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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『田村隆一全詩集』を読む(42)

2009-04-02 00:21:57 | 田村隆一

 「ぼくは人間である」のでは「ない」。人間に「なる」。では、その人間に「なった」ぼくとはだれのことだろうか。「他人」である。
 「夜明けに目ざめ身を清めてから」に「他人」ということばが括弧付きで出てくる。1連目である。

人間の悲惨の証人は
軍人と僧侶と医師である
というのが
フランスの「さかしま」の作者の意見だが
それでは
人間の心と頭脳の秘密を盗むのは
探偵とスパイと詩人の仕事ということになる
軍人と僧侶と石は
固有のユニフォームに身を固めているがゆえに
見えない人である
探偵とスパイと詩人は
「他人」の服装をしているからこれもまた
見えない人である

 「見えない人」。軍人、僧侶、医師--それは「職業」として存在する。彼らと接するとき、人は、彼らを職業としてしか見ない。彼ら自身の精神的事情、感情的事情を配慮しない。そういうものは「見ない」。そして「見えない」
 一方、探偵やスパイは、その職業を知られると仕事にならない。彼らは「職業」を隠し、まったく未知の「他人」でなければならない。田村は、これに詩人もつけくわえている。人にとって、常に未知の存在であること。それが詩人の場合も存在意義なのである。「他人」であり、個人として理解されないこと、特定されないことが詩人の条件なのである。
 これは「個性」こそが詩人の条件という定義(そういうものがあると仮定しての話だけれど)からは、はるかに遠い考え方である。しかし、田村は、たしかにそういうものを詩人に求めている。「個性」であってはならない。「固有名詞」であってはならない。「固有名詞」としての存在であってはならない。「固有名詞」の「固」は「固定」の「固」に通じる。詩は、固定された世界であってはならないからだ。
 「ある」のではなく「なる」。「固有」のものを破壊し、「固有」ではななくする。そして、そこからあらたに「他」として生まれ変わる。その運動が詩だからである。
 2連目に書かれていることは、この補足である。

ヒゲやカツラとおなじように
思想も観念も偽装にはきわめて有効である
その点
感情はきわめて危険である
とくに憐れみの感情の危機的な
破滅的な暴力を描いたのはイギリスのカトリック作家である
したがって
感情的な人は詩人とはもっとも遠いところにいるものだ

 詩人は感情をもっていてはいけない。これは、持続した感情をもっていたはいけない。持続した感情として「固有の存在」であることを証明してはいけないという意味である。持続した感情は、「個人」が「他人」に生まれ変わることを邪魔する。とくに「憐れみ」は「個人」と別の「個人」を強く結びつけ、「他人」を排斥する。「憐れみ」は「個人」を「隣人」にしてしまう。「憐」と「隣」という文字が似ているからいうわけではないが、それは深いところで強くつながっている。
 それは詩から、たしかに、遠い。
 詩は常に固く結びついた世界の絆を切り離し、人間を自由にするものだからである。人間を世界に結びつけるあらゆるものは詩からは遠い。少なくとも、現代詩からは遠い。現代詩とは世界からことばを解放する、そして人間を自由にするものだからである。

 この作品には「個人」ということばも、「他人」と同じように括弧つきでつかわれている。

人間の典型は十九世紀的概念だが
その概念が破産すれば
意識の流れのなかに
諸断片となった人間は
金色のウイスキーをのみながら漂うだけにすぎない
スコットランドの地酒が欧米で国際化されたのは
第一次世界大戦後のことだ
まるで薬物を飲むように
ウイスキーを飲むようになったのは
「個人」がいなくなってからのことだ

 この「個人」とは「他人としての個人」である。第二次大戦という悲惨以前には、「個人」とは常に「他人」と同義であった。しかし、第二次大戦の悲惨が「他人」を「個人」として認めなくなった。「他人」のままでは「悲惨」な状況をのりこえることができない。連携が必要である。たとえば「軍人」「僧侶」「医師」というような「職業」の分担が必要である。

 人はウイスキーを飲む。田村はウイスキーを飲む。その理由を、田村は、ここに書いている。「個人」から「他人」にもどるためである。「個人」は特定の世界に結びついている。そういう拘束を断ち切り、「他人」になって世界を漂うためである。
 詩のなかで、田村は、「他人」になる。だれでもない存在になる。そして、世界を存分に、自由に味わう。そのために、ことばを、詩を書く。書きつづける。



インド酔夢行 (1981年) (集英社文庫)
田村 隆一
集英社

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『田村隆一全詩集』を読む(41)

2009-04-01 00:03:33 | 田村隆一
 人間とは何か。田村は人間をどのように見ていたか。短い詩がふたつある。「装飾画の秘密」。

猫は一瞬のうちに猫になるが
人間はそうはいかない
光の部分と陰の部分でできているからだ

女性が女性になるためには
軽快なリズムと多彩の色調で
縁取られた時間がいる

神の眼から見れば
猫も人間もおなじ時間のなかで
生きているのだが

画家の眼から見たら
人間は物と交感することで人間になるのだ
とくに女性は装飾のなかで

装飾は流行ではない
装飾には内的な持続があり その時間が
女性に生命をあたえるとしか思えない

まだ だれも
猫の足音を聞いたものはいない

 「人間は物と交感することで人間になるのだ」。この行の「交感」は、次の連で「内的な持続」の「時間」と言い換えられ、「なる」は「生命あたえる」と言い換えられている。ものと交感するときの内的持続をとおして、人間は人間に生命をあたえ、そうすることで人間に「なる」。
 猫は猫になるというよりも「なる」という時間(内的持続)を必要としない。猫は猫に「なる」というよりも、最初から猫で「ある」のだ。人間だけが人間に「なる」のである。内的持続をとおして。

 「受精」という作品では田村は人間と花、蝶と比べている。

人間の見ていないところで
花はひらく

紫色の炎が空から垂れさがり
はげしい驟雨が海のほうへ駈けぬけて行くと

うなだれていた花は光りにむかって
唇をひらく

黒い蝶が通りすぎる
蜜蜂が通る

花は生殖器だから
ぼくは裸体のまま白昼の世界をみつめている

むろん
ぼくは人間ではない

 「ぼくは人間ではない」。では、何なのか。その直前の連が手がかりになるだろう。「ぼくは裸体のまま白昼の世界をみつめている」というのは、もちろん「事実」ではないだろう。比喩だろう。「裸体のまま」というのは。そして、「裸体のまま」であるから、田村は「人間ではない」といっている。「裸体」でないならなら「人間である」。
 「ぼくは人間ではない」の「ない」が重要である。「ない」は「ある」に対して「ない」といっているだ。
 では何なのか。
 「人間」に「なった」のである。
 比喩としての「裸体のまま」。それは、比喩は「ある」ではなく、「なる」である。たとえば、「花は生殖器である」の「生殖器」は比喩である。花は、人間でいえば「生殖器」である。「生殖器」というのは「動物」のものであって「植物」のものではない。比喩である。そして、その比喩をつかったとき、花は生殖器に「なる」。「ある」ではなく、人間の意識のなかで、生殖器に「なる」。
 花が生殖器に「なる」とき、田村は、その生殖器に誘われて「裸体」に「なる」。
 この「なる」というのは、現実というか、客観的な現象ではなく、「内的」なものである。「内的な持続の時間」のなかでおきる現象である。
 そして、こうした「内的持続時間」のなかでおきる変化、花が生殖器に「なり」、田村が裸のままに「なる」という、「なる」の重なり合いを「交感」というのである。

 最終行の「ぼくは人間ではない」とは「ぼくは人間になる」とおなじ意味になる。

 「ぼくは人間である」のでは「ない」。人間に「なる」。「ある」を否定して「なる」へと動く。たどりついたところは、弁証法のように、矛盾→止揚→発展ではないから、簡単にはわからない。「ある」を否定し、解体し、生まれ変わる「なる」も、外見的にはわからない。わかりにくい。すべては「内的持続時間」の問題である。




詩集〈1977~1986〉
田村 隆一
河出書房新社

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『田村隆一全詩集』を読む(40)

2009-03-31 00:27:25 | 田村隆一
 『スコットランドの水車小屋』(1982年)。田村は空間と時間を旅する。詩集のタイトルにもなっている「スコットランドの水車小屋」。

ときおり驟雨があった
アラレが降ったかと思うとだしぬけに青空がひろがった
三月の厳寒の緑の野をぬけると
川がながれていた
産卵期には歌をうたいながら北海から鮭の群れがのぼってくる
その川のほとりに
パゴダ風の乾燥窯と水車小屋と水車があってアヒルが二羽
十七世紀の動力を見張っている 水車は
紀元前一世紀に西アジアに出現し それから
中国とギリシャへ そして中世のヨーロッパへ
水車も風車も自然の力を動力にかえた

