『言葉のない世界』の巻頭の詩。「星野君のヒント」。
「なぜ小鳥はなくか」。この単純なことばに田村は感動した。それを「非常に高いところから落ちてくるもの」と感じた。--そう書いているように見える。そう読めるのだが、私の本能(?)は違うことばに反応してしまう。
「次の行」。
星野君が紹介した「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか」という2行よりも、「これが次の行だ」に田村が反応しているように思える。
「なぜ小鳥はなくか」から「なぜ人間は歩くのか」への変化、移行--その飛躍にこそ詩がある。そしてその飛躍は、「なぜ人間は歩くのか」ということばの登場によってはじめて生まれる飛躍である。ただし、その飛躍は「なぜ小鳥はなくのか」ということばが準備したものなのだ。ふたつの行、ふたつのことばは切り離せない。そして、そういう切り離せない関係になったとき、詩が完成する。
--これでは堂々巡りの感想になってしまう。
別な言い方を考えてみる。
星野君の紹介した詩の1行目と2行目は「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか」なのか。それとも「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」なのか。私は「なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」をそっくり詩の行と考えたい。
田村もそう考えたと考えたい。
ひとつの行が生まれる。どこからともなくやってきて、啓示のように、詩人をつかまえてはなさない。そこから詩人はどこへ行ける。次の行をどう展開できるか。自分自身で「なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」と言い聞かせる。そうして、さらにその次の行を生み出して行く。
「われわれはビールを飲み」からつづく行は、プレス・クラブのバーの描写に見える。しかし、ほんとうはそうではないかもしれない。プレス・クラブのバーの描写を超越して、「アメリカの詩人」のことばにつなげた田村の詩のことばなのかもしれない。
星野君の紹介したことばに、どんなことばをつないで行くことができるか。ことばをつなぎながら、どこまでゆくことができるか。
詩人は事実を書くわけではない。ことばを書く。そして、そのことばにあわせて現実をかえていくのである。どんなに現実らしくみえても、それはことばの世界なのである。
個人的な体験をひとつ。田村隆一ではなく、柴田基典(基孝)がある日、私にこういった。「本のなかで、『人には欠点がある。ふけ頭とか』という行を見つけた。これを詩に書きたい。次の行は何がいい?」。詩人はことばから出発して、ことばを探す。私はいい答えが思い浮かばなかった。「脂足とか」では近すぎるような気がした。「斜めに歩く癖とか」で、なんとなく落ち着いた。それでよかったかどうかはわからない。柴田が満足したかどうかはわからないが、それがそのまま詩になっている。
田村も、この詩をそんなふうに書いているのではないか。
「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」。そして、それが「次の行」なら、さらに次の行は……。
「初老のイギリス人が……」からの4行は、私には西脇順三郎が書きそうなことばに見える。その4行を西脇が書いたといっても、私は不思議には感じない。とくに「九月も……」からの感慨を述べた2行は西脇の口調そのままに感じられる。その4行は、田村が、その場でであった風景というよりも、ひたすらことばを探して書きつづけた4行に見える。その風景が事実だったとしても、彼の見た光景がそのことばになったというよりも、田村のことばがそう光景を選びとったのだという印象がある。
田村が「入つていつた」のは、あくまで「次の行」である。目の前の光景ではなく、「次の行」--ことばのなかへ入っていくのだ。
「次の行」。それは前の行を引き継ぎながら、実は引き継がない。むしろ、前の行を否定し、破壊し、その行が見落としてきたもの、その行が隠してしまった何かを探し出す。「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか」という高尚な疑問は、俗な人間の生活を隠す。つまり「ビールを飲み/チーズバーグをたべ」るというような「日常」を一瞬忘れさせる。だからこそ、そういう「忘れさせられたもの」、ことばによって隠されたいのちの生の姿を次の行にもってくることで、世界をひっかきまわす。笑いと淋しさを噴出させる。さらに初老の老人と夫人の一種の倦怠をつづける。そのあとに、また高尚な(?)気分に戻るように感慨を書きつらねる。
そのじぐざぐの運動。
弁証法のように、対立-止揚-発展ではなく、上昇ではなく、ここでは水平に広がるいのちのあり方が、そのじぐざぐのなかに実現されている。
ことばはいのちのあり方を実現する方法である。詩人はいつも「次の行」のなかへだけ入っていく。
「なぜ小鳥はなくか」
プレス・クラブのバーで
星野君がぼくにあるアメリカ人の詩を紹介した
「なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」
われわれはビールを飲み
チーズバーグをたべた
コーナーのテーブルでは
初老のイギリス人がパイプに火をつけ
夫人は神と悪魔の小説に夢中になつていた
