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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『田村隆一全詩集』を読む(27)

2009-03-17 00:56:17 | 田村隆一
 「新年の手紙」は(その一)と(その二)の2篇がある。「材木座光明寺の除夜の鐘をきいてから」という行を中心に同じようなことばが動いているところもある。似ているけれど、微妙に違う。

 (その一)

材木座光明寺の除夜の鐘をきいてから
海岸に出てみたまえ すばらしい干潮!
沖にむかってどこまでも歩いていくのだ そして
ひたすら少数の者たちのために手紙を書くがいい

(その二)

大晦日の夜は材木座光明寺の除夜の鐘を聞いてから
暗い海岸に出てみるつもりです きっとすばらしい干潮!
どこまでも沖にむかってどこまでも歩いて行け!
もしかしたら
「ある肯定の炎」がぼくの瞳の光点に
見えるかもしれない
では

 あるいは、これは微妙に似ているが、決定的に違うというべきなのか。(その一)は「海岸に出てみたまえ」と相手に行動を勧めている(その二)は「海岸に出てみるつもりです」と自分の行動を語っている。ある意味では、それは「逆向き」のベクトルということができるかもしれない。対立、矛盾がここにある、といえるかもしれない。
 --しかし、やはり似ていると思う。立場がまったく逆なのに、同じに感じてしまう。なぜか。そこに書かれている行動が「海岸に出る」という動きのなかで重なるからだ。運動が重なると、それは「同じ」ものになるのだ。だれが、という「主語」が消える。
 たぶん、「新年の手紙」なかでいちばん大切なのは、「運動」が重なるとき「主語」が消えるということなのだ。

 この作品のなかで、田村はW・H・オーデンの詩の断片を送ってくれる「君」のことから書きはじめ、「こんどはぼくが出します」と書きはじめている。

元気ですか
毎年いつも君から「新年の手紙」をもらうので
こんどはぼくが出します
君の「新年の手紙」はW・H・オーデンの長詩の断片を
ガリ版刷にしたもので
いつも愉しい オーデンといえば
「一九三九年九月一日」という詩がぼくは大好きで
エピローグはこうですね--

 「君」がオーデンの詩を引用して「新年の手紙」を書いてきた。こんどは田村が同じことを「君」に向けてやる。そうすると、オーデンの詩を引用するという行為のなかで、「君」と「ぼく」の区別かなくなる。「主語」が消える。その結果、どうなるか。オーデンが代わりに生成して来る。生まれて来る。それはオーデンそのものなのだが、なぜか、「君」と「ぼく」とのあいだに、あたらしくオーデンが生まれて来るという感じがする。引用ではなく、二人のあいだでオーデンが、まるで新しい詩を書いているかのように、そのことばが姿をあらわす。
 田村は、そのオーデンの詩を引用しながら、オーデンがその詩を書いたときと、いま、田村がいきている時代の日本とのあいだで、やはりオーデンの国(オーデンの時代)と田村の国(田村の時代)の区別がなくなり、ただ、オーデンのことば、その精神だけが動いているのを感じるのだ。

 対話というのは、こういうことかもしれない。

 他人と出会う。他人のことばを繰り返す。そのとき、「他人」と「ぼく」の区別がなくなり、ことばだけが純粋に動く。その純粋なことばが「ぼく」を洗い流す。「いま」の「ぼく」を。「過去」の「ぼく」を。そこには、時代と場所を越えた、精神そのものがある。

 田村の、この「新年の手紙」を読むと、私はいつでも震えてしまう。
 オーデンの詩を引用し、そのなかにある「正しきものら」「メッセージ」ということば、「ある肯定の炎」ということばのの前で、田村のすべてのことばが消しさられ、消しさられたその「位置」から、新しく生まれようとうごめいているのを感じる。
 
 何が生まれているか、わからない。そこには、ほんとうに「主語」がない。ことばを発する人間という「主語」だけではなく、そこから誕生する「精神」にもまだ名前はつけられていない。つまり「主語」になっていない何か……。
 「対話」、「他人」との会話のなかでは、その話されているものも「主語」がない。それは、どこへでも動いていくということ、動く方向が決められていないということかもしれない。ただ、動くのだ。ただ、ベクトルに、矢印に、→になってしまうのだ。

 田村は、詩を「では」というあいさつで切り上げている。
 「では」どうしたというのだ--と問いかけてもむだである。私たちはいつでも動けるだけ動いたら「では」と動きを断ち切って、「いま」「ここ」ではないどこかへ行く(去っていく)しかないのである。
 「動いた」という記憶だけを抱いて。



田村隆一全詩集
田村 隆一
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(26)

2009-03-16 01:57:40 | 田村隆一
 「他人」の導入--というと変な言い方になるが、「他人」と出会うとは、過去-現在-未来とつながっている「私」の時間を洗い直すことなのだと思う。「他人」もまた過去-現在-未来という時間を生きている。「いま」という時間に2人が出会ったとき、そしてそこになんらかの会話をしたとき、ふいに「他人」の「過去」が「いま」に呼び出されて来る。それは田村の「いま」とはつながらない。「他人」の「過去」と田村の「いま」を結びつけ、「いま」をという時間を動かすためには、田村の「過去」そのものを「いま」へ呼び出さなければならない。生き直さなければならない。この生き直しが、時間を洗い直すことなのだ。
 他人が登場すると、田村のことばはとてもいきいきする。それは、そこでは、そういう生き直し、時間の洗い直しが行われているからだ。「詩は『完成』の放棄だ」(「水」)などという美しいけれど抽象的なことばは消え、具体的なものだけが書かれる。そのなかで「肉体」が動いていく。

 「手紙」という作品。

Y君から手紙がきた。
ケネディの切手が貼ってある。
アメリカ中西部の大学町。
初雪があったという。
中華料理店『バンブー・イン』は店を閉じた。
テネシー・ウィリアムズが学生のとき、
ビールばかり飲んでいた酒場もなくなって、
『ドナリー』だけは一九三四年以来健在だそうだ。
田村さんが住んでいたアパートのあたりまで散歩しました、とある。

ぼくが住んでいたアパート。
それはもうぼくの瞼のなかにしかない。
いくら雪のふる夜道を歩いていっても、
Y君にはたどりつけるはずがないのだ。

 前半は、Y君からの手紙を要約引用している。それだけである。しかし、そこには「出会い」がある。Y君が町の描写をするとき、その描写はY君にとって「いま」なのだが、田村にとっては「過去」である。この詩では、「田村の過去」が他人のことばによって「いま」にひっぱりだされる。それは田村の「過去」を洗い直す。「バンブー・イン」や「ドナリー」という固有名詞が「過去」と「いま」をつなぐ。そのとき、見えて来るのは「過去」そのものではなく、「いま」と「過去」とのあいだにある「時間」だ。他人に会うとは、出会うことではじめて見えて来る「時間」に会うことなのだ。
 この作品では、その「時間」はすこし感傷的に描かれている。「たどりつけない」ものとして書かれている。そんなふうに閉じられてはいるのだけれど、田村だけのなかで完結していた「時間」、抽象的なことばで書かれた濃密な「時間」に比較すると、ここでは、「時間」そのものが他者に対して開かれている。
 この作風の変化は、重要なことだと思う。

 「絵はがき」は、田村が誰かに「絵はがき」をみせながらアメリカ(ニューヨーク)について説明している形でことばが動いていく。その誰かはここでは明らかにされていないが、他者がくっきりと存在し、その他者にむかってことばが動くので、ことばがとてもわかりやすい。

こいつはタイムズ・スクエアです
老人がぼんやり坐っている
そう 人間があまりいませんね
図書館もガラ空きだったし エロ本屋にも客はいない

 図書館とエロ本屋の対比が人間をくっきり浮かび上がらせる。図書館にとってエロ本屋は「他人」のようなものである。そこに流れている時間はまったく別の時間である。そして、人間はその両方の時間を知っていて、それを結ぶ「あいだ」の「時間」を生きている。図書館だけの時間、エロ本屋だけの時間だけではなく、そのあいだを往復する時間を生きている。図書館の時間をエロ本屋の時間で洗い、エロ本屋の時間を図書館の時間で洗い直すように。
 そういう「時間の洗い直し」を田村は『新年の手紙』でやりはじめたのだと思う。
 それはもしかすると、『緑の思想』のころからはじまっているかもしれない。『緑の思想』のときは、その「他人」は人間ではなく、「自然」あるいは、「日本的な感性」だったかもしれない。伝統的な自然観--それも「他人の時間」として、田村自身が自分のなかに取り込んだものかもしれない。自分自身のことばを洗い直そうとして、そういう作品を書いたのかもしれない。





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『田村隆一全詩集』を読む(25)

