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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(108 )

2010-02-14 13:14:29 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 ことばは何を求めて生きているのだろう。何を求めて動き回るのだろう。「意味」を求めてだろうか。そう考えると簡単な(?)ような気がする。だが、私には、どうもその感覚(?)がなじめない。「意味」はことばに寄生して生きているとは思うけれど、ことばは「意味」を求めてなどいない。というか、「意味」と通い合いたいと思っているとは思えない。あ、「ことば」がなにかを思っている、というのは変かな? しかし、すぐれた文学作品(おもしろいと私が感じる文学)は、ことばが「意味」とは無関係になにかと通じているものだ。「なにか」としか書けないのは、それが「なにか」私にはまだわからないからである。
 「かざり」という作品。

生垣も
斜塔も
ひょうたんも
ラムプも
人々の残した
飾りだ。
人間の作つた偉大な遺物だ。

 ここには「意味」があるかもしれない。どんなものでも、いま、ここに存在するもの。それには「人間」の「意思」や「感情」が反映されているから、人間が作ったものだと言えるかもしれない。それはささいなものであっても「偉大な」存在である。「遺物だ」という断定には、そういう存在が「時間」をへて完成し、また「時間」を生きているという西脇の「思い」(世間で言う「哲学・思想」)が反映しているかもしれない。
 それはそうなのだろうけれど。
 私は、どうも、そんなふうに読むと楽しくない。
 この詩には、あるいはこの詩にかぎらず、西脇の詩にはなにかしら「かなしい」ものがあって、この詩では、「人々が残した」の「人々」にそれがひそんでいる。
 「生垣も/斜塔も/ひょうたんも/ラムプも」、それはたしかに「人々」のものである。「人間」とはちょっと違う。「人間」ということばには「間」という文字がある。人と人の「間」。そこで生まれるのが「人間」。でも、「人」は「人」との「間」だけで生きるのではなく、「もの」と触れ合って生きる。そこには「間」はない。「間」がないまま、「もの」と親密になる。そうやってできた「生垣」「斜塔」「ひょうたん」「ラムプ」には、ひとの何かが宿っている。それは最初はひとりの「ひと」と「もの」との対話だった。いつのまにか、「もの」が「人」と「人」との「間」を行き交うようになって、そこに「人間」も生まれてきて、そのうち「もの」からは、「ひと」と「もの」との直接対話のようなものが消えてしまって、「遺物」なってしまった。そして、それは、その消えてしまったなにかを求めて動いている。
 「人々」の「ひと」ということばの響きが、その消えてしまった「なにか」を揺り動かそうとしているように感じる。「人間」ではなく、「ひと」と「もの」、「もの」の素朴な名前--そのふたつのあいだで呼びかわされる「声」が、この詩を動かしていると私には感じられる。

もう何も言うことがない

 詩は、その1行をはさんで動いていく。「何も言うことはない」といいながら、そのあとも、ことばは動いていく。
 その動きは「意味」を見つけ出すため、というよりも、いま、ここに、ことばとともにあらわれてくる「意味」、ことばに寄生してくる「意味」を拒絶するための動きに思える。西脇のことばは「意味」ではなく、「もの」そのものになりたがっている。
 あるいは。
 西脇は、「人間」ではなく、「人(ひと)」になりたがっている。西脇はことばといっしょに動くことで「人間」ではなく「ひと」になろうとしている。「ひと」になるために「意味」をふりきろうとしている。
 そして、そのとき、ことばの「音」(音楽)を頼っている。音の響きあいに、「意味」を拒絶する力を感じ、それをひきだそうとしているように、私には感じられる。

秋が来るとウィンザーの村を訪ねるのだ。
イーソップ物語の挿絵に出てくるような
親子の百姓から黄色い梨を買つて
シェフィールド製の光つた三日月形の
ナイフで皮をむいてたべた。

 1行1行が、他の行のことばと「意味」でつながるのを拒絶するように独立している。「シェフィールド製の光つた三日月形の」という行では、「シェフィールド製」「光つた(る)」「三日月形」がそれぞれ拮抗している。「三日月形」では、「三日月」と「形」さえ、なにか独立して向き合っている感じがする。そして、

 ひ「か」つた、み「か」づき、「が(か)」た、

 というような、音の通いあいが、なぜかはわからないが、私には「ひと」と「もの」の向き合いのように、「音」と「音」の向き合い、触れ合いにも感じられるのだ。

 私の書いていることは、たぶん、強引だ。
 強引なのは、私には、まだまだわからないことがあるからだ。わからないのに、なんとかことばを動かしていく内に、ことば自身がそれをみつけてくれないかなあ、と願いながら書いているからだ。
 私にはなにもみつけられない。けれど、ことばは、どこかで西脇のことばと呼び掛け合い、声を聞きあい、かってになにかを見つけてくれる--そんなことを思っている。



西脇順三郎絵画的旅
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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誰も書かなかった西脇順三郎(107 )

2010-02-12 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 西脇の「音楽」は、どう説明していいか、実際のところわからない。たとえば「たおやめ」の書き出し。

都の憂鬱にめざめて
ひとり多摩の浅瀬を渡る。
梨の花は幾たびか散つた。

 「音」がとても気持ちよく響いてくる。リズムもとても気持ちがいい。私は「意味」を考えていない。音読するわけではないが、「音」が耳に響いてくる。
 1行目「都の憂鬱にめざめて」はゆったりと動く。それが、2、3行目で憂鬱とはまるで関係がないように、快活に音が動く。たぶん「た行」の音の繰り返しが気持ちがいいのだ。2行目「ひとり」の「と」からはじまり、わ「た」る、いく「た」び、「ち」「つ」「た」と動く。
 奇妙な言い方になるが、もし西脇が「散った」と促音でことばを表記していたら、この「音楽」は違ってくる。これは、奇妙な言い方であるとわかっているが、私には、その奇妙さのなかに、西脇の音楽の秘密があるかもしれないと思う。
 私は西脇の詩を音読はしない。あくまで「黙読」。「黙読」というのは「黙」して「読む」ということだが、そのとき声は出さないが「耳」は働いているし、声には出さないが発声器官は動いている。そしてそれは「目」(眼)をとおして動いている。「黙読」ではなく、「目読」あるいは「目読」ということばをつかいたくなる。
 そして、「目読」のとき、「散つた」の音は、「目」と「耳」と「発声器官」で微妙にずれる。目はは「つ」と読む。けれど、耳と発声器官は「っ」。そのずれが、意識のどこかをめざめさせる。何かが敏感になる。
 その敏感になったなにかのなかに「か」という「音」と文字が鮮烈に輝く。あかるい「か」の音。「た」と「か」の響きあい。
 もし、この3行目が「梨の花は幾たびも散つた」であったなら。「か」ではなく「も」ということばを西脇がつかっていたとしたら……。
 たぶん、この詩の音楽は違っていた。「意味」的にみて、「か」と「も」がどれほど違うかよくわからないが、音の問題で言えば、全体に「か」の方がはつらつと響く。音にスピードが出る。
 そして、さらに。
 「た」と響きあう「か」の音に影響されてのことだと思うのだが、「梨の花」が、私の「目」のなかで「梨花」になってしまい、「りか」という音が遠くから聞こえてくるのだ。「なしのはな」にも「い」の音はあるけれど「りか」の方が「い」の音が強烈である。そして、その強烈な「い」が「いくたびかちつた」のなかで形をかえながら動く。「いくたび」の「い」は異質だが「たび」の「い」、「ちつた」の「い」の音は「りか」の「り」に含まれる「い」と、ぴったり重なる。

 あ、こんなことは、きっとどう書いてみても、なんの説得力も持たないだろうと思う。思うけれど、あるいは、思うからこそ、書いておきたいとも思う。誰もこんなことを西脇の詩について言わないかもしれない。言わないかもしれないけれど、私が西脇の詩が好きなのは、こういう、なんともしれない、説明のしようのない部分なのだ。

