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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『田村隆一全詩集』を読む(11)

2009-03-01 00:00:00 | 田村隆一
 『言葉のない世界』の巻頭の詩。「星野君のヒント」。

「なぜ小鳥はなくか」
プレス・クラブのバーで
星野君がぼくにあるアメリカ人の詩を紹介した
「なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」
われわれはビールを飲み
チーズバーグをたべた
コーナーのテーブルでは
初老のイギリス人がパイプに火をつけ
夫人は神と悪魔の小説に夢中になつていた
九月も二十日すぎると
この信仰のない時代もすつか秋のものだ
ほそいアスファルトの路をわれわれは黙っつて歩き
東京駅でわかれた

「なぜ小鳥はなくか」
ふかい闇のなかでぼくは夢からさめた
非常に高いところから落ちてくるものに
感動したのだ
そしてまた夢のなかへ「次の行へ」
ぼくは入つていつた

 「なぜ小鳥はなくか」。この単純なことばに田村は感動した。それを「非常に高いところから落ちてくるもの」と感じた。--そう書いているように見える。そう読めるのだが、私の本能(?)は違うことばに反応してしまう。
 「次の行」。
 星野君が紹介した「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか」という2行よりも、「これが次の行だ」に田村が反応しているように思える。
 「なぜ小鳥はなくか」から「なぜ人間は歩くのか」への変化、移行--その飛躍にこそ詩がある。そしてその飛躍は、「なぜ人間は歩くのか」ということばの登場によってはじめて生まれる飛躍である。ただし、その飛躍は「なぜ小鳥はなくのか」ということばが準備したものなのだ。ふたつの行、ふたつのことばは切り離せない。そして、そういう切り離せない関係になったとき、詩が完成する。
 --これでは堂々巡りの感想になってしまう。

 別な言い方を考えてみる。
 星野君の紹介した詩の1行目と2行目は「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか」なのか。それとも「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」なのか。私は「なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」をそっくり詩の行と考えたい。
 田村もそう考えたと考えたい。
 ひとつの行が生まれる。どこからともなくやってきて、啓示のように、詩人をつかまえてはなさない。そこから詩人はどこへ行ける。次の行をどう展開できるか。自分自身で「なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」と言い聞かせる。そうして、さらにその次の行を生み出して行く。
 「われわれはビールを飲み」からつづく行は、プレス・クラブのバーの描写に見える。しかし、ほんとうはそうではないかもしれない。プレス・クラブのバーの描写を超越して、「アメリカの詩人」のことばにつなげた田村の詩のことばなのかもしれない。
 星野君の紹介したことばに、どんなことばをつないで行くことができるか。ことばをつなぎながら、どこまでゆくことができるか。

 詩人は事実を書くわけではない。ことばを書く。そして、そのことばにあわせて現実をかえていくのである。どんなに現実らしくみえても、それはことばの世界なのである。
 個人的な体験をひとつ。田村隆一ではなく、柴田基典(基孝)がある日、私にこういった。「本のなかで、『人には欠点がある。ふけ頭とか』という行を見つけた。これを詩に書きたい。次の行は何がいい?」。詩人はことばから出発して、ことばを探す。私はいい答えが思い浮かばなかった。「脂足とか」では近すぎるような気がした。「斜めに歩く癖とか」で、なんとなく落ち着いた。それでよかったかどうかはわからない。柴田が満足したかどうかはわからないが、それがそのまま詩になっている。

 田村も、この詩をそんなふうに書いているのではないか。
 「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」。そして、それが「次の行」なら、さらに次の行は……。
 「初老のイギリス人が……」からの4行は、私には西脇順三郎が書きそうなことばに見える。その4行を西脇が書いたといっても、私は不思議には感じない。とくに「九月も……」からの感慨を述べた2行は西脇の口調そのままに感じられる。その4行は、田村が、その場でであった風景というよりも、ひたすらことばを探して書きつづけた4行に見える。その風景が事実だったとしても、彼の見た光景がそのことばになったというよりも、田村のことばがそう光景を選びとったのだという印象がある。
 田村が「入つていつた」のは、あくまで「次の行」である。目の前の光景ではなく、「次の行」--ことばのなかへ入っていくのだ。

 「次の行」。それは前の行を引き継ぎながら、実は引き継がない。むしろ、前の行を否定し、破壊し、その行が見落としてきたもの、その行が隠してしまった何かを探し出す。「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか」という高尚な疑問は、俗な人間の生活を隠す。つまり「ビールを飲み/チーズバーグをたべ」るというような「日常」を一瞬忘れさせる。だからこそ、そういう「忘れさせられたもの」、ことばによって隠されたいのちの生の姿を次の行にもってくることで、世界をひっかきまわす。笑いと淋しさを噴出させる。さらに初老の老人と夫人の一種の倦怠をつづける。そのあとに、また高尚な(?)気分に戻るように感慨を書きつらねる。
 そのじぐざぐの運動。
 弁証法のように、対立-止揚-発展ではなく、上昇ではなく、ここでは水平に広がるいのちのあり方が、そのじぐざぐのなかに実現されている。