2009-03-15 00:05:41 | 田村隆一
 『新年の手紙』(1973年)で田村は「他人」に出会っている。それまでも人間にであっていたかもしれないが、「他人」には出会っていなかった。
 「水銀が沈んだ日」は寒い日にニューヨークに住む詩人を訪ねたときの作品である。

ここにあるのは濃いコーヒーとドライ・マルチニ それにラッキー・ストライク
ぼくには詩人の英語が聞きとれなかったから

部屋の壁をながめていたのだ E・M・フォースターの肖像画と
オーストリアの山荘の水彩画 この詩人の眼に見える秘密なら
これだけで充分だ ヴィクトリア朝文化の遺児を自認する「個人」とオーストリアの森と
ニューヨークの裏街と

 「日本には一九三八年に行った それも羽田に一時間だけね
 まっすぐに戦争の中国へ行ったのだ
 イシャウッドといっしょにね」

寒暖計の水銀が沈んだ日
「戦いの時」のなかにぼくはいた
詩人の大きな手がぼくに別れの握手をした

 田村は詩人と会って、彼が日本に行った、一時間だけだったと話したことを大切なことがらとして書いている。それだけが唯一のことばであったかのように、引用している。そこに、詩人のことばに、どんな「意味」がある? どんな「意味」もない。だから、重要なのだ。
 「他人」とは全体に「ぼく」とは一体にならない存在である。いわば「矛盾」である。矛盾は、田村にとっては、止揚→統合(発展)とつながっていくものではない。むしろ、ふたつの存在、ここでいえば「詩人」と「ぼく」とのあいだに存在するものを叩き壊し、そこに存在するものを、存在以前のものにしてしまうものである。そこに存在するものが、存在以前のものになる時、「詩人」も「ぼく」も、「詩人以前」「ぼく以前」になる。未生のものになる。
 田村は詩人については多くのことを知っていた。しかし、たぶん彼が日本にきたことがあるとは知らなかった。もちろん、日本に来たといっても羽田を通過しただけだから、それは来た、行った、ということにはならないだろうから、だれも知らない「事実」だっただろう。
 その知らなかったものが、ふいに噴出して来る瞬間、詩人と田村のあいだにあった「空気」がかわったと思う。実際、かわったからこそ、田村はそれを一番の記憶として書き残しているのである。
 でも、どんなふうに変わった?
 それは書いていない。書けないのだ。そのときは「変わった」ということしか、わからないからである。

 「人間の家」という作品に、次の行がある。

おれがほしいのは動詞だけだ
未来形と過去形ばかりでできている社会にはうんざりしたよ
おれが欲しいのは現在形だ

 「過去」「未来」は田村にとっては「名詞」なのだ。固定したものなのだ。田村がほしいのは運動そのもの、何度か書いてきた私のことばで説明すれば、ベクトル、→、なのだ。
 詩人が田村に話したことは過去のことである。しかし、それは「過去形」ではないのである。「名詞」として固定化されている「歴史」ではないからだ。詩人の肉体が突然、時間をひっぱりだしてきたのである。「過去」ではなく、「いま」としてひっぱりだしてきたのである。--言い換えると、「いま」、田村はその事実を知った。「過去」はその瞬間「いま」になったのである。それが「現在形」である。「過去」さえも「いま」にしてしまう運動が「現在形」である。
 弁証法が、対立→止揚→統合(発展)という運動をするのに対し、田村のことばの運動は、矛盾→破壊→融合(あるいは溶解)である。
 詩人のことばは、田村が知っていた詩人についてのことがらを破壊する。少なくとも、「過去」を破壊し、まったく別の出来事を「いま」に運んで来る。それを受け止める時、田村の抱えていた「時間」そのものが揺らぐ。「いま」と「過去」がかきまぜられてしまう。他人と出会うと「時間」は動かざるを得なくなるのだ。「他人」とは、いつでも「ぼく」の知らない時間を生きてきた人間だからである。なんらかの真実の話をすれば、そこにはかならず知らないことがまじっていて、それが「時間」をかきまぜるのである。

 こんなとき、頼りになるのはなにか。「肉体」である。「肉体」はいつも「いま」しかない。「過去」は「頭」がつくりあげる運動領域である。「未来」も「頭」がつくりあげる運動領域であり、「肉体」とそこに存在することはできない。「頭」は「いま」「ここ」にいながら、同時に「過去」「未来」にも存在し得るけれど(その領域で運動できるけれど)、「肉体」は「過去」「未来」と「いま」との時間を同時に運動領域とすることはできない。
 ふいに出現してきた「いま」をどうやって受け止めるか。「肉体」で受け止めるしかない。

詩人の大きな手がぼくにお別れの握手をした

 「肉体」で「いま」に生まれてきた「過去」があることを受け止めたという印として握手をするのである。
 ここでは「手」がその仕事をしているが、別の場所、別の機会には、別の「肉体」が、たとえば、眼が、耳が、そういう働きをするはずである。


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『田村隆一全詩集』を読む(24)

2009-03-14 00:08:27 | 田村隆一
 詩人がことばを書くのではない。ことばが詩人を、詩人の肉体を引きずって行く。「どこへ」。それはわからない。
 だが、そのことばに引きずられるままではいけない。田村は、ひとつの「枠」を設定している。禁忌を設定している。「「北」についてのノート」に記されている。それは確かに「ノート」と呼ぶべきものである。

世界を、さらにもう一度、凍結せしめねばならぬ。「北」の詩には、雪、氷、凍、寒、囚人、その他、「北」を連想せしめる如き言葉(修辞)は厳禁。

 田村は、ことばと「頭脳」の関係を熟知している。また、ことばの「罠」も熟知している。「頭脳」、あるいはことばは、すぐに結びつきたがる。連想というつながりへ動いて言ってしまう。「北」と「雪」、「北」と「氷」。これらは結びついたとき、「矛盾」という形をとらない。そういうものは詩ではない。
 詩は、矛盾でなければならない。
 「頭脳」(頭)は矛盾を嫌う。合理的ではないからだ。「頭脳」は人間の肉体のなかでもっともずぼら(?)な器官であって、ひたすら楽をしようとする。安易な径路をたどろうとする。数学も物理も、もっとも合理的な論理をもとめる。それを「答え」は判断する。合理的ではないもの、論理的ではないものを、誤謬とする。世界の運動をもっとも省力化しようとするのが数学・物理(科学)である。
 詩は、そうであってはならない。矛盾・誤謬でなければならない。合理的ではないと判断され、除外されたもののなかにある「いのち」を復活させるのが詩である。合理的なものを破壊し、矛盾にかえし、合理的という枠が殺していたもの(合理性によって葬られた死者)を甦らせるのが詩である。

 こういう詩のことを、田村は「自由」ということばでとらえている。

 「「北」についてのノート」には、まえがき(?)がついている。そこに「自由」ということばが出てくる。

絵画と音楽に国境はなし、というのは、真赤な嘘なり。ぼくが、北米の田舎町で経験した「自由」、および「自由」の回路となりうるもの、ただ一つ、それは言語なり。  北米、アイオワ州にて。一九六八年一月

 絵画、音楽(ことばを含まない演奏という意味だと思う)は国境を持たない。なぜなら、それは感性(肉体の感覚)へ直接訴えかけてくるからだ。眼と耳がそれを受け入れる。障害物はない。ところが、ことばは、いったん「頭」を通らないと感覚にまではならない。肉体へと働きかけない。感情を動かさない。--一般的には、そう考えられている。しかし、田村は、逆に考える。
 人間の感覚・感性は直接的に見えても、実際は、そうではない。感覚・感情にも「一定」の径路がある。人間の感情・感覚はひとりで形成されたものではなく、集団のなかで形成され、みがかれたものである。そのことを人は、ふつうは、意識しないけれど。
 たとえば冷たい水は絵画では寒色で表現される。暖色で表現される冷たい水はない。
 何を冷たいと感じ、何を温かいと感じるか--視覚の領域では、それはもうほとんど固定化されていて、そこには「自由」がない。ピンクで「冷たい水」を表現するのは、たぶん、許されていない。
 ことばも、もちろん、同じようにつみかさねられてきた感情・感覚・認識の径路をたどる。「北」と「雪」、「北」と「氷」は安直に結びつき、そこに径路があるということさえ、人は気がつかない。
 ところが、外国語がであうとき、その安直な結びつきは、安直ではおさまらない。外国語に熟達しても、あるいは熟達すればするほどというべきか、それぞれの国語が特有の径路をもっていることがわかる。ほんとうに共通のなにかを感じようとすれば、そこには微妙なずれがあることがわかるはずだ。
 このとき、ふつう、人は「外国語は不便だ」と感じる。ところが、その不便さのなかに、田村は可能性を見ているのだ。同じ径路をもたないということ--それは、別の径路の可能性をくっきりと浮かび上がらせる。自分がしらずに身につけてきた径路を破壊し、抑圧されているもの、合理的な径路が隠しているもの(わきに退けたもの)に直接触れることができる可能性がある。
 そういうことを田村は「自由」と言っている。

