月にかけて
この辺は非常に淋しいのだ。
コンクリートの道路が
シャンゼリゼのように広く
メグロの方へ捨てられた競馬場を
越えて柿の木坂へ走っているのが
あの背景はすばらしい夕陽。
さがみの山々が黒くうねって。
この夕焼けを見たら
あなたも私と同じように
恋愛の無限人間の孤独人間の種子の起源
のために涙が出そうに淋しく思うだろう。
直列によってエネルギーが高まったことばは、もう、国語教科書的な動きはしない。「十二月の末から一月にかけて/この辺は非常に淋しいのだ。」は何気ない2行、非常に散文的な2行だが、とても変である。「この辺」って、どの辺? あとを読んでいけばわかるが、ふつうの散文では、まず場所を明確にし、そのあとで「この辺」という。「この」という指示代名詞は、それに先行するものがないと、何を「この」と呼んでいるかわからない。
直列によって、ことばのエネルギーが高まっているため、ことばが先回りしてしまうのだ。あとでいうべきことが、倒置法のように、先になってしまうのだ。いいたいことを行ってしまったあとで、説明する。
それだけではなく、その説明の過程で、ことばが散文的に散らばってしまうと(三万なると?)、ことばが徐々に直列の方向へ態勢を整え、むりやり直列になってしまう。
恋愛の無限人間の孤独人間の種子の起源
読点「、」も1時アキもなしに連続したことば。
西脇のことばは直列によってエネルギーを蓄え、暴走することによって、そのエネルギーを解放し、ふたたび直列をめざし、互いを呼び寄せ合う。
そういう集中(直列)と解放(発散)を繰り返すが、その集中と発散が「乱調」なのである。集中なら集中、発散なら発散ではなく、それを繰り返す。そこに、入り乱れた美が生まれる。