梨の花は幾たびか散つた

 かっこいいなあ。この音をまねしたいなあ。この行がほしいなあ、と思い、読み返してしまうのだ。
 詩のつづき。

わが思いのはてるまで
静かに流れよ洲(す)から洲へ
明日は
わが男を娶(めと)る日だ。
心はおののくのだ。

 し「ず」かにながれよ「す」から「す」へ/あ「す」は--この「す」の繰り返しも美しい。そのあとの「「日だ」「のだ」の「だ」の繰り返しもおもしろい。不思議に、ことばが加速していく。
 けれど、この「のだ」が、もし2行目にまぎれこんで、

ひとり多摩の浅瀬を渡る「のだ」

 と書かれていたとしたら……。今度は、音楽が崩れてしまう。音は繰り返せばいいというものではない。音が「音楽」になるためには、なにか別な要素も必要なのだ。
 詩はつづく。音の響きあいはまだまだつづく。

唇をこんなに梨色(なしいろ)に塗り
髪はカピトリノのヴィーナスのように
深い淵のように渦巻かせ
頬を杏(あんず)のうす色にぬつたものの
わが恋のこのはてしない色には
劣るのだ。
明日は
わが男を娶る日だ。
この土手のくさむらに
赤い百合が開くのだ。
わが思いを寄せた数々の人々よ
見知らぬ釣人(つりびと)よ
さようなら
  (谷内注・「ものの」のあとの方の「の」は原文は踊り文字。いままで引用して
  きたものも、踊り文字は採用していない。私のパソコンでは表記できないので。)

 「のだ」「日だ」の繰り返しのほかに、こん「な」「な」しいろ、なし「いろ」カピト「リノ」、塗「り」カピト「リ」ノ、「か」み「カ」ピトリノ。「ふ」かい「ふ」ち、「ふ」かい「う」ず。う「ず」あん「ず」。「うず」「うす」いろ、「こい」の「この」。
 そして。
 「な」「し」「いろ」--はて「し」「な」(い)「いろ」
 私はめまいを覚えてしまう。モーツァルトの繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し、あきることのない繰り返しに出会ったときのように、「気分」というものが(そんなふうに呼んでいいのかどうかわからないが)、ぶっとんでしまう。酔っぱらってしまう。
 なんだかわからないが、「明日は/わが男を娶るのだ」、と女になっていいふらしたい気分になってしまう。



詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
新倉 俊一
みすず書房

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誰も書かなかった西脇順三郎(106 )

2010-02-11 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇の詩には並列が多い。そのため、ことばの動いていく先が前へ前へというより、横へ広がる感じがする。それは「進む」というよりも、「いま」「ここ」にとどまりつづける動きのように思える。
 「プロサミヨン」という短い詩がある。「プロサミヨン」というのはなんのことだろう。私にはわからないが、そのなかには「行く人」が出てきて、「流れ去る」ということばもあるのだが、私には、その運動は、「いま」「ここ」からどこかへ動いていく運動には見えない。

川原を行く人よ
思う旅をして
君が行く路の草むらの中で
薫しい果(み)をうめ。
この多摩の女のせせらぎに
鳴くよしきりに
このぼけの花が咲く垣根に
やるせない宿命があるのだ
宝石がくもる。
あたたかい砂が
胸にこぼれる
流れ行く春の日も
流れ行く女も
寂光の菫に濡れて
流れ去る命の
ただひと時

 西脇に、何か書きたい「意味」があるかどうか、よくわからない。私は「意味」を考えない。時間--「流れ行く」ものの無常さ、ということばが思い浮かばないわけではないが、その流れ去るもの、過ぎ行くものという思いとは逆に、並列することで「いま」「ここ」を押し広げるものの方に、私の意識は傾いてしまう。
 「せせらぎに」「よしきりに」「垣根に」。「に」でつながれたものたち。つながれるたびに、視線が垂直にではなく、水平に動く。そのことばが「やるせない宿命があるのだ」という1行に集約していくというよりも、行の展開とは逆に、「やるせない宿命があるのだ」という1行が、先行する3行の中へ分散していく感じがする。
 もし、感動(?)、あるいは「意味」を強調するというか、西脇が「発見」したものを明確に印象づけたいなら、ひとつの「もの」だけを描き、たとえば「せせらぎ」だけを描いて、せせらぎと宿命ということばの運動をバネにさらに進んで行けばいいのだろうけれど、西脇は、そういうことをしない。集中ではなく、分散させる。これでは、ことばの運動として弱くはないか……。

 だが、というべきか、そして、というべきか。

 そして、いま書いたことと矛盾したことを書いてしまうのだが……。「やるせない宿命があるのだ」という1行は、分散することで、不思議な「一体感」をもたらす。「せせらぎに/やるせない宿命があるのだ」「よしきりに/やるせない宿命があるのだ」「垣根に/やるせない宿命があるのだ」というふうに分散しながら、「せせらぎ」も「よしきり」も「垣根」もひとつになる。それは「宿命」というものがあらわれてくるとき、それぞれ対等なのである--という意味で「ひとつ」になる。
 宿命があらわれる、すがたをあらわすとき、「せせらぎ」も「よしきり」も「垣根」も同じである。西脇が正確に書いているように、複数のもの(せせらぎ、よしきり、垣根)にひとつのもの「宿命」が姿をあらわす。「せせらぎ」の宿命、「よしきり」の宿命、「垣根」の宿命--それは複数ではなく「ひとつ」である。

 「複数」と「ひとつ」がくっついてしまう。これは矛盾である。矛盾だから、私は、そこに惹かれてしまう。その行を何度も読み返してしまう。読み返して、その矛盾がとけるわけではない。とけない。そのままである。そして、そのことが、私にはうれしいのだ。うまくいえないが。

 さらに、この「矛盾」の構造の中に「この」ということばが繰り返されているのも、何か「矛盾」を強調するようで楽しい。一般名詞としての「せせらぎ」や「垣根」ではない。「この」という限定されたもの、明確に区別された「もの」、その「複数」こそが「ひとつ」になりうるのだ。
 それを西脇は「音楽」にしてしまっている。
 「この」と繰り返される「音」、その「音」は「ひとつ」である。それぞれ指し示すもの(対象)は違うけれど、「音」は「ひとつ」。
 「意味」より先に「音」が西脇の思想、「音楽」を実現してしまうのだ。

 後半の「流れ」も同じ。そこに書かれている「流れ」はそれぞれ別の存在である。別の運動である。けれど、それは「流れる」という「ひとつ」の運動の中に集まりながら、過去へ引き返すようにして、それぞれの中へ分散していく。
 「複数」と「ひとつ」の融合--それが「音」のなかで起きる。




西脇順三郎のモダニズム―「ギリシア的抒情詩」全篇を読む
沢 正宏
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誰も書かなかった西脇順三郎(105 )

2010-02-10 16:54:33 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 西脇のことばは、いったい幾種類あるのだろう。いろいろな響きが楽しめるが、いなかの、ひなびた(?)感じの音も私にはとても魅力的に感じられる。そして、それを強調するような、遠い音の存在--その落差が楽しい。
 「留守」

十一月の末
都を去つて下総の庵(いおり)に来てみた
庵主様は留守だつた。
平安朝の黒い木像に
野辺の草木を飾るその草も
枯れていた
もはや生垣のむくげの花も散つて
田圃に降りる鷺もいない。
竹藪に榧(かや)の実がしきりに落ちる
アテネの女神に似た髪を結う
ノビラのおつかさんの
「なかさおはいりなせ--」という
言葉も未だ今日はきかない。