 その「自由」の定義は、「北」と「雪」、「北」と「氷」という結びつきは「厳禁」ということばから逆に証明することができる。「北」と「雪」、「北」と「氷」という結びつきは「自由」ではないのである。それは私たちが無意識のうちに獲得してきたことばの運動であり、感覚の連動なのである。
 2連目を読むと、そのことがさらにわかる。

氷河期--燃える言葉、エロティックなリズムで書くこと(小動物、森の動物が歩くリズムで)。深刻、悲愴、孤立、断絶、極北、極点、原点、の如き用語、フィーリング、使用すべからず。

 「フィーリング」。ことばのなかには、そのことばを話す国民が獲得した(確立した)フィーリングがある。(それはときとして、何か国語にも共通するものである。)そういうものは「自由」ではない。
 「自由」なことば--それは「氷河期」に対して「燃える言葉」。
 「氷河」と「燃える」は矛盾する。それは対立→止揚→発展、という運動ができない。氷河が燃えれば氷河ではなくなる。「頭脳」の「合理的な論理」に反する。
 けれど、その「頭脳」に反すること、合理的な径路に反することのなかに「自由」がある。詩がある。詩が、すくいださなければならない「いのち」がある。いや、すくいだすのではなく、田村の流儀にしたがっていえば、かえっていかなければならない「いのち」がある。

 だが、ことばが「自由」の回路であるとして、そのことばはどうやって手に入れることができるのか。
 「肉体」をとおしてである。
 詩の最後の方に書いている。

敗戦時におけるツキジデス像をこの眼で見ること。

 「この眼で」の「この」には原文では、傍点が打ってある。「この私の」つまり、肉眼でと田村は言いたいのだろう。「頭脳」ではなく、「肉眼」で手に入れるのだ。「頭脳」には蓄積されたことばの「回路」がある。その回路から遠い「肉体」で存在をつかみとること。田村は、そういうことを意志していると思う。
 「肉体」がつかみとったもので、「頭脳」をたたきこわす。破壊する。完成された回路を叩き壊すとき、そこに新しい原野が広がる。詩という原野が。



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田村 隆一
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『田村隆一全詩集』を読む(23)

2009-03-13 00:34:05 | 田村隆一
 「詩を書く人は」は、ある田村の自画像といえるだろう。あらゆる詩人の自画像であるといえるかもしれない。田村は詩人をピアニストにたとえて書いている。

詩を書く人は
ピアノを弾く人にすこし似ている
彼の頭脳がキイを選択するまえに
もう手が動いているのだ

手がかれを先導する
手は音につかまれて遁れられないのだ
それで手があんなにもがいているのさ

音が手をみちびき
手は音から遁れようとしながら
かれを引きずって行く どこへ

 「キイ」を、そして「音」を「ことば」と置き換えれば、それはそのまま「詩人」である。
 この作品でいちばん重要なのは、

彼の頭脳がキイを選択するまえに

 である。ことばは「頭脳」が選択するのではない。言い換えれば、「頭脳」で選択したことばは、詩ではない。「手が」とは、そして、「肉体が」ということでもある。「肉体」がかってに「詩人」を導いていく。「肉体」はことばに支配されて動いていく。このとき、「肉体」は「未分化」である。ピアニストの場合は「手」と簡単に分化されているけれど、(ほんとうはピアニストも手以外のにくたいそのものも引きずられているのかもしれないが)、「詩人」の場合、「未分化」の感覚--視覚、触覚、嗅覚、聴覚、味覚、五感が「未分化」のまま引っぱられていく。
 「未分化」の肉体は、ことばを追いかけながら、なんとか「分化」しようとする。そういうことを、「ことばから遁れようとしながら」と言い換えることができるだろう。実際、肉体はことばを追いかけることで「分化」する。手になり、眼になり、耳になる。そのとき、「未分化」から「分化」の過程では、たとえば「手で見」たり、「眼で聞い」たり、「耳で触っ」たりするのだ。手が眼になり(「眼の称讃」の最後の2行、「あなたの その動く手が 手そのものが/あなたの眼だ」参照)、眼が耳になり、耳が手になる。肉体の部分と感覚の部分が入り乱れ、融合する。
 こういう運動の行き先は、だれにもわからない。詩を書いている人にも、わからない。

かれを引きずって行く どこへ

 「どこへ」かは、だれにもわからない。わからないけれど、そのわからないものを、わからないまま追いかけることができるのが「詩人」ということになる。




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『田村隆一全詩集』を読む(22)

2009-03-12 00:09:03 | 田村隆一
 田村隆一の詩は、いつも矛盾に満ちている。私が「矛盾」と呼んでいるものを、田村は「逆説」と呼んでいるように思う。
 「眼の称讃 敬愛をこめて滝口修造氏に」という作品。

生きている線だけを見てきた
息たえんとするもの
死に行くものの線だけを見てきた
あなたの眼が
物に憑かれたとき
物はあなたの眼をのぞきこむ
かぎりなき優しさをこめて

生きている線は
いつかは死ぬだろう 死ななければ
あなたの眼に見られた物の
復活はない
物によってのぞきこまれたあなたの眼の
蘇生はない

ぼくはいま
かぎりなきdelicateな
逆説のなかにある
あなたの眼はあなた個人のものではない
光りが走り
線と色彩がほとばしる
あなたの その動く手が 手そのものが
あなたの眼だ

 1連目。「あなたの眼が/物に憑かれたとき/物はあなたの眼をのぞきこむ」。ここに書かれている相互性。眼がものを見るとき(憑かれるとは、逃れることができないような状態で引きつけられるように「見る」ということ、「見る」の強調形であるだろう)、物の方でも眼を見つめかえしてくる。相対するものが「見る」というベクトルのなかで一致する。それは方向が違うけれど、同じ運動である。方向が違うことを取り上げれば「矛盾」である。しかし、田村はこれを「矛盾」とは考えない。むしろ、強い結びつきと考える。それは「相互性」ということかもしれない。互いが行き来するのだ。往復するのだ。裕往復の一つ一つの運動はその方向性をとらえれば、眼から物へ、物から眼へと対立・矛盾するが、繰り返すとき、それは矛盾を超越する。それが「相互性」ということである。
 2連目は、その「相互性」を、もう一度言い直したものである。生と死と復活(蘇生)は一方的な運動ではない。何度も往復する。そこには「相互性」がある。その相互性には「から」が共通のものとして、存在する。「から」が呼び起こす「運動」のベクトル。
 ある水平の状態に「もの」と「眼」があると仮定する。それぞれの「視線」(ベクトル、矢印「→」)は相互に行き来する。そして、それは相互に行き来しながら衝突するのではなく、行き来することで水平という方向を逸脱し、たとえていえば、垂直に離脱する。それは上昇かもしれないし、下降かもしれない。どちらであってもいいが、いまある方向とは別の次元の方向へベクトル(→)そのものとして動いていく。そうして、その方向は、私は便宜上「垂直」と書いたが、ほんとうは、全方向、つまり「球」(円)の方向として可能なのだ。球(円)の方向にベクトルの可能性があるから、それを「別次元」への逸脱ということができるのである。そこにあるのは、ほんとうは「方向」ではなく、可能性なのだ。

 全方向とは、矛盾である。全方向なら、そこには方向はないことになるからだ。

 書けば書くほど、そこに書かれていることを、「流通言語」で言い直そうとすればするほど、何も言えなくなる。何も言ったことにならなくなる。--それが田村の「矛盾」、止揚ではなく、発展ではなく、融合と私が呼ぶものであり、それを田村は「逆説」と言う。
 それは常に「逆」のものを含まないかぎり、言い直すことができないのである。

 「別次元」のことを、3連目で、とても興味深いことばで田村は書いている。

あなたの その動く手が 手そのものが
あなたの眼だ

 「手」はもちろん「眼」ではない。しかし、田村は「手」が「眼」であると書く。「手」と「眼」が描くという運動のなかで「融合」しているのである。そして、それは止揚→発展ではなく、逆の方向の動きなのだと私は思う。「手」が「眼」の機能(?)を獲得して動くのではなく、「手」と「眼」の区別がない状態、「手」と「眼」が肉体として分離する以前の状態にもどって、「手」以前、「眼」以前のエネルギーとして動くのである。
 「手」と「眼」の融合は、発展ではなく、いわば先祖返り、未分化への後退であり、そういう未分化のものだかが、新しいものを産み出す、そこから生まれてくるものだけが新しい「いのち」なのである。古いもの(?)、未分化のものが新しい--という「逆説」が、ここにある。




詩人のノート (講談社文芸文庫)
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『田村隆一全詩集』を読む(21)

