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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(13)

2019-06-02 11:11:48 | 嵯峨信之/動詞
* (死者は冷たい灰の中で)

死者は冷たい灰の中で
だれの前にも素裸である

 この「ある」は何だろうか。
 生きている人は裸ではない。服を着ている。裸になるためには服を脱ぐ。裸に「なった」、そして裸で「ある」。「ある」の前には「なる」がある。
 この「なる」は次のように展開していく。

死者はすべての人の他人となる
--いつかは自分に対しても

 そうすると「服」とは、人との関係のことだろうか。自分と関係のない人を「他人」と呼ぶ。

















*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(12)

2019-06-01 08:06:30 | 嵯峨信之/動詞
* (人を愛するとは)

人を愛するとは
どこにもない泉を知ろうとすることだ
光る水面とぼくの影のゆらめきのなかにただ一言を聞くことだ

 「人を愛することは」ではなく「人を愛するとは」。そして、それを受けることばは「知ろうとすることだ」「聞くことだ」。
 「こと」ということばが差し挟まれている。
 「愛する」は動詞。「こと」は名詞。動いているものを固定化しようとする。この困難さというか、矛盾のような「齟齬」は「遠い」と言いなおされる。

しかしどこまで行つてもその泉は遠い

 「ない」ものに、「遠い」「近い」の差はない。けれど嵯峨は「遠い」と呼ぶ。愛するときだけ「遠い」ものが近づいてくる。動詞のなかにだけ、やってくる。
 それは「こと」と呼べるもの、「名詞」ではない。

 「その泉」の「その」も動詞の一種かもしれない。指し示す動きがある。「愛する」もある対象に向けての動きである。


















*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(11)

2019-05-31 09:04:16 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくの影はいつも)

ぼくの影はいつもぼくの生について語りたがつている
太陽が斜からさしてくると
ぼくは影の重さで傾きながらそれがうまく掴まりそうだ

 「語りたがつている」は、「語っている」とは違う。まだ「語っていない」。つまり、ことばになっていない。でも「語りたがつている」ことは、わかる。
 これは不思議な「均衡」である。
 「均衡」だからこそ、「重さで傾く」ということも起きる。「均衡」がくずれる。「斜」は「均衡」がくずれることを象徴している。
 「掴まりそう」は微妙だ。嵯峨は、ぼくはそれをうまく掴まえられそう、という意味でつかっていると思うが、逆にぼくが掴まえられそう、とも読むことができる。
 「ぼく」と「影」は分離できないものである。だからこそ、瞬時に主客が入れ代わるのかもしれない。


*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(10)

2019-05-30 10:36:28 | 嵯峨信之/動詞
* (愛するということには)

愛するということには
地名がない

 「愛するということ」は「土地」ではない。しかし嵯峨は「土地」のようにとらえて、「名がない」と言う。言い換えると「名前をつけない」。
 抽象的な、あまりにも「比喩的」な表現である。
 「愛するということ」と嵯峨は、わざわざ「名詞」に仕立てているが、「愛する」という動詞そのものとして見つめ、「氏名 人間はそれをなぜつけたか」という断章と結びつけて読みたい。「愛する」は動詞である、動詞は存在の運動をあらわす。存在(名詞)が前提になっている。あえて言うならば「愛する」という行為は「愛する」という「名」をつけられている。ある行為を「愛する」と名づけた。「名づける」は「呼ぶ」でもある。「地名がない」のではなく、必要としない。「呼ぶ」という行為だけがある。

死んだあとの土地にはただ白い地名があることを

 「愛する」には「地名がない」、死んだあと「地名がある」。行為は肉体の中に記憶として残る。思い出が「ある」。それには「名前」はいらない。思い出すという動詞が、ただあるだけだ。



*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(9)

2019-05-29 10:12:11 | 嵯峨信之/動詞
「地名、人名」

* (氏名 人間は)

