「新年の手紙」は(その一)と(その二)の2篇がある。「材木座光明寺の除夜の鐘をきいてから」という行を中心に同じようなことばが動いているところもある。似ているけれど、微妙に違う。
あるいは、これは微妙に似ているが、決定的に違うというべきなのか。(その一)は「海岸に出てみたまえ」と相手に行動を勧めている(その二)は「海岸に出てみるつもりです」と自分の行動を語っている。ある意味では、それは「逆向き」のベクトルということができるかもしれない。対立、矛盾がここにある、といえるかもしれない。
--しかし、やはり似ていると思う。立場がまったく逆なのに、同じに感じてしまう。なぜか。そこに書かれている行動が「海岸に出る」という動きのなかで重なるからだ。運動が重なると、それは「同じ」ものになるのだ。だれが、という「主語」が消える。
たぶん、「新年の手紙」なかでいちばん大切なのは、「運動」が重なるとき「主語」が消えるということなのだ。
この作品のなかで、田村はW・H・オーデンの詩の断片を送ってくれる「君」のことから書きはじめ、「こんどはぼくが出します」と書きはじめている。
「君」がオーデンの詩を引用して「新年の手紙」を書いてきた。こんどは田村が同じことを「君」に向けてやる。そうすると、オーデンの詩を引用するという行為のなかで、「君」と「ぼく」の区別かなくなる。「主語」が消える。その結果、どうなるか。オーデンが代わりに生成して来る。生まれて来る。それはオーデンそのものなのだが、なぜか、「君」と「ぼく」とのあいだに、あたらしくオーデンが生まれて来るという感じがする。引用ではなく、二人のあいだでオーデンが、まるで新しい詩を書いているかのように、そのことばが姿をあらわす。
田村は、そのオーデンの詩を引用しながら、オーデンがその詩を書いたときと、いま、田村がいきている時代の日本とのあいだで、やはりオーデンの国(オーデンの時代)と田村の国(田村の時代)の区別がなくなり、ただ、オーデンのことば、その精神だけが動いているのを感じるのだ。
対話というのは、こういうことかもしれない。
他人と出会う。他人のことばを繰り返す。そのとき、「他人」と「ぼく」の区別がなくなり、ことばだけが純粋に動く。その純粋なことばが「ぼく」を洗い流す。「いま」の「ぼく」を。「過去」の「ぼく」を。そこには、時代と場所を越えた、精神そのものがある。
田村の、この「新年の手紙」を読むと、私はいつでも震えてしまう。
オーデンの詩を引用し、そのなかにある「正しきものら」「メッセージ」ということば、「ある肯定の炎」ということばのの前で、田村のすべてのことばが消しさられ、消しさられたその「位置」から、新しく生まれようとうごめいているのを感じる。
何が生まれているか、わからない。そこには、ほんとうに「主語」がない。ことばを発する人間という「主語」だけではなく、そこから誕生する「精神」にもまだ名前はつけられていない。つまり「主語」になっていない何か……。
「対話」、「他人」との会話のなかでは、その話されているものも「主語」がない。それは、どこへでも動いていくということ、動く方向が決められていないということかもしれない。ただ、動くのだ。ただ、ベクトルに、矢印に、→になってしまうのだ。
田村は、詩を「では」というあいさつで切り上げている。
「では」どうしたというのだ--と問いかけてもむだである。私たちはいつでも動けるだけ動いたら「では」と動きを断ち切って、「いま」「ここ」ではないどこかへ行く(去っていく)しかないのである。
「動いた」という記憶だけを抱いて。
(その一)
材木座光明寺の除夜の鐘をきいてから
海岸に出てみたまえ すばらしい干潮!
沖にむかってどこまでも歩いていくのだ そして
ひたすら少数の者たちのために手紙を書くがいい
(その二)
大晦日の夜は材木座光明寺の除夜の鐘を聞いてから
暗い海岸に出てみるつもりです きっとすばらしい干潮!