 「水車」。その人間の発明した「動力」と鮭、とりわけアヒルの組み合わせが新鮮である。鮭もアヒルも人間のつくったものなどとは無関係である。「動力」がなんにかわろうが、鮭、アヒルにとって重要なのは、「動力」ではない。自然そのもの。川の流れそのものである。
 この絶対に融合することのない「動力」という人工物と鮭、アヒルという「いのち」の衝突。それが時間を浮き彫りにする。そして、空間をも浮き彫りにする。ここでの空間は、つまるところ、人間の移動する「空間」、つながりの「空間」である。そういうものも鮭、アヒルには無関係である。
 この世界には、人間と「無関係」なものがあるのだ。
 もちろん「無関係」といっても、人間は川を利用し、風を利用し、つまり自然を利用して「動力」を手に入れるという「関係」をつくりあげた。そうやってできた「時間」が「空間」を越えて、世界へひろがり、そのひろがる速度がまた「時間」をつくった。そういう時間・空間のなかに人間は生きている。
 そして、それを鮭、アヒルは「無関係」に見ている。

 人間のつくりだしたものは、自立する。そこに、たぶん問題がある、と田村は考えている。
 詩の中盤。

それから二百年後の進歩と発明の世界は
蒸気機関と電力が人間を支配し 水と風は死に
川には鮭ものぼってこない失われた鮭の歌
ロンドンのテムズもパリのセーヌの掘割も
世紀末の芸術家のように死んだふりをして
二十世紀には石油の大戦争が二つもあって
大量生産大量消費は大量殺戮の銅貨の表裏
どっちが出たって 人間に勝ち目はないさ

 「蒸気機関と電力が人間を支配し 水と風は死に」は強烈である。死んだのは「水と風」だけではなく、人間も死んだのである。「支配」しているのは人間ではなく、人間がつくりだした「動力」であり、それは自立してどんどん拡大する。「蒸気機関」から「電気」へと、急成長する。それはある意味で、「第二の自然」である。人間のおもわくなど気にしないで、つまり「無関係」に自立して成長する。拡大する。この「無関係」とは「非情」ということでもある。「非情」というのは人間を考慮しない、ということである。
 自然も人間を考慮しない。たとえば水車をみつめるアヒルは人間を考慮しない。「非情」である。しかし、自然の「非情」がユーモアであるのに対し、人間が創造した「動力」の「非情」はただ人間を破壊するだけである。
 こうした「動力」と人間の「無関係」を田村は批判している。

 後半。

ぼくたちが
歌をうたいながらパンを得たいなら
ただ一つ
自然と共存することだ ほんとうに
ぼくたちの都市が建設したいなら自然を豊かにすることだ
もう一度 自然の創造的な力をかりようじゃないか
水と風と太陽から

風見鶏さえ人間の手の形をしているプレストン・ミル
十七世紀の製粉所

 「ぼくたちの都市が建設したいなら自然を豊かにすることだ」。この逆説。この矛盾。いつでも「思想」は矛盾のなかにある。「共存」とは、「無関係」を否定することだ。「無関係」を破壊し、「関係」に戻る。
 「自然から創造的な力をかりる」と田村は書いているが、これは「かりる」というよりも、人間が「自然」にもどる、立ち返るということだろう。いま、もっているものを捨てる。「動力」の自立を捨てる。

 田村は、そういうことを夢見ている。

 --こういう詩の読み方は、あまりにも「意味」に支配されすぎているだろうか。たぶん、支配されすぎている。楽しい読み方ではない。
 そうは思うけれど、こういうふうにしか、私にはこの作品を読むことができない。
 初期の作品は、ことばが自立していた。ことばが意味を拒絶して自立していた。
 この時期の田村のことばは、一方で「意味」を見据え、「意味」と戦っている。そして、それが「意味」に溺れてしまわないように、必死になっている。旅をして、アヒルや鮭を発見し、驟雨を発見し、「無関係」なもので、世界をかきまぜようとしている。「無関係」がそのままいきいきしている「世界」を取り戻そうとしている。
 私には、そんなふうに感じられる。




泉を求めて―田村隆一対話集 (1974年)
田村 隆一
毎日新聞社

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『田村隆一全詩集』を読む(40)

2009-03-30 00:03:03 | 田村隆一
 『小鳥は笑った』には鎌倉の詩がたくさんある。そのうち、私は「白波」と「冬」に強くひかれる。特に「白波」の次の部分。

「杉本観音は、海道より北にあり」
 と『新篇鎌倉志』にあるが、その「海道」を、いま金沢八景行きのバスが走っていて、ぼくは「わかれ道」でおりて、ブラブラ歩くことにする。「わかれ道」のそばに、魚屋があって、「ちょっとお伺いしますが」の、「ちょっと」と云ったとたん、ゴム長をはいたいせいのいいおかみさんが、デバ包丁をふりかざして、「チズ!」と一声。なるほど、店の横手に自家製の地図が打ちつけてあって、その杉板に、杉本寺や報国寺、荏柄天神などの所在が黒のボールペンで描かれている。

 道をたずねようとしたとたん、道をたずねられていることになれている(辟易している)魚屋のおかみさんが、教える代わりに「地図を見て」と言う。いや、「チズ!」とだけ叫ぶ。田村は、私が書いたようなことは省略して、単に「チズ!」という一声があったという事実だけを書いているのだが、この省略--そこに、詩がある。
 詩とは異質なものの出会い。
 人間にとって、いちばん異質なものとは、人間以外のものではなく、人間でありながら自分とは違う時間を生きている人間、つまり「他人」である。
 田村にとって、この作品のなかで近しい人は、『新篇鎌倉志』を書いた人であり、またその本にしたがってブラブラ歩いている人である。遠い人、「他人」とは、そういうブラブラ歩きの人から道を聞かれてうんざりしている人--つまり、魚屋のおかみさんである。ふたりが出会うとき、ふたりの向き合う「ベクトル」はまったく逆である。いわば「矛盾」している。(こういうとき、矛盾ということばはつかわないだろうけれど、いままで私がつかってきた「矛盾」にはこういう組み合わせも含んでいるので、あえて「矛盾」と書いておく。)
 そして、その「ベクトル」は、単に方向をもっているだけではなく、「過去」をもっている。そして、そのふたつのベクトルがぶつかったとき、長い「過去」をもっているベクトルが短い「過去」しかもたないベクトルを破壊してしまう。膨大な過去が、一気に噴出してきて、少ない過去をけちらかしてしまう。
 「チズ!」と一声叫ぶだけで、おかみさんが何度道を聞かれたか、そういう経験をしてきたかがすぐわかる。そして、その一声といっしょに見えてくる地図の、その書き込みによって、いったい何を聞かれたかもわかる。
 その一気に噴き出してきた「他人の過去」に詩人が打ち勝つ方法はない。道を尋ねようとしていた自分を否定し、地図をみつめ、そして単に場所だけではなく、いやむしろ、場所というよりも、別の田村(田村に先だっておかみさんに道を聞いた人)のめざしていたひととのやりとりまで聞いてしまう。田村は「杉本観音」の場所を聞こうとした。しかし、別の田村は杉本寺や報国寺などを聞こうとした。この瞬間の、「他人」の「自己」への闖入。--そこに、詩がある。「他人」の闖入により、「自己」が破壊される一瞬。そこに詩がある。

 「冬」では、田村の「十三秒間隔の光り」という作品に対する土砂からのはがきが引用されている。田村は「岡田港」の灯台と思ってその作品を書いたが、それは「風早崎」の灯台であり、光りの間隔も十三秒ではなく、三十秒周期だという。
 それが「事実」であるかどうかは問題ではない。
 いつでも「他人」は田村の予想外のことばであらわれる。その「予想外のことば」のなかに、田村は驚く。その驚きの中に詩がある。他人のことばが闖入してきて、一瞬、田村のことばを破壊するのだ。

 田村のことばを破壊するのは、たとえばオーデンの詩、エリオットの詩、あるいは西脇の詩のことばというような「文学」だけではない。
 文学とは関係なく(といってしまうと語弊があるかもしれないけれど)、それぞれに自分の時間を生きている「他人」のことばも、同じように田村のことばを破壊する。「他人」のことばの方が破壊力が強いかもしれない。
 そして、そういう田村を破壊することばを田村は正確に受け止めている。拒絶するのではなく、受け入れて、自分を解体する手がかりにしている。

 田村は、鎌倉を歩き回りながら、田村を破壊してくれることば、自然を探している--それがこの詩集だと思う。



あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年)
田村 隆一
風濤社

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『田村隆一全詩集』を読む(39)

2009-03-29 00:04:57 | 田村隆一
 『小鳥が笑った』(1981年)に、おかしな作品がある。「動物園の昼さがり」と「おやすみ ワニ」。この作品は2つで1篇である。いや、「おやすみ ワニ」の方はまだ1篇として独立しているといえるかもしれないが、「動物園の昼さがり」は「おやすみ ワニ」の前書き(?)なのだから、1篇とはいえないかもしれない。けれど、その1篇未満の詩がなぜか私は好きだ。

ロンドンの動物園の昼さがり
やっと春がきて色とりどりの
クロッカスの花が咲いていて

サイもライオンもペンギンも
退屈そうな顔をして昼寝して
いたりしてぼくは動物園の中
居酒屋でウイスキーを飲んで
いたら突然ワニの親子を思い
出した 父の背中に五センチ
ほどの子どもがのっていて父
も子も眠っていたが母親だけ
は大股をひろげて目だけパッ
ちり明けているのさ そこで