九月も二十日すぎると
この信仰のない時代もすつか秋のものだ
ほそいアスファルトの路をわれわれは黙っつて歩き
東京駅でわかれた
「なぜ小鳥はなくか」
ふかい闇のなかでぼくは夢からさめた
非常に高いところから落ちてくるものに
感動したのだ
そしてまた夢のなかへ「次の行へ」
ぼくは入つていつた
「なぜ小鳥はなくか」。この単純なことばに田村は感動した。それを「非常に高いところから落ちてくるもの」と感じた。--そう書いているように見える。そう読めるのだが、私の本能(?)は違うことばに反応してしまう。
「次の行」。
星野君が紹介した「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか」という2行よりも、「これが次の行だ」に田村が反応しているように思える。
「なぜ小鳥はなくか」から「なぜ人間は歩くのか」への変化、移行--その飛躍にこそ詩がある。そしてその飛躍は、「なぜ人間は歩くのか」ということばの登場によってはじめて生まれる飛躍である。ただし、その飛躍は「なぜ小鳥はなくのか」ということばが準備したものなのだ。ふたつの行、ふたつのことばは切り離せない。そして、そういう切り離せない関係になったとき、詩が完成する。
--これでは堂々巡りの感想になってしまう。
別な言い方を考えてみる。
星野君の紹介した詩の1行目と2行目は「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか」なのか。それとも「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」なのか。私は「なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」をそっくり詩の行と考えたい。
田村もそう考えたと考えたい。
ひとつの行が生まれる。どこからともなくやってきて、啓示のように、詩人をつかまえてはなさない。そこから詩人はどこへ行ける。次の行をどう展開できるか。自分自身で「なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」と言い聞かせる。そうして、さらにその次の行を生み出して行く。
「われわれはビールを飲み」からつづく行は、プレス・クラブのバーの描写に見える。しかし、ほんとうはそうではないかもしれない。プレス・クラブのバーの描写を超越して、「アメリカの詩人」のことばにつなげた田村の詩のことばなのかもしれない。
星野君の紹介したことばに、どんなことばをつないで行くことができるか。ことばをつなぎながら、どこまでゆくことができるか。
詩人は事実を書くわけではない。ことばを書く。そして、そのことばにあわせて現実をかえていくのである。どんなに現実らしくみえても、それはことばの世界なのである。
個人的な体験をひとつ。田村隆一ではなく、柴田基典(基孝)がある日、私にこういった。「本のなかで、『人には欠点がある。ふけ頭とか』という行を見つけた。これを詩に書きたい。次の行は何がいい?」。詩人はことばから出発して、ことばを探す。私はいい答えが思い浮かばなかった。「脂足とか」では近すぎるような気がした。「斜めに歩く癖とか」で、なんとなく落ち着いた。それでよかったかどうかはわからない。柴田が満足したかどうかはわからないが、それがそのまま詩になっている。
田村も、この詩をそんなふうに書いているのではないか。
「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」。そして、それが「次の行」なら、さらに次の行は……。
「初老のイギリス人が……」からの4行は、私には西脇順三郎が書きそうなことばに見える。その4行を西脇が書いたといっても、私は不思議には感じない。とくに「九月も……」からの感慨を述べた2行は西脇の口調そのままに感じられる。その4行は、田村が、その場でであった風景というよりも、ひたすらことばを探して書きつづけた4行に見える。その風景が事実だったとしても、彼の見た光景がそのことばになったというよりも、田村のことばがそう光景を選びとったのだという印象がある。
田村が「入つていつた」のは、あくまで「次の行」である。目の前の光景ではなく、「次の行」--ことばのなかへ入っていくのだ。
「次の行」。それは前の行を引き継ぎながら、実は引き継がない。むしろ、前の行を否定し、破壊し、その行が見落としてきたもの、その行が隠してしまった何かを探し出す。「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか」という高尚な疑問は、俗な人間の生活を隠す。つまり「ビールを飲み/チーズバーグをたべ」るというような「日常」を一瞬忘れさせる。だからこそ、そういう「忘れさせられたもの」、ことばによって隠されたいのちの生の姿を次の行にもってくることで、世界をひっかきまわす。笑いと淋しさを噴出させる。さらに初老の老人と夫人の一種の倦怠をつづける。そのあとに、また高尚な(?)気分に戻るように感慨を書きつらねる。
そのじぐざぐの運動。
弁証法のように、対立-止揚-発展ではなく、上昇ではなく、ここでは水平に広がるいのちのあり方が、そのじぐざぐのなかに実現されている。
ことばはいのちのあり方を実現する方法である。詩人はいつも「次の行」のなかへだけ入っていく。
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