日々是愉快♪

笑いながら愉快に生きていけたらいいなぁ~

吉田拓郎 Live盤CD発売決定♪

2009年09月29日 | 音楽
いやいやいやいや、無事CD化が決まって良かったです、嬉しいです♪

先日のラジオ『わが青春の吉田拓郎』に電話出演した時に、東京国際
フォーラムの音源をCD化したいと話していました。

あのコンサートは本当に良かったですから「CD化になるといいなぁ~、
拓郎がCDにしたいって言ってんだからなるに決まってる」と思ってたら
その通りになりました。

7月4日(土)の東京国際フォーラムでのLive音源に合わせて、新たに
スタジオで撮った映像がDVDとしてついてくるらしいです。
復活した拓郎の姿を見れるのは嬉しい限りです。

詳しくはこちら

あのLiveに関してはまだここでちゃんと書いてないんです。
いずれはちゃんと書かないとなぁと思っているんですけどね。

あの日以来の僕の中での“拓郎ショック”というものは未だに続いている
ので・・・。
全アルバムもまだ聴き終わってないし。

発売日が待ち遠しいです♪


三沢光晴追悼興行 in 東京

2009年09月27日 | プロレス
三沢の追悼興行に行って来ました。
武道館です。

大会詳細はこちら

実はだいぶ前にこの日の招待チケットを新聞社からもらっていました。
本当はいつも行っている女子プロレスのNEOのチケットを頼んでいたら
そちらがハズレで、NOAHのだったらありますよと言われ一応もらって
おいたのです。

そしたら、まさかこの日のこのチケットが三沢の追悼興行のものになる
なんて・・・。
招待チケットには出場予定選手として三沢光晴がメインで写っています。
新聞社の方もそこまでは計算していなかったんでしょう。
まぁ、あの事故を予想できた人なんていないはずですから・・・。

それにしてもかなりの招待券を配っていたらしく、ちょっと早めに行っても
かなり並びました。
すでに前売りチケットは完売に近い状態で、スタンドの上の方が若干残っ
ていたのと、立ち見チケットを急遽販売したぐらいですから、実際のところ
招待券で入れるのか心配でした。
招待券には「満員の場合は入場をお断りする場合があります」と書かれて
あったので・・・。
けど何とか座って観れる席の指定席チケットと交換出来て良かったです。

さてさて本題。

ノアを観るのは今回が初めてだったんですよね。
かなりプロレス観戦してますが、何故かノアはまだ行っていませんでした。
いつか行く日が来るだろうと思ってましたが、まさか初観戦が三沢の追悼
興行になるとは・・・。

実際に今日のカードは、三沢にゆかりあるレスラーが出場ということもあって
かなり豪華版だったのですが、それでも三沢がいないんじゃなぁー、やっぱ
三沢を見たかったなぁと思いました。
それだけ存在感があり、特別なオーラをもったレスラーだったんですよね。
三沢独特のあの渋さ、闘志、三沢の味とでも言いますか、そういうものが
分かり始めてきただけに生の三沢を見れなくて残念でした。

TVでノアの武道館の大会というのは、しょっちゅう見ていましたが、実際に
観戦するとやっぱり臨場感があって違いますね。
入場テーマに合わせての小橋コールなんか凄かったですから。
ノアファンも熱いです。

ノアのプロレスというのは、やはり馬場イズムを継承しているだけあって、
新日本のストロングスタイルとはちょっと違う気がします。
そういうものをしっかりと観れたというのはありました。
やはりメインのGHCヘビー級タイトルマッチはそういう闘いをしてますからね。

残念ながら三沢の新たな闘いというのはもう見ることが出来ません。
それでも多くの映像は残っているし、三沢が遺したものがあるはずです。
三沢は永遠にプロレスファンの心の中で生き続けることでしょう。

ノアはこれからが新しい船出です。
プロレス界もまた新しいスタートを切っていかなければならないと思う。


セレモニーでの10カウント、胸に刻みました。




建築計画~本当の完成

2009年09月25日 | 親父
弟の誕生日が3月11日だったので親父が言った「そこはクリアできる」
というのは何とかその通りになりましたが、我々家族と親戚は3月11日
から病院に泊り込みでした。
親父はもうその時には意識はなく、ただ呼吸をしているだけになっていた
のです。