 作品は、これで終わり。そして、次のページに「おやすみ ワニ」という作品がある。

おやすみ ワニ
ワニの父と子 その
母親
リージェント公園にはやっと春がきて
クロッカスの花々が咲いていて

 「動物園の昼さがり」の末尾、「そこで」のあとには、「次の詩を書いた」とでもいうべき1行が隠されている。この1行が隠されていることは、2篇をつづけて読んだ読者にははっきりわかる。そして、この1篇は、その隠されている1行にのみ「意味」がある。いわゆる「意味」--人と人との関係において、何かを伝えるというときの「意味」がある。
 ことばが、もし、「意味」を伝えるためのものだとしたら、あるいは文学作品が、なんらかの「意味」を伝えるものだとしたら、(国語の試験の、文意を「要約せよ」というときに「答え」として各戸とのできるものだとしたら)、この作品には「意味」が書かれていない。「意味」を放棄している。
 別なことばでいえば、ここでは、どうでもいいことが書かれているである。「おやすみ ワニ」のタイトルのあとに副題として「ロンドン、リージェント公園で」と副題をつければすむようなことを、1篇にしたてている。
 詩を読んだことのない読者なら、こういう作品を「無意味」というかもしれない。たしかに「無意味」である。
 そして、だからこそ、詩なのである。
 詩になにかしなければならない仕事があるとするならば、「無意味」が存在することを明らかにするのが仕事である。「意味」をあきらかにするのではなく、「意味」を拒絶し、破壊し「意味」以前の状態、「未分化」の世界をことばとして存在させることが仕事である。

 この詩は1行が13字である。そして13行である。(1行の空白をどう数えるかで、14行という人もいるかもしれないが。)途中までは1行でひとつの文節がおわるようにことばを選んでもいる。なかほど「いたりしてぼくは動物園の中」という行は、1行13字という田村自身の設定した「条件」のために、とても不自然な形をしている。もし、「意味」を伝えることがことばの仕事(文学の仕事)であるとしたら、この1行はとても不親切である。その前の行との「昼寝をして/いたりして」という「わたり」はそうだけれど、「動物園の中」という1行の終わり方、そして次の行の「居酒屋で」という飛躍が、とても不親切である。
 田村は、ここでは13字13行という形に「無意味」にこだわっているのである。そういう「こだわり」も詩のひとつである。次の作品の「前書き」にとって、ことばが正方形(?)の文字列になっているかどうかなど、まったく「無意味」なことである。そういう「無意味」によって、この作品は詩になっている。

 そして。

 この13字13行という「形」にこだわってみせている部分にはもう一つ、とてもおもしろいことが隠されている。

いたりしてぼくは動物園の中
居酒屋でウイスキーを飲んで

 これは、13字13行の形に目を奪われて読んでいると、13字13行にするために、「動物園の中」のあとに「の」が省略されているというふうに読んでしまいそうである。

動物園のなか「の」居酒屋で

 と読んでしまいそうである。
 しかし、そうなのだろうか。動物園の中に居酒屋があり、そこでウイスキーを飲んでいたら、ワニを思い出したということなのだろうか。
 違うのではないだろうか。だいたい、動物園に、居酒屋があるだろうか。

退屈そうな顔をして昼寝して
いたりしてぼくは動物園の中

 という2行には、行の「わたり」がある。「昼寝をして/いたりして」は、学校教育の文節では「昼寝を/していたりして」である。それを無視して「わたり」があるために、「動物園の中/居酒屋で」も一種の「わたり」として読んでしまうのだが、これは田村の仕組んだ「わな」、「わざと」書いた部分である。
 「動物園の中」と「居酒屋で」のあいだには、「間(ま)」がある。その「間」を田村は「わざと」消している。
 最後の1行「次の詩を書いた」という省略は、だれにでも想像がつくが、この「間」の消去は見落とされるのではないだろうか。「間」が消されているというよりも、「の」が省略されていると読まれるのではないだろうか。
 しかし、ここには「間」があるのだ。

 田村が動物園へ行ったのはたしかである。居酒屋へ行ったのもたしかである。しかし、それは同じロンドンではあっても、離れた場所である。動物園の中に居酒屋があるのではない。
 居酒屋で、ふいに動物園を思い出したのだ。クロッカスの花もワニの昼寝もふいに思い出したのだ。居酒屋で動物園の花々の話をしていたら、ふいにワニの昼寝を思い出してしまったのである。花々とワニの昼寝のあいだにもいっしゅの飛躍があるが、そういう飛躍を消えて、ことばがショートする一瞬。
 ショート、短絡、という「間」。
 これが、ほんとうは詩である。

 詩とは異質なものの出会い。出会ったとき、そこに「間」がひろがるのではなく、「間」がショートして、火花が飛び散る。その驚き。驚きの輝き。ちょっと怖い。でも、そのちょっと怖いのが好き、という興奮。

 なんでもない「前書き」のようなことば--だけれど、そこには、そういうものが隠されている。ショートした「間」が隠されている。
 このショートした「間」の変奏が「おやすみ ワニ」の最後に出てくる。

生命の水こそ
ウイスキーの語源で
その水を飲みに
ロンドンのパブへ行ってみたら
四百年ぐらいたっている居酒屋で
そのローソクの灯をともして
人間の存在と行為についてぼくらは論じながら
哄笑するのだ シェークスピア役者だってワニを背中にのせて
ドアをあけて入ってくるかもしれない

 突然のシェークスピア役者とワニの出会い、そして闖入。そのショート。ショートという「間」。そこに詩がある。

 田村の作品について、私は何度も、矛盾、衝突、止揚ではなく解体、そして何もなくなったところからの生成というようなことを書いたが、その生成、誕生はゆっくりおこなわれるのではない。ショート、短絡の形で、突然、ぱっと出現するものなのだ。

田村隆一ミステリーの料理事典―探偵小説を楽しむガイドブック (Sun lexica (12))
田村 隆一
三省堂

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『田村隆一全詩集』を読む(38)

2009-03-28 01:04:23 | 田村隆一
 『水半球』には「木」がたくさん出てくる。「木」というタイトルのものもある。

木は黙っているから好きだ
木は歩いたり走ったりしないから好きだ
木は愛とか正義とかわめかないから好きだ

ほんとうにそうか
ほんとうにそうなのか

見る人が見たら
木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
木は歩いているのだ 空に向かって
木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
木はたしたにわめかないが
木は
愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
枝にとまるはずがない
正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸いあげて
空にかえすはずがない

若木
老樹

ひとつとして同じ木がない
ひとつとして同じ星の光りのなかで
目ざめている木はない


ぼくはきみのことが大好きだ

 「意味」がとても強い詩である。「意味」とは、ことばを利用して姿をととのえる論理、見えないもののことである。「意味」とは、論理をととのえる力である。私たちの意識はいつも乱れている。右往左往する。それをととのえるのが「意味」の力である。「意味」に価値があるのではなく、ととのえる力に価値がある。

 この詩の、いちばん不思議なところは、そして、誰もたぶん不思議と思わずに、無意識に読んでしまう行、あるいは、その展開は、

見る人が見たら
木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で

 という2行である。「見る人が見たら」というのは慣用句である。誰もがつかう。見る人が見れば、わかる、と。それが慣用句であるために、たぶん見落とすのだが、この2行には飛躍がある。逸脱がある。
 「見る」とは「わかる」、「見える」とは「わかる」ということだが、田村は、その「見る」を「わかる」という精神の動きではなく、「聞く」へと動かしていく。感覚をずらしている。視覚と聴覚を融合させ、そういう融合のありようが、「わかる」ということなのだと告げている。
 田村は「聞く」ということばのかわりに「囁く」「声」という表現をつかっているのだが。
 「囁く」(囁き)、「声」を認識する、識別する、「わかる」のは「見る」機能をになっている「目」ではなく、「耳」である。
 田村は、木を見ながら、耳を働かせている。目から逸脱して、耳で木をとらえている。そして、その逸脱--見ているはずなのに聞いているという状態を通るために、そこから「世界」が変化しはじめる。視覚と聴覚がとけあい、肉体のなかで感覚の融合がはじまるので、

木は歩いているのだ 空にむかって

 という、普通の目には見えないものを見る。感覚の融合、肉体の機能の融合が、普通に言われている目で見えるものを超えて、普通には存在しないものを見てしまう。融合した肉体が、見えないものを見てしまう。