 ことばはいのちのあり方を実現する方法である。詩人はいつも「次の行」のなかへだけ入っていく。


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『田村隆一全詩集』を読む(10)

2009-02-28 00:00:00 | 田村隆一
 詩人は存在に先だちことばを発見する。新しい「いのち」を発見する。そのとき、ひとつの困難が出現する。ことばに存在が追いついて来るまで、「いのち」は存在するべき場所がないのだ。「いのち」は発見された。だが、それが生きていく場がない。
 「立棺」は、そうした詩人の輝かしい絶望を語っている。

わたしの屍体を地に寝かすな
おまえたちの死は
地に休むことができない
わたしの屍体は
立棺のなかにおさめて
直立させよ

  地上にはわれわれの墓がない
  地上にはわれわれの屍体をいれる墓がない

 「わたし」と「おまえたち」は、「再会」の「わたし」と「僕」と同じように、ほんとうは「ひとり」である。何人いても、同じいのちを共有しているから「ひとり」である。詩人とは、何人いても、その詩とともに生きる「ひとり」である。ことばを共有するとき作者と読者が溶け合うように。

 ここでは「新しいいのち」が「死」(屍体)と表現されている。この死にはふたつの意味がある。ひとつは、「新しいいのち」にとって、その生活の「場」がないとき、それは生きたことにならない。死んでいる、という意味。もうひとつは、もし「新しいいのち」が「場」のなかでそれにふさわし存在を発見し、新しい何かとして結実したとする。そうすると、その瞬間から「新しいいのち」は「新しいいのち」ではなくなる。それは「生」を獲得した瞬間から「新しさ」(実現されていない論理)を失い、固定化してしまった存在論理(死)になってしまう。
 これは矛盾である。
 しかし、だから詩なのだ。
 詩とは、生きていく「場」をもたないことばである。それは常に何かを破壊し、新しいいのちの産声を上げながら死んでいくしかないものなのだ。その産声の強さで、いのちの根源がどこにあるかを暗示することだけが詩の仕事である。死として生まれて来るのが詩の運命・宿命である。

わたしの屍体を火で焼くな
おまえたちの死は
火で焼くことができない
わたしの屍体は
文明のなかに吊るして
腐らせよ

  われわれには火がない
  われわれには屍体を焼くべき火がない

 繰り返される「ない」。その否定形。それは否定を超越して「拒絶」にまで到達している。火は存在しないだけなのではない。ありきたりの火を詩人は拒絶しているのだ。火を求めながら、火を拒絶する。いま、ここにある火が、火に値しないという理由で。
 求めているのは、いま、ここにある火ではなく、火を火として成立させる何か、根源的な生々しいいのちをもった火だからである。

 対立-止揚-結実という発展という可能な三角形ではなく、矛盾-拒絶(破壊)-融合(根源的生成)という不可能な三角形がここにある。

 「三つの声」は、そういう詩人とことばの関係を繰り返し書き留めている。

その声は遠いところからきた
その声は非常に遠いところからきた
あらゆる囁きよりもひくく
あらゆる叫喚よりもたかく
歴史の水深よりさらにふかい
一〇八三〇メートルのエムデン海淵よりはるかにふかい
言葉のなかの海
詩人だけが発見する失われた海を貫通して
世界のもつとも寒冷な空気をひき裂き
世界のもつともデリケートな艦隊を海底に沈め
われわれの王とわれわれの感情の都市を支配する
われわれの死せる水夫とわれわれの倦怠を再創造する
その声は遠いところからきた
その声は非常に遠いところからきた

 ここに描かれているのは存在を超越したいのちである。たとえば「囁きよりもひくく」。ここに描かれているのは矛盾した(不都合な)存在である。たとえば「デリケートな艦隊」。ここに描かれているのは無意味な行為である。たとえば「倦怠を再創造する」。言い換えれば、ここには規制の存在を否定し、拒絶することばの運動だけがある。規制のものを拒絶し、破壊し、あたらしいことばの関係をつくりだそうとするエネルギーだけが、ここではうごめいている。
 これらすべての「声」は田村の声ではあるけれど、「遠いところからきた」ことばである。田村は、そのことばを生み出すのではない。やってくるその瞬間を予感し、つかみとる。予感し、というのは、それがあらわれてからでは遅いからだ。予感のなかでつかみとる。そして、そのつかみとったことばにしたがう。そのとき、ひとは、詩人になる。





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『田村隆一全詩集』を読む(9)

