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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(16)

2020-03-30 09:19:57 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

目覚め

わたしも舌の上に立ちつくして
ひどく疲れたから
転り落ちたい

 「舌の上に立ちつくす」とは、語りつづけること。そのことを「疲れた」と嵯峨は書き、さらに「転り落ちたい」とつづける。どこへ? 地上へ、ではない。

咽喉のように
そのまま真直ぐに姿を消したい

 自分の肉体のなかに「消える」。ことばを飲むのだ。でも、これは「目覚め」ではなく、眠りだろう。
 目覚めは眠りのあとにしかやってこないことを嵯峨は自覚している。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(15)

2020-03-29 19:02:41 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

こころ

心はどこにいても自由だ

 これは、多くのひとが言うことである。こころは何にも縛られない。いつでも自由だ。嵯峨も、そう書き始めるのだが。

それでも心はどうしてぼくに止まるのか
そのしずかな場所はどこだ

 こころはどうしてぼくのところにやってくるのか。自由なのに、どこかへ行ってしまわないのか。「止まるのか」はそういう問いかけだろう。では、そのあとの「しずかな場所」とは何だろうか。
 嵯峨の(ぼくの)なかの「場所」を指しているのか。「こころ」自身の「場所」を指しているのか。「しずかな」は「状態」をあらわしている。嵯峨は「しずかな」という状態へ「ぼく」と「こころ」を統一したいと願っているのか。


*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(13)

2020-03-27 20:11:37 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

水に消える

ぼくの中に踏み込んでくるぼくを
ぼく自身が阻んでいる

 ふたりの「ぼく」。ふたり以上いるかもしれない。少なくとも観察するぼく、というものもいるだろう。
 「水に消える」のはどちらか。観察するぼく、あるいは、ことばを書いているぼくは消えないと言えるか。

 「ぼく自身」ということばが出てくる。「自身」はいわば強調だが、強調とはそもそも何だろうか。「自身」とはどこに存在するものだろうか。

 こういうことは、考えると味気ない。つまらない。たぶん、だれもが一度は考える「考え方の定型」というものがあって、それがどうしてもあらわれてきてしまうからだろう。

*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(12)

2020-03-26 10:13:03 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくは海へ向う旅びとであつた)

ごうごうと鳴る松林がどこまでもつづいていた
そのなかへ消える遠い道があつた

 「ぼくは海へ向かった」ではなく「ぼくは海へ向う旅びとであつた」と嵯峨は書く。「ぼく」の「動詞(動き)」を書くというよりも、「ぼく」を「旅びと」と虚構化することを優先している。そのとき「ぼく」だけが虚構化されるのではなく、「海」もまた虚構化されていると考えるべきだろう。
 それは「道」にも影響する。「道」はほんらいなら「海」へつづくはずだが、「海」はつづかず「松林」のなかに消える。あるいは「松林」の「ごうごうと鳴る音」のなかに消える。しかし、それは実際には「消えない」。
 それらはすべて「遠い」という認識を明確にするためのことばなのだ。
 「遠い」何か、それは「虚構」のなかで浮かび上がる「真実」のようなものだ。そんなものは存在しない。けれど虚構によって存在するように見えてしまう。「ぼく」を「旅びと」であると言い聞かせる(自分に嘘をつく)ときに、虚構ははじまる。

*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(11)

2020-03-25 16:56:01 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

老残

失つたものが心では無限に大きくなる

 この一行は、二通りの読み方ができる。
 一つは「失つたもの」が「心のなかでは」無限に大きくなる。「失つたもの」とは、たとえば「女の名」であり、「一つの善意」である。その結果「自分の姿はますます小さくなつて遠ざかる」ということが起きる。自分が小さく感じられる。
 たぶん、そう読むのが普通なのだと思うが。
 私は別の読み方をしたい。
 「失つたものが心では」とつづけて読む。「心を失ったので」、そのために、と読む。そのとき何が大きくなるのか。すべてのものが大きくなる。「女の名」とか「一つの善意」ではなく、私のまわりにあるものすべてが無限に大きくなる。それは圧迫するというよりも、むしろ稀薄になる。「もの」も大きくなるが、「場(世界/宇宙)」そのものが大きくなる。「もの」がどれだけ大きくなろうが、「充実」はやってこない。
 つまり、虚無になる。こころを失い、虚無の大きさを知る、と読みたい。


*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(10)