 「なかさおはいりなせ--」。なんでもないことばのようだが、この口語のふいの乱入が、すべてのことばを活気づかせる。2行目の「庵主様」というひなびた音と通い合うのだが、そういう口語、日本語のひなびた響きと「アテネ」という外国語が並列に置かれる。そこに西脇独特の「音楽」がある。
 西脇のことばは、一方で先へ先へと進む「意識の流れ」のようなものが主流だが、他方でその流れには常に平行して流れる伏流のようなものがある。それが、ふっとあらわれ、合流する。そのとき、その両方の流れが輝く。
 「アテネ」と「なかさおはいりなせ」では、ほんらい、その「基底」となる「文脈」が違うと思うが、つまり、ふつう、田舎の風景を描くとき、アテネというようなものは遠ざけられ、田舎の風景の文脈の中からことばが選ばれるのが基本的なことばの運動だと思うが、西脇にはこの「文脈」の意識がない。
 いや、それを、外してしまうことが西脇のことばの運動の基本なのだろう。
 違う文脈、ありえない文脈の出会い。そこで、「音」が活性化する。「アテネの女神」という「音」がなかったら、「なかさおはいりなせ」という音は、それまでの「音」に紛れ込んでしまう。「意味」になってしまう。
 「都」から離れた田舎、その風景。そこには草木だけではなく、「おつかさん」という人間さえもが風景になる。そういう固まった(固定化した)風景のなかでは、その「おつかさん」が「なかさおはいりなせ」といっても、それは風景にすぎない。
 それでは、詩にはならない。

 音がめざめる。そこから、ふたたび下総の風景へことばはかえっていくけれど、そのとき、ことばはもう「意味」ではない。純粋に「音楽」である。

秋霊はさまよつて
天はつき果てたようだ
ただ蒼白の眼(まなこ)に曇つてみえるのは
うす桃色の山あざみだ
何処の国の夕陽か
その色は不思議な力をもつている。
思わず手折る女つぽい考えは
咲いては散り、散つは咲く
このつきない花の色に
ひとり残されて
庵主の帰りを待つのだ。

 「思わず手折る女つぽい考えは」という1行の「意味」をどうとらえていいのか、私は考えないのだが、その行に繰り返される「お」の音の美しさ、そしてその音の繰り返しが次の「咲いては散り、散つは咲く」ということばの繰り返しにかわるときの「音」の不思議な動き--音は音に誘われて音を真似する(?)というのか、自然と「文体」をつくってしまう不思議さに、なぜか酔ってしまう。
 「このつきない花の色に」の「この」もとても気持ちがいい。「このつきない花の色」は「山あざみ」の色かもしれないが、「うす桃色」だけではなく、そういう具体的な「色」ではなく、「女つぽい」を含んだ「この」という感じが自然につたわってくる。うーん、それとも「ひとり残されて」が「女つぽい」のか「庵主の帰りを待つ」が「女つぽい」のかわからないけれど、「この」という音を中心にして、全体がひとつの「音楽」になる。そういう感じがする。



西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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誰も書かなかった西脇順三郎(104 )

2010-02-08 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 乱調による破壊の音楽。それとは別に、加速する旋律の音楽というものもある。たとえば「野の会話」の3の部分。

ルソーの絵をみると
陰板の写真をみるようだ
光線の裏(うら)を発見した。
すべて樹も犬も
煙突も人間も
虎も花も皆
人形の家だ
新しい生物学を発見した。
また人間や動物の表情の中に
新しい表情を発見し
樹にも煙突にも初めて
表情を与えた。
ルソーは画家としてよりも
絵画によつて表現する新しい生物学者
として新しいサカイアの町人の詩人として
彼のパレットに菫の束を飾るのだ。
ここに家具屋の仕事がある。

 「発見した」ということばが次々にいろいろなものを集めてくる。「陰板の写真」「光線の裏」と「樹も犬も/煙突も人間も/虎も花も」というのは、私には違った「音楽」に聞こえる。「旋律」が違って聞こえる。「人形の家だ」は「不協和音」のようにさえ聞こえる。けれど、それが「新しい生物学」ということばへ飛躍するとき、それは、私には「陰板の写真」や「光線の裏」を調をかえて繰り返された旋律のように感じられる。そして、同時に、テンポが、音楽の速度がかわったような感じがする。音楽のテンポが加速したような感じがする。
 それは「生物学」から「表情」へと加速し、「絵画によつて表現する新しい生物学者」と繰り返されながら、さらに加速していく。スピードにのって「絵画による生物学者」から「(絵画による)詩人」に飛躍する。さらに「家具屋」に。
 ここには、乱調はない。

西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
風媒社

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誰も書かなかった西脇順三郎(103 )

2010-02-06 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 「山の暦(イン・メモーリアム)」は、ぶらぶらと歩き回る詩である。

昔のように菫がどこをさがしても
みつからなくなつた
ただ坂の途中の藪に
イラグサと山ゴボウばかりだ
この山の唯一の哀愁だつた
ちんいようげの香りもしなくなつた
試験は未だあることになつている
試験が唯一のギリシャ悲劇のすべて
哀愁の源泉としてまだほとばしつて
いるのだ。
この山賀フロレンスを見下す
ところであつたらダンテは地獄篇
にすばらしい追加をしたことだ

 日本の自然の風景とギリシャ悲劇、ダンテが混在する。そこに試験(大学の?)までまじってくる。
 普通、それが文学であるかどうかは別にして、ことばというものは「同じ傾向」のものが自然にあつまってくる。何かを書こうとする(伝えようとする)とき、その伝えようとする「もの」(思い)にむけてことばが整えられる。統一させられる。
 ところが、西脇の詩では、そういう統一がない。いや、あるのかもしれないが、基準がないように見受けられる。統一がないというより、統一が常に破られる、といった方がいいかもしれない。
 いま引用した部分では、前半は「日本の自然」である。昔あった菫がみつからない。その「哀愁」。それのまわりには、イラグサ、山ゴボウという自然が集められる。
 それが、突然、「試験」によって破られる。
 それは「旅人かへらず」の「ああかけすが鳴いてやかましい」の乱入の仕方と似ている。意識の統一へ、突然「いま」が乱入してくるのだ。そして、意識の統一が破られるのだ。
 だから、これはほんとうは、「日本の自然」に「試験」が乱入してくるというよりも、「日本の自然」というものにむかって動いてしまっている意識、その意識があつめてくることばに対して、「いま」が乱入してくると言った方がいい。
 「日本の自然」も「いま」には違いないが、そこには「精神」というものが統一的に働いている。ことばを「統一」してしまう意識が働いている。こういう意識は、何かを書く、ことばをあつめるときに、自然に働いてしまうのもだが、西脇は、そういう「統一・整理」しようとする意識を破るのである。
 そして、その破る存在としての「試験」についてはなんの説明もない。「かけす」について説明がなかったのと同じである。背後の木にとまっているかけす--というふうに、西脇は説明していない。説明を省略し、ただ「現実」を「もの」として持ち込む。そこには「統一・整理」という意識が働いていないから、これを「無意識」と名付けてもいいかもしれない。
 「いま」を統一してしまう「意識」の世界へ、「無意識」をぶつける。「統一」を「無意識」で破壊する。そうすると、ことばが一気に動く。一気に乱れる。
 「試験」のあと、ことばは「日本の自然」とは関係のないギリシャ悲劇やダンテへと動いていく。そして、動いた先(?)から、過去(?)を振り返るようにして、一気に何事かが断定される。ダンテなら、この風景を詩に書き、すばらしいものにした、と。

 あ、まるででたらめ。この詩人は何をいっているのだ。ことばが分裂してしまっているじゃないか--と言ってしまうこともできる。
 この詩を「難解」、「現代詩は難解」というひとは、そういうふうにくくってしまって、自分とは無関係なものにするだろう。このときの「無関係」の「無」は、西脇の「試験」の「無意識」の「無」と似ている。つながりが「無い」の「無」である。ひとはだれでも「つながり」があるものに「意味」を見出す。そして、そのつながりが納得できたときに、「わかる」ということばをつかう。