2009-03-11 00:39:26 | 田村隆一
 「おそらく偉大な詩は」という一篇はとても美しい。私には、田村は、この詩を書くことによって「ことば」そのものを取り戻そうとしているように見える。ことばによってしか存在を証明できないものを取り戻すというより、ことばそのものを求めて書かれているように感じられる。それが、私には、とても美しく感じられる。

一篇の詩は
かろうじて一行にささえられている
それは恐怖の均衡に似ている
人間は両手をひろげて
その均衡に耐えなければならない
一瞬のめまいが
きみの全生涯の軸になる

 ここでは「一」が求められている。「一篇」の「一」、「一行」の「一」、「一瞬」の「一」。それは存在しながら、存在していない。そのことを、田村は「均衡」と呼んでいる。「一」のなかには、存在と不在(非在)が同居している。あるものが「ひとつ」の形をとる。生成する。そのとき、そこには、その形になれなかったものが同時に存在する。そういう「運動」がどこかに隠れていて、その存在と不在(非在)の均衡を「恐怖」のように感じさせるのである。

 「一」のなかにある「運動」を、田村は2連目で書き換えている。言い換えている。

おそらく偉大な詩は
光りのそくどよりもはやいかもしれない
そのために人間は
未来から現在へ
現在から過去へ侵入するのだ
死者が土のなかから立ちあらわれ
かれを埋葬したひとびとの手のなかにかえってくる
彼はせを向けたまま後退する
かれを産み出した肉色の闇のなかへ
産み出した源泉へ
あいは破滅から完成にむかうのだ
すべてが終りからはじまる
永久革命も
消滅した国家も
そして一篇の詩も

 ここに書かれていることは、「一」から「無」への運動である。弁証法では対立→止揚→統合(発展)という運動をとり、その「統合」が「一」であるけれど、田村のことばの運動は、まったく逆なのである。「一」を解体(分解)して、逆流する。
 未来→現在→過去。死者→埋葬する人→フィルムの逆もどしのような逆歩行→誕生を用意した子宮へと動く人間。「源泉」へと逆に動いて「無」になる。

愛は破滅から完成にむかうのだ

 この1行は、とても複雑な1行だ。「破滅から」の「から」が、とても複雑だ。田村のことばの運動が「弁証法」的運動なら、破壊し、あらたな「統合」(完成)へ向かうと簡単に理解することができるが、それでは「逆流」と相いれない。
 「完成」は、田村にとって「統合」ではない。発展ではない。死者が子宮へもどったように、存在以前にもどることが、田村の究極の運動である。
 破壊「から」、さらなる「破壊」へ。「完成」はその「から」という「運動」そのもののなかにある。「から」という「運動」そのものが、いわば到達点なのである。
 「一」を破壊する。そのとき、なにがあらわれてくる? 「一」以前の、「一」になろうとする「運動」そのものがあらわれてくる。「一」になるための、激しい「運動」が見えてくる。それを「エネルギー」と呼ぶことができると思う。そこには「一」という存在と、「一以前」という存在の「均衡」がある。この均衡をどこまで分解していけるか。田村は、そういうことを考えながら「から」ということばをつかっている。
 
 「から」はベクトルである。矢印「→」である。運動である。それが運動するときの、「→」そのもののなかにある均衡。「完成」にたどりつくことではなく、そのまっすぐな「→」そのもののなかにある均衡。それが「偉大な詩」であり、「一行」なのだ。

おそらく偉大な詩は
十一月の光り
なにもかも透明にする光りのなかにある
それで人間は眼をとじるのだ
両手をひろげて立ちすくむのだ

 透明なものは見えない。けれども、透明なものほど見える。見えないものは透明ではないもの--究極の見えないものは「闇」だ。
 いま、私が書いた文には「矛盾」がある。レトリックがある。ごまかしがある。透明で見えないと、闇のために見えないでは、対象と状況が混同されている。
 田村が書いた5行にも、それに類似のことがある。「透明な光り」と「眼をとじる」。「透明」と「見えない」。「目を閉じる」と「見えない」。「闇」と「見えない」。そして、こそには一種の混同があるのはあるのだが、同時に混同を超える不思議な「均衡」がある。「見える」「見えない」を結ぶ運動のベクトル(矢印、→)がある。
 人間を、そういう矢印「→」にしてしまうものが、偉大な詩である。その矢印「→」は、どこまでゆくかわからない。つまり、どこまでさかのぼれるかわからない。どこが出発点なのか、ほんとうはわからない。それがわかるためには、その矢印「→」そのものをも破壊し、分解しなければならない。



田村隆一 (現代詩読本・特装版)

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『田村隆一全詩集』を読む(20)

2009-03-10 00:00:00 | 田村隆一
 「分解」と「眼」ということばは「緑の思想」のなかに何度か出て来るが、この詩の書き出しは、とても特徴的だ。

それは
血のリズムでもなければ
心の凍るような詩のリズムでもない

 1行目。「それは」。「それ」とはなにか。タイトルの「緑の思想」か。よくわからない。田村にもよくわからないのだと思う。「それ」としか、まだ言いようがない。そのまだはっきりとはしないものを、「リズム」ということばが象徴的だが、ことばのリズムにのって探しにゆく。頼りになるのは、ことばのリズムだけである。リズムがことばを自律させる。運動をうながす。
 そのリズムにのって、まず「分解」ということばがあらわれる。

だしぬけに窓がひらき
上半身を乗り出して人間がなにか叫ぶ
なにか叫ぶがその声はきこえない

あるいは
その声はきこえたかもしれないが
だれひとりふりむくものはいない

あるいは
だれかふりむいたかもしれないが
耳を常に病んでいる人間は少いものだ

この世界では
病むということは大きな特権だ
腐敗し分解し消滅するものの大きな特権だ

 「あるいは」というひとつの論理のリズム。それにのって、叫び、きこえない、聞く、耳、病気(病む)と移行して、「腐敗し分解し消滅するものの大きな特権だ」と飛躍する。
 聞こえない叫びを聞いてしまう耳--それは、「世界」を分解し、聞こえない叫びを取り出す耳のことである。そういう「特権」的な耳を健康な耳ではなく病気の耳ととらえる。この一種の逆説、レトリックのなかに、田村の「思想」がある。
 病気、腐敗、消滅--いわば、否定的に表現されることのおおい現象のなかに、田村は「分解」する力をみている。なにかを否定する力--それが世界を「分解」し、「世界」から、いままで存在しなかったものを取り出す。とこばとして。たとえば、「聞こえない叫び」として。「きこえない叫び」は、言語矛盾である。聞こえなかったら叫びとは言わない。ふつうの声より大きい声が叫びなのだから。
 だが、聞こえるものだけが実際の叫びではないことを私たちは知っている。聞き取られることを恐れて、殺してしまう叫びというものもある。「きこえない叫び」ということばは、その矛盾のなかに、ほんとうは矛盾しないものを隠している。それを本能的に、直感として聞き取ってしまう耳。--それは病気の耳。不都合な耳。それは、この世界をこのまま維持しようとするもの(人間・体制)にとって不都合という意味になるだろうけれど。
 そして、この、この世界を維持しようとするものにとって不都合なものこそ、田村は「思想」と考えている。あるいは、「詩」と考えている。
 田村はいつでも、世界をいまある形ではなく、それが出来上がる前の状態に戻したい、そのときのエネルギーそのものを目の前に取り出したいと願っているのだ。そのために「分解」するのだ。

 「分解」の次になにがくるか。分解すると、すぐ、世界はエネルギーになるのか。そうではない。エネルギーにいたるまでにはいくつもの過程がある。
 「分解」すると「部分」があらわれて来る。

全世界は炎と灰だ
燃えている部分と燃えつきた部分だ
部分と部分の関係だ

部分のなかに全体がない
いくら部分をあつめても全体にはならない
部分と部分は一つの部分にすぎない

 「分解」する。けれども、それは「部分」をもとめてのことではない。あくまで「全体」を求めて「分解」する。これは、矛盾である。矛盾であるからこそ、そこに田村の思想がある。田村は分解によって対立項を探しだし、それを止揚、発展へと結びつけようとはしていない。止揚、発展という形の「全体」を求めてはいない。むしろ、そういう動きそのものを「解体」しようとしている。
 「部分」と「部分」があつまった「全体」ではなく、むしろ、「部分」のなかに「全体」をさぐっている。「部分」のなかにも「部分」を超えたもの--つまり、「部分」と相いれない異質なものがある。そういうものを、ことばの運動で取り出そうとしている。

「時」が直線上にすすむものとはばかり思っていた
「時」の進行は部分によってちがうのだ
部分と部分によってちがうのだ

 「分解」によって、田村は「部分」の本質を知る。「部分」というものをつかむのではなく、「部分」の本質に迫るために「分解」する。それは「時」を超越するなにかである。その超越するなにかは、まだ、わからない。わからないから、書くのである。