氏名 人間はそれをなぜつけたか
雲には名前はない ひたすらながれて いつとなく消える

 書かれていない動詞がある。「ある」。人間には名前がある、雲には名前がない、と言いなおすと「ある」と「ない」が対比されていることがわかる。
 「ない」は「流れる」「消える」という動詞といっしょに動いている。そうならば、書かれていない「ある」は「流れない」「消えない」といっしょに動いている。
 人間に名前をつけるのは、人間を「消さない」ためである。そこには祈りが「ある」。





*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(8)

2019-05-28 09:09:18 | 嵯峨信之/動詞
* (魂しいのはずれを)

魂しいのはずれを
ひとびとが通つている
そこをぼくはふるさとへの道という
でもだれひとりそこへたどりついた者はいない

 「魂しい」という表記は嵯峨独特のものである。ふつうは「魂」と書く。
 なぜ「魂しい」と書いたのか。
 「悲しい」「嬉しい」「淋しい」という表記を連想してしまう。
 「魂」は体言だが、「悲しい」「嬉しい」「淋しい」は用言。嵯峨は「魂しい」と書くことで、その存在を「用言」としつかみ取っていたのではないだろうか。

 私は「魂」というものを見たことがないので、その存在を信じていない。私自身からは「魂」ということばをつかうことばない。誰かがつかっていて、それについて何かを言うときだけ、仕方なしにつかうのだが。
 でも嵯峨の書いている「魂しい」が「名詞」ではなく「用言」なら、それは信じてもいいと私は思う。動いているものは見えなくても動きそのものを感じることはできる--たとえば風。
 「魂しい」とは、どういう動きをするのか。どういう動きを「魂しい」と呼ぶのか。

魂しいのはずれを
ひとびとが通つている
 
 どこかの「はずれ」(中心ではないところ)を通ること、その動きを「魂しい」と呼んでいる。そこにとどまるのではなく、あくまで「通る」。つまり「過ぎていく」。そこには通った後(軌跡)が残る。通ったという「軌跡」を残す運動を「魂しい」と呼ぶ。
 「軌跡」はまた「名詞」であるけれど、「通る」はたぶん完結しない。永久に「通る」。だから「軌跡」も未完のままの運動だ。
 通る、歩く。けれど「たどりつけない」。嵯峨はたどりつけないではなく「たどりついた者はない」と書くのだが。
 その「ない」という否定よって、初めて見えてくるもの。

 冒頭の「魂しい」を「悲しい」「淋しい」と読み替えてみたい気持ちになる。たぶん、そう読み替えても詩として成り立つ。人によっては「悲しい」「淋しい」ではなく「悲しみ」「寂しさ」というような形で書くかもしれないけれど。



*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(7)

2019-05-27 10:43:57 | 嵯峨信之/動詞
* (いちどだけ呪いながら)

日を少しひろげて
おまえをやわらかに包んでみた
おまえは花よりももつとやさしく風にさわり
小さなことばを光りの上に泳がせた

 「ひろげる」と「包む」。反対の動きが読者の意識を詩へと誘う。矛盾のなかに何かが生まれてくる予感がある。既に知っているものではなく、知らないものが姿をあらわすとき、そこには必ず矛盾がある。
 パラダイムの変更、と言っていいかもしれない。
 「やわらかな」は「やさしく」へと変化していくことで、動き始めたものを、そっと後押しする。
 「さわる」は「ひろげる」が変わったものか、それとも「包む」が変わったものか。どちらもありうる。
 この「不安定」を経て、動詞は「泳ぐ」へと変わっていく。



*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(6)

2019-05-26 08:21:32 | 嵯峨信之/動詞
* (ここやあそこの町や村々に)