 たしかに、ここにはつながり、連続というものがない。そのかわりに、つながりを壊すこと、破壊があり、破壊によって生じる乱れがある。
 そして、その破壊と乱れこそ、実は、詩である。破壊と乱れのなかには関係がある。「無」ではないものが、ある。破壊がなければ、乱れは生まれないのだから、そこにはつながりがある。
 だが、問題は、そんな簡単な論理では片付けられない。たぶん。きっと。

 破壊と乱れ。それが「美しさ」にかわる。それは、なぜなのか。

 西脇の詩の秘密は、そこにある。破壊と乱れのつながりを支えている何かがあって、その何かを私は「美しい」と感じるのだ。
 その何かを説明するのは難しい。
 私は、とりあえずそれを「音楽」と呼んでいるが、その「音楽」の定義がむずかしい。ことばが動いていくとき、ことばを動かすのはなんのか。「意識」が動かすのとは違う動きを西脇の詩のことばはしてしまう。それは、きっと、ことば自身のエネルギーが解放されてのことなのだと思う。西脇がことばを動かしているのではなく、ことばがかってに動いていく。ことばが、ことばを「聞きあって」、そうして動いていく。それは、「音楽」の音が互いの音を聞きあいながら動いていくのに似ている--そんなふうに、私には感じられる。
 これはもちろん、大雑把な「感じ」であって、具体的な説明・論理にはなっていない。「音楽」をどう定義するか、その定義の仕方の入口さえもわからない。けれど、私は、そこに「音楽」が働いていると感じる。



西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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誰も書かなかった西脇順三郎(102 )

2010-02-05 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「燈台へ行く道」を読むと、なんとなくヴァージニア・ウルフを思い出す。タイトルの影響かもしれない。あるいは、ことばの運動というか、動きが、いわゆる「意識の流れ」のように思えるからかもしれない。
 次の部分が、とても好きだ。

岩山をつきぬけたトンネルの道へはいる前
「とらべ」という木が枝を崖からたらしていたのを
実のついた小枝の先を折つて
そのみどり色の梅のような固い実を割つてみた
ペルシャのじゅうたんのように赤い
種子(たね)がたくさん、心(しん)のところにひそんでいた
暗いところに幸福に住んでいた
かわいい生命をおどろかしたことは
たいへん気の毒に思つた
そんなさびしい自然の秘密をあばくものでない
その暗いところにいつまでも
かくれていたかつたのだろう

 「気の毒」。そして「さびしい」。あ、このことばは、こんなふうにして使うのか、と、こころがふるえる。 
 そのふたつのことばは「生命」とふかく結びついている。「生命」はいつでも「さびしい」。「さびしい」まま生きている。そこに美しさがあるのだから、それをあばいたりしてはいけないのだ。
 --ここには、西脇の、とても独特な「音楽」がある。
 それは、私がいままで何度か書いてきた「音」そのものの「音楽」とは別のものである。
 「音」のない「音楽」。沈黙の「音楽」。ことばにしてはいけない「音楽」。
 西脇は、ときどき、ことばにしてはいけないことをことばにしてしまう。
 それは武満徹が沈黙を音楽にしたのと似ているかもしれない。

 意識の流れ--と書いたが、あ、これは、ことばを捨てる動きなのだと思う。ことばを捨てるとき、そのことばの奥に隠れているものが、「とらべ」の固い実のなかの種のように姿をあらわす。
 ことばには、そういう動きもある。




西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)

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誰も書かなかった西脇順三郎(101 )

2010-02-04 11:22:46 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 
 ひとは、どんなふうに詩を読むのだろう。私はとてもいいかげんだ。ぱっとページを開いて、目に飛び込んできた部分を読むだけだ。ぱっと見えたことば--それが動く。あ、おもしろそう、と感じてもそのスピードや変化に私のからだがついていかないときがある。ある意味では、私はことばを読む、というより私自身の体調を読んでいるのかもしれない。
 ほんとうは違う詩について書きたかったのだが、ふと目が「Ⅱ フェト・シャンペエトル」の「2」の部分で動かなくなった。

くぬぎの木によりかかつて考える時
初めて生存の根は深いのだ。
見えない世界にみみかたむけて
クワイの沈む水にも
みそさざいらしいものにも話が出来るのだ。

ポンタヴァンの木彫の女のように
可憐なしりを柔らかに突き出して
それから野原へとびこむのだ

 西脇のことばはたいがい軽くて速いが、ここではゆったり動いている。(きょうの私は、どうやらゆっくり動きたいらしい。)その「ゆっくり」を強調しているのが、最後の行の「それから」である。「野原へとびこむ」と書いているけれど、まだまだとびこむ気配はない。ただ、そのことを思っている(だけ)という印象がある。それは、その前の行の「可憐なしりを柔らかに突き出して」の「柔らかに」とも響きあっている。

可憐なしりを柔らかに突き出して

 うーん。「しり」は「可憐」なのかな? 「柔らか」なのかな? 学校教科書文法では「柔らかに」は「突き出して」にかかるのだろうけれど、私の「肉体」のなかでは、「柔らかに」はことばを逆戻りして「しり」を修飾する。
 ことばが一気に前へ前へと進むのではなく、進んだようにみせかけて、実は陰で(?)そっと引き返す--そういうような運動があり、それが「それから」にも影響するのだ。「それから」といいながら、ちっとも前へは進まない「それから」。
 そういうことは、現実にもある。
 あれこれ考える時が、そうである。あれをして、これをして、「それから」あれもする。でも、実際には何もしないなあ。「それから」だけが時間のなかでたまっていく。それが「おり」(淀?)のようになって、ゆっくり広がる。
 気をつけてのぞきこめば、そこには「私」が映っていたりする、かな?

 詩の後半部分から書きはじめてしまったが、「考える」という行が1連目に出てくる。「考える」というのは、そんなふうに、どこへも行かずに(詩では、「木によりかたつて」と動かない姿が描かれている)、「それから」を増やすことなんだろうなあ。1連目に「それから」は書かれていないが、「それから」を補っててみると、この詩のゆったりしたスピードがよくわかる。

くぬぎの木によりかかつて考える時
初めて生存の根は深いのだ。
(それから)
見えない世界にみみかたむけて
(それから)
クワイの沈む水にも
(それから)
みそさざいらしいものにも話が出来るのだ。

 「初めて生存の根は深いのだ。」と「見えない世界にみみかたむけて」のあいだには深い断絶がある。そのために句点「。」も書かれているのだが、無意識の「それから」はそういう深い断絶も、何もなかったかのようにつないでしまう。「生存の根は深い」などと、どこへも動いていけないことばを動かしてしまったあと、もう「それから」ということばでもつかわないことには、何も動かない。
 「それから」はほんとうに次を必要とするのではなく、次の「思考」(思い、感情)がやってくるまで待っている時間なのだ。
 「生存の根は深い」という「考え」は、いったんやめてしまう。
 「それから」見えない世界に耳を傾ける。それは「見える世界」を「目」でみるのをやめて、「耳」で見るということだ。「目」を「肉耳」にする。あるいは「耳」を「肉眼」にする。そうすると、「頭」ではできなかったことができる。
 たとえば、クワイ、みそさざいと会話することも、できる。
 それは「頭」でする「会話」ではない。「頭」でできる会話ではない。「肉体」でなければできない会話である。そういう「肉体」になるために、「頭」は「それから」ということばのなかへ捨てなければならない。

 1連目では書かれていないが、そこには「それから」がたくさんたまっている。それに気づいているから、西脇は2連目の最後に「それから」を書き残し、そうすることで、その「それから」という時間の中に「頭」を捨て去るのだ。
 「頭」を捨て去って、女の可憐な、柔らかな尻になって、野にとびだすのだ。