部分的にはそう見えるだけだ
部分的にはそう感じるだけだ
部分的には部分を知るだけだ

眼をつむればそれがよくわかる
眼でものを見るということはものを殺戮することだ
ものを破壊することだ

 「眼」のなかには、「眼」の歴史がある。時間がある。つまり、時間をへることによって形成されたものの見方がある。一種の、無意識のレトリックが、そこには存在する。眼をつむってもなにかが見えるのは、そのレトリックの力である。レトリックが自律し、眼をへずにものを見てしまうのである。
 そういうレトリックを分解しなければならない。解体しなければならない。そうして、その奥にあるものを解放しなければならない。レトリックによって「殺戮」され、「破壊」されたものを再生しなければならない。

一度でいいから
人間以外の眼でものを見てみたい
ものを感じてみたい

「時」という盲目の彫刻家の手をかりずに
ものが見たい
空が見たい

 「人間以外の眼」。それは人間のレトリックに汚染されない眼である。そういうレトリックは「時」、つまり「歴史」のなかにある。そういうものに汚染されない眼を田村は求めている。
 そのために、「時」のレトリックと向き合い、闘い、それを根絶するために、なにが必要か。新しいレトリック、新しいことばの運動、つまり詩が必要なのだ。

 田村の詩は矛盾に満ちている。それは、いいかえれば、いままで存在しなかったレトリックで満ちているということでもある。新しいレトリックだけがことばを解放する。ことばを束縛する「時」を超越する。




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『田村隆一全詩集』を読む(19)

2009-03-09 00:11:16 | 田村隆一
 「悪い比喩」。このなかに出て来る「眼」ということばが強く印象に残る。最後の2行である。

瞬時に溶けよ
人類の眼

 眼とは何だろうか。田村にとって、眼とは何だろうか。田村は眼を「悪い比喩」をつくりだすもの、うみだすもの、と感じているのかもしれない。

蒼白い商業と菫色の重工業は
朔太郎の抒情詩で終ってしまったが

戦争から帰ってきた青年たちは
砂漠と氷河の詩を歌ったっけ

むろん かれらだって
砂漠で戦ったこともなければ

氷河を見てきたわけでもない
仲間が死んだのは南の海だ

砂漠も氷河も悪い比喩だ
比喩は死んで死比喩になったけれど

「死んだ男」はいまだに死なぬ
古いアルバムの鳶色の夢のなかで

夭折の権利を笑っているのさ
道造や中也そっくりの

瞬時に溶けよ
人類の眼

 「氷河を見てきたわけでもない」の「見てきた」が「眼」に呼応している。そして、その「見てきた」ものが「比喩」である。なにかしら、「眼」で「見る」こと、そして「見る」ことから始まる思考の動きを、田村は拒絶しようとしている。
 この詩には、その拒絶がくっきりとあらわれているわけではない。だからこそ、そこには、なにかあいまいなままの、思想になりきれていな思想がうごめいている感じがする。書けなかったことがらが、最後の2行に必死になって結晶しているという感じがする。

 「蒼白い」「菫色」「鳶色」。この詩には、そういう「色」が出て来る。「色」は眼でとらえるものである。それは「表面」ということかもしれない。そういうものに触れてしまう「眼」、そこからなにかを感じてしまう「眼」--そいう「眼」そのものを田村は拒絶しようとしているのかもしれない。

   *

 「眼」では見ないもの--「眼」以外で見るもの。「夢」。「飛ぶ」という作品。

きみが眼ざめるとき
どんな夢を見る?

 この作品は、いきなり矛盾から始まっている。目覚めるとは、ある意味では夢を見ないことである。夢は眠りのなかで見る。けれど、田村はここでは逆に問いかけている。
 「肉眼」で見る夢があるのだ。「肉眼」でしか見えない「夢」があるのだ。それが詩である。そして、そうであるなら、その「肉眼」が見るものは、「蒼白い」「菫色」「鳶色」というような色--なにかの表面にあると考えられているものであるはずだ。
 だが、それは何?

きみが眼ざめたとき
きみのなかではじめて眠りにつくものが
夢にみるだけ

 この逆説に満ちたことば。
 「きみのなかで」の「なかで」が重要なのかもしれない。「肉眼」でなにかをみるとき、逆になにかが何も見なくなる。何もみずに「眠りにつく」。
 具体的には書かず、ただそういう「運動」があるということだけを、田村は書いている。それをまだ、書くことができずにいる。
 --不完全な詩というと変だけれど、代表作とはいえないような(「飛ぶ」にしろ、「悪い比喩」にしろ、私は田村の代表作とは考えていない。感じていない)作品には、なにか書こうとして書けないものの「芽」のようなものが動いている。詩人が留保したなにかが、そこにはある。その留保したもの、そのことばの動きを、きちんと掬いだして動かせれば、きっと詩人の本質がわかると思うのだが……。 

 眠っているとき、肉眼を閉ざし、肉体の内部の眼が動いているとき、なにかが見え、逆に肉眼で見始めたとき、なにかが見えなくなる。
 どうすればいいのか。
 「秋の山」のなかに次の行がある。

この透明度には危険なレトリックがある
遠くのものが近くになる時

近くのものは見えなくなる

 「秋の山」という作品は「遠くのものが近くになる」という行で書き出されている。秋になると「遠くのものが近くになる」。これは正確には、「遠くにあるものがまるで近くにあるかのように見える」ということを指している。それはもちろん錯覚である。現実には、遠近そのものが逆転するわけではない。けれども、私たちはそういう言い方をする。この「言い方」を「レトリック」と田村はここでは定義している。
 この世界にあるのは、そういう「レトリック」--現実をとらえるとらえ方、そしてそのとらえたものを言い表す方法だけなのである。その方法のなかに「比喩」もある。ものごとをどうとらえるか--というとき、大切なのは「肉眼」の正確さではない。「肉眼」の力に頼らず、肉眼を否定していく力だろう。
 田村は、俳句的世界を描きながら、(それに通じる詩を書きながら)、そのときに動く「肉眼」を拒絶し、「肉眼」ではない力で、自然を--日本人が親しんでいる風景を、「分解」しようとしているように感じられる。




ロートレックストーリー
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『田村隆一全詩集』を読む(18)

2009-03-08 00:34:53 | 田村隆一
 「日没の瞬間-一九五六年冬-」には、不思議なところがある。前半の3連。

小鳥を見た
小さな欲望から生れ
ちいさな生にむかって慄えている小鳥をぼくは見た

ちいさな欲望とちいさな生のうえを歩いてはきたが
ぼくには小鳥を描写することができない
つめたい空から
地上に落ちてくる ぼくの全生涯よりも長い瞬間に
するどい嘴と冬の光りにきらめくちいさな眼は
分解するだけだ

  おお どうしよう ぼくはあいを描写することができない
  おお どうしよう ぼくはものを分解するだけだ
        
 「ぼく」と「小鳥」が2連目で交錯する。「するどい嘴と冬の光りにきらめくちいさな眼は/分解するだけだ」の「眼は」はだれの眼か。文法的には「ぼく」の眼ではない。「小鳥」の眼である。小鳥は空から地上に落ちて来る。そのとき小鳥の眼は何かを分解する。何かは書かれていない。
 だが、ほんとうに小鳥の眼なのか。
 小鳥の眼であって、小鳥の眼ではない。「ぼく」の眼が、その眼と重なっている。小鳥を見たときから、田村は、小鳥と一体になっている。
 2連目2行目の「ぼくには小鳥を描写することはできない」は、実は、

ぼくには小鳥の眼で、小鳥の見たものを描写することはできない

 という文なのだ。そして「の眼で、小鳥の見たもの」が省略されているのだ。
 1連目から読み返すと、そのことがよくわかる。どんなふうにして田村と「小鳥」が一体になっているかがわかる。
 1連目に登場する眼(肉眼)は田村自身の眼である。それは「小鳥」を見た。そして、小鳥を「小さな欲望から生れ/小さな生にむかって慄えている」ととらえるとき、それは田村自身の姿と重なる。
 田村は自分自身のことを、1連目につかったことばを流用して「ちいさな欲望とちいさな生のうえを歩いてはきたが」と定義する。「小さな欲望」「小さな生」ということばのなかで、田村と小鳥は「一体」になる。同じことばで表現できる存在になる。

 この「一体感」は、自己放棄である。そして、この態度は、私には、とても日本的な自己放棄に見える。俳句などの「遠心・求心」としての自己放棄に見える。自己を捨て、その瞬間、世界全体を一気に凝縮させる。自己と小鳥を「一体」に感じるその感覚のなかに、一気に世界を凝縮させ、同時に、その「一体感」を世界全体にひろげる。
 俳句ならば、たしかに、そういう世界が出現するはずである。