そして親父は桜の花を見ることなく、3月13日に天国へ旅立ちました。
61才という若さでした。

新しい建物は出来たものの、古い建物の解体、そして舗装工事などは
残ったままでした。
工場には今まで水道が無かったので、そこまで引いてもらうことになって
いたので最終的な仕上げ作業と付け足し工事などです。

解体が終わって、事務所の出入り口からの景色が一気にひらけました。
それはとても開放感のある晴れやかな景色でした。
会社の看板も道路から見やすいようにと移動したほどです。

そして5月の連休明けに舗装工事も完璧に終わって、その広々とした
スペースに僕らは改めて驚き、この状態を親父に見せてあげたかったと
何度も何度も思いました。

それは今でも思います。

洗い場のある工場、広々とした駐車スペース、今までの何倍も仕事の
しやすい快適な事務所と作業場。
大きな台風や竜巻が来たらたちまち飛ばされそうだった以前のプレハブ
とは雲泥の差です。
先日来た営業マンは「あの階段を登るのは怖かった」などと冗談を言ったり
してたぐらいです。

自宅の方も広々として、とても住みやすく快適です。
半年以上経って、ここでの新しい暮らしも板についてきたと思います。

それでも親父は生きてたら何かしら文句は言ったと思うのですが・・・(苦笑)

おばぁちゃんが引越して来て、おばぁちゃんの部屋におばぁちゃんの荷物が
ちゃんと収まりました。

植木なども増え、水をあげるのも楽しい作業です。

親父が生前言ってたように、我々家族と会社の人たちに遺していってくれた
この建物は、親父の最後の大仕事になりました。
とても素晴らしいものを遺していってくれましたが、別の意味で大きなものも
残していったので、それに関しては我々が頑張っていかなければなりません。

この建築計画は今になってようやく本当の完成形になったのだと思います。
この完成形を出来ることなら親父に見せてあげたかったと思います。
大喜びして、得意げに友人や仲間を連れて来たことでしょう。
目に浮かぶ光景です。

さてさて、事務所の壁に今まで親父がもらってきた賞状を飾る作業が残っています。
最初はこれみよがしに飾ることに抵抗があったのですが、やはり先代社長の足跡を
示しておこうと思い飾ることに決めました。

そして親父が死ぬ少し前に『信』という字を書いて事務所に飾ってと言いました。
その作業もまだ残っています。

もう最終段階です。
あとは僕がやるだけなのです。
そして我々で守っていくのです。





~あとがき~

「建築計画シリーズ」を無事終わらせることが出来ました。
“親父”というカテゴリーを見てもらえば、がん告知から今日までを順を追って
読むことが出来ます。

親父が死んでからまだ時間はそんなに経っていませんが、本当に死んだんだなぁ、
いなくなっちゃったんだなぁ、もう会えないんだなぁという実感は日々感じます。
あれだけよくケンカして、親父の理不尽な言動に嫌気がさしていたにも関わらず、
僕は親父のことが大好きだったんだなぁと気づきました。

人間誰しも生きているから死ぬのですが、それは分かっていても自分の親の死
というものはつらく、悲しいものです。

このシリーズは何度か泣きながら書きました。
分割のシリーズになっているので、淡々と書いてある印象かも知れませんが、
やはり切なく、悲しかったです。
泣くのが嫌だから気持ちが進まないこともたびたびでした。
なので、やっと終わらせることが出来てホッとしている部分もあります。

それと終わらせなければ次へ進めないということもありました。
それは親父の歌を作ることです。
こっちを終わらせてから歌を完成させようと思ってましたから・・・。

歌の方もかなり仕上がっていて、これも詩を作るたびに泣いています。
泣きながら曲作りをするというのはあまりいいもんではありません。
だから自然と向き合わなくなるのですが、久し振りの、約1年振りのライブの
日程も決まったので、いよいよこちらの方も完成させなければと思っています。



すき焼きパーティー

2009年09月24日 | 親父
新しい家に行ったら、気の置けない人たちだけを集めて“すき焼きパーティー”を
やるというのが親父の願いでした。

僕らとしても親父が少しでも元気なうちにやりたいという思いがあって、引越しが
終わってすぐにでもやろうと思っていたのです。
ところが親父は肺炎を患っていて微熱もあったのでなかなか外泊許可が下りな
かったのです。

