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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

最果タヒ『不死身のつもりの流れ星』

2023-02-12 12:22:08 | 詩集

 

 

最果タヒ『不死身のつもりの流れ星』(PARCO出版、2023年02月01日発行)

 最果タヒ『不死身のつもりの流れ星』を半分くらいまで読み進んだ。「ぼく」「きみ」あるいは「あなた」、「愛」(恋)ということばが何度も出てくるように思う。「愛」のかわりに、「悲しい」「寂しい」「美しい」かもしれない。数えたわけではない。
 ふと思ったのだが、たとえば「愛」はどこにあるのか。「ぼく」のなかにあるのか(「ぼく」から生まれてくるのか)、「きみ」のなかにあるのか(「きみ」から生まれてくるのか。
 きっとちがうだろう。
 それは「ぼく」と「きみ」のあいだにあって、それがあいだにあるときだけ、「ぼく」が「ぼく」であり「きみ」がきみ」である、というものなのだろう。言い直すと、いま書いたようなものは、すべて、ほんとうは存在しない。
 「あいだ」すら、存在しない。
 でも、それが、ときどき「生まれてくる」。それは偶然なのか、必然なのか、わからないが、そういう瞬間があるのだ。
 そして、その瞬間に、こういうことが起きる。

ぼくはあなたのせいでぼくは誰とも混ざり合うことのない固有の存在なのだと思い知り、
                                (一等星の詩)

 「ぼく」は「あなた」がいるから、ここにいる。「ぼく」は「あなた」によって産み出された存在であると言える。
 で、このときの。
 「混ざり合うことのない」ということばが、私にはとてもおもしろく思える。「混ざり合うことのない」ものは、「混ざり合ったものがない」ものであり、それは別なことばで言えば「透明」。しかし、透明なものは「見えない」。つまり存在しないように感じられる。その「見えない、透明」なものが「固有の存在」、そこにあるものとして見える。「見えない」のに、ある。
 「混ざり合うことのない」ものは、どうなるのだろうか。「愛」とは「混ざり合う」ものだろう。
 ここには、どうすることもできない「矛盾」がある。
 そして、もうひとつの大切なことばが、この行のなかにある。「思い知る」という動詞。すべてはことばのなかで動く。「現実世界(物理的世界)」には「矛盾」はない。「矛盾」は、ことばのなかだけに存在する。もし世界に矛盾があるのなら、世界は存在しない。動いていかない。世界が動いている限り、世界に矛盾はない。ことばが世界に追いついていかないとき、「ことば」のなかに「矛盾」があらわれるだけである。

きみのさみしさはいつも、だれかから借りてきたものだったね、だからさみしくても、美しいものを見ると、美しいとおもえた、            (periodo)

 「きみ」は、「きみ」の感情(さみしさ、美しいと思う気持ち)は、固有のものではない。だから、次々にかわっていく。これを先の詩の「ぼく」にあてはめることができるのではないか。
 「ぼく」は「あなた」の借り物。「混ざり合うことのない」つまり、混ざりけのない」透明な「ぼく」は、「あなた」の「愛(と、仮に書いておく)」によって、「ぼく」という色(と、仮に書いておく)になるが、それは「借り物」だから、「愛」ではなくて「憎しみ」を見さみしさ」「うつくしさ」がると、もう「愛」ではいられなくなる。別れてしまう。
 そのとき「ぼく」と「あなた」のあいだ(間)は広がるのではなく、なくなってしまう。
 「矛盾」でしか語ることのできないもの、「混ざり合うことのない」ものが、そのとき、ことばのなかを通過していく。そして、それは「輝き」であり、目に見えない「光」だ。

ぼくとあなたが
消えてしまった街では、
雪の代わりに夏が降る。

溶けていくのはいつも世界の方で、
いつか夏だけが降り積もって、あ、まぶしい、             (雪の夏)

 この「あ、まぶしい」が、そのとき、感じられる。まぶしさのなかで、何も見えなくなる。何もかもが消える。そして、消える瞬間に、存在した「ぼく」が「きみ」が、そして「愛」や「さみしさ」や「美しさ」が見える。そういう「矛盾」。
 それは、どう名付けてもいいものであるからこそ、「ぼく」「きみ」、「愛」「さみしさ」「美しさ」ということばにならなければならない。「矛盾」は、ことばを必要としている。「矛盾」は「ことば」よって、発見されたがっている。

 


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Estoy Loco por España(番外篇292)Obra, Sanchez Garcia Jose Luis

2023-02-05 10:37:54 | 詩集

Obra, Sanchez Garcia Jose Luis
Pueblo de la Sierra de Madrid.  55 x 46 cms

Bodegón con paloma. 46 x 38 cms

Rincón de La Ría - Bilbao.  41 x 33 cms

 ¿Qué pinta Sanchez? Pueblo en la sierra de Madrid. Palomas y flores (jarrón) y otras sobre una mesa. Pero no siento que exista realmente allí. Estuvo allí una vez. Pero ahora no existe allí. Sólo quedan los colores. 
 El panorama del estuario es más sorprendente. Tengo la impresión de que los diques y los barcos seguirán siendo sombras en el agua, incluso después de que los diques y los barcos hayan desaparecido. La presencia puede desaparecer, pero el color permanece. La presencia llega hacia los colores que están ahí. 

  Sanchez は何を描いているのだろうか。マドリッド郊外の山の中の村。テーブルの上の鳩と花(花瓶)その他。だが、私には、それはほんとうにそこに存在するようには感じられない。かつて、そこにあった。しかし、いまはそこにない。ただ色だけが残っている。 河口の絵はもっと印象的だ。右手前の堤防やボートは、堤防やボートが消えても影だけは残り続けるのではないかという印象がある。そこにある色に向かって存在ややってくる。存在は立ち去っても色が残る。そう感じてしまう。

 

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清水哲男「ミッキー・マウス」

2023-02-04 17:03:09 | 詩集

清水哲男「ミッキー・マウス」(『現代詩文庫・清水哲男詩』、思潮社、1976年06月30日発行)

 清水哲男「ミッキー・マウス」というよりも、「チューニング・イン」について書きたくて、この作品を取り上げる。
 その当時は「チューニング・イン」ということばを知らなかったが、私が、この作品に反発したのは、清水哲男のチューニング・インと、私のチューニング・インの仕方があまりにも違っていて、そこに書かれていたことばに反発したのだった。
 二連目に、こういう展開がある。