 田村は、そういうものに触れる。触れるけれど、田村の書いているのは「俳句」ではないから、そういう「遠心・求心」の世界の洗い出し方、生成の仕方をとることはない。
 田村は「遠心・求心」の世界には行かずに、「一体感」を抱えながら、違うことばの運動について考える。

 「一体」になったけれど、それでも田村は、小鳥の眼で小鳥の見たものを描写はできない。そこには「自意識」(田村の意識)が反映されていると考える。
 そんなふうに、自分の肉眼ではなく、他者の肉眼を通って(他者の肉眼を想像力をつかって通って)何かを見ることを、田村は「分解」と呼んでいる。--「俳句」の「遠心・求心」が「描写」であるのに対し、田村の見つめる世界は「分解」であると定義する。
 そうなのだ。
 ここでは、田村は、俳句的な世界に触れながら、それを「俳句的」定義から切り離し、あくまで田村流に定義し直している。「水」で書いたような世界、水を飲んだら「匂いがあって味があって/音まできこえる」という感覚(五感)の越境--俳句的越境、俳句的統合に触れながら、田村が書いているのは「俳句ではない」と定義しているのである。
 「俳句」とは結局のところ「統合」である。統合された描写である。そこには複数の感覚が統合され、統合された感覚でのみ把握できる「新世界」が描写されている。
 けれども、田村が書いているのは、「統合」ではない。「分解」である。それは、別のことばで言えば「統合」の拒絶である。
 イメージが形成されることの拒絶である。
 以前、田村が書いているのは、弁証法でいう対立→止揚→統合(発展)ではなく、あくまでそういう運動を解体することであると書いた。その運動は、ここでも同じなのだ。
 複数のもの(対立するもの、人間と小鳥という同じではないもの)を統合するのではなく、同じ次元(小さな欲望、小さな生)で衝突させることで、その両方を破壊しようとする。その両方を破壊して、その奥にあるものを、解放し、噴出させようとする。そういうことばを運動を指して、田村は「分解」と定義しているのである。

 ことばの全体は、一見、「俳句」に見える。(特に「水」の世界は。)けれど、田村がしようとしていることは、「俳句」とは対極にあることなのである。
 小鳥が「地上に落ちてくる ぼくの全生涯より長い瞬間」という矛盾に満ちたことば、その1行のなかに凝縮した矛盾、衝突が「遠心・求心」の「和解」とはまったく別のものを田村が書こうと欲していることを象徴しているように思える。





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『田村隆一全詩集』を読む(17)

2009-03-07 00:23:20 | 田村隆一
 『緑の思想』という詩集には驚く。それまでの田村の詩とは印象がかなり違う。過激さが消える。ことばが、なにがなんでも、ことばの扉を押し開いて、ことばの向うへゆくという感じがしない。
 「水」という作品。とても短い。この短さにも驚かされる。その全行。

どんな死も中断にすぎない
詩は「完成」の放棄だ

神奈川県大山(おおやま)のふもとで
水を飲んだら

匂いがあって味があって
音まで聞こえる

詩は本質的に定型なのだ
どんな人生にも頭韻と脚韻がある

 「意味」の拒絶ではなく、「意味」との対峙がある。「意味」と対峙しながら、「意味」に異議を申し立てている。そういう印象がある。書き出しの2行には、そういう印象がある。「意味」以外のものを探している、という印象がある。
 「中断」と「「完成」の放棄」は、私には、相通じるものがあると思う。そして、その相通じるものを通るとき、「死」と「詩」が韻を踏む。そのおとは「し」という一音なので、それが頭韻なのか、脚韻なのかわからない。たぶん、その両方なのだろう。そして、韻を踏みながら、それは融合する。
 これまでのことばが、矛盾し、対立し、互いを破壊し、混沌のなかで融合したのに対し、この作品では、ことばは「韻」のなかで融合する。「死」と「詩」は同じものではないが、矛盾はしない。互いを破壊もしない。互いに接近し、その出会うことで、融合する。
 別個の存在(ことば)が出会い、そこから「融合」がはじまり、まったく別なものになる(別な世界へ移行する)ということでは、これまでの作品と同じだが、その融合の仕方がおだやかといえはいいのか、日本語の伝統に通じるといえばいいのか、いままでとは違うのである。
 その違いのために、私は、とてもとまどう。

 とまどいながらも、私は、この作品が好きだ。特に、

水を飲んだら

匂いがあって味があって
音まで聞こえる

 という3行が好きだ。
 「水」に匂いがある、味があるというのは、味覚のことだから、だれでも感じることかもしれない。ところが「音まで聞こえる」というのは、どうだろう。水を飲む--水は口のなかに入り、舌に触れ、喉を通る。そのとき、口とつながっている鼻腔にも刺激があるから、においだってする。だが、どうして、音が聞こえる?
 --私の理性(?)は、そんな疑問にぶつかる。
 しかし、私の感性(?)は、その疑問を拒絶して、その「音」--具体的には書かれていない「音」を聞き取ってしまい、ああ、いいなあ、とため息をもらす。水源の、風。木々を揺らす風。風にそよぐ木の葉。木の葉から落ちる一滴の水の音。落ち葉をくぐり、大地にもぐりこむ水の、しずかな流れ。そういう音を一瞬のうちに聞いてしまう。そして、そういうものを聞くだけではなく、見てしまう。
 耳で?
 そうではなくて、口で、舌で聞いてしまう。見てしまう。
 私たちの感覚(五感)はどこかでつながっている。どこかに「共通」の場をもっている。そこを通って、ほんらい、聴覚や視覚の働きをしないはずの、口や舌や喉が、音を聞き、色を見てしまう。
 そんな融合--感覚の融合する瞬間がある。それが「詩」である。

 そのとき、つまり、音を聞き、色を見ているとき、口や舌や喉の、ほんらいの機能は死んでいる。ほんらいの機能は働くことを中断している。ほんらいの機能は「感性」すること、機能を全うすることを放棄している。
 こういう混乱というか、こんとんというか、不完全な(?)状態、複数の感覚が融合して存在する瞬間を、田村は「定型」と呼んでいるように思える。そういう状態を「定型」と呼ぶことで肯定しているのだ。
 なにもかもがまじりあった瞬間--それが「いのち」の「定型」である。この「いのち」の「定型」を私は「肉体」と呼びたい。
 田村は「肉体」と出会っているのだ。

      


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『田村隆一全詩集』を読む(16)

2009-03-06 00:42:23 | 田村隆一
 「恐怖の研究」は「10」という章からはじまり「0」へと進む。書かれている順に読んでもいいし、逆に番号順に読んでもいいのかもしれない。読者に、その判断をまかせている。詩とは意味ではないからだ。ことばが喚起するイメージでもない。詩とは、ことばが誘い出すことばの運動である。運動であること、動き回ること、どんな動きでもしていい、ということが詩なのである。
 たとえば……。

だれかが入つてくる
あるいは
だれかが出て行く
乱暴な音をたててドアがあき
窓が開く
死んだふりをしていた心があらわれる
なめらかな皮膚の下に
乳色の河流は血の色にかわり
床からピンがはねあがる
ネガの世界は崩壊する
光りがごくわずか入つたでけで
いかなる近代都市も粉砕されてしまう
意味がほんのすこし入つてきただけで
ああ
きみの好きな絵描きにきいてごらん
どんな葡萄酒がみえてくるか

 これは実は書き出しの「10」の部分を、最後から逆に引用したものである。どうです? 田村の詩そのものでしょ? 詩のことばは便宜上、1行目から最後の行へと動いていくけれど、そのとき私は順番に田村のことばどおりにそのことばを追いかけてはいない。
 読んだことばが順序をかえながら私の肉体のなかで反響する。私はそのことばの過激な運動を、私の理解できる範囲で追いかけているだけである。誤読しているだけである。誤読できる喜びでことばを追いかけているにすぎない。
 なぜ、こんなことが可能なのか。(こんな読み方をして遊んでいるのは私だけかもしれないけれど。)それが可能なのは、詩の1行というのは、1行で独立しているからだ。他の行の影響はあっても、1行として独立している。独立して、誤読されるのを待っている。他の行と関連づけて読むと、「意味」はある程度限定(特定)できるが、詩は「意味」を追いかけて読んでほしいとは願っていない。「意味」ではなく、あることば、ある1行をたよりに、いま、ここではないどこかへ、世界を超越したどこかへ行く踏み台となることを願っている。詩は、つまり、いま、ここではないどこかへと飛翔して行くためのことばなのだ。
 詩にとって、ことばとは「順不同」のものなのである。
 なぜなら、詩とは、矛盾であり、破壊であり、混沌であり、生成だからだ。その複数の運動には順序がない。生成したものが矛盾し、混沌の世界になり、それを破壊するという運動があってもいいし、あるものを破壊したら、隠れていた矛盾があらわれ(矛盾が生成し)、混沌としたものになってしまってもいいのだ。
 ことばの「順不同」のひとかたりが、そのかたまりのまま動いていく--それが詩である、といえるかもしれない。