 そして、そういう普通は存在しない状態を出現させるのが、ことばである。
 このとき、ことばは「肉体」を通っている。「肉体」がすべてを融合させ、解放するのである。私たちの目も耳も体から分離できない。それは、それが独立していながら、同時に互いに何かを、ことばにならないなにかを、共有し、その共有する力で、硬くつながっているということでもある。
 硬くつながり、深いところで溶け合っているにもかかわらず、私たちは便宜上、「目」「耳」とその一部を呼び、そして「見る」「聞く」という機能を割り振って分類している。
 ところが、それはほんとうは、肉体の中のどこかでは「未分化」なのである。
 その「未分化」の「場」をくぐり抜けるとき、「目」は「肉眼」になる。「耳」は「肉耳」(?--こんなことばはないけれど)になる。そして、そういう「未分化」の肉体をとおしてふれあったものを、人間は「大好き」になる。
 「好き」とは、「未分化」の「肉体」の叫びなのである。「愛」とは、「未分化」の「肉体」のいのりなのである。

 そういうことを踏まえて、『水半球』の巻頭の「祝婚歌」は読むべきである。ここにも「木」が出てくる。

おまえたち
木になれるなら木になるべし

おまえたち
水になれるなら水になるべし

(略)

ただし人の子が人になるためには
木のごとく
水のごとく
そして(ここが重要なのだが)
木にならず
水にならず
鳥にならず

言語によって共和国をつくらざるべからず
人よ 人の子よ
ぼくをふくめておまえたちの前途を心から
祝福せん
されば

 これは、「未分化」の「肉体」への勧めである。「愛」とは「肉体」を発見するためのさけては通れない「場」である。



現代の詩人〈3〉田村隆一 (1983年)
大岡 信,谷川 俊太郎
中央公論社

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『田村隆一全詩集』を読む(37)

2009-03-27 00:49:25 | 田村隆一
 『水半球』(1980年)の最後の詩「肉眼論」には「目」ということばと「肉眼」ということばが出てくる。

 一八六六-六七年制作の「妹マリー・セザンヌの肖像」から、最晩年の「中折帽子をかぶった自画像(一九〇四-〇六年ごろのものと推定)にいたるまでの光と物質の油の世界は、ぼく自身から固有の目を奪って、肉眼の世界へ、ぼくを突きおとす。つまり、ぼくは、この「場所」に入るまで、肉眼でものを見ていなかったのだ。

 セザンヌの絵を見た時の衝撃。
 「ぼく自身から固有の目を奪って」とは、「ぼく」が知らず知らずのあいだに身につけてしまった「ものの見方」のことであろう。私たちは誰でもそうだろうけれど、自分自身の目でものをみると同時に、人間の歴史が作り上げてきた「ものの見方」にしたがってものを見る。人間が積み上げてきた「ものの見方」にしたがって「もの」を見て、そしてそれが「芸術」かどうかも判断している。つまり、「芸術」と「定義」された美に、いま、目の前にあるものが合致しているかどうかを見ている。ある種の「基準」にしたがってものを見ている。
 セザンヌは、そういう「基準」を叩き壊す。その瞬間、「肉眼」があらわれる。

 この運動のありかたは、これまで見てきた田村のことばの運動にかなり似ている。
 田村は矛盾を書いた。それも止揚→発展(統合)という形の運動を引き起こす矛盾ではなく、ただ互いを破壊する矛盾を。矛盾がぶつかりあい、叩き壊しあい、破壊されて、混沌が残るという矛盾を。
 そのとき、混沌とは、それまでの「基準」をうしなった状態--まだ基準ができていない世界のことなのである。「基準」がないということは、どんな「ものの見方」をしようが「自由」ということである。どんな「ものの見方」にしたがって、何を生成させようと「自由」である、ということだ。
 「肉眼」とは、「基準」から解放された「いのちのまなざし」のことである。「いのちの目」のことである。

 ここでは、肉眼が強制される。なんという歓ばしい強制! その強制によって、ぼくは自由になる。ぼくの全身は肉眼そのものになるのだ。

 「強制」と「自由」が、ここでは同じものになる。「強制」は「ものの見方」を破壊するという「強制」だからである。それまでの「ものの見方」を放棄せよ、という「強制」だからである。「こういうものの見方をしろ」とセザンヌはいうわけではない。ただ、それまでの「ものの見方」の基準を叩き壊すひとつの「例」を提示するだけなのである。
 それに触れて、田村は、「肉眼」そのものになる。

 このあとが、田村の真骨頂である。「肉眼」になるとは、どういうことか。それを、次のように言い直している。

どの空間からも、音がきこえてこない。

 「肉眼」になった瞬間、「耳」も失うのである。そういうことばがあるかどうかわからないが「目」が「肉眼」になったと、「耳」は「肉耳」になる。「舌」は「肉舌」になる。「鼻」は「肉鼻」になる。つまり、それまでの「基準」にしたがって音を聞いたり、味を味わったり、においをかいだりすることはできなくなる。「基準」をうしなった「肉体」(肉の全身)になってしまう。「肉」がからだの「基準」になる。すべての「仕方」を破壊されて、うまれたときのままの、「いのち」そのものになる。
 目の変化は耳の変化でもあるのだ。

 これは、実は、この作品の最初に書かれていることでもある。

 この「場所」に、一歩足をふみ入れたら、その瞬間から、ぼくは耳を失った。舌も、鼻孔も失った。ぼく自身の感度の悪い目さえも失ってしまうのである。

 絵に触れて、まず目からではなく、耳から失う。舌も鼻孔も失う。そういう喪失のあとで、「目さえ失ってしまう」と順序が逆に書かれている。
 これは、とても重要なことだ。
 論理的に考えれば、まず目が目であることを否定され、「肉眼」になる。それにつづいて(影響されて)、この器官が「肉」になる。「いのち」になる。それが自然なことに思えるが、真の衝撃というのは、そういう順序ではやってこない。
 理解を超えて、突然、襲って来る。
 ほんとうは目→耳→舌→鼻という順序かもしれないが、衝撃が強すぎると、その順序が意識されない。それだけではなく、いちばん衝撃を受けた目が、必死になって体制を立て直そうとするため、その抵抗のために、目はまだ生き残っているというような錯覚が生じる。意識のなかで、「抵抗」が時間の順序をかえてしまうのだ。意識を錯覚させてしまうのだ。
 この混乱を、田村は、忠実に、正直にことばで再現しているのだ。

 そして、「肉眼」になってしまったあと、田村は驚くべき体験をしている。

 ぼくは、晩年の「人形をもつ少女」の前で立ちどまる。ブルーの色彩が抑制そのものと化して「形」をつくる。その力が、ぼくの肉眼をつくる。なぜ、少女の左肩はさがっているのか?

 「肉眼」は少女の左肩がさがっているのを発見する。でも、なぜ? それは、わからない。そして、それがわからないというとは、実は田村がセザンヌになってしまったということだ。田村が田村のままであるなら、いくらでも理由は見つけられるだろう。それまでの「基準」をひっぱりだしてきて、それを組み合わせ、何か「意味」を語れるだろう。けれど、それができない。田村自身の「基準」の完全な崩壊--その瞬間、田村はセザンヌの「肉眼」とつながる。
 そして、セザンヌの「肉眼」もまた、なぜ、少女の左肩がさがっているかはわからない。わからないから、絵を描いているのだ。
 詩人が、何かわからないものがあるからこそ(いままでの基準でとらえられないものがあるからこそ)ことばを動かすように、画家は、それまでの基準で描けないものがあるからこそ、絵を描くのである。


青いライオンと金色のウイスキー (1975年)
田村 隆一
筑摩書房

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『田村隆一全詩集』を読む(36)

2009-03-26 00:33:51 | 田村隆一
 「きみと話がしたいのだ」は、おだやかなラブソングである。

不定形の野原がひろがつている
たつた一本だけ大きな木が立つている
そんな木のことをきみと話したい
孤立してはいるが孤独ではない木
ぼくらの目には見えない深いところに
生の源泉があつて
根は無数にわかれ原色にきらめく暗黒の世界から
乳白色の地下水をたえまなく吸いあげ
その大きな手で透明な樹液を養い
空と地を二等分に分割し
太陽と星と鳥と風を支配する大きな木
その木のことで
ぼくはきみと話がしたいのだ

どんなに孤独に見える孤独な木だつて
人間の孤独とはまつたく異質のものなのさ
たとえきみの目から水のようなものが流れたとしても
一本の木のように空と地を分割するわけにはいかないのだ

それで
ぼくは
きみと話がしたいのだ

 「ぼくらの目には見えない深いところ」--目に見えないものを人間は想像することができる。その想像のしかたにはいろいろある。田村の想像力は特徴がある。
 「根は無数にわかれ」は「木の根」を肉眼で見たことをもとに想像している。それは想像ではあるけれど、事実であることも、多くの人が知っている。他の、「地下水をたえまなく汲みあげ」「樹液を養い」も実際に肉眼で見たことはないけれど、そうであることをわたしたちは「知識」として知っている。それは田村が肉眼で見たものではない、つまり、想像したものであるけれど、「事実」の範囲のなかにふくめて考える。
 では「原色にきらめく暗黒の世界」はどうだろうか。
 「原色にきらめく」と「暗黒」は矛盾する。何もきらめかないのが「暗黒」である。「黒」しかないのが「暗黒」である。これは、肉眼では確認できないし、科学でも分析できない。想像でしかない。そういう想像に、田村の特徴が出る。矛盾。矛盾したものが想像力のなかでぶつかるという特徴が。