2009-02-27 11:10:22 | 田村隆一
 (8)の補足として。

 「再会」の「驟雨!」という1行。それは唐突にあらわれた1行である。そして、それはことばの発見でもある。存在、ものではなく、ことばの発見。世界には存在していたけれど、まだ田村の「肉体」に結びついてなかったことばの発見。
 詩人は、あることがらを発見し、それをことばでつかみ取るのではない。詩人とは、ことばを発見し、それに存在を投げ込むのである。ことばが先に発見されて、そのあと、そんざいがやってくる。物理の世界で言えば、まず論理を発見し、そのあと実証するようなものである。何の世界でも、そういうことがある。論理(ことば)に存在が追いついて来るということが。

僕には性的な都会の窓が見えます

 最初に「性的な都会」(性的な都会の窓)があるわけではない。田村が「性的」ということばをつかったあとで、都会は「性的」になる。ことばは存在をかえるのだ。
 これは、一見すると、理不尽なことかもしれない。存在にあわせてことばが変わるのがふつうかもしれない。しかし、よく考えれば、存在にあわせてことばが変わるということはない。ことばがあって、存在のなかから、あたらしい可能性が引き出されるということしか起こり得ない。それは科学・物理の世界も同じである。素粒子が3つから、4つ、6つへと増えていくのは、そういう論理が先にあるから増えていくのである。論理が6つという可能性を引き出し、それにものが追いついて来るだ。論理が先行しないかぎり、6つの素粒子は存在し得ない。なぜなら、それは「肉眼」では見えないものだからである。見えないものを見えるようにするためには、存在に先だち、ことば、論理が必要なのだ。
 


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『田村隆一全詩集』を読む(8)

2009-02-27 00:48:04 | 田村隆一
 「再会」という作品は、1か所、不思議なところがある。「主語」がかわる。

どこでお逢いしましたか
どこで どこでお逢いしましたか
死と仲のいいお友だち わたしの古いお友だち!

 書き出しの主語は「わたし」である。ところが2連目。

僕には死火山が見えます
僕には性的な都会の窓が見えます
僕には太陽のない秩序が見えます

 と、突然、「僕」が登場する。ふつう、どんな作品でも「わたし」を主語にしたものは「わたし」のままかわらない。「僕」という表現がでてきても、それは「会話」のなかでのやりとりなどであって、地の文では「わたし」のままである。
 この「僕」はしかし、すぐにまた「わたし」にかわる。それだけではなく、ふたたび「僕」にもなる。
 2連目の4行以降は、次のように進む。

わたしの手のなかで乾いて死んだ公園の午後
わたしの歯で砕かれた永遠の夏
わたしの乳房の下で眠つている地球の暗い部分
どこでお逢いしましたか どこで
僕は十七歳の少年でした
僕は都会の裏町を歩き廻つたものでした
驟雨!
僕は肩を叩かれて振り返る
「あなた 地球はザラザラしている!」

 「わたし」と「僕」との関係はどうなっているのだろうか。
 印象的なのは、私の耳には「僕」のことばの方がスピードある。「わたし」のことばはゆったりしているのに対し、「僕」のことばはとても速い。理由のひとつに、「僕」の行は動詞をもっているのに対し、「私」は動詞をもっていないことである。1連目の、引用しなかった部分に「わたしはどこかであなたに囁いたことがある」という動詞をもった行があるが、2連目では「わたし」と動詞は呼応していない。
 「僕」は動くのに、「わたし」は佇んでいる。立ち止まっている。
 ただそれだけではなく、ことば、その音そのものも、「僕」の行でははじけるような輝きがある。「死火山」「性的」「太陽」「秩序」といった漢字熟語が強く響く。一方「わたし」の行では「乾いた」「死んだ」「砕かれた」「眠つている」「くらい」とことばがゆっくり動く。
 わざとつくりだされた対比のようなものが、ここにはある。

 この詩は、「わたし」と「僕」は別人であり、その二人が対話していると読むこともできるが、私には、その二人はほんとうはひとりのように思える。
 ひとりのなかの「わたし」という人間と「僕」という人間が交代し、「わたし」になり、「僕」になり、そのたびにことばの動きがどう変わるか、それを調べながら、楽しんでいる感じがする。
 「わたし」は「僕」に対して「あなた」と呼びかけ、その呼びかけに答える形で「僕」は「わたし」から離れ、軽快にはじける。
 これも、ひとつの対立、矛盾である。
 そういう構造を、田村は「わざと」つくりだしている。そして、その対立のなかで世界を見つめようとしている。

 あるいは、こんなふうに考えることもできる。
 「再会」にとって不可欠なもの--それは「過去」である。「いま」とは違う時間である。かつて、そこにも「いま」はあった。かつての「いま」と、いまここにある「いま」が会うときが再会であり、それは常に「違うもの」と「同じもの」をぶつけ合わせながら動く。
 存在の中には普遍のものと変わりつづけるものが同居している。--それを、ひとりの人間のなかで動かしてみることもできる。

