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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

28 石蹴り遊び(嵯峨信之を読む)

2018-07-10 16:46:43 | 嵯峨信之/動詞
28 石蹴り遊び

母も父もいない子供たちが
滑車を蹴つて国取り遊びをする

ここが母の国
隣りが父の国

 「隣り」ということば。名詞。動詞では、どういうのだろうか。「隣る、となる」か。接触して存在すると言いなおした方がなじみやすい。接触していないかぎり、「隣り」ということばは出てこないだろう。
 「ここが父の国」と言っても意味は通じるはずだ。一緒に遊んでいる子供には、「隣り」ということばをつかわなくても「境界線」を挟んで接触していることがわかるからだ。でも「隣り」と言いたい。
 ここに、詩がある。
 母の国と父の国の接触は、そのまま子供と両親の接触につながる。「隣り」を形作る「境界線」として存在したいという子供の気持ちが、ここにある。

*

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27 小さな錨(嵯峨信之を読む)

2018-07-08 09:41:53 | 嵯峨信之/動詞
27 小さな錨

言葉たちが
錨になれずに
絮毛になって空中を漂う

 「錨」と「言葉」は最後に

意味の重さでいつぱい詰まつた
小さな錨に

 と言いなおされる。
 「意味」は「重さ」のことである。
 「重さ」は名詞だが「重い」と言いなおすと、用言である。「重くなる」と言いなおすこともできる。「なる」という動きは「小さな錨に」のあとに省略されている。最後の一行は「小さな錨になる」。
 「軽くなる」という運動もある。軽くなると、「絮毛になって空中を漂う」。「漂う」は定まりなく動くこと。
 「錨」は「動かなくする」ためのもの。「重い」ものは「動かない」。

 私は、疑問に思う。ことばにとって「動かない」ということは、どういうことなのか。「確固とした」という肯定をこめているのか。「小さな」という限定は何なのだろうか。



*

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26 草地よ(嵯峨信之を読む)

2018-07-07 00:11:29 | 嵯峨信之/動詞
26 草地よ

草地よ
おまえが隠しもつているものは何か
その答えは生まれることもなく
子供たちただ黙々と坂を下りて街の方へ消えていつた
 
 「何か」とは、何と名づけることができるか、と読むと、この作品は「25 岬から牧場への道」につながる。
 「名づける」は、より詳しくいえば「何と」名づけるか、である。
 それはまた、「名」を生み出すことでもある。
 「名」が「答え」であるか、どうかは、わからない。それは、すぐには判断できないものだと思う。しかし、「名」を呼べば「こたえる」ものがある。「答え」は「こたえる」という動詞の中に隠れている。「こたえる」ものがいれば「答え」なのだ。

 子供が消えたとき、残るのはなんだろうか。「草地」か、「子供」が消えていったという「こと(事実)」か。それとも、まだ「ことば」になっていない何かか。




*

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25 岬から牧場への道(嵯峨信之を読む)

2018-07-04 23:59:36 | 嵯峨信之/動詞
25 岬から牧場への道

壊れるものはみな消える名で残る

 「壊れる」は「消える」と言いなおされ、「残る」という動詞と向き合う。「消える」と「残る」が拮抗する。
 その拮抗の真ん中に「名」という名詞がある。
 「名」は動詞にすると、どうなるか。
 「名づける」(名前をつける)になる。「名」は最初からあるのではなく、「名づける」とき「名」が生まれる。
 「壊れ、消える」ものをそのままにするのではなく、消えるものに名前をつける。そうすると名前が残る。「消える」と「残る」の間には「名づける」という動詞がある。

 「名づける」を「詩を作る」と言いなおすと、何かが壊れ、消えたとしても、そのことを詩にすれば、それが詩として「残る」ということ。



*

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25 (ひとことで誓いあう)(嵯峨信之を読む)

2018-07-03 12:05:03 | 嵯峨信之/動詞
25 (ひとことで誓いあう)

--ながれとまらぬ時の行衛よ

 「行衛」とは「行方」(ゆくえ)のことだろうか。なぜ「衛」の文字をあてたのだろう。
 「衛」は「衛生」や「防衛」という形で見ることが多い。「守る」という意味があるように思う。
 「ながれる」「とまらぬ」ということばは「時」を修飾している。それは、ある意味では安定していない。「衛」は、それを不安定なままに放置しない。どこかで「守る」という動詞と結びつこうとしている。あるいは結びつけたいのだと思う。
 「誓いあう」ものが愛なら、それを「守る」。気持ちがこもっている。