ああ その時
ぼくの傍らを通りすぎる者がある
そのしずかな無名の通行人
はて知れぬ遠くへ去つていくその者こそ
たえずぼくを呼んでいた者である

 「しずかな」と「呼ぶ」という動詞が呼応しているのを感じる。
 「しずか」は無言である。「呼ぶ」は声を出す。だから、それは「矛盾」だが、矛盾だからこそ、そこに詩がある。
 「しずか」が肉体が抱えている無言の声、発せられなかった「声」を聞き取る。それは聞き取った人にだけ「呼び声」として聞こえる。
 強いつながりが生まれ、そのつながりのなかで主客は交代する。
 嵯峨は、町や村々を静かに通りすぎる人になることで、詩人になる。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(5)

2019-05-25 10:02:47 | 嵯峨信之/動詞
* (一日一日が)

水槽に水がいつぱい溜つていて
時の羽根が二、三枚
水底に沈んで光つている

 「沈む」と「光る」は反対の動きをあらわしているわけではないが、どこかに相反する動きを持っている。「沈む」は静かな印象がある。重い、ということばも連想させる。「光」は逆に軽くて、華やか、派手である。水が「光」を鎮めているのかもしれない。相反するふたつの動きが拮抗し、それが「溜まる」という動詞になって、そこに存在している。
 「時の羽根」は何の象徴かわからないが、「溜まる」を静かに揺らしている。「時」のなかにも「羽根」のなかにも、「いま」と「ここ」から離れていく何かがある。





*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(4)

2019-05-24 10:05:24 | 嵯峨信之/動詞
* (もうやめよう)

もうやめよう
暗い言葉のなかで向いあつているのは
去る者があれば
心もそこで終わる

 この一連目は、二連目で「比喩」となって繰り返される。いや、「比喩」を通して、未来として予想される。

いつか深い井戸を思いだすことがある
何かが落ちて
底知れぬところから水の音がかえつてくるのを

 「暗い言葉」は「深い井戸」、「去る者」は井戸に落ちた「何か」、それで「終わる」わけではない。「いつか」「かえつてくる」。それを「いつか」「思いだす」。
 正確には「思いだすことがあるだろう」なのかもしれないが、確信しているのから「思いだす」と断言する。あるいは予言する。ないものを存在させる。ここから詩はさらに飛躍する。

そのときの水の音をおもうと
その日からだつたのだ
地上に長い夏の日がつづいたのは

 三連目で「おもう」という動詞が繰り返される。「思いだす」という動詞とつかいわけているのだが、未来を思うのも、過去を思い出すのも、こころの動きは同じだ。遠くにあるものを自分に引き寄せる。自分に結びつける。
 この結びつける動きを、別の動詞で言いなおせば「つなげる」であり、「つなげる」は「つづく」でもある。
 「心」には「終わる」ということはない。





*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(3)

2019-05-23 08:21:36 | 嵯峨信之/動詞
* (未来とは)

未来とは
だれの空でもなくだれの陸地でもない

 と始まるこの詩の三連目。

ぼくらは人々と手をつないでみごとな輪をつくる
その輪のなかになにかを囲んでいるのかだれも知らない

 一連目の「だれの空でもなくだれの陸地でもない」は「知っている」。そう考えている。けれども三連目で、

知らない

 が出てくる。
 「人々と手をつないでみごとな輪をつくる」ことは知っている。けれど、その輪なのかに何があるのか「知らない」。
 これはほんとうに「知らない」なのか。
 だいたい「未来とは/だれの空でもなくだれの陸地でもない」とはほんとうに知っていることなのか。
 そうではなく、ここには書かれない「動詞」があるのだ。
 「考える」「考えたい」がある。「想像する」でもいい。そのとき、ひとはことばを動かす。考えは、ことばといっしょに動く。嵯峨は、ことばといっしょになって考える。
 それが嵯峨にとっての詩である。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(2)

2018-08-07 11:13:04 | 嵯峨信之/動詞
「台地」

*(ある台地)