 だが、こんな読み方は、詩にとってはどうでもいいことかもしれない。

驟雨!
僕は肩をたたかれて振り返る

 この「驟雨」の突然の美しさ。それまで、どこにも存在しなかったことばが突然あらわれて、「肩をたたく」ということばのなかで、現実感を獲得する。雨も肩をたたくからね。この、ふいの変化が、すべてを融合させる。再会の一瞬を、「いま」でありながら、「いま」ではないどこかへひっぱっていく。
 「わたし」「ぼく」の関係は? などという、まだるっこしい意識をさらって、視界を洗う。意識がことばになるのではなく、「もの」がことばになり、ことばが「もの」になる。
 意識の運動を超越した何かが、ここにはある。「驟雨!」ということばのなかにある。この詩は、その「驟雨!」ということばのためにこそ書かれたという感じがする。



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『田村隆一全詩集』を読む(7)

2009-02-26 00:00:00 | 田村隆一
 ことばが自律運動をする。その先に何があるのか。それを理解して書きはじめる詩人はいないだろう。何があるかわからないから書きはじめるだ。止まっていては倒れるから、走りつづけるのだ。
 「十月」。

危機はわたしの属性である
わたしのなめらかな皮膚の下には
はげしい感情の暴風雨があり 十月の
淋しい海にうちあげられる
あたらしい屍体がある

  十月はわたしの帝国だ
  わたしのやさしい手は失われるものを支配する
  わたしのちいさな瞳は消えさるものを監視する
  わたしのやわらかい耳は死にゆくものの沈黙を聴く

 どのことばにも疾走感がある。そして、そのことばにはひとつの特徴がある。2種類のことばの出会いが「疾走感」を演出している。つまり、2種類のことばが「わざと」出会わされ、衝突させられ、そこにいままで存在しなかった「声」を生み出している。
 2連目が特徴的である。
 身体・肉体を修飾することばは、「ひらがな」で書かれ、やわらかい。「やさしい」手、「ちいさな」瞳、「やわらかい」耳。これに対して、その響き、眼の印象とは対極にあることばがぶつけられる。「支配する」「監視する」。肉体のやわらかさ、弱さに対して、なにかしら固いことばがぶつかる。ふさわしい漢字熟語がないときは「沈黙を聴く」と、動詞の前に漢字熟語をもってくる。その衝突のあいだには、「失われる」もの、「消えさる」もの、「死にゆく」ものという緩衝材がある。そこにはていねいに漢字が1文字ずつ割り振られている。
 ここに書かれているのは「意味」ではない。イメージでもない。ことばの運動の仕方である。
 やさしい身体・肉体→はかないもの→漢字熟語。この運動を、1連目のことばで言い直せば「はげしい感情の暴風雨」になる。いや、言い方が逆だった。「はげしい感情の暴風雨」を2連目で、田村は、そんなふうに書き直しているのだ、というべきだった。
 何を書くのかほんとうはわかっていない。「危機」と書き「属性」と書き、「はげしい感情の暴風雨」ということばにたどりつく。そのあと、そのことばが動いていく先に、やさしい身体・肉体→はかないもの→漢字熟語ということばの運動があるのだ。

 きのう私は、田村のことばの運動、矛盾したものの衝突は、やがて矛盾を超越する。それは止揚ではない、と書いたが、その運動が止揚ではないというのは、ある「発展」をめざしているわけではない、と言い換えることができるかもしれない。
 弁証法(止揚の論理)は、発展を前提としている。いわば矛盾は「予定調和」の内にはいってしまっている。
 しかし、詩のことばは「発展」を前提としていない。むしろ、発展を破壊してしまうことを前提としている。発展へ向けて動く何か、未来を(?)形成しようとするときの、その「イメージ」(形成された何か)を破壊しようとして動く。言い換えれば、発展、形成ではなく、根源へ、混沌へむけて動き、その混沌のエネルギーそのものになろうとしている。ものが生まれる前の、「いのち」そのものになろうとしている。
 矛盾は、詩にとって必然なのである。
 定まった明瞭な形をめざしているのではなく、何も定まっていない状態、何にでもなりうる「自由」なエネルギーをめざしている。「わたし」を発展させるのではなく、「わたし」を「わたし以前」に引き戻そうとしている。「わたし」を「わたし」たらしめているものはいろいろあるが、たとえば社会的な位置というものもそうかもしれないが、そういう「わたし」である前の、だれでもない「いのち」の状態を復元しようとしている。

 「死者を甦らせる」ということばが「四千の日と夜」に出て来るが、死者を甦らせるというのは、たんに生きている状態にするということではなく、彼が生まれる前の状態にするということである。
 「十月の詩」の1連目、「淋しい海岸にうちあげられる/あたらしい屍体がある」の「屍体」も同じである。それは甦るべき死者である。それはすべての存在を、生まれる前に引き戻すための道しるべなのだ。死者を破壊し、いのちを死へとむけて動かしたすべての止揚を(弁証法を)拒絶する。ただ、純粋な「いのち」に還るための北極星のようなものなのだ。