 そういう夢を見ている。ゆったりと。

最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社

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誰も書かなかった西脇順三郎(100 )

2010-02-03 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇のことばは自在に運動する。その「領域」は限定されない。「常識」にしばられていない。
 「地獄の旱魃」という作品。そこに描かれているものを見ていくと、「対象」が次々に変わっていくことがわかる。クールベ、キュクロス、スペンディユウス、ルソー、ニイチェ、マイヨル、ゴーガン……。なんの説明もなく(?)、ただ、ことばが対象を渡ってゆく。

マイヨルの木彫の女

我国の彫刻家はどうして
裸女の前面ばかり気にしているのだ。
うしろに偉大な芸術が
ふくらんでつきでている

ひがん花が咲いている日
ゴーガンの画布を憶う日

ゴーガンの裸体のタヒチの人々
がすきだ殆ど仏画だ。
なぜあんな絵を綴織りの壁掛におらなかつたのか

 ひろびろとした気持ちになる。「うしろに偉大な芸術が/ふくらんでつきでている」は女の尻こそ芸術だということをいっているだけなのだと思うが、そう思って読み返すとき、あ、詩とはやっぱり「ことば」なのだと思う。「意味」ではなく、「ことば」。その「音」の動き。「意味」を捨てて「音」になるための、たくまざるなにかがある。そのなにかが、きっと詩人と詩人ではない人間をわけるのだと思うが……。
 「ふくらんでつきでている」--その音の中に、私は丸く輝く「月」を見てしまう。たんに尻がつきでたでっぱりであるというのではなく、月のように静に肉体からのぼってくる感じがする。そう感じさせる「音」が、そこにはある。

 「ひがん花」と「ゴーガン」は、まるっきり違うものだが、「音」が似ている。違うものを、さっと渡ってゆく「音」の不思議さ。

 「がすきだ殆ど仏画だ。」--この行のわたり。「学校教科書」の文体なら「ゴーガンの裸体のタヒチの人々がすきだ/殆ど仏画だ。」になるのだが、西脇は、そんなふうには書かない。そう書かずに、

ゴーガンの裸体のタヒチの人々
がすきだ殆ど仏画だ。

 と書くとき、ゴーガンの絵と、仏画がくっきりと並んで、そこに存在する。そして、そのふたつの存在を「すき」が強烈に結びつける。「がすきだ殆ど仏画だ。」は学校教科書の文法では奇妙なことばであるが、「すきだ」と「殆ど仏画だ」のあいだに「間(ま)」がないということ、それがふたつでひとつであるということが、とてもおもしろいのだ。ことばは、ふたつのものをひとつにしてしまうこともできるのだ。

色ざめたとき色のフランネルの女の腰巻の
迷信のウルトラ・桃色は染物屋の残した
最後の色調

 西脇の詩を(ことばを)読んでいると、「もの」があって、それを「ことば」でつたえているというよりも、「ことば」が、そのつど「もの」を現実の世界へひっぱりだしているという感じがする。
 西脇は「対象」を描いているのではない。西脇は、ことばで「もの」を「世界」へひっぱりだしているのだ。ことばがいつも「主体」(主語、主人公)なのだ。だから、何を描こうと、それはアトランダムにものを描いているということにはならないのだ。

榎の大木は炭にやかれた
坂の土手に
山ごぼうが氾濫した。
実は黒く熟してつぶれた
いたましい汁をたらすのだ。

 そして、西脇の「主体」(主語、主人公)は、いつでも「音楽」を生きている。自在に動く「音楽」が、ことば全体を「ひとつ」にしている。

いたましい汁をたらすのだ。

 この行のなかには「たましい」が苦悩している。苦汁している。苦汁の汗をたらしている。そして、それは「山ごぼう」という素朴な自然によって浄化させられる。素朴ないのちが、人間をいつでも「最初」の場所にひきもどすのだ。だから、たましいが苦汁しているにもかかわらず、それが美しく見えてくる。





ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
文芸文庫

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誰も書かなかった西脇順三郎(99)

2010-02-02 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇のどこが好きか。なぜ好きか。自分で感じていることなのに、それを書くのがむずかしい。
 「詩」という作品。そのなかほど。

薔薇の夏
ゼーニアの花をもつて来た人
杏色の土
手をのばし指ざして聞いた人も
「あれですか
 君のところは」
水銀のような上流のまがりめ
マーシマロの花の黄金の破裂がある。

 「指ざして」の「ざ」の「音」が好き。濁音の豊かさに、ぐいっと引き込まれる。私は音読をするわけではないが、「指ざして」という文字を見た瞬間に、声帯が反応する。「さ」ではなく「ざ」。濁音のとき、音が「肉体」の外へ出ていくだけではなく、「肉体」の内部へも帰ってくる。そして、「肉体」の内部でゆったり力が広がる。その感じが、なんとなく、私には気持ちがいい。「ゆび・さして」では、「さ」の音ともに力がどこかへ消えていってしまう。
 そして、そのあと。

「あれですか
 君のところは」

 この、何も言っていない(?)2行がたまらなく好き。大好き。
 「あれ」とか「それ」とか……。同じ時間を過ごした人間だけが共有する何か、「あれ」「それ」だけでわかる何か。その口語の響き。
 そして、その口語とともに、ことばのなかへ侵入してくる「現実」。その不透明な手触り。

 不透明。

 不透明と書いて、私は、ふいに気がつく。
 西脇のことばには、いつも不透明がついてまわっている。
 透明なものが、たがいに透明であることを利用して(?)、一体になってしまう、透明な何かになってしまうというのとは逆のことが西脇の詩では起きる。
 不透明なものがぶつかりあい、けっして「一体」にはならない。たがいに自己主張する。そして、その自己主張の響きあいが楽しいのである。

 私は西脇の濁音が好き--と何度か書いたが、その濁音も、清音と比較すると不透明な音ということかもしれない。清音は透明な音。濁音は不透明な音。そして、その不透明さに、私は一種の豊かさを感じる。
 濁音だけがもちうる「温かさ」「深み」というようなものを、感じてしまう。

 濁音--と書いたついでに。この「詩」の最後の2行。

さるすべりに蟻がのぼる日
路ばたで休んでいる人間

 この2行に出てくる濁音の響きも、私にはとても気持ちがいい。「さるすべり」「のぼる」のなかで繰り返される「る」と「ば行」。それが次の行で「路ばた」の「ろ・ば(た)」に変化する。「だ行」(で、という音)、「ら行」(ろ、る)、そして繰り返される「ん」の「無音」。
 なぜ、この2行に快感を感じるのか私にはわからないが、快感なのだ。「音楽」なのだ、私には。
 声には出さない。黙読しかしない。それでも「音楽」なのだ。




アムバルワリア―旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(98)

2010-02-01 12:00:36 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「比喩」とは何か。「いま」「ここ」にあるものを「いま」「ここ」にないもので語ることである。「いま」「ここ」から逸脱し、「いま」「ここ」ではない世界へ逸脱することである。そして、逸脱しながら、同時に「いま」「ここ」へ帰ってくる。それは「いま」「ここ」を混乱させることである。その混乱の中に、その乱れ、乱調の中に、喜びがある。それは視覚の喜びだったり、聴覚の喜びだったり、あるいは感覚ではなく「頭脳」の喜びだったりする。
 西脇の逸脱は単純ではない。視覚の喜び、聴覚の喜びと、簡単に分類できないことがある。そして、それが複雑であることが楽しい。
 「五月」。そのなかほど。