「ああ、くさがぬっか にえがすっと」
(ああ、草の暖かい匂いがするぞ)
僕らは憤然として挨拶を交わし
鎌も握った

 清水の「標準語訳」が、私には納得ができなかったのである。「意味」はそれでつうじるが、「肉体」がそのことばを許さない。「肉体」はまず「くさがぬっか」(草があたたかい)と温度に反応する。皮膚感覚である。そのあとで「にえがすっど」(匂いがするぞ)と変化していく。最初から「暖かい匂い」がするのではない。
 「頭」で「意味」をとらえるかぎり、清水の「標準語訳」は、問題がない。しかし、私の「肉体経験」とは合致しない。私は、たぶん、このころから「ことばの肉体」「肉体のことば」のことを考えつづけていたのだと思う。私にとってことばは「意味」を理解するだけではなく「肉体」を理解するものであり、「意味」を理解するにしても「結論」ではなく「仮定」を理解するものなのである。整理した「結論」に、私は興味がない。
 鎌を握ったことのある私は、ここで、清水は「鎌を握ったことがないのではないか」と不信感を抱いたのである。「頭」で草を刈る作業、草を干す作業、それを取り入れる作業を理解しているだけなのではない、と思ったのである。
 「ミッキー・マウス」をはじめ、『スピーチ・バルーン』にはアメリカの漫画と日本の戦後の暮らしが重なるのだが、そこに書かれている戦後の暮らしが「実体験」ではない、と感じたのである。もしかすると、アメリカの漫画が実体験であり、日本の戦後の暮らしが虚構なのではないか。言い直すと、アメリカの漫画を語る部分には「肉体」が感じられるが、日本の戦後を語る部分には「肉体」が感じられないときがある。
 私は、この「頭で理解した暮らし」、あるいは「頭で理解した肉体」というものが、どうにも嫌いである。

 「チューニング・イン」ということばをつかっている中井久夫は、訳詩のとき大事なのは「文体の発見」であると言っている。(どこで言っているか忘れたが、たしか、そういうふうに言っているはずである。)「文体」に「チューニング・イン」するのである。
 外国語であるから、このチューニング・インは「肉体」と同時に「頭(意識)」の問題にもなるのだが……。
 中井が訳しているギリシャ語やその他のことばについては何も言えないが、私は、公民館で開かれているスペイン語講座で、とてもおもしろい体験をした。
 マッターホーン登頂に世界で初めて成功したウインパーを紹介する文章。

En la ilustración se pueden ver cuando los siete miembros llegaron al techo de Matterhon. 

  日本語にするのに、少し手間取る文章である。直訳すれば「そのイラスト(写真をイラストにしたもの)に、七人のメンバーがマッターホーンの頂上にたどり着いた時を見ることができる(見える)」になる。意訳すれば「これは、七人のメンバーがマッターホーンの頂上に到達したときの写真(イラスト)です」になる。
 ある受講生が「cuand 」のつかい方がおかしい。ver (見る)は目的語を必要とする。七人を見る(ver a los siete miembros)でないとおかしい、というのである。
 これは、ちょっとむずかしい説明になってしまうのだが、書いた人の意識が「七人のメンバー」ではなく「登頂した時」に集中している、「時」を言いたいから「cuand 」をつかっているのである。
 日本語でも、たとえば結婚式の写真を見せながら、「これは結婚した時の写真です」と言う時もあれば「これは結婚式の写真です」と言う時もある。どちらも写真の内容が変わるわけではない。写っているひとが変わるわけではない。なぜ「結婚した時の写真」というのか。それはそのことばを発したひとが「そのとき」を思い出しているからである。もちろん結婚式も思い出すが、何よりも「時」の方に意識がある。傍から見れば、違いはない。しかし、言っているひとの「意識」は違う。その結婚式に参加していないひとは「結婚した時の写真」と言われても、「結婚式の写真」としか思わない。つまり「時」は理解されにくい。だからこそ、傍から見れば「時」があるかどうかは関係ないし、なぜ「時」ということばが必要なのかもわからない。
 この「違い」は、なんというか、そういうことを意識しないひとには、どうでもいいことである。でも、文学とは、そういう「違い」を意識することなのである。

 清水哲男にもどれば「ああ、くさがぬっか にえがすっと」を「ああ、草の暖かい匂いがするぞ」と言い換えて理解するか、「ああ、草があたたかい、においがするぞ」と理解するかは「どうでもいい(同じこと)」と思うひとがいるかもしれない。しかし、「チューニング・イン」の立場からいうと、それはまったく違うのである。
 私は中井の訳した詩の原文を知らずに言うのだが、中井の「文体の発見」(チューニング・イン)の仕方のなかには、なにか、私の「肉体(ことばの肉体/肉体のことば)」をチューニング・インさせてしまうものがあるのだと思う。
 私が詩の感想を書く時、その世界が指し示している哲学(?)、その世界を支えている哲学(?)ではなく、その詩のなかで動いている「動詞」に注目するのは、「動詞」に触れることで、私の肉体をチューニング・インさせ、そのあと肉体が引き起こす感情にチューニング・インしようとしているからである。

 詩のなかには、そして評論のなかには、「私はこんな最先端の思想とチューニング・イン」して書いているということを自慢しているものもあるが、(私には、そう見える)、私は、そういう「頭で書かれたことば」が苦手である。中井久夫の訳がおもしろいのは、そのことばが「チューニング・イン」したあとの、新しい「文体」をもったことばだからである。

 


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坂多瑩子『物語はおしゃべりより早く、汽車に乗って』(2)

2023-02-03 20:31:11 | 詩集

 坂多瑩子『物語はおしゃべりより早く、汽車に乗って』の巻頭の詩「咲いては枯れる風の通り道にさらす」のなかほど。

水子を
箱に
うずくまるように人形もいれて
送った宛先
偽の診察券

 私は「水子」をもった経験はない。そもそも妊娠できないから、そういう経験がないのだが、それでもここには私を「肉体的」にひきつけることばがある。
 うずくまる。
 うずくまるのは「人形」である。人形は、生まれてこなかった子どもの象徴か。しかし、私には、なぜか堕胎した後(あるいは堕胎することを想像して)「うずくまる」女の姿そのものに見えてしまう。「うずくまる」という動詞が、私にはわかる。腹が痛いとき「うずくまる」。悲しくて何もできないときに「うずくまる」。「うずくまる」だれかを見たら、どこかが痛いのだ、苦しいのだとわかる。「肉体」だけではなく、そのときの「こころ」のもがきのようなものが、わかる。
 何が起きているか、そしてこれから何が起きるか「わかる」瞬間というものがある。その「瞬間」をことばにするのが詩、その「瞬間」をことばにしたのが詩だと、私は思っている。
 「水子」の例について語るのは、私にはむりがあるが、こう言い直せばいいだろう。
 こどもがつまずく。転びそうになる。そのとき、はっとする。この瞬間が、詩を感じるときに似ている。その子が倒れる。血を流す。想像した通りのことが起きるのに、やっぱり、はっとする。どきっとする。自分が「痛い」わけでもないのに。何か、自分の「枠」が消えてしまって、そこに存在する人間(ことば)そのものになって動いてしまう。その瞬間が、私は詩の体験に似ていると思う。
 「うずくまる」ということばに、私は、それを感じた。