 相いれないものが常にある。

 一本の木は孤立しているが、孤独ではない。1本なのに孤独ではない。孤立しているのに、孤独ではないというのは、これもひとつの矛盾である。その矛盾を、田村は、なぜなら、それは大地と空とつながっているから「孤独」ではない、と言い換える。
 ここには、飛躍がある。
 ふつう、複数形というものは、同じ単位(木なら1本という単位)で数える。違った存在を同じ単位では数えない。種類の違ったものを違った単位で数え、混同しないというのが「科学」の基本である。その基本を逸脱していくのが「想像力」である。「単位」を無視して、ねじまげる。そして「単位」のかわりに、別なものをもって来る。
 想像力とは、事実(科学)をねじまげて、逸脱する力。間違いを犯す力なのである。間違いを犯しながら、その間違いを正当化する力なのである。ここでは「見えない」ということを「口実」にして、強引に間違える。

 こういう強引な「口実」を美しいと感じる--すくなくとも私は美しいと感じるのだが、それはなぜだろうか。--たぶん、私たちは、事実を間違えたがっているのかもしれない。

 孤独--孤独のなかで流す涙。それは一人の人間の中の「きらめく暗黒」と「空」を分割し、同時につなぐ、のではなく、もう一人の人間の「きらめく暗黒」と「空」を分割し、同時につなぐのである。涙をみる時、「きみ」と「ぼく」のあいだに、何かが流れる。涙は「きみ」の頬を流れ、目に見える。しかし、「きみ」と「ぼく」をつなぎ、分割するものは、肉眼では見えない。
 それは、ことばでしか見えない。
 だから「話がしたい」。「話す」ことで、そのつながりを「事実」にしたい、というのである。

 こういうおだやかな詩にも、田村の特徴はそのまま同じ形で存在している。目に見えないものを、ことばでつかまえる。その方向へ、こころを動かしていくという特徴が。




ハミングバード―田村隆一詩集
田村 隆一
青土社

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『田村隆一全詩集』を読む(35)

2009-03-25 00:00:00 | 田村隆一
 「だるい根」はエリオットの「荒地」(中桐雅夫訳)を引用しながらことばを動かしている。この詩が私はとても好きだ。これまで取り上げてきた田村の詩とは少し趣が違っているかもしれない。

「夏はやつてきてわたしたちを驚かせた、
驟雨がスタルンベルガーズ湖を蔽つたのだ」
ぼくが少年だつたとき
このイギリスの長詩の翻訳を読んで
ドイツのミュンヘン郊外の湖を空想した
そして少年時代から青春が灰となつて燃えつきるまで
ぼくはぼくの時代の
驟雨をなんど経験しただろう
不気味な閃光をともなつて暗黒を一瞬のうちに照らしだす
ぼくの内なる驟雨

 ことばからはじまる「空想」。「少年」だった田村はイギリスもドイツも実際には知らないだろう。ことど、地図のうえでの認識があるだけだろう。何も知らない。けれど、ことばは見たことのない「スタルンベルガーズ湖」を目の前に出現させる。
 なぜだろう。
 「驟雨」を田村が知っているからだ。知っているものが知らないものを、まるで、その知らないものまで知っているかのような錯覚に陥らせる。
 だが、田村は、とても正直な詩人だ。知らないものは「空想」のなかだけにとどめておいて、あるいは、その「空想」をサーチライトのように利用して、知っているものを追いつづけはじめる。
 この瞬間、この切り返しが私はとても好きだ。
 見たことのない「スタルンベルガーズ湖」を空想する。しかし、そのとき見ているのは「湖」ではなく、あくまで知っている「驟雨」なのである。
 現実の「驟雨」。そして、「ぼくの内なる驟雨」。現実と、空想ではなく、比喩としての「驟雨」。現実の「驟雨」と、ことばになることによって存在しはじめる「精神・感性の驟雨」。その出会いが、田村自身のことばではなく、中桐が訳したエリオットのことばによって照らしだされる。
 ことばは、場所も時代も超越して、そこにひとつの「場」--現実の場であると同時に精神・感性の場を結晶させる。

一九三〇年代末期の裏町の薄暗い酒場で
長髪の痩せた大学生が薄い文学雑誌を見せてくれたつけ
表紙はピカソのデッサンで
「四月はもつとも残酷な月だ」
まるでぼくらの墓碑銘のように
スタルンベルガーズ湖の夏の驟雨が走りぬける
イギリス人の長詩の冒頭の一行がついていて

「死の土地からライラックの花を咲かせ、
記憶と欲望とを混ぜあわせ、
だるい根を春の雨でうごかす」

ぼくの家の小さな庭にも細いライラックの木があって
その土が死からよみがえる瞬間を告知する「時」がある
その「時」のなかに
ぼくの少年と青年は埋葬されてしまつたが
まだ
だるい根だけは残つている

 詩のことばはさらに、田村の庭の土、ライラックともつながる。それはすべてエリオットが書いた土、ライラックではない。けれど、ことばは、遠い空想の土地やライラックとではなく、現実に知っている土地、ライラックと結びつき、田村を刺激する。
 エリオットの書いた(中桐の訳した)土、ライラックと、田村が知っている土、ライラックのあいだ、ことばが結びつける見知らぬものと実際に知っているもののあいだで、田村は「比喩」「象徴」としての「だるい根」をみつける。

 いや、「だるい根」ではなく、「だるい」を見つける--と言い換えた方がいいかもしれない。「だるい」が「根」と結びつき、そこに、いままで存在しなかったものを浮かび上がらせる。そういうことができるということばの可能性をみつける、と言った方がいいかもしれない。

 ことばはいつでも、ことばでしか表現できないものへと向かって動いていく。
 そしてことばを読むとは、あるいはことばを書くとは、そこに書いてあることを事実として知るということをとおして、ことばの動かし方、ことばの書き方を発見することなのだ。
 詩とは、結局、ことばへの批評なのだ。

 --そんなことは、この詩には書いてない。ここには、エリオットの詩に出会った時の思い出が、刺激された精神の記憶が抒情として書かれている、と読むべきなのかもしれない。
 けれども、私は、そういうことを通り越して、詩とは何か、どんなふうに書くものかということが、ここに書かれているように感じてしまう。



現代の詩人〈3〉田村隆一 (1983年)
大岡 信,谷川 俊太郎
中央公論社

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『田村隆一全詩集』を読む(34)

2009-03-24 00:00:00 | 田村隆一
 「物と夢について」にはいくつもの文体が出て来る。

ぼくの不幸は抽象の鳥から
はじまつた
その鳥には具象性がなかつた
色彩も音もなかつた

 冒頭の4行は、高踏的である。緊張感があり、詩ということばが連想させる何かがある。ことばの疾走感。リズム。そういうものがある。

雪のうえに足跡があつた
足跡を見て はじめてぼくは
小動物の 小鳥の 森のけものたちの
支配する世界を見た

 これは具体的である。森と雪と小さな動物たちの姿が具体的に見えて来る。

 さて諸君、ぼくは抽象から脱れるために、疑問符と直線に注目した。では、曲線とはなにか? 曲線のリズムとはなにか? 盲目的なリズムに魅せられて、ぼくの足どりもフォックス・トロットになれば幸いである。

 抽象的、あるいは比喩的な文章である。そして、抽象的であることを自覚し、その抽象性を「フォックス・トロット」--狐の足跡から見つめなおそうとしている。最初に引用した4行を、次に引用した行の世界で批評しようとしている。人間(抽象的な思考をしてしまうもの)を、小さな動物の視点で見つめなおし、批判しようとしている。
 そういう過程を通って、ことばは、次のように結晶する。

鳥の目は邪悪そのもの
彼は観察し批評しない
鳥の舌は邪悪そのもの
彼は嚥下し批評しない

 鳥(小さな動物、生き物)と人間が対比される。小鳥の目は「邪悪」と定義されているが、これは田村流の逆説である。肯定としての「邪悪」である。それは、人間の「抽象」「批評」というような精神の動きを拒絶するという意味である。抽象を否定し、破壊し、拒絶する力への称讃が、「邪悪」ということばで表現されている。
 それはたしかに抽象・批評にたよって生きている人間にとっては有害である。彼を否定して来るからである。
 ここから、田村は、もう一度考えはじめる。鳥が(小さな動物が)、「ぼく」を、つまり「人間」の精神の動きをそんなふうに拒絶するのはなんのためなのか。それには、いったいどういう意味があるのか。
 ここからは、論理の力でことばを動かしていく。

千の針 万の針によって、ぼくはぼくの不幸を告知されたが、それでは降服を 告知してくるものは、いったいなにか? そこで「物」がはじめて現れる。物が生まれて、人間が幸福になるという、見事な例証が、ここにある。物は、人間の手によって産み出され、その産み出されたものが「人間」を造るという、若干逆説的で、しかも美しい有機的な関係を体験するなら、人は人になるだろう。人と物の交りなくして、この世の文化は存在しないからである。