引越してから少し経って、2月20日頃なら許可を出せるということを主治医が
言ったので、そこに合わせてこちらも準備を進めました。
参加して欲しい人たちに声をかけ、親父用のレンタルヘッドの手配などがありま
した。

そして当日。
総勢11名。

すき焼きパーティーが始まりました。
親父は居間に設置したベッドで寝たままの状態でしたが、みんなが一同に集まり
楽しそうにしているのを満足気に見ていました。
親父の念願だったすき焼きパーティーができて嬉しかったんだと思います。

ひと通りの宴が終わったあと、最後全員で親父のベッドを囲みました。
親父は力ない声でそれぞれに声をかけていました。
それはみんなにとっての遺言になったのかも知れません。

親父の親友Mさんは親父に分からないように泣いていました。
けれど親父は分かってたと思います。
気を遣って「Mさん、まだ残ってるから食べなよ」と言ったりしていました。

うちの主任も大泣きしていました。
主任は20才からうちの会社で働いてくれています。
その間、親父に怒鳴られ、褒められ、いろんなことがあったと思います。
元気でパワフルだった親父といま目の前にいる親父とがきっと主任の胸で交差
していたと思う。

逆に親父はどんな想いでみんなに囲まれてたんだろう?
やっぱり自分にはもう残された時間は少ないと感じていたんだろうか・・・。

最後にみんなで記念写真を撮りました。

親父が死んだあとにお袋と「あのすき焼きパーティーやれて本当に良かったね」と
何度か話したことがあります。
我々としてはあれをやれなかったら大きな悔いが残ったと思います。
親父もそうかも知れません。

あの“すき焼きパーティー”は親父の人生最後のセレモニーだったんだと思います。


建築計画~完成

2009年09月23日 | 親父
急ピッチで進められていた建築工事も大詰めを迎えていました。
とにかく1日でもいいから親父に見て、入ってもらわなければなりません。

今年の正月に親戚一同でお見舞いに行った時の親父は、生きてるのが精一杯
という感じでした。
あまりにも急激な衰えにみんなが泣いていました。
この時、主治医に、
「実のところ、あとどれくらいなんですか?」と訊いたところ、
「この調子だと、来月いっぱいか、3月の頭ぐらい・・・」と言われ余計やるせない
思いになったのです。

その後、親父は正月のときの状態より少しずつ良くなっていきました。
ただ、肺炎を患ってしまって、微熱が治らないという状態がしばらく続いていました。
かなり苦しそうでした。
抗がん剤も痛そうで、だんだん耐えられなくなりモルヒネを要求するようにもなりま
した。

僕は親父に、
「桜が咲くまでは頑張ろうよ、どうせなら桜の花と一緒に散るのが親父らしいし、
カッコイイよ」と言いました。
すると親父は、
「いいこと言うなぁ、よし分かった、そこまで頑張るよ」と優しく笑いました。

弟の誕生日が3月、僕の誕生日が5月、お袋の誕生日が6月です。
親父は弟の誕生日である3月11日は、
「そこはクリアできる」と言ってました。
お袋は何とか自分の誕生日まで頑張って欲しいという想いがあって、そこまでは
頑張りなよって話してましたが、親父は、
「そんなに苦しめないでくれよ」と力なく答えていたこともありました。

建物の方は、いよいよ最後の仕上げに入っていました。
こちらとしては1月いっぱいで何とかと思っていましたが、なかなかそうもいかず、
それでも2月の7日にまずは自宅の引越し、そして翌週の14日は会社の引越し
という日程を組みました。

業者側は、本来なら引渡しをもう1週間延ばして、完成した建物がいろいろと落ち
着くまでは待って欲しいみたいでしたけれども、事情が事情でしたので、完成即
入居ということになったのです。

この建物を建てるにあたって道のりは長かったです。
最初の設計士、建築屋とうまくいかず、建築会社を変えることによって設計図の
大幅変更、それから親父のがん発覚・・・。
建築計画をストップするかしないかの話も出ましたし、会社そのものもどうするか
という話まで発展しました。
ストップしなかったのはすべて親父の一声です。

そして建物は完成し、引越しも何とか終わりました。
親父はまだ生きていたので、この勝負“親父の勝ち”でした。

あとは主治医からの外泊許可が下りるのを待つだけでした。



焼肉「平城苑」

2009年09月22日 | グルメ
お墓参りの帰りに食べたのが焼肉でした。

おばぁちゃんが引越して来たらみんなで焼肉に行こうということを話していました。

お墓参りの帰り、どこか適当な焼肉屋さんがないかなぁと探していたら、ちょうど
高速のインター付近に発見!