 このあと、詩は、こう展開する。

あれから
三回生んで
五回流した
ずぶ濡れのまま
菜っ葉をゆでる
水にさらして ひと手間が
きれいな色を保つ
わたしもさらして
焼く
骨だけになって

 「五回産んだ」ではなく「五回生んだ」。女にとって、子どもを産むことは、もう一度、「生まれる」ことなのだろう。「生んだ」につまずきながら、私は、そういうことを考える。つまずく瞬間にも、詩がある。自分なら、そうしない。それが逆に、他人を無意識に自分に重ねることになるのだろう。つまずく、子ども。倒れる、子ども。見ていて「自分なら」と思う。自分のなかで、何かが動く。
 「ずぶ濡れのまま」は、堕胎した日、雨が降っていたのか。悲しみの雨が、こころだけではなく、肉体も濡らしていたのか。あるいは、肉体の傷の痛みが雨のように肉体だけではなく、こころにまでしみこんでいたのか。わからないが、「ずぶ濡れ」が、私の記憶を揺さぶる。もちろん、私の体験したずぶ濡れは、詩のなかの女が体験した「ずぶ濡れ」とは違う。
 菜っ葉、ほうれん草をゆでたあと、ぱっと水にさらす。たしかにその方が美しい緑色を保つ。(そう感じるだけかもしれないが。)これは、私のようなずぼらな人間でも、してみたことがある。で、そのときの「ひと手間」。この「ひと手間」をことばにするか、どうか。ことばにした瞬間、その「ひと手間」が詩になる。「きれい」ということばの「呼び水」になる。つまずく、子ども。次に何が起きるか、わかる。子どもが倒れる。それと同じように、ゆでたほうれん草を水にさらす。ひと手間。次に何が起きるかわかる。緑に茶色が入り込まない。きれいな色を保つ。わかっていることが、「ひと手間」によって、より確固としたものになる。
 その「ひと手間」を動詞で言い直したのが「さらす」。
 これが「わたしもさらして/焼く/骨だけ」る、とつづいていく。
 でも、どうやって「さらす」? 何で「さらす」? 「焼く」のは「さらす」ではない。ちゃんと別の動詞がつかわれている。「死ぬ」でもない。「死ぬ」は「さらす」ではなく、「隠す」かもしれない。
 「さらす」。「わたし」を「さらす」。
 ことばによって。
 坂多に堕胎の経験があるかどうか私は知らない。詩のなかの「わたし」は五回堕胎している。そういうことは、ことばにしなければ、だれも知らない。ことばにすることで「わたし」の「体験」を「さらす」のだ。そうすることで、「わたし」を清めていく。
 語りたくない体験を「さらす」とき、そのあと、何が起きる? 子どもがつまずいたとき、次に何が起きるか想像できるように、想像することができる。
 「ちゃんと気をつけていなかったからだよ」という批判がある。「痛くなかった?(たいへんだったね)」という労りがある。人間のしたことだから、それは、見方によって「感想」が違う。
 違いを体験することが、もしかすると「さらす」のもうひとつの意味かもしれない。ゆでられたほうれん草は、熱い湯と冷たい水という反対のものを体験する。「さらす」ことは、なにもかもを体験することである。つまり、あらゆる方向から自分を見られてしまうことでもある。

 詩のなかで、私は何度も立ち止まる。はっと思う。思った通りのことが起きる。「水子」の体験が語られる。そのあと、きっと出産が語られる。再び水子が語られる。そして、それが女の人生になる。
 問題は、その「語り方」。
 どんなことばで語るか。「ことばの選択」に、ゆるぎがない。そこに、私は感動する。つまり、私は女ではないから妊娠したことも子どもを産んだこともない。だが、女の肉体と、その肉体と一緒にある感情をあらわすことば、動詞の教えてくれる動きが、私の肉体を刺戟し、そこから私の感情が動く。その感情は、もちろん、坂多の感情とは違う。つまずき、転んだ子どもの痛みが私のものではないのと同じように。そういうものは、絶対に「同じ」にはならない。「他人」なのだから。しかし、「他人」なのに、「共有」してしまう何かがある。その「共有/共感」を自然な形で産み出す力が坂多のことばにある。
 この詩の場合、「うずくまる」「さらす」という動詞、そういう時間を「ひと手間」として受けとめることばが、それである。そこに詩がある。

 私は詩を読むとき(文学を読むとき)、それをある基準を借用し、その規制の基準に合致しているか(到達しているか)どうかを判断しない。つまり、他人の「基準(他人の思想)」を借りない。そこに書かれていることばから、「何か」が生まれようとしているかどうかだけを読む。
 ひとによって産み出すものが違う。だから、規制の基準(規制の批評用語)を個々の作品にあてはめる方法論には賛成できない。
 詩が、書かれるたびに生まれ変わるものなら、批評(感想)もまた、毎回生まれ変わらなければならない。首尾一貫しない、常に前に書いたことを叩き壊す、というのが私のやりたいことである。
 何のことかわからないかもしれないが、ちょっと気になったので書いておく。

 

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坂多瑩子『物語はおしゃべりより早く、汽車に乗って』

2023-02-02 09:59:40 | 詩集

 

坂多瑩子『物語はおしゃべりより早く、汽車に乗って』(書肆子午線、2023年01月28日)

 坂多瑩子『物語はおしゃべりより早く、汽車に乗って』の巻頭の詩「咲いては枯れる風の通り道にさらす」、その書き出し。

残されたままの廃線に
石を投げてただ投げ続けて
石ころの塊が大きくなると石と石の隙間を通り抜ける風が
タネを運び始め
ある日花が咲く
そして葉をしげらせ
石はそのカタチを忘れると
わたしに命令する
だんだんその強く語尾がますます強く
わたし
を貫くそれは聞いてはいけない抑揚を持っていて