どこまでも沖にむかってどこまでも歩いて行け!
もしかしたら
「ある肯定の炎」がぼくの瞳の光点に
見えるかもしれない
では
あるいは、これは微妙に似ているが、決定的に違うというべきなのか。(その一)は「海岸に出てみたまえ」と相手に行動を勧めている(その二)は「海岸に出てみるつもりです」と自分の行動を語っている。ある意味では、それは「逆向き」のベクトルということができるかもしれない。対立、矛盾がここにある、といえるかもしれない。
--しかし、やはり似ていると思う。立場がまったく逆なのに、同じに感じてしまう。なぜか。そこに書かれている行動が「海岸に出る」という動きのなかで重なるからだ。運動が重なると、それは「同じ」ものになるのだ。だれが、という「主語」が消える。
たぶん、「新年の手紙」なかでいちばん大切なのは、「運動」が重なるとき「主語」が消えるということなのだ。
この作品のなかで、田村はW・H・オーデンの詩の断片を送ってくれる「君」のことから書きはじめ、「こんどはぼくが出します」と書きはじめている。
元気ですか
毎年いつも君から「新年の手紙」をもらうので
こんどはぼくが出します
君の「新年の手紙」はW・H・オーデンの長詩の断片を
ガリ版刷にしたもので
いつも愉しい オーデンといえば
「一九三九年九月一日」という詩がぼくは大好きで
エピローグはこうですね--
「君」がオーデンの詩を引用して「新年の手紙」を書いてきた。こんどは田村が同じことを「君」に向けてやる。そうすると、オーデンの詩を引用するという行為のなかで、「君」と「ぼく」の区別かなくなる。「主語」が消える。その結果、どうなるか。オーデンが代わりに生成して来る。生まれて来る。それはオーデンそのものなのだが、なぜか、「君」と「ぼく」とのあいだに、あたらしくオーデンが生まれて来るという感じがする。引用ではなく、二人のあいだでオーデンが、まるで新しい詩を書いているかのように、そのことばが姿をあらわす。
田村は、そのオーデンの詩を引用しながら、オーデンがその詩を書いたときと、いま、田村がいきている時代の日本とのあいだで、やはりオーデンの国(オーデンの時代)と田村の国(田村の時代)の区別がなくなり、ただ、オーデンのことば、その精神だけが動いているのを感じるのだ。
対話というのは、こういうことかもしれない。
他人と出会う。他人のことばを繰り返す。そのとき、「他人」と「ぼく」の区別がなくなり、ことばだけが純粋に動く。その純粋なことばが「ぼく」を洗い流す。「いま」の「ぼく」を。「過去」の「ぼく」を。そこには、時代と場所を越えた、精神そのものがある。
田村の、この「新年の手紙」を読むと、私はいつでも震えてしまう。
オーデンの詩を引用し、そのなかにある「正しきものら」「メッセージ」ということば、「ある肯定の炎」ということばのの前で、田村のすべてのことばが消しさられ、消しさられたその「位置」から、新しく生まれようとうごめいているのを感じる。
何が生まれているか、わからない。そこには、ほんとうに「主語」がない。ことばを発する人間という「主語」だけではなく、そこから誕生する「精神」にもまだ名前はつけられていない。つまり「主語」になっていない何か……。
「対話」、「他人」との会話のなかでは、その話されているものも「主語」がない。それは、どこへでも動いていくということ、動く方向が決められていないということかもしれない。ただ、動くのだ。ただ、ベクトルに、矢印に、→になってしまうのだ。
田村は、詩を「では」というあいさつで切り上げている。
「では」どうしたというのだ--と問いかけてもむだである。私たちはいつでも動けるだけ動いたら「では」と動きを断ち切って、「いま」「ここ」ではないどこかへ行く(去っていく)しかないのである。
「動いた」という記憶だけを抱いて。
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