 人間と動物の違いは「物」をつくるかどうかである。そして「物」は「文化」そのものである。動物にも「文化」はあるが、それは特殊な領域であって(動物学から見た世界であって)、人間の「文化」とは違う。人間は、生きるため(生き延びるため)に「文化」をつくるのではなく、「遊ぶ」ために「文化」をつくる。きのう読んだ「毎朝 数千の天使を殺してから」の最後の方にでてきた「遊ぶ」。それが「文化」である。役に立たない--暮らしに役に立たないということよって、人間の「いのち」に役立つなにか。逆説を含んだ何かが「文化」である。
 そういう「論理」の文体をくぐり抜けて、田村は、ミロを、滝口修造を、引用し、つまり他人の視力とことばがつくりだした芸術で、それまでのいくつもの文体を洗い直して、最後に、それまでの文体とは違った次元へ飛翔する。

この世に他界あり、その詩的経験をするためには、
ある晴れた日、
ミロという石版のかがみにむかつて、
飛び込んでみようよ。
たぶん、
ミロの小鳥のように自殺には成功しないだろうが、
ぼくらが
転生
することだけは
たしか。

 「他界」「自殺」「転生」。
 この三つのことばは、私には、とてもなじみがあることばに響く。そのままのことばではなく、次のように言い換えると、それがぐいと身近に感じられる。
 「他界」は「矛盾」である。この世にはほんらい存在しないものである。この世ではないものが「他界」である。
 「自殺」とは「死」である。「破壊」である。
 「転生」とは「再生」「生成」である。
 矛盾→破壊→生成という運動が、ミロをくぐり抜けることで、「他界」「自殺」「転生」ということばに書き換えられているのである。あるいは、補強されているのである。
 あらゆる芸術・文化(遊びのためにつくりだした「物」)は、人間に、いま、ここにあるものではないものの存在を知らせる。ここにないものが、ここにあるというのは論理矛盾だが、そういう論理ではとらえられないものの力で、この世界をつくりあげている枠組み(構造)を破壊・解体する。それは、それまでの自己の死につながるが、その死を経験することで、「自由」を獲得する。自己から逸脱し(エクスタシーである)、「自由」のなかで生まれ変わる。再生・生成・誕生。

 1篇の詩のなかで、いくつもの文体をくぐり抜けながら、ことばでしかたどりつけないものに達する。--詩に到達する。
 いくつもの文体、複数の文体は、文体の乱れと呼ぶこともできるが、その底部を流れるものが乱れていないければ、乱れではない。乱調ではなく、変奏である。変奏を繰り返すことで、浮かび上がって来る「テーマ」というものもある。いくつものことばを生きながら、ほんとうのことばを探しているのである。




青いライオンと金色のウイスキー (1975年)
田村 隆一
筑摩書房

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『田村隆一全詩集』を読む(33)

2009-03-23 00:01:36 | 田村隆一
 『誤解』(1978年)の巻頭は「毎朝 数千の天使を殺してから」という詩である。

「毎朝 数千の天使を殺してから」
という少年の詩を読んだ
詩の言葉は忘れてしまつたが
その題名だけはおぼえている さわやかな
題じやないか

 この書き出しはとても気持ちがいい。田村の感動がそのままリズムになっている。田村は、矛盾が好きである。破壊が好きである。「天使を殺す」ということばのなかにある常識とは逆のベクトルに田村が反応したのはよくわかる。田村でなくても、誰でも、そのことばに反応するだろう。
 異質なものの出会いが詩である--という定義に従えば、この1行は、独立して、完璧に詩である。他に余分なことばはいらない。田村が少年の書いたほかの「詩の言葉は忘れてしまつたが」と書いているが、これは逆説である。ほかのことばは必要ないからおぼえなかっただけなのだろう。
 田村の感動が強烈だったことは、

その題名だけはおぼえている さわやかな
題じやないか

 という2行に強烈にあらわれている。「さわやかな」ということばは「題」を修飾することばだが、その「題」には直接かからず、「おぼえている」という動詞により近づいた形で、「おぼえている」という行に含まれている。
 田村は「題」をおぼえているというよりも、「さわやかさ(な)」をはっきり記憶しているのである。田村は「題」と向き合っているのではない。「さわやかさ」(さわやかな印象)と向き合っている。さらに言えば「意味」と向き合っているのではない。感覚と向き合っているのである。「意味」--ことばで伝えられる情報ではなく、ことばを拒絶して輝く新鮮な力としての感覚と向き合っているのである。

 ことばは、詩は、「意味」を伝える(流通させる)道具ではない。ことばは、ことばになる前の感覚をあらわすための方法なのだ。「未分化」なものを「分化」して、切り取る運動なのである。
 先の引用につづく部分は、次の行である。

おれはコーヒーを飲み
人間の悲惨も
世界の破滅的要素も
月並みな見出しとうたい文句でしか伝えられない
数百万部発行の新聞を読む
おれが信用しているのは
株式欄だけだ
総資本のメカニズムと投機的思惑だけが支配する
空白の一頁

 「新聞」--その「流通言語」は、「人間の悲惨も/世界の破滅的要素も/月並みな見出しとうたい文句でしか伝えられない」。月並み--は、「さわやかな」と対極にある状態のものをさしている。そういう「流通言語」は信用できない。「意味」は信用できない、と田村は、別の表現で表明していることになる。

 このあと、田村は、想像のなかで少年と対話する。少年の詩の「題」の「さわやかさ」(さわやかな印象)と向き合い、ことばをさがす。少年のさわやかさと向き合える田村自身のことばを。
 最終連。少年に田村は、語らせている。田村自身の「意味」ではない、「意味」と対極にあることばを。

ぼくがいちばん性的に興奮する場面を知つていますか?
いつのまにか大きな橋が消えると
黒い馬が一頭あらわれる
だれも乗つていない
馬だけが光りの世界を横切つて
陰の世界の方へゆつくりと歩いて行く
力がつきて
黒い馬は倒れる 獣の
涙をながしながら腐敗もしないで
そのまま骨になつて
純白の骨になつて
土になる
すると
夜が明けるんです
ぼくは遊びに行かなくちや
数千の天使を殺し
数千の天使を殺してから

 「馬」は「意味」ではない。つまり象徴でも比喩でもない。「天使」のように、少年の肉眼に見えるもの、生きているなまなましい馬である。少年には、そこに書いてある通りのことが見える。見てしまう。「意味」ではなく、「意味」を拒絶した情景そのものが見えるのだ。
 その馬が死に、白骨になる、土になる。
 そのあと。

ぼくは遊びに行かなくちや

 仕事をしに行くのではない。なにか、世界のために役立つことをするために行くのではない。「遊びに行く」。
 「意味」が「未来」だとすると、「遊び」は「自由」である。少年が求めているのは、「自由」だけである。
 「毎朝 数千の天使を殺してから」。そのことばが「さわやか」なのは、それが「自由」を切り取っているからである。数千の天使を殺した後、世界がどうなるかという「未来」は考慮されていない。「天使」のように、何か、人間に対して「意味」を持っているものをただ拒絶する。そのとき、「自由」があらわれる。剥き出しになる。だれも「未来」を保証しない。そのことの「自由」。
 「性的興奮」のように、まったく無意味(「未来」にとって、という意味だが……)、ただ、いまが輝くだけ、「いま」という時間からさえも逸脱していく力。「自由」。

 「遊び」のなかに、人間の力がある。

 何度か、田村の矛盾は(対立は)、止揚→発展ではなく、破壊、解放というようなことを書いたが、それは「遊び」のなかにある「自由」に通じるものである。「意味」から遥かに遠く、解放された力--どんな「未来」(発展)をも目指さないエネルギー。それを田村は、ことばでつかみ取ろうとしている。



ぼくの性的経験 (徳間文庫)
田村 隆一
徳間書店

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『田村隆一全詩集』を読む(32)

2009-03-22 00:00:38 | 田村隆一
 「破壊された人間のエピソード」も「ことば」を問題としている。

近代日本語はたしかに旅をしたが
その言葉によって造られた人間は
どんな地平線と水平線を見たというのだろう
ぼくらか連れ出された世界は
死者と死語と廃墟にみちていて

 「言葉=人間」と田村は缶が堰堤ル。「言葉によって造られた人間」という表現は、それを端的に語っている。ことばこそが人間である。ことばこそが、その人である。
 この詩を書いている田村は、インドで夜行列車にのっている。車掌がやってきて、ウイスキーをわけてくれ、と言う。そのあと、

ぼくは怖しい話を聞いた 夜汽車を狙う
集団強盗が出没していて乗客から
金や宝石を奪いとると
ピストルを面白がって撃つそうだ
ピストルを撃つ
弾丸が獲物の肉体を貫通する
肉体に穴があいて
赤い血が噴出する
獲物が悲鳴をあげる