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『田村隆一全詩集』を読む(6)

2009-02-25 00:00:00 | 田村隆一
 矛盾。「四千の日と夜」は、矛盾したことば、厳しく対立することばに満ちている。1連目。

一篇の詩が生まれるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

 「生」と「死」。しかも、その死は自然のものではなく、「殺す」ことによって生まれる死である。そして殺す対象は敵(憎むべき相手)ではなく「愛するもの」である。

 4連目。

記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く

 何によって? 想像力によって?
 しかし、この4連目は次のようにつづいている。

一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した

 「眼に見えざるものを見、」「耳に聴えざるものを聴く」というとき、つかわれている力は「想像力」ではない。その「想像力」さえもが毒殺の対象なのだから。では、何によって見聞きするのか。
 「ことば」によって、である。ことばを発すること、見た、聴いたとことばにする、書くことによって、田村はすべての行動をする。「毒殺」するのも、ことばよってである。ことばに田村は特権を与えている。詩とは、特権を与えられたことばなのだ。

 最終連。

一篇の死を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない

 「生む」のは「あたらしいいのち」ではない。「死者」を「甦らせる」と田村は書き換えている。死者は現実には甦らない。けれども、ことばのうえでなら、死者は甦ると書くことができる。ことばは、あらゆる存在に先行して、動いていくことができる。
 想像力があって、それをことばで説明するのではない。ことばがあって、ことばが想像力を動かしているのだ。だからこそ、不必要な想像力はことばの力によって「毒殺」するということが可能なのだ。

 「四千の日と夜」は、いわば、「ことば」の特権宣言である。「ことば」の独立宣言といえばいいだろうか。何にも束縛されない。ことばは、ことば自身の力で自在に運動する。それが詩である、という宣言である。

 田村は、「ことば」をもって、という肝心の「主語」をこの作品では書き記していないが、それは書き記す必要がないほど、田村には自明のことだったのだ。自明すぎて、書き忘れているのである。そして、この詩が「現代詩」の世界で受け入れられたのは、「現代詩」を書く詩人達がその意識を「共有」していたことを意味するだろう。
 だれもが、詩は、ことばの独立宣言であると思っていたのだ。現実を描写するのではない。ことばの力で現実を動かす。極端に言えば、ことばを現実(実在)が描写する。ことばは、詩は、現実をひっぱって動かしていく。
 芸術は自然を模倣するのではない、自然が芸術を模倣するのだ--ではなく、詩は現実を模倣するのではなく、現実が詩を模倣するのだ、というのが田村たちの、この時代の「共通認識」だったのだと思う。

 矛盾したことばを書く。それは矛盾を書いているのではない。「現実(くらし)」のなかでは矛盾としか定義できないものが実は矛盾ではないという主張のために、「わざと」矛盾を書いているのである。いま、矛盾に見えることが、永遠に矛盾でありつづけるわけではない。それは矛盾を超越した何かになる。(止揚ではない。)詩人には、それがわかっている。だから、それを書くのである。



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『田村隆一全詩集』を読む(5)

2009-02-24 00:16:17 | 田村隆一
 「声」は書こうとすることが定まっていない。何が書けるかを探している。そのときの、ことばの揺らぎが過激である。