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24 (もしすべての存在を消すことができたら)(嵯峨信之を読む)

2018-06-30 14:16:28 | 嵯峨信之/動詞
24 (もしすべての存在を消すことができたら)

どこにも歌がなくなつたとき
始めておまえはぼくのものになるだろう

 これは、どういうことか。嵯峨は言いなおしている。

どこからか陽が射してきて
すべてのものに影がまつわり
遠近が生じ
ぼくの歩みに血が通うだろう

遠い夢の地つづきを通つて
おまえはぼくのところにやつてくるのだ

 「ぼくのものになる」と「ぼくのところへやつてくる」。それは「通う/通る」という動詞によって実現する。
 複雑なのは、「おまえが通る」と「ぼくの血が通う」が交錯するところだ。「ぼくの血が通う」から、そこを「おまえが通る」ことができる。
 しかも、「血が通う」の前提には「遠近が生じ」ということが前提になっている。「遠近が生じる」ことで「血が通う」。その「血の通う遠近の場」を「おまえが通って」やってくる。
 このときの「遠近が生じる」の「生じる」は「歌がなくなる」の「なくなる」とは反対のことである。

 「歌」ではなく、「現実」が、そのとき「生まれる」。「現実」のなかで「血が通う」ということか。

 錯綜する動詞のなかで迷うことが詩を読むことだ。嵯峨と同じ動詞を生きることで、詩が肉体の中に入ってくる。



*

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23 二つの歌(嵯峨信之を読む)

2018-06-29 12:07:26 | 嵯峨信之/動詞
23 二つの歌

誰が通つた跡だろう
火で燃えつきて
空だけが白く残つていて

 「愛とどこの川にながしても」と始まるこの作品には「ながす/ながれる」「通る」「すぎる」「行く」という動詞が繰り返される。その結果「つく」(ながれつく/燃えつく)ということにもなる。ふたつの「つく」は意味は違うが。
 この連には、そうした動きの別な姿が書かれている。
 「残る」という動詞が出てくる。「跡」という名詞と一緒に出てくる。「跡」が「残る」。
 それは必ずしも動詞が直接的に動いた場にだけ「残る」のではない。
 誰かが通った跡は地上に、火の燃えた跡として残るだけではない。その名残のようなものが空にも反映している。この「跡が残る」は「跡がつく」ともいえる。「跡がついている」。
 ある動きの反映が、別のものにも「残る」。ときには「残す」という働きかけもあるだろう。それが愛というものだ。





*

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22 アムール(嵯峨信之を読む)

2018-06-28 09:19:49 | 嵯峨信之/動詞
22 アムール

よく見ると
下絵のように
擦れた線が幾重にもみだれもつれて描いてある

 直接的な動詞は「描いてある(描く)」だが、重要なのは「描く」を修飾する「みだれる」「もだえる」だ。
 「みだれる」「もだえる」のが愛の本質である。
 「幾重」ということばは「いくつも/重なる」と動詞がわかるようにして読み直すと、愛の本質がさらにわかる。「みだれる」だけではない。「もだえる」だけてはない。
 「よく見ると」は「擦れた線」(擦れる)に視線を動かしていくが、「重なる」をこそ見逃してはならない。
 「重なる」から、次の連の「読めない」にもつながる。
 「よく見ると」「見える」ではなく、「よく見ると」「読めない」。
 ぱっと「見る」と愛だとわかるが、「よく見ると」愛はわからなくなる。
                        2018年6月28日(木曜日)

22 アムール

よく見ると
下絵のように
擦れた線が幾重にもみだれもつれて描いてある

 直接的な動詞は「描いてある(描く)」だが、重要なのは「描く」を修飾する「みだれる」「もだえる」だ。
 「みだれる」「もだえる」のが愛の本質である。
 「幾重」ということばは「いくつも/重なる」と動詞がわかるようにして読み直すと、愛の本質がさらにわかる。「みだれる」だけではない。「もだえる」だけてはない。
 「よく見ると」は「擦れた線」(擦れる)に視線を動かしていくが、「重なる」をこそ見逃してはならない。
 「重なる」から、次の連の「読めない」にもつながる。
 「よく見ると」「見える」ではなく、「よく見ると」「読めない」。
 ぱっと「見る」と愛だとわかるが、「よく見ると」愛はわからなくなる。



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嵯峨信之を読む(21)