人間ではないものを
あこがれる人間の
青ざめた反射は
このすてられた庭で
石の幻燈のくらやみに
コランの裸女が
虎のようなしりをもちあげて
ねそべるのだ

 「人間ではないものを/あこがれる人間の/青ざめた反射は」の「青ざめた反射」ということばは、「人間の精神」の「比喩」かもしれない。とりあえず、そう仮定しておく。「青ざめた反射は」の「は」は「青ざめた反射(精神)」が「主語」であることを指し示している。
 では、「述語」は?
 それらしいことばが、すぐにはみつからない。
 「述語」が「ない」ということも考えられるけれど、私は「ねそべる」を「述語」だと感じている。
 人間の青ざめた反射(精神)は、このすてられた庭で、ねそべる--そう考えると、なんとなく「文章」になる。ひとつづきの「意味」(内容)が浮かび上がってくるような気がする。
 この場合、「石の幻燈のくらやみに」は「庭で」という場のありようを補足したものとなる。そして「コランの裸女が/虎のようなしりをもちあげて」という2行が、「ねそべる」を説明した「比喩」になる。
 「青ざめた反射」は、(庭のくらやみに)裸の女がしりをもちあげるように、ねそべっている。
 簡略化すると、そういう「比喩」を含んだ文章になり、その簡略化した「裸女」の「しり」に「虎のような」という「比喩」が重なっている。
 この7行のなかには、「比喩」が「入り子細工」のように組み合わさっているのである。「入り子構造」をとることで、「比喩」が逸脱していくのである。そして、その逸脱は、最初の「主語」さえかき消すところまで突き進む。

コランの裸女が
虎のようなしりをもちあげて
ねそべるのだ

 この3行を読んで、ほんとうの「主語」は「青ざめた反射」であったことを、すぐに思い出せるひとは少ないだろう。「青ざめた反射」という「主語」の「述語」はどれ? などという疑問というか、しつこい学校教科書文法は忘れてしまって、単純に裸女の虎のようなしりを思い浮かべるだろう。裸女がしりをもちあげて、欲情を誘うように、ねそべっている--そういう姿を思い浮かべてしまうだろう。
 ことばが、比喩をくぐりぬけることで暴走し、その暴走のスピードにつられて、「青ざめた反射」という「主語」(頭)がどこかへ吹き飛んでしまう。そういう快感がこの行の展開の中にある。

 そして。

 この比喩の暴走、ことばの暴走がもたらす喜びは、裸女のしり、虎のようなしり、という男にとって(女にとって、もかもしれないが)、きわめて「視覚的」な喜びである。スケベな視力をめざめさせる喜びである。
 こういうことがあるから、西脇のことばは絵画的(視覚的)と言われるのかもしれない。
 それはそのとおりなのだが、私の「肉体」野中手は、別なものも揺さぶられている。「コランの裸女が」という行の「コラン」である。「コラン」が何を指し示しているのか、無知な私には皆目見当がつかないが、それが「すてられた庭」「石の幻燈」「くらやみ」というような、一種、日本的(東洋的?)な風景からははるかに逸脱したものであると感じる。異国のものであると感じる。「コラン」というカタカナの表記と「音」によって。
 「コラン」という表記と「音」があって、この7行は、なんだか急にぶっ飛んでしまう。急に飛躍してしまう。
 つづく「裸女」を西脇は何と読ませたいのかわからないが、私は「らじょ」と読む。「らじょ」ということばが日常的かどうか、私にはよくわからない。私なら「裸の女」と書いてしまうだろう。そう書いてしまうだろうけれど、「裸女」という文字にふれると、自然に「らじょ」と読んでしまう。そこには「コラン」の「ラ」の音が影響しているのだ。
 だから。(ちょっと、強引な「だから」なのだが。)
 だから、「裸女」は「らじょ」と読んでいるのではなく、ほんとうは「ラジョ」と読んで、そのあと、「裸女」という文字に引き戻されて「らじょ」と読み、そして「裸の女」と頭のなかで理解しているのだと思う。
 そして(またまた、そしてなのだが)、「ラジョ」が「裸の女」にもどったとき、「虎」「しり」が、「異国」のものではなく、また身近なものになる。「日常(というには、ちょっと変だけれど)」の「比喩」になる。

 「コラン」「裸女」--このふたつのことば、表記と音によって、私は(私の「肉体」は)、不思議な度をするのだ。そこには「ラ」「ら」という音がとても強く響いている。全体としては、「視覚的」な「比喩」なのだが、私はそれを「視覚的」と感じるよりも、ほんとうは「聴覚的」と感じてしまう。「音楽」があって、はじめて、この7行のことばの暴走、詩が生まれると感じる。
 私にとって、西脇は、いつでも「音楽」なのだ。




西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店

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誰も書かなかった西脇順三郎(97)

2010-01-31 09:13:54 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 ことばはなぜ動いていくのか。と、書くと、いやことばは動いていくものではなく人間が動かすものだ--と言われそうだが、私にはやはりことばは勝手に動いていくものである、と思われる。
 「庭に菫が咲くのも」の書き出し。

幻像の貧困はガラスの絞首台にある。
ミモザの花が花屋に出た
恋愛の孤独と路ばたの雑草を見た
時の孤独の情とはまるでちがうのだ
円が円であるように人間が人間
である時があるとサルトル
がどこかで言つた

 1行目に、どんな「意味」があるか、私にはわからない。「内容」がわからない。私は、ただ、その「もの」の組み合わせに驚く。「ことば」の組み合わせに驚く。驚きで「頭」がいっぱいになってしまって、「意味・内容」がわからない。「意味・内容」がわからないから、逆に「頭」が覚醒する。えっ、何? わからないものをわかろうとして、「頭」にスイッチが入る、という感じ。
 でも、まあ、わからないままですねえ。それでも、2行目「ミモザの花が花屋に出た」は、1行目がわからないのとは逆に「内容」がわかるので、ほっとする。黄色い色が目の前に広がってくる。こういうことばの展開にふれると、あ、たしかに西脇は絵画の人なのだということが、ちらっ、と「頭」をかすめる。だが、その色彩はすぐに消えてしまう。つづく行には、私は、どんな色をも見ない。次に視覚を刺戟するのは「雑草」ではなく、「円」である。「円」は、とてもくっきり見える。見えるけれど「意味」はわからない。

 わからない、わからないといくら書いても、詩の感想にならないかもしれないが……。わからないまま、私が驚くのは、1行目から2行目のへの飛躍。そして、3行目と4行目の関係である。特に3行目と4行目のつながりと切断、その関係である。

恋愛の孤独と路ばたの雑草を見た
時の孤独の情とはまるでちがうのだ

 これは、意味的(?)には「恋愛の孤独と/路ばたの雑草を見た時の孤独の情とは/まるでちがうのだ」ということだろうか? そして、それは2行目ともつながっているのだろうか? 
 つまり……。
 ミモザの花を花屋で見たときの感情と、路ばたの雑草を見たときの感情が違うように、そういう自然(自然と切り離された花の美)を見たときの恋愛(あるいは孤独)の感情はまったく違う--と西脇は書いているのか。
 そうなのかもしれないけれど。きっとそうなのだろうけれど。