思考を拒絶せよ それは時間を所有することだ 時間から脱出せよ 全身で感じることのできるせつない空間へ 感じるのだ 身をもつて思想を感じることなのだ

 ここでは抽象的なことばがせめぎあっている。「思考を拒絶せよ それは時間を所有することだ 時間から脱出せよ」の「それは」は何だろうか。
 「時間を拒絶」すること--と考えるのがふつうの文法かもしれないが、そう考えるとあとが矛盾する。思考を拒絶することは時間を所有すること、と考えると、次に「時間から脱出せよ」が論理的に矛盾する。脱出する必要があるなら、なぜ、その時間を所有しなければならないのか。
 「それは」は「思考」か。思考を拒絶せよ。なぜなら、思考は時間を所有することだ。時間は所有せず、時間から脱出せよ。
 こう考えると、なんとなく、論理的には可能なことのように思える。
 時間から脱出して、どこへ行くのか。全身で感じることのできるせつない空間へ、行く。だが、このとき、目的は「空間」ではない。「感じるのだ 身をもつて思想を感じるのことなのだ」。目的は「感じる」ことである。だが、何を? 「思想」を感じる。
 そこまでたどりついて、私は、立ち止まってしまう。
 「思考」を拒絶して、「思想」を感じる。「思考」と「思想」はどこが違う? 私にすぐには答えることができない。私自身のことばのつかい方を吟味してみても、その区別はどこかであいまいになる。田村の「思考」と「思想」の使い分けは、もちろん、いまの段階ではわからない。
 何がいいたいのだろうか。
 たぶん、「思考」の対極にあるのは「感じる」ということばなのだろう。「考える」(思考する)のではなく、感じる。しかも「身をもつて」。「考える」は「頭」である。ここでは「頭」に対して「身」が向き合っている。
 「考える頭」と「感じる身」--これが、この詩における「対」である。そして、同時に「思考」と「思想」がやはり「対」になっている。
 「頭」でたどりつく、つかみとるのが「思考」、「身」でたどりつくのが「思想」。そして、田村は、その「身」でたどりつく「思想」、「身をもつて感じる」ことを重視している。
 その「思想」を重視するなら、私が、ここで解読したような試みは、もっともいけないことである。「頭」で「論理」を追ってはいけない。それでは「思想」にたどりつけない。
 では、どうすべきなのか。
 ことばを「頭」ではなく、肉眼で追いかけ、喉と舌で追いかけ、耳で追いかける。つまり「音楽」で追いかける。そのとき「身」(肉体)が感じる何か--それが「思想」だと感じる、ということをすべきなのである。
 ここでは考えてはいけない。音をただ味わうのだ。

 詩の書き出しに戻る。

 指が垂れはじめる ここに発掘された灰色の音階に

 「音」は最初からテーマだった。「灰色の音階」という不思議な表現。耳で聴く音階ではなく、眼で聴く音階。眼と耳、視覚と聴覚の融合。「身をもつて」とは感覚の融合をもってというのに等しい。
 それはたしかに「考える」ことではない。ただ「身」をまかせることである。「身」を何かに(音楽に)まかせ、そのとき起きる感覚の融合を全身にひろげる。そのとき、全身(肉体)という「空間」が「思想」になるのだ。

思考を拒絶せよ それは時間を所有することだ 時間から脱出せよ 全身で感じることのできるせつない空間へ 感じるのだ 身をもつて思想を感じることなのだ

 このことばのなかで、田村は何も考えていない。多々音に誘われるままに、音の自律性にまかせて、その動きを身体で追っているのだ。旋律。リズム。ことばはいつでも、そういうものだけで動いていく。「拒絶」→「所有」→「脱出」。この過激な漢語(熟語)のスピード。そのスピードを「頭」ではなく、「身体」で感じるとき、「音楽」が「思想」になる。それは「意味」ではなく、意味以前の感覚の融合である。




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『田村隆一全詩集』を読む(4)

2009-02-23 00:00:00 | 田村隆一
 矛盾。対立。対句。そういうものに呼応する、もうひとつのことばの動き。それを「腐刻画」に感じた。

 ドイツの腐刻画でみた或る風景が いま彼の眼前にある それは黄昏から夜に入つてゆく古代都市の俯瞰図のようでもあり あるいは深夜から未明に導かれてゆく近代の懸崖を模した写実画のごとくにも想われた

 この男 つまり私が語りはじめた彼は 若年にして父を殺した その秋 母親は美しく発狂した

 2連目は、とてもおもしろい。ここには不要な(?)ことばがある。なくても、この作品が成立することばがある。「私が語りはじめた」である。その挿入があろうがなかろうが、「彼」が「若年にして父を殺した」という文意は変わらない。
 ……はずである。
 ところが、「わざと」そのことばを挿入したために、その瞬間から、文意が変わるのではないかという疑念がわいてくる。
 それは、それにつづく「その秋 母親は美しく発狂した」で、いっそう強くなる。
 「母親」というのは、誰? 彼の母親? 私の母親? 区別がつかない。
 「私が語りはじめた」という一言によって、「彼」と「私」が、「母親」ということばのなかで融合してしまう。
 そして、「彼」と「私」が「母親」のなかで融合してしまうと、その印象は、ことばを逆流して、すべてを作り替えてしまう。「母親」が誰の母親かわからないのだったら、「父」も誰の父かわからない。「彼」と「私」と言っているが、それは「わざと」そう言っているだけであり、ほんとうは「私」のことをそう呼んでいるだけかもしれない。
 風景が「彼の眼前にある」というけれど、それは「私」の眼前かもしれない。いや、「私」の眼前でなければ、リアルにそれを再現できないだろう。「想われた」というような主観的なことばで語ることはできないだろう。「……のようでもあり、あるいは……のごとくにも」というような、複数の「思い」を語ることができるのは、それを見ている本人(私)であり、他人(彼)にはそう「想われた」というのは論理的におかしい。「彼」にそう「想われた」かどうかは、「彼」にしかわからないことだからである。

 ぼくの耳は彼女の声を聴かない
 ぼくの眼は彼女の声を聴く     (「Nu」)