2018-06-26 09:51:30 | 嵯峨信之/動詞
21 巴里祭

それは
ひよどりの巣から手づかみにした卵のような
 一語だつた

 「それ」とは何か。嵯峨にはわかっているが、読者にはわからない。
 三行目は、こうつづく。

それつきり女は海を越えて帰つていつた

 「手づかみ」と「女」を手がかりにすると、「それ」は「乳房」かもしれない。「巣」「卵」も、そう感じさせる。
 これを「一語」と呼んでいる。
 どんな「一語」なのか。まだ、ことばになっていない。でも、ことばが、その瞬間に動いた。ことばになろうとした。三行目の一字下げが、ことばにならない一呼吸をあらわしている。
 二連目に、

日記には何も書いてない

 とある。
 書かなくても、嵯峨には、わかる。
 ことば、だったと。ことばとしか呼べないものだった、と。


*

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20 詩はどこを……(嵯峨信之を読む)

2018-06-20 00:00:00 | 嵯峨信之/動詞
20 詩はどこを……

詩はどこをさまよい歩くのか
自分に帰るために 自分から遠ざかるために
夜はぼくの心のなかに眠る

 「さまよい歩く」の主語は「詩」である。「帰る」「遠ざかる」という反対の動きをする主語は何か。やはり「詩」である。だから二行目の「自分」というのは「詩」そのもののことである。
 三行目は、ゆっくり読みたい。唐突に出てくる「ぼく」と二行目の「自分」との関係はどうなっているのか。
 「夜は」ということばは「は」という助詞のために主語のようにも読むことができる。「夜は」「眠る」。「夜」が「ぼくの心のなかに」「眠る」。「ぼくの心」は「眠る」場所をあらわす。
 でも、主語は「夜」でいいのか。
 一行目、二行目の主語は「詩」であった。三行目も「詩」が主語なのだ。
 「詩」は「夜には(夜になれば)」さまよい歩くのをやめ、「ぼくの心のなか」で「眠る」。「ぼくの心」は、では、「詩」が「帰る」場所なのか、それとも「遠ざかる」場所なのか。
 区別はつかない。

 「詩」と「ぼく」を入れ替えて、こう読み直してみるのは、どうだろうか。

「ぼく」はどこをさまよい歩くのか
「ぼく」に帰るために 「ぼく」から遠ざかるために
「ぼくは」夜は詩の心のなかに眠る

 さらに、ことばを補って、「ぼくは、詩を求めて(探して)どこをさまよい歩くのか」と読み直すと、「詩」と「ぼく」との関係はいっそう緊密になる。そして、「さまよい歩く」こと、「帰る/遠ざかる」という矛盾した動きそのものが「詩」であることもわかる。
 矛盾は、「開かれる」「閉ざされる」という形で、こう言いなおされる。

朝 木の上の小鳥が小さな咳をする
開かれる日か 閉ざされる日か





*

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19 石棺(嵯峨信之を読む)

2018-06-19 11:03:16 | 嵯峨信之/動詞
19 石棺

稲妻が走るたびに
闇の中に盲人の顔が浮かぶ

 なぜ、「盲人」の顔なのだろうか。
 「盲人」は闇を見ている。私は闇のなかでは何も見えないが、「盲人」は闇のなかで私以上のものを見るだろう。
 「盲人の顔が浮かぶ」というと、「盲人の顔が見える」ということになるが、ここでは嵯峨は「盲人の顔を見る」というよりも、「盲人」になって世界を見るのだ。
 「稲妻が走る」はふつうの人が見る風景。
 「盲人」には「稲妻が走る」様子は見えない。しかし、「暗闇」になってしまえば、「盲人の見えない視線」が「稲妻」のように「走る」。「盲人」には「暗闇」が「真昼の明るさ」である。「盲人」の視力が力を持って、「顔」を浮かび上がらせるのだ。




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18 遅刻者(嵯峨信之を読む)

2018-06-18 11:02:35 | 嵯峨信之/動詞
18 遅刻者

遅刻者である
何ごとにも
ぼく自身に到達したのもあまりにも遅すぎた

 「遅刻者」は「遅刻した者」。そのことばのなかに「遅刻する」という動詞がある。「時間に遅れて/到達する」。
 これは、少し、奇妙なことばかもしれない。
 到達しないのではなく、到達したから「遅刻する(遅刻した)」ということばになる。
 これは、こう言いなおされる。