 ここまで読んで、十回ほど読み返して、私は、それから先に読み進めなくなった。しばらくほっうておいたのだが、やはりそこから先を読み進めることができない。
 最初は小さい石を投げていたが、だんだん投げる石が大きくなったのか。それとも投げた石が、次第に大きくなったのか。私は、後者と読んだ。石が次第に大きくなるということは、物理的にはありえないかもしれないけれど、詩なのだから、大きくなってもかまわない。最初に投げた石に次の石がぶつかり、くっついて大きくなる。さらに大きくなっていく。そうのちに、石が坂多の意思とは関係なく自分で成長していく。それは、もちろん坂多にもっと「投げろ」というためでもある。
 石を「ことば(詩)」と読み替えれば、その世界がわかる。ことばが重なり詩になる。詩が重なり、詩集になる。たぶん、石は「ことば/詩」のことだろうと思い、そのために私はこの詩集の先が読めなくなったのだ。
 重い。
 坂多瑩子の全部がこの詩集にある。この詩に、その全部がある。それを予告している。いつ書いた詩か知らないが、坂多は、ここから「再出発」を宣言しているのだと思う。そういう明確な「宣言」を聞いた後では、ちょっと「詩でも読んでみるか」という軽い気持ちで向き合えない。
 そこに、私は、つまずいた。まだ、つまずいたままでいる。しっかり机に向かって読まないといけない。しかも、そんなふうに固苦しく読むのが「正しい」読み方かどうか、わからない。

 しかし、なぜ、急にそんなことを思ったのだろう。私は、坂多の詩が好きだ。「おばさん詩」と呼んでいて、「おばさんパレード」という「おばさん詩」を集めた評論を書きたいと思っている。その核となるひとりであり、「おばさん」とひとくくりに書くくらいだから、私にはどこか軽い気持ちがある。軽く書きたいという気持ちがある。それが、できない、ということに気づいたのである。
 それがいいことかどうか、よくわからない。軽く読んでいい詩があるし、軽く読まないといけない詩もあるかもしれない。
 でも、なぜなのかなあ。

石を投げてただ投げ続けて

 この「ただ投げ続けて」が、私のうろ覚えの印象では、まったく新しい坂多瑩子である。「ただ/続ける」。これは、おそろしいことである。何も考えていない。しかし、つづけると、何かがかわる。つづけると、同じままではいられない。
 それは、

だんだんその強く語尾がますます強く

 の行に書かれてるように「だんだん」「ますます」という変化である。「ただ/続ける」と「だんだん」が「ますます」になる。「つづけられた」何かが変化していくのだが、それは「だんだん」であり、しかも「ますます」なのだ。
 その「続ける」あいだ、(「つづいている」あいだ)、風だとか、タネだとか、花だとか、葉だとかの変化があるのだが、それが変化であるのは、変わらない「続ける」があるからだ。
 私は坂多の書いた「続ける」を「つづいている」という状態をあらわすことばに便宜上書き換えたが、坂多は「つづいている」かどうかを問題にしているない。「続ける」かどうかが問題なのだ。そして、坂多は「ただ/つづける」のである。
 そうすると「聞いてはいけない」「命令」が聞こえてくる。それは、もちろん、「聞いてしまったら、それをしなくてはいけない」ことになるから「聞いてはいけない」のだが、だからこそ「聞いてしまう」のである。そして、それは「聞きたかった」命令に違いないのである。あまりにも自分の願いにびったり合致するので「聞いてはいけない」という気持ちが生まれるのである。「聞いてはいけない」命令を聞いたとき、ひとは生まれ変わる。「聞いてはいけない」命令を聞いたものだけが、生まれ変わることができる。命令に従って生きる。自分が自分ではなくなる(だから、ふつうは聞いてはいけない)、自分ではなくなってしまってもかまわないと決意して生きることになる。これを「天命に従う」という。坂多は「詩を書き続けろ」という天命を聞き、それに従うことを、この詩で誓っているのだ。
 「聞いてはいけない」(してはいけない)が、しかし、坂多は「聞いてしまう」し、「してしまう」。「ただ/続ける」をしてしまう。

 「ただ」読み「続ける」というカタチで、私をその詩のなかに組み込んではいけない。「ただ」読み「続ける」のではなく、何かを、その「あいだ」にさしはさまないと、これからあとの坂多の詩は読めない。つまり、読んだことにはならない。坂多の「ただ」は「無意味に/だらだら」ではなく、「ひたすら」という意味なのだから。「天命」とは「ひたすら」を要求する。
 その「あいだ」にさしはさむ、私自身の「動詞」が見つからない。だから、読み進むことができないのだが、こんなことを書いてもしようがないのかもしれない。
 しかし、これを書かないことには、先に進めないなあ。

 きょうは、ここまで、書いておく。しかし、ここまで書けば、もう書けないという気もする。私は、天命を聞いたことがない。天命を生きる詩人に、凡人があれこれ言っても、何も言ったことにはならない。

 

 


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なんどう照子『白と黒』

2023-01-25 15:39:30 | 詩集

 

なんどう照子『白と黒』(土曜美術社出版販売、2022年06月05日発行)

 なんどう照子『白と黒』の「くじらの森」。

足下ばかり見ている
人生だった
疲れすぎて
夕方の空を
久しぶりに見上げると
そこには
風にちぎれる
雲と一緒に
空を泳ぐくじらが
遊んでいた
遠い山並みの向こうには
きっとあるのだろう
くじらが帰っていく森が

 なぜ「くじら」なのか。わからない。しかし、それがいい。なんどうには「くじら」である必要があったのだ。
 「空をゆくイワナ」には、鳥に狙われて食べられ、空をゆくイワナが描かれる。なぜ「イワナ」なのか。それは、やはりわからない。だから、そこには「真実」がある。