 耳(聴覚)と眼(視覚)が融合したように、「私」と「彼」は融合する。そしてそれは「語る」ということをとおしてのことである。
 「私」が「彼」を語るということは、一方で「彼」と距離を置くことだが、他方で「彼」と接近することでもある。語ることは対象を客観化することであるけれど、また、同時に対象と一体化しないとほんとうに語るということにはならない。対象と一体化したとき、ほんとうにその対象を語っているという印象が、そのことばのなかに生まれる。
 語るというのは、そういう矛盾した行為である。

 語る--語っていることをどれだけ意識するか。つまり、そこに書かれていることのなかに「わざと」がどれだけ含まれているか、「わざと」をどれだけ意識するかが詩にとって重要なのである。ことばに対して自覚的であるかどうか、それが「現代詩」の出発点の基本である。
 矛盾も対句も融合も、すべて「わざと」である。「わざと」という自覚こそが、詩なのである。




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田村 隆一
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『田村隆一全詩集』を読む(3)

2009-02-22 00:22:43 | 田村隆一
 矛盾。あるいは対立。それと呼応するように、対句のような行が書かれる。「Nu」。その書き出し。

窓のない部屋があるように
心の世界には部屋のない窓がある

 「窓のない部屋」は矛盾ではない。しかし「部屋のない窓」は矛盾である。そういうものは現実には想定できない。
 「部屋のない窓」というのは、たとえば工事現場の塀の「窓」という例がある--というのは屁理屈である。1行目を無視した、単なる「現象」の証拠にすぎない。2行目はあくまで1行目の対句なのだから、そこに「塀」などをもってきても、ことばの運動として無意味である。
 「部屋のない窓」というものは現実にはない。けれど、ことばの運動としてはありうる。これが「現代詩」の出発点である。虚数が現実にはないが、数学上は存在するのと同じように、言語の運動、その運動を証明するひとつの方法として、「部屋のない窓」は存在する。ただし、これは1行目を前提とする。2行目は、1行目を前提として、「わざと」書かれた矛盾なのである。
 詩において、矛盾は、あくまで「わざと」書かれたものなのだ。

 なぜ、矛盾は詩に導入されるのか。3、4連目。

あなたは黙つて立ち止まる
まだはつきりと物が生れないまえに
行方不明になつたあなたの心が
窓のなかで叫んだとしても

 ぼくの耳は彼女の声を聴かない
 ぼくの眼は彼女の声を聴く

 「窓のなかで叫んだとしても」の「窓のなか」というのは、「部屋」のことではない。あくまで「窓」そのものの「なか」である。「部屋のない窓」の、その「窓」そのものの「なか」である。
 これも、ことばの運動そのものでしかつかむことのできない「虚数」としての表現である。
 虚数は平方すると-1(マイナス1)になる。「-1」自体、奇妙な数字で、実際にそれを存在として見ることはできない。「-1本のエンピツ」は見ることはできない。手で触ることはできない。けれど、思考のなかでは、それは存在する。
 そういうものが、数学だけではなく、言語のなかでも起きる。数学は、数字をつかって書かれた世界共通の国語であるが、数学という国語で起きることは、日常の国語でも起きるのだ。論理としてというより、運動として、そういうことが可能なのである。その可能性を追及しているのが「現代詩」である。
 言語としての「窓のなか」の叫び声--それは、どうやってとらえることができるか。聞くことができるのか。

 ぼくの耳は彼女の声を聴かない
 ぼくの眼は彼女の声を聴く

 「耳」ではなく、「眼」で聴く。これは、日常の文法からすると奇妙かもしれない。眼は聴覚ではないからだ。だが、この詩では、叫び声は絶対に「眼」で聴かなければならない。なぜか。「部屋のない窓」と、その「窓のなか」を実感できるのは「眼」だからである。現実には存在しないものを見る。その眼の力で、その「窓のなか」の叫びを見る。彼女が叫ぶのを見る。そのとき、「眼」のなかに、その叫びが届くのだ。
 その叫びは、声にはならない声なのだ。声にならないまま、ただ口が叫びの形になる。それを見るとき、叫びはまず「眼」に見え、「眼」に聴こえる。「眼」が「耳」となって、叫びをつかみ取る。
 肉体の感覚は、感覚の領域を越境する。超越する。

 ある感覚が別の感覚を越境する。侵入する。超越する。こういうことは、奇妙かもしれないけれど、実際に存在する。感覚は、ある「共通」の何かをもっている。感覚の母体である「肉体」は、感覚を融合させる何かを持っている。
 「冷たい声」という表現には触覚と聴覚の融合がある。「白々しい声」には視覚と聴覚の融合がある。そういう日常の表現を点検すれば、感覚は互いに越境することがわかる。そういう表現を私たちは日常的に知っている。その、知っているけれど、普段はありま意識しない領域へ向けて、ことばを動かしてゆく。そこで、新しい感覚を呼び起こすものとして、詩というものがある。
 その具体的実践が「ぼくの眼は彼女の声を聴く」なのである。詩は、そういうことばの運動の実践のことである。



