詩
言葉にはすがたがない
しかし言葉にはあらゆる面がある
これは、とてもわかりにくい。「すがた」と「面」を嵯峨はどう考えているのか。
その言葉から詩が生まれたと考えよう
各々が採りあげる面の美しさ
夕日を映す高層の千の窓硝子のように
「採りあげる」は「映す」と言い直されている。ことばは、ある存在を「映す」。「映す」は「鏡になる」ということだろう。「鏡面」になる。
そのときは存在のすべてを「映す」のではなく、ある部分を「採りあげ」て「映す」。つまり「選び取る」。「鏡面」は、どうやって存在のある部分を「選び取る」のか。自分の位置を変えることによってか。
嵯峨は、そんなふうには考えていない。
「(鏡)面」は「千の窓硝子」と言い直されている。「鏡」は「硝子」をつかっている。これは単純な言い直しだ。重要なのは「千」の方だ。ことばは「千の面」を持っている。ひとつに限定できない。
この「限定できない」(自由自在)ということが、最初に書かれた「すがたはない」につながるのだろう。
もし「すがた」をとらえるとしたら、「千の定義」が必要になる。言い直すと、一行目は、
言葉は千のすがたをもっている
になる。ことばのひとつひとつが「千のすがたをもってる」、ひとつのことばのなかに「千の面」がある。それはひとつのことばのなかに「千の詩」が生まれる可能性があるということでもある。
「千」と「千」がぶつかりあって、無限(自由自在)にひろがっていくのが詩なのだ。
でも、詩をこんなふうに「論理」として読んでしまってはいけない。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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