生きるとはついに終わることのない到達であろうか

 必ず「遅れてしまう」。それが「生きる」ということである。それは「到達しない」ということではない。
 では、なぜ、遅れるのか。
 途中にこういう行がある。

川を越えてもさらにその向こうに別の川がある

 「別の川」。「別」を見てしまう。「別」を発見するから、「遅れる」のではないか。「別」は「別れる」であり「分ける」でもある。「別れ道(分かれ道)」で、最短距離を選ばない。そうすると必然的に「遅れる」。
 「遅れる」ことを「別の道を歩いたため」ととらえると、そこに「詩」が見えてくる。「別」を発見しつづけることが「詩」。「遅れる」ことは「生きる」を豊かにするになる。
 嵯峨の「遅刻」ということばには、絶対的な否定がない。むしろ、やわらかな肯定を感じる。


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17 N沼(嵯峨信之を読む)

2018-06-17 11:01:54 | 嵯峨信之/動詞
17 N沼

 沼に女性が投身自殺する。

白い木製の十字架を呑んだ沼は
沼自身も傷ついて
大きな海鼠のようにときどき動いた

 「沼」は、このとき嵯峨のこころの象徴だろうか。嵯峨のこころは投身自殺を知って、「海鼠のように」「動いた」。ずーっと動くのではなく「ときどき」動いた。
 「ときどき」は「副詞」だが、「動詞」として読み直すとどうなるだろうか。「動いた(動き)」は途切れるのか。それとも途切れるということを拒んで動き始めるのか。ことばにできない「交渉」がある。おそらく、このことばにならない「交渉」が「海鼠」という比喩を生み出している力だろう。「動く」ことによって、それが「海鼠」であると「わかる」。

ぼくはなぜその沼を見に行つたのであろう
霧雨が白くもやつているなかにうずくまつていた沼は
一夜
忽然と消えてしまつた

 「なぜその沼を見に行つたのであろう」は「なぜその沼は大きな海鼠のようにときどき動いたか」という問いを言いなおしたものだ。沼は、霧雨が白くもやつているなかに「海鼠のように」うずくまつていた。「動く」と「うずくまる」は違うことばだが、嵯峨にとっては「同じ動詞」である。「うずくまる」が「動く」こと。うずくまりながら「ときどき」動く。「ときどき」だから「動く」は「うずくまる」と言いなおされることもある。
 「うずくまる」という「動き」しかできないときもある。
 「動いた」ではなく「うずくまる」という「動詞」を「投身自殺」のなかに見たのだ。「自殺」は自ら動いて死へ向かうことだが、それは生へ向かっての動きをやめること、「うずくまる」ことであある。
 「うずくまる」という動詞を見つけたとき、嵯峨には、投身自殺した女性のすべてが「わかった」のだろう。了解した。だから、「沼」は消えた。
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16 短夜(嵯峨信之を読む)

2018-06-16 11:00:54 | 嵯峨信之/動詞
16 短夜

動物のように恥じることなく死にたい
という言葉が
ぼくを捉えて放さない

 この三行は、「ぼく」には「恥じる」ことがある、という意味を含んでいる。それは「恥」にとらわれているということでもある。「死にたい」は、また「生きたい」でもあるだろう。生をまっとうしたい。
 こういう思いは、だれの胸にも去来するかもしれない。

大きな石に抱かれているその言葉は
いつまでも孵化しない

 「動物のように恥じることなく死ぬ」ということは、むずかしい。そのむずかしさは、「大きな石」のなかにある「いのち」を誕生させるようにむずかしい。
 「孵化しない」を「いのちとして誕生しない」と読み替える。あるいは「孵化する」を「生きる」と読み直すとき、一連目の「死にたい」が「生をまっとうしたい」であることが、より強く迫ってくる。
 「孵化する」のは「ことば」ではなく、そのことばを生きる「ぼく」である。













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15 昨今(嵯峨信之を読む)

2018-06-15 11:00:07 | 嵯峨信之/動詞
15 昨今

死がふいにぼくを捕らえそうになる
鼻さきをなでるようなゼラニウムの強い匂い

 「捕らえる」は「包み込む」。「匂い」は「ぼく」を「包み込む」と読み替えることができる。
 だが「匂い」は「包み込む」だけではない。「鼻」から「肉体」に入り込む。
 「死」もまた「外部」から「包み込む」ものというよりも、「肉体」の内部に入り込むことだろう。
 入り込んだものによって、「捕らえられる」。支配される。
 「匂い」には「形」がない。それは「捕らえる」ことができるか。「肉体」の内部にとりこむことが、「捕らえる」ことになるか。
 「捕らえる」と「捕らえられる」は、「死」と「匂い」の場合は、明確に区別できない。
 だから、

ぼくはそこから急いでたち去る

 「たち去る」は「逃げる」「遠ざかる」。でも、それは「逃げきれる」ものでもない。立ち去ったつもりでも「先回り」されているかもしれない。




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