 この作品には、一種の繰り返しが多く登場する。

かれらを復活させるために
どんな祭式が
どんな群衆が
どんな権力が
どんな裏切りが
どんな教義が
どんな空が
どんな地平があるというのか    (「9」の部分)

塔へ
城塞へ
館へ
かれらは殺到する
かれらは咆哮する
かれらは略奪する
かれらは凌辱する
かれらは放火する
かれらは表現する          (「7」の部分)

 この複数の行は、みな対等である。「祭式」「群衆」「権力」と重要な順序にことばが並んでいるわけでも、また重要ではない順序で並んでいるのでもない。それは、互いのことばを破壊して自己主張しているのだ。秩序はなく、そこには無差別の平等がある。どのことばも、詩のなかでは平等であり、自由である。ことばが、そういう平等・自由になる瞬間として、詩というものが存在するのである。
 試してみるといい。最初に私がこころみたことを、「7」の部分で試してみると、よくわかる。

かれらは表現する
かれらは放火する
かれらは凌辱する
かれらは略奪する
かれらは咆哮する
かれらは殺到する
館へ
城塞へ
塔へ

 「倒置法」で書かれた「7」の後半は、もっと自然に、もっと無差別に、もっと自由に逆流するかもしれない。試してみよう。

偽善を弾圧するもつとも偽善的な芸術運動を
露悪的なマニフェストを
危険な直喩を
独創的な暗喩を
増殖するイメジを
白熱のリズムを
かれらはあらゆる芸術上の領域を表現する

 この7行を、田村の作品を読んだことのない人(ただし、現代詩をよんだことのある人)に読ませたとき、その人は、この引用が、終わりから逆に引用したものだと気づくだろうか。たぶん、気がつかない。
 詩のことばは、特に「現代詩」のことばは、そんなふうに、無秩序・無差別・平等・自由な運動のことばなのである。運動していれば、それで「現代詩」のことばなのだ。
 田村の、この作品は、そのことをとても雄弁に語っている。



 こうした過激なことばの運動に魅了される一方、私は次のような部分にもこころがふるえてしまう。「5」の部分。

ふるえる翼
ふるえる舌
大病院の裏庭で
ぼくは野鳩の桃色の脚を見た
ふるえる舌
裂ける舌
信州上川路の開善寺の境内で
ぼくは一匹の純粋な青い蛇を見た
ふるえる舌
美しい舌
秋風の六里ヶ原で
ぼくは桜岩観音に出会つた

 このことばの美しさ。特に「野鳩の桃色の脚」という肉眼の強さにとてもひかれる。強い視力があって、はじめて現象の奥へとことばを自由に解き放つことができるのだ。
       

ワインレッドの夏至―田村隆一詩集
田村 隆一
集英社

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『田村隆一全詩集』を読む(14)

2009-03-04 00:00:00 | 田村隆一
                       (「言葉のない世界」のつづき。)
 「観察」と「批評」を田村は言い換える。「1」において「ことばのない世界は真昼の球体だ」を言い換えたように。

  5

鳥の目は邪悪そのもの
彼は観察し批評しない
鳥の舌は邪悪そのもの
彼は嚥下し批評しない

 「観察」てる鳥。その「観察」を田村は「邪悪」ということばで「肯定」している。「邪悪」というこきばは一般的に否定的につかわれる。「邪悪」なものは市民生活のなかでは否定される。しかし、「観察」を肯定しているのだから、「邪悪」も肯定していることになる。
 「現代詩」が難解といわれる要素がここにある。「現代詩」ではふつうの市民生活でつかわれるとおりのとこばの定義でことばをつかうわけではない。流通していることばの定義からことばを解放し、別の要素、だれも見いだしていない定義(詩人独自の定義)でことばを動かす。自分自身の定義をつくりだしてかまわない、どんな定義をしてもいい、というのが現代詩のルールなのである。
 肯定される「邪悪」。そして、その「邪悪」を補足するのにつかわれているもの。「目」と「舌」。肉体である。「観察」するのは「目」、「嚥下」するのは「舌」。それは、ことばを操作しない。(舌は声を操作するけれど、ことばそのものを動かすわけではない。)「肉体」は、「言葉のない世界」なのである。それは「邪悪」である。なぜか。「頭」を裏切るからである。「頭」の制御を振り切って、「いのち」におぼれるからである。快楽に忠実な本能だからである。
 田村は「邪悪」を補足する。どんな文学作品も、前に書いたことを補足しながら運動を進める。というよりも、そうやって運動することでしか前へ進めない。補足は、実は、書くことで発見する新しいいのちの姿なのである。補足は、それまでのことばを剥がしていく方法なのである。
 矛盾した言い方になるが、補足は、何かを継ぎ足すのではない。むしろ、覆い隠しているものをはぎ取るのである。ことばを追加することで、前のことばをはぎとり、その内部へ入ってく方法が文学における補足である。
 書きつづけるということは、次々に、最初の行では書けなかったことの内部、書こうとしている「活火山」の内部へ内部へと入っていくことなのである。

  6

するどく裂けたホシガラスの舌を見よ
異神の槍のようなアカゲラの舌を見よ
彫刻ナイフのようなヤマシギの舌を見よ
しなやかな凶器 トラツグミの舌を見よ

彼は観察し批評しない
彼は嚥下し批評しない

 「邪悪」とは「異神の槍」である。「異なる」ということ、「槍」という武器であることが、ここでは重要である。
 「邪悪」とは「しなやかな凶器」である。「しなやか」と「凶器」という、いわば反対のものの結びつきが、ここでは重要である。
 異質なものが結びつくとき、それはそれがほんらいのもの(正しい?結びつきのもの)を超越したパワーをもつ。
 「邪悪」とは「悪い」という価値判断をあらわすためにつかわれているのではなく、「超越」という意志をあらわすためにつかわれているのである。

 「邪悪」を田村は、さらに言い換えている。
 
  9

死と生殖の道は
小動物と昆虫の道
喊声をあげてとび去る蜜蜂の群れ
待ちぶせている千の針 万の針
批評も反批評も
意味の意味も
空虚な建設も卑小な希望もない道
暗喩も象徴も想像力もまつたく無用の道
あるものは破壊と繁殖だ
あるものは再創造と断片だ
あるものは破片と断片のなかの断片だ
あるものは破片と破片のなかの破片だ
あるものは巨大な地模様のなかの地模様だ

 「批評も反批評も」、あらゆるものが「ない」。「ある」ものは「破壊と繁殖」といったいわば反対にあるものの同居、あるきは「巨大な地模様のなかの地模様」といった区別のつかないもの。そういう状況をカオス、混沌と呼ぶことができる。
 「邪悪」とは「混沌」のことなのである。そして、その「混沌」のなかでは、破壊と繁殖が同時に行われている。死と生が同居している。矛盾しているものが同居しているから混沌というのだが……

  10

彼の目と舌は邪悪そのものだが彼は邪悪ではない

 これは、とても重要な行だ。「肉体」は邪悪である。けれど、彼の存在そのものは邪悪ではない。部分と全体の関係がここにある。
 詩の1行1行は、邪悪で混沌に満ちている。けれど詩そのものは邪悪ではない。
 ことばの1行1行は矛盾している。けれども詩そのもの、詩の全体は矛盾していない。
 あらゆることばは先行することばを破壊する。けれども、ことばのいのちそのものは破壊しない。
 むしろ、破壊することで、ことばを甦らせるのだ。「言葉のない世界」を新しく誕生させるのだ。新しいいのちの誕生へ向けて、ことばを破壊しつづけるのだ。「流通している言語」を。

 この詩の終わり方、最後の3行は、けれど、ちょっとナイーブである。そういうものが同居しているというのが田村の魅力だろう。

  13

おれは小屋にはかえらない
ウィスキーを水でわるように
言葉を意味でわるわけにはいかない

 私の感想は、いつでも、詩を割りすぎているかもしれない。反省。



ワインレッドの夏至―田村隆一詩集
田村 隆一
集英社

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『田村隆一全詩集』を読む(13)