それが「平城苑」でした。

平城苑はチェーン店で都内にも店舗があります。
けれども一度も入ったことはありませんでしたので、迷わず入店。
時間帯もちょうどランチタイムということでかなりお得に頂きました。

ご飯大盛り無料で980円也。


我が家は焼肉屋さんに行く率はかなり低いのですが、焼肉ってたまに無性に食べたく
なりますよね?

久し振りの焼肉、とても美味しかったです♪


お彼岸ということで墓参り。

2009年09月21日 | 親父
今月は月命日の13日は行かず、お彼岸ということで今日行って来ました。

おばぁちゃんももちろん一緒です。
納骨以来に来たと言ってました。

今日は往復、完全に渋滞にハマッてしまい疲れました。
帰って全員爆睡です(笑)

お墓ももっと近くにあればなぁ~と昔から思ってましたけど、こればっかり
はねぇ・・・。
霊園も大混雑。

それにしても、あの渋滞にハマッてまで遠く観光、旅行なんて出来ないなぁーと
思いました。
今日も急がば回れで下から行けば良かったと後悔でしたよ。

月命日に親父のお姉さん夫婦が行ってくれていたのでお花が綺麗でした。

皆さん、ご先祖様を大切にしているのですね。
霊園は色とりどりのお花でいっぱいでした。


NEO 後楽園大会

2009年09月20日 | プロレス
久し振りに女子プロを観ました。
NEOといういつも観に行っている団体です。
野球チームのS&Wといつも3人で行きます。

今回は今現在の女子プロレス界の最高峰を決めるタイトルマッチが観たくて
行ったのです。
今の女子プロレス界は、このNEOを中心に回っていると言ってもいいでしょう。
その団体のシングル最高のベルトを賭けるということは、女子プロの最強を
決める試合。

【王者】田村欣子 vs 【挑戦者】高橋奈苗

おそらく今の女子プロレス界のトップはこの2人だと思います。
田村はNEO所属、高橋はフリーで“パッションレッド”というグループを率いて
います。
両者ともかつての全日本女子プロレスの出身。全女ですね。
出所は同じだけれども、全女が崩壊したことによって別々の道を歩んで今に
至る感じです。

「この2人がシングルで闘ったらどっちが勝つんだろう?」というワクワクする
期待感をずっと持っていました。
その2人が激突したのです。

60分のフルタイムドローなのかなぁと想像してみたり、果たしてお互いの
必殺技が必殺技になるのかどうか?とか、いろいろと推測するのが楽しかっ
たです。

結果は王者田村が得意のエルボー連発から、トドメは必殺技のマウントクック
でピン。
普通ならあのエルボー連打で勝負は決まるのですが、さすがは高橋奈苗、
意地で返しました。
が、その後にマウントクックを食らいジ・エンド。

帰りにも3人で話してたのですが、思ったより田村に余裕があったかなぁという
ことでした。
まずはスタミナ面で田村が一枚上、それと打たれ強さも田村の方が一枚上でした。

ということで、次の田村の相手は誰?と女子プロレス界を見渡してみても敵が
いないんじゃない?という強さを見せつけた田村でした。

他の試合もいい選手がいっぱい出てて楽しかったですよ♪

NEOの試合はいつも大きい会場ばっかりで見ているからかカードがとても良くて
まずハズレることはないです。

流れを知らなくても試合前に煽りのVTR流してくれるので初心者でも分かると
思いますよ。


おばぁちゃんがやって来た。

2009年09月19日 | Weblog
おばぁちゃんがうちに引越して来ました。

おじぃちゃんが死んでから丸々4年間1人でずっと暮らしていたんですよね。
もともと今の家におばぁちゃん用の部屋も用意していたので、いずれはここに
来ることになっていたのですが、「そろそろおいでよ」ということで、この連休中
に引越しするということで話を進めていました。

84歳にしての引越しということで準備も大変だったみたいだし、長年慣れ親し
んだ新宿・新大久保を離れるのは淋しい気持ちもあったようですが、うちに来れ
ば日々の話し相手もいるし、何かあっても誰かしら居るので安心です。