2020-03-24 09:50:12 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

箕島

わたしの血のなかに明るい寺が建てられた
ちかくを子供たちが歌ひながら通る

 「体のなか」ではなく、あるいは「肉のなか」でもなく、「血のなか」。
 このとき、その寺は「血の流れ」にそって動いてくのか。「血の流れ」に逆らって、同じ場所にとどまっているのか。
 子供たちが近くを通るというのだから、寺は動かずにいるのかもしれないが、その子供たちが「通る」というときの動詞が、不思議に、私に反映してくる。
 もちろん「通る」は「血が通る」と読めるのだが、私は寺が「通る」(動く)と読みたくなる。子供たちといっしょに、歌いながらどこかへ行ってしまう。
 幼いときの「遊び場」、寺や神社の境内というのは、いつも記憶のなかにあらわれる。そのあらわれるときのスピードは「血」と同じように、動いているのに動いているとは意識しない何かだ。


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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(9)

2020-03-23 08:58:19 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

檍村

よく熟れた稲穂が刈りとられてうづたかく積んである
そしてそれが夜なかまで体温を保つてあたたかく匂ふ

 「檍村」は宮崎県の地名。「あおきむら」と読む。
 秋の田園の風景だが、嵯峨が実際に「夜なかまで」そこにいて、刈りとられた稲穂の匂いを嗅いでいるわけではない。日のあるうちに、その匂いをかいだ。そして匂いがあまりにも印象的だから、きっと夜も匂っているだろうと想像している。
 「保つ」という動詞が使われているが、その匂いを保つのは稲穂ではなく、嵯峨である。だからこそ「体温」ということばもつかわれる。嵯峨は、それをまるで自分の肉体であるかのように感じている。
 「実り」はいつでも「あたたかい」。「匂い」はいつでも「豊か」だ。



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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(8)

2020-03-22 22:05:36 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

にげる神

一瞬 わたしと遠い祖先がつひに交叉する
宇宙ははてもない真実だ

 「宇宙(空間)」で「わたし」と「遠い祖先」が出会う、ということだろうか。「遠い祖先」とは「神」のことだろうか。「宇宙」とは「天」のことだろうか。
 私は、「わたし」と「遠い祖先」が出会う「場」を「いま/ここ」と読み直したい。
 そのとき「宇宙」は「天」ではなく、この「地上」になる。「宇宙」が「地上」におりてくる、と読みたい。



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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(7)

2020-03-21 20:29:51 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

順番

たれも知らないものが手から手の闇を通りすぎたのだ

 これは何の「比喩」だろうか。
 たれも知らない「もの」と書かれているが、「もの」なのか。「手」ではないのか。手と手をつなぐ。そのつないで「手」の「つなぐ」という動詞の中を、「手」というものが通りすぎる。あるいは「つなぐ」という動詞そのものが通りすぎるのだが、動詞(動き)は固定したものとして指し示すことができないので「もの」という表現になる。
 そして、そのとき「つなぐ」にしろ「通りすぎる」にしろ、動詞というものは「名詞」に比べると「闇」のように暗いのだ。「ある」ことはわかる。しかし、その「ある」は光のなかで見えるようなものではない。
 たとえて言えば、肉体の内部で肉体を動かしている「力」。
 それは目に見えない。しかし、「ある」ことは確かだ。

 私は、いったい何を書いているのだろうか。





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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(6)

2020-03-20 11:51:32 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

塔の中の神

塔の中にゐるおまへの世界の話だ
その安全は神にとどいてゐる垂直にあるやうだ

 「塔」は「垂直」に立っている。したがって「塔の中の世界」とは「垂直な世界」ということになる。広さではなく、高さの世界。
 そして、この詩ではその「垂直」が「とどく」という動詞と一緒に動いている。
 「神」に「とどく」と「垂直」を組み合わせると、「神」の居場所は「塔の上」ということになる。簡単に言い直すと「天」(とどかない高さ)にいるのが「神」だ。
 「神」と「天」の組み合わせは「思考の定型」だが、それはどうも納得がいかない。
 「神」が「天」ではなく、すぐ隣にいてもいいし、また遥かな地平線のかなたにいてもいいかもしれない。いや、どこにもいなくてもいいかもしれない。
 私は、どこにもいなくていいと考えるので、神の存在場所としての「天=垂直のかなた」というものに疑問を持つのだろうか。「塔」が自己を「垂直」の方向に育てていくための比喩であると考えるとき、その先に「神」が存在すると考えるのは、私には自己と神の一体化、同一視のようにも感じられ、異議を差し挟みたくなる。




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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(5)

2020-03-19 10:54:43 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

彗星

きふに一群の駒が一つの方向にむかつて駆けだした
詩語のやうに並んだ駒に風がつよくあたる

 「並んだ」は「並んで駆けている」ということだと思う。つまり「一つの方向」を言い直したものだ。そしてそれは「ばらばら」ではなく「並んだ」状態。「並ぶ」には「整える」という意味があると思う。
 これはそのまま「詩語」の比喩、「詩」の比喩になっている。
 詩は「詩語のやうに」と「詩語」が比喩であるかのように書かれているが、逆に「一群の駒」が「詩」の比喩なのだ。
 「風がつよくあたる」は、だから、とてもおもしろい。新しい「詩」はいつも「逆風」のなかで生まれる。「逆風」をついて走るとき、「詩」は輝く。