鳥とともに空になったわたしは
安堵のうちにさよならを言った

死者たちはいつもイワナだ
空を飛んでいったイワナだ

 この詩では「イワナ」とともに「鳥」と「空」も描かれている。「鳥とともに空になったわたし」ということばがあるが、「なる」という動詞がとても強い。「わたし(イワナ)」は鳥に食べられ、空を飛ぶ。そのとき、「わたし(イワナ)」は「鳥」でも「空」でもある。区別がつかない。それが「なる」ということ。
 中井久夫のことばでいえば「チューニング・イン」である。
 「あめ」では、「あめ」になるのか、「おかあさん」になるのか、迎えにきてもらえなかった「こども」になるのか。やはり、区別がない。全部になってしまう。それぞれが、自分でありながら自分ではなくなる。そのときあらわれる世界がある。たぶん、その「世界」になる。そのために、ことばがある。ことばは「存在」を越境していく。

 


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中井久夫訳・リッツオス「ペネロペの絶望」

2023-01-24 19:08:19 | 詩集

 

中井久夫訳・リッツオス「ペネロペの絶望」(『アリアドネからの糸』みすず書房、1997年08月08日発行)

 リッツオス「ペネロペの絶望」を読むと、カヴァフィスとリッツォスの違いがよくわかる。

彼の乞食の仮装が暖炉の弱い光で分からなかったわけではなかった。
そうではなかった。はっきり証拠が見えた。
膝頭の傷跡。筋肉質の身体。素早い目配り。
ぞっとして壁に倚りかかり言い訳を考えた。自分の考えを漏らさないために
答えを避ける暇がほしかった。あの男のために虚しく二十年を待ち、夢を見ていたのか?
あのいとわしい異邦人、血塗れの髭の白い男のためだったのか?
無言で椅子に倒れ、己の憧憬の骸を見る思いで床の求婚者たちの骸をとくと眺めてから
「おかえりなさいまし」と言った。
自分の声が遠くから聞こえ、ひとの声のようだった。
部屋の隅の機織り器が天井の上の籠のような影を作った。
今まで織っていた、緑の木の葉の間にきらめく輝く赤い鳥は、灰色と黒になって
これからの終わりのない忍耐という平べったい空を低く待った。

 ペネロペとオデュッセウス。この物語を知らないギリシャ人はいないだろう。だから、どこまで省略し、どこまで書くか。
 最初の四行は、カヴァフィスも書くだろう。しかし、そのとき「分からなかったわけではなかった」や「自分の考えを漏らさないために」は書かないだろう。カヴァフィスなら、ただ事実だけを書くだろう。「膝頭の傷跡。筋肉質の身体。素早い目配り。」にみられる素早い事実の列挙がカヴァフィスのことばの特徴である。
 リッツオスは「真理」をカヴァフィスよりも克明に描く。ただし、そのとき、「真理」をこころの外にあるもの、あるいは行動としてあらわれるものとして描く。中井久夫の表現を借りて言えば「映画のように」。
 カメラは、ペネロペが見たものと、ペネロペの行動を行き来しながら、ペネロペを描写する。オデュッセウスの乞食の変装、膝頭の傷跡、筋肉質の身体、素早い目配りをミドルショット、アップでとらえた後、ペネロペが壁に倚りかかる姿を、その全身をとらえる。それから、ペネロペのさまよう視線が見たものと、椅子に倒れ込むペネロペの動作を交互にとらえたあと「おかえりなさいまし」という唇をアップでとらえる。それは、もしかすると「声」ではなく、唇、舌の動きだけで表現されるかもしれない。口の動きを見れば、「おかえりなさいまし」という声が聞こえる。そんな感じだ。
 ここからは、もう、ペネロペの「肉眼」が見ているというよりも、「こころ」が見ている世界だ。そこでは「緑の木の葉の間にきらめく輝く赤い鳥は、灰色と黒に」に変わっている。この「緑の木の葉の間にきらめく輝く赤い鳥は、灰色と黒になって」ということばは、カヴァフィスは絶対に書かないだろう。
 そしてまた、この一行は、まるで中井がリッツォスになって書いたのではないかと感じさせる色彩の変化の表現である。中井のことばを借りていうなら、中井はここでは完全にリッツォスに「チューニング・イン」している。どこまでがリッツォスで、どこからが中井か、区別がつかない。中井の「ことばの肉体」がここにくっきりとあらわれている。
 カヴァフィスとリッツオスは似たところもあるが、完全に違うところもある。その完全に違うところを、完全に違う文体で訳し分けるところに中井のことばの不思議な強さがある。リッツオスなら、たしかに、この通りのリズムで語るだろうと想像させてくれる。私は、中井の訳をとおしてしかリッツォスを知らないのだが。(カヴァフィスの詩は、池沢夏樹の訳でも読んだ。)
 この詩を読みながら、どうしても知りたい思ったことが一つある。
 
答えを避ける暇がほしかった。

 中井がこう訳している「暇」。それは原語ではどう書かれているのだろうか。私は、この「暇」にカヴァフィスの声(カヴァフィスを訳すときの中井の声)を聞いた。もしかしたら、それはふつうには「時間」と訳すことばではないか、と想像したのである。「膝頭の傷跡。筋肉質の身体。素早い目配り。」という一行が、あまりにもカヴァフィスに接近してしまったために、その口調のまま「暇」ということば(声)が出てきたのかもしれないと思ったのである。
 ギリシャ語でこの詩を読んだことがある人がいるなら、ぜひ、教えていただきたい。

 


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朽葉充『聖域』

2023-01-24 10:28:55 | 詩集

 

朽葉充『聖域』(澪標、2023年01月10日発行)

 朽葉充にとって『聖域』とは、ジャズと本とアルコールである。煙草、コーヒーも含まれるかもしれないが、何と言うか、これはある年代の「定型」である、と私は感じてしまう。その「定型」から、どれだけ逸脱して、ジャズ、本、アルコールそのものになれるか。反動のようにして、労働と大衆酒場(?=居酒屋の前進?)も書かれているのだが、それはそれで「定型」になってしまう。
 それがもっとも簡潔な形で「結晶」しているのが、「漂流」。

JAZZは
野良犬のように淋しい男のための音楽
ビクター・レコードのロゴ・マークのように
飼い馴らされた従順な犬ではなく
ゴミ箱をあさる犬でもなく
一匹のやせこけた狼の末裔よ
お前 俺よ!
吠えることも忘れ 牙をむくこともなく
ただ夜の街を 今日も漂流する