時の孤独の情とはまるでちがうのだ

 この行は、私には、独立して見える。実際に1行として「独立」した形で書かれている。さっき私は、これらの行の「意味・内容」をつかむため(?)に、「雑草を見た時」という具合に改行操作を変更してみたけれど、ほんとうは、私の「肉体」はそんなふうには反応していない。「頭」はむりやり「学校教科書」のように改行をととのえて(?)みたけれど、まったく違うことばを読み、違うことばを聞いている。
 「時の孤独」。whenの孤独ではなく、timeの孤独。
 あ、うまく書けない。
 「孤独」が「主語」ではなく、「時(時間)」が「主語」であると感じてしまう。いろいろな「時」が存在する。ミモザの花を見た「時」。恋愛の「時」。路ばたの雑草を見た「時」。それらの「時」はそれぞれ「孤独」である。そして、それらの「孤独」が違うのではなく、そもそも「時」が違うのだ。
 「学校文法」にしたがって読んだときとは、「主語」が逆転してしまう。
 「時」を「主語」にして読んでしまう読み方は、間違っているかもしれないけれど、私の「肉体」は、「時」を「主語」にしたてあげたいのだ。そうでないと、納得しないのだ。
 なぜなんだろう。なぜ、そんなふうに強引に(?)「誤読」したがるのだろう。
 リズム、音楽のせいだ、と私は感じている。
 ここには、「恋愛の孤独と/路ばたの雑草を見た時の孤独の情とは/まるでちがうのだ」と書いたときとは違う「リズム」がある。音の響きがある。そして、それは「学校教科書」の「意味・内容」を脱臼させる「リズム」であり、響きである。
 だとしたら、その脱臼した「リズム」、響きそのものが指し示す「主語」をそのまま主語として受け入れた方がいいと私は思うのである。
 ここは絶対に「時」が「主語」。
 「意味・内容」を破壊して、ふいにあらわれる「主語」。その「主語」のあらわれかたの「リズム」が、そして全体を動かしていく。「意味・内容」ではなく、「音楽」がことばを動かしていく。
 私には、西脇のことばの運動は、そんなふうに見える。

円が円であるように人間が人間
である時があるとサルトル
がどこかで言つた

 この3行は、「学校教科書」の改行(文節)では「円が円であるように/人間が人間である時があると/サルトルがどこかで言つた」になるかもしれない。
 しかし、西脇は、そうは書かない。
 わざと改行をずらす。そうすることで、ことばを活性化させる。「自由」にさせる。
 さっきまで「時」が「主役」であったが、ここでは「円が円」「人間が人間」というような繰り返しと、その繰り返しの「リズム」に乗った「ある」「ある」「ある」--「ある」ということば、それが「主語」になる。
 「ある」。存在のことば。--だからこそ、「サルトル」という哲学者も登場してくる。(サルトルの響きの中にも「ある」が隠れている。)

 「意味・内容」ではなく、音が、リズムが、音楽が、西脇のことばを動かしている--私は、どうしても、そう感じてしまう。

 そして。

 数行前、私は「しかし、西脇は、そうは書かない。」と書いたが、「書く」ということが、たぶん、西脇の「音楽」にとって重要な役割を果たしている。
 「恋愛の孤独と/路ばたの雑草を見た時の孤独の情とは/まるでちがうのだ」、あるいは「円が円であるように/人間が人間である時があると/サルトルがどこかで言つた」という改行(文節)は、「話しことば」(声)の「意識」を「文字化」したものである。話す--声にだし、何かをいう、そのときの「リズム」を正確に(?)転写したものである。話すことを文字に書き写せば、たぶん、「学校教科書」の「意味・内容」(文節)になる。
 西脇は、このことばの運動(ことばの法則)を「書く」ことで解体している。改行(文節)をわざとずらして「書く」。そうすると、「意味・内容」が脱臼させられ、「音」が復活する。「音」そのものがもっている「いのち」というか、勝手な動きが復活する。

 「書く」という行為は「音」を除外しているように見える。「音」がなくても「書く」ことはできる。けれど、書かれた「文字」のなかには「音」は存在する。「書く」ことによって、「書く」ときの「文字」の操作によって、聞こえなかった「音」そのものが逆に響きはじめるときがある。
 西脇の独特の改行システム。それは「意味・内容」を脱臼させるだけではなく、ほんとうは、ことばの「音楽」を復活させるための方法かもしれない。
 声に出す、声に出して読む--ではなく、黙読する。文字を読む。そのとき「肉体」のなかで鳴り響く音楽。
 逆説的な音楽--かもしれない。「文字」のなかにある「音楽」というのは、奇妙かもしれないけれど、それはたしかにあるのだ。
 この詩の最後は、とても美しい。

「なにしろホラチュウスを読んで一番自分を
喜ばすことは、結婚しないでよかつたことです。……
ウッファファファ・ウファッファファ
ウーファッファッファッファー」

 私はカタカナ難読症なのだけれど、最後の2行は、はっきりと「聞き取る」ことができる。読むかわりに。





Ambarvalia (愛蔵版詩集シリーズ)
西脇 順三郎
日本図書センター

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誰も書かなかった西脇順三郎(96)

2010-01-30 12:52:26 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「一月」の書き出し。

坊主の季節が来た
水仙の香りを発見したのは
どこの坊主か。
美しいものは裸の女神よりも
裸の樹の曲り方だ。

 この作品の乱調、音楽が鳴り響く瞬間は、意味の破壊、ことばのイメージの衝突になる。「坊主」と「水仙」という「和」の意味が「裸の女神」(日本にも裸の女神がいるかもしれないが、ギリシャを想像させる)の衝突。そして「裸の女神」ののびやかな曲線(それは直線の一種とさえ感じられる)と「裸の木の曲り方」の衝突。「裸の木」が若い木であって、その若さが女神の若さと競っているのもいいかもしれないけれど、老いた木である方が、その衝突がおもしろい。ごつごつと不自然に(?)曲がってしまった木。その曲がり方の美しさ。東洋の(?)発見。
 そうした「意味」の衝突の「音楽」とは別のものもある。
 「枇杷」。

火山、松葉ぼたん、雨
ゴーギャンのガンボージの
黄金の肉体の神妙、銀の皿に!

 ここには「音」だけがある。「書きことば」なのに、そこには「音」がまず、存在する。「意味」もあるのかもしれないが、私は、たとえば「火山、松葉ぼたん、雨」に「意味」を感じない。その三つを結びつける「意味」が思いつかない。連想ゲーム(?)をしたとして、そのあと4つ目に何が出てくるか? 「ゴーギャン」なんて、出てこない。それは「意味」がないということだ。
 「意味」はないけれど、豊かな「音」がある。豊かな濁音がある。「かざん」「まつばぼたん」のなかの「か行」「さ(ざ)行」「は(ば)行」が2行目の「ゴーギャン」「ガンボージ」と響きあう。3行目の「黄金」「銀」にも。
 何が書いてあるのか、その「意味」はさっぱりわからないが(特に「銀の皿に!」が何のことかわからない。皿に、どうしたの?)、それぞれの「もの」と「音」はよくわかる。

火山、松葉ぼたん、雨
ゴーギャンのガンボージの
黄金の肉体の神妙、銀の皿に!
ひからびたタヒチのふくべに
わすれられた神々の黒い血に、
危険な種子を垣間見る
そびえ立つ枇杷の実をむく
小鳥の眼の
おんなの旅人の手は無限に白い

 何かわかりました? 私は何もわからない。「意味」を知りたいという気持ちにはならない。けれど、最初の3行のことばの出会い、音が音と直接出会うときの、「意味」の拒絶の仕方かが、とても好き。
 この詩が、もし文字で書かれず(書きことばとして存在せず)、音だけだったとしたら(話しことばとして聞いただけだったら)、私はこの作品をおもしろいとは思わない。そして、そこに「音楽」があるとも思わないかもしれない。
 書きことばによって、そこに「文字」が存在する--そして、その文字を裏切るように(?)音が音自身で動いていく。その不思議さが、書き出しにはある。






ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(95)

2010-01-29 23:00:21 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「ナラ」。この「ナラ」は何だろう。西脇は地名をよくカタカナで書くから「奈良」なのかもしれない。

ポンペイの女郎屋の入口の
狼のように耳が立つた
まつ黒い犬がほえる

 この書き出しの「犬」はほんとうに犬? 鹿を、そんなふうに書いて、遊んでいるだけなのかもしれない。
 西脇は有名詩人というよりも、日本の代表的な詩人だから、そういう人に対して「遊んでいる」というようなことを書くときっと反論が返ってくると思うのだけれど、いいじゃないか、誰だって遊んだって、と私は思う。
 「意味」とか「思想」とかは関係なく、ただことばで遊びたいから遊んでみる--そういうことだって詩の重要な要素である。「ポンペイの女郎屋の入口」も「奈良の都の入口」も、かわりはないのだ。ある場所、その場所が喚起するものが似ているか、似ていないか--よくわからない。よくわからないから、まあ、その変なものを(ことば)を動かしてみる。それが、どこまで動いていくか。その「動き」そのものが、詩であるかもしれない。

