ネットで調べた情報は親父に伝えることはしませんでした。
「原因不明の不治の病」ということはやはり教えることは出来なかったです。
多発性骨髄腫というものは我々に襲いかかった難病でした。
親父の両親はがんで亡くなっています。
両親ががんという根拠、何となくタイプ的にがんになるだろうという全く根拠の
ないふたつの思いがありました。
いつかはがんになるんだろうというのは、本当に何となくですが感じていました。
僕が勝手に思い込んでいただけですが・・・。
ただ、こんなやっかいながんになるとは思ってもいませんでした。
がんになっても、その部分を切除してまた復活出来るようなものを想像してました。
実際に周りにそういう人が多いからです。
まさか多発性骨髄腫という聞いたこともないがんになるとは・・・。
腎不全を併発したため、まずは腎臓の数値を戻すまで食事制限などの治療が始ま
りました。ところが親父は相当我がままなため、病院の食事はほとんど食べないで、
差し入れだとか、うちら家族に食べたいものを「買ってきて」と言って、そういうものを
食べていました。制限等があって、急に食が細くなっていったのは事実です。
外出許可をもらって家族で外食をしても、ほとんど食べられなかったですから。
腎臓の数値は約2ヶ月ぐらいで元に戻って、それから病室を移り、本格的ながんの
治療に入りました。
親父は自分で調べたのか、誰かから聞いたのか、多発性骨髄腫が「原因不明の
不治の病」ということを知っていました。
見舞い客に「切って治るようなものじゃないからね」とよく口にしてました。
告知の日に突然余命を告げられ、仕事復帰も出来ないと言われた親父の心境は
どうだったんだろうと思います。
およそ“死”というものから程遠い、バイタリティーに溢れた生き方、友人たちからは
「殺しても死なないような奴だったのになぁ・・・」と言わせるだけの生き方をしてきた
親父が病室のベッドの上で何を思ってたんだろうと思います。
お見舞いに来たおじさん夫妻には「1ヶ月かかって気持ちの整理をした」と話したそう
です。
入院してからの親父は穏やかでした。
死が迫って来ているのに、荒れて当たることもなく、現状を受け入れていました。
おふくろは、親父が死んでから一番思い出すのはこの時の穏やかな親父のことだと
言います。
おふくろはおふくろで妻として感じることがあったんだと思います。
仕事が終わってからの夕方過ぎに病室に行って、8時過ぎ頃までの時間を一緒に
過ごしてました。
やはり会社のことが気になるのか、今後のことを細かく指示してくれました。
帰りは部屋の明かりを消してあげて「おやすみ~」と言って帰るのです。
親父はいつもいつも「ありがとう」と言ってました。
本当によく「ありがとう」と言っていました。
今まで言ってこなかった分の「ありがとう」を我々に言ってるのかなぁと思ったりも
しました。
「原因不明の不治の病」ということはやはり教えることは出来なかったです。
多発性骨髄腫というものは我々に襲いかかった難病でした。
親父の両親はがんで亡くなっています。
両親ががんという根拠、何となくタイプ的にがんになるだろうという全く根拠の
ないふたつの思いがありました。
いつかはがんになるんだろうというのは、本当に何となくですが感じていました。
僕が勝手に思い込んでいただけですが・・・。
ただ、こんなやっかいながんになるとは思ってもいませんでした。
がんになっても、その部分を切除してまた復活出来るようなものを想像してました。
実際に周りにそういう人が多いからです。
まさか多発性骨髄腫という聞いたこともないがんになるとは・・・。
腎不全を併発したため、まずは腎臓の数値を戻すまで食事制限などの治療が始ま
りました。ところが親父は相当我がままなため、病院の食事はほとんど食べないで、
差し入れだとか、うちら家族に食べたいものを「買ってきて」と言って、そういうものを
食べていました。制限等があって、急に食が細くなっていったのは事実です。
外出許可をもらって家族で外食をしても、ほとんど食べられなかったですから。
腎臓の数値は約2ヶ月ぐらいで元に戻って、それから病室を移り、本格的ながんの
治療に入りました。
親父は自分で調べたのか、誰かから聞いたのか、多発性骨髄腫が「原因不明の
不治の病」ということを知っていました。
見舞い客に「切って治るようなものじゃないからね」とよく口にしてました。
告知の日に突然余命を告げられ、仕事復帰も出来ないと言われた親父の心境は
どうだったんだろうと思います。
およそ“死”というものから程遠い、バイタリティーに溢れた生き方、友人たちからは
「殺しても死なないような奴だったのになぁ・・・」と言わせるだけの生き方をしてきた
親父が病室のベッドの上で何を思ってたんだろうと思います。
お見舞いに来たおじさん夫妻には「1ヶ月かかって気持ちの整理をした」と話したそう
です。
入院してからの親父は穏やかでした。
死が迫って来ているのに、荒れて当たることもなく、現状を受け入れていました。
おふくろは、親父が死んでから一番思い出すのはこの時の穏やかな親父のことだと
言います。
おふくろはおふくろで妻として感じることがあったんだと思います。
仕事が終わってからの夕方過ぎに病室に行って、8時過ぎ頃までの時間を一緒に
過ごしてました。
やはり会社のことが気になるのか、今後のことを細かく指示してくれました。
帰りは部屋の明かりを消してあげて「おやすみ~」と言って帰るのです。
親父はいつもいつも「ありがとう」と言ってました。
本当によく「ありがとう」と言っていました。
今まで言ってこなかった分の「ありがとう」を我々に言ってるのかなぁと思ったりも
しました。