 「お前 俺よ!」が、その「定型」の基本である。「お前」を「俺」と思い込む。区別がつかなくなる。JAZZを例に言えば、表現された「完成形」を自己と同一視する。マイルスにしてもコルトレーンにしても、彼らの「音」は個別の存在であり、個別の到達点である。それは、聞く人間にとっての「理想」かもしれないが、それに陶酔し、自己同一視しても、それは聞いている人間が自分の精神を何かに到達させたということとは違うのである。「同化」という錯覚があるだけだ。
 私は先に「逸脱」ということばを書いたが、「定型」と「逸脱」の違いは、「同化」か「拒絶」かの違いである。
 朽葉はつぎつぎと「文学」に「同化」していく。「定型」を利用して「同化」していく。だから、ある意味では「詩」に到達しているように見える。この「漂流」は、その典型であるだろう。
 清水哲男が生きていたら百点をつけるかもしれないなあ、と思ったりする。
 百点をとる作品を書くことはむずかしいかもしれない。しかし、百点をつけることは、とても簡単である。「定型」をものさしにし、それにあっている、と言えばいいだけだからである。「漂流」に百点をつけても、多くのひとは文句を言わないだろう。だからこそ、私は「批判」を書いておきたい。

 「ブルー・ブラッド」も、とてもすっきりした作品である。タイトルは忘れたが、ガルシア・マルケスに同工異曲の「換骨奪胎作品」がある。男と女は、逆であるが、何よりも違うのは、死んでいく人間が主人公ではなく、生きつづける人間が主人公である。
 「敗北=詩/抒情/青春」は、あまりにも「定型」過ぎる。もう「文学」ではない。イコールにならないもの、「同化」できないものが重要なのだ。朽葉は、社会に同化できないいのちを書いたのかもしれないが、その「社会に同化できない/敗北者」を描くことが「抒情文学の定型」そのものなのである。それは現代の「悲劇」にはなれない。

 

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永井亘『空間における殺人の再現』

2023-01-23 22:12:51 | 詩集

永井亘『空間における殺人の再現』(現代短歌社、2022年12月25日発行)

 永井亘『空間における殺人の再現』は歌集。巻頭の歌。

ひそやかなざわめきが到着したらやさしい宇宙から降りてきた

 ちょっと困った。何が「宇宙から降りてきた」のかわからない。「ひそやかなざわめき」か、あるいは「ひそやか」か「ざわめきか」。それとも「やさしい」か。もしかしたら「到着する」という動詞かもしれない。
 しかも、というか、そして、というか……。このわからなさが、どうもおもしろい。中途半端な感じが、とても新鮮だ。

メリーゴーランドは破綻した馬を雇い不自然だがどこか微笑ましい

 (牧場が?)破綻して、遊園地に再雇用された馬? 理想の場所じゃない。だから不自然? でも、生きているから、それでいい? どう読んでもいいんだろうなあ、と思う。そう思いながら読むのだけれど、このときの私の「解釈」が一定しない。「解釈」が「結論」にならない。感想が形にならない。ことばに誘われて何かを思うのだけれど、その私の思いは中途半端なまま。
 だれか知らない人に会って(紹介されて)、名前も顔も覚えたのに、どうも何か変。つかみどころがない。好きになっていいのかな? 気をつけないといけないのかな? 中途半端なまま、時間が過ぎていくような感じだ。

落書きであふれた廊下を「どうだ?」って逃げ回るのはユーモアだ

 うーん。この「中途半端」は、ことばのひとつひとつが「独立」しているからだ。論文のようにというと変だが、なにか、「結論」に向かって動いていかない。「感情/抒情」というものがあるとして、それをはっきりとわかるようにはしていない。むしろ、「抒情」という「論理」を拒否して、ことばを「解放」している。「感情」が「抒情」にならないように、「論理」の糸を切っている。
 どこかにことばのすべてをつなげる「糸(論理)」があり、その「論理」によって「ことば(存在)」は比喩となって人を突き動かすのだが、ことばがそんな運動にしばられることを拒絶している。永井は、「抒情の論理」を拒否して、ことば(存在)そのものを、ただ存在させようとしている。
 この歌では「どうだ?」と、「どうだ?」という声を発する人の「過去(論理)」をまったくみせない。そのくせ、それを「ユーモアだ」と断定している。どんな落書きを思い浮かべるか、どんな廊下を思い浮かべるか、「どうだ?」と言っているのはだれなのか。そういう「物語」は、ここにはない。「どうだ?」と言って逃げ回るのを、永井が「ユーモアだ」と思ってみているのか、それとも永井が逃げ回る自画像を「ユーモアだ」と批評しているのか。
 「解釈」は、どうとでもできる。
 永井が私の書いた感想を、「それは違う」と否定したとしても、意味はない。その否定に対して、「でも、それは表面的な否定であり、永井は無意識にそれを認識している。だからこそ、否定で反応するしかないのだ」というようなことさえ、私にはできる。
 つまりね。
 「解釈」にしろ、「批評」にしろ、「感想」にしろ、どんなことばも、そこにある「作品」に対して「後出しジャンケン」のようになんでも言えるのだ。こういう奇妙な世界では、作品は、そんなものなど知らないというために「中途半端」であるしかないのだ。
 「意味/論理/抒情」が近づいてきたら、するりと身をかわす。ただ、ことばだけがそこにある、という感じで揺れる。永井の借りて言えば「つかまえられるかい? どうだ?」と言って「逃げ回る」ことば。それが「詩」なのだ。
 たぶん「新しい詩」。

まぶしさで浮き輪が消える快楽を青い青いと忘れるのかな

 いいなあ。全部のことばが夏の海に溶けていく。その海は、しかし、存在しない。存在しないから、海と言えるのだ。
 しかし、

綿菓子を頬張りながら連れ戻す死に舌先はまだ甘すぎる

 というのは、「意味」が強すぎて「現代詩」くずれ、という感じがするなあ。たまたま開いたページにあったのだが。

ぬくもりが不変であるということに内臓は瓦解するしかないね

 この歌も「意味」が強いかもしれないが、私は、好きだ。「瓦解する抒情(意味の論理)」が永井の歌の姿かもしれないなあと、ぼんやりと思うのである。
 前の方の歌が、後の方の歌よりも、私にはとてもおもしろいものに思える。
 読む歌が増えるに従って、巻頭の歌がいちばんよかったかなあ、と思い出すのである。

 

 

 

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三木清「人生論ノート」の「感傷について」

2023-01-16 16:15:23 | 詩集

18歳のイタリア人と読む三木清。「感傷について」。
これは、とてもむずかしかった。
「感傷」と「感情」はどう違うか。この定義が、まずむずかしい。三木清の文章を読む前に書いた作文では「感傷」を「感情」とほとんど同じ意味でつかっていた。「感傷」にぴったりあうイタリア語はないようだ。