僕自身も大好きな新大久保におばぁちゃんがいなくなるというのはとても淋しくて
複雑な心境です。
しばらくは空き家になるから、たまに換気や水回りの点検で行くので新大久保と
縁が切れるというのは無いんですがね・・・。

おばぁちゃんはとても明るい性格でいつもケラケラ笑うので楽しいです。
だからきっと毎日が楽しくなると思っています。

親父が死んで半年が過ぎましたが、今日からまた家族4人で暮らしていくことに
なりました。






小野寺さんのお人柄

2009年09月18日 | 芝居
前にも書いたかも知れませんが、僕は23才の時から約3年間ぐらい小野寺さんの
付き人をしていました。

丸々ずっと付いていたわけではなく、小野寺さんが芝居に出演する時は基本的に
僕でした。
あとは小野寺さんが出ていたドラマに一緒に出させてもらったりした時は楽屋に挨拶
に行ったりでした。

好きで小野寺さんの付き人になったわけではなく、入った事務所に小野寺さんがいた
ということです。縁ですね。
けれどその縁が今でもこうして続いていることは、小野寺さんにとても感謝なのです。

今年もいろいろと多くの芝居仲間からお芝居のDMをもらいます。
けれども全てお断りしていました。

それは自分がいま社長としてのルーキーイヤーであるということが大きいのですが、
芝居を観て“変な気”が起きたら困るというのもあるのです。
“変な気”というのはもちろん「芝居やりたいなぁ~」ということです(苦笑)
今さら役者として売れたいとかそんなことではなく、純粋に演技を楽しむということを
またやりたいと、どこかで思っている自分がいるのです。
けれど今はそれを封印なのです。15年ぐらいは封印するつもりなのです。

で、小野寺さんのお芝居に今回何故行ったのかと言うと、それは付き人時代にお世話
になった義理もありますが、頂いた芝居のDM、手紙の文面がとても良かったのです。

普通、芝居のDMというのは同じ文面のものを何枚もコピーして、下の方のスペースに
一筆書いて送ってきます。僕もそうしてました。

けど最近は一筆さえもなく、メールだけで案内を送ってくる人が多々います。
芝居やるならチラシを作るんだから、ましてや観に来て欲しいのならチラシぐらい送って
来いよ、となります。
最低限、チラシからの情報を得て、行くか行かないかを決めたりするわけですからね。

小野寺さんは違いました。
最初から最後まで僕だけに宛てて書いてくれていました。
「社長業はどうですか?人の上に立つというのは中々大変ですよね?」

こういうふうに書いてくれる人は小野寺さん以外にいません。
封筒の住所もすべて手書きです。
「小野寺さんらしいなぁ~」と思って大切に机の中にしまってあります。

小野寺さんは終演後、大きい劇場だと楽屋で、小さい劇場だと客席でファンサービスを
します。
昔ながらのファンの方たちが来てくれますから、付き人はそのフォローをしなくてはなり
ません。シャッターを押したり、黒マジックを用意したりです。

今回もファンの方たちがいらしてましたから、僕は最後でいいやと思って一番後ろの客席
でその光景を懐かしいなぁ~と思いながら待っていました。

しばらくすると、小野寺さんは今のお付きの人に「内田くんは?」と言って気にかけてくれ
てましてね。作業着のままだったから分からなかったかも知れません。

「雰囲気変わったんじゃないか?」と言われました。
どんなふうに変わったんでしょうかね(笑)

ファンの人たちとまだ写真も撮り終わっていないのに僕のことを気にかけてくれまして。
小野寺さんはいい人だなぁ~って改めて思いました。

少しだけ立ち話をして、今回僕からサインをお願いするというのは初めてだったんですけど、
小野寺さんの付き人時代の気持ちを忘れないようにと思ったのと、小野寺さんに叱咤激励
してもらいたいという気持ちがあって、サインをお願いしました。

会社の事務所の僕の机から見える場所に飾りました。
それと会社のみんなにお土産ということで、ポスターにもサインしてもらいました。

芝居の世界に飛び込んだとき、まさか自分が誰かの付き人をやるなんて考えてもいません
でした。
けれど、付き人を経験して良かったと当時から思っています。
それも小野寺昭の付き人で良かったなぁ~と、常々思ってました。

今回また、小野寺さんのお人柄に触れ、その想いが強くなりました。




小野寺さん手作りのホームページはこちら。