2009-03-03 00:01:33 | 田村隆一
 「言葉のない世界」は刺激的な行にあふれている。

  1

言葉のない世界は真昼の球体だ
おれは垂直的人間

言葉のない世界は正午の詩の世界だ
おれは水平的に人間にとどるまことはできない

 2連目の行は1連目の行の反復・言い直しである。「真昼の球体だ」は「正午の詩の世界だ」。1連目になくて2連目にあるもの。「詩」。「詩」が付け加えられている。このことによって、この作品が「詩」をテーマにしていることがわかる。そして「詩」を「球体」と考えていることも、わかる。
 作品を書き出したとき、田村はまだテーマを見つけてはいない。テーマがあって書きはじめているわけではない。書くこと、書いた瞬間にことばが動く--そして、そこからテーマが発生する。というより、発見されるのだ。「球体」は「詩」として発見され、そのその発見へ、発見のなかへとことばはさらに進んで行く。
 しかし、その進行は、簡単なことではない。
 「おれは垂直的人間」と「おれは水平的に人間にとどるまことはできない」という行のあいだでは、まだ何も発見されていない。単に「垂直」と「水平」が対比されているだけで、「垂直」の実質は何もわからない。

  2

言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかつて
真昼の球体を 正午の詩を
おれは垂直的人間
おれは水平的人間にとどまるわけにはいかない

 これは「1」をもう一度言い直し、言い直すことで、ことばの動きのベクトルを補強している。いったんひきさがり、原点からことばを再加速させ、飛躍しようとしている。そして、実際に、「3」から飛躍する。「球体」と「詩」は別のことばで、「球体」も「詩」も感じさせないことばで語られはじめる。
 なぜ、そういう飛躍になってしまうのか。そんな飛躍をしなければならないのか。

言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかつて

 この行の意味が、ここにある。飛躍の理由がここにある。「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかつて」というのは、一種の論理矛盾である。ことばをつかえば、その瞬間から「言葉のない世界」は存在し得ない。そういう不可能性へ向かってことばは突き進むのだから、どこかで「矛盾」を超越しなければならない。ふっきらなければならない。それが「飛躍」なのだ。
 「現代詩」のことばは、どんな「飛躍」でも受け入れる、ということを出発点にしている。日常の論理を逸脱しても、その運動を受け入れるということを前提としている。それはことばを洗練させるというよりも、ことばの可能性をさぐる、日本語に何ができるかを発見・発明するということを詩の目標にしているからだ。

  3

六月の真昼
陽はおれの頭上に
おれは岩の大きな群れのなかにいた
そのとき
岩は死骸
あるいは活火山の
大爆発の
エネルギーの
溶岩の死骸

 「飛躍」のなかに、少しだけ「飛躍以前」の残骸が残っている。その残滓によって、「飛躍」が「飛躍」であることがわかる。「真昼」は「1」にでてきたことばである。「1」の「球体」は「陽」である。「詩」は太陽のようなものとして、ここで象徴的に語られていることになる。
 それにつづく行は、かなり複雑である。
 「岩の死骸」と言ったあと、その「死」のイメージとは逆のことばが何回かつづく。「活火山」「大爆発」「エネルギー」「溶岩」。そして、そういう、「死」を否定するようなことばを受けて、「の死骸」ともとに戻る。
 ここでは、ことばはまだことば自身の動きを発見していない。予感はしているが、どう進んでいいかは、まだわかっていない。
 そういうあいまいな(?)というか、予感だけの径路をとおって、ことばは動きをととのえる。
 前に書いたことを言い直しながら、徐々に言いたいことを見つけ出していく。生み出していく。
 詩は、先の引用部分のあと、1行の空き(小さな飛躍)のあと、突然濃密になりはじめる。

なぜそのとき
あらゆる諸形態はエネルギーの死骸なのか
なぜそのとき
あらゆる色彩とリズムはエネルギーの死骸なのか

 「岩」とは実は「田村以前の詩」であることが、ここまでことばが動いてきて、はじめてわかる。それは「死骸」である。たしかにその詩もかつてはエネルギーそのものだっただろうけれど、詩になってしまった瞬間、死骸になった。それは「言葉の世界」なのだ。「言葉のない世界」を覆い隠している否定すべき存在だ。
 田村は、ここでは、そういう死骸から脱けだし、新しい詩のなかに生まれかわりたいと欲望している。「言葉」の世界から脱出し「言葉のない世界」へ生まれ変わりたいと欲望している。その欲望だけは、はっきり自覚できる。
 でも、その新しい詩とは何か。はっきりしない。はっきりしないけれど、予感がある。インスピレーションが、田村を直撃する。

一羽の鳥
たとえば大鷲は
あのゆるやかな旋回のうちに
観察するが批評はしない
なぜそのとき
エネルギーの諸形態を観察だけしないのか
なぜそのとき
あらゆる色彩とリズムを批評しようとしないのか

 「観察」と「批評」。
 田村は「観察」は肯定するが「批評」を否定する。「批評」がはじまるとき、死がはじまるのだ。「世界」(対象)を観察しているとき、そこにはまだことばはない。それを語るとき、つまり「言葉の世界」がはじまるとき、そこに批評が加わり、その批評によって「世界」のもっているエネルギーの、まだ形をもっていないエネルギーそのものは、ひとつの「枠」のようなもの制御される。そして死んでしまう。死骸になる。

 そうならないような、ことばの動かし方はないのか。
 ことばがエネルギーを死骸におとしめることなく、エネルギーのまま、目の前に存在するようなあり方はないのか。
 --そんなふうに、田村は「現代詩」を定義しながら、ことばを動かす。
                          (この項、あすにつづく。)



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アガサ・クリスティー
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『田村隆一全詩集』を読む(12)

2009-03-02 00:00:00 | 田村隆一
 「言葉なんかおぼえるんじやなかつた」ではじまる「帰途」は反語に満ちた作品だ。

言葉なんかおぼえるんじやなかつた
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きていたら
どんなによかつたか

 「言葉のない世界」というより「言葉が言葉になる前の世界」、「意味が意味にならない世界」ではなく「意味が意味になる前の世界」--田村が書きたいのはそういう世界だ。この欲望は、もちろん不可能だ。ことばにした瞬間「言葉が言葉になる前の世界」は消えてしまう。意味はその瞬間に誕生し、「意味が意味になる前の世界」欲望は実現した瞬間、失望にかわる。田村の欲望は矛盾でできているのだ。
「言葉なんかおぼえるんじやなかつた」という行さえ、ことばなしには表現できない。

 だが、それが矛盾だからこそ、刺激的である。矛盾、反語のなかにだけ、一瞬、すばやく駆け抜けていくいのちがある。敗北する瞬間に、そのいのちの輝きが見える。切実さがくっきりと見える。

あなたか美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血をながしたところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる苦痛
ぼくたちの世界にもしことばがなかつたら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがある

言葉なんかおぼえるんじやなかつた
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたつたひとりで帰つてくる

 2連目は不思議だ。「そいつ」は何を指すのだろう。「美しい言葉」「静かな意味」だろうか。それとも「復讐」「血」を流すこと、流血だろうか。また、「美しい言葉」「意味」は、だれが発したものだろうか。「言葉」も「意味」も田村が発したものである。それによって「あなた」が傷ついても、それは田村とは関係ない、田村の責任ではなく「言葉」「意味」のせいである。田村は、そう言いたい。なぜなら、ほんとうに「あなた」に知ってほしいのは、「言葉」にできなかったことば、「ことば以前のことば」、つまり、まだだれも言っていない田村だけのことばなのだから。
 これも、まったく不可能なことである。だれも言ったことのないことばなら、それは「あなた」にはわからない。ことばは人に共有されてはじめてことばになる。そういう歴史があってことばが動いている。「美しい言葉」、その「美しい」という概念さえ、歴史を持っている。「ことば以前ことば」を「ことば」にすることはできない。--そういう矛盾、不可能性と向き合いながら、田村はことばを発する。
 ことばではなく、肉眼で、世界を確かめたい。肉眼になりたい。「ぼくはただそれを眺めて立ち去りたい」という3連目のことばは、そういう欲望をあらわしている。しかし、その欲望さえも、ことばをとおしてしか表現できない。
 矛盾。絶対的な矛盾。
 だが、この絶対的な矛盾のなかで、ひとは出会い、和解する。

ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたつたひとりで帰つてくる

 田村の矛盾は止揚→発展へとつながるものではない。逆に、その場に立ち止まるためのものである。立ち止まって、その場を矛盾を解体し、融合する。他者と一体になる。一体になるために、矛盾以前の、まだ何も生まれていない混沌とした世界へ帰っていく。そういう世界である。5連目の「立ちどまる」「帰つてくる」は、そういうことと結びついている。

 ひとはときどき「何も言いたくない」と言うときがある。そして、実際に何も言わないときがある。けれども、その「何も言わない」に触れるとき、「言わない」ことが鮮明に伝わってくるときがある。「言わないから」のに理解することがある。理解できる何かがある。
 --そういう矛盾と対極の世界。
 ことばをひたすら否定する。そのとき、ことばへの渇望がほんものになる。本能のようなものになる。そして動きはじめる。

 ことばは「理性」を破壊し、「本能」へ立ち返るためにこそ、動かなければならない。激しい運動をしなければならない。過激な詩にならなければならない。矛盾を正確に書き留めなければならない。


 


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