遠回りになるが、まず季節の印象を聴いてみた。春はどんな気持ち?何をする? 明るくなる。いちばん好き。 夏は? 夏休み。楽しい。 秋は? 落ち葉が散る。静か。秋も好き。 冬は? 寒いから、閉じこもる。

感情には、どんなものがある? 愛とか、憎しみとか、悲しみとか。 
激しい感情、激しい憎しみ、激しい怒り、激しい悲しみ。情熱的な愛情。活発に動くのが感情。
感傷は、激しい感傷という言い方はしない。激しくない。静かな印象がある。だから、季節で言うと秋がいちばん感傷的な季節と、日本では言われる。

傷には、重傷と軽傷がある。区別ができるかな? 聞いたことがない。
軽傷は、たとえばナイフで指先を切ったとき。血は出るが、そのままにしておいても治る。重傷は、病院へ行って手当てを受けなければならないとき。
感傷は「感情」が「傷ついた」状態。傷だけれど、軽傷の傷。ほうっておいても治るもの。

三木清は、感情によって人間の行動は活発になるが、感傷の場合は静止するということろからことばを動かし始めている。そして、思索とは(思想とは)活動的でなくてはならないという点へとことばを動かしていく。 

 


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Estoy Loco por España(番外篇269)Obra, Joaquín Llorens

2023-01-01 11:34:29 | 詩集

Obra, Joaquín Llorens

 Las esculturas de Joaquín están siempre en movimiento. Según el ángulo de visión, la obra cambia de forma.

  Si el objeto es un cilindro, es un círculo visto desde arriba y un rectángulo visto de lado. Se trata de un teorema matemático y físico.
 No ocurre lo mismo con el arte.
 El arte no tiene forma fija. Se admite cualquier forma. Aprovechando este privilegio, toda obra de arte tiene derecho a cambiar de forma a medida que el espectador modifica el ángulo desde el que la mira. No es que tenga un aspecto diferente, sino que la propia forma está cambiando. La escultura se mueve.

 El arte es algo que rechaza las fórmulas y sigue cambiando hacia nuevas formas. Esto sucede incluso dentro de una misma obra, una sola escultura.

 Consta de cuatro triángulos esta obra de Joaquín. A veces adopta la forma de una madre que sostiene a un niño pequeño. Abraza cariñosamente al niño mirando a lo lejos. Otras veces, sin embargo, toma la forma de tres niños que intentan desobedecer a su madre e irse lejos de ella, y la madre que intenta retenerlos. El niño sustituye a la madre y uno se convierte en tres. Pero algunas cosas siguen igual. Es la fuerza que une las cuatro tablas.
 No, puedo decir que esto también cambia. ¿Las cuatro tablas aspiran a convertirse en una sola forma o aspiran a convertirse en una de cada? Cambian de un momento a otro.

 Joaquín の彫刻は、いつも動いている。見る角度にあわせて、作品が形を変える。

  円柱の立体ならば、上から見ると円、真横から見ると長方形。これは、数学や物理の定理である。
 芸術は、そうではない。
  芸術には、決まった形はない。どんな形でも許されている。この特権を生かし、あらゆる作品は、鑑賞者が見る角度を変えるのに合わせて、形を変える権利を持っている。見え方が違うのではなく、形そのものが変化しているのだ。彫刻は動いているのだ。

 芸術とは、定型を拒否し、新しい形へと変化し続けるものである。それは、一つの作品、一つの彫刻の中でも起きている。

 この作品は四枚の三角形で構成されている。あるときは幼い子どもを抱いた母の形をとる。遠くを見る子どもを温かく抱いている。しかしあるときは、母親に背いて遠くへ行こうとする三人の子どもと、それを引き止めようとする母親の姿になる。子どもが母親に代わり、一人が三人に変わる。しかし、変わらないものがある。四枚の板を一つにする力である。
 いや、これも変わると言うことができる。四枚の板は、それぞれの一枚になることをめざしているのか。それとも一つの形になることをめざしているのか。瞬間瞬間に変化する。

 これを可能にしているのはJoaquín の力である。彼には鉄のダイナミックな変化を統合する力がある。そして、それは彼自身が変化する可能性の力でもある。その力を確認するために、私は彼の作品を見る。

 

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇267)Obra, Joaquín Llorens

2022-12-31 12:04:15 | 詩集

Obra, Joaquín Llorens
T.Hierro (azul cobalto) 53x33x20 M.N

 Hay un movimiento curioso en esta obra.
 Las dos piezas de hierro se han movido antes de transformarse de esta forma. Y seguirán moviéndose. El momento como "proceso" es esta forma.
 Por utilizar una analogía, el movimiento es como cuando dos bailarines saltan y alcanzan su cúspide. En el vértice, el movimiento se detiene por un momento. Pero es una quietud que no se alcanzaría sin una fuerza intensa. Y luego una quietud para seguir moviéndose después. Es una tensión, pero al mismo tiempo hay una liberación infinita. Así es. Yo puedo escuchar sus voces: "Ahora he saltado hasta aquí. La próxima vez podré saltar más alto". La alegría de competir y soñar hace que el movimiento se sienta aún más vivo.
 Es una forma y un movimiento que sólo puede captar quien conoce la voluntad y el deseo de hierro.

 この作品には不思議な動きがある。
 この形になるまでに、二つの鉄片は動いてきた。そして、これからも動いていく。その「過程」としての瞬間が形になっている。
 たとえて言えば、二人のダンサーがジャンプして、その頂点に達したときのような動き。頂点で動きは一瞬静止する。しかし、激しい力がなければ到達しない静止。そして、その後も動いていくための静止。緊張であると同時に、無限の解放がある。そうなのだ。いま、ここまでジャンプできた。次はもっと高くジャンプできる。競い合って夢見ることができる喜びが、動きをいっそう生き生きと感じさせている。
 鉄の意思と欲望を知っているものだけがつかみ取ることのできた形と動きだ。

 

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三木清「人生論ノート」から「健康について」

2022-12-11 21:23:18 | 詩集

「健康について」は、とても難解である。
健康の対極にあるのは何か。不健康=病気。人間はだれでも病気が嫌い。病気の延長線上にある死も嫌い。
さらに健康には、肉体の健康のほかに精神の健康という問題もある。