ある台地
時の終りがすべて集まつていて
いま小草一本生えていない突兀たる高所

 「集まる」と「生えていない」の「ない」とは矛盾している。「集まる」ならば、そこには「ある」はずだが、何もない。「無」が集まってきていることになる。
 「時の終り」が「無」である。
 「終り」が「集まる」と何もない。
 しかし、ことばは「無」を語ることができる。「無」を「ある」ものとして語ることができる。
 それが「台地」「突兀たる高所」となって、そこに「ある」。





*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)を読む(1)

2018-08-06 11:34:06 | 嵯峨信之/動詞
                         2018年08月06日(月曜日)

(不幸よ)

不幸よ
わが偉大な休息の島
その空を飛んでいる一羽の信天翁よ

 「不幸」「島」「信天翁」は、「ひとつ」のものである。どのことばがどのことばの「比喩」なのか、特定はできない。相互に呼び合っている。
 「動詞」を探してみる。
 「休息の島」には「休息する」という動詞が隠れている。
 この「休息する」と「飛んでいる」が向き合う。そこには矛盾がある。この矛盾は、島(海)と空という対比と結びつく。

 そうであるなら。

 「不幸」は書かれていない「幸福」と呼び合っているはずだ。矛盾が呼び掛け合って世界をつくっているがこの詩だからだ。
 この詩は、だから

幸福よ
わが偉大な休息の島
その空を飛んでいる一羽の信天翁よ

 と読み替えることができる。
 実際、「不幸よ」ということばで始まる詩を読んでも、何が不幸なのかわからない。「ゆったりと休息する」こと人間の喜びだ。そのときこころは空を信天翁のようにゆっくりと飛んでいる。
 まばゆい光。透明な空気。

 矛盾で語る「不幸」、詩は「矛盾」でできている。




*

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30 無名の川(嵯峨信之を読む)

2018-07-14 13:08:03 | 嵯峨信之/動詞
30 無名の川

死への途上に
大きな川が流れている
ふるさとの方角へ流れている無名の川だ

 この一連目は、こう言いなおされる。

ただひとり残つているぼくが詩に憑かれるのは
魂のなかをながれるその川の名を知ろうとするからだ
ぼくが死につよく心ひかれるのは
その川を越えていつた人々がそこに立つているからだ

 「死」と「詩」が交錯する。「憑かれる」と「心ひかれる」が交錯する。川を挟んでむきあっている。川の「ながれる」という動詞の中で出会っている。「ながれる」は移動するだから、それは「川を越える(むこうへ行く)」と交錯していることになる。
 「そこ」とは「こちらの岸」ではなく「あちらの岸(彼岸)」。川を越えた「岸」。
 彼らはなぜ、そこに「立つている」のか。「こちらの岸」を見つめるためである。
 「彼岸」から見れば、それは「ふるさとの方角へ流れている」ということになる。
 嵯峨は、こちらの岸から「ふるさとの方角へ流れている」と、一連目で書いていた。
 「ふるさと」と「死」もまた交錯する。
 名詞にとらわれるのではなく、「交錯する」という「事実」を見つめる必要がある。「交錯する」という動詞は、ことばとしては書かれていない。しかし、「事実」がそこにある。それにどんな「名前」をつけるか。
 この詩には、新しい名前をつけることが「詩を書く」という定義が隠されている。

*

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29 *(別れていく女は)(嵯峨信之を読む)

2018-07-13 11:09:51 | 嵯峨信之/動詞
29 *(別れていく女は)

横臥したふたりが向うへおしやつた海
なに一つまだ沈んでいない広い海

 女と別れて、海を思い出している。「ふたりが向うへおしやつた海」とあるから、ふたりはいさかいをして、海へ来たことさえ忘れていたのだろう。
 しかし、いまは、その「見なかった海」が思い出される。
 海を見なかったように、女をも見てはいなかった。
 後悔は、嵯峨のこころのなかに「沈んでいる」。
 「広い」には、嵯峨の思いがこもっている。海のようなこころの広さがあれば、と。「広い」は「広げる」という動詞に変わりたがっている。


*

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