それがおもしろくてしようがないのさ
人間が獲物に変身することだって痛快なんだ
あの夜汽車の車掌がウイスキーをもらいにきた意味がやっとわかってきたぞ

 この「車掌がウイスキーをもらいにきた意味」とは何だろう。つづく連に、「夜汽車の車掌が悪夢を見ないために」とあるから、たぶん車掌は列車強盗が襲って来る悪夢から逃れるためにウイスキーをほしがったというのが田村の考えていた「意味」かもしれない。
 けれども、私は違ったことを考えた。
 「人間が獲物に変身することだって痛快なんだ」。「変身」と「痛快」。それが「意味」だと思った。人間は何かになる。何かに変わる。そのことが「痛快」であり「おもしろい」。だとしたら、車掌が田村に「ウイスキーを少しいただけないでしょうか」というとき、車掌は何であり、田村は何であるのか。車掌は乗客にサービスする人間ではなく、田村はサービスを受ける人間ではなくなっている。「変身」している。その「変身」はささやかで、はっきりとは見えないかもしれないけれど、やはり「変身」である。ふたりは車掌-乗客ということばで造られた(そういうことばであらわすことのできる)人間ではなく、「車掌」「乗客」ということばをはぎ取られた人間である。ことばをはぎとられ、つまり、「水平」の回路をはぎ取られ、それぞれが垂直の方向に洗い直された人間である。それが「痛快」である。--その「痛快」を車掌は求めていた。そして、田村はそれに答えた。「乗客」としてではなく、洗い直された人間として。
 この瞬間が、旅なのである。この旅の瞬間、田村は「死者」と向き合っていない。「死語」をかわしていない。もちろん「廃墟」のなかにいるわけでもない。

 詩は、次のようにおわる。

電話のベルが鳴り
長い長いサナダ虫のような電話線で
人間は
人間の言葉で
喋っているが

おたがいに理解しあったためしがないじゃないか
誤解に誤解をかさねて
ぼくらは暗黒の世界から生れ
暗黒の世界へ帰って行くのさ
一条の光り
その光りの極小の世界で
歩きつづけている
ぼくらの
奇妙で
滑稽で
盲目の
旅の

エピソード

 田村は、インドの夜汽車でウイスキーを分けてくれと言う車掌に会った。そのとき、たしかに「旅」をした--そう田村は、言うのである。



キャッツ―ボス猫・グロウルタイガー絶体絶命
T.S. エリオット
ほるぷ出版

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『田村隆一全詩集』を読む(31)

2009-03-21 00:15:55 | 田村隆一
 「ジム・ビームの思い出--恐怖にかん照る詩的エスキス」のなかに、ことばと「他者」に関する表現が出て来る。田村の詩「恐怖の研究」を英語に翻訳する。サム君と「恐怖」の訳語をどうするかで話し合った。サム君はhorrorと訳し、田村はfearにこだわった。

辞典をめくってみたら
類語がたくさんでてくるではないか
dread fright alarm dismay terror panic……
力は他者に向かって水平に働く
その力が科学とその組織をつくり出し
平和も戦争も死語にしてしまった
水平に働く力は
人間の言語を死語にするのだ
美しい死語に
言語はたちまち抽象化されて
記号になる
この過程にもしfearがあるとすれなら
人間の五感ではとらえられないところに
言語は結晶化されて
透明になって行く そして記号が記号を産み
その増殖作用によって
ぼくは「ぼく」でなくなるのだ
その結果として
 horrorがあらわれる
 horrorの効果があらわれる
 horrorの効果を精密に計算する集団があらわれる

 「他者」と「水平」。
 私はこれまで、田村は「他人」に触れることで田村自身を洗い直す、と書いてきた。
 ここに書いてある「水平」は、「洗い直す」力とは逆である。洗い直す代わりに、田村を(人間を)傷つけない「回路」をつくる。「他人」を、そして「自分」を傷つけないで関係をつくるためにさまざまなことばが選ばれる。それは入り組んだ「回路」を水平にひろげていく。その水平に広がることばの回路のなかで、ことばはことばの力を失い--つまり、自分自身さえもかえる、そうすることで世界をかえるという力を失う。そういうことを「抽象化」と呼んでいる。

 では、「他人」が田村を洗い直す--と私が書いてきたことは、間違っていたのか。「他人」とは田村を洗い直さないのか。

 たぶん、こういう「定義」は、もっと精密にしなければいけないのかもしれない。「他人」「他者」ということばを田村がどんな文脈でつかってきたかを丁寧に分析しなければならないのかもしれない。私が、「他人が田村を洗い直す」と書いた時、私は「他人」という表現を私自身の「辞書」のなからひっぱりだしてきた。私が「他人」というときと、田村が「他者」という時は、その指し示すものが違うのである。

 先の引用につづく部分。

力が自己にむかって垂直に働くとき
ぼくは夢からさめる
あるいは
あたらしい夢
創造的なfearの世界に入って行くことになる

 「水平」と「垂直」。「他者」ということばと結びつけてみるとき、「水平」が「他者」であり、「垂直」は「他者ではない」--というわけではない。「他者」のなかには「垂直」の力として働きかけて来るものと、「水平」の力として働きかけて来るものがあるということである。「垂直」の力として働きかけて来るものが「他人」である。それは田村を洗い直すのだ。「洗い直す」とはそれまでの「水平」の回路が取り払われ、もし田村が「他人」と関係を構築するなら、あたらしい回路を自分の奥深くから(垂直に掘り下げた「いのち」の原点から)もういちど再出発しなければならない、ということを意味する。
 この瞬間のことを、田村は、とても興味深いことばであらわしている。

ぼくは夢からさめる
あるいは
あたらしい夢

 「あるいは」。「夢からさめる」と「あたらしい夢」へ入っていくこと--それは矛盾である。ところが、田村は、それを矛盾と考えていない。なぜか。どちらも、自分を洗い直し、自分ではなくなるという運動、ベクトル(→)だからである。
 いま、水平にひろがっている回路を叩き壊し、あたらしい回路を、人間の「未分化」のいのちからの回路をつくる(創造する)ことだけが「真実」なのである。それが、どっちの方向を向いていても、水平ではない、水平を叩き壊すという運動として同じなのである。そして、それは確立されものではないから、だから「あるいは」としか言いようがないのだ。

 ことばを「流通するための回路」、「水平の道」として「他者」と共有するのではなく、そういう言語を破壊し、まだどんな回路も持っていない「他人」と直接出会う。そういう出会いのために、いま流通している言語を破壊する(徹底的に批判する、批評する)行為としての詩。現代詩。
 この詩は、ある意味で、田村の「現代詩宣言」でもある。

 恐怖はfearかhorrorか。--その「決着」はここにはない。田村は、ここでは、ことばが「他者」とのあいだにどんなふうにして存在するか、田村自身が求めていることばがどんなものであるかをあらためて書いているだけである。そして、その考えのきっかけとなったのは、「サム君」という田村以外の人間であった。そういうきっかけとなに人間は「他人」である。しかしまた、その「他人」は田村の言語の冒険を否定する「他者」ともつながっている。
 「他者」はあるとき「水平」の力として働き、あるときは「垂直」の力をひきおこすきっかけともなる。ことばというものが、自分以外の人間の存在を前提としているからである。自分以外の人間を変えるためには(社会を変えるためには、社会に流通する言語を帰るためには)、自分が変わる以外にない、自分自身の言語を変える以外にない--この遠回りの、逆説の運動。逆説の運動としての現代詩。「他人なんかどうでもいい、自分の、いまつかっていることばをかえたいだけ」というしかない逆説としての運動。逆説としての現代詩。

 いつでも、矛盾でしか言い表すことのできないものがある。



田村隆一全詩集
田村 隆一
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(30)

2009-03-20 00:26:39 | 田村隆一
 『死語』には旅の詩がいくつかある。「暗闇の中の集団」も旅の詩である。インドを旅している。田村の旅の詩が魅力的なのは、そこに「他人」が登場してきて、田村を洗い直すからである。

正午
ぼくはジャムナ河とガンジス河の
合流点に出た
巨大な河床が砂漠のような地模様をつくりながら
古い城壁まで
はてしなくつづいている
痩せた犬と土でできている人間が
原色の布にくるまってうごめいている
人間がうごめいているのではない
土がうごめいているのである

 「人間」を「土でできている」といいきってしまう田村。そして、「人間がうごめいているのではない/土がうごめいているのである」と断言する強さ。
 人間をそんなふうに断定するのは非礼なことかもしれない。そうかもしれない。しかし、田村がもし田村自身をも土でできていると感じていたらどうだろうか。その断言は、深い共感をあらわしていることにならないだろうか。
 私は、共感を感じる。
 土となって生きている人間。土から生まれてきた人間。--そういうとき、土とは何か。土とは、いのちがまだいのちになるまえの「場」なのだ。そこにはエネルギーだけがあり、形はまだないのだ。