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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(4)

2020-03-18 10:41:40 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

ある意図になる習作

はるかに高い空 その直下に並んでいる多くの窓
真昼の窓にあつまつてくるぎらぎらする夏


 夏の光の強靱さは「ぎらぎら」としか言いようがない。そして、この「ぎらぎら」を説明するのはむずかしい。「きらきら」ではなく「ぎらぎら」というとき、何が違うのか。もちろん光そのものも違うのだが、受け止めている私自身の感覚も違ってはいないか。「きらきら」が無機質なのに対し、「ぎらぎら」は有機質な感じがする。つまり「肉体的な」感じが。「あつまつてくる」ということばが、さらにそういう印象を駆り立てる。私のなかに集まってくる。いや、私のなかの何かを集めるように(凝縮させるように)、あるいは剥き出しにするように、そこに存在するもの。
 光(夏)がぎらぎらと存在するのか、私がぎらぎらした存在になるのか。

なにも映つてゐない新しいフイルムのような一つの窓

 私は、そんなふうに生まれ変わる。何かを映し出し、生み出す新しいフィルムに。




*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(3)

2020-03-17 10:34:56 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

鐵の歌

誰も知らず だがすべてが知つてゐる
時計と鏡との間で動かなくなつてしまつた祖国ニホン

 この作品はいつ書かれたものか。「時計と鏡」が何の比喩なのか。状況によってわかるだろう。
 いまのニホンを描いているわけではないが、「誰も知らず だがすべてが知つてゐる」は、現代を言い当てている。
 「知っている」のに「知らない」ふりをする。「知らない」を理由に「何もしない」がはじまる。つまり「動かない」。そして、あとで「私は知っていた」と言う。さらに「私に何ができたか」とも。

 私は「知っている」とはいわない。「わからない」という。そして、わからないことをわからないと書く。わからないことへの怒りを書く。
 いまは。




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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(2)

2020-03-16 09:43:34 | 『嵯峨信之全詩集』を読む



なにからも遠く離れてゐる湖は
それ故にたれのこころにも哀れにより添ひ 諦めすらやさしくつつんでくれる

 「湖」を「詩」と読み替えると嵯峨の姿勢になる。
 詩は、だれかのところへ出掛けてはいかない。詩は、やってくるひとを拒まない。詩のところまでやってくるひとは少ないが、詩は待っている。
 「遠く離れて」、なおかつ「より添ふ」「つつむ」とはそういうことだと思う。「待つ」とは、そういうことだ。
 この「遠く離れて」と「より添ふ」「つつむ」には矛盾がある。ふつうは「遠く離れて」いては、そういうことはできない。だからこそ、その不可能性を突き崩すようにして「哀れ」と「やさしく」が入り込んでくる。そして、詩が完成する。


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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(1)

2020-03-15 17:27:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む



言葉にはすがたがない
しかし言葉にはあらゆる面がある

 これは、とてもわかりにくい。「すがた」と「面」を嵯峨はどう考えているのか。

その言葉から詩が生まれたと考えよう
各々が採りあげる面の美しさ
夕日を映す高層の千の窓硝子のように

 「採りあげる」は「映す」と言い直されている。ことばは、ある存在を「映す」。「映す」は「鏡になる」ということだろう。「鏡面」になる。
 そのときは存在のすべてを「映す」のではなく、ある部分を「採りあげ」て「映す」。つまり「選び取る」。「鏡面」は、どうやって存在のある部分を「選び取る」のか。自分の位置を変えることによってか。
 嵯峨は、そんなふうには考えていない。
 「(鏡)面」は「千の窓硝子」と言い直されている。「鏡」は「硝子」をつかっている。これは単純な言い直しだ。重要なのは「千」の方だ。ことばは「千の面」を持っている。ひとつに限定できない。
 この「限定できない」(自由自在)ということが、最初に書かれた「すがたはない」につながるのだろう。
 もし「すがた」をとらえるとしたら、「千の定義」が必要になる。言い直すと、一行目は、

言葉は千のすがたをもっている

 になる。ことばのひとつひとつが「千のすがたをもってる」、ひとつのことばのなかに「千の面」がある。それはひとつのことばのなかに「千の詩」が生まれる可能性があるということでもある。
 「千」と「千」がぶつかりあって、無限(自由自在)にひろがっていくのが詩なのだ。

 でも、詩をこんなふうに「論理」として読んでしまってはいけない。




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