三木清は肉体の健康(病気)についても語っているが、途中から重心が精神の健康へとうつっていく。これを、どう説明するか。私はずいぶん考え込んだ。

しかし。取り越し苦労だった。

イタリアの青年は、三木清を読む前に同じテーマの作文を書くのだが、その作文が、健康の問題を、中国の不老不死を求めた皇帝に結びつけ、人間は必ず死ぬ、大切なのは肉体の健康ではなく精神の健康であると論を展開し、ことば(哲学)は死なないと書く。求めるべきは肉体の「不死」ではなく精神の「不死」であると結論する。

三木清の文書を先に読んだとしても、彼のような作文を何人の高校生が書けるだろうか。

何か所か、文法の間違いや、日本人ならつかわない言い回しもあるのだが、論理の明確さと展開の仕方にびっくりしてしまった。
作文をアップできないのが残念。

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草野早苗『祝祭明け』

2022-11-27 17:30:03 | 詩集

 

草野早苗『祝祭明け』(思潮社、2022年09月30日行)

 草野早苗『祝祭明け』は、どの詩も「文体」が安定している。ことばの「出所」をしっかりとつかんでいるという印象がある。こういう書き方は、あまりにも抽象的かもしれない。どう言い直すことができるか。
 たとえば「石段」。

港へ直進する大通り
古い石造りの建物にある
薄日の射す石の階段
断りもせず下から八番目に座る

 なぜ「下から八番目」なのか。理由は書いていない。あとで書くのかもしれないが、一連目を読んだときはわからない。しかし、この「下から八番目」には、何かしら草野の「意識」があることがわかる。明確な意思があるから「断りもせず」に座るのである。
 この明確な意思は、書き出しの「直進する」という、かなり硬い響きのことばにも反映している。何かを見極めている人間の視線を感じるが、この「下から八番目」にこめられている意思とは、どんなものなのか。

港の岸壁から海に下りる石段
使われているのかいないのか
海水が行き場を失って諦めたように石段の足を洗い
私はその少し上の段に座る

 このとき、その石段の「下から八番目」に座ったのではないのかもしれない。もしかするのと「上から八番目」かもしれない。海の中に沈んでいる石段の数を確認して「八番目」を選んだとはいえないだろう。そうだとすれば、その位置を決めるのはなんなのか。
 「少し上の段」と草野は書く。
 この「少し」が草野の思想なのだ。距離の取り方。「少し」何かから離れる。しかし、完全に離れるのではない。距離を意識している。それは、たとえば「水」との距離ではない。「使われているのかいないのか」という行に注目すれば、草野は「人との距離」を意識しているのである。
 ある建物の階段。それが何段あるか知らないが「下から八番目」。途中である。侵入ではない。しかし、無視でもない。接近である。近づきながら、何かを確かめているのかもしれない。相手を確かめるというよりも、自分を確かめるのだろう。
 どういうことか。
 「告知」という詩が、巻頭にある。天使・ガブリエルがマリアに近づく。

告知方法その1
思い切って扉を開けて
蒼ざめた顔で座っている乙女に告げる
「あなたの体に神の子が宿っておられます」
懐に隠し持ってきた白百合を差し出し
聖母となる人に敬意を見せる
乙女は驚愕のうちに思わず花に手を伸ばすが
受け取る指がおぼつかない
どこかで鐘が鳴っている

告知方法その2
思い切って扉を開けて
蒼ざめた顔で座っている乙女に告げる
「あなたの体に神の子が宿っておられます」
両手を胸の上で交差する
それは乙女への深い思いやり
乙女は驚愕と不安を抱えつつ
謙虚に両手を胸の上で交差する
どこかで仔羊が鳴いている

 フラ・アンジェリコに託して書いた詩だが「敬意を見せる」「深い思いやり」ということばが、草野の「距離の取り方」なのである。この「敬意」と「思いやり」が草野のことばの「暴走」を抑制している。
 ガブリエルのしていることは、善でも悪でもなく、ひとつの「事実」(真実)である。真実であるけれど、やはりひとにそれを告げるとき、そこには「敬意/思いやり」のようなものが必要である。そのとき、そこに生まれる「距離」が、人間関係を支えているのである。草野には、そういう認識があると思う。
 この「告知」で繰り返される「どこかで」ということばは何気ないことばだが、やはり草野の思想をしっかりとあらわしている。「距離」(あるいは方向)が特定できない。けれど、「存在」は確実に「存在する」。それを信じることができる。だから「距離」も置くことができる。いま、それに直に触れていなければならないのではない。信じていれば触れることができる。けれど、触れるためには常に「ある距離」を保つようにして、それに近づいていなければならない。
 「湖」には、静かな一行がある。

いつか私を迎えに来てくれるといいのだけれど

 これは不安、願いというよりも、「いつか私を迎えに来てくれる」ものがいると確信していることば、ひとつの安らぎのことばである。それを待つために、草野は「距離」を守るのである。

 

 


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Sergio Estévez『 Mar en sombra 』

2022-11-25 21:19:42 | 詩集

Sergio Estévez『 Mar en sombra 』(Beginbook Ediciones、2022年09月行)

フェイスブックで知り合ったSergio Estévezが詩集を送ってくれた。『 Mar en sombra 』。そのなかから一篇。

Brisa Salada 

No sé llegaras pero te espero.
en la orilla de mi alma te anhelo
la espuma golpea mi roca, 
brisa salada me da esperanza,
que de alegría llena la boca

 誤訳を承知で、日本語にしてみた。

やわらかな潮風 

君が来ることを願って、私は待っている
魂の岸辺で、私は君に憧れる岩
岩に打ち寄せる波が白い泡になるとき
潮風が私に希望をもたらし
喜びが口をふさぐ

 君に憧れ、君を待っている。そのときの状況を、岸辺、岩、波(泡)、潮風(そよ風)、喜びということばで立体化させている。待っていた君がやってきて、キスをして、喜びにあふれる、ということかなあと思いながら、スペイン語にしたがってではなく、私の気持ちで日本語を動かしてみた。
 きっと、君が来ても来なくても、「待つ」という気持ちが作者を幸福にしている。だれかを待つということは、それ自体で「希望」であり「喜び」である。待つひとがいるということが、人間の喜びなのだ。「喜びが(で)口をふさぐ」のは、やわらかな舌だけではない。思いがことばになり、ことばが口をふさぐ。声に出していわないが、恋する気持ちが自然にことばになり、口を満たす。
 そのときのことばが口から自然にあふれた詩、として読みたい。

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