ジャナム河は暗緑色
ガンジス河は褐色
そして二つの大河が合流すると
河は聖なる腐敗色に変る
土は不定形となる

 私は、いつも、ここで震える。
 河を描写しているのか、いのちを描写しているのか。合流しているのはほんとうに河なのか。田村とインドが合流して、そのとき田村と宇宙が合流しているという気がする。もちろん田村という人間とインドという大地がそのまま合流できるわけがない。田村という人間と宇宙がそのままの形で合流できるわけがない。もし、田村が「人間」の「形」をしたままであるなら。しかし「人間」という「枠」を失ってしまっているとしたらどうだろう。「人間」でなくなっていたとしたらどうだろう。
 たとえば「土」に。いや、「泥」に。どろどろの、腐敗した色の「泥」。形をもたない「泥」。「不定形」の「泥」に。
 私の勝手な想像ではあるのだが、田村は、ジャナム河とガンジス河を見た瞬間から「人間」ではなくなったのだ。「泥」になったのだ。河床の「泥」に。「泥」に共感してしまったのだ。「泥」に対する共感が、田村から「人間」の「形」を洗い流した。二つの河が田村から「人間」の「形」を洗い流し、田村を「形」のない「泥」にしてしまった。
 「泥」になってしまった田村は、「泥」を見る。「土」ということばを田村はつかっているが、私は、それを「泥」と誤読する。

うごめいている土には
わずかに諸器官が残っていて
手も足も燃え尽きてしまってはいるが
嗅覚と触覚と聴覚と味覚は
地中のバクテリアによってかろうじて養われている

 「人間」以前、「いのち」以前--そういうものが、ここにはある。手足という「形」がなくなっても、嗅覚などの「感覚」は残っている。
 この感覚--いくつかの感覚の中に「視覚」がない。そのことが、また、私を震えさせる。「視覚」はたぶん、「人間」のなかでもっとも発達した感覚、最後に完成した感覚なのかもしれない。それに対して「嗅覚」「触覚」というのは、なまなましいままの、原始的な(?)感覚という感じがする。未分化の、定義のあいまいな感覚という気がする。それはたとえば、その感覚のためのことばを数え上げればわかると思う。「視覚」は「色」の数の多さだけでもずいぶん「分化」した感覚だということがわかる。「聴覚」も「音楽」をみるとよくわかるが、記述方法が確立されている。ところが「嗅覚」は? 「触覚」は? 「視覚」「聴覚」に比べると、驚くほど記述方法が確立されていない。つまり「未分化」、原始的(?)である--その原始的なものと「泥」(土)がむすびついて、そこに「いのち」の未分化なありようを浮かび上がらせる。「人間」は「バクテリア」の状態で、「泥」(土)のなかに生きている。
 インドという巨大な「他人」が田村を、そういう状態にまで洗い流したのである。

その紅い土には真紅の布が頭からおおいかぶさっていて
小さな顔の部分だけが
わずかに空気にさらされている
盲目の少女
その土は少女の形をしていて
唇のようなものがたえまなく開閉しながら
リズムのないリズム
意味のない意味
政治的危機の情報からも
宗教的陰極の感情の喚起からも
もっとも遠い通信を発信しつづけている

 「盲目の少女」--それは「視覚」以前の、視覚が未分化の人間の象徴である。いや、原型である。到達点である。その未分化の「いのち」そのものに対する共感が、ここにはある。
 文明のあらゆるものからもっとも遠く、未分化の「いのち」そのものが、「いのち」をむきだしにして、「いま」「ここ」に存在している。その存在と向き合うために、田村はことばの力を借りて、田村自身を「泥」(土)にしたのである。




新選田村隆一詩集 (1977年) (新選現代詩文庫)
田村 隆一
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(28)

2009-03-18 00:00:00 | 田村隆一

 『死語』は1976年の詩集である。そのなかの「夜間飛行」という詩。私は、この書き出しがとても好きだ。

はげしい歯痛に耐えるために
高等数学に熱中する初老の男のエピソードが
「魔の山」という小説のなかにあったっけ
そして主人公の「単純な」青年の葉巻は
マリア・マンチーニ

どうして葉巻の名前なんか
ぼくはおぼえているのだ 三十三年まえに読んだドイツの翻訳小説なのに

 この「どうして」を田村は解きあかしていない。解きあかす必要がないと知っているからだ。そういう「どうして」は誰もが経験することである。そしてまた、それは説明できないものだからである。強いて言えば、それは「知らないもの」だからである。「知らないもの」に名付けられた名前だからである。見たことも、すったこともない葉巻の名前--そこには「知らない」ということがとても強く影響している。
 そこにはただ「ことば」があるだけなのだ。わかるのは「ことば」(名前)だけである。存在を知らないから、それをそのまま覚え、それが目の前にあらわれるまで松しかない「ことば」だからである。私たちは、そういうものを、覚えるしかないのである。
 ことばが存在をひっぱりだしてくる。世界のなかから、その前に。
 それは4行目の「単純な」も同じである。この「単純な」は「マリア・マンチーニ」よりも、もっと(?)「ことば」である。「ことば」としかいいようのないものである。「マリア・マンチーニ」は固有名詞だから、その名前がないと何かはわからない。一方「単純な」は主人公の青年の「人間性」をあらわしているが、「単純な」人間性をそなえているのは主人公の青年だけではなく、世の中にはたくさんいるだろう。「マリア・マンチーニ」ということばを手がかりにすれば、世界からその葉巻を探し出してくることができるけれど、「単純な」というひとことで主人公の青年を世界から探し出してくることはできない。けれども、田村は、その「単純な」を覚えている。「マリア・マンチーニ」と同じように。そして、そのことは、その青年をあらわす「単純な」ということば、「単純な」であらわされる青年の人間性を田村が知らなかった--青年をとおして「単純な」ということを知ったということを意味する。
 「単純な」が青年の人間性をひっぱりだしてくる。いろいろな人間性のなかから、その性質を。それを知った、それを覚えている--と田村は、ここでは書いているのだ。「どうして葉巻の名前なんか」という行があるために、そのことは視界から消えてしまいそうだが、葉巻の名前を覚えていることよりも「単純な」ということばを覚えていることの方がほんとうははるかに不思議である。

 ことば、他人のことば。それが田村を洗い直すのである。「魔の山」の青年を、他の青年から区別するのは「単純な」ということばである。どこにでもある、誰もがつかう、けれどトーマス・マンによってしっかり洗い直され、書き記された「単純な」が田村をさらに洗い直すのだ。「単純な」は「魔の山」の青年のような人間にのみつかうべきことばなのだ、と。

 人間は、結局「ことば」を生きているのである。

 「噴水へ」には不思議な行がある。

西風にさからって
太陽が沈む地平線にむかって一直線に
飛ぶ
あの小鳥は「鳥」のなかで飛んでいるのだ
深夜に吠える犬
ぼくらの耳にきこえない危機の兆候
ぼくらの目に見えない恐怖の叫びにむかって
凍りつくような声で吠えている
あの犬だって「犬」のなかで吠えているのだ
それなら
ぼくは「人間」のなかで生きているのか
ぼくの肉体は「動物」だが
心は「動物」よりも鈍感なのさ

 4行目。「鳥」と括弧でくくられたことば。それは「鳥ということば」「鳥という概念」と言い換えることができる。「鳥」ということばで呼ばれ、目の前にあらわれるもの、そのことばを実は人間は「認識」している。
 「犬」も同じである。「人間」も「動物」も同じである。
 こういう状態は、しかし、正しいことではない。というか、そういう状態は、詩ではない。そういう世界は、詩からもっとも遠い世界である。「鳥」ということばを洗い直し、そのことばを洗い直すことで田村自身をも洗い直す--そのとき動くことば、そのときのベクトル、→、こそが詩なのである。

 詩は、このあと、鮎川信夫の「名刺」という作品を引用し、そのあと、次の展開がある。 

この詩をはじめて読んだのは
ぼくが十六歳のときだ
世界はまだ
絶望的に明るくてぼくは「ぼく」のなかで生きていた
ぼくの肉体は動物よりももっと動物的だったし
心は「動物」に属していた
ぼくの目は「言葉」を媒介しなくても
太陽が沈む地平線がくっきりと見えた

 「言葉」を媒介しなくても--ことばを媒介しないところ、ことばを媒介しなくても目で(肉体で)世界をくっきりとつかみ取る瞬間--そこに詩があるのだ。
 「単純な」ということばは「魔の山」の青年を特徴づけることばだが、「単純な」ということばを媒介しなくてもそれはくっきりと存在した。そしてそれをあとから便宜上「単純な」と名付けた(呼んだ)だけなのである。

 ことばを媒介とせずにつかんだもの--それをことばで書くしかないという矛盾。詩は、いつでもその矛盾のなかにある。詩のことばが難解であるのは、それがもともと、そういう矛盾と向き合っているからである。

 「他人」のことばを田村が引用するのは、「他人」のことばは田村が無自覚につかっていることばを洗い流すからである。「他人」のことばにであったとき、たとえば「魔の山」の青年をあらわす「単純な」ということばに出会った時、田村は彼自身のなかにある「単純な」ということばを奪われる。田村の「単純な」は無効である、青年を目の前に出現させるには無効であるとつげられる。トーマス・マンのつかっている「単純な」をつかわないことには青年を把握できないと知らされるのである。だからこそ、トーマス・マンのつかった「単純な」をそのまま括弧のなかにいれてつかうのである。





続続・田村隆一詩集 (現代詩文庫)
田村 隆一
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