 私は、この詩は「奈良」を「ナラ」と書いたことからはじまる奇妙な音楽として読みたい。そう、読んでいる。そして、おもしろいと感じているのは、「ナラ」と「ポンペイ」と関係があるかないかわからないけれど(わからないからこそ?)、次の部分である。

この悲しい記念
この美しい管を通る恋心(れんしん)は

 「この」の繰り返し。「しい」の繰り返し。「きねん」「れんしん」の韻の踏み方。「恋心」にわざわざ「れんしん」とルビをふって、変な音にしてしまう遊び。
 特に気に入っているのが「この」の繰り返し。
 それはあとにも出てくる。

この価値のない牧神笛
この朱色の金属
この考え及ばざる空間
このブリキの管を通す

 4回「この」が繰り返される。最後にも、「この」が登場する。

ただこのブリキの空間とこの朱色
との関係が激烈なるためだ。

 「この」が最後に「との」になっている。
 この瞬間の、変なおもしろさ。

 西脇の詩が私はとても好きである。そして、その好きの理由は「音楽」にあるのだが、その音楽は「音」であると同時に「書きことば」と何か関係があるかもしれない、とも、最近、急に思うようになったのだ。
 最終行の「との」は、学校教科書文法に従えば(つまり、「意味」「内容」を正確に伝えるということばの働きを重視すれば)、とても奇妙なつかい方である。行の冒頭に「との」があるのは変である。その「との」は、前の行の「朱色」につながる形で「朱色との」と書かれるべきものである。それを西脇は、あえて、わけて(分離させて)書いている。
 その「書くこと」から、音楽がはじまっている。

 それは「奈良」を「ナラ」と書くことからもはじまる「音楽」につながっている。「音楽」は「音」だけではなく、書かれる「文字」によってもはじまる。--そのことを、ふいに感じた。



アムバルワリア―旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(94)

2010-01-28 19:20:14 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 私は西脇順三郎について書いているが、西脇については何もわからない。西脇の研究家(?)、あるいは西脇の詩が好きなひとは、きっと怒りだすだろうと思う。私が、あまりにも根拠のないことを書きすぎている、と。私は何の反論もできない。私は根拠などもっていない。そればかりか、私は自分が感じていることを正確に(?)書くことばをもっていない。いや、何を書きたいか、という明確なことがらもないのだ。何を書きたいかわからない。書きながら探している。私の書いたことばが勝手に動いていって、どこかで西脇のことばときちんとぶつかってくれることを祈りながら書いている。これが、ほんとうのところである。特に、今回のように長い中断をはさむと、前に書いたことと、ことばがうまくつながらない。だから、無理には、つなげない。つなげようとしても、つながらないのだから、つながらないまま書いていくしかない--と思う。
 「粘土」は三人の男が、関東のどこかを歩いている詩である。

農家の庭をのぞいて道を
きくと役所のあんちやん
だと思つたのか眼をほそくしてこわがつた

 この「きくと役所のあんちやん」が楽しい。「農家の庭をのぞいて道をきくと/役所のあんちやんだと思つたのか眼をほそくしてこわがつた」という改行が学校教科書の文法だろう。西脇はこの学校文法を完全に無視してことばを動かしている--と書いた先からこんなことを言うと変だけれど、それは西脇が意識して壊しているのか、それともことばがかってに壊しているのか、実は、私にはよくわからない。
 たぶん、この西脇についての文章を書きはじめたころは、それは西脇が壊しているのだ、乱調を導入することで美をつくりだしているのだ、と感じていた。だが、長い中断をはさんだいま、なぜか、まったく理由もないままなのだが、それは西脇が壊しているのではない、という気がしてきたのだ。ことばが、かってに文法を壊してしまう。(といっても、学校文法のことだけだけれど。)西脇は、そのこわれた「音」をただ聞き止め、記録している、という気がしてくるのだ。

きくと役所のあんちやん

 この音は、とても美しい。「農家の庭をのぞいて道をきくと/役所のあんちやんだと思つたのか眼をほそくしてこわがつた」という正しい文法(?)を知っている人間が、こんな「音」を「音」だけとして文脈(?)の中から取り出せるとは、なんだか信じられない。意識はどうしたって「農家の庭をのぞいて道をきくと/役所のあんちやんだと思つたのか眼をほそくしてこわがつた」と動いてしまう。私は何度読んでも、この3行は、そういう「意味・内容」をもっているとしか判断できない。意識(?)は正確に(?)、そんなふうに判断しているにもかかわらず、その意識とは無関係に、

きくと役所のあんちやん

 という音が動いているのだ。輝いているのだ。「耳」のなか、「頭」のなか、「肉体」のどの部分が反応しているのかよくわからないけれど、その音をとても美しいと感じる。「きくと役所のあんちやん」ということばは、それだけでは何の「意味」ももたない。「無意味」である。その「無意味」の輝きが、「農家の庭をのぞいて道をきくと/役所のあんちやんだと思つたのか眼をほそくしてこわがつた」と書いたときとではまったく違うのだ。
 私は「音読」はしないが、もし「音読」したとしたら、この行は、いま私が感じているように輝くか。輝かないのではないか。この輝きは、「眼」で「音楽」を聞いているから感じるものなのではないのか。
 私はもともと視力が弱いが、眼の手術をしたあと、さらに悪くなった。その眼の悪い人間が「眼で音楽を聴く」と書いてしまうと、なんだかとんでもないことを書いてしまっている気持ちになるが--だけれど、やっぱり眼がなんらかの作用をして、その「音楽」を美しいと感じさせているのだ。

アテネの女神のような神を結つたそこの
おかみさんがすつぱい甘酒とミョウガの
煮つけをして待つているのだ

 この3行は、書いてある「内容」そのもののアンバランス(乱調--アテネの女神とおかみさん、甘酒、ミョウガ)もそうだけれど、

おかみさんがすつぱい甘酒とミョウガの

 この1行の表記の複雑さが、また「音楽」を感じさせるのだ。もっとも、この行に関して言えば、私のカタカナ難読症の影響はかなり大きいかもしれない。「ミョウガ」。この「文字」が私には最初読めない。見えない。「音」がしないのだ。 
 「おかみさんがすつぱい甘酒と」まではひとつづきの「音」が聞こえてくるが、「ミョウガ」がとても小さい音、ほとんど沈黙として響いてくる。その沈黙の後に「の」という音がやってきて、あ、「甘酒と」と「の」の間には何かしらの「音」があったのだ--と気がつく。その瞬間の、「音楽」の覚醒のようなものが、とても新鮮で、とてもうれしくなる。
 カタカナが正確に読めるひと(ほとんどのひとがそうだと思うけれど)は、そして、私とは違った「音楽」を聴いている--と思うと、私は、またなんともいえず妙な気持ちになる。

疎開していた三馬と豊国と伊勢物語と
ニイチェの全集とメーテルリンクの蜜蜂の生活
をとりに来たのだ

 この部分では、「疎開していた三馬と豊国と伊勢物語と」と「ニイチェの全集とメーテルリンクの蜜蜂の生活」が違った「音楽」として響いてくる。それは日本の音と外国語の音ということかもしれないが、私には、もうひとつ「カタカナの音」、眼で感じてしまう変な音が加わり、聞き取れない「音楽」が駆け抜けて行ったのを感じるのだ。
 「メーテルリンクの蜜蜂の生活」では、「の蜜蜂の」の部分で、体がとろけるような快感に襲われる。
 --これはいったい何なのだろう。



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