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『田村隆一全詩集』を読む(2)

2009-02-21 11:05:27 | 田村隆一
 「幻を見る人」は4篇から構成されている。この詩にも矛盾がある。4連目。

 (これまでに
  われわれの眼で見てきたものは
  いつも終りからはじまつた)
 (われわれが生れた時は
  とつくにわれわれは死んでいた
  われわれが叫び声を聴く時は
  もう沈黙があるばかり)

 「終りからはじまつた」「生れた時は/とつくにわれわれは死んでいた」。そして、矛盾であるにもかかわらず、なぜか、そのことばの運動が「間違っている」という印象呼び起こさない。たぶん、私たちは現実が矛盾で構成されていることをどこかで感じているのからかもしれない。田村は、そういう私たちがぼんやりと感じているものの「内部」といえばいいのか、その「構造」をことばでとらえ直そうとしている。そして、そういう「内部」あるいは「構造」というものをくっきりと見るために、わざと矛盾を導入している。矛盾した存在は、そのふたつの存在の「あいだ」に「広がり」をつくりだすからである。
 もちろん矛盾するものがぴったり密着していてもいい。矛盾するものが密着しているということは、もちろん現実にはあるだろう。
 けれど、その密着を、田村は、強引に(?)切り離し、「あいだ」をつくり、その「あいだ」(広がり)のなかでことばを動かす。
 「あいだ」の存在によって、現実を突き動かすと言い換えることもできると思う。
 この「あいだ」、「ひろがり」の意識は、この詩に特徴的にあらわれている。引用しなかった部分に、おもしろい行があるのだ。
 1連目「四時半」、3連目「二時」、5連目「一時半」、7連目「十二時」。
 詩は、ことばの運動に逆らって、「過去」へと進む。田村は「時間」を「過去」へと動かしている。自然の(日常の)時間は、もちろん、そういうふうには動かない。この意識的な時間の操作は、日常感覚と矛盾している。
 そういう矛盾した時間の流れ(逆方向の流れ)をことばの運動に持ち込むことで、田村は「あいだ」「広がり」を強調している。
 時間が自然に進むとき、私たちは時間というものをあまり意識しない。知らない内に別の時間にたどりついている。(目的があって、ある時間をめざして何かをしている場合は別である。)ところが、時間を過去へさかのぼらせるときは、その流れを明確に意識しないといけない。「わざと」、時間を逆にとらえ直さないといけない。
 意識的に「あいだ」「広がり」をつくりだし、その「広がり」のなかで、田村は矛盾を見つめようとしている。いのちを「広がり」のなかで、意識的に追跡しようとしている。


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『田村隆一全詩集』を読む(1)

2009-02-20 00:28:26 | 田村隆一
 田村隆一を読んでみようと思った。断片的に読んだことはあるが継続的に読んだことかなかったからだ。テキストは『田村隆一全詩集』(思潮社、2000年08月26日発行)。どんな田村隆一に出会えるのか、見当がつかないが、書きはじめることにする。

 「幻を見る人」。書き出しの3連が緊張感に満ちている。

空から小鳥が堕ちてくる
誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために
野はある

窓から叫びが聴えてくる
誰もいない部屋で射殺されたひとつの叫びのために
世界はある

空は小鳥のためにあり 小鳥は空からしか堕ちてこない
窓は叫びのためにあり 叫びは窓からしか聴えてこない

 この詩には矛盾がある。「ある」と断定されているものが矛盾している。
 小鳥のためには「野」と「空」がある。それは同時には存在し得ない。小鳥が死ぬとき野があり、小鳥が生きるとき空がある。生から死への、いのちの運動が野と空を隔て、またつなぐ。
 叫びにとっての「窓」と「世界」も同じである。
 いきるということ、いのちというものは、そういう矛盾をつなぐ運動そのものを指しているのだろう。
 その運動を、ことばで追跡したものが田村にとっての詩ということになるのかもしれない。

 この詩には矛盾がある--矛盾が詩である。「ある」と同じように強い断定で「ない」ということばが使われている。「堕ちてこない」「聴えてこない」の「ない」である。
 ことばは「ある」(生)から「ない」(死)へと動く。そのふたつの対立する何かを結ぶ力が、田村の詩なのだと思う。

 この詩の4連目も魅力的だ。

どうしてそうなのかわたしには分らない
ただどうしてそうなのかをわたしは感じる

 ここにも「分からない」という否定と、「感じる」という肯定が向き合う。
 田村にとっては、相対立するものが向き合うこと、矛盾することの「あいだ」を行き来する運動が大切なのだ。そういう運動を活発化させるために、相対立するもの、矛盾を選び取るのかもしれない。


 

田村隆一全詩集
田村 隆一
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